Café Bohemia ‐ジャズメン・デトロイトのショウケース(その2)

在りし日の《カフェ・ボヘミア》

栄枯盛衰

  • その1-プログレッシブ・ジャズ(ハードバップ)のみ。
  • その2-ロックンロールなし。歌のおネエちゃん、ビッグバンドなし。
  • その3-スモール・ジャズ・コンボ以外すべてなし

 上の3か条で運営された《Café Bohemia》は100席ほどでNYのクラブにしては小さい。料理はなく、ドリンク提供のみ。1955~60年の営業期間だったとされている。そこで、有名ジャズ・クラブの演奏スケジュール欄を毎週載せていたThe New Yorkerのアーカイブを週ごとに辿っていくと、推移がわかってくる。

The New Yorker タウン情報Mostly Music欄より(1957 7/27号)

1956, 4/28-「他所では聴けない新進ミュージシャンのトライアウトの場」

1957, 7/27-「ヴィレッジ界隈の事情通の内緒話では、学究系マイルス・デイヴィス五重奏団とキャノンボール・アダレイのモーレツ5人組が出るらしい。」

 NewYorkerならではのビミョーな紹介文だが、店のマネジメントが不安定だったのかもしれない。状況は加速し、1958年5月以降は「予定ミュージシャンの出演は五分五分」となり、同年7/12号を最後に、《Café Bohemia》の案内自体が同誌から消滅する。52丁目の《Birdland》やブロードウエイ51丁目の《Basin Street Café》と並び “3B(The Three Bs)”と言われた時期はせいぜい2年ほどだった。

一方、《ボヘミア》が華々しくオープンした当初の1955~6年は、トミー・フラナガンたち、デトロイトの若手ミュージシャンが大挙してNYにやってきた時期と一致している。

デトロイト~NY 新旧ジャズメンのウィンウィンな関係

1955年から56年にデトロイトからNYに進出したジャズ・エリートは、ドナルド・バード(tp)、ポール・チェンバース(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)、ペッパー・アダムス(bs)、ケニー・バレル(g)、トミー・フラナガン(p) …思いつくだけでもこんなに居る。

 《ボヘミア》を舞台に、彼らをバックアップしたのが、ケニー・クラークとオスカー・ペティフォードだった。

セロニアス・モンクトリオで演奏する
ケニー・クラーク(ds)&オスカー・ペティフォード(b)

 クラークは、ニューカマーのデトロイターたちの面倒を親身に見てくれた叔父貴のような存在だ。ビバップの創造者の一人であるクラークは、当時40代にさしかかったころで、多方面にコネを持ち、SavoyPrestigeBlueNote といった新興ジャズ・レーベルのハウス・ドラマー兼企画アドバイザー的な役目をしていた。

そんなクラークは、新参者のフラナガンたちを即戦力と見込んで、《カフェ・ボヘミア》のステージに上げ、NYでの認知度をアップさせ、ギグやレコーディングの仕事をせっせと斡旋した。「NYに来たばかりで仕事のない頃サポートしてくれた数少ない恩人」-バレルは後年のインタビューでクラークをこう表現している。

 歴史的名盤を含め、当時のジャズのレコーディングの大部分は、A&Rディレクターが、大雑把な企画で適宜ミュージシャンを招集、スタジオで簡単に打ち合わせして1テイクでばっちり仕上げるという低予算プロジェクト。だから、サイドメンはほどほどのギャラに見合わない、一流の腕とアイデアがないと務まらない。そんなニーズにぴったりだったのが、デトロイトから出てきたフラナガンたちだった!

クラークは、従来の濃いめなNYハードバップと一味違い、すっきり洗練されたデトロイト・スタイルによるアルバム企画を立て、自ら演奏にも参加した。

 オジー・カデナがプロデュースしたデトロイト・ハードバップの秀作『Jazzmen Detroit』(左写真 Savoy, 56)や、アルフレッド・ライオンのプロデュースで、ケニー・バレルがダウンビート誌の新人賞を勝ち取った『Introducing Kenny Burrell』(Blue Note, 56)など、バレル一連の初期アルバムの仕掛け人はすべてクラークで、大部分のドラムはクラーク。まさに、ウィンウィンな関係だったのだ。

一方、音楽的理想に全てを賭けるオスカー・ペティフォードは、《ボヘミア》のセッションでフラナガンに即白羽の矢を立て、ABCパラマウントでクリード・テイラーが制作した、超ド級ビッグバンド作品『Oscar Pettiford in Hi-Fi』(56)に起用。《ボヘミア》つながりで、J&Kaiを休止して一本立ちを画策するJ.J.ジョンソンのレギュラーとなる。 

また、ペッパー・アダムス(bs)の稀有な才能に注目し、スタン・ケントン楽団に推薦したのもペティフォードだ。

『Introducing Kenny Burrell』録音中のクラークとフラナガン26才
(56, Francis Wolff 撮影)

 短命ながら、今もジャズファンの記憶に残る《ボヘミア》は、フラナガンたち若手のNY進出のスプリングボードとしてなくてはならない場所だったんですね!

トミー・フラナガンは、NYに来てわずか数週間で、様々なレコーディング・セッションに引っ張りだこのピアニストになった。現在は歴史的名盤といわれるハードバップ期のレコーディングの大部分は、強烈な仕事人たちの実力と創造力の賜物であり、名音楽家たちの通過点を捉えたスナップショットと言えるのかもしれません。

NYに来て2度目の夏、フラナガンはJ.J.ジョンソンのレギュラー・ピアニストとして初の国外ツアーに出発。スウェーデン、ストックホルムで、あの『Overseas』を録音することになります、

 (Sources)
The Complete New Yorker DVDs (2004)
Before Motown Lars Bjorn & Jim Gallert 著 The University of Michigan Press (2001)
Tommy Flanagan Interview by Loren Schoenberg WKCR NY,1990
Rutgers University, Kenny Clarke Oral History Interviews
The Café Bohemia Story
スミソニアン国立歴史博物館所蔵 NEA JAZZ MASTER INTERVIEW-Kenny Burrell (2010)
Swing to Bop, Ira Gitler著, Oxford University Press (1985)
Reflectory, The Life and Music of Pepper Adams, Gary Carner著 e-book (2022)
筆者へのトミー・フラナガン談


 

Café Bohemia ジャズメン・デトロイトのショウケース(その1)

J.J.ジョンソン・クインテットの《Cafe Bohemia》ライブを捉えた放送音源

 Jazz Club OverSeasでは、今年の春から、寺井尚之のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」の第3巡目が始まりました。今月は、トミー・フラナガンがスウェーデンで『Overseas』を録音するきっかけになったJ.J.ジョンソン・クインテットの『Live at Café Bohemia 1957』が登場します。

 マイルス、ド-ハム、ミンガス、ジャズ・メッセンジャーズ…数多くのライブ録音が残る『カフェ・ボヘミア』はNYのウエストヴィレッジで1955-60年の間営業していました。その当時のグリニッジ・ヴィレッジは今とは大違い、NYの場末と言われる地域、定職のないアーティストやミュージシャン、詩人たちのコミュニティがありました。自由奔放に世界を彷徨い人生を謳歌するジプシー(ロマ族)の起源がチェコのボヘミア地方であることから、ヴィレッジの自由人たちボヘミアンと呼ばれいて、それが店名の由来です。

 ボヘミアの哀愁ある響きに興味を抱いた私は、フラナガンの死後、ダイアナ夫人や、ピアニストでジュリアードの先生だったフラナガンの親友、ディック・カッツさん、果てはジャズ史家アイラ・ギトラー氏にまで、根掘り葉掘りカフェ・ボヘミアの話を聞いて回りました。あれから15年、インターネット情報や新たな研究本から、《カフェ・ボヘミア》が、フラナガンやケニー・バレル、ペッパー・アダムスなど、1956年頃デトロイトからNYに進出してきた多くのミュージシャンがチャンスを得た意義深い場所であることがわかってきました。

 偶然のジャズクラブ

 

ボヘミアの前身”The Pied Piper”で演奏するDenzil Best,Flip Phillips, Billy Bauer (左から)撮影 William Gottlieb (米国国会図書館HPより

《カフェ・ボヘミア》の場所はウエストヴィレッジのバロウ・ストリート15番地は、現在《エール・ハウス》というビールの美味しいスポーツ・バーになっています。2020年、同じビルの地下に新しい《カフェ・ボヘミア》がオープンした矢先、不幸にもパンデミックが起こり現在は休止中。 

 時は遡り、52丁目がジャズのメッカとして隆盛を誇った第二次大戦中の40年代半ば、ここは《パイドパイパー》という名で、ジェームス・P・ジョンソンやピーウィー・ラッセル、メアリー・ルー・ウィリアムズや伝説のドラマー、デンジル・ベストなどスイング系の名手が出演する店だった。やがて、52丁目の衰退に呼応するかたちで、49年に閉店。この物件を買ったのが地元育ちのバーテンダー兼新進気鋭の事業主、当時35才のジミー・ジャロフォーロ(Jimmy Giarofolo )で、ジャズには全く関心のない人物。ここで6年間レストランやストリップ酒場など業態を変えながら商売したが、一向に儲からない。そうこうするうちに、近隣に住むミュージシャンたちが店の常連になり、演奏するようになります。

 無銭飲食の男 

チャーリー・パーカー(1920-55)

 ある日、そんな連中の一人がやってきてブランデー・アレキサンダーをグビグビ飲み、挙句の果てに、金がないと言います。そして、借金を返したいからここで演奏すると突飛な提案をした。その男の名はチャーリー・パーカー。ギャルフォーロは彼が何者かは知らなかったが、ともかく表に「チャーリー・パーカー出演」と掲示。そうすると、あれよあれよと来客数が倍増!今度バードの出演する店がどんなところ?というわヶでジャズファンが大挙して下見にきたのです。まるで落語の「抜け雀」。結局のところ、パーカーは同年3月に亡くなり、出演は叶わなかったのですが、この事件を機にギャルフォーロはモダンジャズの店にかじ取りを決意し、パーカーと一緒に演奏する予定だったテナー奏者、アレン・イーガーがアドバイザーとなり、イーガー自身と、ドラムにケニー・クラーク、ベースにオスカー・ペティフォード、ピアノにデューク・ジョーダンという強力リズムセクションを従えたハウス・バンドを結成するものの、お金持ちの美人にモテモテでハスラーとしても忙しいイーガーが真っ先に戦線離脱。結局ジャズ・クラブ《カフェ・ボヘミア》の杮落しは、クラーク(ds)、ペティフォード(b)と、ピアノにホレス・シルバー、フロントはハンク・モブレー(ts)、アート・ファーマー(tp)という、これまた素晴らしいメンバーで1955年5月30日、大成功をおさめ、伝説的クラブは船出することになります。

つづく