ハナさん(Sir Roland Hanna)の思い出

Sir Roland Hanna and Hisayuki Terai at Itami Airport, Osaka, 1990

=ハナさん=

Sir Roland Hanna (1932 2/10-2002 11/13)

 サー・ローランド・ハナ没後22年、トミー・フラナガンが、寺井尚之とJazz Club OverSeasの「親父」なら、サー・ローランド・ハナはモノンクル、まさに「叔父貴(おじき)」だった。二人は、ともにデトロイト生まれで、多くのミュージシャンを輩出した市立ノーザン・ハイスクールの卒業生だ。ハナさんはフラナガンの2学年下、フラナガン夫妻は感謝祭になると、ハナさん家で食事を共にする親戚付き合いが続いた。不思議なことに、2人は誕生日も命日も近い。そのため、寺井がハナさんのトリビュート・コンサートを行なうことが困難だった。(T.Flanagan 1930 3/16生-2001 11/16没, Sir Roland 1932 2/10生-2002 11/13没)

 ハナさんが亡くなったとき、フラナガンの未亡人、ダイアナは私にこう言った。- 「あの二人はソウルメイトというか、並大抵じゃない深いつながりがあったの。生まれ月も命日も近いしね。ローランドは癌だったけど、直接の死因はトミーと同じ心臓疾患だとラモナ(ハナ夫人)が言ってた。ラモナも私もそれが偶然とは思えないのよね…」

 寺井尚之はいつもサー・ローランド・ハナを「ハナさん」と呼び、ハナさんは寺井を「ヒサユキちゃん」と呼んだ。。トミーが体調を崩したとか、ヨーロッパ・ツアー中に手を怪我したとか、師匠の重大ニュースはハナさんから知らされることが多かった。デトロイトの昔話やトミーの心の秘密を教えてくれたのもハナさんだった。

=神童=

 ハナさんは、牧師でサックスをたしなむ父に教育され、2才ですでに文字と楽譜の両方読み書きができた。同じデトロイト出身のトロンボーン奏者、カーティス・フラーの証言によると、ハナさんは小学校時代、フランツ・リストの超絶技巧練習曲を弾きこなし、ピッツバーグで神童と呼ばれたアーマッド・ジャマルと並び称されたという。ハナさんが音楽を天命と意識したのは4才の冬、ハナさんは、路地に積もった雪の中に埋もれていた音楽書を偶然見つけた。その本を持ち帰り、家のピアノで独習し、瞬く間にベートーヴェンやショパンを弾いたというから、まさに神に導かれた「神童」だったのかもしれない。

 以来、クラシック一筋のハナ少年をジャズの道に引っ張り込んだのがフラナガンだ。ハイスクールの講堂にあるグランドピアノを弾こうと、早朝練習に通うハナさんと競うように朝早くからピアノの前に居る上級生の演奏にぶっとんだ。それがアート・テイタムやバド・パウエルそのままに弾くフラナガンだった。

=学究肌=

Sir Roland and Ramona Hanna from Ramona’s Facebook

 自動車産業で繁栄し、南部から黒人労働者が大量流入したデトロイトは、黒人子弟の職能を重視し、個々の子供の才能を伸ばす教育方針を取った。市の教育委員会は、NY市とは桁違いの高給で、優秀な教師をリクルートしたので、公立高校の音楽教師は、ウクライナやルーマニアからナチの迫害を逃れ亡命してきたコンサート・アーティストを含め、超一流の教師陣がそろっていた。デトロイトが多くのジャズ・ジャイアントを輩出し、ピアニスト達のタッチ・コントロールがずば抜けているのは、そのせいだとハナさんは言う。

 フラナガンは高卒即プロの道をひた走った叩き上げの人、一方、ハナさんはノーザン・ハイスクール卒業後、ポール・チェンバースやロン・カーターなどを輩出したカス・テック校に編入、2年の兵役を挟み、NYの名門ジュリアード音楽院でクラシックを勉強した”学究派”だ。

=ハナさんとフラナガン=

from left: Sir Roland Hanna, Tommy Flanagan

 ハナさんの音楽的アプローチは、デトロイト・ハードバップ・ロマン派という名に相応しい熱血型、聴いていると胸がいっぱいになる。一方、フラナガンは熱い想いをすべて語り尽くさず、余白を残しておく。ハナさんの尊敬するピアニストは、アート・テイタムとアルトゥール・ルービンシュタインの二人で、クラシックとジャズに境界線はハナさんには存在しなかった。フラナガンもクラシック音楽に精通していたが、目指すのはあくまでもエリントン+ストレイホーンやサド・ジョーンズのような、洗練を極めた黒人の音楽だった。

 この二人の巨匠に、OverSeasのピアノで何度となく演奏してもらったことは寺井尚之の大きな財産だ。自分が毎日弾いているピアノだからこそ、彼らが弾くとわかることがたくさんある。その中で、私が今でもよく覚えているのは、この2人が演奏した直後の数日間は、ピアノの響きが格段に豊かになることだ。まるで、ピアノ自身が、名手に弾いてもらった幸福感を、なんとかもう一度味わおうとしているようで、いじらしい気持ちになる。

 もっと科学的な調律師の川端さんと寺井の考察によると、二人ともタッチが究極に研ぎ澄まされており、鍵盤上で一番良くサウンドするツボに指をヒットさせている。加えて、88鍵をフルに使う為、ピアノの弦を叩くフェルトの全ての溝がクリアになっているために起こる現象らしい。この二人以外にも、多くの名ピアニストがOverSeasのピアノで演奏してくださったが、これほど響きが良くなる現象は、他に記憶がない。
 フラナガンは学校で教えることを大の苦手としたが、ハナさんは、NY市立大学クイーンズ校で教育者として後進を指導し、その成果は現在も高い評価を受けている。なのに、寺井がピアノを教えてくださいと頼むと、「もう私が君に教えることはない。」と言って、レッスンはしてくれなかった。その代わり、音楽家としての矜持、人間の尊厳をもって人生に立ち向かう姿勢というものを、身をもって示してくれた恩人だ。

 「まず、自分の楽器で練習することを好きになりなさい。そして、音楽の隅々まで注意を払いなさい。」サー・ローランド・ハナ

 

アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(2)

「サンタフェー・ローズバーグ戦時敵国人抑留所日記 第一巻 (山喜房佛書林 刊)」より抜粋 

   アキラ・タナの両親による幻の日記文学「戦時敵国人抑留所日記」からの抜粋です。アジア系アメリカ文化研究者、神田稔氏のご協力のおかげで、研究者の間で広く引用されている英訳の原文を閲覧することができました。その一部が上の引用文です。大正が「僧侶である」という理由から、FBIに逮捕され、他の日系要人と共に、サンタバーバラ刑務所から「日系人一時勾留所」に移送された直後の記述。その勾留所は、LAのダウンタウンから30kmほど北上した場所で、後に『E.T』のロケ地となったタハンガ(Tujunga)という山間地の「ツナ・キャニオン日系人一時勾留所」でした。アキラ・タナが誕生するちょうど10年前のことです。 

 この短い記述の中に、収容所の気候や、家族との面会の哀しさ、会話に日本語が禁じられるもどかしさが、映画の1シーンのように描かれ、悲惨な歴史の一端を垣間見せてくれます。 

<仏教東漸と家族愛>

ツナキャニオン勾留所内部

  田名大正師は、寺の嫡男や高学歴の、いわゆるキャリア組ではなく、実力で開教使というエリート職に抜擢された僧侶だった。収監されて外界と隔絶するまでは、家族よりも仏への帰依を重んじた人だという。180センチほどもある長身の堂々とした体躯と容貌は威厳を放ち、収容所内でも「聖人(しょうにん)さま」と呼ばれていた。だが、強靭な外見に反し、非常に病弱であったため、収容所での重労働を免除されていたという。
 収容所時代の大正は、戦争が終わった後、この異国の地でどのように仏教を広めようかと思索し、妻と子供の住む収容所の人々のために法話を書き、習字やこれまで叶わなかった英語学習などに時間を費やした。一方、東京帝国大学卒など、立派な肩書を持ちながら、拘留所で野球やギャンブルに興ずる「お坊ちゃん」開教使への批判を日記に綴りながら、大正は苦境の中で前向きな姿勢を崩そうとはしなかった。 

 他の日系一世の人達と同様、大正もまた大日本帝国の勝利を信じ、解放の日を心待ちにしていたのである。ところが1942年ミッドウエ-海戦で日本軍が大敗北を喫し戦況は暗転。そして入所して一年半経ったころ、大正はとうとう結核を発症し収容所内で病院暮らしを送ることになった。隔離された収容所で、更に隔離された大正の日記は、より内省的になり、妻と子どもたちに対する愛情がこれまでにないほど色濃く投影されていく。

 日系人拘留所の助成金プログラムによって行われたアキラ・タナのインタビューによれば、両親は結婚した当初は、お辞儀をして挨拶するほど他人行儀だったということです。皮肉にも見合い結婚した二人の恋は、戦争によって遠く引き裂かれた状況の中、文通という手段を通して、初めて燃え上がりました。日記には、名歌人であったともゑが大正送った短歌が挿入されている。そこに込められた想いが仏の道一辺倒だった大正の心の扉を開き、万葉集の人々のように恋や家族への思いを吐露する日記への変貌していく様子が感動的です。

(抑留所日記 第四巻、p188-189  阿満道尋による英訳を和訳)」

 大正の内面の変容は、一徹な夫を支え続けるともゑの愛の深さと、彼女が送り続けた短歌が大きな役割を果たしている。聡明さと強靭な忍耐力を兼ね備えたアキラ・タナの母、田名ともゑ、米国で短歌を広めた立役者はどんな女性だったのだろう? 

Daisho and Tomoe Tana

うるむ瞳(め)を
日記にはしらせいきつかず読み終りたり汗もわすれて

(『サンタフェー・ローズバーグ戦時敵国人抑留所日記』第一巻 250より)
(続く)

アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(1)

 

寺井尚之とアキラ・タナ
Hisayuki Terai-piano, Akira-Tana-drums May 2024

 サンフランシスコを拠点に各地で演奏活動を行う日系アメリカ人名ドラマー、アキラ・タナさんは現在72才、同い年の寺井尚之との親交は40年余りの長いお付き合いです。
 2024年5月にアキラさんを迎えて行ったコンサートは、一部が寺井の師匠Tommy Flanaganの演目、二部はアキラさんが長い間共演していたテナーの巨匠Jimmy Heathの作品集で、他では聴けないプログラムと演奏内容。ジャズ・ジャイアント、アキラ・タナの衰えを知らない実力と、音楽に対する造詣の深さをまざまざと感じさせる素晴らしい機会になりました。

「戦時敵国人抑留所日記」

 さて、日系アメリカ人二世であるアキラさんは、四人兄弟の末っ子として、戦後に生まれました。お父様、田名大正(たな だいしょう)さんは僧侶で、太平洋戦争前は、サンフランシスコの日本人コミュニティのリーダー的な役割を果たし、お母様のともゑさんは、戦後、宮中の歌会始に招かれたほどの名歌人で、地域の日本文化の担い手です。
 私がアキラさんのご両親に興味を持ったのは、アキラさんのNY時代、彼の自宅にご両親の名が記された立派な書物が数冊飾ってあるのを目にしたことがきっかけでした。それが「サンタフェー・ローズバーグ抑留所日記」です。
 それから何年も経ってから、私はこの本の名前と再び出会います。「取材の鬼」の異名を持つ作家、山崎豊子の長編小説『二つの祖国』を読んだとき、の名を、巻末の膨大な参考文献リストの中に見つけ、不思議なめぐりあわせの感覚を覚えました。(以下敬称略)

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 「サンタフェー・ローズバーグ抑留所日記」(田名大正 著、田名ともゑ 編、 山喜房沸書店)は、アキラの父、田名大正が、真珠湾攻撃のその日から、敵国人であるという理由で逮捕勾留された4年間に書き綴った貴重な記録です。戦後、妻、ともゑがその日記を編纂、1976年から’89年にかけて自費出版した四巻の書物は、総ページ数1500頁を越える壮大な日記文学です。現在は国会図書館などでしか読めない希少本、私はアキラさんにお借りしたり、英訳された抜粋で読みましたが、簡潔な文章の中に、宗教人として、ひとりの人間として、不条理な状況に立ち向かう赤裸々な想いが吐露されていると同時に、米国の抑留所にいながらも、大日本帝国の勝利を固く信じていた姿に心を揺さぶられました。
 最近になって、主に米国の仏教研究者がその価値を再発見し、英語版の翻訳作業も進行しているということです。思い起こせば、英語で育ったアキラさんが、猛然と日本語の読み書きを学んだのは、この日記の出版時期と重なっています。

 日本文学研究の権威、ドナルド・キーンは、その日に起こった事実を書き留める欧米の日記とは異なり、書き手の内面を日々記す、日本の日記文学の素晴らしさを事ある毎に説いていました。そして、キーン先生と日記文学との出会いは、第二次大戦中、南方に通訳として赴いた際、玉砕した兵士たちの遺品の中にあった血まみれの日記であったということです。同じ時期、米国の異なる不条理の中で書かれた大正の貴重な日記が周知されないのには、様々な理由があるのですが、それは追って書いていきたいと思います。

「アキラ・タナの父 田名大正」 

田名大正 Daisho Tana (1901-72)

 アキラの父、田名大正(Daisho Tana 1901-72)は、明治34年札幌生まれ、本人は子供時代の事を余り語らなかったということだが、後の研究によれば、貧しい家に生まれ、祖父母に育てられたとされている。尋常小学校卒業後、札幌の東の町、厚別にあった寺の住職に跡取りとして引き取られ、17才で得度(とくど:出家して僧侶になること。)した。

 大正は、幼い時に叶わなかった学問への情熱が消えず、親代わりの住職は、彼の志を汲み、京都にある浄土真宗本山、西本願寺へと送り出した。そこで大正は7年間研鑽を積み、海外での布教活動を担う「開教使」という役職に就く。そして、23才の若さで、台湾、そして米国へ赴任、多数の日系人が働くカリフォルニア、バークレーの仏教寺院で奉職した。

 やがて、三十代後半になった’38年に一時帰国、同じ北海道の寺の嫡男であった同僚の聡明は妹、早島ともゑとの縁談がまとまり、新婚夫婦揃ってカリフォルニアに戻り地域の日系人社会のために法務を続けた。

 この時代は見合い結婚が当たり前、一回り年上の夫の許に嫁いた途端、異国の地に向かったともゑの新生活はどんなものだったのだろう? 里帰りも叶わず、法務の手伝いや家事、出産、育児・・・新婚生活を楽しむ余裕はなく、月日だけが流れたのではないだろうか。夫婦が互いに深い男女の愛情を自覚したのは、戦争によって引き離されてからのことであったそうです。

 渡米して7年、アキラの兄になたる二人の男の子を授かった田名夫妻が、カリフォルニア州北部のロンポックという町で、法務と、日系子弟の日本語教育に勤しんでいた頃、真珠湾攻撃勃発、3ヶ月後、大正はFBIに連行されてしまう。

 FBIは、用意周到に在米日本人のブラックリストを作成し、スパイ行為やプロパガンダ活動を抑止する目的で、日系人社会でリーダーの役割を担う人々を根こそぎ逮捕した。ブラックリストに入っていたのは、日本人会、県人会、在郷軍友会といったグループの会長、日本語学校の校長、日系新聞社の幹部、そして仏教開教使と呼ばれる僧侶たちだ。

Tuna Canyon Camp

 大正はサンタバーバラ刑務所から、日本人の逮捕者が次の勾留地が決まるまで一時的に留め置かれる山岳部のツナキャニオン・キャンプ(上写真)に4ヶ月勾留後、カリフォルニアから1300km東に離れたニューメキシコ州に移送され、サンタフェとローズバーグ勾留所を往来、劣悪な生活環境のため、台湾時代に感染していた結核を発症しながら、終戦まで抑留されます。日系のリーダー達の勾留所は司法省管轄で、一般の日系人転住センターより遥かに厳重な、刑務所のような場所でした。

田名大正、ともゑ夫妻

 一方、排日運動高まる中、二人の幼児、そして三人目の子供を身籠りながら、夫の留守を守るともゑは、いつアメリカ人の襲撃を受けるかと不安な日々を過ごした。やがて、大統領令9066号が発効され、ともゑは息子たちと共に、アリゾナ州のヒラ・リヴァー転住センター(Gila River Camp:下左写真)に収容、砂漠の中の施設で、夫と離れ離れの生活を送ることになった。

 それまで当たり前であった日常の生活が、或る日突然に、どうしようもない大きな力に呑み込まれ、家族も財産も故郷の町も失われる、その人々の喪失感と、見えない未来…東日本大震災を契機に、アキラさんが、在米のミュージシャンたちとのバンド『音の輪』を結成し、精力的に被災地への支援を続けた原動力は、家族の歴史と、どこかで重なっているように見えます。(つづく) 

夫の手の我がに触るるとして醒めし目に入るものか星のまたたき 
田名ともゑ
My husband is about to touch my face;

When I awake from that dream, the flickering of stars enters my eyes.

あの頃のアート・テイタム伝説

 トミー・フラナガンは、ビバップの洗礼を受けた人であり、ピアノという楽器から最もピアノらしいサウンドを弾きだす巨匠だった。(寺井尚之が自分のピアノ教室で、まず最初に、音楽理論を概説し、ピアノの倍音を鳴らすトレーニングを行うのはそのためです。)

   ビバップの革命的なハーモニーの土壌を作り、ピアノを一番ピアノらしく弾いたといわれるのがアート・テイタム、何年も、何年も、演奏前の寺井尚之は毎日テイタムを聴いている。
  テイタムはテディ・ウイルソンから新主流派スタンリー・カウエルに至るまで、OverSeasが愛する全ピアニストの神様だ。
 

Art Tatum (1910-56)

 

Walter Norris(right) and Hisayuki Terai

 このエピソードは書物にもあるが、やっぱり本人から伺うと一層怖い。
 「昔、LAにあったクラブにテイタムを聴きに行ったら、ピアノはアップライトだった。なのに、それはスタインウェイのコンサート・グランドのような響きだったから、私はびっくり仰天した!一体どんなピアノなのか確かめたいと思い、数日後、同じ店に行って私自身が弾いてみた。そしたらどうだい。正真正銘のオンボロのピアノでアクションも最低、おまけに鍵盤が数本欠け落ちていた!なのに、次に同じ店でテイタムを聴きに行くと、やはり調律直後のグランドにしか聴こえない。そして、ないはずの鍵盤の音がちゃーんと聴こえていたんだ。」と言うのです。鬼気迫る表情と小声で語る迫力…ノリスさんは、どちらかというと普段はシャイな人で、ホラ話なんて絶対しない。ピアノの調律には非常にウルサく、とことん響きにこだわる巨匠が、こんなことを言うのです。

 カッティング・コンテストと呼ばれる名手達の壮絶な果し合いが、アメリカ各地で行われていたジャズ西部劇のような時代、テイタムはトレドの街で、NYやシカゴ、色んな土地から来た腕自慢をばったばったとなぎ倒してから、NYに進出した。
 ナイトクラブやキャバレーでの仕事を終えたミュージシャンが集まるアフターアワーズ・クラブ、ジャズシーンの裏側でテイタムが少年時代のフラナガンやアーマッド・ジャマルに聴かせた至高のピアノ・プレイ…ミュージシャン達が語るテイタム伝説には、それぞれ衝撃のドラマがあります。

ジョー・ターナーの証言=

 Joe Turner(1907-90) ボルチモア出身、ルイ・アームストロングなどの名楽団で活躍した華麗なるストライド・ピアニスト、第二次大戦後はパリのクラブで人気を博した。パリ没。

Joe Turner

 西部をツアーしたとき、ベニー・カーター(as.tp.comp.arr.)は私に警告をした。-「オハイオ州のトレドに着いたら、決して土地のクラブでピアノに触ってはいけない。街にいる盲目の若造はやり手だ。お前が逆立ちしても太刀打ちできない。」
   一体どんな奴だろう?私はトレドの街に着くとすぐ、そのピアノ弾きの居所を尋ねた。なんでも、そいつは夜中の2時きっかりに、決まってある軽食屋に現れると言う.
   午前零時、劇場の仕事がハネると、私はその店に行って例のピアノ弾きが来るのを待った。しばらく私がピアノを弾いていると、ピアノの傍らで、2人の若い女が言い合いを始めた。「この人ならアートをやっつけちゃうわね。」と一人が言うと、もう一人が言い返した。「そのうちアートが来るから、どっちが勝つか、じっくり見物しましょうよ。」
  噂どおり、2時きっかりにアート・テイタムが現れた。私が挨拶をすると、「ああ、お前さんが、”Liza“を素晴らしいアレンジで演っている、あの有名なジョー・ターナーかい?」と言うじゃないか!私が演奏してほしいと頼むと、『まずあんたのピアノを聴かせてもらってからだ。』と言って聞かない。アート相手に言い合いをしても勝ち目はなかった。私は、ベニー・カーターの忠告を無視し、“Dinah”で指慣らしをしてから、十八番の”Liza”を演った。
   弾き終わると、アートが『なかなかいいね。』と言ったので、私は少しムっとした。私の”Liza”を聴いた者は、余りの凄さにびっくりするのが常だったからだ。なのに、ただ『なかなかいいね』とは何事だ!
 それからアートはピアノの前に座り、“Three Little Words”を弾いた。その凄かったこと! 三つの短い言葉どころか、三千語でも足りない、もの凄い演奏だった!あれほどの音の洪水を生まれてから聴いたことはない。
  それ以来、私達は無二の親友となった。次の朝早く、私がベッドから出る前に、彼は、もう私のところに遊びに来て、昨日私が弾いた”Liza”を一音違わず、全く同じように弾いてみせた。
(出典:Hear Me Talkin’ to Ya / Nat Shapiro and Nat Hentoff)

Gene Rodgers (1910-87)  ピアニスト、NY生まれNY育ち、キング・オリヴァーやチック・ウエッブ等の名楽団で活躍。’39に大ヒットしたコールマン・ホーキンスのBody & Soulの名イントロはロジャーズだ。

Gene Rodgers

 目の不自由なアートが2人の男に付き添われ、ピアノに向かうだけで、皆の注意がひきつけられた。ピアノはアップライトだ。アートは右手にビールのグラスを持ち、ピアノの椅子に座りながら、左手だけで弾き始める。おもむろにグラスを置くと、右手も鍵盤に向かった。それからは、自分の耳が信じられなかった。…彼が3曲弾き終わる頃には、耐えられなくなってホテルに逃げ帰り、さめざめと泣いたよ。人生であれほど凄い演奏を聴いた事はなかった・・・
(出典:American Musicians/ Whitney Balliett)

=ビリー・テイラーの証言=

Billy Taylor (1921-2010) ビバップから現代まで、激動のジャズ史を生き抜いたピアノの巨匠、全米ネットワークのジャズ番組のホストとして有名。知名度を生かし、音楽教育や文化プログラムの資金集めを含めジャズ界に貢献した。ネット上でフラナガンとのものすごいデュオが観れる。

Billy Taylor

 テイタムのピアノ、ホーキンスのテナー、そしてエリントン楽団、この三つがビバップ語法の基礎を作った。
テイタムが繰り広げたジャム・セッションの中で忘れがたいものがある。相手はクラレンス・プロフィットというピアニスト兼作曲家だった。私を含め、皆、彼のことを単なるファッツ・ウォーラーの亜流と思い込んでいたが、この二人のジャム・セッションは何ともすさまじかった。
 二人がピアノの前に座り、同じメロディを延々弾き続ける。メロディは変えずにハーモニーを次から次へと変えていくのだ。フレーズを考えるのでなく、色んなハーモニーをどんどん考え出すという凄いジャムだった。

特に”Body & Soul”を演った時が面白かった!あの曲にはすでに決まったコードが付いているからね。彼らのセッションは信じられないような内容だった。だが、あの時やったようなことは、私の知る限り全く録音されていない。
 (出典:Swing to Bop/Ira Gitler著)

ハーレムのセント・ニコラス通りを少し入ったところにアフターアワーズの店があってね、一流ミュージシャンは仕事が終わると、皆そこに集まった。レスター・ヤング達カウント・ベイシー楽団の面々、ベニー・グッドマン、アーティ・ショウ、そしてアート・テイタム、アートはアフター・アワーズの店が大好きだった。彼が正規の出演場所よりも、アフターアワーズの方が良い演奏したっていうのは本当よ。多分、その場の雰囲気のせいかもね。違った空気があれば、それに即して違った弾き方、歌い方をする人は多いの。ある種のお客やクラブには、ミュージシャンが、普通は出来ないことをしたいと思わせる何かがあるのよね。まあアート・テイタムは余りに素晴らしくて、いつの演奏が良かったと選ぶのも無理なんだけど…
(出典:Hear Me Talkin’ to Ya / Nat Shapiro and Nat Hentoff著)

 =フラナガンのもう一人のルーツ、巨匠テディ・ウイルソンの証言=

 私はアール・ハインズとファッツ・ウォーラーが好きだ。しかし、アート・テイタムは、全く別物だという気がする。彼は生まれながらに、類い稀な天才だった。野球に例えれば、全打席ホームランを打つ程の天才だ。アートは神秘と言ってよい。アートが他のどのピアニストよりも私に感動を与えたことに間違いはない。

(ダウンビート誌 1959年1月22日号)
 

=トミー・フラナガンが語るテイタム伝説=

 私は子供の頃に一度、彼のプレイを間近で観察した。それは(デトロイトの)アフターアワーズの店だった。テイタムが現れたのは朝の4時、演奏を始めたのは5時頃だ。それから2-3時間弾くというのが彼の日課だった。まだそんないかがわしい場所に出入りしてはいけない年齢だったが、テイタムを観たさにこっそり家を抜け出したのだ。悪いことだったが、今でも、そこで彼を生で見れて良かったとつくづく思う。
 そこで彼の弾いていたのは、おんぼろアップライトで、粗大ゴミと言ってよい代物だった。テイタムが弾く前に、彼の友人のピアニストが弾くと、どれほどひどいピアノかが、つくづくよくわかった。だが、一旦テイタムがピアノの前に座ると、粗大ごみの音が、瞬く間にグランドピアノのサウンドになった。彼はまさにピアノを変身させる事ができたのだ。本当に凄かった。しかも、彼は大変音楽的だった。実にひどい楽器でも、そこから音楽を引き出して見せた。
 楽々と弾くテイタムの姿をひたすら傍で見つめるのは、素晴らしいことだった。片手にドリンクを持ち、片手だけで、僕の今迄に弾いたどれよりも凄い演奏をして見せた。そんな事が起こるのがデトロイトのアフターアワーズだった。

フラナガン-ある夜、私はボビー・キャストン(Bobbe Caston)という歌手の伴奏をしていた。テイタムは彼女の歌が好きで伴奏をしていたこともあった。歌の前座のピアノ演奏では、いつもテイタム・スタイルで”Sweer Lorraine“等を演っていた。
 ある夜、いつものようにテイタム流に奮闘している最中に、ボビーが私に近付いてこう耳打ちした。
『ほら、アート・テイタム があそこに座っているわよ。』×☆○! !
 ボビーの示した 方をそーっと観ると、本当に彼がいるじゃないか!それからは、逆の壁の方を向き、やっとの思いで弾き終えた。
 私は彼と話すのが恐かった。彼には6回程会ったことがあるが、いつもどんな話をすればよいかもわからなかった。私は彼をミスター・テイタムと呼んだ。でも彼は私にとても優しかった。私達若い者のプレイを、とても忍耐強く、じっと立ったままで聴いてくれて、「今夜は珍しくうまい子達がいるね。」なんて言ってくれた。
 テイタムがピアノの前にひとたび座れば、僕らはひとたまりもないことはわかりきっているのに。
 テイタムが、あれほど凄いピアノ・テクニックをどのようにして編み出したのかわからない。しかし彼の演奏におけるハーモニー構造には稽古の跡がうかがえる。彼こそ正真正銘のヴァーチュオーゾだ。そしてヴァーチュオーゾの至芸は基礎的なトレーニングなしには決して有り得ない。
 若い頃、アート・テイタムに感動し、彼こそパーフェクトなピアニストだと思った。今でも私はそう思っている。
 テイタムの演奏には、なにもかも、全てのものが詰まっている-Tommy Flanagan

(出典:Jazz lives: Portraits in words and pictures/ Michael Ullman著)
 

  ジャズの巨匠達が好んで語ったテイタム伝説には、畏怖とともに、敬愛の心が溢れる。フラナガンがあれほど寺井によくしてくれたのは、テイタムからもらった優しさがフラナガンの心に根付いていたからかもしれない。
やっぱりテイタムは神様だった。

News:そんなアート・テイタムの歴史的未発表版が4/26のレコード・ストア・デイにLP&CDでリリースされることになりました。

 プロデュースはジャズのインディ・ジョーンズと呼ばれるZev Feldman!

タイトルは『Jewels in the Treasure Box/ジュエルズ・イン・ザ・トレジャー・ボックス』テイタム1953年、シカゴのクラブにおける円熟のトリオ・ライブです。充実した内容の分厚いブックレットは、不肖私が翻訳しています。巨匠たちが愛した名人芸をぜひ聞いてみてください!

夢のピアノジャズクラブ《ブラッドリーズ》と太平洋戦争のこと(2)

= 余りにもNY的な=

その昔、グリニッジ・ヴィレッジにあったジャズ・クラブ、《ブラッドリーズ》の音楽的全盛期は1970代中盤から、オーナーのブラッドリー・カニングハムが病に倒れる’80年代後期までと言われている。

 なにしろ、トミー・フラナガン+レッド・ミッチェル or ジョージ・ムラーツ or ロン・カーター、ハンク・ジョーンズ+ロン・カーター、ケニー・バロン+バスター・ウィリアムズといった極上のピアノ・デュオが、毎夜、ほぼ生音で聴けた。深夜2時から始まるラスト・セットは、多くのミュージシャンが集うNYジャズのコミュニティの中心地の様相を呈していた。一方、この店の奥に行けば、コカインなどの違法薬物が手に入るという噂も、(確認はしていないけど)NYたる所以。地元のジャズ・コミュニティの中では、セロニアス・モンクがその人生最後に(飛び入りではあるけれど)公衆の前で演奏した歴史的聖地としても知られている。出演形態が「デュオ」というのは、当時のキャバレー法で三人以上のライブが制限されていたこともあるけれど、なによりも、1対1の対話形式のジャズが、ブラッドリー・カニングハムの好みだったのかもしれない。

撮影:阿部克自

  ブラッドリーは、トミー・フラナガンやジミー・ロウルズといったお気に入りミュージシャンがやって来ると、時にはピアノの手ほどきを受けながら、朝まで一緒に飲み明かした。

 その時間をブラッドリーは「人生で最高のひととき」と語る。彼の波乱万丈の人生の中、音楽の対話こそが癒やしだったのかもしれない。

=玉砕のテニアンからナガサキまで= 

 ブラッドリー・カニングハムは、1925年(大正15年)生まれです。戦争中、学徒動員に明け暮れた私の両親より少し上の世代で、戦地に赴いた元軍人だった。彼の両親は幼いころに離婚し、母親に育てられた。彼の父親は家を出ていく前日に、そんなこととは知らない6歳のブラッドレイを、スチュードベーカーのどでかいコンバーチブルに乗せて遊びに連れていってくれた。そして、最高に楽しい一日の終わりに、息子は唐突な別離を宣告された。ブラッドリーは、そのときのショックを一生引きずって生きたのかもしれない。以降、全米各地を転々とし、ようやく大学に入学した頃には第二次大戦が始まっていた。

 1943年、ブラッドリーは、海外での武力行使を前提とする海兵隊に志願した。それは、愛国心というより、徴兵されて陸軍に行かされるより海兵隊に志願したほうがまし、という選択だったたらしい。戦艦アイオワに乗り、パナマ運河からハワイ経由で、日米の激戦地、玉砕の島として歴史に刻まれるマリアナ諸島のテニアン島へ…そこで、おびただしい数の日本兵が絶壁から身を投げて自決するのを目の当たりにした。 

 テニアン島制圧後、ブラッドリーは上層部の命令を受け、サイパンの米軍日本語学校でみっちり敵国語の勉強をすることになった。彼の堪能な日本語は海兵隊時代に培われたものだった。日本陸軍は入試科目から英語を撤廃したが、アメリカは戦争の先を見据え、敵を熟知しようとしたんですね。1945年4月、研修を終えた彼は沖縄に向かい、日本兵の投降を呼びかけ、捕虜となった兵士の尋問を担当した。ひょっとしたら、沖縄上陸作戦時に通訳として動向した日本文学者、ドナルド・キーン氏との邂逅があったのかもしれない… 捕虜尋問の際、ブラッドリーが驚いたのは、日本兵が自分の認識番号を知らなかったこと!日本兵にとって「捕囚」は汚辱であり、「捕虜」になることがもとより想定されていなかっというのは更に驚くべきことだった。

 

 1945年8月9日、長崎市に第二の原爆が投下され終戦を迎えた直後、ブラッドリーは長崎に上陸する。ホイットニー・バリエットのインタビューで、ブラッドリーは、自分の従軍体験について、かなり仔細に語っているが、被爆後のナガサキについては、「皆の言うように、実に悲惨だった。」と言葉少なだ。ナガサキの惨状を見たブラッドリーは除隊を決意、翌1946年に帰国し、大学に戻ったが、不安症候群に陥り休学を余儀なくされた-今で言うPTSDだったのでしょう。以来、職を転々としNYに落ち着いてからも、アルコールと薬物中毒に陥り、何度か入退院を繰り返した。

 ブラッドリーは、雑誌NewYorkerのインタビューの中で、本国に帰還する頃には「日本という国と、日本人が大好きになっていた。」と語っている。《ブラッドリーズ》を訪れた日本人客に、積極的に日本語で話しかけていたのは、そういう理由があったのですね。 

 見かけは大柄のタフガイだったブラッドリー・カニングハム、彼がデュオという形態を愛したのは、音楽の会話が、生涯癒えることのなかった戦争の痛みを癒やしてくれたからではなかったのかな?

 民間人を含め、おびただしい数の人々が犠牲になった南方の戦地に赴き、敵国後として習得した彼の日本語が、日本から訪れるジャズ愛好家の心を癒すことになったというのは、感慨深いものがあります。

 ブラッドリー「トミー(フラナガン)は快活でウィットがある。彼と一緒に居るのは好きだね。10年ほど前の、ニューポート・ジャズフェスティバルの間、トミーエラ・フィッツジェラルドの伴奏でこっちに来ていて(訳注:その頃フラナガンはアリゾナに住んでいた。)、その空き日に出演してもらったことがあった。ジョージ・ムラーツとのデュオだったが、初日に、客が誰も来なかったんだ。トミーの知り合いも誰も来なかった。
 私もこの業界で長くやってるから、こんなことがあるのは承知の上さ。成す術なし!せいぜい肩をすくめて、お手上げのジェスチャーをするのが精一杯さ。

 トミーとジョージはあたりを見回し、顔を見合わせるばかりだった。しかし、このデュオは音楽的に一体だった!その夜、閉店後の二人のちょっとした演奏は、私が今までに聴いたこともないほど独創的でスイングしていたなあ。すべからくピアニストたる者は、まず聴く者を笑わせてから、笑った彼らの同じ心が張り裂けるほどの感動を与えなくてはならない。トミーの演奏は、まさしくその手本だ!」(Barney, Bradley, Max: Sixteen Portraits in Jazz/Whitney Balliett著より)

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参考文献
  • The New Yorker, February 24, 1986
  • The New Torker, October 11, 1982
  • BarneyBradley, and Max: Sixteen Portraits in Jazz /Whitney Balliett著(Oxford University Press)
  •   The Perfect Jazz Club / Nat Hentoff(Jazz Times)
  •   The Bradley’s Hang (Ted Panken)
  • Bradley’s (David Hadju, John Carey)

 ー終戦の日に-

夢のピアノジャズクラブ《ブラッドリーズ》と太平洋戦争のこと(1)

 

 トミー・フラナガン&ジョージ・ムラーツ・デュオの名盤『バラッズ&ブルース』(Enja)を聴いていると、その昔、このデュオが頻繁に出演していた《Bradley’s (ブラッドリーズ)》というクラブを懐かしく思い出しました。

 《ブラッドリーズ》(1969-’96)は、NY大学の近く、グリニッジ・ヴィレッジのワシントン広場の近くにあったピアノ・ジャズ主体のクラブだった。《ヴィレッジ・ヴァンガード》や《ブルーノート》といったNYの主要ジャズ・クラブはシアター形式で。旅行者の多い観光スポットだったが、ここは地域密着型のカジュアルで清潔な店だった。純白のテーブルクロスがかかる食卓にはキャンドルが点っている。早い時間帯は、おいしいカクテルとお料理目当てのホワイトカラー(当時はYuppieって呼ばれてた。)でにぎわう。フラナガンの奥さんは「ヤッピーたちは音楽を聴かずに、大声でおしゃべりするのよ!」と怒っていたっけ…

 ’69年の開店当時(’69)のライブ事情は、店主のブラッドリーがロイ・クラール(ジャッキー&ロイの)のエレクトリック・ピアノを150ドルで譲り受け、それをジョー・ザヴィヌルやデイヴ・フリッシュバーグが演奏するというものだった。だが、店の常連であったポール・デスモンドが、それを見かねてボールドウィンのグランドピアノを寄贈したことが転機となった。デュオ主体で、ほとんど生音の、極上の生演奏が楽しめるクラブになったらしい。

 開店当初は閑古鳥が鳴いていたのだけど、ウディ・アレンが《ブラッドリーズ》でくつろぐ写真が雑誌に載ったことから、爆発的にお客が増え、繁盛店になったのだとか。

 ブラッドリーは音楽の趣味がよく、ビリー・ストレイホーンが大好き、そして、トミー・フラナガンが大好きだった。彼は1988年に63才の若さで亡くなり、その後を未亡人のウエンディが引き継いだ。代替りしてからは、ドラムやホーンが盛んにブッキングされるようになったが、不慮の火事で’96年に閉店、それ以来、この場所は《Reservoir》というスポーツ・バーになっている。

 フラナガンは’88年までは《ブラッドリーズ》で頻繁に演奏し、レッド・ミッチェル(b)やジョージ・ムラーツ(b)と日常的に共演を重ねた。そうして磨きぬいたマテリアルを、ピアノ・トリオによるレコーディングに用い一段とスケールアップさせた。そんなプロセスの中で生まれたアルバムが、ミッチェルとのデュオ・アルバム『You’re Me』(’80 Phontastic)であり、ムラーツとの『バラッズ&ブルース』(’78 Enja) だった。前者はミッチェル作のタイトル・チューン+スタンダード曲、後者は、〈With Malice Towards None〉〈They Say It’s Spring〉という、後にフラナガン・トリオの名演目となる作品の初期ヴァージョンが聴けて興味が尽きません。斬新なアイデアと、自由闊達で息の合った品格ある演奏内容は、《ブラッドリーズ》という場所があったからこそ、時間をかけて熟成できたに違いない。この店が当時のピアノジャズに果たした役割は計り知れません。

 もし《ブラッドレイズ》で、この二人が頻繁に演奏していなければ、『バラッズ&ブルース』の完成度に到達することはなかったでしょう。フラナガンのみならず、ハンク・ジョーンズ、ケニー・バロン、ジミー・ロウルズ、ジョン・ヒックスなどなど、この店に常時出演した多くのピアニストやベーシスト達がデュオという演奏形式を発展させる貴重な場を提供したと言えます。

 

=夢のジャズ・クラブ=

或る夜のBradley’sの風景-カーメン・マクレエがフラナガンームラーツのデュオに飛び入り!
写真:阿部克自

《ブラッドリーズ》は、朝まで営業していた。夜が更けると、騒々しいヤッピーたちは退散し、ヴィレッジ界隈の主要ジャズ・クラブの出演ミュージシャンや、その演奏を聴いて勉強していた若手ミュージシャン、それにパパ・ジョー・ジョーンズ(ds)のような大御所さま… ありとあらゆるジャズ界のメンバーがやって来た。運が良ければパノニカ男爵夫人にさえ会えた。ジャズを愛する人にとっては、最高の社交場!

 私たちを初めて《ブラッドリーズ》連れて行ってくれたのはトミー・フラナガンで、寺井尚之を色んな人に紹介し、挙句の果てに、レッド・ミッチェル(b)に推薦して共演するという思い出もあります。

 宿泊ホテルにアーサー・テイラー(ds)から電話がかかってきて「ベイビー、僕は明日の晩、《ブラッドリーズ》に行っているからヒサユキと一緒においで。」なんて言われたら、もう有頂天でした。

=店主 ブラッドリー・カニングハム=

Bradley Cunningham: Bradley’s のFBページより。

 そんな夢の空間のオーナー、ブラッドリー・カニングハム(1925-88)は伝説のバーテンダーとも言われている。シカゴで生まれ、色んな土地を渡り歩きNYに落ち着いた。小さなバーを開店し、利益が出たら売却するということを繰り返し、《55bar》を経て’69年にオープンしたのが《ブラッドリーズ》で、これが彼の最後の店になった。ブラッドリーはサスペンス映画に出てきそうな大男、最高のカクテルを供し、話し上手、聞き上手、喧嘩が強くてピアノも上手、おまけに日本語も堪能だった。彼が出演を依頼したピアニストはテディ・ウイルソン、ハンク・ジョーンズ、フラナガン、サー・ローランド・ハナ、バリー・ハリス、ケニー・バロン…ピアノの鍵盤を「叩く」のではなく「弾く」ピアニストをブラッドリーは好んだ。そして、お気に入りの作曲家はビリー・ストレイホーンだった。そんな趣味の良い人選で、《ブラッドリーズ》に出演することは、一流ピアニストの証になっていった。 

 ブラッドリーの誕生日は、ジョージ・ムラーツ、エルヴィン・ジョーンズと同じ9月9日で、バースデー・パーティはいつも三人一緒だったそうです。ムラーツはブラッドリーの一人息子の名前をとった〈Jed〉という曲を作って、サー・ローランド・ハナのアルバム『Time for the Dancers』(’77, Progressive)に収録しています。

(続く)

Café Bohemia ‐ジャズメン・デトロイトのショウケース(その2)

在りし日の《カフェ・ボヘミア》

栄枯盛衰

  • その1-プログレッシブ・ジャズ(ハードバップ)のみ。
  • その2-ロックンロールなし。歌のおネエちゃん、ビッグバンドなし。
  • その3-スモール・ジャズ・コンボ以外すべてなし

 上の3か条で運営された《Café Bohemia》は100席ほどでNYのクラブにしては小さい。料理はなく、ドリンク提供のみ。1955~60年の営業期間だったとされている。そこで、有名ジャズ・クラブの演奏スケジュール欄を毎週載せていたThe New Yorkerのアーカイブを週ごとに辿っていくと、推移がわかってくる。

The New Yorker タウン情報Mostly Music欄より(1957 7/27号)

1956, 4/28-「他所では聴けない新進ミュージシャンのトライアウトの場」

1957, 7/27-「ヴィレッジ界隈の事情通の内緒話では、学究系マイルス・デイヴィス五重奏団とキャノンボール・アダレイのモーレツ5人組が出るらしい。」

 NewYorkerならではのビミョーな紹介文だが、店のマネジメントが不安定だったのかもしれない。状況は加速し、1958年5月以降は「予定ミュージシャンの出演は五分五分」となり、同年7/12号を最後に、《Café Bohemia》の案内自体が同誌から消滅する。52丁目の《Birdland》やブロードウエイ51丁目の《Basin Street Café》と並び “3B(The Three Bs)”と言われた時期はせいぜい2年ほどだった。

一方、《ボヘミア》が華々しくオープンした当初の1955~6年は、トミー・フラナガンたち、デトロイトの若手ミュージシャンが大挙してNYにやってきた時期と一致している。

デトロイト~NY 新旧ジャズメンのウィンウィンな関係

1955年から56年にデトロイトからNYに進出したジャズ・エリートは、ドナルド・バード(tp)、ポール・チェンバース(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)、ペッパー・アダムス(bs)、ケニー・バレル(g)、トミー・フラナガン(p) …思いつくだけでもこんなに居る。

 《ボヘミア》を舞台に、彼らをバックアップしたのが、ケニー・クラークとオスカー・ペティフォードだった。

セロニアス・モンクトリオで演奏する
ケニー・クラーク(ds)&オスカー・ペティフォード(b)

 クラークは、ニューカマーのデトロイターたちの面倒を親身に見てくれた叔父貴のような存在だ。ビバップの創造者の一人であるクラークは、当時40代にさしかかったころで、多方面にコネを持ち、SavoyPrestigeBlueNote といった新興ジャズ・レーベルのハウス・ドラマー兼企画アドバイザー的な役目をしていた。

そんなクラークは、新参者のフラナガンたちを即戦力と見込んで、《カフェ・ボヘミア》のステージに上げ、NYでの認知度をアップさせ、ギグやレコーディングの仕事をせっせと斡旋した。「NYに来たばかりで仕事のない頃サポートしてくれた数少ない恩人」-バレルは後年のインタビューでクラークをこう表現している。

 歴史的名盤を含め、当時のジャズのレコーディングの大部分は、A&Rディレクターが、大雑把な企画で適宜ミュージシャンを招集、スタジオで簡単に打ち合わせして1テイクでばっちり仕上げるという低予算プロジェクト。だから、サイドメンはほどほどのギャラに見合わない、一流の腕とアイデアがないと務まらない。そんなニーズにぴったりだったのが、デトロイトから出てきたフラナガンたちだった!

クラークは、従来の濃いめなNYハードバップと一味違い、すっきり洗練されたデトロイト・スタイルによるアルバム企画を立て、自ら演奏にも参加した。

 オジー・カデナがプロデュースしたデトロイト・ハードバップの秀作『Jazzmen Detroit』(左写真 Savoy, 56)や、アルフレッド・ライオンのプロデュースで、ケニー・バレルがダウンビート誌の新人賞を勝ち取った『Introducing Kenny Burrell』(Blue Note, 56)など、バレル一連の初期アルバムの仕掛け人はすべてクラークで、大部分のドラムはクラーク。まさに、ウィンウィンな関係だったのだ。

一方、音楽的理想に全てを賭けるオスカー・ペティフォードは、《ボヘミア》のセッションでフラナガンに即白羽の矢を立て、ABCパラマウントでクリード・テイラーが制作した、超ド級ビッグバンド作品『Oscar Pettiford in Hi-Fi』(56)に起用。《ボヘミア》つながりで、J&Kaiを休止して一本立ちを画策するJ.J.ジョンソンのレギュラーとなる。 

また、ペッパー・アダムス(bs)の稀有な才能に注目し、スタン・ケントン楽団に推薦したのもペティフォードだ。

『Introducing Kenny Burrell』録音中のクラークとフラナガン26才
(56, Francis Wolff 撮影)

 短命ながら、今もジャズファンの記憶に残る《ボヘミア》は、フラナガンたち若手のNY進出のスプリングボードとしてなくてはならない場所だったんですね!

トミー・フラナガンは、NYに来てわずか数週間で、様々なレコーディング・セッションに引っ張りだこのピアニストになった。現在は歴史的名盤といわれるハードバップ期のレコーディングの大部分は、強烈な仕事人たちの実力と創造力の賜物であり、名音楽家たちの通過点を捉えたスナップショットと言えるのかもしれません。

NYに来て2度目の夏、フラナガンはJ.J.ジョンソンのレギュラー・ピアニストとして初の国外ツアーに出発。スウェーデン、ストックホルムで、あの『Overseas』を録音することになります、

 (Sources)
The Complete New Yorker DVDs (2004)
Before Motown Lars Bjorn & Jim Gallert 著 The University of Michigan Press (2001)
Tommy Flanagan Interview by Loren Schoenberg WKCR NY,1990
Rutgers University, Kenny Clarke Oral History Interviews
The Café Bohemia Story
スミソニアン国立歴史博物館所蔵 NEA JAZZ MASTER INTERVIEW-Kenny Burrell (2010)
Swing to Bop, Ira Gitler著, Oxford University Press (1985)
Reflectory, The Life and Music of Pepper Adams, Gary Carner著 e-book (2022)
筆者へのトミー・フラナガン談


 

Café Bohemia ジャズメン・デトロイトのショウケース(その1)

J.J.ジョンソン・クインテットの《Cafe Bohemia》ライブを捉えた放送音源

 Jazz Club OverSeasでは、今年の春から、寺井尚之のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」の第3巡目が始まりました。今月は、トミー・フラナガンがスウェーデンで『Overseas』を録音するきっかけになったJ.J.ジョンソン・クインテットの『Live at Café Bohemia 1957』が登場します。

 マイルス、ド-ハム、ミンガス、ジャズ・メッセンジャーズ…数多くのライブ録音が残る『カフェ・ボヘミア』はNYのウエストヴィレッジで1955-60年の間営業していました。その当時のグリニッジ・ヴィレッジは今とは大違い、NYの場末と言われる地域、定職のないアーティストやミュージシャン、詩人たちのコミュニティがありました。自由奔放に世界を彷徨い人生を謳歌するジプシー(ロマ族)の起源がチェコのボヘミア地方であることから、ヴィレッジの自由人たちボヘミアンと呼ばれいて、それが店名の由来です。

 ボヘミアの哀愁ある響きに興味を抱いた私は、フラナガンの死後、ダイアナ夫人や、ピアニストでジュリアードの先生だったフラナガンの親友、ディック・カッツさん、果てはジャズ史家アイラ・ギトラー氏にまで、根掘り葉掘りカフェ・ボヘミアの話を聞いて回りました。あれから15年、インターネット情報や新たな研究本から、《カフェ・ボヘミア》が、フラナガンやケニー・バレル、ペッパー・アダムスなど、1956年頃デトロイトからNYに進出してきた多くのミュージシャンがチャンスを得た意義深い場所であることがわかってきました。

 偶然のジャズクラブ

 

ボヘミアの前身”The Pied Piper”で演奏するDenzil Best,Flip Phillips, Billy Bauer (左から)撮影 William Gottlieb (米国国会図書館HPより

《カフェ・ボヘミア》の場所はウエストヴィレッジのバロウ・ストリート15番地は、現在《エール・ハウス》というビールの美味しいスポーツ・バーになっています。2020年、同じビルの地下に新しい《カフェ・ボヘミア》がオープンした矢先、不幸にもパンデミックが起こり現在は休止中。 

 時は遡り、52丁目がジャズのメッカとして隆盛を誇った第二次大戦中の40年代半ば、ここは《パイドパイパー》という名で、ジェームス・P・ジョンソンやピーウィー・ラッセル、メアリー・ルー・ウィリアムズや伝説のドラマー、デンジル・ベストなどスイング系の名手が出演する店だった。やがて、52丁目の衰退に呼応するかたちで、49年に閉店。この物件を買ったのが地元育ちのバーテンダー兼新進気鋭の事業主、当時35才のジミー・ジャロフォーロ(Jimmy Giarofolo )で、ジャズには全く関心のない人物。ここで6年間レストランやストリップ酒場など業態を変えながら商売したが、一向に儲からない。そうこうするうちに、近隣に住むミュージシャンたちが店の常連になり、演奏するようになります。

 無銭飲食の男 

チャーリー・パーカー(1920-55)

 ある日、そんな連中の一人がやってきてブランデー・アレキサンダーをグビグビ飲み、挙句の果てに、金がないと言います。そして、借金を返したいからここで演奏すると突飛な提案をした。その男の名はチャーリー・パーカー。ギャルフォーロは彼が何者かは知らなかったが、ともかく表に「チャーリー・パーカー出演」と掲示。そうすると、あれよあれよと来客数が倍増!今度バードの出演する店がどんなところ?というわヶでジャズファンが大挙して下見にきたのです。まるで落語の「抜け雀」。結局のところ、パーカーは同年3月に亡くなり、出演は叶わなかったのですが、この事件を機にギャルフォーロはモダンジャズの店にかじ取りを決意し、パーカーと一緒に演奏する予定だったテナー奏者、アレン・イーガーがアドバイザーとなり、イーガー自身と、ドラムにケニー・クラーク、ベースにオスカー・ペティフォード、ピアノにデューク・ジョーダンという強力リズムセクションを従えたハウス・バンドを結成するものの、お金持ちの美人にモテモテでハスラーとしても忙しいイーガーが真っ先に戦線離脱。結局ジャズ・クラブ《カフェ・ボヘミア》の杮落しは、クラーク(ds)、ペティフォード(b)と、ピアノにホレス・シルバー、フロントはハンク・モブレー(ts)、アート・ファーマー(tp)という、これまた素晴らしいメンバーで1955年5月30日、大成功をおさめ、伝説的クラブは船出することになります。

つづく

 

 

ジョージ・ムラーツ追悼文by エミール・ヴィクリツキー(p)

George Mraz (1944-2021) photo taken by Shinji Kuwajima at OverSeas Club

 コロナと訃報の2021年、ジミー・ヒース、スタンリー・カウエル、ニッセ・サンドストローム…親しく接していただいた巨人たちが次々と亡くなり、9月16日、プラハでジョージ・ムラーツがひっそりと世を去った。

 ジョージ・ムラーツさんは、寺井尚之とともに、トミー・フラナガンの次に触れ合う機会の多い巨人であり、アニキだった。

 寺井尚之にとっては初恋のベーシストであると同時に永遠のベーシストだった。何度も共演レコーディングのチャンスはあったけれど、師匠フラナガンの最高のパートナーであったから、義理を立て録音はしなかった。もう二度とその機会はないけれど、それでよいと思う。

 悲しすぎて涙が出ないということがある。たくさんある思い出も何を書けばよいのかわからない。

 これまで、公にされていなかったジョージ・ムラーツさんのご家族の悲劇や亡命の真相などを、同じチェコ出身のピアニストとして何度も共演し、親交深かったエミール・ヴィクリツキーさんが、英国ロンドンのジャズニュースに追悼文を寄稿されていたので、ここに翻訳文を掲載します。原文はLondon Jazz News 9/20, 2021

 永遠のアニキ、ジョージ・ムラーツさんのご冥福を心よりお祈りします。

George Mraz (1944-2021). A tribute by Emil Viklický

 去る2021年9月16日、ベーシスト、ジョージ(ジリ)・ムラーツが死去した。享年77。かつてロン・カーターはムラーツについてこう述べた。-「最高に素晴らしい音選び+秀逸なイントネーション+ビューティフルなサウンド+ナイスガイ=ジョージ・ムラーツだ。」

 ピアニスト、リッチー・バイラークは彼をこう評する。「ジョージは、こちらが聴きたいと思う音をぴったり出してくれるし、まるで、自分がベースを発明したかのような演奏ぶりだ。」 

以下は、チェコのピアニスト、エミール・ヴィクリツキーが、よき友であり音楽仲間であったムラーツの思い出を語る追悼の言葉である。

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=父を奪ったソ連軍侵攻=

 2007年のことだ。ジョージ・ムラーツと私は、ブルノ(チェコ共和国第2の都市)でのコンサートの後、ホテルのバーで一杯やっていた。いつになくジョージは饒舌で、白ワインを片手に、昔話や現在の話題に花を咲かせた。 

 そううしていると、ブルノの中心にそびえ立つ聖ヤコブ教会の塔を一望できるホテル最上階のバーの客は、急に我々だけになってしまった。小雨降る静かな夜、店じまいして帰りたがるバーテンダーをなだめようと、モラビア産ピノ・グリの上物をボトルで注文し、チップをはずんだ。おかげで、バーテンダーが退出した後も、我々は居残って話を続けた。

 ジョージは、1968年8月にソ連がチェコ侵攻した直後、事故死した父親のことを話し始めた。ソ連軍の戦車が市街に侵入し、通行優先権は路面電車にあることにお構いなしだった。戦車は、ジョージの父が乗っていた路面電車に突っ込んだ。そのため、戦車の主砲が電車の窓を突き破り、ジョージの父の頭部を直撃したのだ。後の調査でジョージは知った。お父さんは、最初座っていたが、事故の一瞬前に乗ってきた年配の女性に席を譲って立っており、そのために犠牲になったのだった。席を譲られた女性に怪我はなかった。ソ連軍が関与する事故であったので、チェコ警察はそれ以上の捜査を禁じられたという。この事件が、ジョージにとって祖国を離れる決定的な動機になったのである。 

 そのあと、ジョージは、私がなぜ数学の世界と決別したのかを尋ね、その理由を面白そうに聞いた。そして、モラビアのホレショフかクロメルジーシュの中学校で数学を教えていた彼自身の祖父の話をはじめた。退職後も、大学受験生に数学を教え続けた先生だったそうだ。

 このおじいさんは長命で、私は、きっとジョージも病を克服して長生きできると固く信じていた。骨折したり重病を患っても、彼はいつも瞳を輝かせ、元気を回復させてきた。だから、古びてはいるものの居心地の良いプルゼニ (チェコ、ボヘミア州) のホテルの部屋に飛び込んできた彼の訃報は、私を大きく打ちのめした。近くの駅から聴こえてくる列車の音を聴きながら、その夜は一睡もできなかった。

 ジョージがチェコスロバキアを離れたのは1968年、やがて彼は米国に移住した。ボストンのバークリー・カレッジ籍を置いたが、ボストンに付いたその日から、ピアニストのレイ・サンティニは彼にレギュラーの仕事を与えた。ほどなく、ジョージはNYに進出した。

=ジョージとの出会い= 

 私とジョージが直接出会ったのは1975年になってからだ。それ以前、私はチェコのオロモウツで数学を学んでいた。1971年に5年間の学業を終えた私は、博士号を目標にしていた。だが、そんな私に学部長は言った。「君の作った対称式などどうでもよい。博士号が欲しければ、マルクス主義に専念したまえ。」 私は論文の提出を放棄し、プラハに移り住んでジャズ・ピアニストに転身したのだった。

 1974年9月、私はチェコのトップ・ジャズ・バンド、カレル・ヴェレブニー SHQカルテットに加入した。それはジョージが移住する前に所属していたバンドでもあった。翌1975年、SHQカルテットはユーゴスラヴィアのベオグラード・ジャズフェスティバルに出演。ところが、手違いがあり、コントラバスを持参できず、現地で楽器を調達せねばならなくなった。幸運なことに、我々の出番の次がスタン・ゲッツ・カルテットだったのだ。メンバーは、ジョージ・ムラーツ(b)、アルバート・デイリー(p)、ビリー・ハート(ds)だった。そこで、ジョージは、快くフランチシェク ウフリーシュに自分の楽器を貸してくれたのだった。その夜のことはよく覚えている。なぜなら、アルバート・デイリーが私のプレイを誉めてくれたからだ。だが、スタン・ゲッツにとっては、必ずしも楽しい夜ではなかった。彼は時計ばかり眺め、本番でジョビムのスロー・ボサ〈O Grande Amore〉のプレイ中、デイリーのピアノ・ソロを遮り、バンドに退場するよう命令した。聴衆の拍手は10分ほど鳴りやまなかったが、スタンはアンコールに応えなかった。ひどい話だ。きっと主催者側と何かもめごとがあったのだろう。 

 幸運にも我々SHQはスタンたちと同じホテルに投宿しており、終演後、ジョージと話す機会に恵まれた。フランチシェクも私も彼のうわさはいやというほど耳にしていた。その夜は、彼が話す面白いエピソードの数々をむさぼるように聞いた。-それは、ドイツでのオスカー・ピーターソンとの共演に始まり、スタン・ゲッツ・カルテットがロンドンに行ったときにエリザベス女王に謁見した話まで、ありとあらゆる話題だった。やがて、カレル・ヴェレブニーが、スタン・ゲッツのサインをチェコのジャズ・ファンへのお土産にしたいと言いだして、20枚ほどの絵葉書をジョージに手渡そうとした。その途端、ジョージじゃ大笑いした。「マジかい?今夜スタンに頼めって言うのか?!」そしてジョージは名案を思い付いた。「よし、その絵葉書と鉛筆をくれ。」そう言うと、彼は一枚ずつゆっくりとサインを始めた。Stan Getzと!書き終えると、彼はいたずらっぽく微笑みを浮かべて言った。「この絵葉書のスタン・ゲッツのサインが僕の作だとわかる奴なんか世界中探してもいるもんか。」

 =エンパシー能力=

 ジョージは回想録執筆の依頼を何度も受けていた。誰でも、彼には数多くの興味深いエピソードがあることはわかるだろう。英国チェルトナム在住、『Moravian Gems』のプロデューサー、ポール・ヴルチェクはジョージに自伝を書くように勧めていた。だが、私の知る限りでは、ジョージは首を縦に振らず、これらの逸話は我々ミュージシャンだけのものとなってしまった。

 1999年のクリスマス、ジョージは、プラハの《ヴィオラ劇場》に、私のトリオと、ヴォーカリスト兼ダルシマー奏者のズザナ・ラプチーコヴァーを観に来てくれた。終演後、彼は、モラビア民謡をアレンジしたものを、Milestone/Fantasy Recordsに一緒に録音しないかと言ってくれた。驚いた私は「君は一体何本ビールを飲んだんだい?」と尋ねたほどだったが、彼の表情は真面目そのものだった。その結果できたCDが『Morava』(MCD 9309-2 in NYC)で、ビリー・ハートとズザナが参加している。このアルバムの数トラックをかけていたら、伝説的プロデューサーのトッド・バルカンが言った。-「ジョージのメロディック・センスの源泉がどこなのか、やっと判った!」 トッドは、ジョージ・ムラーツの至高の音楽性、ハートフルなリリシズムとスイング感ゆえ、敬愛の念を込めて、彼を “バウンセアロット卿”と呼んだ。加えて、ジョージには、最高の音楽的エンパシー能力があった。共演者のアイディアを瞬時に察知し、本人が気づかないうちに、そのアイディアを高め、二手三手先まで見通すという超能力の持ち主だった。

 Mr.バウンス、別名”ヤバいチェコ人(bad Czech)”-ジャズ史上最高のベーシスト、ジョージ・ムラーツは多くの人々に惜しまれながら世を去った。

written by エミール・ヴィクリツキー、ピアニスト

Emil Viklický (L) and George Mraz. ACT Music/ Marc Dietenmeier

 *チェコ人ミュージシャンのカナ表記は、指田勉氏にサポートいただきました。この場を借りてお礼申し上げます。

ジミー・ヒースが遺した音楽の 6か条

Jimmy Heath 1926-2020

 2020年1月に93才で亡くなった偉大なるホーン奏者、ジミー・ヒース、フィラデルフィア出身、そして第二の故郷はNYだ。ジミーは晩年体調を崩し、娘さんの住む南部に転居するまでは、NYクイーンズ、コロナ地区にある歴史的公営住宅、ドリー・ミラー・コーポの一室に50年以上住んでいた。一度、夕ご飯に招待してもらい、夫と伺ったことがある。日本の団地のようなアパートの壁にはチャーリー・パーカーはじめジャズの巨人たちのポートレート、広々とした室内にはピアノがあり、窓の外にはUSオープン・テニスが開催されるコロナ・パークが一望できた。

 ジミー・ヒースのような巨匠が他界すると、お葬式と別に音楽葬が行われるのがジャズ界の慣習で、リンカーン・センターのローズホールでコンサートが予定されていたのですが、コロナのために延期になってしまった。その代わりというべきか、地元クイーンズの<フラッシング・タウンホール>がとても素敵なトリビュート動画を作成している。


 このホールでジミーが晩年に行ったコンサートの模様と、家族やミュージシャン達のコメントがうまく組み合わされていて、常に皆に温かく接してくれた生前の巨匠の姿がしのばれます。

 登場するのは、ジミー最愛の妻、モナさんや娘さんのロスリン、ヒース・ブラザーズ唯一の生き残りになったアルバート”トゥティ”ヒース(ds)や息子のムトゥーメ(perc)はじめ、ジミーゆかりのミュージシャン達:愛弟子アントニオ・ハート、バリー・ハリス、パキート・デリベラ、デヴィッド・ウォンなど多くの人々がオンライン上でそれぞれ思い出を語り、彼の曲を演奏したり…そのヴィデオ・クリップと、ジミー・ヒースが少年のように嬉々としながら、クイーンズ・ジャズ・オーケストラを指揮するコンサートの模様が重なり、ジーンときます。

 中でも印象的だったのは、ジミーのレギュラー・ピアニストだったジェブ・パットン(左写真)が伝えてくれた「ジミー・ヒースの教え」です。ジェブはサー・ローランド・ハナとジミー・ヒースに大変可愛がらた才能豊かなピアニストです。15才で父親と死別した彼にとって、ジミーは父親のような存在だったといいます。そんなジェブにジミーが授けた言葉は、ジャズを志す全てのミュージシャンにとって大切なことばかり!

 *上のヴィデオで33分辺りから彼のコメントと演奏が聞けます。 

=ジミー・ヒースの教え=

(1)Tell your story.– 自分自身のストーリーを音楽で語れ。

(2) What was good Is good.- 良いものは時代を越えても色褪せない。

(3)Music gotta have a groove.-グルーヴは音楽に不可欠。

(4)Music is all around us, it’s in the air. No one has a monopoly on music.
   – 音楽は我々みんなの周りに分け隔てなく存在し、空気中に漂う。だから、音楽を独占することは誰にもできない。

(5)Music should have science but it always should have hearts.
   – 音楽には理論体系が必須だが、どんな場合も常に”心”を伴わなければならない。

(6)最後はジミーがディジー・ガレスピーから受け継いだ音楽家の立ち位置についての名言です。
  Always have one foot in the past, one foot in the future.
– 常に片足を過去の伝統に、もう片方の足を未来に置いて立て。

   ジェブさん、金言を公表してくれてありがとう!

What was good Is good! ジミー・ヒースの音楽をいつまでも聴き続けます!

 季刊「ジャズ批評」(217号)にジミー・ヒースについての記事を寄稿しました。