夢のピアノジャズクラブ《ブラッドリーズ》と太平洋戦争のこと(2)

= 余りにもNY的な=

その昔、グリニッジ・ヴィレッジにあったジャズ・クラブ、《ブラッドリーズ》の音楽的全盛期は1970代中盤から、オーナーのブラッドリー・カニングハムが病に倒れる’80年代後期までと言われている。

 なにしろ、トミー・フラナガン+レッド・ミッチェル or ジョージ・ムラーツ or ロン・カーター、ハンク・ジョーンズ+ロン・カーター、ケニー・バロン+バスター・ウィリアムズといった極上のピアノ・デュオが、毎夜、ほぼ生音で聴けた。深夜2時から始まるラスト・セットは、多くのミュージシャンが集うNYジャズのコミュニティの中心地の様相を呈していた。一方、この店の奥に行けば、コカインなどの違法薬物が手に入るという噂も、(確認はしていないけど)NYたる所以。地元のジャズ・コミュニティの中では、セロニアス・モンクがその人生最後に(飛び入りではあるけれど)公衆の前で演奏した歴史的聖地としても知られている。出演形態が「デュオ」というのは、当時のキャバレー法で三人以上のライブが制限されていたこともあるけれど、なによりも、1対1の対話形式のジャズが、ブラッドリー・カニングハムの好みだったのかもしれない。

撮影:阿部克自

  ブラッドリーは、トミー・フラナガンやジミー・ロウルズといったお気に入りミュージシャンがやって来ると、時にはピアノの手ほどきを受けながら、朝まで一緒に飲み明かした。

 その時間をブラッドリーは「人生で最高のひととき」と語る。彼の波乱万丈の人生の中、音楽の対話こそが癒やしだったのかもしれない。

=玉砕のテニアンからナガサキまで= 

 ブラッドリー・カニングハムは、1925年(大正15年)生まれです。戦争中、学徒動員に明け暮れた私の両親より少し上の世代で、戦地に赴いた元軍人だった。彼の両親は幼いころに離婚し、母親に育てられた。彼の父親は家を出ていく前日に、そんなこととは知らない6歳のブラッドレイを、スチュードベーカーのどでかいコンバーチブルに乗せて遊びに連れていってくれた。そして、最高に楽しい一日の終わりに、息子は唐突な別離を宣告された。ブラッドリーは、そのときのショックを一生引きずって生きたのかもしれない。以降、全米各地を転々とし、ようやく大学に入学した頃には第二次大戦が始まっていた。

 1943年、ブラッドリーは、海外での武力行使を前提とする海兵隊に志願した。それは、愛国心というより、徴兵されて陸軍に行かされるより海兵隊に志願したほうがまし、という選択だったたらしい。戦艦アイオワに乗り、パナマ運河からハワイ経由で、日米の激戦地、玉砕の島として歴史に刻まれるマリアナ諸島のテニアン島へ…そこで、おびただしい数の日本兵が絶壁から身を投げて自決するのを目の当たりにした。 

 テニアン島制圧後、ブラッドリーは上層部の命令を受け、サイパンの米軍日本語学校でみっちり敵国語の勉強をすることになった。彼の堪能な日本語は海兵隊時代に培われたものだった。日本陸軍は入試科目から英語を撤廃したが、アメリカは戦争の先を見据え、敵を熟知しようとしたんですね。1945年4月、研修を終えた彼は沖縄に向かい、日本兵の投降を呼びかけ、捕虜となった兵士の尋問を担当した。ひょっとしたら、沖縄上陸作戦時に通訳として動向した日本文学者、ドナルド・キーン氏との邂逅があったのかもしれない… 捕虜尋問の際、ブラッドリーが驚いたのは、日本兵が自分の認識番号を知らなかったこと!日本兵にとって「捕囚」は汚辱であり、「捕虜」になることがもとより想定されていなかっというのは更に驚くべきことだった。

 

 1945年8月9日、長崎市に第二の原爆が投下され終戦を迎えた直後、ブラッドリーは長崎に上陸する。ホイットニー・バリエットのインタビューで、ブラッドリーは、自分の従軍体験について、かなり仔細に語っているが、被爆後のナガサキについては、「皆の言うように、実に悲惨だった。」と言葉少なだ。ナガサキの惨状を見たブラッドリーは除隊を決意、翌1946年に帰国し、大学に戻ったが、不安症候群に陥り休学を余儀なくされた-今で言うPTSDだったのでしょう。以来、職を転々としNYに落ち着いてからも、アルコールと薬物中毒に陥り、何度か入退院を繰り返した。

 ブラッドリーは、雑誌NewYorkerのインタビューの中で、本国に帰還する頃には「日本という国と、日本人が大好きになっていた。」と語っている。《ブラッドリーズ》を訪れた日本人客に、積極的に日本語で話しかけていたのは、そういう理由があったのですね。 

 見かけは大柄のタフガイだったブラッドリー・カニングハム、彼がデュオという形態を愛したのは、音楽の会話が、生涯癒えることのなかった戦争の痛みを癒やしてくれたからではなかったのかな?

 民間人を含め、おびただしい数の人々が犠牲になった南方の戦地に赴き、敵国後として習得した彼の日本語が、日本から訪れるジャズ愛好家の心を癒すことになったというのは、感慨深いものがあります。

 ブラッドリー「トミー(フラナガン)は快活でウィットがある。彼と一緒に居るのは好きだね。10年ほど前の、ニューポート・ジャズフェスティバルの間、トミーエラ・フィッツジェラルドの伴奏でこっちに来ていて(訳注:その頃フラナガンはアリゾナに住んでいた。)、その空き日に出演してもらったことがあった。ジョージ・ムラーツとのデュオだったが、初日に、客が誰も来なかったんだ。トミーの知り合いも誰も来なかった。
 私もこの業界で長くやってるから、こんなことがあるのは承知の上さ。成す術なし!せいぜい肩をすくめて、お手上げのジェスチャーをするのが精一杯さ。

 トミーとジョージはあたりを見回し、顔を見合わせるばかりだった。しかし、このデュオは音楽的に一体だった!その夜、閉店後の二人のちょっとした演奏は、私が今までに聴いたこともないほど独創的でスイングしていたなあ。すべからくピアニストたる者は、まず聴く者を笑わせてから、笑った彼らの同じ心が張り裂けるほどの感動を与えなくてはならない。トミーの演奏は、まさしくその手本だ!」(Barney, Bradley, Max: Sixteen Portraits in Jazz/Whitney Balliett著より)

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参考文献
  • The New Yorker, February 24, 1986
  • The New Torker, October 11, 1982
  • BarneyBradley, and Max: Sixteen Portraits in Jazz /Whitney Balliett著(Oxford University Press)
  •   The Perfect Jazz Club / Nat Hentoff(Jazz Times)
  •   The Bradley’s Hang (Ted Panken)
  • Bradley’s (David Hadju, John Carey)

 ー終戦の日に-

夢のピアノジャズクラブ《ブラッドリーズ》と太平洋戦争のこと(1)

 

 トミー・フラナガン&ジョージ・ムラーツ・デュオの名盤『バラッズ&ブルース』(Enja)を聴いていると、その昔、このデュオが頻繁に出演していた《Bradley’s (ブラッドリーズ)》というクラブを懐かしく思い出しました。

 《ブラッドリーズ》(1969-’96)は、NY大学の近く、グリニッジ・ヴィレッジのワシントン広場の近くにあったピアノ・ジャズ主体のクラブだった。《ヴィレッジ・ヴァンガード》や《ブルーノート》といったNYの主要ジャズ・クラブはシアター形式で。旅行者の多い観光スポットだったが、ここは地域密着型のカジュアルで清潔な店だった。純白のテーブルクロスがかかる食卓にはキャンドルが点っている。早い時間帯は、おいしいカクテルとお料理目当てのホワイトカラー(当時はYuppieって呼ばれてた。)でにぎわう。フラナガンの奥さんは「ヤッピーたちは音楽を聴かずに、大声でおしゃべりするのよ!」と怒っていたっけ…

 ’69年の開店当時(’69)のライブ事情は、店主のブラッドリーがロイ・クラール(ジャッキー&ロイの)のエレクトリック・ピアノを150ドルで譲り受け、それをジョー・ザヴィヌルやデイヴ・フリッシュバーグが演奏するというものだった。だが、店の常連であったポール・デスモンドが、それを見かねてボールドウィンのグランドピアノを寄贈したことが転機となった。デュオ主体で、ほとんど生音の、極上の生演奏が楽しめるクラブになったらしい。

 開店当初は閑古鳥が鳴いていたのだけど、ウディ・アレンが《ブラッドリーズ》でくつろぐ写真が雑誌に載ったことから、爆発的にお客が増え、繁盛店になったのだとか。

 ブラッドリーは音楽の趣味がよく、ビリー・ストレイホーンが大好き、そして、トミー・フラナガンが大好きだった。彼は1988年に63才の若さで亡くなり、その後を未亡人のウエンディが引き継いだ。代替りしてからは、ドラムやホーンが盛んにブッキングされるようになったが、不慮の火事で’96年に閉店、それ以来、この場所は《Reservoir》というスポーツ・バーになっている。

 フラナガンは’88年までは《ブラッドリーズ》で頻繁に演奏し、レッド・ミッチェル(b)やジョージ・ムラーツ(b)と日常的に共演を重ねた。そうして磨きぬいたマテリアルを、ピアノ・トリオによるレコーディングに用い一段とスケールアップさせた。そんなプロセスの中で生まれたアルバムが、ミッチェルとのデュオ・アルバム『You’re Me』(’80 Phontastic)であり、ムラーツとの『バラッズ&ブルース』(’78 Enja) だった。前者はミッチェル作のタイトル・チューン+スタンダード曲、後者は、〈With Malice Towards None〉〈They Say It’s Spring〉という、後にフラナガン・トリオの名演目となる作品の初期ヴァージョンが聴けて興味が尽きません。斬新なアイデアと、自由闊達で息の合った品格ある演奏内容は、《ブラッドリーズ》という場所があったからこそ、時間をかけて熟成できたに違いない。この店が当時のピアノジャズに果たした役割は計り知れません。

 もし《ブラッドレイズ》で、この二人が頻繁に演奏していなければ、『バラッズ&ブルース』の完成度に到達することはなかったでしょう。フラナガンのみならず、ハンク・ジョーンズ、ケニー・バロン、ジミー・ロウルズ、ジョン・ヒックスなどなど、この店に常時出演した多くのピアニストやベーシスト達がデュオという演奏形式を発展させる貴重な場を提供したと言えます。

 

=夢のジャズ・クラブ=

或る夜のBradley’sの風景-カーメン・マクレエがフラナガンームラーツのデュオに飛び入り!
写真:阿部克自

《ブラッドリーズ》は、朝まで営業していた。夜が更けると、騒々しいヤッピーたちは退散し、ヴィレッジ界隈の主要ジャズ・クラブの出演ミュージシャンや、その演奏を聴いて勉強していた若手ミュージシャン、それにパパ・ジョー・ジョーンズ(ds)のような大御所さま… ありとあらゆるジャズ界のメンバーがやって来た。運が良ければパノニカ男爵夫人にさえ会えた。ジャズを愛する人にとっては、最高の社交場!

 私たちを初めて《ブラッドリーズ》連れて行ってくれたのはトミー・フラナガンで、寺井尚之を色んな人に紹介し、挙句の果てに、レッド・ミッチェル(b)に推薦して共演するという思い出もあります。

 宿泊ホテルにアーサー・テイラー(ds)から電話がかかってきて「ベイビー、僕は明日の晩、《ブラッドリーズ》に行っているからヒサユキと一緒においで。」なんて言われたら、もう有頂天でした。

=店主 ブラッドリー・カニングハム=

Bradley Cunningham: Bradley’s のFBページより。

 そんな夢の空間のオーナー、ブラッドリー・カニングハム(1925-88)は伝説のバーテンダーとも言われている。シカゴで生まれ、色んな土地を渡り歩きNYに落ち着いた。小さなバーを開店し、利益が出たら売却するということを繰り返し、《55bar》を経て’69年にオープンしたのが《ブラッドリーズ》で、これが彼の最後の店になった。ブラッドリーはサスペンス映画に出てきそうな大男、最高のカクテルを供し、話し上手、聞き上手、喧嘩が強くてピアノも上手、おまけに日本語も堪能だった。彼が出演を依頼したピアニストはテディ・ウイルソン、ハンク・ジョーンズ、フラナガン、サー・ローランド・ハナ、バリー・ハリス、ケニー・バロン…ピアノの鍵盤を「叩く」のではなく「弾く」ピアニストをブラッドリーは好んだ。そして、お気に入りの作曲家はビリー・ストレイホーンだった。そんな趣味の良い人選で、《ブラッドリーズ》に出演することは、一流ピアニストの証になっていった。 

 ブラッドリーの誕生日は、ジョージ・ムラーツ、エルヴィン・ジョーンズと同じ9月9日で、バースデー・パーティはいつも三人一緒だったそうです。ムラーツはブラッドリーの一人息子の名前をとった〈Jed〉という曲を作って、サー・ローランド・ハナのアルバム『Time for the Dancers』(’77, Progressive)に収録しています。

(続く)

Café Bohemia ‐ジャズメン・デトロイトのショウケース(その2)

在りし日の《カフェ・ボヘミア》

栄枯盛衰

  • その1-プログレッシブ・ジャズ(ハードバップ)のみ。
  • その2-ロックンロールなし。歌のおネエちゃん、ビッグバンドなし。
  • その3-スモール・ジャズ・コンボ以外すべてなし

 上の3か条で運営された《Café Bohemia》は100席ほどでNYのクラブにしては小さい。料理はなく、ドリンク提供のみ。1955~60年の営業期間だったとされている。そこで、有名ジャズ・クラブの演奏スケジュール欄を毎週載せていたThe New Yorkerのアーカイブを週ごとに辿っていくと、推移がわかってくる。

The New Yorker タウン情報Mostly Music欄より(1957 7/27号)

1956, 4/28-「他所では聴けない新進ミュージシャンのトライアウトの場」

1957, 7/27-「ヴィレッジ界隈の事情通の内緒話では、学究系マイルス・デイヴィス五重奏団とキャノンボール・アダレイのモーレツ5人組が出るらしい。」

 NewYorkerならではのビミョーな紹介文だが、店のマネジメントが不安定だったのかもしれない。状況は加速し、1958年5月以降は「予定ミュージシャンの出演は五分五分」となり、同年7/12号を最後に、《Café Bohemia》の案内自体が同誌から消滅する。52丁目の《Birdland》やブロードウエイ51丁目の《Basin Street Café》と並び “3B(The Three Bs)”と言われた時期はせいぜい2年ほどだった。

一方、《ボヘミア》が華々しくオープンした当初の1955~6年は、トミー・フラナガンたち、デトロイトの若手ミュージシャンが大挙してNYにやってきた時期と一致している。

デトロイト~NY 新旧ジャズメンのウィンウィンな関係

1955年から56年にデトロイトからNYに進出したジャズ・エリートは、ドナルド・バード(tp)、ポール・チェンバース(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)、ペッパー・アダムス(bs)、ケニー・バレル(g)、トミー・フラナガン(p) …思いつくだけでもこんなに居る。

 《ボヘミア》を舞台に、彼らをバックアップしたのが、ケニー・クラークとオスカー・ペティフォードだった。

セロニアス・モンクトリオで演奏する
ケニー・クラーク(ds)&オスカー・ペティフォード(b)

 クラークは、ニューカマーのデトロイターたちの面倒を親身に見てくれた叔父貴のような存在だ。ビバップの創造者の一人であるクラークは、当時40代にさしかかったころで、多方面にコネを持ち、SavoyPrestigeBlueNote といった新興ジャズ・レーベルのハウス・ドラマー兼企画アドバイザー的な役目をしていた。

そんなクラークは、新参者のフラナガンたちを即戦力と見込んで、《カフェ・ボヘミア》のステージに上げ、NYでの認知度をアップさせ、ギグやレコーディングの仕事をせっせと斡旋した。「NYに来たばかりで仕事のない頃サポートしてくれた数少ない恩人」-バレルは後年のインタビューでクラークをこう表現している。

 歴史的名盤を含め、当時のジャズのレコーディングの大部分は、A&Rディレクターが、大雑把な企画で適宜ミュージシャンを招集、スタジオで簡単に打ち合わせして1テイクでばっちり仕上げるという低予算プロジェクト。だから、サイドメンはほどほどのギャラに見合わない、一流の腕とアイデアがないと務まらない。そんなニーズにぴったりだったのが、デトロイトから出てきたフラナガンたちだった!

クラークは、従来の濃いめなNYハードバップと一味違い、すっきり洗練されたデトロイト・スタイルによるアルバム企画を立て、自ら演奏にも参加した。

 オジー・カデナがプロデュースしたデトロイト・ハードバップの秀作『Jazzmen Detroit』(左写真 Savoy, 56)や、アルフレッド・ライオンのプロデュースで、ケニー・バレルがダウンビート誌の新人賞を勝ち取った『Introducing Kenny Burrell』(Blue Note, 56)など、バレル一連の初期アルバムの仕掛け人はすべてクラークで、大部分のドラムはクラーク。まさに、ウィンウィンな関係だったのだ。

一方、音楽的理想に全てを賭けるオスカー・ペティフォードは、《ボヘミア》のセッションでフラナガンに即白羽の矢を立て、ABCパラマウントでクリード・テイラーが制作した、超ド級ビッグバンド作品『Oscar Pettiford in Hi-Fi』(56)に起用。《ボヘミア》つながりで、J&Kaiを休止して一本立ちを画策するJ.J.ジョンソンのレギュラーとなる。 

また、ペッパー・アダムス(bs)の稀有な才能に注目し、スタン・ケントン楽団に推薦したのもペティフォードだ。

『Introducing Kenny Burrell』録音中のクラークとフラナガン26才
(56, Francis Wolff 撮影)

 短命ながら、今もジャズファンの記憶に残る《ボヘミア》は、フラナガンたち若手のNY進出のスプリングボードとしてなくてはならない場所だったんですね!

トミー・フラナガンは、NYに来てわずか数週間で、様々なレコーディング・セッションに引っ張りだこのピアニストになった。現在は歴史的名盤といわれるハードバップ期のレコーディングの大部分は、強烈な仕事人たちの実力と創造力の賜物であり、名音楽家たちの通過点を捉えたスナップショットと言えるのかもしれません。

NYに来て2度目の夏、フラナガンはJ.J.ジョンソンのレギュラー・ピアニストとして初の国外ツアーに出発。スウェーデン、ストックホルムで、あの『Overseas』を録音することになります、

 (Sources)
The Complete New Yorker DVDs (2004)
Before Motown Lars Bjorn & Jim Gallert 著 The University of Michigan Press (2001)
Tommy Flanagan Interview by Loren Schoenberg WKCR NY,1990
Rutgers University, Kenny Clarke Oral History Interviews
The Café Bohemia Story
スミソニアン国立歴史博物館所蔵 NEA JAZZ MASTER INTERVIEW-Kenny Burrell (2010)
Swing to Bop, Ira Gitler著, Oxford University Press (1985)
Reflectory, The Life and Music of Pepper Adams, Gary Carner著 e-book (2022)
筆者へのトミー・フラナガン談


 

Café Bohemia ジャズメン・デトロイトのショウケース(その1)

J.J.ジョンソン・クインテットの《Cafe Bohemia》ライブを捉えた放送音源

 Jazz Club OverSeasでは、今年の春から、寺井尚之のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」の第3巡目が始まりました。今月は、トミー・フラナガンがスウェーデンで『Overseas』を録音するきっかけになったJ.J.ジョンソン・クインテットの『Live at Café Bohemia 1957』が登場します。

 マイルス、ド-ハム、ミンガス、ジャズ・メッセンジャーズ…数多くのライブ録音が残る『カフェ・ボヘミア』はNYのウエストヴィレッジで1955-60年の間営業していました。その当時のグリニッジ・ヴィレッジは今とは大違い、NYの場末と言われる地域、定職のないアーティストやミュージシャン、詩人たちのコミュニティがありました。自由奔放に世界を彷徨い人生を謳歌するジプシー(ロマ族)の起源がチェコのボヘミア地方であることから、ヴィレッジの自由人たちボヘミアンと呼ばれいて、それが店名の由来です。

 ボヘミアの哀愁ある響きに興味を抱いた私は、フラナガンの死後、ダイアナ夫人や、ピアニストでジュリアードの先生だったフラナガンの親友、ディック・カッツさん、果てはジャズ史家アイラ・ギトラー氏にまで、根掘り葉掘りカフェ・ボヘミアの話を聞いて回りました。あれから15年、インターネット情報や新たな研究本から、《カフェ・ボヘミア》が、フラナガンやケニー・バレル、ペッパー・アダムスなど、1956年頃デトロイトからNYに進出してきた多くのミュージシャンがチャンスを得た意義深い場所であることがわかってきました。

 偶然のジャズクラブ

 

ボヘミアの前身”The Pied Piper”で演奏するDenzil Best,Flip Phillips, Billy Bauer (左から)撮影 William Gottlieb (米国国会図書館HPより

《カフェ・ボヘミア》の場所はウエストヴィレッジのバロウ・ストリート15番地は、現在《エール・ハウス》というビールの美味しいスポーツ・バーになっています。2020年、同じビルの地下に新しい《カフェ・ボヘミア》がオープンした矢先、不幸にもパンデミックが起こり現在は休止中。 

 時は遡り、52丁目がジャズのメッカとして隆盛を誇った第二次大戦中の40年代半ば、ここは《パイドパイパー》という名で、ジェームス・P・ジョンソンやピーウィー・ラッセル、メアリー・ルー・ウィリアムズや伝説のドラマー、デンジル・ベストなどスイング系の名手が出演する店だった。やがて、52丁目の衰退に呼応するかたちで、49年に閉店。この物件を買ったのが地元育ちのバーテンダー兼新進気鋭の事業主、当時35才のジミー・ジャロフォーロ(Jimmy Giarofolo )で、ジャズには全く関心のない人物。ここで6年間レストランやストリップ酒場など業態を変えながら商売したが、一向に儲からない。そうこうするうちに、近隣に住むミュージシャンたちが店の常連になり、演奏するようになります。

 無銭飲食の男 

チャーリー・パーカー(1920-55)

 ある日、そんな連中の一人がやってきてブランデー・アレキサンダーをグビグビ飲み、挙句の果てに、金がないと言います。そして、借金を返したいからここで演奏すると突飛な提案をした。その男の名はチャーリー・パーカー。ギャルフォーロは彼が何者かは知らなかったが、ともかく表に「チャーリー・パーカー出演」と掲示。そうすると、あれよあれよと来客数が倍増!今度バードの出演する店がどんなところ?というわヶでジャズファンが大挙して下見にきたのです。まるで落語の「抜け雀」。結局のところ、パーカーは同年3月に亡くなり、出演は叶わなかったのですが、この事件を機にギャルフォーロはモダンジャズの店にかじ取りを決意し、パーカーと一緒に演奏する予定だったテナー奏者、アレン・イーガーがアドバイザーとなり、イーガー自身と、ドラムにケニー・クラーク、ベースにオスカー・ペティフォード、ピアノにデューク・ジョーダンという強力リズムセクションを従えたハウス・バンドを結成するものの、お金持ちの美人にモテモテでハスラーとしても忙しいイーガーが真っ先に戦線離脱。結局ジャズ・クラブ《カフェ・ボヘミア》の杮落しは、クラーク(ds)、ペティフォード(b)と、ピアノにホレス・シルバー、フロントはハンク・モブレー(ts)、アート・ファーマー(tp)という、これまた素晴らしいメンバーで1955年5月30日、大成功をおさめ、伝説的クラブは船出することになります。

つづく

 

 

ジョージ・ムラーツ追悼文by エミール・ヴィクリツキー(p)

George Mraz (1944-2021) photo taken by Shinji Kuwajima at OverSeas Club

 コロナと訃報の2021年、ジミー・ヒース、スタンリー・カウエル、ニッセ・サンドストローム…親しく接していただいた巨人たちが次々と亡くなり、9月16日、プラハでジョージ・ムラーツがひっそりと世を去った。

 ジョージ・ムラーツさんは、寺井尚之とともに、トミー・フラナガンの次に触れ合う機会の多い巨人であり、アニキだった。

 寺井尚之にとっては初恋のベーシストであると同時に永遠のベーシストだった。何度も共演レコーディングのチャンスはあったけれど、師匠フラナガンの最高のパートナーであったから、義理を立て録音はしなかった。もう二度とその機会はないけれど、それでよいと思う。

 悲しすぎて涙が出ないということがある。たくさんある思い出も何を書けばよいのかわからない。

 これまで、公にされていなかったジョージ・ムラーツさんのご家族の悲劇や亡命の真相などを、同じチェコ出身のピアニストとして何度も共演し、親交深かったエミール・ヴィクリツキーさんが、英国ロンドンのジャズニュースに追悼文を寄稿されていたので、ここに翻訳文を掲載します。原文はLondon Jazz News 9/20, 2021

 永遠のアニキ、ジョージ・ムラーツさんのご冥福を心よりお祈りします。

George Mraz (1944-2021). A tribute by Emil Viklický

 去る2021年9月16日、ベーシスト、ジョージ(ジリ)・ムラーツが死去した。享年77。かつてロン・カーターはムラーツについてこう述べた。-「最高に素晴らしい音選び+秀逸なイントネーション+ビューティフルなサウンド+ナイスガイ=ジョージ・ムラーツだ。」

 ピアニスト、リッチー・バイラークは彼をこう評する。「ジョージは、こちらが聴きたいと思う音をぴったり出してくれるし、まるで、自分がベースを発明したかのような演奏ぶりだ。」 

以下は、チェコのピアニスト、エミール・ヴィクリツキーが、よき友であり音楽仲間であったムラーツの思い出を語る追悼の言葉である。

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=父を奪ったソ連軍侵攻=

 2007年のことだ。ジョージ・ムラーツと私は、ブルノ(チェコ共和国第2の都市)でのコンサートの後、ホテルのバーで一杯やっていた。いつになくジョージは饒舌で、白ワインを片手に、昔話や現在の話題に花を咲かせた。 

 そううしていると、ブルノの中心にそびえ立つ聖ヤコブ教会の塔を一望できるホテル最上階のバーの客は、急に我々だけになってしまった。小雨降る静かな夜、店じまいして帰りたがるバーテンダーをなだめようと、モラビア産ピノ・グリの上物をボトルで注文し、チップをはずんだ。おかげで、バーテンダーが退出した後も、我々は居残って話を続けた。

 ジョージは、1968年8月にソ連がチェコ侵攻した直後、事故死した父親のことを話し始めた。ソ連軍の戦車が市街に侵入し、通行優先権は路面電車にあることにお構いなしだった。戦車は、ジョージの父が乗っていた路面電車に突っ込んだ。そのため、戦車の主砲が電車の窓を突き破り、ジョージの父の頭部を直撃したのだ。後の調査でジョージは知った。お父さんは、最初座っていたが、事故の一瞬前に乗ってきた年配の女性に席を譲って立っており、そのために犠牲になったのだった。席を譲られた女性に怪我はなかった。ソ連軍が関与する事故であったので、チェコ警察はそれ以上の捜査を禁じられたという。この事件が、ジョージにとって祖国を離れる決定的な動機になったのである。 

 そのあと、ジョージは、私がなぜ数学の世界と決別したのかを尋ね、その理由を面白そうに聞いた。そして、モラビアのホレショフかクロメルジーシュの中学校で数学を教えていた彼自身の祖父の話をはじめた。退職後も、大学受験生に数学を教え続けた先生だったそうだ。

 このおじいさんは長命で、私は、きっとジョージも病を克服して長生きできると固く信じていた。骨折したり重病を患っても、彼はいつも瞳を輝かせ、元気を回復させてきた。だから、古びてはいるものの居心地の良いプルゼニ (チェコ、ボヘミア州) のホテルの部屋に飛び込んできた彼の訃報は、私を大きく打ちのめした。近くの駅から聴こえてくる列車の音を聴きながら、その夜は一睡もできなかった。

 ジョージがチェコスロバキアを離れたのは1968年、やがて彼は米国に移住した。ボストンのバークリー・カレッジ籍を置いたが、ボストンに付いたその日から、ピアニストのレイ・サンティニは彼にレギュラーの仕事を与えた。ほどなく、ジョージはNYに進出した。

=ジョージとの出会い= 

 私とジョージが直接出会ったのは1975年になってからだ。それ以前、私はチェコのオロモウツで数学を学んでいた。1971年に5年間の学業を終えた私は、博士号を目標にしていた。だが、そんな私に学部長は言った。「君の作った対称式などどうでもよい。博士号が欲しければ、マルクス主義に専念したまえ。」 私は論文の提出を放棄し、プラハに移り住んでジャズ・ピアニストに転身したのだった。

 1974年9月、私はチェコのトップ・ジャズ・バンド、カレル・ヴェレブニー SHQカルテットに加入した。それはジョージが移住する前に所属していたバンドでもあった。翌1975年、SHQカルテットはユーゴスラヴィアのベオグラード・ジャズフェスティバルに出演。ところが、手違いがあり、コントラバスを持参できず、現地で楽器を調達せねばならなくなった。幸運なことに、我々の出番の次がスタン・ゲッツ・カルテットだったのだ。メンバーは、ジョージ・ムラーツ(b)、アルバート・デイリー(p)、ビリー・ハート(ds)だった。そこで、ジョージは、快くフランチシェク ウフリーシュに自分の楽器を貸してくれたのだった。その夜のことはよく覚えている。なぜなら、アルバート・デイリーが私のプレイを誉めてくれたからだ。だが、スタン・ゲッツにとっては、必ずしも楽しい夜ではなかった。彼は時計ばかり眺め、本番でジョビムのスロー・ボサ〈O Grande Amore〉のプレイ中、デイリーのピアノ・ソロを遮り、バンドに退場するよう命令した。聴衆の拍手は10分ほど鳴りやまなかったが、スタンはアンコールに応えなかった。ひどい話だ。きっと主催者側と何かもめごとがあったのだろう。 

 幸運にも我々SHQはスタンたちと同じホテルに投宿しており、終演後、ジョージと話す機会に恵まれた。フランチシェクも私も彼のうわさはいやというほど耳にしていた。その夜は、彼が話す面白いエピソードの数々をむさぼるように聞いた。-それは、ドイツでのオスカー・ピーターソンとの共演に始まり、スタン・ゲッツ・カルテットがロンドンに行ったときにエリザベス女王に謁見した話まで、ありとあらゆる話題だった。やがて、カレル・ヴェレブニーが、スタン・ゲッツのサインをチェコのジャズ・ファンへのお土産にしたいと言いだして、20枚ほどの絵葉書をジョージに手渡そうとした。その途端、ジョージじゃ大笑いした。「マジかい?今夜スタンに頼めって言うのか?!」そしてジョージは名案を思い付いた。「よし、その絵葉書と鉛筆をくれ。」そう言うと、彼は一枚ずつゆっくりとサインを始めた。Stan Getzと!書き終えると、彼はいたずらっぽく微笑みを浮かべて言った。「この絵葉書のスタン・ゲッツのサインが僕の作だとわかる奴なんか世界中探してもいるもんか。」

 =エンパシー能力=

 ジョージは回想録執筆の依頼を何度も受けていた。誰でも、彼には数多くの興味深いエピソードがあることはわかるだろう。英国チェルトナム在住、『Moravian Gems』のプロデューサー、ポール・ヴルチェクはジョージに自伝を書くように勧めていた。だが、私の知る限りでは、ジョージは首を縦に振らず、これらの逸話は我々ミュージシャンだけのものとなってしまった。

 1999年のクリスマス、ジョージは、プラハの《ヴィオラ劇場》に、私のトリオと、ヴォーカリスト兼ダルシマー奏者のズザナ・ラプチーコヴァーを観に来てくれた。終演後、彼は、モラビア民謡をアレンジしたものを、Milestone/Fantasy Recordsに一緒に録音しないかと言ってくれた。驚いた私は「君は一体何本ビールを飲んだんだい?」と尋ねたほどだったが、彼の表情は真面目そのものだった。その結果できたCDが『Morava』(MCD 9309-2 in NYC)で、ビリー・ハートとズザナが参加している。このアルバムの数トラックをかけていたら、伝説的プロデューサーのトッド・バルカンが言った。-「ジョージのメロディック・センスの源泉がどこなのか、やっと判った!」 トッドは、ジョージ・ムラーツの至高の音楽性、ハートフルなリリシズムとスイング感ゆえ、敬愛の念を込めて、彼を “バウンセアロット卿”と呼んだ。加えて、ジョージには、最高の音楽的エンパシー能力があった。共演者のアイディアを瞬時に察知し、本人が気づかないうちに、そのアイディアを高め、二手三手先まで見通すという超能力の持ち主だった。

 Mr.バウンス、別名”ヤバいチェコ人(bad Czech)”-ジャズ史上最高のベーシスト、ジョージ・ムラーツは多くの人々に惜しまれながら世を去った。

written by エミール・ヴィクリツキー、ピアニスト

Emil Viklický (L) and George Mraz. ACT Music/ Marc Dietenmeier

 *チェコ人ミュージシャンのカナ表記は、指田勉氏にサポートいただきました。この場を借りてお礼申し上げます。

ジミー・ヒースが遺した音楽の 6か条

Jimmy Heath 1926-2020

 2020年1月に93才で亡くなった偉大なるホーン奏者、ジミー・ヒース、フィラデルフィア出身、そして第二の故郷はNYだ。ジミーは晩年体調を崩し、娘さんの住む南部に転居するまでは、NYクイーンズ、コロナ地区にある歴史的公営住宅、ドリー・ミラー・コーポの一室に50年以上住んでいた。一度、夕ご飯に招待してもらい、夫と伺ったことがある。日本の団地のようなアパートの壁にはチャーリー・パーカーはじめジャズの巨人たちのポートレート、広々とした室内にはピアノがあり、窓の外にはUSオープン・テニスが開催されるコロナ・パークが一望できた。

 ジミー・ヒースのような巨匠が他界すると、お葬式と別に音楽葬が行われるのがジャズ界の慣習で、リンカーン・センターのローズホールでコンサートが予定されていたのですが、コロナのために延期になってしまった。その代わりというべきか、地元クイーンズの<フラッシング・タウンホール>がとても素敵なトリビュート動画を作成している。


 このホールでジミーが晩年に行ったコンサートの模様と、家族やミュージシャン達のコメントがうまく組み合わされていて、常に皆に温かく接してくれた生前の巨匠の姿がしのばれます。

 登場するのは、ジミー最愛の妻、モナさんや娘さんのロスリン、ヒース・ブラザーズ唯一の生き残りになったアルバート”トゥティ”ヒース(ds)や息子のムトゥーメ(perc)はじめ、ジミーゆかりのミュージシャン達:愛弟子アントニオ・ハート、バリー・ハリス、パキート・デリベラ、デヴィッド・ウォンなど多くの人々がオンライン上でそれぞれ思い出を語り、彼の曲を演奏したり…そのヴィデオ・クリップと、ジミー・ヒースが少年のように嬉々としながら、クイーンズ・ジャズ・オーケストラを指揮するコンサートの模様が重なり、ジーンときます。

 中でも印象的だったのは、ジミーのレギュラー・ピアニストだったジェブ・パットン(左写真)が伝えてくれた「ジミー・ヒースの教え」です。ジェブはサー・ローランド・ハナとジミー・ヒースに大変可愛がらた才能豊かなピアニストです。15才で父親と死別した彼にとって、ジミーは父親のような存在だったといいます。そんなジェブにジミーが授けた言葉は、ジャズを志す全てのミュージシャンにとって大切なことばかり!

 *上のヴィデオで33分辺りから彼のコメントと演奏が聞けます。 

=ジミー・ヒースの教え=

(1)Tell your story.– 自分自身のストーリーを音楽で語れ。

(2) What was good Is good.- 良いものは時代を越えても色褪せない。

(3)Music gotta have a groove.-グルーヴは音楽に不可欠。

(4)Music is all around us, it’s in the air. No one has a monopoly on music.
   – 音楽は我々みんなの周りに分け隔てなく存在し、空気中に漂う。だから、音楽を独占することは誰にもできない。

(5)Music should have science but it always should have hearts.
   – 音楽には理論体系が必須だが、どんな場合も常に”心”を伴わなければならない。

(6)最後はジミーがディジー・ガレスピーから受け継いだ音楽家の立ち位置についての名言です。
  Always have one foot in the past, one foot in the future.
– 常に片足を過去の伝統に、もう片方の足を未来に置いて立て。

   ジェブさん、金言を公表してくれてありがとう!

What was good Is good! ジミー・ヒースの音楽をいつまでも聴き続けます!

 季刊「ジャズ批評」(217号)にジミー・ヒースについての記事を寄稿しました。

 

Diana Flanagan追悼

  ご無沙汰しています!!

皆様お元気ですか? 

 Interlude も長いフェルマータ…そのうち、コロナ禍に見舞われて、OverSeasは4月の緊急事態宣言とともに2か月休業、6月からやっと営業再開し、何とか元気にしています。

 今回の騒動のおかげで、私たちがジャズを仕事にしていけるのは、皆様の応援のおかげなんだと一層実感することができました。そして、生のジャズを聴ける喜びも、これまで以上に大きくなりました。休業中にご支援いただいた皆様に、心より御礼申し上げます。

diana_tommy_tamae_hisayuki_his_mom_stuff_of_overseas.jpg(’84年初来店時のフラナガン夫妻と寺井尚之やOverSeasのスタッフたちと)

 コロナ禍の中で、トミー・フラナガン未亡人、ダイアナ・フラナガンが訃報を知ることになりました。ダイアナはトミーが亡くなった後、NY郊外の老人ホームに入ってから数年間は、何度も電話で連絡を取っていたのですが、そのうち軽い認知症になり、いつのまにかホームを退所。そのあとは後見人役の弁護士も退任し、行方が分からなくなっていました。NYのミュージシャンやジャズ関係者、音楽評論家など、ダイアナと親交のあった方々を当たったのですが、居所を知る人はおらず、途方に暮れていた矢先に見つけた記事でした。

 トミー・フラナガンのマネージャーとして、欧米や日本のジャズ界と渡り合ったダイアナ、業界の評判は様々ですが、寺井尚之と私には本当によくしてもらい、数え切れない思い出をいただいた恩人です。

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 ダイアナはトミーより一つ年上の1929年生まれ、上の死亡記事では「フィラデルフィア生まれ」となっているけれど、本人は西部の出身と言っていた。お父さんの仕事の都合で、トミーの両親の出身地であった南部各地を転々としながら育ったので、トミーと話が合ったんだと言っていた。アイオワの大学で音楽を勉強した後、NYコロンビア大学演劇科に入学、卒業後はブルネットの美人シンガーとしてクロード・ソーンヒルOrch.などで活動し、ジーン・クルーパ楽団のサックス奏者、エディ・ワッサーマンと最初の結婚をし、歌手を引退した後は教師としてNYの中学校で国語を教えていた。だから、私の英語が間違っていると、辛抱強く修正して、正しい発音と文法を教えてもらいました。

 エラ・フィッツジェラルドと同じキーで歌うのを自慢にしていたダイアナの歌曲の知識はミュージシャンも驚くほどで、どんな歌のヴァースも歌詞も記憶しているという評判でした。

 フラナガン夫妻がご機嫌なときは、まるでミュージカル!会話の最中にそれに因んだ歌が次々と出てきて一緒に歌うので、本当に楽しかった。或るときは、NYアッパー・ウエストサイドのアパートで、ダイアナが〈That Tired Routine Called Love〉(マット・デニスの作品でフラナガンの愛奏曲)を歌ってくれたことがある。もちろん伴奏はトミー・フラナガン(!) ダイアナはなかなか上手いシンガーだった。

 ダイアナがトミーが結婚したのは1976年、ちょうどトミーが、エラの許を離れ、一枚看板のピアニストとして独立しようという転換期とオーバーラップしている。

 =剛腕マネージャー=

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(Tommy and Diana Flanagan (’93): 中平穂積氏の写真展にて、中平氏撮影)

 トミーの独立後、ダイアナは彼のマネージャーを務め公私ともにパートナーとなります。古巣のジャズ界に戻ったダイアナは寡黙なフラナガンに代わり、強気のディールで剛腕ぶりを発揮し、日本のプロモーターからは、エルヴィン・ジョーンズ、ジェリー・マリガンの奥さんたちと並ぶ「三大」として恐れられた。

 レコーディングでは『Jazz Poet』(’89)から『Sunset and the Mocking Bird-The Birthday Concert』に至るフラナガンの円熟期のリーダー作全てにダイアナの名前がプロデューサーとしてクレジットされている。

 ダイアナの基本ポリシーは、「トミーをいい加減な輩から守る!」こと。-海千山千もジャンキーもヤクザもジャズ界には居る。そういうリスペクトのない人間からトミーを守ることだった。NYのジャズクラブに行った人ならご存じでしょうが、音楽を聴かずにおしゃべりばかりしているマナーのないお客もいる。トミーの演奏中にそんな人を見つけようものなら、ダイアナの鉄槌は容赦なく下された。

 私が一番印象に残っているのは、’80年代にフラナガンが《ヴィレッジ・ヴァンガード》に出演していた休憩時間、最前列に陣取っている私たちの後ろのテーブルに、おそらく日本人と思われるジーンズ姿の若い男性客がやってきた。フラナガン・トリオがバンドスタンドに登場すると、拍手もせずにあの小さな丸テーブルに土足を乗せてリラックスしている。やにわに振り向いたダイアナはそのお兄ちゃんをにらみつけ、まるでちゃぶ台のように、土足の乗ってる小さなテーブルをひっくり返したのだった。男性の姿は、次の瞬間には消えていた・・・

  一方で、ダイアナの押しの強さは、出しゃばり、身勝手とも受け取られ、時には軋轢を生んだ。彼女のごり押しのおかげで、フラナガンと袂を分かったミュージシャンもいるし、彼女さえいなければ、フラナガンはもっとビッグになれたのに・・・という関係者もいる。

  でも私は思う。トミーは敢えてダイアナを悪役に仕立て、それを盾に自分の我を通したのではないだろうかと・・・表向き、尻に敷かれているふりをしながら、周りに業界人がいないときには、昭和の日本人と変わらない亭主関白のトミーの素顔を見せてくれたことがあるからだ。

 少なくとも、ダイアナなしには、フラナガンのサド・ジョーンズ集『Let’s』や『Jazz Poet』といった円熟期の名盤群は生まれなかっただろう。

  ダイアナは世界一のトミー・フラナガン・ファンを自認してはばからなかったが、寺井尚之には一目も二目も置いていた。未発表ソロと称してストリーヴィルからリリースされた音源がフラナガン以外のピアニストのものと見破ったのも、この二人だ。

 音楽だけでなく、詩や文学にも造詣深いインテリ、リベラルな超駄々っ子、あれほどエモーショナルな人は、彼女の旦那さんを別にすれば他に知らない。ダイアナと知り合えて、色々語り合えたことは、私たちの人生の財産です。

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 ダイアナ・フラナガン、本当にいろいろお世話になり、ありがとうございました。

心よりご冥福をお祈りします。

 

 

寺井珠重の対訳ノート(52)-英国趣味と大恐慌:Nice Work If You Can Get It

新年明けましておめでとうございます。

 お正月休みが明けるとすぐの「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」(1/11)-キャロル・スローンがトミー・フラナガン・トリオとフランク・ウェスという豪華メンバーをバックに繰り広げるガーシュイン・ソング・ブックの対訳作りでアタフタ!

R-5312369-1486121972-8739.jpeg.jpg キャロル・スローンは日本のヴォーカル・ファンの間でも人気が高い!以前、米国のライブ録音をラジオで聞いたことがありますが、日本で人気があることについて「私は、自分の国じゃ逮捕すらしてもらえないのに…」とMCしていて大受けでした。

 エラ・フィッツジェラルドやカーメン・マクレエといった本格派をこよなく愛し、真摯に研究するスローンの姿勢には共感するのですが、それ故コーラスを重ねるごとに、同じ歌詞は絶対繰り返さないアーティスト、対訳作りは楽じゃない。はあ~疲れた… 

 そうだ、正月休みだ!そんなときには寄り道して日本語に浸ろう!私の生家の隣町の文豪、山崎豊子の小説を読もう!大阪が商人の街だった昭和の原風景と、船場のしきたり、商いや色事がつぶさに書かれた「ぼんち」を読んでます。折しも元旦に読んだ章はお正月、老舗足袋問屋に使用人や妾たちが挨拶に来る華やかなシーン。華やかな表向きと、裏側に渦巻く愛憎が入り交じる場面だった。OverSeasはその舞台にほど近い場所にありますが、昔の栄華今何処? 主人公の喜久治は、粋な着流しの豪商、様々な女性と関係を重ねていく様子はまるで浪速の光源氏でもあるけれど、女に贅沢をさせて喜ばせる道楽を、しっかりと商売へのエネルギーに変えていく。ちょうどその頃、海の向こうでは、ガーシュイン兄弟のヒットソングが、不況のアメリカのショウビジネスを華やかに彩っていたんですね。

 

 =歌のお里=

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 さて、今も精彩を放つスタンダード〈Nice Work If You Can Get〉の起源は、フレッド・アステア主演のミュージカル映画『A Damsel in Distress(囚われの姫の意)/邦題:”踊る騎士”』(’37)です。ストーリーは、ロンドンを舞台に、アステア扮するアメリカ人ダンサーが、清楚なジョーン・フォンテイン扮する英国貴族の令嬢と恋に落ち、歌って踊るラブ・コメディー-霧のロンドンと恋の歌〈A Foggy Day〉もこのミュージカルのために作られた。

 残念ながら、映画の準備期間は、作曲者ジョージ・ガーシュウィンの体調不良の原因が脳腫瘍と判明した時期で、ジョージは映画の完成を見ることなく、38才の短い生涯を閉じている。そのせいかどうかはわからないが、このNice Work If You Can Getは、もともの別の題名と歌詞でお蔵入りのままだった歌曲のリメイクだった。 

Nice Work If You Can Getその意味は?=

Ira-Gershwin.jpg(左:作曲家 ジョージ・ガーシュイン、右:作詞家 アイラ・ガーシュイン)

 ガーシュウィン兄弟の歌は、口語の日常会話を歌詞に取り入れることによって、従来のポップ・ソングにはない、シンプルで生き生きとした世界を作り上げた。では、アイラ・ガーシュウィンの作ったこの歌詞の面白さはどこにあるのでだろう?

 まず、このタイトル”Nice Work If You Can Get“は、英語を母国語としない私たちにも、語呂のいい言葉なのだけど、いったいどういう意味なんだろう?訳詞をネット検索すると、実に多様な推測や憶測が述べられている。シンプルな言葉ほど奥が深くて難しい。 

 忘れてはいけないのは、この歌が発表された1937年の世相だ。大恐慌から10年近く経過したというのに、出口の見えない不況が続くという状況だった。

 イギリスを舞台にしたミュージカルらしく、作詞担当のアイラ・ガーシュインは、英国の有名な風刺漫画雑誌「パンチ」を読んでいた時、この言葉に出会った、という逸話がある。それは、不景気な世相を風刺した漫画で、二人の掃除婦がおしゃべりしている。一方のおばさんがコックニー訛りで「○○さんの娘は売春婦になったんだってね。」と言うと、もうひとりが「Nice Work If You Can Get」と羨ましがる、という漫画だった。

 その一方で、この英国由来の言い回しは、大恐慌時代のアメリカでも、働き口のない庶民の心を象徴する言葉だったらしい。

    正しい語意を辞書で調べてみよう。”ロングマン現代英英辞典“には、こう書いてあった。

 nice work if you can get it:

British English used humorously to say that someone has a very easy or enjoyable job, especially one which you would like to do.

(訳:イギリス英語-誰かが、簡単に金が儲かる、あるいは、楽しい仕事を持っている場合、特に自分もあやかりたいということを、面白おかしく言う際に使われる。)

 

 もう一冊、イギリス英語を主体とするケンブリッジ・ディクショナリーの説明では、金銭との関係がさらに深くなる。

something you say about an easy way of earning money that you would like to do if you could:

(訳:もしもできるなら、自分もしたいというような、簡単な金儲けの方法について言う言葉。)

She got one million dollars for appearing on television for five minutes – (that’s) nice work if you can get it!

(例文:彼女は、テレビに5分間出演して100万ドルを手にした。-そんなことができれば結構ですね!)

  つまり、「そんなに楽に儲かるとは結構だね!羨ましい!できることなら私もやってみたい、あやかりたい!」という意味なのだ。

   

=人間は金じゃない。=

 では、歌詞全体を見てみよう。冒頭の”ヴァース”部分は、金や名声を得るためだけの人生に対するクエスチョン・マーク、続く”コーラス”部分では、金に関係なく、ロマンチックな恋の成就を願い、「金儲け」への羨望の言葉であるはずの”Nice Work If You Can Get it”でリズミックに締めるという仕掛けになっている。

 つまり、この歌は、拝金主義に対するアンチテーゼであり、失業にあえぐ庶民にそこはかとない希望を与えるという、不況時代の歌(ディプレッション・ソング〉だったんだ!

 <Nice Work If You Can Get It

Music: George Gershwin/ Lyrics by Ira Gershwin

(原歌詞はこちら)

(ヴァース)
金儲けだけが生きがい、
そんな男の人生は明るいというわけじゃない。
名声を得ようと躍起になる野心家も同じ、
そんな名声も、時間の波にさらされりゃ、
消えない保証はないんだよ。
要するに…
本当の喜びをもたらす仕事はただ一つ、
運命の男女が恋をすること
それならば悔いはない。
それこそ最高の仕事-もしもそれができるなら…

(コーラス)
星降る夜更けに
手に手をとって…
うまく行くとは羨ましい、
やってみれば出来るものさ。

心に決めたあの娘とそぞろ歩く、
ため息ばかりつきながら、
うまく行くとは羨ましい、
やってみれば出来るものさ。

思ってもみなよ、
誰かが別荘の戸口で待っている、
二人の心が一つになれば、
願ったりかなったり!

愛し愛され、相思相愛、
そして将来を誓い合う…
それができれば苦労はしない、
うまく行くとは羨ましいね、
じゃあ、その方法を教えてよ。

 時代は変わっても、人の心はそんなに変わらないものなのかな?このガーシュインのスタンダード・ソング、焼け野原になった大阪の街に、新しい活路を見出す「ぼんち」、それに50年経っても、日本人の郷愁を誘う寅さん…、令和になっても感動を与えてくれます。

 今年もたくさんの皆様にOverSeasで生演奏を聴いていただけて、ついでにお金も儲かったらシメたものなんだけど-Nice Work If You Can Get It- Won’t YouTell me How?

参考文献-

  • George Gershwin: An Intimate Portrait: Walter Rimler著 University of Illinois Press 刊
  • America’s Songs: The Stories behind songs of Broadway, Hollywood and Tin Pan Alley: Phillip Furia, Michael Furia共著 Routledge刊
  • Ira Gershwin, the Art of the Lyricist: Philip Furia 著 Oxford University Press
  • Reading Lyrics: Robert Gottlieb and Robert Kimball著 Pantheon Books

  ★-ブログの不具合でコメントが出来なくなっています。何かご感想あればOverSeasにメール、あるいはFBにコメントをください。

 

連載:ペッパー・アダムス最期の『アダムス・イフェクト』(その3 最終回)

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  サー・ローランド・ハナが、昔こんな風に教えてくれたことがあります。
「ペッパーは亡くなるまで災難続きだったんだよ。自分の車に轢かれて大怪我をして、治ったと思ったら病気になってしまったんだ…」

 ペッパー・アダムスが体の異変に気づいたのは1985年3月、ヨーロッパの長期ツアー中に立ち寄ったスウェーデン北部のボーデンという街だった。現地の病院の診断は肺がんだった。まだ54才、その前年の大部分を骨折の治療で棒に振り、やっとカムバックし軌道にのった矢先の出来事だった。円熟期の管楽器奏者が、よりによって肺のがん宣告を受けるとは、アダムスのショックはどんなものだっただろう。体調不良を押してヨーロッパ各地のツアー日程をこなし帰国後、NY市聖ルカ-ルーズベルト病院で精密検査を行ったが、診断結果は同じだった。

 アダムス最期のリーダー作となった『Adams Effect』は、抗がん剤治療の合間を縫って行った録音だ。プロデュースは、NY地元の〈Uptown Records〉、共同オーナー兼プロデューサーであるマーク・フェルドマンとロバート・スネンブリックの本業はどちらも医師で、特にスネンブリックは腫瘍専門医だったのが幸運だったのかもしれない。
 
 録音メンバーは、ドラムのビリー・ハートを除く全員がデトロイト時代のペッパーの仲間だ。テナーのフランク・フォスター、ピアノのトミー・フラナガンは、デトロイトのジャズシーンと兵役時代の両方の仲間だし、ベースはデトロイトの後輩格ロン・カーターだ。ドラムには、やはりデトロイトで共演を重ねたエルヴィン・ジョーンズが予定されていたが、妻でありマネージャーのケイコとギャラで折り合わず、アダムスが頻繁に使っていたビリー・ハートを起用、全メンバーをペッパー・アダムスが選ぶ結果となり、6月25日と26日の2日間、イングルウッドのルディ・ヴァン・ゲルダー・スタジオを押さえて録音を行った。

 録音曲は、企画段階で〈Uptown Records〉のスネンブリックが〈マイ・ファニー・ヴァレンタイン〉など、スタンダード曲を含めた30曲の録音候補リストを作成したが、アダムスは候補曲をことごとく却下、結局候補リストから彼が選んだのは唯一曲、フォスターが作曲し、彼のデビュー盤『Here Comes Frank Foster』(BlueNote ’54)に収録した〈How I Spent the Night〉だけで、一体、他にどんな曲を録音するのか?二人のプロデューサーはスタジオに入っても、さっぱりわからなかったのだそうです。つまり、A&R(アーティスト&レパートリー)もアダムスが仕切った結果のアルバムなのです。

 余談ですが、フォスターは〈How I Spent the Night〉の譜面はもう持っていなかったので、自分のアルバムを聴いて、譜面起こしをする羽目になったのだとか…

 実際、このアルバムを聴いてみると、アダムスは準備万端、完璧にネタを仕込んで録音に臨んだ感がするし、はつらつ他のメンバーもアダムスを中心に鉄壁のワンチームという印象を受けますが、バンド全体のリハーサルは皆無で録音したというのですから、さすがに一流は違います!

images (2).jpg トミー・フラナガンの証言(1988) 

「この録音をしたとき、ペッパーは絶好調で、実に力強く説得力のあるプレイだった。曲はほとんど彼のオリジナルばかりだ。彼の旧友、フランク・フォスターと共演出来たことを心から楽しんでいたなあ。二人は長年の間、共演者として最高の相性だったのだからね。」

〈Uptown Records〉プロデユーサー:ボブ・スネンブリックの証言(1988):
当時ペッパー・アダムスは、抗がん化学療法の第4サイクルだった。彼は、迅速な治療効果を望み、抗がん治療を積極的に行っていた。実際、彼の場合には、副作用の吐き気が余りなかったんだ。そのことについて、彼に話したことを覚えているからね。化学療法を受けた8-10日後に録音セッションの予定を組んだ。スタジオ入りしたときの調子は上々だった。見た目は元気そうではなかったが、コンディションは実によかった。
目を閉じれば、昔のペッパーがそこに居た。彼は非常にストロングで、最高の出来上がりになった。

 多分、これが最後のリーダー作になると思っていたのだろう。

ドラマー・ビリ-・ハートの証言
hartimages (2).jpg ペッパーは、ケニー・バレルやサド・ジョーンズ、ジョニー・グリフィンといった人たちと同類でね、だしぬけに、プロとしての実力をテストする。一度共演すれば、沢山のことを思い知る。言い換えれば、彼の創造活動の邪魔になってはいけないことを叩き込まれる。つまり、ある時突然に、演奏曲の全貌を見ろというプレッシャーがかかってくる。彼がどんなソロを取るのか、どんな曲を引用してくるのかは、全然予想がつかないのだから。あのとき、彼の周りを固めるのは、極めてハイレベルな名手達だった。まずロン・カーター、それにフランク・フォスターだ!多くの人間は、フランク・フォスターがどれほどすごいミュージシャンかわかってないがね。ああいう人たちは、いかなるレベルのミスも絶対に犯さない。彼らは初見で完璧に読譜し、正しいアクセントを把握してしまう。初めて演奏する曲でも、ワンテイクで素晴らしいソロが取れる。このメンバーで、テイクの取り直しがある場合は、決まって僕のせいだった!恥ずかしいことだと思っている。

 先日の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」では、オープニングのブルース〈Binary〉での6小節交換や、〈How I Spent the Night〉のアウトコーラスで8小節のみテーマを提示して余韻をもたせる粋な手法など、演奏構成の隅々に溢れるデトロイト・ハードバップのエッセンスを寺井尚之が具体的に提示してくれたので、さらに楽しく鑑賞することができました。

 ペッパー・アダムスがこのアルバムに収録オリジナル曲のタイトルを見ても、このアルバムが最期になるとわかっていたのではないかという気がする。自らのアイルランド(ケルト人)の血を意識した〈Valse Celtique(ケルト人のワルツ)〉息子ディランに捧げた〈Dylan’s Delight〉、妻に捧げた〈Claudette’s Way〉、そして〈Now in Our Lives(我々が生きている間に)〉には、アダムスの覚悟が伝わってきます。 

 録音の3ヶ月後、アダムスの治療を支援するチャリティ・コンサートがNYで行われ、アダムスが尊敬するディジー・ガレスピーや、デトロイトの仲間達-ミルト・ジャクソン、ケニー・バレル、そしてトミー・フラナガンと言った面々が演奏しています。

 翌年8月、自宅療養していたアダムスの元に、かつてのリーダー、サド・ジョーンズがコペンハーゲンで客死したという知らせがディジー・ガレスピーから届きました。骨肉腫というガンで、わずか4ヶ月の短い闘病期間で亡くなったということでした。

 それからわずか数週間、トミー・フラナガンが彼を見舞いに訪れた3日後にアダムスは天に召されました。-1986年9月10日、まだ56才でした。

 セント・ピーターズ教会での音楽葬の葬儀委員長はトミー・フラナガンが務め、エルヴィン・ジョーンズ他、デトロイトの仲間たちや、サド・メル時代の親友、ジョージ・ムラーツ、そしてアダムスの対極にあるバリトン奏者、ジェリー・マリガンといった多くのミュージシャンが演奏に参加しました。

  アイルランドの血を引くバリトン・サックスの勇者、大いなるデトロイト・ハードバップのサムライよ、永遠に!

 アダムス関連の資料の宝庫!Gary Carnerに感謝します。

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連載:ペッパー・アダムス最期の『アダムス・イフェクト』(その2)

=戦友=

PepperKorea.jpg     (左端:ペッパー・アダムス ’50-52 韓国or 日本の墓地にて)

 モーターシティとして活況を呈するデトロイト・ジャズ・シーンは、NYからツアー・サーキットで巡演してくる超一流バンドのリーダーたちにとって、人材とアイディアの宝庫だった。アレサ・フランクリンや後のモータウン・サウンドに象徴される黒人のソウルフルな感性と、ナチスから逃れてきたトップクラスの音楽家がもたらした高度な西洋音楽理論、加えてチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーのビバップ革命の信条に啓発を受けた黒人ミュージシャン達は、NYジャズと一線を画す、非常に洗練されたジャズのスタイルを確立していきます。それがサド・ジョーンズを中核に開花したデトロイト・ハードバップです。(左下写真:サド・ジョーンズとペッパー・アダムス)その後NYに進出したアダムスが、’60年代終盤から’70年代後半まで、サド・ジョーンズ&メル・ルイスOrch.の花形ソロイストとして大いに人気を博したのも偶然ではないのです。

thad_f_0bc763.jpg しかし、前途洋々たるモーターシティの若手ミュージシャンの躍進の壁となったのが、激化の一方を辿る朝鮮戦争でした。1951年にはトミー・フラナガン、フランク・フォスター(ts)が、翌52年にはペッパー・アダムスにも召集令状が届きます。彼らジャズ・エリート達は24ヶ月間兵役に付き、軍楽隊や前線の慰問団、そして北朝鮮の爆撃に抗する朝鮮半島の最前線で働きました。

 トミー・フラナガンは、この期間を「人生における地獄」と呼び、その中で、時にアダムスと遭遇できたことが、唯一の救いだったと語っています。

 フラナガンの証言:「ペッパーは、一足先に(ミズーリの基地で)数週間の基礎演習を終えていた。彼は、私がホヤホヤの新兵として訓練中だと知り、私が野営地に向かって行進していると、ペッパーが隊列の中の僕を目がけて走ってきた。そして僕のポケットに懐中電灯をぎゅっと押し込んた。 『きっと役に立つよ!』と言ってね…」

Koreaf_0bc74c.jpg  ペッパーは軍楽隊での演奏と、耳が良いことから、敵機襲来の爆音をいち早く感知して本部に伝えるという最前線の諜報活動も行った。軍隊時代、ペッパーは占領下の東京にも寄港し、アーニー・パイル・シアター(旧:宝塚大劇場が進駐軍に接収され改名、日本人の入場は禁止されていた。)でも演奏している。サド・ジョーンズ+メル・ルイスOrch.より先に来日していたわけですね。(左写真:朝鮮半島38度線北側をツアーしたアダムス加入慰問団のルート。)

 丸2年の従軍期間を経て、ペッパーはジャズシーンに復帰し、デトロイトで活動を再開。トミー・フラナガンが理想のジャズクラブと呼んだ《ブルーバード・イン》では、ビリー・ミッチェル(ts)の代役としてサド・ジョーンズやフラナガンと共演、ジョーンズやフラナガンが相次いでデトロイトを去った後は、バリー・ハリス(p)達とハウスバンドを組みました、

 デトロイトで、朝鮮半島で、そしてNYで…憧れや高揚感…様々な感動体験と、人に言えないほどの苦難を分かち合ったフラナガンとの友情は、アダムスの早すぎる死まで続きました。

 最晩年の’85年、ペッパー・アダムスは 最期のリーダー作『アダムス・イフェクト(Uptown』で、アダムスは朝鮮戦争の戦友であったトミー・フラナガン(p)、フランク・フォスター(ts)に参加を要請し、抗がん剤治療の合間を縫ってレコーディングに臨みます。(続く)

=参考文献=

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