寺井珠重の対訳ノート(51)-Over the Rainbow (その2)

TheWizardOfOz.OverTheRainbow.png   『オズの魔法使い』(1939) -〈Over the Rainbow〉を歌うジュディ・ガーランド

〈Over the Rainbow〉
 E.Y. Harburg 作詞 / Harold Arlen 作曲
(原詞は上をご参照ください)

=ヴァース(映画では未使用)=

世界中がどうしようもなく混乱し

大雨が到るところに降ると

神様が魔法の道を開いてくれる。

黒い雲が空に立ち込めると、

虹のハイウエイが見つかる、

あなたの家の窓から太陽の後ろ側、

雨のもう一歩向こうまで…

=コーラス=

虹の彼方の

お空のどこか

ずうっと前に、

子守唄で聞いた国がある。

虹の彼方のその国は

晴れ渡る青い空、

身の程知らずの夢も

きっと叶う。 

いつかお星様にお願いしよう、

目覚めたときには、

黒い雲は過ぎ去り、

悩みはレモン・ドロップみたいに溶けている、

煙突よりもずっと高い

素敵なところにいるんだもの。 

虹の彼方のその場所には

幸せの青い鳥が羽ばたく、

鳥が虹の向こうに飛べるなら、

私もきっと行けるはず。 

小さな青い鳥が

虹の向こうに飛べるのなら、

私もきっと行けるはず。

the-wizard-of-oz-75-years-facts-ftr.jpg=このシーンはダルい=

image.jpg12_Memorable_Moment_director_victor_fleming.jpg 映画『オズの魔法使い』中、カンザスの農家で暮らすあどけない少女ドロシーが、納屋の横で〈Over the Rainbow〉を歌うモノクロの場面は、映画史上最高の名場面のひとつとされていますが、実のところ、このシーンは編集段階で3度もボツにされていたのだ。その犯人は共同プロデューサーで、後にハリウッドの黒幕として名を馳せたエディ・マニックスと、映画監督チームのアンカー役を務めたヴィクター・フレミング(左写真)だ。フレミングはこの作品の後の「風と共に去りぬ」で映画史に残る名監督となる。アングロ・サクソンで大きな体躯、威厳に満ちた風貌のフレミングは、音楽担当チームでNYのユダヤ系移民であるハロルド・アーレンとイップ・ハーバーグをオフィスに呼びこう言った。

 「こういうことを言って大変申し訳ないんだが、レインボー、オーバー・ザ・レインボーと歌う場面のせいで、映画前半のモノクロ部分の展開がダルくて冗長になっている。あのシーンはカットする以外に仕方ない…」それは、上司の最後通告と言えるものだった。その背景には、冒頭オクターブで跳躍するこの歌がメインテーマとなっても、素人が歌うのは難しく、シート・ミュージックのセールスが期待できないという楽譜出版社の事情もあった。

 アーレンとハーバーグは、〈Over the Rainbow〉が映画の最強のナンバーであるという自負があり、この一曲に賭けていたのに…

judy_louis.jpg 温厚な性格のアーレンは嘆き悲しんだ。対照的にハーバーグは反骨精神の塊、「てやんでえ、べらぼうめ!」とNY弁でまくしたて、自分に脚本の手直しを任せてくれた共同プロデューサー、アーサー・フリードのオフィスへ!このシーンをカットすれば映画が台無しになる!と熱弁をふるった。フリードは作詞家出身でユダヤ系の大物プロデューサーとして、かねてからハーバーグの才を認め信頼を寄せており〈Over the Rainbow〉の良さもよく理解していたので、彼のためにひと肌脱ごうということになった。フリードが直談判したのは、監督やプロデューサーよりもっと地位の高い人物、MGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)の創設者にして最高責任者であるルイス・B・メイヤー(左写真 w/J.ガーランド)である。 

 フリードは、ハリウッド最大の映画帝国のドンにこう言い放った。

 「虹のシーンを外すと仰せなら、私は会社を辞めます!」

 その数年前、腹心の天才プロデューサー、アーヴィング・タルバーグを失い、フリードを彼の後継者として覇権維持の望を託していたメイヤーは、その一言に折れて、編集方針の撤回を通告したのだった。アーサー・フリードは後に『雨に歌えば』などのヒット作を連発してメイヤーの期待に応えるが、シャーリー・テンプルにセクハラをしたのは彼であり、昨年のMe Too運動の発端となったハーヴェイ・ワインスタインの元祖ともいえるキャスティングをしたプロデューサーでもある。(下写真)

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  このような、様々な障害を乗り越えて、反骨の作詞家イップ・ハーバーグと天才音楽家ハロルド・アーレンによる名歌〈Over the Rainbow〉の場面は、MGMが築いたミュージカル帝国ハリウッド映画史を象徴するシーンとなったのでした。 

ハーバーグがこれほどまでにこの映画作品に入れ込んだのは、この一曲のためだけでなく、もっと深い思い入れを持っていたからなのです。(つづく)

寺井珠重の対訳ノート(51)ーOver the Rainbow(その1)

 今から80年前の1939年8月、ハリウッドでプレミア上映されたファンタジー・ミュージカル『オズの魔法使い』の劇中歌〈Over the Rainbow〉は、アメリカ第二の国歌といわれるほど親しまれ、80年以上経った現在も様々な国で、ジャンルを超えた多くのアーティストが取り上げている。主役のドロシーを演じ、自分のために初めて書かれたこの歌を初演したジュディ・ガーランドは当時16才、この映画を機に国民的スターとなった彼女は、短く悲劇的な47年間の生涯を通して歌い続けた。 

 書きます、書きますと言いながら、なかなかアップデートできないInterlude、何で今さら、〈Over the Rainbow〉のようにシンプルな歌を取り上げようと思ったかというと、昨年「トミー・フラナガンの足跡を辿る」で聴いた、トミー・フラナガンの『ハロルド・アーレン集』のプレイに改めて感動したのこと、そして、この歌、この映画が生まれた時代を今一度見てみようと思ったからです。

=原作にない『虹』の仕掛人=

 映画『オズの魔法使い』は、 “アメリカの子どもたちに、グリム童話やアンデルセンではないアメリカのおとぎ話を!”と、フランク・ボームが1900年に書いた『オズの魔法使いシリーズ』の中の『The Wonderful Wizard of Oz』 を基に、280万ドル(約3億円)という製作費を投入して作られたファンタジー映画だった。ほぼ同時期の、ジャズ・スタンダード曲の源泉、『有頂天時代(スイング・タイム)』『トップ・ハット』といったフレッド・アステア&ジンジャー・ロジャoz_.jpgース主演のヒット・ミュージカルの予算が100万ドル以内であったことを考えれば、途方もない超大作ということになります。ところが、製作プロデューサー陣はミュージカル映画に関してはド素人に近く、他にも複数の作品を抱えていて忙しいったらありゃしない。企画段階で主演のドロシー役を予定していた子役スター、シャーリー・テンプルちゃんの獲得に失敗(一説にはプロデューサーの一人がセクハラをしたためとも言われている。)、その代わりに抜擢されたのが、歌はうまいが端役扱いだったジュディ・ガーランド、実年齢より幼い少女を演じるため、映画会社の指示でアンフェタミン(覚せい剤)の服用で体重を減らして役作りをし、それが後年の薬物依存に繋がったとされています。この歌を含め、映画音楽を担当したハロルド・アーレン(作曲)&イップ・ハーバーグ(作詞)が決まったのはクランクインの5カ月前、その時点では監督すら決定していなかった。結局、撮影の土壇場に4人の映画監督と11人の脚本家による大所帯が編成される。しかし「船頭多くして船山に登る」という諺どおり、ライター達に物語の展開で意見の相違が生まれ、最終的なシナリオがなかなかまとまらない。そこで、共同プロデューサーのアーサー・フリードがまとめ役として白羽の矢を立てたのが作詞担当のイップ・ハーバーグだった。何故ならハーバーグは、ブロードウェイとハリウッドで修羅場を潜り抜け、まとまらないものを剛腕と人望を駆使して現場でまとめ上げる”ショウ・ドクター”の異名を取っていたからです。ハーバーグがかつて一緒に仕事をした実力者が揃う脚本家チームの内でも、当時無名の南アフリカ出身のライター、ノエル・ラングレーのドラフトが気に入り、そこに自分達のミュージカル・ナンバーがストーリーの一部として自然に収まるようにリライトした。シナリオ・チームのブーイングには映画に登場するカカシのように知らんぷり、ライオンの如く威嚇しながら、ブリキの木こり同然にシークエンスをぶった切って、ここぞという箇所に自ら科白を書き入れた。何度も一緒に仕事をして、気心知れたダンス部門のスタッフ達との共同作業で、歌からダンスへという自然な映画の流れを作って行ったのです。この映画の脚本、脚色にハーバーグはクレジットされていませんが、陰のチーフ・シナリオライターがハーバーグだったことを当時のクルー達が証言しています。

  今回、改めてボームの原作を読んでみましたが、カンザスの単調な片田舎に暮らす少女ドロシーが虹を見る場面は全くありません。それどころか、原作に”rainbow”の文字はただの一度も登場しないのです。

  小麦とトウモロコシの畑が果てしなく続くカンザス、農場の片隅で眺める『虹』に夢を託して歌う〈Over the Rainbow〉、このモノクロの名シーンこそハーバーグの創造物だった。

  ハーバーグにとって「虹」は『夢』や『憧れ』の象徴として非常に特別な思い入れがあり、彼が創った様々な歌や作品に登場していて、かねがね『虹の仕掛人(Rainbow Hustler)』と自らを呼んでいた。中でも、この『Over the Rainbow』と、作詞、脚本&脚色に本格的にコミットした『フィニアンの虹』が代表的な仕掛けだと言えるでしょう。  

 =産みの苦しみー幻の『虹』=

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 〈Over the Rainbow〉は映画の中で最初に登場する歌、それもバラード、観客の心を掴みにしたい勝負のナンバー!ところがアーレンにとってが、最後まで産みの苦しみを味わったのが、この〈Over the Rainbow〉だった。ハーバーグから提示された曲のイメージは”「憧れ」を表現するバラ―ド”だったが、いくら考えてもメロディーが浮かばず行き詰まってしまった。曲を仕上げなくてはギャラがもらえない…気分転換に妻と映画でも見ようとチャイナタウンまでドライブする車中で、だしぬけに冒頭の8小節が閃いた。まさに天の啓示!意気揚々とハーバーグにピアノで聴かせたのだが、冒頭のオクターブで跳躍するオペラチックな曲想に、ハーバーグは思わずこarlen-dog.jpgう言った。「おいおいハロルド、これはテノール歌手のネタで、子供用じゃないだろうが…」キツい一言にアーレンはガックリして再び意気消沈…ハーバーグは、なんでも思ったことをズケズケ言っちゃうニューヨークの下町に育ったことを悔やんだ。しかし、何かにつけ互いにアドバイスし合う共通の親友であり偉大なる作詞家、アイラ・ガーシュウィンの助言が曲を救った。彼の言うように、少しテンポを変えてみたら、大仰さが文字通りレモン・ドロップのように溶けてなくなったのだ。次はサビだ!アーレンの居間のピアノの前で二人があれこれ考えている間に、愛犬が居間からどこかに行っちゃった。アーレンは落ち着きのない小型犬を呼び戻すため、手元に置いていたホイッスルをピロピロと鳴らした。すると、そのピロピロいう音がいいんじゃないか、ということになりサビが出来たのです。〈Over the Rainbow〉は二人の才能と、一人と一匹の友に助けられて完成したのだった。

 すったもんだの末、映画は綿密な編集作業を経て、ようやくファイナル・ヴァージョンが完成!しかし、そこから〈Over the Rainbow〉のシーンは消えていた。(つづく)

 

第33回トリビュート・コンサートの曲目

IMG_3281.JPG 去る11月17日に33回目となるトミー・フラナガンへの追悼コンサートを行いました。
生前のトミー・フラナガンの名演目をメドレーを含め20曲余り、寺井尚之(p)寺井尚之メインステム・トリオ(宮本在浩 bass 菅一平 drums)が演奏しました。

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 トミー・フラナガン・トリビュートは「フラナガンが築いた伝統を、習ったとおりにやる」コンサート、それは寺井尚之の生き方の表現なのかもしれません。

 フラナガンが亡くなって早17年、フラナガンを師匠と仰ぐ寺井尚之も66才になり、こんな風に挨拶していました。

teraiIMG_3025.JPG寺井尚之:「よう新聞で永代供養の広告を見ますけれども、あれは永久やのうて20年やそうです。トリビュート・コンサートは今回で17年目、そやから僕もあと3年はがんばろうと思てます。ありがとうございました。」

 今回も大勢お越しいただき感謝あるのみです!

 次回のトリビュートは2019年3月16日(土)、トミー・フラナガンの誕生日に予定しています。どうぞ宜しくお願い申し上げます。
 以下は、トリビュートで演奏したフラナガンの名演目の説明です。写真は「トミー・フラナガンの足跡を辿る」でおなじみの後藤誠先生です。後藤先生ありがとうございました。
 

 

1.Bitty Ditty(Thad Jones) ビッティ・ディッティ 

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サド・ジョーンズ
(1923-1986)
 フラナガンが’50年代中盤のデトロイト時代から作曲者であるサド・ジョーンズと愛奏した作品。ヒップ・ホップの流行で、日本でもよく知られるようになった”エボニクス”(黒人英語)は、”Bad!”= “Good!”で逆説的になる。つまり”Bitty Ditty”(ちょっとした小唄)の本当の意味は「とても難しい曲」なのだ。
 「サドの作品は、よほど弾きこまないと、本来あるべきかたちにならない。」-トミー・フラナガン談

*サド・ジョーンズ関連ブログ

2. Out of the Past (Benny Golson) アウト・オブ・ザ・パスト nights_at_the_vv.jpg
 テナー奏者、ベニー・ゴルソンがハードボイルド映画のイメージで作曲したマイナー・ムードの作品。ゴルソンはアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズや、自己セクステットで録音、フラナガンはゴルソンの盟友、アート・ファーマー(tp)のリーダー作『Art』で、後にリーダー作『Nights at the Vanguard』などで録音し、’80年代に自己トリオで愛奏した。
 人気ジャズ・スタンダードが多いゴルソン作品の内では知名度は比較的低いものの、フラナガンがアレンジした左手のオブリガードが印象的で、OverSeasで大変人気がある曲。
3. Rachel’s Rondo  (Tommy Flanagan) レイチェルズ・ロンド

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 フラナガンが美貌で有名な長女レイチェルに捧げたオリジナル曲。明るい躍動感に溢れる曲想は美貌の長女に相応しい。トミー・フラナガンはレッド・ミッチェル(b)エルヴィン・ジョーンズ(ds)とのアルバム『Super Session』の録音が唯一遺されている。恐らく現在愛奏する者は寺井尚之だけかもしれない。
4.メドレー: Embraceable You(Ira& George Gershwin)
   ~Quasimodo(Charlie Parker)
 エンブレイサブル・ユー~カジモド

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 トミー・フラナガンを語る時、「メドレー」の素晴らしさははずせない。近年の調査から、「メドレー」は、戦後から’50年代前半のデトロイトで盛んに演奏された形態だったことが判る。
〈エンブレイサブル・ユー(抱きしめたくなる魅力的なあなた)〉というガーシュインのバラードの進行を基に作ったBeBop作品に、チャーリー・パーカーは、原曲とは真逆の醜い”ノートルダムのせむし男”の名前〈カシモド〉と名付けた。〈カシモド〉はいわれなき差別を受ける黒人のメタファーであったのかもしれない。だが、ヴィクトル・ユーゴーの原作では、カシモドは密かに愛する美貌のジプシーの踊り子と天国で結ばれることになるのだ。フラナガンは、この2曲を組み合わせたメドレーで、深く感動的な物語を語ったのだ。
 *関連ブログ
5. Good Morning Heartache (Irene Higginbotham) グッドモーニング・ハートエイク 4-07-a-billie-holiday.jpg
  フラナガンのアイドルであり、同時に音楽的に大きな影響をうけた不世出の歌手ビリー・ホリディのヒット曲(’46)。フラナガンは「ビリー・ホリディを聴け!」と寺井尚之の顔を見るたびに言った。それから数十年、寺井のプレイはビリー・ホリディを彷彿とさせる。
6. Minor Mishap (Tommy Flanagan) マイナー・ミスハップ

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 フラナガンがライブで最も愛奏したオリジナル曲のひとつで、曲の語意は、「ささやかなアクシデント」だ。その曲名の由来は、初収録した『Cats』(’57)での演奏の出来栄えに隠されたほろ苦い顛末にある。
7. Dalarna  (Tommy Flanagan) ダラーナ sea_changes_cover.jpg
 『Overseas』に収録された幻想的な作品で、厳しい転調をさりげなく用いることによって洗練された美を湛える初期の名品。フラナガンが心酔したビリー・ストレイホーンの影響が感じられる。ダラーナは『Overseas』が録音されたストックホルムから列車で3時間余り離れたスウエーデン屈指のリゾート地。
 『Overseas』に録音後、フラナガンは長年演奏することがなかった曲だが、寺井尚之のCD『ダラーナ』に触発されたフラナガンは、寺井のアレンジを用い『Sea Changes』(’96)に再録した。「ダラーナを録音したぞ!」とフラナガンが弾んだ声で電話をかけてきたのが寺井の大切な思い出だ。
 
8. Tin Tin Deo (Chano Pozo, Gill Fuller Dizzy Gillespie) ティン・ティン・デオ

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ディジー・ガレスピー
(1917-1993)

 第一部のクロージングは、ディジー・ガレスピーが開拓したアフロ・キューバン・ジャズの代表曲。この曲のように、ビッグバンドの演目を、ピアノ・トリオでさらにダイナミックに表現するのがフラナガン流。
 現在はメインステム・トリオの十八番でもある。


<2部>

1. That Tired Routine Called Love (Matt Dennis) ザット・タイアード・ルーティーン・コールド・ラヴ

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マット・デニス
(1914-2002 )

 作曲者マット・デニスは、フランク・シナトラのヒット曲を数多く作曲、自らも弾き語りの名手として活躍した。JJジョンソンは、’55年、セレブ御用達のナイト・クラブ”チ・チ”でデニスと共演後、この曲を《First Place》に収録、ピアニストはフラナガンだった。自然に口づさめるメロディーだが転調が頻繁にある難曲で、そのあたりがバッパー好みだ。それから30年後、フラナガンは自己トリオで名盤《Jazz Poet》(’89)に収録。その際、「私以外にこの曲を演奏するプレイヤーはいない。」と語った。録音後もライブで愛奏を続け、数年後には録音ヴァージョンを凌ぐアレンジが完成させた。トリビュート・コンサートでは、寺井尚之が受け継ぐ完成形で演奏する。
2. Smooth As the Wind  (Tadd Dameron) スムーズ・アズ・ザ・ウィンド

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  一編の詩のような曲の展開、吹き去る風のようなエンディングまで、文字通りそよ風のように爽やかな名曲。
 ビバップの創始者の一人、タッド・ダメロン(ピアニスト、作編曲家)の耽美的な作品をフラナガンはこよなく愛した。〈スムーズ・アズ・ザ・ウィンド〉曲は、麻薬刑務所に服役中のダメロンがブルー・ミッチェル(tp)のアルバム「Smooth As the Wind」の為に書き下ろした作品で、アルバムにはフラナガンも参加している。
 
「ダメロンの作品には、オーケストラが内包されているから、弾きやすい。」-トミー・フラナガン

*タッド・ダメロン関連ブログ

 

3. When Lights Are Low (Benny Carter) ホエン・ライツ・アー・ロウ

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ベニー・カーター
(1907-2003)

 フラナガンが子供の頃に親しんだベニー・カーター(as.tp.comp.arr)のヒット作。フラナガンは ’80年代終りにカーネギー・ホールでカーターの特別コンサートに出演している。尊敬するカーターに選ばれたことを意気に感じたフラナガンは、この曲を盛んに演奏、今夜のように<ボタンとリボン>を引用して楽しさを盛り上げた。
4. Eclypso (Tommy Flanagan) エクリプソ eclypso.jpg
 フラナガンの代表曲、<エクリプソ>は”Eclipse”(日食や月食)と”Calypso”(カリプソ)を合わせた造語。ジャズメンは昔から言葉遊びが大好きだ。
 フラナガンは《Cats》、《Overseas》(’57)、《Eclypso》(’77)、《Aurex’82》、《Flanagan’s Shenanigans》(’93)《Sea Changes》(’96)と、多くのアルバムで録音を重ね、ライブでも愛奏した。
 寺井にはこの曲に特別な思い出がある。’88年にフラナガン夫妻の招きでNYを訪問した時、フラナガン・トリオ(ジョージ・ムラーツ.b、ケニー・ワシントン.ds)はヴィレッジ・ヴァンガードに出演中で、毎夜火の出るようなハードな演奏を繰り広げた。フラナガンは寺井を息子のようにもてなし、昼間は色んな場所に案内してくれて、あっという間に10日間が過ぎた。最後の夜の最終セットのアンコールで、フラナガンが寺井に捧げてくれたのがこの曲。
5. If You Could See Me Now (Tadd Dameron) イフ・ユー・クッド・シー・ミー・ナウ sarah_basie.jpg
 1946年、売り出し中の新人だったサラ・ヴォーンのためにタッド・ダメロンが書き下ろしたバラード。フラナガンは、ヴォーンのフレージングをセカンド・リフとしてピアノ・トリオ・ヴァージョンを作り上げた。しかし、寺井が師匠よりさきに『Flanagania』に収録してしまったために、フラナガン自身はレコーディングしなかった痛恨のナンバーだ。
6. Mean Streets (Tommy Flanagan) ミーン・ストリーツ

suga_IMG_3195.JPG菅一平(ds)

 『Overseas』(’57)では、”Verdandi”というタイトルで初演、その後、’80年代の終わりに、トリオに抜擢されたケニー・ワシントン(ds)のフィーチュア・ナンバーとして、彼のニックネーム “ミーン・ストリーツ”に改題された。トリビュート・コンサートでは菅一平(ds)のフィーチャー・ナンバー。
7. I’ll Keep Loving You (Bud Powell) アイル・キープ・ラヴィング・ユー Bud_Powell_Jazz_Original.jpg
 バド・パウエルの美学を象徴する、静謐な硬派のバラード。
トミー・フラナガンがパウエル作品を演奏すると、曲も持ち味を失うことなく、一層洗練された美しさが醸し出される。トリビュート・コンサートでは、寺井のフラナガンに対する想いが滲み出る。
6. Our Delight (Tadd Dameron) アワ・デライト tadd_dameron1.jpg
タッド・ダメロン
(1917-1965)

 タッド・ダメロンがビバップ全盛期’40年代半ばにディジー・ガレスピー楽団の為に書いた作品。
ビッグバンド仕様のダイナミズムを、ピアノ・トリオに取り入れるフラナガンの音楽スタイルがここでも顕著に表れる。
フラナガンがこの曲をMCで紹介する決まり文句は、「ビバップはビートルズ以前の音楽、そしてビートルズ以後も生き続ける音楽である!」だった。そで歓声が沸くと、プレイに一層気迫がこもった。

<アンコール>

With Malice Towards None (Tom McIntosh) ウィズ・マリス・トワード・ノン tommyflanagan-balladsblues(1).jpg
 ”ウィズ・マリス”はフラナガン流のスピリチュアルと言うべき名品。フラナガンージョージ・ムラーツ・デュオによる『バラッズ&ブルース』に収録されている。今は寺井尚之の十八番としても知られている。
 作曲はトロンボーン奏者、トム・マッキントッシュ(tb)、メロディーの基は、讃美歌「主イエス我を愛す」で、曲名はエイブラハム・リンカーンの名言の引用。
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  Chelsea Bridge (Billy Strayhorn) チェルシーの橋
whistler_old_butter.jpg   ”チェルシーの橋”はビリー・ストレイホーンの傑作、そしてフラナガンが『Overseas』(’57)、『Tokyo Ricital』(’75)と、繰り返し録音した名演目。フラナガンは晩年「ビリー・ストレイホーン集」の録音企画を進めていたが、実現を待たずに亡くなってしまったことが、残念だ。
 フラナガン同様、美術を愛したストレイホーンが印象派の画家、ホイッスラーの作品に霊感を得て作った曲と言われている。
  Passion Flower (Billy Strayhorn)パッション・フラワー  
   これもビリー・ストレイホーン作品で、花を愛したストレイホーン自身が最もよく演奏した曲。日本でトケイソウと呼ばれるパッション・フラワーは、欧米では磔刑のキリストに例えられる。
フラナガンの名パートナーだったジョージ・ムラーツの十八番としてよく知られている。今回は、宮本在浩の弓の妙技が特に好評だった。 
zaiko_passion.jpg宮本在浩(b)
  Black and Tan Fantasy (Duke Ellington)ブラック&タン・ファンタジー  
black-and-tan-29-photo-arthur-whetsel-fred-washington-duke-ellington-1.jpg   晩年のフラナガンは、BeBop以前の楽曲を精力的に開拓していた。ひょっとしたら、自分のブラック・ミュージックの道筋を逆に辿ってみようと思っていたのかもしれない。その意味で、禁酒法時代、エリントン楽団初期の代表曲「ブラック&タン・ファンタジー」は非常に重要なナンバーだ。
フラナガンがOverSeasを来訪したとき、寺井が「Black & Tan Fantasy」を演奏すると、フラナガンが珍しく絶賛してくれた思い出の曲でもある。
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名コンビ=フラナガン+ムラーツを育んだ《ブラッドレイズ》と太平洋戦争のこと(2)

Bradley's76108239408492687_n.jpg= 余りにもNY的な= 

(上のイラストはJohn Carey作)

 その昔、グリニッジ・ヴィレッジにあったジャズ・クラブ、《ブラッドレイズ》の全盛期は1970代中盤から、オーナーのブラッドレイ・カニングハムが病に倒れる’80年代後期と言われていて、トミー・フラナガン+レッド・ミッチェル/ジョージ・ムラーツ、ハンク・ジョーンズ+ロン・カーター、ケニー・バロン+バスター・ウィリアムズといった極上のピアノ・デュオが、ほぼ生音で、毎夜音楽の会話を繰り広げており、深夜2時から始まるラスト・セットは、多くのミュージシャンが集うNYジャズのコミュニティの中心地の様相を呈していた。一方、この店の奥に行けば、コカインなどの違法薬物が手に入るという噂も、(確認はしていないけど)NYたる所以。地元のジャズ・コミュニティの中では、セロニアス・モンクがその人生最後に(飛び入りではあるけれど)公衆の門前で演奏した歴史的聖地としても知られている。出演形態が「デュオ」というのは、当時のキャバレー法で三人以上のライブが制限されていたこともあるけれど、なによりも、1対1の対話形式のジャズが、オーナーだったブラッドレイ・カニングハムの好みだったのかもしれない。 

   ブラッドレイは、トミー・フラナガンやジミー・ロウルズといったお気に入りミュージシャンがやって来ると、時にはピアノの手ほどきを受けながら、朝まで一緒に飲み明かした。その当時をブラッドレイは「人生で最高のひととき」と語っている。彼の波乱万丈の人生の中、音楽の対話こそが癒やしだったのかもしれない。

=テニアン→オキナワ→ナガサキ= 

 ブラッドレイ・カニングハムは、1925年生まれ、日本で言えば大正15年、戦争中、学徒動員で明け暮れた私の両親より少し上の世代です。彼の両親は幼いころに離婚し、母親に育てられました。彼の父親は家を出ていく前日に、そんなこととは知らない6歳のブラッドレイを、スチュードベーカーのどでかいコンバーチブルに乗せて遊びに連れていってくれた。そして、最高に楽しい一日の終わりに、唐突な別離を宣告された。彼は、そのときのショックを一生引きずって生きたのかもしれない。以降、全米各地を転々とし、ようやく大学に入学した頃には第二次338125_275226442515015_1056041608_o.jpg大戦が始まっていた。1943年、ブラッドレイは、海外での武力行使を前提とする海兵隊に志願した。それは、愛国心というよりも、徴兵されて陸軍に行かされるよりもましという選択だったたらしい。戦艦アイオワに乗り、パナマ運河からハワイを経て、日米の激戦地として有名なマリアナ諸島のテニアン島へ…そこで彼は、おびただしい数の日本兵が絶壁から身を投げて自決するのを目の当たりにした。 

 テニアン島制圧後、ブラッドレイは上層部の指令により、サイパンの米軍日本語学校でみっちり敵国語の勉強をすることになった。日本陸軍が英語教育を撤廃していた頃、アメリカは日本語を理解し、敵を研究しようとしていたんですね。研修が終わった1945年4月、沖縄に向かい、日本兵の投降を呼びかけ、捕虜となった兵士の尋問を担当した。ひょっとしたら、沖縄上陸作戦に通訳として動向した日本文学者、ドナルド・キーン氏との邂逅があったのかもしれない…捕虜尋問の際、ブラッドレイが驚いたのは、日本兵が自分の認識番号を知らなかったこと!日本兵には「捕囚」は汚辱であり、「捕虜」になることがもとより想定されていなかっというのは更に驚くべきことだった。

 

008.jpg 1945年8月9日、長崎市に第二の原爆が投下され終戦を迎えた直後、ブラッドレイは長崎に上陸しています。ブラッドレイは、名ライター、ホイットニー・バリエットのインタビューで戦争体験をかなり仔細に語っている。でも、被爆後のナガサキについては、「皆の言うように、実に悲惨だった。」と言葉が少なだ。ナガサキの惨状を見たブラッドレイは除隊を決意し、翌1946年に帰国-大学に戻ったが、不安症候群に陥り休学を余儀なくされた-今で言うPTSDだったのかも知れない。以来、職を転々としNYに落ち着いてからも、アルコールと薬物中毒に陥り、何度か入退院を繰り返した。

  

 ブラッドレイは、NewYorkerのインタビューの中で、本国に帰還する頃になると、「日本という国と日本人が大好きになっていた。」と語っている。彼は《ブラッドレイズ》を訪れた日本人客に日本語で話しかけて、驚かせることも多かったと言います。

 

 見かけは大柄のタフガイだったブラッドレイ・カニングハム、彼がデュオを愛したのは、傷だらけの心を癒やしてくれたからではなかったのかな?

「トミー(フラナガン)は快活でウィットがある。彼と一緒に居るのは好きだね。10年ほど前の、ニューポート・ジャズフェスティバルの間、トミーエラ・フィッツジェラルドの伴奏でこっちに来ていて(訳注:その頃フラナガンはアリゾナに住んでいた。)、その空き日に出演してもらったことがあった。ジョージ・ムラーツとのデュオだったが、初日に、客が誰も来なかったんだ。トミーの知り合いも誰も来なかったんだ。

私もこの業界で長らくやってるから、こんなことがあるのは承知の上さ。成す術なし!せいぜい肩をすくめて、お手上げのジェスチャーをするのが精一杯さ。

トミーとジョージはあたりを見回し、顔を見合わせていたよ。しかし、このデュオは音楽的に一体だった!その夜、閉店後の二人のちょっとした演奏は、私が今までに聴いたこともないほど独創的でスイングしていたなあ。すべからくピアニストたる者は、まず聴く者を笑わせてから、笑った彼らの同じ心が張り裂けるほどの感動を与えなくてはならない。トミーの演奏は、まさしくその手本だ!」-ブラッドレイ・カニングハム

参考文献:

The New Yorker, February 24, 1986

The New Torker, October 11, 1982

BarneyBradley, and Max: Sixteen Portraits in Jazz /Whitney Balliett著(Oxford University Press)

The Perfect Jazz Club / Nat Hentoff(Jazz Times)

The Bradley’s Hang (Ted Panken)

Bradley’s (David Hadju)

 ー終戦の日に-

名コンビ=フラナガン+ムラーツを育んだ《ブラッドレイズ》と太平洋戦争のこと(1)

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  先週の土曜日の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」でトミー・フラナガン&ジョージ・ムラーツ・デュオの名盤『バラッズ&ブルース』(Enja)を聴いていて、その昔、このデュオが頻繁に出演していた《Bradley’s (ブラッドレイズ)》というクラブがあったことを懐かしく思い出しました。

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 《ブラッドレイズ》(1969-’96)は、グリニッジ・ヴィレッジのワシントン広場の近くにあったピアノ・ジャズ主体のクラブだった。《ヴィレッジ・ヴァンガード》や《ブルーノート》といったNYの主要ジャズ・クラブが、シアター形式で観光名所でもあったのに対して、ここは地元密着型のカジュアルで清潔な空間。ライブは10pmからで、早い時間帯は、おいしいカクテルや料理目当てのホワイトカラー(当時はYuppieって呼ばれてた。)でにぎわう、こじんまりした店でした。開店当時(’69)は、オーナーであるブラッドレイ・カニングハムが親友のロイ・クラール(ジャッキー&ロイの)から150ドルで譲り受けたエレクトリック・ピアノを、ジョー・ザヴィヌルやデイヴ・フリッシュバーグが演奏していたのだけど、店の常連だったポール・デズモンドがボールドウィンのグランドピアノを提供したことから、ピアノとベースのデュオが主体の上質な音楽が楽しめるクラブになったらしい。開店当初は閑古鳥が鳴いていたのだけど、ウディ・アレンが《ブラッドレイズ》でくつろぐ写真が雑誌に載ったことから、爆発的にお客が増え、繁盛店になったのだとか。

 

 ブラッドレイは音楽の趣味がよく、とりわけトミー・フラナガンが大好きだった。彼は1988年に63才の若さで亡くなり、その後を未亡人のウエンディが引き継いだ。代替りしてからは、ドラムやホーン奏者が盛んにブッキングされるようになり、不慮の火事で’96年に閉店、ジモティのベーシスト、Yas竹田によると、この場所は現在スポーツ・バーになっている。 

clip_image134.jpg フラナガンは、この店でレッド・ミッチェル(b)やジョージ・ムラーツ(b)と常時演奏を重ねることによって、磨きのかかったマテリアルを、さらにピアノ・トリオ形式に用いて大きく開花させました。そんなプロセスの中で生まれたアルバムが『バラッズ&ブルース』―〈With Malice Towards None〉〈They Say It’s Spring〉…フラナガン・トリオの十八番の初期ヴァージョンが、ラインとパルスの兼ね備えたジョージ・ムラーツという最高のパートナーを得て、1978当時、他に例をみない斬新さと自由さ、そして品格を持つデュオローグになっています。もちろん、後になってから気づいたことだけど…

 もし《ブラッドレイズ》で、この二人が頻繁に演奏していなければ、『バラッズ&ブルース』の完成度に到達することはなかったでしょう。フラナガンのみならず、この店に常時出演した多くのピアニストやベーシスト達の、デュオ形式によるジャズの発展という意味でも重要な場所だったと言えるでしょう。

 

=夢のジャズ・クラブ=

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 《ブラッドレイズ》は、朝方まで営業していて、夜が更けると、騒々しいヤッピーたちは退散し、ヴィレッジ界隈の主要ジャズ・クラブに出演中のミュージシャン達や、その演奏を聴いて勉強していた若手ミュージシャン、それにパパ・ジョー・ジョーンズ(ds)のような大御所さま…ありとあらゆるジャズ界の名士たちがやって来た。運が良ければ、フラナガンやバリー・ハリスを聴きに来たパノニカ男爵夫人にさえ会える。ジャズを愛する人にとっては、最高の社交場!私たちを初めて連れて行ってくれたのはフラナガンで、寺井尚之を、レッド・ミッチェル(b)と一緒に演奏させてくれた。宿泊先にアーサー・テイラー(ds)から電話がかかってきて「明日の晩、僕は《ブラッドレイズ》に行っているからヒサユキと一緒においで。」なんて言われたら、もう有頂天でした。

=ブラッドレイ・カニングハム=

 そんな夢の空間の創設者、ブラッドレイ・カニングハム(1925-88)は伝説的バーテンダー、シカゴで生まれてから、色んな土地を渡り歩きNYに落ち着いた。何店かバーを開店して利益が出たら売却し、’69年にオーB24373_104802289557432_7024570_n.jpgプンしたのが《ブラッドレイズ》で、これが最後の店になった。ブラッドレイはハンサムな大男、カクテルの腕前は伝説的で、話し上手、聞き上手、喧嘩が強くてピアノも上手、それに日本語も堪能だったらしい。彼が出演を依頼したアーティストはテディ・ウイルソン、ハンク・ジョーンズ、フラナガン、バリー・ハリス、ケニー・バロン…ブラッドレイは、ピアノの鍵盤を「叩く」のではなく「弾くことのできる」ピアニストが好みだった。そんな趣味の良さと人柄で、多くの名手たちが、好んで出演したのでしょう。彼とジョージ・ムラーツ、エルヴィン・ジョーンズ(ds)の誕生日が9月9日だったので、バースデー・パーティはいつも三人一緒だったそうです。ムラーツはブラッドレイの一人息子の名前をとった〈Jed〉という曲を作って、サー・ローランド・ハナのアルバム『Time for the Dancers』(1977, Progressive)に収録しています。

(続く)

アキラ・タナ- ロング・インタビュー(後編)

好感度満点!

パーカッショニスト Akira Tana (後編)

OFC_0118JJ coverlink.jpgJazz Journal Magazine 2018 1月号より:

=ボストンから世界へ=

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(前項から続く ハーヴァード大学からニュー・イングランド音大へ、驚異的な学生ドラマーとして地元シーンで注目を集めたアキラにとって、ボストン時代で最高の体験は1978年にやってきた。彼のアイドルであったソニー・ロリンズと共演する機会を得たのだ。このチャンスもまた、当時ロリンズのベーシストだったジェローム・ハリスとの仲間としての友情のおかげだった。  

s-rollins.jpgアキラ・タナ:「ソニーは、言わばドラムを含め、自己バンドの転換期にあった。それでジェリーがこう言ってくれた。『ソニーがNYでドラムのオーディションをやることになったんだけど、受けてみないか?』そこで僕はNYに出かけ、オーディション会場になっているリハーサル・スタジオに行った。-僕が一番乗りだったんだ。-そしてソニーと僕のデュオで演奏させられた。30分、45分…それくらいたっぷり一緒にやった。まるで夢が現実になったみたいだったよ。だって、あのソニー・ロリンズと僕が同じ部屋に一緒に居て、サシで演ってるんだから!僕の他にドラマーが2,3人、それにピアノやギター弾きも居たけれど、ロリンズは僕に、終わるまで残っているよう告げた。言われたとおり、居残っていたら、オーディションの終了後、彼が僕のところにやってきて、2週間のツアーに帯同してくれないかと言ったんだ。」


  ロリンズとの共演は、この若手ドラマーにとって強烈な体験となった。

「それまでボストン周辺では、ヘレン・ヒュームズと何本か仕事をしていたし、結構好評だったんだ。しかし、この種のハードな音楽でツアーをしたのは初めてで、精神的にも体力的にもクタクタになってしまったけど、とても貴重な経験になったよ…だって2時間で1セットなんだよ。彼はプレイを始めたら、止まることなく吹き続けるから…」 

 10年に渡るボストンでの生活に区切りをつけ、アキラは本格的なプロとしてのキャリアをスタートさせるためにNYに進出したが、ここでも、ボストンで築いた音楽的人脈が大いに功を奏した。そして、彼の成功の源は、ちょうど良いタイミングにちょうど良い場所に居ること、そして何事にも常に前向きな姿勢であるところだ。

Julian_Priester.jpg「ジュリアン・プリースターがNYでの仕事について言っていたことを思いだすよ。『人脈作りが仕事のうちだ。声がかかれば、自分にはいつでも仕事をする準備ができていると、皆に知ってもらうこと。いつでも彼に頼めると思ってもらえる状況を作ることだ。』自分でチャンスを作ること、存在を意識してもらうようにすること。それが彼の教えだった。」

 

 

  彼の教えどおり、アキラ・タナは、1980年代全般、NYを拠点したフリーランスのドラマーとして注目度が増す。信頼できるパーカッショニストとして、またバンド・メイトとして、音楽的にも人間的にも高い評価を得たことが、数え切れないほどの演奏とレコーディングを依頼される結果となった。多くの録音の中で特に思い出に残っているのが、ズート・シムズ(ts)との共演盤三作で、そのうち2枚はピアノにジミー・ロウルズが参加している。これらは非常にリラックスしたセッションとなった。

R-7503031-1442825362-8907.jpeg.jpg「ズートは言った。『これはレコーディング・セッションだ。だから時間どおりに来て、ドラムをセットして、演奏すりゃいい。』彼が曲名をコールすると、リハーサルなしで録音したんだ。あんなすごい人達と演奏するのは素晴らしいことだった。ジミーは名作曲家でありピアノ奏者、ビリー・ホリディやエラ・フィッツジェラルド…すごい人たちと一緒に演ってきた…だから、こんなすごい人達と付き合い、一緒に録音したものがレコードになって残るとは、本当にありがたいことだね。」

 

しかし、パブロでの録音の全てが、ズートやジミーとの関係のようにスムーズなわけではなかった。

 norman_granz.jpg「一連のセッションで、最も記憶に残っているのは、ノーマン・グランツとのことだ。録音場所がRCAのスタジオで、そこは通常、トスカニーニのような人の大編成オーケストラが使うような大スタジオだった。だだっ広いスタジオの中で、僕たちのセッティングが離れ離れの位置になっちゃった。おかげで、ピアノも、誰の音もちゃんと聴こえない。僕の位置は他のプレイヤー達から一番離れた隅っこだったから。それで、僕はノーマン・グランツに『ヘッドフォンを使わせてもらえませんか?誰の音も聴こえないんです。』と頼んだ。するとグランツのお説教が始まった。昔から、どの時代でも、誰もそんなものは使わん!だからお前も必要ないってね。それで、ちょっとイラっとして、『ズートの音も聞こえません。ジミー・ロウルズが何を弾いてるのかも聞き取れないんです。だからヘッドフォンが必要なんですっ!』と言い返した。そうしたら、やっと彼がヘッドフォンを持ってきてくれて、皆の音が聞こえるようになった。このレコーディング・セッションが忘れられないのは、多分それが理由なのかも知れないね。」

  NYに進出したアキラは、他にアート・ファーマー(tp)やキャロル・スローンといったミュージシャンとも共演。そして、ジミー・ヒース、パーシー・ヒースの”ヒース・ブラザース”の一員としての長期に渡る活動(1979-82)は、数枚のLPに結実し、彼の名声が確立する。NY時代は、ドラマーとして多忙を極め、多くのレコーディングにも参加している。もう一枚の思い出深いセッションは、1989年録音のジェームズ・ムーディのアルバム『Sweet And Lovely』である。

cover_039.jpg「ジェームズ(ムーディ)がセッション前にこう言った。『私の友人が一人、このセッションに参加することになっている。もうすぐやって来るはずなんだが…』彼は、その友達が誰だか言わなかったので、てっきり、からかっているんだと思ってた。だが、それはディジーだったんだ。ディジーがやって来て、3-4曲一緒に録音した。その中の一曲が強烈に記憶に残ってる。シャッフル・ブルースみたいなので、二人がスキャットしたり歌ったりし始めた。すると、エンジニアのジム・アンダーソンは、それををうまくヴォーカル・トラックに作り上げだ。そして、結果的にグラミー賞最優秀ジャズ・ヴォーカル部門にノミネートされた!」(ディジー・ガレスピーはこのアルバム中〈Con Alma〉と〈Get the Booty〉の2トラックに参加している。後者がタナの言及したシャッフル・ブルースで、ディジーは1957年、ソニー・ロリンズとソニー・スティットをフィーチャーしたVerve盤『Duets』に〈Sumphin’〉という別タイトルで録音した。)

XAT-1245399253.jpg 1990年代の到来とともに、アキラ・タナの活動主軸は”タナリード”となる。”タナリード”は、ベーシスト、ルーファス・リードとの双頭バンドとして、9年間に渡って活動を続けた。ジャズ史の谷間的世代にもかかわらず、この名コンビのアルバムは、何枚もヒットを記録している。

  僕はノーマン・グランツに頼んだ。『ヘッドフォンを使わせてもらえませんか?誰の音も聴こえないんです。』するとお説教だ。「昔からどの時代でもそんなものは使わん!だからお前も必要ない!」僕は少しイラっとした。 

「僕たちよりも前の世代は、時代を越えて高い知名度を保っているし、僕たちより下の世代となると、ウィントン&ブランフォード・マルサリスのように、ヤング・ライオンとしてマスコミに大きく注目されていた。だから、僕たちのような、中間に属する世代のプレイヤーは、彼らに比べると日陰の存在だ。でも、僕たち(タナリード)は、ツアーで自分たちの音楽を演奏することができた。本当に素晴らしい体験だったよ。」 

 ’90年代の終わり頃、家庭の事情でサン・フランシスコのベイエリアに戻った後も、アキラは、日本ツアーを時々行いながら、地元ジャズ・シーンで存在感を見せつけている。大都市NYの最尖端の音楽シーンでチャレンジを続けた時代を懐かしむ気持ちはあるものの、彼は自分の選んだ人生について達観している。

「確かに楽しい仕事のチャンスはあるよ。だがその一方で、生き残るために、余りグッとこない仕事もしなくては…そういう生活はうっぷんがたまる。あとになって後悔することを、最初からやるべきじゃない。」

 -悪くない人生哲学だ。そんな彼の生き方は、今後もジャズ・シーンに於いて、巨匠パーカッショニストとしての大きな存在感をずっと発揮し続けると強く確信させてくれる。(了) 

インタビュー by Randy Smith

Akira Tana Selected discography

As leader

Otonowa, Acannatuna Records

Moon Over The World, with Ted Lo & Rufus

Reid (Sons of Sound)

Secret Agent Men, with Dr. Lonnie Smith

(Sons of Sound)

As co-leader

TanaReid: Back To Front (Evidence)

TanaReid: Yours And Mine (Concord)

As sideman:

Al Cohn: Overtones (Concord)

Claudio Roditi: Gemini Man (Milestone)

Heath Brothers: Expressions Of Life (Columbia)

Heath Brothers: Live At The Public Theatre

(Columbia)

James Moody: Sweet And Lovely (Novus)

Zoot Sims: I Wish I Were Twins (Pablo/OJC)

Zoot Sims: The Innocent Years (Pablo/OJC)

Zoot Sims: Suddenly It’s Spring! (Pablo/OJC)

アキラ・タナ- ロング・インタビュー(前編)

 我らがヒーロー、興味の尽きないアーティストであり一人の人間、アキラ・タナが、今月後半から単身来日。5月3日にはOverSeasに待望の来演を果たします。

 ”Interlude”ブログ復帰初投稿は、英国のメジャー・ジャズ雑誌“ジャズ・ジャーナル”誌の1月号に掲載されたアキラ・タナのカバー・インタビューの日本語訳です。

 世界のどこに行ってもアキラさんは尊敬され好かれるんだ!という印象を新たにした読み応えのある内容でした。

 来日前にアキラさんのジャズ・ライフを覗いた後は、ぜひOverSeasにも聴きにきてください!

 長文なので、まず前編から:

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akira_tana_2016.jpg好感度満点!

パーカッショニスト Akira Tana 

1970-80s-ズート・シムス、ソニー・スティット、ジェームズ・ムーディはじめ、スイングからバップの激動期を生き抜いたベテランの巨匠と幅広く活躍したドラマー、アキラ・タナの素顔にランディ・スミスが迫る。

 

ソニー・ロリンズとの共演について:
「この種のハードな音楽でツアーをしたのは初めてで、精神的にも体力的にもクタクタになってしまったけど、とても貴重な経験になったよ…だって2時間で1セットなんだよ。彼はプレイを始めたら、止まることなく吹き続けるんだから・・・

「アキラ・タナはとてつもない才能のミュージシャンだ。私を含め、仲間たちから尊敬されている。…礼儀正しく素晴らしい人物で、長年、家族ぐるみで親しく付き合っている。」-この賛辞の言葉は、当時89才のジミー・ヒースが、”ヒース・ブラザース”時代のアキラ・タナについて、E-mailで寄せてくれたコメントの抜粋だ。

 また、ベテラン・ピアニスト、ジュニア・マンス(87才)も、同様の質問に対して、以下のように明言する。「アキラは滅茶苦茶すごいドラマーだ。彼自身も最高だし、どんな最高のミュージシャンたちと一緒に演っても、しっかりタイム・キープができる名手だ。」

 

 これらの発言から、多くのミュージシャンたちが、ライヴやレコーディング・セッションにアキラを好んで使う理由が、お分かりになるだろう。彼と共演した大物ミュージシャンのごく一部を挙げても、アート・ファーマー、アル・コーン、ズート・シムス、ソニー・ロリンズ、ディジー・ガレスピー、ジム・ホール、ジョニー・ハートマン、ジミー・ロウルズ、ケニー・バレル、ジャッキー・バイアード、クラウディオ・ロディッティ、レギュラーとしては、前述のザ・ヒース・ブラザーズ、パキート・デリヴェラ、アート・ファーマー+ベニー・ゴルソン・ジャズテット、ジェームズ・ムーディなどが続く。また、ベーシスト、ルーファス・リードとは”タナリード”を結成し、’90年代に、ほぼ9年間に渡りツアーやレコーディングを行なった。 

otonowafrontcover_227.jpg 近年のアキラ・タナの活動として“音の輪(Otonowa)”というグループがある。”Otonowa”は日本語で “sound circle”という意味だ。グループ結成のきっかけは、2011年に起こった東日本大震災だ。アキラと志を同じくするバンド・メンバーは、アート・ヒラハラ(p)、マサル・コガ(reeds)、ノリユキ・ケン・オカダ(b)である。”音の輪”は、同名タイトルのアルバムをリリース、日本ゆかりのメロディーを新鮮なジャズ・ヴァージョンに甦らせ、震災の被害にあった東北地方の慈善ツアーを何度も行なっている。

 だが、アキラ・タナは、このような活動に至るまでに、どんな経緯があったのだろう?それを解明すべく、筆者はスカイプ・インタビューを敢行。以下は、好感を抱かずにはいられない魅力あふれるジャズ・アーティスト、アキラ・タナとの楽しい邂逅のハイライトである。

 インタビューを始めるにあたって、私は彼が1952年3月15日、カリフォルニア州サンホセ生まれであることを確認し、日本人移民である両親の影響について尋ねてみた。

 

アキラ・タナ「僕の母親は歌人で琴とピアノを弾いていました。だから、”芸術”という意味では、多分母の影響があったのだろう。」

 

アキラにとって、生まれて初めての打楽器体験は、この母がレンタルしてくれたスネア・ドラムだった。また、彼はピアノのレッスンを受け、トランペットも少々演奏する。早くからロック・バンドでドラムの演奏を始めて、『Miles Smiles/マイルス・デイヴィス』のLPを手に入れたのがきっかけで、ジャズへの興味がわいた。

 

「多分8年生か9年生の頃(日本の教育制度では中2か中3)、ロック・バンドをやっていたんだ。バンド仲間は皆2-3才年上でね、メンバーの一人が、このレコードを好きじゃないからと言って、僕に1ドルで売ってくれた。マイルス・デイヴィスは聞いたことがあったので興味が湧いた。何をやってるのかさっぱり理解できなかったから。でも、そのレコードのサウンドに圧倒されてしまったんだ!」

 

’70年代初め、ボストンのハーヴァード大在学中、ドラマー、ビリー・ハートと親交を持ったことから、タナのジャズ・パーカッションへの興味が生まれた。ハートは、バークリー音楽院で教えるベテラン・ドラマー、アラン・ドウソンに師事するように勧め、アキラは彼の言葉に従い、1年半の間、ドーソンの元でしっかりと研鑽を積んだ。彼から叩き込まれたテクニックと練習方法は、現在に至るまで、後進の指導と自分自身が演奏に活用し続けている。

1974年、ハーヴァード大学を卒業したタナは、ニューイングランド音楽大学に入学、クラシック音楽の打楽器に関する基礎知識をしっかりと見に付けた。それと同時に、出来る限りギグに勤しんだ。

combatzone1.jpg「僕は、管弦楽の打楽器の学習に時間の大部分を費やし、その傍ら、生活費を稼ぐためにありとあらゆるギグをこなした。ボストンの”コンバット・ゾーン”(ボストンの赤線地帯)と呼ばれる赤線地帯でストリップの伴奏もやったよ。ストリップ小屋ではオルガン・トリオを使っていたからね。」

 

  ’70年代半ばから終わりにかけてのボストン時代、アキラはドラマーのキース・コープランドと親交を結んだことがきっかけで、単発で、ジャズの名手たちとの共演が始まる。共演者の中には、名歌手、ヘレン・ヒュームズが居た。

タナは当時を回想する。-「彼(コープランド)が(引き受けていたのに)都合の悪くなったギグは、それがどんな仕事であっても、僕に代役を回してくれた。その中の一本がヘレン・ヒュームズ(vo)で、バックがメジャー・ホリー(b)、ジェラルド・ウィギンズ(p)というメンバーだった。」

 他にも、ソニー・スティット(ts.as)やミルト・ジャクソン(vib)といった大物達にリズムを提供する仕事があった。その中でもスティットとの1週間に渡るギグは特に思い出が深い。

sonnystitt.jpg 「ソニー・スティット!いつも彼はかなり酔っ払っていた。ベーシスト のジョン・ネヴスは、ソニーと同世代だが、ピアノのジェームズ・ウィリアムズと僕は、ずっと若造だった。そのせいかもしれないが、ソニーは演奏中に、何度か僕とジェームズの方へ振り返って、どなりつけたんだ。当然だけど、震え上がったよ。まず彼の才能のすごさ、そして彼の振る舞いにね。でも、ジョン・ネヴスはさすがに、そういう時はどうすればいいかを知っていた。『つけ込まれたら、やり返せ!』だね。それでソニーにこう言ってくれた。『ギャーギャー言わずに、プレイしろ!』するとソニーは彼の言う通り怒鳴るのをやめて、前を向いてひたすらプレイしたんだ。」

 

アキラにとって、ボストン時代で最高の体験は1978年にやってきた。彼のアイドルであったソニー・ロリンズと共演する機会を得たのだ。このチャンスもまた、当時ロリンズのベーシストだったジェローム・ハリスとの仲間としての友情のおかげだった。(続く)

39thlogo.jpg39周年記念ライヴ5/3-5/5開催

ご無沙汰です!ブログ復活

39thlogo.jpg ご無沙汰しています。

 家業と家事と翻訳、3月のトミー・フラナガン・トリビュート…仕事の合間に、ちょっとゆっくりしていたら、あっという間に半年が経過していました。

休載している間も、既刊の記事にコメントいただき、本当にありがとうございました。

 体調と相談しながらぼちぼちとリスタートしていきますので、宜しくお願い申し上げます。

Jazz Club OverSeasも、今年で開店39周年、5月の連休5/2-5/5に記念ライヴを開催します。

初日は、巨匠ドラマー、アキラ・タナ、そして寺井尚之の爆笑スタンダード集、最終日は、OverSeasが誇る中井幸一クインテットによるJ.J.ジョンソン特集という、超おすすめの3日間です。

 旅行で大阪に立ち寄られる皆様、旅行に行かない大阪の皆様、ぜひこの機会にご来店宜しくお願い申し上げます。

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 詳細はhttp://jazzclub-overseas.com/GW_jazz__events_2018.html

トリビュート・コンサートの前に:「トミー・フラナガン語録」

 土曜日はTribute to Tommy Flanagan=トミー・フラナガン追悼コンサート開催!

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 2001年11月16日にトミー・フラナガンが亡くなって以来、誕生月3月と逝去月11月に行なってきたトリビュート・コンサート、早いもので31回目となりました!

 トミー・フラナガンを一途に敬愛する寺井尚之(p)と宮本在浩(b)、菅一平(ds)のメインステム・トリオが精魂込めて演奏する名演目の数々。

 トミー・フラナガンがお好きな皆様も、まだ聴いたことのない皆様も、ぜひ一度トリビュート・コンサートに来てみてくださいね。

  OverSeasでは、毎月第二土曜に、トミー・フラナガンのディスコグラフィーを年代順に解説する講座「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」を続けています。  今回は、講座の下調べに使った様々な書物から、トミー・フラナガンの名言をピックアップ。数々の名盤に参加し、名伴奏者の誉れ高いトミー・フラナガン。歴史的レコーディングの一翼を担ったフラナガンの深い言葉の数々、トリビュート・コンサートのウエルカム・ドリンク代わりにどうぞ!

「サイドマン稼業:’50sを回想して」

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 「サイドマンのほうがずっと気楽に録音の仕事が出来る。…だが’50年代にやった多くのレコーディングはそれ程簡単ではなかったがね、何故なら頭の中で全部アレンジしなければならない。イントロもエンディングも考えて、自分のソロの心配までしなくちゃならない。だが演奏に没頭できて、自分にとっては良い時代だった。トップミュージシャン達の共演が目白押しで、凄い量の演奏をこなした。それで毛がごっそり抜けちゃったんだよ。(笑い)

   リハーサルなんて殆どないさ。録音の場で全てが行われ、大抵が1セッションだった。今と大違いだ。ミュージシャンのアドリブ重視のポリシー(フラナガンがSロリンズの『サクソフォン・コロッサス始め多くの歴史的名盤に参加したレーベル、Prestigeの謳い文句)なんて関係ない!予算の問題だ。潤沢な予算のある録音の見込みなどないとわかっていたしね。(笑)

  製作側も、完璧なサウンドを要求することは、あまりなかったんだ。例えば、「どこまで完璧にソロを録音するか」といった目標はなかった。今じゃ気にいらないところは編集でカットできるが、その頃の録音は、ミスも何もかも全部聞こえてしまう。だが当時はその方が好きだった。

=若いときから頑固者=
Collector’s Items / Miles Davis (Prestige ’56)

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  『コレクター・アイテムズ』は、マイルス・デイビスとの共演だ。<ノー・ライン>と<ヴィアード・ ブルース>というブルースを2曲と、デイブ・ブルーベックのバラード<イン・ユア・オウン・スウィート・ウエイ>を録音した

 トミー・フラナガン:「録音は私の誕生日だった。26才の誕生日、3月16日だ。マイルスはコルトレーンやフィリー・ジョー・ジョーンズとクインテットを結成する以前、デトロイトに数年間住んでいたんだ。(麻薬中毒治療のため)

  その時期、デトロイトにあるクラブ《ブルーバード・イン》で彼と共演していた。私は、ビリー・ミッチェル(ts)がリーダーのハウス・バンドの一員で、マイルスは、そこにゲストとしてで数ケ月入っていた。

  それは、マイルスは自分を立て直そうとしていた時期で、当時はチャーリー・パーカーの共演者として有名だった。… 

  そういうことがあって、私にお呼びがかかったんだ。録音セッションでは、終始いい感じで演奏した。ブルーベックの1曲(In Your Own Sweet Way)以外はね。その曲は変なきっかけで録音することになったんだ。マイルスの尻のポケットにその曲の簡単なコードのメモが入っていた。イントロのボイシングをマイルスが僕に指示したのを覚えているよ。彼は、自分が求めるものを常に正確に把握していたから、僕にこんな感じで囁いた。  (マイルスのしゃがれ声を真似て・・)「’ブロックコードを弾いてくれ。ミルト・バックナー風ではなくて、アーマッド・ジャマールみたいにな。」… でも、私はそういう弾き方が余り好きになれなかったんだ。一方、レッド・ガーランドがその奏法に飛びついた。アーマッドのプレイは大好きだけど、自分は彼のように弾きたいとは思わなかったんだ。」

=Saxophone Colossus / Sonny Rollins (Prestige ’56)=
ホーキンスの次に好きなサックス奏者

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 質問:歴史的名盤『サクソフォンコロッサス』でソニー・ロリンズと共演された時、スタジオ内にエクサイティングな雰囲気はありましたか?

 トミー・フラナガン:「演奏曲がエクサイティングだったかどうかは覚えていない。ただ、ソニー・ロリンズとレコーディングで共演することで私は興奮していた。コールマン・ホーキンスを別にすれば、ロリンズは私が当時最も好きなサックス奏者だったから。

質問:<ブルー・セブン>が絶賛を受け、その後のロリンズは一時引退しましたが、それについて、あなたは困惑されましたか?

 トミー・フラナガン:「全然!ソニーはほとんどシャイといっていい人間だったからね。だから音楽からも、バンドスタンドからも離れた。彼をインタビューに引っ張り出そうとしても凄く難しいと思うよ。彼はステージでも、イナイナイバーみたいに顔を隠して上がるくらいシャイな人だった。聴衆に余り近付きたがらなかった。

 まあ、あれほど素晴らしいミュージシャンなのだから、例え<ブルー・セブン>が絶賛されても、どうってことはないさ。(笑) 実際の彼はあの演奏よりもっとすごいのだから。

=The Incredible Jazz Guitar / Wes Montgomery (’60)=
西洋音楽の教義に縛られないミュージシャン

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  トミー・フラナガン:「ウエスの噂はよく聞いていた。レコーディングする前から伝説的存在だった。ピックを使わずに親指だけでプレイするギター弾きとして、噂は良く聞いていた。コーラス毎に次々とコードを付けをして、同じ事は二度と繰り返さないとね。このセッションでも、彼は正にその通りだった。それほどインクレディブルだったんだ。

  録音でのウエスは、噂に聞いていたことは全て実際にやってのけた。それにもかかわらず、ウエスは自分の腕前についてとてもシャイなところがあった。

 『Wow! 凄いや!もう一度聞いてみようよ!』『Wow! 本当に君が弾いてるのかい!信じられない!』…そんな風に誉められるのを嫌がった。自分の超絶技巧やプレイについて話をしたがらなかった。

   おかしな奴だった。「譜面が読めない」という理由だけで、自分を良いミュージシャンだと思っていなかった。読めないミュージシャンには良くあることなんだ。素晴らしいミュージシャンなのに、読めないからといって、自分を卑下してしまう。エロール・ガーナーもその一人だ。彼等は言わばその分野の第一人者なのに!だって殆どのミュージシャン達は西洋音楽を勉強し、理論に束縛される。アカデミックな教義に縛られていないというのは、素晴らしい事なのに。

=Giant Steps / John Coltrane (Atlantic ’60)=
ジャイアント・ステップスは録音用の曲だった。

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 トミー・フラナガン  「コルトレーンは、”自分の創ったシステムを用いてレコーディングし、成果を挙げたい。”と私に録音コンセプトを説明してくれた。その言葉どおり、彼は“ジャイアント・ステップス”と同種の進行を用い、何曲も録音した。だがその内の何曲かは収録すらされなかった。我々が全く出来なかったからだ。曲のテンポがどれもこれも速過ぎて、到底1セッションで様になるものではなかった。」

 「何故、レコード会社はたった1回のセッションでアルバム一枚全部作ってしまおうとするのかね?理解できないよ。あのようなハードな音楽を1日8時間もぶっ続けに演るのは、死ぬほど大変なんだ。それに自分のやっていることをきちんと把握していなければ命取りだ。勿論、トレーンはちゃんとわかっていたがね 。」

 「私はコルトレーンが“ジャイアント・ステップス”をライブで演ったのを聴いたことがない。“ジャイアント・ステップス”は録音のための曲だったのだ。彼はそのシステムを他の曲にも応用した。それは少し変則的なもので、おおむねマイナー7th~メジャー7th~メジャーとつながる。つまりメジャー~メジャー~メジャーという音楽をやろうとしたのだろう。

 「そういう音楽は演奏者の考え方を変えてくれる。考えを変えないと演奏できないからだ。もし自分に用意ができていなかったり、テンポが早すぎれば考えることすらできない。”ジャイアント・ステップス”とはそういう音楽なんだ。演奏者をエキサイトさせてくれる。そしてトレーンに“OK,おまえもなかなかやるな!“と言ってもらえれば、なおさらだ!」

 トミー・フラナガンは無口な人でしたが、時たま、外交辞令以上のドキっとするような発言が様々な文献に残っています。今回のエントリーは、”Jazz Spoken Here”(Wayne Enstice, Paul Rubin共著)と ”Jazz Lives”(Michel Ullman著)を参考にしました。どちらも、ジャズ講座準備の際、ジャズ評論家、後藤誠先生にお借りしたもの。後藤先生、ありがとうございます!

 ウエス・モンゴメリーを「アカデミックな教義に縛られない」アーティストという発言が出てきます。ヨーロッパ西洋音楽に対するフラナガンの複雑な思いは、トリビュートで聴くデューク・エリントン音楽や、トミー・フラナガンのブラック・ミュージックへの憧憬とリンクしていきます。

 では土曜日のトリビュート・コンサート、寺井尚之メインステムの演奏をお楽しみに!

CU

祝ジミー・ヒース91才-録音の思い出

  Jimmy-Heath-e1373743674277-684x384.jpg 私たちが敬愛するテナーの巨匠、ジミー・ヒースは1926年生まれ。若き日は、チャーリー・パーカーの再来という意味で「リトル・バード」と呼ばれ、ディジー・ガレスピー、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィス達と関わりを持ちながら、ジャズの歴史を大きく動かしました。最高にヒップでスマートな巨匠も今年の10月25日に91才。
 OverSeasで行なったヒース・ブラザースのコンサートの素晴らしさは一生忘れることはありません!
寺井尚之のいかなる音楽的質問にも速攻で答えてくれる超ハイIQ、威張らず気取らず、それでいてオーラ溢れる天才音楽家です!

 「ジャズタイムス」電子版7月号に、リーダーとして、サイドマンとして参加した様々な名盤にまつわる非常に興味深いエピソードが掲載されていました。ジミーの奥さん、モナ・ヒースさんが「天才ミュージシャンは、何故か子供みたいなところがあるものなのよね。」と、私にこっそり話してくれたことがあります。それは決して自分の旦那さまの自慢話として語った言葉ではないのですが、このインタビューの端々に、モナさんの言葉が思い出されました。

☆日本語訳にあたり、ジミー・ヒースの優秀な生徒であったベーシスト、Yas Takedaに助言をいただいたことを感謝します。

=リトル・バードは語る=
聞き手:By Mac Randall 原文サイト:  https://jazztimes.com/features/a-little-bird-told-me/ 

1.Howard McGhee/Milt Jackson

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Howard McGhee and Milt Jackson
 (recorded 1948, released 1955 on Savoy)

McGhee, trumpet; Jackson, vibraphone; Heath, alto and baritone saxophones; Will Davis, piano; Percy Heath, bass; Joe Harris, drums

 

 バグス(ミルト・ジャクソン)とは多くのアルバムで共演していて、これが最初のアルバムだ。私が21才当時、一緒に仕事をした内で一番の大物がハワード(マギー)だった。彼のほど名前の知れた名プレイヤーと共演したのは初めてだった。彼はカリフォルニアのビバッパーだ。この録音の前に、シカゴの《アーガイル・ショウ・ラウンジ》で何度か共演したが、店のオーナーがギャラとして支払った小切手は未だに換金できていない。文句を言う為に店に戻ったら、そいつはコートのボタンを外して、拳銃をちらつかせた。それがハワード・マギーとの共演で一番の思い出かな…

私のことを”リトル・バード”と呼び始めたのがハワード(マギー)とバグス(ミルト・ジャクソン)だ。その当時、私はまだアルトを吹いていて、何とか師と仰ぐチャーリー・パーカーのようにプレイしたいと必死だった。まあ、その頃は私だけでなく、誰でも、そう思って頑張っていたのさ。バードは皆を夢中にさせたからね。だから、ハワードとバグスは、”リトル・バード”というニックネームを私に付けることによって、リスペクトを示してくれたわけだが、おこがましい名前だったと自分では思っている。確かにバードならではのフレーズやお決まりのプレイを身に着けてはいたけれど、まだまだビバップ・スタイルを目指すスタート地点に立っていただけさ。他に、このバンドで覚えていることは余りないね。バンドが長続きしなかったことだけは覚えている。このセッションは’48の2月に行われたもので、同じ年の5月に、ハワードと一緒にパリへツアーしたが、ミルトは同行しなかった。

2.Kenny Dorham Quintet

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Kenny Dorham Quintet (Debut, 1954) 


Dorham, trumpet and vocal; Heath, tenor and baritone saxophones; Walter Bishop, piano; Percy Heath, bass; Kenny Clarke, drums

   ケニーは僕の大好きなトランペット奏者であり、大好きな共演者でもあった。私は彼のアレンジするオーケストレーションやオリジナル作品も非常に気に入っていた。ケニー・ド-ハムとタッド・ダメロンは、ビバップ世代に於ける偉大なるロマン派作曲家だと思う。

 最初の’48年のハワード・マギーのセッションでは何曲かバリトンを吹いている。それが私のバリトン・サックスでの初録音だ。ケニーとの本作も、バリトンを演奏している数少ない作品だね。 “Be My Love”で、ケニーにバリトンを吹いてほしいと頼まれてね、なにしろ身長が160㌢しかないものだから、(大型の)バリトン・サックスの演奏依頼はしょっちゅうあるわけじゃなかった。楽器が大きすぎるんだよ!バリトンを吹いたセッションは確か3回だけだよ。スリー・ストライクでアウト!ってところだ。

3.The Jimmy Heath Orchestra

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Really Big! (Riverside, 1960)

Heath, tenor saxophone; Nat Adderley, cornet; Clark Terry, flugelhorn and trumpet; Tom McIntosh, trombone; Dick Berg, French horn; Cannonball Adderley, alto saxophone; Pat Patrick, baritone saxophone; Tommy Flanagan and Cedar Walton, piano; Percy Heath, bass; Albert Heath, drums

 これは「初リーダー作」というわけではないが、大編成のバンドを率いた初めてのレコーディングだった、十人編成だから殆どビッグ・バンドと言える。

 私は、自分が惚れ込んだ楽器、つまりフレンチ・ホルンと一緒にレコーディングをしたいと思った。フレンチ・ホルンがアンサンブルにしっくりと溶け込む感じが好きでね、これ以来何枚かのアルバムでこの楽器を使った。フレンチ・ホルン奏者のディック・バーグを入れてブラス四管、リード三管の編成にし、クラーク・テリー(tp.flg.)にリードを取ってもらった。クラークはこう言ってくれた。「お前さんのレコードなら、いつだって、どんな録音でも、ユニオンの最低賃金で出演させてくれ!」彼は当時すでに、相当なビッグ・ネームだったから、この言葉は私にとって非常にありがたく恩義に感じた。彼のような大物が、私の音楽を気に入ったというだけで、最低のギャラでいいと言ってくれたのだから。彼のプレイは本当に素晴らしくて、私はすっかりノックアウトされてしまったよ。

 このアルバムでは、編曲の段階で少し行き詰まってしまってね、ボビー・ティモンズの曲-”Dat Dere”はトム・マッキントッシュにアレンジしてもらった。彼はトロンボーンの名手だが、作編曲の腕前も同じくらい素晴らしい。バリトンを担当したのはパット・パトリック、元マサチューセッツ州知事、デヴァル・パトリックの親父だよ。録音セッションで、彼が私にこう言った。「この世に長いこと居れば、年月を経た重み(long gravityが備わるものさ。」 そして、後に私は、この言葉を自作曲のタイトルにした。-”Long Gravity”はヒース・ブラザースのテーマソングになったよ。

4. Jimmy Heath Quintet

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On the Trail (Riverside, 1964)

Heath, tenor saxophone; Kenny Burrell, guitar; Wynton Kelly, piano; Paul Chambers, bass; Albert Heath, drums

 

 

 私は、コルトレーンの後釜として、1,2ヶ月間、マイルスと共演していたことがある。バンドはキャノンボール(アダレイ)、ウィントン(ケリー)、ポール(チェンバース)、フィリー・ジョー・ジョーンズというすごい顔ぶれで、たまげたよ。ほどなく、この連中がオリン・キープニュース(Riversideレコードのプロデューサー)を説得して、私に専属契約を結ばせた。「コルトレーンがBlue Noteの専属になったからには、Riversideはジミー・ヒースを獲得しておくべきだ!」と言ってね。だから、Riversideでリーダー作の録音が始まると、彼らに参加してもらって恩返しをしようと思った。特にウィントン(ケリー)ならではの三連符が欲しかった。いみじくも、フィラデルフィアの友達は、彼のソロのことを「涙の粒で出来ている。」と評したが、私も全く同感だ。まさにピアノから涙がポロポロこぼれているようなんだ。

On the Trail 』には、〈Vanity〉というバラードを収録している。これはサラ・ヴォーンのヒット曲でね、コルトレーンも私も、彼女のバラードを聴くのが大好きだった。後になって、この曲を作曲したバーニー・ビアーマンに会った。百歳以上長生きした人なんだが、私の録音した〈Vanity〉にノックアウトされた!と言ってもらえた。

〈On the Trail〉を愛奏するようになったきっかけは、ドナルド・バードとの共演だ。彼が編曲したものを、アルフレッド・ライオンのプロデュースでBlue Noteに録音する予定だったんだが、ドナルドとアルフレッドの間にいざこざがあり、ドナルドが録音をやめてしまったんだ。それなら、私がこのアレンジでレコーディングしよう、ということになった。皆は私の編曲だと思っているが、ガブリエル・フォーレ作〈パヴァーヌ〉のラインを取り入れたこのアレンジは、ドナルドのものなんだ。そのラインは元々ギターのパートではなかったんだが、私のレコーディングではケニー・バレルが弾いているので、そこは私のアイデアのようだな。

5. Ray Brown/Milt Jackson

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Ray Brown/Milt Jackson (Verve, 1965)


Big-band session including Brown, bass; Jackson, vibraphone; Heath, tenor saxophone; Clark Terry, trumpet and flugelhorn; Jimmy Cleveland, trombone; Ray Alonge, French horn; Phil Woods, alto saxophone; Hank Jones, piano; Grady Tate, drums; arranged and conducted by Heath and Oliver Nelson

 このアルバムは私とオリヴァー・ネルソンが半分ずつ編曲を担当している。何故か、オリヴァーがフル・バンドの編曲を担当しているのに、私は10人編成のスモール・バンドでアレンジ依頼されていたのだとは知らなかった。気づいた時は「くそっ!騙された!」と思ったよ。そして、オリヴァーは自分のオーケストレーションに、常に半音をぶつけるハーモニーを使うことを主張した。そうすると耳触りの良いハーモニーになる。しかし、それがミルト・ジャクソンを大いにイラつかせた。バグス(ミルト・ジャクソン)は絶対音感の持ち主だから、二度マイナーに撹乱される。「EなのかFなのか?一体どっちなんだ?はっきりしやがれ!」って感じだ。後になって彼は言ったよ。「なあ、バミューダ(彼は私をこう呼んでいた。)俺はオリヴァーより、お前がアレンジした譜面の方がずっと好きだ。」ってね。

 ここには、〈Dew and Mud〉というオリジナルが収録されている。マイルス(デューイ-)デイヴィスとマディ・ウォーターズに捧げて書いた曲で、マイルスがよくトランペットで吹いてたマディ・ウォーターズのフレーズで始まってる。このアルバムではクラークがソロを取っていて…Oh, Yeah! もう最高だよ。いいレコードだな!

 ミスター・レイ・ブラウンは大好きだよ。最初に会ったのは1945年だ。ネブラスカ州のリンカーンで、私はナット・キング・コールと一緒に仕事をしていた。そこで我々は彼の引き抜きを画策したが、ディジー(ガレスピー)の楽団で仕事をしていることが判り、断念したんだ。このアルバムにはグラディ・テイト(ds)も参加している。私は彼のことを”Gravy Taker(おいしいところを取ってしまう奴)”と呼んでいた。彼は全くありとあらゆるギグで演っていたからね。

6.Art Farmer Quintet

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The Time and the Place (Columbia, 1967)


Farmer, flugelhorn and trumpet; Heath, tenor saxophone; Cedar Walton, piano; Walter Booker, bass; Mickey Roker, drums

 

 このアルバムでは、スタジオ録音と、残りはNYの近代美術館(MoMA)での演奏だ。〈いそしぎ〉をプレイした事を覚えているよ。母親が好きな曲だったので、よく演奏していたんだ。それに、私のオリジナル〈One for Juan〉も収録されている。コロンビア・コーヒーのコマーシャルに登場する農夫、フアン・ヴァルデスから名付けたんだ。「最高のコーヒーは南米だ!」って言うんだけど、私が最高だと思うのは、コーヒー豆とは違うものなんだがね(笑)

 アート・ファーマーの話をしようか。彼は、例えギグで赤字になったとしても、サイドメンにはきっちりとギャラを払う男だった。「クラブが君を雇ったわけじゃない。僕が君を雇ったんだから。」と言ってね。そういう人間だったよ。彼がヨーロッパ各地の様々な仕事場の住所を教えてくれたおかげで、私はその住所宛に手紙を書きさえすれば、仕事が取れた。そこに飛んで行って、3、4週間、行く先々で、現地のリズムセクションと共に、良い演奏ができた。いい奴だったな!アートのために曲を書き送れば、すぐさま録音してくれたよ。コード・チェンジを深く読みこなし、ほとんど完璧なソロを取った!私の経験から言えば、大抵のミュージシャンは、自分の気に入ったソロを取れるようになるまで、何度か練習するものだが、アートの場合は、音譜を読むように、コードを読みこなすことができた。全くずば抜けた才能だった。

7. Jimmy Heath

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Picture of Heath (Xanadu, 1975)

Heath, tenor and soprano saxophones; Barry Harris, piano; Sam Jones, bass; Billy Higgins, drums

 

 これはヒース・ブラザース結成直前に作ったアルバムだ。私は兄パーシー(ヒース)のプレイが大好きなんだが、モダン・ジャズ・カルテットでジョン・ルイスと共演しているし、クラシック志向が強いんだよ。だから何小節かベース・ランニングさせると、もう、うんざりしてしまう。一方、このサム・ジョーンズは、私がこれまで共演したうちで最もスイングする素晴らしいランニングのできるベーシストだ。彼のランニングは天国まで登っていく!それがこのアルバムにはある。我々は彼を”ホームズ”と呼んでいる。

『ピクチャー・オブ・ヒース』は自分のレギュラー・カルテットでレコーディングした数少ない一枚だ。ただし、ギターの代わりにピアノを入れているんだがね。このようなワン・ホーンでの録音は余りやっていない。何故なら、私は、あらゆる楽器が大好きなんだ。別にテナーだけが好きというわけではない。毎回、テナーが先発ソロで、次にピアノのソロ…そういうのは、私にとっては退屈極まりないことだ。私はフレンチ・ホルンが好きだし、チェロも好き、サックス・セクションもブラス・アンサンブルも、みんな大好きなんだ。なぜテナーだけに固執しなけりゃいけないんだね?まあ、デクスター(ゴードン)、ソニー(ロリンズ)、(ジョン)コルトレーンといった多くのミュージシャンは、確かにテナー・サックス一筋で名声を築いたんだが。トレーンが私のビッグ・バンドに在籍中に編曲した”Lover Man”が素晴らしい出来だった。「このアレンジは最高だ!とても気に入ったよ。こんな感じであと何曲か書いてくれないかい?」と頼んだら、彼はこう答えた。「いやあ…ジム、そんな暇はない。楽器の練習だけで精一杯だから。」やっぱり、私とは考え方が違っていたんだなあ。

8. The Heath Brothers

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Marchin’ On (Strata-East, 1975)


Heath, tenor and soprano saxophones, flute; Stanley Cowell, piano and mbira; Percy Heath, bass and “baby bass”; Albert Heath, drums, flute and African double-reed instrument

 

 これは、ヒース・ブラザースのデビュー・アルバムだ。ちょうどスタンリー・カウエルがチャールズ・トリヴァーと一緒に”ストラータ・イースト”というレコード・レーベルを創設し、我々にレコーディングを依頼してきた。ヒース・ブラザースは家族のバンドなんだが、そこにスタンリーを義兄弟として招き入れた。だってスタンリーは凄いと感服していたからね。まあ、私たちにとって、少し毛色の変わったレコードだ。ノルウェイ、オスロでのツアー中の録音だ。この時代は、列車でヨーロッパ中をツアーしたものでね、兄のパーシーはボディがチェロと同じ形状のベース(ベビー・ベース)を、ツアーに持参していた。これはレイ・ブラウンが考案した楽器だ。列車の中で、パーシーがベビー・ベース、弟のトゥティ(アルバート・ヒース)と私がフルート、スタンリーがカリンバ(手のひら大の小箱にオルゴールのように並んだ金属棒を弾いて演奏するアフリカ生まれの楽器)を手にして演奏すると、乗客達がやってきて耳を傾ける。そうやって、次の国へと移動した。車中の私たちの演奏は、室内楽のグループのようで、たいそう喜ばれた。だから、そういうサウンドをこのアルバムに収録しようと決めたのさ。

〈Smilin’ Billy Suite〉は、この『Marchin’ On』のために書いた曲で、ビリー・ヒギンズに捧げたんだ。彼はいつも笑顔で、周囲をみんなも笑顔にしてしまう。ビリーのタイム感はまさに完璧だ。決して大きな音で叩かずに、聴くもの心に響くドラミングをした。後になって、ラッパーのナズが(1994年のアルバム『イルマティック』に中の〈One Love〉というトラックに)この組曲の一部をサンプリングして使っている。おかげで、私達のグループが新しい世代に注目されるようになったのはいいことだった。

Marchin’ On』の録音後、私たちはCBSに移籍した。それは重要な節目の時期だった。初めてオーバーダビング技法を使ったのもこの頃だ。私の息子、ムトゥーメをバンドに入れて共演したし、グラミー賞にもノミネートされた。新譜を発表する毎に、前作より好セールスを記録した。『Then Expressions of Life』(’80)は4万枚売れて、このバンドの最高記録だ。そして、会社は我々をクビにした!・・・仕方ない。私たちがいくら売れたと言っても、ビリー・ジョエルやマイケル・ジャクソンは数百万枚売るのだから相手にならないさ。

9. Jimmy Heath

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Little Man, Big Band (Verve, 1992)


Big-band session including Heath, tenor and soprano saxophones; Lew Soloff, trumpet; Jerome Richardson, alto saxophone; Billy Mitchell, tenor saxophone; Tony Purrone, guitar; Roland Hanna, piano; Ben Brown, bass; Lewis Nash, drums

 

 ’47,’48年当時は、ビッグ・バンドのサウンドが大好きでね、これはその時代への回帰であると同時に、ビッグ・バンドでの初リーダー作だ。サックス・セクションが凄い!リード・アルトがジェローム(リチャードソン)だし、長年の盟友、ビリー・ミッチェルも入っている。それにトニー・(ピュロン)がギターだ。ヒース・ブラザースに在籍していたときから、私は彼にぞっこんなんだ。彼はバグス(ミルト・ジャクソン)のように絶対音感があり、望むままに、どんなキーでも演奏できる。これは私がとても誇りに感じているアルバムだ。

 私は自分の好きな人達に捧げて作曲するのが大好きで、この『Little Man, Big Band』にもそういう曲をたくさん収録した-ジョン・コルトレーンに捧げた〈Trane Connections〉、ソニー・ロリンズへの〈Forever Sonny〉、私の師であるディジー・ガレスピーへの〈Without You, No Me〉、そしてコールマン・ホーキンスへの〈The Voice of the Saxophone〉、ホーキンスは私がハワード・マギーとパリにツアーした時の看板スターだった。

10.The Jimmy Heath Big Band

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Turn Up the Heath (Planet Arts, 2006)

Big-band session including Heath, tenor saxophone; Terell Stafford, trumpet; Slide Hampton, trombone; Lew Tabackin, flute; Antonio Hart, alto and soprano saxophones, flute; Charles Davis, tenor saxophone; Gary Smulyan, baritone saxophone; Jeb Patton, piano; Peter Washington, bass; Lewis Nash, drums

 

 ジェブ・パットン(p)はクイーンズ・カレッジの教え子で、ここ16年間ヒース・ブラザースのレギュラー・ピアニストだ。私たちは彼が本当に大好きなんだ。アントニオ・ハートも私の生徒だよ。そしてチャールズ・デイヴィスとは実に長い付き合いだ。彼にこう言ったことがある。「お前がソロを取っている最中に、バンドが入ってくる、それが最終コーラスの合図だから、そこでソロを終わってくれ。」しかし、チャールズはソロを止めなかった・・・私は彼にLPCDというあだ名を付けてやった。つまり「ロング・プレイング・チャールズ・デイヴィス」の略だ!それから、ずっと昔に作ったオリジナル〈Gemini〉では、ルー・タバキンがフルートでソロを取っている。彼のことは「噛みタバキン(Chew Tobacco)」と呼んでいる。だって、彼がテナーをプレイするときに、まるでリードを噛み噛みしているように見えるからさ。こんなふうに、私は誰彼なしに、皆にあだ名を付けてやるんだよ。(笑)