夢のピアノジャズクラブ《ブラッドリーズ》と太平洋戦争のこと(2)

= 余りにもNY的な=

その昔、グリニッジ・ヴィレッジにあったジャズ・クラブ、《ブラッドリーズ》の音楽的全盛期は1970代中盤から、オーナーのブラッドリー・カニングハムが病に倒れる’80年代後期までと言われている。

 なにしろ、トミー・フラナガン+レッド・ミッチェル or ジョージ・ムラーツ or ロン・カーター、ハンク・ジョーンズ+ロン・カーター、ケニー・バロン+バスター・ウィリアムズといった極上のピアノ・デュオが、毎夜、ほぼ生音で聴けた。深夜2時から始まるラスト・セットは、多くのミュージシャンが集うNYジャズのコミュニティの中心地の様相を呈していた。一方、この店の奥に行けば、コカインなどの違法薬物が手に入るという噂も、(確認はしていないけど)NYたる所以。地元のジャズ・コミュニティの中では、セロニアス・モンクがその人生最後に(飛び入りではあるけれど)公衆の前で演奏した歴史的聖地としても知られている。出演形態が「デュオ」というのは、当時のキャバレー法で三人以上のライブが制限されていたこともあるけれど、なによりも、1対1の対話形式のジャズが、ブラッドリー・カニングハムの好みだったのかもしれない。

撮影:阿部克自

  ブラッドリーは、トミー・フラナガンやジミー・ロウルズといったお気に入りミュージシャンがやって来ると、時にはピアノの手ほどきを受けながら、朝まで一緒に飲み明かした。

 その時間をブラッドリーは「人生で最高のひととき」と語る。彼の波乱万丈の人生の中、音楽の対話こそが癒やしだったのかもしれない。

=玉砕のテニアンからナガサキまで= 

 ブラッドリー・カニングハムは、1925年(大正15年)生まれです。戦争中、学徒動員に明け暮れた私の両親より少し上の世代で、戦地に赴いた元軍人だった。彼の両親は幼いころに離婚し、母親に育てられた。彼の父親は家を出ていく前日に、そんなこととは知らない6歳のブラッドレイを、スチュードベーカーのどでかいコンバーチブルに乗せて遊びに連れていってくれた。そして、最高に楽しい一日の終わりに、息子は唐突な別離を宣告された。ブラッドリーは、そのときのショックを一生引きずって生きたのかもしれない。以降、全米各地を転々とし、ようやく大学に入学した頃には第二次大戦が始まっていた。

 1943年、ブラッドリーは、海外での武力行使を前提とする海兵隊に志願した。それは、愛国心というより、徴兵されて陸軍に行かされるより海兵隊に志願したほうがまし、という選択だったたらしい。戦艦アイオワに乗り、パナマ運河からハワイ経由で、日米の激戦地、玉砕の島として歴史に刻まれるマリアナ諸島のテニアン島へ…そこで、おびただしい数の日本兵が絶壁から身を投げて自決するのを目の当たりにした。 

 テニアン島制圧後、ブラッドリーは上層部の命令を受け、サイパンの米軍日本語学校でみっちり敵国語の勉強をすることになった。彼の堪能な日本語は海兵隊時代に培われたものだった。日本陸軍は入試科目から英語を撤廃したが、アメリカは戦争の先を見据え、敵を熟知しようとしたんですね。1945年4月、研修を終えた彼は沖縄に向かい、日本兵の投降を呼びかけ、捕虜となった兵士の尋問を担当した。ひょっとしたら、沖縄上陸作戦時に通訳として動向した日本文学者、ドナルド・キーン氏との邂逅があったのかもしれない… 捕虜尋問の際、ブラッドリーが驚いたのは、日本兵が自分の認識番号を知らなかったこと!日本兵にとって「捕囚」は汚辱であり、「捕虜」になることがもとより想定されていなかっというのは更に驚くべきことだった。

 

 1945年8月9日、長崎市に第二の原爆が投下され終戦を迎えた直後、ブラッドリーは長崎に上陸する。ホイットニー・バリエットのインタビューで、ブラッドリーは、自分の従軍体験について、かなり仔細に語っているが、被爆後のナガサキについては、「皆の言うように、実に悲惨だった。」と言葉少なだ。ナガサキの惨状を見たブラッドリーは除隊を決意、翌1946年に帰国し、大学に戻ったが、不安症候群に陥り休学を余儀なくされた-今で言うPTSDだったのでしょう。以来、職を転々としNYに落ち着いてからも、アルコールと薬物中毒に陥り、何度か入退院を繰り返した。

 ブラッドリーは、雑誌NewYorkerのインタビューの中で、本国に帰還する頃には「日本という国と、日本人が大好きになっていた。」と語っている。《ブラッドリーズ》を訪れた日本人客に、積極的に日本語で話しかけていたのは、そういう理由があったのですね。 

 見かけは大柄のタフガイだったブラッドリー・カニングハム、彼がデュオという形態を愛したのは、音楽の会話が、生涯癒えることのなかった戦争の痛みを癒やしてくれたからではなかったのかな?

 民間人を含め、おびただしい数の人々が犠牲になった南方の戦地に赴き、敵国後として習得した彼の日本語が、日本から訪れるジャズ愛好家の心を癒すことになったというのは、感慨深いものがあります。

 ブラッドリー「トミー(フラナガン)は快活でウィットがある。彼と一緒に居るのは好きだね。10年ほど前の、ニューポート・ジャズフェスティバルの間、トミーエラ・フィッツジェラルドの伴奏でこっちに来ていて(訳注:その頃フラナガンはアリゾナに住んでいた。)、その空き日に出演してもらったことがあった。ジョージ・ムラーツとのデュオだったが、初日に、客が誰も来なかったんだ。トミーの知り合いも誰も来なかった。
 私もこの業界で長くやってるから、こんなことがあるのは承知の上さ。成す術なし!せいぜい肩をすくめて、お手上げのジェスチャーをするのが精一杯さ。

 トミーとジョージはあたりを見回し、顔を見合わせるばかりだった。しかし、このデュオは音楽的に一体だった!その夜、閉店後の二人のちょっとした演奏は、私が今までに聴いたこともないほど独創的でスイングしていたなあ。すべからくピアニストたる者は、まず聴く者を笑わせてから、笑った彼らの同じ心が張り裂けるほどの感動を与えなくてはならない。トミーの演奏は、まさしくその手本だ!」(Barney, Bradley, Max: Sixteen Portraits in Jazz/Whitney Balliett著より)

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参考文献
  • The New Yorker, February 24, 1986
  • The New Torker, October 11, 1982
  • BarneyBradley, and Max: Sixteen Portraits in Jazz /Whitney Balliett著(Oxford University Press)
  •   The Perfect Jazz Club / Nat Hentoff(Jazz Times)
  •   The Bradley’s Hang (Ted Panken)
  • Bradley’s (David Hadju, John Carey)

 ー終戦の日に-

夢のピアノジャズクラブ《ブラッドリーズ》と太平洋戦争のこと(1)

 

 トミー・フラナガン&ジョージ・ムラーツ・デュオの名盤『バラッズ&ブルース』(Enja)を聴いていると、その昔、このデュオが頻繁に出演していた《Bradley’s (ブラッドリーズ)》というクラブを懐かしく思い出しました。

 《ブラッドリーズ》(1969-’96)は、NY大学の近く、グリニッジ・ヴィレッジのワシントン広場の近くにあったピアノ・ジャズ主体のクラブだった。《ヴィレッジ・ヴァンガード》や《ブルーノート》といったNYの主要ジャズ・クラブはシアター形式で。旅行者の多い観光スポットだったが、ここは地域密着型のカジュアルで清潔な店だった。純白のテーブルクロスがかかる食卓にはキャンドルが点っている。早い時間帯は、おいしいカクテルとお料理目当てのホワイトカラー(当時はYuppieって呼ばれてた。)でにぎわう。フラナガンの奥さんは「ヤッピーたちは音楽を聴かずに、大声でおしゃべりするのよ!」と怒っていたっけ…

 ’69年の開店当時(’69)のライブ事情は、店主のブラッドリーがロイ・クラール(ジャッキー&ロイの)のエレクトリック・ピアノを150ドルで譲り受け、それをジョー・ザヴィヌルやデイヴ・フリッシュバーグが演奏するというものだった。だが、店の常連であったポール・デスモンドが、それを見かねてボールドウィンのグランドピアノを寄贈したことが転機となった。デュオ主体で、ほとんど生音の、極上の生演奏が楽しめるクラブになったらしい。

 開店当初は閑古鳥が鳴いていたのだけど、ウディ・アレンが《ブラッドリーズ》でくつろぐ写真が雑誌に載ったことから、爆発的にお客が増え、繁盛店になったのだとか。

 ブラッドリーは音楽の趣味がよく、ビリー・ストレイホーンが大好き、そして、トミー・フラナガンが大好きだった。彼は1988年に63才の若さで亡くなり、その後を未亡人のウエンディが引き継いだ。代替りしてからは、ドラムやホーンが盛んにブッキングされるようになったが、不慮の火事で’96年に閉店、それ以来、この場所は《Reservoir》というスポーツ・バーになっている。

 フラナガンは’88年までは《ブラッドリーズ》で頻繁に演奏し、レッド・ミッチェル(b)やジョージ・ムラーツ(b)と日常的に共演を重ねた。そうして磨きぬいたマテリアルを、ピアノ・トリオによるレコーディングに用い一段とスケールアップさせた。そんなプロセスの中で生まれたアルバムが、ミッチェルとのデュオ・アルバム『You’re Me』(’80 Phontastic)であり、ムラーツとの『バラッズ&ブルース』(’78 Enja) だった。前者はミッチェル作のタイトル・チューン+スタンダード曲、後者は、〈With Malice Towards None〉〈They Say It’s Spring〉という、後にフラナガン・トリオの名演目となる作品の初期ヴァージョンが聴けて興味が尽きません。斬新なアイデアと、自由闊達で息の合った品格ある演奏内容は、《ブラッドリーズ》という場所があったからこそ、時間をかけて熟成できたに違いない。この店が当時のピアノジャズに果たした役割は計り知れません。

 もし《ブラッドレイズ》で、この二人が頻繁に演奏していなければ、『バラッズ&ブルース』の完成度に到達することはなかったでしょう。フラナガンのみならず、ハンク・ジョーンズ、ケニー・バロン、ジミー・ロウルズ、ジョン・ヒックスなどなど、この店に常時出演した多くのピアニストやベーシスト達がデュオという演奏形式を発展させる貴重な場を提供したと言えます。

 

=夢のジャズ・クラブ=

或る夜のBradley’sの風景-カーメン・マクレエがフラナガンームラーツのデュオに飛び入り!
写真:阿部克自

《ブラッドリーズ》は、朝まで営業していた。夜が更けると、騒々しいヤッピーたちは退散し、ヴィレッジ界隈の主要ジャズ・クラブの出演ミュージシャンや、その演奏を聴いて勉強していた若手ミュージシャン、それにパパ・ジョー・ジョーンズ(ds)のような大御所さま… ありとあらゆるジャズ界のメンバーがやって来た。運が良ければパノニカ男爵夫人にさえ会えた。ジャズを愛する人にとっては、最高の社交場!

 私たちを初めて《ブラッドリーズ》連れて行ってくれたのはトミー・フラナガンで、寺井尚之を色んな人に紹介し、挙句の果てに、レッド・ミッチェル(b)に推薦して共演するという思い出もあります。

 宿泊ホテルにアーサー・テイラー(ds)から電話がかかってきて「ベイビー、僕は明日の晩、《ブラッドリーズ》に行っているからヒサユキと一緒においで。」なんて言われたら、もう有頂天でした。

=店主 ブラッドリー・カニングハム=

Bradley Cunningham: Bradley’s のFBページより。

 そんな夢の空間のオーナー、ブラッドリー・カニングハム(1925-88)は伝説のバーテンダーとも言われている。シカゴで生まれ、色んな土地を渡り歩きNYに落ち着いた。小さなバーを開店し、利益が出たら売却するということを繰り返し、《55bar》を経て’69年にオープンしたのが《ブラッドリーズ》で、これが彼の最後の店になった。ブラッドリーはサスペンス映画に出てきそうな大男、最高のカクテルを供し、話し上手、聞き上手、喧嘩が強くてピアノも上手、おまけに日本語も堪能だった。彼が出演を依頼したピアニストはテディ・ウイルソン、ハンク・ジョーンズ、フラナガン、サー・ローランド・ハナ、バリー・ハリス、ケニー・バロン…ピアノの鍵盤を「叩く」のではなく「弾く」ピアニストをブラッドリーは好んだ。そして、お気に入りの作曲家はビリー・ストレイホーンだった。そんな趣味の良い人選で、《ブラッドリーズ》に出演することは、一流ピアニストの証になっていった。 

 ブラッドリーの誕生日は、ジョージ・ムラーツ、エルヴィン・ジョーンズと同じ9月9日で、バースデー・パーティはいつも三人一緒だったそうです。ムラーツはブラッドリーの一人息子の名前をとった〈Jed〉という曲を作って、サー・ローランド・ハナのアルバム『Time for the Dancers』(’77, Progressive)に収録しています。

(続く)

ジョージ・ムラーツ追悼文by エミール・ヴィクリツキー(p)

George Mraz (1944-2021) photo taken by Shinji Kuwajima at OverSeas Club

 コロナと訃報の2021年、ジミー・ヒース、スタンリー・カウエル、ニッセ・サンドストローム…親しく接していただいた巨人たちが次々と亡くなり、9月16日、プラハでジョージ・ムラーツがひっそりと世を去った。

 ジョージ・ムラーツさんは、寺井尚之とともに、トミー・フラナガンの次に触れ合う機会の多い巨人であり、アニキだった。

 寺井尚之にとっては初恋のベーシストであると同時に永遠のベーシストだった。何度も共演レコーディングのチャンスはあったけれど、師匠フラナガンの最高のパートナーであったから、義理を立て録音はしなかった。もう二度とその機会はないけれど、それでよいと思う。

 悲しすぎて涙が出ないということがある。たくさんある思い出も何を書けばよいのかわからない。

 これまで、公にされていなかったジョージ・ムラーツさんのご家族の悲劇や亡命の真相などを、同じチェコ出身のピアニストとして何度も共演し、親交深かったエミール・ヴィクリツキーさんが、英国ロンドンのジャズニュースに追悼文を寄稿されていたので、ここに翻訳文を掲載します。原文はLondon Jazz News 9/20, 2021

 永遠のアニキ、ジョージ・ムラーツさんのご冥福を心よりお祈りします。

George Mraz (1944-2021). A tribute by Emil Viklický

 去る2021年9月16日、ベーシスト、ジョージ(ジリ)・ムラーツが死去した。享年77。かつてロン・カーターはムラーツについてこう述べた。-「最高に素晴らしい音選び+秀逸なイントネーション+ビューティフルなサウンド+ナイスガイ=ジョージ・ムラーツだ。」

 ピアニスト、リッチー・バイラークは彼をこう評する。「ジョージは、こちらが聴きたいと思う音をぴったり出してくれるし、まるで、自分がベースを発明したかのような演奏ぶりだ。」 

以下は、チェコのピアニスト、エミール・ヴィクリツキーが、よき友であり音楽仲間であったムラーツの思い出を語る追悼の言葉である。

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=父を奪ったソ連軍侵攻=

 2007年のことだ。ジョージ・ムラーツと私は、ブルノ(チェコ共和国第2の都市)でのコンサートの後、ホテルのバーで一杯やっていた。いつになくジョージは饒舌で、白ワインを片手に、昔話や現在の話題に花を咲かせた。 

 そううしていると、ブルノの中心にそびえ立つ聖ヤコブ教会の塔を一望できるホテル最上階のバーの客は、急に我々だけになってしまった。小雨降る静かな夜、店じまいして帰りたがるバーテンダーをなだめようと、モラビア産ピノ・グリの上物をボトルで注文し、チップをはずんだ。おかげで、バーテンダーが退出した後も、我々は居残って話を続けた。

 ジョージは、1968年8月にソ連がチェコ侵攻した直後、事故死した父親のことを話し始めた。ソ連軍の戦車が市街に侵入し、通行優先権は路面電車にあることにお構いなしだった。戦車は、ジョージの父が乗っていた路面電車に突っ込んだ。そのため、戦車の主砲が電車の窓を突き破り、ジョージの父の頭部を直撃したのだ。後の調査でジョージは知った。お父さんは、最初座っていたが、事故の一瞬前に乗ってきた年配の女性に席を譲って立っており、そのために犠牲になったのだった。席を譲られた女性に怪我はなかった。ソ連軍が関与する事故であったので、チェコ警察はそれ以上の捜査を禁じられたという。この事件が、ジョージにとって祖国を離れる決定的な動機になったのである。 

 そのあと、ジョージは、私がなぜ数学の世界と決別したのかを尋ね、その理由を面白そうに聞いた。そして、モラビアのホレショフかクロメルジーシュの中学校で数学を教えていた彼自身の祖父の話をはじめた。退職後も、大学受験生に数学を教え続けた先生だったそうだ。

 このおじいさんは長命で、私は、きっとジョージも病を克服して長生きできると固く信じていた。骨折したり重病を患っても、彼はいつも瞳を輝かせ、元気を回復させてきた。だから、古びてはいるものの居心地の良いプルゼニ (チェコ、ボヘミア州) のホテルの部屋に飛び込んできた彼の訃報は、私を大きく打ちのめした。近くの駅から聴こえてくる列車の音を聴きながら、その夜は一睡もできなかった。

 ジョージがチェコスロバキアを離れたのは1968年、やがて彼は米国に移住した。ボストンのバークリー・カレッジ籍を置いたが、ボストンに付いたその日から、ピアニストのレイ・サンティニは彼にレギュラーの仕事を与えた。ほどなく、ジョージはNYに進出した。

=ジョージとの出会い= 

 私とジョージが直接出会ったのは1975年になってからだ。それ以前、私はチェコのオロモウツで数学を学んでいた。1971年に5年間の学業を終えた私は、博士号を目標にしていた。だが、そんな私に学部長は言った。「君の作った対称式などどうでもよい。博士号が欲しければ、マルクス主義に専念したまえ。」 私は論文の提出を放棄し、プラハに移り住んでジャズ・ピアニストに転身したのだった。

 1974年9月、私はチェコのトップ・ジャズ・バンド、カレル・ヴェレブニー SHQカルテットに加入した。それはジョージが移住する前に所属していたバンドでもあった。翌1975年、SHQカルテットはユーゴスラヴィアのベオグラード・ジャズフェスティバルに出演。ところが、手違いがあり、コントラバスを持参できず、現地で楽器を調達せねばならなくなった。幸運なことに、我々の出番の次がスタン・ゲッツ・カルテットだったのだ。メンバーは、ジョージ・ムラーツ(b)、アルバート・デイリー(p)、ビリー・ハート(ds)だった。そこで、ジョージは、快くフランチシェク ウフリーシュに自分の楽器を貸してくれたのだった。その夜のことはよく覚えている。なぜなら、アルバート・デイリーが私のプレイを誉めてくれたからだ。だが、スタン・ゲッツにとっては、必ずしも楽しい夜ではなかった。彼は時計ばかり眺め、本番でジョビムのスロー・ボサ〈O Grande Amore〉のプレイ中、デイリーのピアノ・ソロを遮り、バンドに退場するよう命令した。聴衆の拍手は10分ほど鳴りやまなかったが、スタンはアンコールに応えなかった。ひどい話だ。きっと主催者側と何かもめごとがあったのだろう。 

 幸運にも我々SHQはスタンたちと同じホテルに投宿しており、終演後、ジョージと話す機会に恵まれた。フランチシェクも私も彼のうわさはいやというほど耳にしていた。その夜は、彼が話す面白いエピソードの数々をむさぼるように聞いた。-それは、ドイツでのオスカー・ピーターソンとの共演に始まり、スタン・ゲッツ・カルテットがロンドンに行ったときにエリザベス女王に謁見した話まで、ありとあらゆる話題だった。やがて、カレル・ヴェレブニーが、スタン・ゲッツのサインをチェコのジャズ・ファンへのお土産にしたいと言いだして、20枚ほどの絵葉書をジョージに手渡そうとした。その途端、ジョージじゃ大笑いした。「マジかい?今夜スタンに頼めって言うのか?!」そしてジョージは名案を思い付いた。「よし、その絵葉書と鉛筆をくれ。」そう言うと、彼は一枚ずつゆっくりとサインを始めた。Stan Getzと!書き終えると、彼はいたずらっぽく微笑みを浮かべて言った。「この絵葉書のスタン・ゲッツのサインが僕の作だとわかる奴なんか世界中探してもいるもんか。」

 =エンパシー能力=

 ジョージは回想録執筆の依頼を何度も受けていた。誰でも、彼には数多くの興味深いエピソードがあることはわかるだろう。英国チェルトナム在住、『Moravian Gems』のプロデューサー、ポール・ヴルチェクはジョージに自伝を書くように勧めていた。だが、私の知る限りでは、ジョージは首を縦に振らず、これらの逸話は我々ミュージシャンだけのものとなってしまった。

 1999年のクリスマス、ジョージは、プラハの《ヴィオラ劇場》に、私のトリオと、ヴォーカリスト兼ダルシマー奏者のズザナ・ラプチーコヴァーを観に来てくれた。終演後、彼は、モラビア民謡をアレンジしたものを、Milestone/Fantasy Recordsに一緒に録音しないかと言ってくれた。驚いた私は「君は一体何本ビールを飲んだんだい?」と尋ねたほどだったが、彼の表情は真面目そのものだった。その結果できたCDが『Morava』(MCD 9309-2 in NYC)で、ビリー・ハートとズザナが参加している。このアルバムの数トラックをかけていたら、伝説的プロデューサーのトッド・バルカンが言った。-「ジョージのメロディック・センスの源泉がどこなのか、やっと判った!」 トッドは、ジョージ・ムラーツの至高の音楽性、ハートフルなリリシズムとスイング感ゆえ、敬愛の念を込めて、彼を “バウンセアロット卿”と呼んだ。加えて、ジョージには、最高の音楽的エンパシー能力があった。共演者のアイディアを瞬時に察知し、本人が気づかないうちに、そのアイディアを高め、二手三手先まで見通すという超能力の持ち主だった。

 Mr.バウンス、別名”ヤバいチェコ人(bad Czech)”-ジャズ史上最高のベーシスト、ジョージ・ムラーツは多くの人々に惜しまれながら世を去った。

written by エミール・ヴィクリツキー、ピアニスト

Emil Viklický (L) and George Mraz. ACT Music/ Marc Dietenmeier

 *チェコ人ミュージシャンのカナ表記は、指田勉氏にサポートいただきました。この場を借りてお礼申し上げます。

Diana Flanagan追悼

  ご無沙汰しています!!

皆様お元気ですか? 

 Interlude も長いフェルマータ…そのうち、コロナ禍に見舞われて、OverSeasは4月の緊急事態宣言とともに2か月休業、6月からやっと営業再開し、何とか元気にしています。

 今回の騒動のおかげで、私たちがジャズを仕事にしていけるのは、皆様の応援のおかげなんだと一層実感することができました。そして、生のジャズを聴ける喜びも、これまで以上に大きくなりました。休業中にご支援いただいた皆様に、心より御礼申し上げます。

diana_tommy_tamae_hisayuki_his_mom_stuff_of_overseas.jpg(’84年初来店時のフラナガン夫妻と寺井尚之やOverSeasのスタッフたちと)

 コロナ禍の中で、トミー・フラナガン未亡人、ダイアナ・フラナガンが訃報を知ることになりました。ダイアナはトミーが亡くなった後、NY郊外の老人ホームに入ってから数年間は、何度も電話で連絡を取っていたのですが、そのうち軽い認知症になり、いつのまにかホームを退所。そのあとは後見人役の弁護士も退任し、行方が分からなくなっていました。NYのミュージシャンやジャズ関係者、音楽評論家など、ダイアナと親交のあった方々を当たったのですが、居所を知る人はおらず、途方に暮れていた矢先に見つけた記事でした。

 トミー・フラナガンのマネージャーとして、欧米や日本のジャズ界と渡り合ったダイアナ、業界の評判は様々ですが、寺井尚之と私には本当によくしてもらい、数え切れない思い出をいただいた恩人です。

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 ダイアナはトミーより一つ年上の1929年生まれ、上の死亡記事では「フィラデルフィア生まれ」となっているけれど、本人は西部の出身と言っていた。お父さんの仕事の都合で、トミーの両親の出身地であった南部各地を転々としながら育ったので、トミーと話が合ったんだと言っていた。アイオワの大学で音楽を勉強した後、NYコロンビア大学演劇科に入学、卒業後はブルネットの美人シンガーとしてクロード・ソーンヒルOrch.などで活動し、ジーン・クルーパ楽団のサックス奏者、エディ・ワッサーマンと最初の結婚をし、歌手を引退した後は教師としてNYの中学校で国語を教えていた。だから、私の英語が間違っていると、辛抱強く修正して、正しい発音と文法を教えてもらいました。

 エラ・フィッツジェラルドと同じキーで歌うのを自慢にしていたダイアナの歌曲の知識はミュージシャンも驚くほどで、どんな歌のヴァースも歌詞も記憶しているという評判でした。

 フラナガン夫妻がご機嫌なときは、まるでミュージカル!会話の最中にそれに因んだ歌が次々と出てきて一緒に歌うので、本当に楽しかった。或るときは、NYアッパー・ウエストサイドのアパートで、ダイアナが〈That Tired Routine Called Love〉(マット・デニスの作品でフラナガンの愛奏曲)を歌ってくれたことがある。もちろん伴奏はトミー・フラナガン(!) ダイアナはなかなか上手いシンガーだった。

 ダイアナがトミーが結婚したのは1976年、ちょうどトミーが、エラの許を離れ、一枚看板のピアニストとして独立しようという転換期とオーバーラップしている。

 =剛腕マネージャー=

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(Tommy and Diana Flanagan (’93): 中平穂積氏の写真展にて、中平氏撮影)

 トミーの独立後、ダイアナは彼のマネージャーを務め公私ともにパートナーとなります。古巣のジャズ界に戻ったダイアナは寡黙なフラナガンに代わり、強気のディールで剛腕ぶりを発揮し、日本のプロモーターからは、エルヴィン・ジョーンズ、ジェリー・マリガンの奥さんたちと並ぶ「三大」として恐れられた。

 レコーディングでは『Jazz Poet』(’89)から『Sunset and the Mocking Bird-The Birthday Concert』に至るフラナガンの円熟期のリーダー作全てにダイアナの名前がプロデューサーとしてクレジットされている。

 ダイアナの基本ポリシーは、「トミーをいい加減な輩から守る!」こと。-海千山千もジャンキーもヤクザもジャズ界には居る。そういうリスペクトのない人間からトミーを守ることだった。NYのジャズクラブに行った人ならご存じでしょうが、音楽を聴かずにおしゃべりばかりしているマナーのないお客もいる。トミーの演奏中にそんな人を見つけようものなら、ダイアナの鉄槌は容赦なく下された。

 私が一番印象に残っているのは、’80年代にフラナガンが《ヴィレッジ・ヴァンガード》に出演していた休憩時間、最前列に陣取っている私たちの後ろのテーブルに、おそらく日本人と思われるジーンズ姿の若い男性客がやってきた。フラナガン・トリオがバンドスタンドに登場すると、拍手もせずにあの小さな丸テーブルに土足を乗せてリラックスしている。やにわに振り向いたダイアナはそのお兄ちゃんをにらみつけ、まるでちゃぶ台のように、土足の乗ってる小さなテーブルをひっくり返したのだった。男性の姿は、次の瞬間には消えていた・・・

  一方で、ダイアナの押しの強さは、出しゃばり、身勝手とも受け取られ、時には軋轢を生んだ。彼女のごり押しのおかげで、フラナガンと袂を分かったミュージシャンもいるし、彼女さえいなければ、フラナガンはもっとビッグになれたのに・・・という関係者もいる。

  でも私は思う。トミーは敢えてダイアナを悪役に仕立て、それを盾に自分の我を通したのではないだろうかと・・・表向き、尻に敷かれているふりをしながら、周りに業界人がいないときには、昭和の日本人と変わらない亭主関白のトミーの素顔を見せてくれたことがあるからだ。

 少なくとも、ダイアナなしには、フラナガンのサド・ジョーンズ集『Let’s』や『Jazz Poet』といった円熟期の名盤群は生まれなかっただろう。

  ダイアナは世界一のトミー・フラナガン・ファンを自認してはばからなかったが、寺井尚之には一目も二目も置いていた。未発表ソロと称してストリーヴィルからリリースされた音源がフラナガン以外のピアニストのものと見破ったのも、この二人だ。

 音楽だけでなく、詩や文学にも造詣深いインテリ、リベラルな超駄々っ子、あれほどエモーショナルな人は、彼女の旦那さんを別にすれば他に知らない。ダイアナと知り合えて、色々語り合えたことは、私たちの人生の財産です。

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 ダイアナ・フラナガン、本当にいろいろお世話になり、ありがとうございました。

心よりご冥福をお祈りします。

 

 

連載:ペッパー・アダムス最期の『アダムス・イフェクト』(その3 最終回)

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  サー・ローランド・ハナが、昔こんな風に教えてくれたことがあります。
「ペッパーは亡くなるまで災難続きだったんだよ。自分の車に轢かれて大怪我をして、治ったと思ったら病気になってしまったんだ…」

 ペッパー・アダムスが体の異変に気づいたのは1985年3月、ヨーロッパの長期ツアー中に立ち寄ったスウェーデン北部のボーデンという街だった。現地の病院の診断は肺がんだった。まだ54才、その前年の大部分を骨折の治療で棒に振り、やっとカムバックし軌道にのった矢先の出来事だった。円熟期の管楽器奏者が、よりによって肺のがん宣告を受けるとは、アダムスのショックはどんなものだっただろう。体調不良を押してヨーロッパ各地のツアー日程をこなし帰国後、NY市聖ルカ-ルーズベルト病院で精密検査を行ったが、診断結果は同じだった。

 アダムス最期のリーダー作となった『Adams Effect』は、抗がん剤治療の合間を縫って行った録音だ。プロデュースは、NY地元の〈Uptown Records〉、共同オーナー兼プロデューサーであるマーク・フェルドマンとロバート・スネンブリックの本業はどちらも医師で、特にスネンブリックは腫瘍専門医だったのが幸運だったのかもしれない。
 
 録音メンバーは、ドラムのビリー・ハートを除く全員がデトロイト時代のペッパーの仲間だ。テナーのフランク・フォスター、ピアノのトミー・フラナガンは、デトロイトのジャズシーンと兵役時代の両方の仲間だし、ベースはデトロイトの後輩格ロン・カーターだ。ドラムには、やはりデトロイトで共演を重ねたエルヴィン・ジョーンズが予定されていたが、妻でありマネージャーのケイコとギャラで折り合わず、アダムスが頻繁に使っていたビリー・ハートを起用、全メンバーをペッパー・アダムスが選ぶ結果となり、6月25日と26日の2日間、イングルウッドのルディ・ヴァン・ゲルダー・スタジオを押さえて録音を行った。

 録音曲は、企画段階で〈Uptown Records〉のスネンブリックが〈マイ・ファニー・ヴァレンタイン〉など、スタンダード曲を含めた30曲の録音候補リストを作成したが、アダムスは候補曲をことごとく却下、結局候補リストから彼が選んだのは唯一曲、フォスターが作曲し、彼のデビュー盤『Here Comes Frank Foster』(BlueNote ’54)に収録した〈How I Spent the Night〉だけで、一体、他にどんな曲を録音するのか?二人のプロデューサーはスタジオに入っても、さっぱりわからなかったのだそうです。つまり、A&R(アーティスト&レパートリー)もアダムスが仕切った結果のアルバムなのです。

 余談ですが、フォスターは〈How I Spent the Night〉の譜面はもう持っていなかったので、自分のアルバムを聴いて、譜面起こしをする羽目になったのだとか…

 実際、このアルバムを聴いてみると、アダムスは準備万端、完璧にネタを仕込んで録音に臨んだ感がするし、はつらつ他のメンバーもアダムスを中心に鉄壁のワンチームという印象を受けますが、バンド全体のリハーサルは皆無で録音したというのですから、さすがに一流は違います!

images (2).jpg トミー・フラナガンの証言(1988) 

「この録音をしたとき、ペッパーは絶好調で、実に力強く説得力のあるプレイだった。曲はほとんど彼のオリジナルばかりだ。彼の旧友、フランク・フォスターと共演出来たことを心から楽しんでいたなあ。二人は長年の間、共演者として最高の相性だったのだからね。」

〈Uptown Records〉プロデユーサー:ボブ・スネンブリックの証言(1988):
当時ペッパー・アダムスは、抗がん化学療法の第4サイクルだった。彼は、迅速な治療効果を望み、抗がん治療を積極的に行っていた。実際、彼の場合には、副作用の吐き気が余りなかったんだ。そのことについて、彼に話したことを覚えているからね。化学療法を受けた8-10日後に録音セッションの予定を組んだ。スタジオ入りしたときの調子は上々だった。見た目は元気そうではなかったが、コンディションは実によかった。
目を閉じれば、昔のペッパーがそこに居た。彼は非常にストロングで、最高の出来上がりになった。

 多分、これが最後のリーダー作になると思っていたのだろう。

ドラマー・ビリ-・ハートの証言
hartimages (2).jpg ペッパーは、ケニー・バレルやサド・ジョーンズ、ジョニー・グリフィンといった人たちと同類でね、だしぬけに、プロとしての実力をテストする。一度共演すれば、沢山のことを思い知る。言い換えれば、彼の創造活動の邪魔になってはいけないことを叩き込まれる。つまり、ある時突然に、演奏曲の全貌を見ろというプレッシャーがかかってくる。彼がどんなソロを取るのか、どんな曲を引用してくるのかは、全然予想がつかないのだから。あのとき、彼の周りを固めるのは、極めてハイレベルな名手達だった。まずロン・カーター、それにフランク・フォスターだ!多くの人間は、フランク・フォスターがどれほどすごいミュージシャンかわかってないがね。ああいう人たちは、いかなるレベルのミスも絶対に犯さない。彼らは初見で完璧に読譜し、正しいアクセントを把握してしまう。初めて演奏する曲でも、ワンテイクで素晴らしいソロが取れる。このメンバーで、テイクの取り直しがある場合は、決まって僕のせいだった!恥ずかしいことだと思っている。

 先日の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」では、オープニングのブルース〈Binary〉での6小節交換や、〈How I Spent the Night〉のアウトコーラスで8小節のみテーマを提示して余韻をもたせる粋な手法など、演奏構成の隅々に溢れるデトロイト・ハードバップのエッセンスを寺井尚之が具体的に提示してくれたので、さらに楽しく鑑賞することができました。

 ペッパー・アダムスがこのアルバムに収録オリジナル曲のタイトルを見ても、このアルバムが最期になるとわかっていたのではないかという気がする。自らのアイルランド(ケルト人)の血を意識した〈Valse Celtique(ケルト人のワルツ)〉息子ディランに捧げた〈Dylan’s Delight〉、妻に捧げた〈Claudette’s Way〉、そして〈Now in Our Lives(我々が生きている間に)〉には、アダムスの覚悟が伝わってきます。 

 録音の3ヶ月後、アダムスの治療を支援するチャリティ・コンサートがNYで行われ、アダムスが尊敬するディジー・ガレスピーや、デトロイトの仲間達-ミルト・ジャクソン、ケニー・バレル、そしてトミー・フラナガンと言った面々が演奏しています。

 翌年8月、自宅療養していたアダムスの元に、かつてのリーダー、サド・ジョーンズがコペンハーゲンで客死したという知らせがディジー・ガレスピーから届きました。骨肉腫というガンで、わずか4ヶ月の短い闘病期間で亡くなったということでした。

 それからわずか数週間、トミー・フラナガンが彼を見舞いに訪れた3日後にアダムスは天に召されました。-1986年9月10日、まだ56才でした。

 セント・ピーターズ教会での音楽葬の葬儀委員長はトミー・フラナガンが務め、エルヴィン・ジョーンズ他、デトロイトの仲間たちや、サド・メル時代の親友、ジョージ・ムラーツ、そしてアダムスの対極にあるバリトン奏者、ジェリー・マリガンといった多くのミュージシャンが演奏に参加しました。

  アイルランドの血を引くバリトン・サックスの勇者、大いなるデトロイト・ハードバップのサムライよ、永遠に!

 アダムス関連の資料の宝庫!Gary Carnerに感謝します。

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連載:ペッパー・アダムス最期の『アダムス・イフェクト』(その2)

=戦友=

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 モーターシティとして活況を呈するデトロイト・ジャズ・シーンは、NYからツアー・サーキットで巡演してくる超一流バンドのリーダーたちにとって、人材とアイディアの宝庫だった。アレサ・フランクリンや後のモータウン・サウンドに象徴される黒人のソウルフルな感性と、ナチスから逃れてきたトップクラスの音楽家がもたらした高度な西洋音楽理論、加えてチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーのビバップ革命の信条に啓発を受けた黒人ミュージシャン達は、NYジャズと一線を画す、非常に洗練されたジャズのスタイルを確立していきます。それがサド・ジョーンズを中核に開花したデトロイト・ハードバップです。(左下写真:サド・ジョーンズとペッパー・アダムス)その後NYに進出したアダムスが、’60年代終盤から’70年代後半まで、サド・ジョーンズ&メル・ルイスOrch.の花形ソロイストとして大いに人気を博したのも偶然ではないのです。

thad_f_0bc763.jpg しかし、前途洋々たるモーターシティの若手ミュージシャンの躍進の壁となったのが、激化の一方を辿る朝鮮戦争でした。1951年にはトミー・フラナガン、フランク・フォスター(ts)が、翌52年にはペッパー・アダムスにも召集令状が届きます。彼らジャズ・エリート達は24ヶ月間兵役に付き、軍楽隊や前線の慰問団、そして北朝鮮の爆撃に抗する朝鮮半島の最前線で働きました。

 トミー・フラナガンは、この期間を「人生における地獄」と呼び、その中で、時にアダムスと遭遇できたことが、唯一の救いだったと語っています。

 フラナガンの証言:「ペッパーは、一足先に(ミズーリの基地で)数週間の基礎演習を終えていた。彼は、私がホヤホヤの新兵として訓練中だと知り、私が野営地に向かって行進していると、ペッパーが隊列の中の僕を目がけて走ってきた。そして僕のポケットに懐中電灯をぎゅっと押し込んた。 『きっと役に立つよ!』と言ってね…」

Koreaf_0bc74c.jpg  ペッパーは軍楽隊での演奏と、耳が良いことから、敵機襲来の爆音をいち早く感知して本部に伝えるという最前線の諜報活動も行った。軍隊時代、ペッパーは占領下の東京にも寄港し、アーニー・パイル・シアター(旧:宝塚大劇場が進駐軍に接収され改名、日本人の入場は禁止されていた。)でも演奏している。サド・ジョーンズ+メル・ルイスOrch.より先に来日していたわけですね。(左写真:朝鮮半島38度線北側をツアーしたアダムス加入慰問団のルート。)

 丸2年の従軍期間を経て、ペッパーはジャズシーンに復帰し、デトロイトで活動を再開。トミー・フラナガンが理想のジャズクラブと呼んだ《ブルーバード・イン》では、ビリー・ミッチェル(ts)の代役としてサド・ジョーンズやフラナガンと共演、ジョーンズやフラナガンが相次いでデトロイトを去った後は、バリー・ハリス(p)達とハウスバンドを組みました、

 デトロイトで、朝鮮半島で、そしてNYで…憧れや高揚感…様々な感動体験と、人に言えないほどの苦難を分かち合ったフラナガンとの友情は、アダムスの早すぎる死まで続きました。

 最晩年の’85年、ペッパー・アダムスは 最期のリーダー作『アダムス・イフェクト(Uptown』で、アダムスは朝鮮戦争の戦友であったトミー・フラナガン(p)、フランク・フォスター(ts)に参加を要請し、抗がん剤治療の合間を縫ってレコーディングに臨みます。(続く)

=参考文献=

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連載:ペッパー・アダムス最期の『アダムス・イフェクト』(その1)

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「トミー・フラナガンの足跡を辿る」-かれこれ16年余り毎月欠かさず開催してきましたが、10月は台風のため今月に延期!

目玉アルバムは、バリトン・ザックスの名手、ペッパー・アダムス最後のリーダー作『アダムス・エフェクト/ Adams Effect 』(’85 Uptown Records)。来月の講座まで時間ができて、幸か不幸か、久々のブログ更新!

 

=ペッパー・アダムスとは=

pepper_3.pngPepper Adams (1930-1986)

 ペッパー・アダムス(本名パーク・アダムス三世)は、ジャズ史を代表するバリトン・サックス奏者、ハリー・カーネイやジェリー・マリガンと並ぶ名手であると同時に、デトロイト・ハードバップを代表する音楽家でもある。アダムスのプレイは、グイグイとドライブするパワフルなスウィング感と、豊かで繊細なハーモニー感覚を併せ持ち、白人らしいクールなスタイルのスター、ジェリー・マリガンの対極にある。白人でありながら、ブラックなフィーリングで「マリガンとは違う」音楽性によって、一部の批評家はアダムスをこき下ろしたが、彼の音楽的信条は微塵にも揺らがなかった。 

=生い立ち

 ペッパーはアイルランド系アメリカ人三世、本名をパーク・フレデリック・アダムス三世と言います。大恐慌の嵐が吹き荒れた1930年(昭和2年)、ミシガン州の裕福な家庭に生まれていますが、父親が事業に失敗したため、母子は父を残しNY州ロチェスターにある母の実家に身を寄せた。ペッパーは14才ですでにクラリネットやテナー・サックスを演奏し、稼いだギャラは教師だった母親の安月給よりも多く、ずいぶん家計を助けた。17才になると、母親の転任に伴いデトロイトに引っ越すことに。自動車工業で栄えるデトロイトは若年層教育に予算を充当していたため、NYの学校よりずっと高給が保証されたのです。フラナガンやサー・ローランド・ハナさんがハイスクールで、これまでヨーロッパで一流音楽家として活動してきたユダヤ人教師たちから高度な音楽教育を授けられたのも、教育熱心なデトロイト市政の賜物だったのですね。

=トミー・フラナガンとの友情

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トミー・フラナガン(20代前半)

  アダムスが生涯の親友となるトミー・フラナガンと出会ったのは、アダムスがデトロイトに越してきて3日目に参加したジャム・セッションの場だった。二人はすぐに意気投合し、トミーはこの新顔を、ケニー・バレルやサー・ローランド・ハナ、ダグ・ワトキンス、後に双頭コンボを組むドナルド・バードなど、同じ年頃の仲間たちに紹介していきました。テナーとクラリネットが主楽器だった彼が、質屋でお買い得のバリトン・サックスを手に入れたのもちょうどその頃です。フラナガンとアダムスは、その当時デトロイトに住んでいたラッキー・トンプソン(ts.ss)率いる9ピースの楽団に加入、トンプソンは、若手ミュージシャンだった二人にとって、正規に共演した初めての大物ミュージシャンになりました。後年、後にフラナガンはラッキー・トンプソンを、デューク・エリントンやサド・ジョーンズ、コールマン・ホーキンスに匹敵する本物の天才と絶賛しています。 

paradisetheater.jpg その当時は人種隔離の時代、自動車工業で繁栄していたデトロイトには、南部から多くの黒人労働者が流入し、一大黒人コミュニティが形成されていました。デトロイト・リヴァーの北西部は黒人の住宅地と歓楽街となり、ウッドワード・ストリートの東側には、数多くのジャズ・クラブが軒を連ねるジャズの街だったのです。 (左写真:黒人街のシンボル的な劇場、パラダイスシアターはエリントン、ベイシーなど錚々たる楽団が演奏する映画館だった。)

 黒人人口の爆発的な増加は、デトロイトに人種間の軋轢がもたらすことになります。白人警官が黒人市民に対して、正当な理由なしに射殺する事件は今もなお多発していますが、フラナガンも若い頃、何度も警官に職務質問され、殺されるんじゃないかというオソロシイ目に会ったらしい。

  ジャズの世界もまた、ミュージシャンは白人グループと黒人グループに分かれ、演奏場所も違えば、演奏スタイルも違っていた。白人たちはスタン・ゲッツを信奉し、ドラッグをガンガンやりながら専らクール・ジャズを演奏。一方、黒人達が崇拝するのはもちろんチャーリー・パーカーで、ビバップを追求しつつ、案外ドラッグにはクリーンで、メジャーな先輩たちに一歩でも近づけるよう、楽器の技量と音楽理論の研鑽に励む気風がありました。その当時デトロイトでは、ヤクザ社会でも人種の棲み分けがきっちりしていて、黒人マフィアが、同胞の子弟に薬を売りつける非道はしなかった。NYでヘロイン中毒になったマイルスがデトロイトで静養していたのも、そういう理由があったのです。そんなわけで、地元の白人ミュージシャンと黒人ミュージシャンの交流はほとんどなく、数少ない例外がペッパー・アダムスだったというわけです。アダムスはただ一人の白人として、ブラックなジャズ・シーンの中で切磋琢磨して行きます。(続く)

祝ジミー・ヒース91才-録音の思い出

  Jimmy-Heath-e1373743674277-684x384.jpg 私たちが敬愛するテナーの巨匠、ジミー・ヒースは1926年生まれ。若き日は、チャーリー・パーカーの再来という意味で「リトル・バード」と呼ばれ、ディジー・ガレスピー、ジョン・コルトレーン、マイルス・デイヴィス達と関わりを持ちながら、ジャズの歴史を大きく動かしました。最高にヒップでスマートな巨匠も今年の10月25日に91才。
 OverSeasで行なったヒース・ブラザースのコンサートの素晴らしさは一生忘れることはありません!
寺井尚之のいかなる音楽的質問にも速攻で答えてくれる超ハイIQ、威張らず気取らず、それでいてオーラ溢れる天才音楽家です!

 「ジャズタイムス」電子版7月号に、リーダーとして、サイドマンとして参加した様々な名盤にまつわる非常に興味深いエピソードが掲載されていました。ジミーの奥さん、モナ・ヒースさんが「天才ミュージシャンは、何故か子供みたいなところがあるものなのよね。」と、私にこっそり話してくれたことがあります。それは決して自分の旦那さまの自慢話として語った言葉ではないのですが、このインタビューの端々に、モナさんの言葉が思い出されました。

☆日本語訳にあたり、ジミー・ヒースの優秀な生徒であったベーシスト、Yas Takedaに助言をいただいたことを感謝します。

=リトル・バードは語る=
聞き手:By Mac Randall 原文サイト:  https://jazztimes.com/features/a-little-bird-told-me/ 

1.Howard McGhee/Milt Jackson

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Howard McGhee and Milt Jackson
 (recorded 1948, released 1955 on Savoy)

McGhee, trumpet; Jackson, vibraphone; Heath, alto and baritone saxophones; Will Davis, piano; Percy Heath, bass; Joe Harris, drums

 

 バグス(ミルト・ジャクソン)とは多くのアルバムで共演していて、これが最初のアルバムだ。私が21才当時、一緒に仕事をした内で一番の大物がハワード(マギー)だった。彼のほど名前の知れた名プレイヤーと共演したのは初めてだった。彼はカリフォルニアのビバッパーだ。この録音の前に、シカゴの《アーガイル・ショウ・ラウンジ》で何度か共演したが、店のオーナーがギャラとして支払った小切手は未だに換金できていない。文句を言う為に店に戻ったら、そいつはコートのボタンを外して、拳銃をちらつかせた。それがハワード・マギーとの共演で一番の思い出かな…

私のことを”リトル・バード”と呼び始めたのがハワード(マギー)とバグス(ミルト・ジャクソン)だ。その当時、私はまだアルトを吹いていて、何とか師と仰ぐチャーリー・パーカーのようにプレイしたいと必死だった。まあ、その頃は私だけでなく、誰でも、そう思って頑張っていたのさ。バードは皆を夢中にさせたからね。だから、ハワードとバグスは、”リトル・バード”というニックネームを私に付けることによって、リスペクトを示してくれたわけだが、おこがましい名前だったと自分では思っている。確かにバードならではのフレーズやお決まりのプレイを身に着けてはいたけれど、まだまだビバップ・スタイルを目指すスタート地点に立っていただけさ。他に、このバンドで覚えていることは余りないね。バンドが長続きしなかったことだけは覚えている。このセッションは’48の2月に行われたもので、同じ年の5月に、ハワードと一緒にパリへツアーしたが、ミルトは同行しなかった。

2.Kenny Dorham Quintet

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Kenny Dorham Quintet (Debut, 1954) 


Dorham, trumpet and vocal; Heath, tenor and baritone saxophones; Walter Bishop, piano; Percy Heath, bass; Kenny Clarke, drums

   ケニーは僕の大好きなトランペット奏者であり、大好きな共演者でもあった。私は彼のアレンジするオーケストレーションやオリジナル作品も非常に気に入っていた。ケニー・ド-ハムとタッド・ダメロンは、ビバップ世代に於ける偉大なるロマン派作曲家だと思う。

 最初の’48年のハワード・マギーのセッションでは何曲かバリトンを吹いている。それが私のバリトン・サックスでの初録音だ。ケニーとの本作も、バリトンを演奏している数少ない作品だね。 “Be My Love”で、ケニーにバリトンを吹いてほしいと頼まれてね、なにしろ身長が160㌢しかないものだから、(大型の)バリトン・サックスの演奏依頼はしょっちゅうあるわけじゃなかった。楽器が大きすぎるんだよ!バリトンを吹いたセッションは確か3回だけだよ。スリー・ストライクでアウト!ってところだ。

3.The Jimmy Heath Orchestra

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Really Big! (Riverside, 1960)

Heath, tenor saxophone; Nat Adderley, cornet; Clark Terry, flugelhorn and trumpet; Tom McIntosh, trombone; Dick Berg, French horn; Cannonball Adderley, alto saxophone; Pat Patrick, baritone saxophone; Tommy Flanagan and Cedar Walton, piano; Percy Heath, bass; Albert Heath, drums

 これは「初リーダー作」というわけではないが、大編成のバンドを率いた初めてのレコーディングだった、十人編成だから殆どビッグ・バンドと言える。

 私は、自分が惚れ込んだ楽器、つまりフレンチ・ホルンと一緒にレコーディングをしたいと思った。フレンチ・ホルンがアンサンブルにしっくりと溶け込む感じが好きでね、これ以来何枚かのアルバムでこの楽器を使った。フレンチ・ホルン奏者のディック・バーグを入れてブラス四管、リード三管の編成にし、クラーク・テリー(tp.flg.)にリードを取ってもらった。クラークはこう言ってくれた。「お前さんのレコードなら、いつだって、どんな録音でも、ユニオンの最低賃金で出演させてくれ!」彼は当時すでに、相当なビッグ・ネームだったから、この言葉は私にとって非常にありがたく恩義に感じた。彼のような大物が、私の音楽を気に入ったというだけで、最低のギャラでいいと言ってくれたのだから。彼のプレイは本当に素晴らしくて、私はすっかりノックアウトされてしまったよ。

 このアルバムでは、編曲の段階で少し行き詰まってしまってね、ボビー・ティモンズの曲-”Dat Dere”はトム・マッキントッシュにアレンジしてもらった。彼はトロンボーンの名手だが、作編曲の腕前も同じくらい素晴らしい。バリトンを担当したのはパット・パトリック、元マサチューセッツ州知事、デヴァル・パトリックの親父だよ。録音セッションで、彼が私にこう言った。「この世に長いこと居れば、年月を経た重み(long gravityが備わるものさ。」 そして、後に私は、この言葉を自作曲のタイトルにした。-”Long Gravity”はヒース・ブラザースのテーマソングになったよ。

4. Jimmy Heath Quintet

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On the Trail (Riverside, 1964)

Heath, tenor saxophone; Kenny Burrell, guitar; Wynton Kelly, piano; Paul Chambers, bass; Albert Heath, drums

 

 

 私は、コルトレーンの後釜として、1,2ヶ月間、マイルスと共演していたことがある。バンドはキャノンボール(アダレイ)、ウィントン(ケリー)、ポール(チェンバース)、フィリー・ジョー・ジョーンズというすごい顔ぶれで、たまげたよ。ほどなく、この連中がオリン・キープニュース(Riversideレコードのプロデューサー)を説得して、私に専属契約を結ばせた。「コルトレーンがBlue Noteの専属になったからには、Riversideはジミー・ヒースを獲得しておくべきだ!」と言ってね。だから、Riversideでリーダー作の録音が始まると、彼らに参加してもらって恩返しをしようと思った。特にウィントン(ケリー)ならではの三連符が欲しかった。いみじくも、フィラデルフィアの友達は、彼のソロのことを「涙の粒で出来ている。」と評したが、私も全く同感だ。まさにピアノから涙がポロポロこぼれているようなんだ。

On the Trail 』には、〈Vanity〉というバラードを収録している。これはサラ・ヴォーンのヒット曲でね、コルトレーンも私も、彼女のバラードを聴くのが大好きだった。後になって、この曲を作曲したバーニー・ビアーマンに会った。百歳以上長生きした人なんだが、私の録音した〈Vanity〉にノックアウトされた!と言ってもらえた。

〈On the Trail〉を愛奏するようになったきっかけは、ドナルド・バードとの共演だ。彼が編曲したものを、アルフレッド・ライオンのプロデュースでBlue Noteに録音する予定だったんだが、ドナルドとアルフレッドの間にいざこざがあり、ドナルドが録音をやめてしまったんだ。それなら、私がこのアレンジでレコーディングしよう、ということになった。皆は私の編曲だと思っているが、ガブリエル・フォーレ作〈パヴァーヌ〉のラインを取り入れたこのアレンジは、ドナルドのものなんだ。そのラインは元々ギターのパートではなかったんだが、私のレコーディングではケニー・バレルが弾いているので、そこは私のアイデアのようだな。

5. Ray Brown/Milt Jackson

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Ray Brown/Milt Jackson (Verve, 1965)


Big-band session including Brown, bass; Jackson, vibraphone; Heath, tenor saxophone; Clark Terry, trumpet and flugelhorn; Jimmy Cleveland, trombone; Ray Alonge, French horn; Phil Woods, alto saxophone; Hank Jones, piano; Grady Tate, drums; arranged and conducted by Heath and Oliver Nelson

 このアルバムは私とオリヴァー・ネルソンが半分ずつ編曲を担当している。何故か、オリヴァーがフル・バンドの編曲を担当しているのに、私は10人編成のスモール・バンドでアレンジ依頼されていたのだとは知らなかった。気づいた時は「くそっ!騙された!」と思ったよ。そして、オリヴァーは自分のオーケストレーションに、常に半音をぶつけるハーモニーを使うことを主張した。そうすると耳触りの良いハーモニーになる。しかし、それがミルト・ジャクソンを大いにイラつかせた。バグス(ミルト・ジャクソン)は絶対音感の持ち主だから、二度マイナーに撹乱される。「EなのかFなのか?一体どっちなんだ?はっきりしやがれ!」って感じだ。後になって彼は言ったよ。「なあ、バミューダ(彼は私をこう呼んでいた。)俺はオリヴァーより、お前がアレンジした譜面の方がずっと好きだ。」ってね。

 ここには、〈Dew and Mud〉というオリジナルが収録されている。マイルス(デューイ-)デイヴィスとマディ・ウォーターズに捧げて書いた曲で、マイルスがよくトランペットで吹いてたマディ・ウォーターズのフレーズで始まってる。このアルバムではクラークがソロを取っていて…Oh, Yeah! もう最高だよ。いいレコードだな!

 ミスター・レイ・ブラウンは大好きだよ。最初に会ったのは1945年だ。ネブラスカ州のリンカーンで、私はナット・キング・コールと一緒に仕事をしていた。そこで我々は彼の引き抜きを画策したが、ディジー(ガレスピー)の楽団で仕事をしていることが判り、断念したんだ。このアルバムにはグラディ・テイト(ds)も参加している。私は彼のことを”Gravy Taker(おいしいところを取ってしまう奴)”と呼んでいた。彼は全くありとあらゆるギグで演っていたからね。

6.Art Farmer Quintet

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The Time and the Place (Columbia, 1967)


Farmer, flugelhorn and trumpet; Heath, tenor saxophone; Cedar Walton, piano; Walter Booker, bass; Mickey Roker, drums

 

 このアルバムでは、スタジオ録音と、残りはNYの近代美術館(MoMA)での演奏だ。〈いそしぎ〉をプレイした事を覚えているよ。母親が好きな曲だったので、よく演奏していたんだ。それに、私のオリジナル〈One for Juan〉も収録されている。コロンビア・コーヒーのコマーシャルに登場する農夫、フアン・ヴァルデスから名付けたんだ。「最高のコーヒーは南米だ!」って言うんだけど、私が最高だと思うのは、コーヒー豆とは違うものなんだがね(笑)

 アート・ファーマーの話をしようか。彼は、例えギグで赤字になったとしても、サイドメンにはきっちりとギャラを払う男だった。「クラブが君を雇ったわけじゃない。僕が君を雇ったんだから。」と言ってね。そういう人間だったよ。彼がヨーロッパ各地の様々な仕事場の住所を教えてくれたおかげで、私はその住所宛に手紙を書きさえすれば、仕事が取れた。そこに飛んで行って、3、4週間、行く先々で、現地のリズムセクションと共に、良い演奏ができた。いい奴だったな!アートのために曲を書き送れば、すぐさま録音してくれたよ。コード・チェンジを深く読みこなし、ほとんど完璧なソロを取った!私の経験から言えば、大抵のミュージシャンは、自分の気に入ったソロを取れるようになるまで、何度か練習するものだが、アートの場合は、音譜を読むように、コードを読みこなすことができた。全くずば抜けた才能だった。

7. Jimmy Heath

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Picture of Heath (Xanadu, 1975)

Heath, tenor and soprano saxophones; Barry Harris, piano; Sam Jones, bass; Billy Higgins, drums

 

 これはヒース・ブラザース結成直前に作ったアルバムだ。私は兄パーシー(ヒース)のプレイが大好きなんだが、モダン・ジャズ・カルテットでジョン・ルイスと共演しているし、クラシック志向が強いんだよ。だから何小節かベース・ランニングさせると、もう、うんざりしてしまう。一方、このサム・ジョーンズは、私がこれまで共演したうちで最もスイングする素晴らしいランニングのできるベーシストだ。彼のランニングは天国まで登っていく!それがこのアルバムにはある。我々は彼を”ホームズ”と呼んでいる。

『ピクチャー・オブ・ヒース』は自分のレギュラー・カルテットでレコーディングした数少ない一枚だ。ただし、ギターの代わりにピアノを入れているんだがね。このようなワン・ホーンでの録音は余りやっていない。何故なら、私は、あらゆる楽器が大好きなんだ。別にテナーだけが好きというわけではない。毎回、テナーが先発ソロで、次にピアノのソロ…そういうのは、私にとっては退屈極まりないことだ。私はフレンチ・ホルンが好きだし、チェロも好き、サックス・セクションもブラス・アンサンブルも、みんな大好きなんだ。なぜテナーだけに固執しなけりゃいけないんだね?まあ、デクスター(ゴードン)、ソニー(ロリンズ)、(ジョン)コルトレーンといった多くのミュージシャンは、確かにテナー・サックス一筋で名声を築いたんだが。トレーンが私のビッグ・バンドに在籍中に編曲した”Lover Man”が素晴らしい出来だった。「このアレンジは最高だ!とても気に入ったよ。こんな感じであと何曲か書いてくれないかい?」と頼んだら、彼はこう答えた。「いやあ…ジム、そんな暇はない。楽器の練習だけで精一杯だから。」やっぱり、私とは考え方が違っていたんだなあ。

8. The Heath Brothers

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Marchin’ On (Strata-East, 1975)


Heath, tenor and soprano saxophones, flute; Stanley Cowell, piano and mbira; Percy Heath, bass and “baby bass”; Albert Heath, drums, flute and African double-reed instrument

 

 これは、ヒース・ブラザースのデビュー・アルバムだ。ちょうどスタンリー・カウエルがチャールズ・トリヴァーと一緒に”ストラータ・イースト”というレコード・レーベルを創設し、我々にレコーディングを依頼してきた。ヒース・ブラザースは家族のバンドなんだが、そこにスタンリーを義兄弟として招き入れた。だってスタンリーは凄いと感服していたからね。まあ、私たちにとって、少し毛色の変わったレコードだ。ノルウェイ、オスロでのツアー中の録音だ。この時代は、列車でヨーロッパ中をツアーしたものでね、兄のパーシーはボディがチェロと同じ形状のベース(ベビー・ベース)を、ツアーに持参していた。これはレイ・ブラウンが考案した楽器だ。列車の中で、パーシーがベビー・ベース、弟のトゥティ(アルバート・ヒース)と私がフルート、スタンリーがカリンバ(手のひら大の小箱にオルゴールのように並んだ金属棒を弾いて演奏するアフリカ生まれの楽器)を手にして演奏すると、乗客達がやってきて耳を傾ける。そうやって、次の国へと移動した。車中の私たちの演奏は、室内楽のグループのようで、たいそう喜ばれた。だから、そういうサウンドをこのアルバムに収録しようと決めたのさ。

〈Smilin’ Billy Suite〉は、この『Marchin’ On』のために書いた曲で、ビリー・ヒギンズに捧げたんだ。彼はいつも笑顔で、周囲をみんなも笑顔にしてしまう。ビリーのタイム感はまさに完璧だ。決して大きな音で叩かずに、聴くもの心に響くドラミングをした。後になって、ラッパーのナズが(1994年のアルバム『イルマティック』に中の〈One Love〉というトラックに)この組曲の一部をサンプリングして使っている。おかげで、私達のグループが新しい世代に注目されるようになったのはいいことだった。

Marchin’ On』の録音後、私たちはCBSに移籍した。それは重要な節目の時期だった。初めてオーバーダビング技法を使ったのもこの頃だ。私の息子、ムトゥーメをバンドに入れて共演したし、グラミー賞にもノミネートされた。新譜を発表する毎に、前作より好セールスを記録した。『Then Expressions of Life』(’80)は4万枚売れて、このバンドの最高記録だ。そして、会社は我々をクビにした!・・・仕方ない。私たちがいくら売れたと言っても、ビリー・ジョエルやマイケル・ジャクソンは数百万枚売るのだから相手にならないさ。

9. Jimmy Heath

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Little Man, Big Band (Verve, 1992)


Big-band session including Heath, tenor and soprano saxophones; Lew Soloff, trumpet; Jerome Richardson, alto saxophone; Billy Mitchell, tenor saxophone; Tony Purrone, guitar; Roland Hanna, piano; Ben Brown, bass; Lewis Nash, drums

 

 ’47,’48年当時は、ビッグ・バンドのサウンドが大好きでね、これはその時代への回帰であると同時に、ビッグ・バンドでの初リーダー作だ。サックス・セクションが凄い!リード・アルトがジェローム(リチャードソン)だし、長年の盟友、ビリー・ミッチェルも入っている。それにトニー・(ピュロン)がギターだ。ヒース・ブラザースに在籍していたときから、私は彼にぞっこんなんだ。彼はバグス(ミルト・ジャクソン)のように絶対音感があり、望むままに、どんなキーでも演奏できる。これは私がとても誇りに感じているアルバムだ。

 私は自分の好きな人達に捧げて作曲するのが大好きで、この『Little Man, Big Band』にもそういう曲をたくさん収録した-ジョン・コルトレーンに捧げた〈Trane Connections〉、ソニー・ロリンズへの〈Forever Sonny〉、私の師であるディジー・ガレスピーへの〈Without You, No Me〉、そしてコールマン・ホーキンスへの〈The Voice of the Saxophone〉、ホーキンスは私がハワード・マギーとパリにツアーした時の看板スターだった。

10.The Jimmy Heath Big Band

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Turn Up the Heath (Planet Arts, 2006)

Big-band session including Heath, tenor saxophone; Terell Stafford, trumpet; Slide Hampton, trombone; Lew Tabackin, flute; Antonio Hart, alto and soprano saxophones, flute; Charles Davis, tenor saxophone; Gary Smulyan, baritone saxophone; Jeb Patton, piano; Peter Washington, bass; Lewis Nash, drums

 

 ジェブ・パットン(p)はクイーンズ・カレッジの教え子で、ここ16年間ヒース・ブラザースのレギュラー・ピアニストだ。私たちは彼が本当に大好きなんだ。アントニオ・ハートも私の生徒だよ。そしてチャールズ・デイヴィスとは実に長い付き合いだ。彼にこう言ったことがある。「お前がソロを取っている最中に、バンドが入ってくる、それが最終コーラスの合図だから、そこでソロを終わってくれ。」しかし、チャールズはソロを止めなかった・・・私は彼にLPCDというあだ名を付けてやった。つまり「ロング・プレイング・チャールズ・デイヴィス」の略だ!それから、ずっと昔に作ったオリジナル〈Gemini〉では、ルー・タバキンがフルートでソロを取っている。彼のことは「噛みタバキン(Chew Tobacco)」と呼んでいる。だって、彼がテナーをプレイするときに、まるでリードを噛み噛みしているように見えるからさ。こんなふうに、私は誰彼なしに、皆にあだ名を付けてやるんだよ。(笑)

 

エラ・フィッツジェラルド生誕100年の日に

Ella.jpg 今日はエラ・フィッツジェラルド生誕百周年。

ブログにご無沙汰している私も、ミミズのようにノコノコ地上に出てきました。

 D3605b_lg.jpeg上の素敵な作品は、パブロ・ピカソによるエラ・フィッツジェラルドのポートレート。作品の下に「エラ・フィッツジェラルドへ-友ピカソより、’70 5/28」と献辞が書かれています。

 でもエラのマネージャー、大プロモーターだったノーマン・グランツの伝記によれば、ピカソとエラは一度も会ったことがなかった。

 この絵が描かれた頃、エラはトミー・フラナガン・トリオと共にヨーロッパ・ツphoto0jpg.jpgアーの真っ最中。その頃ピカソは御年89才、南仏アンティーブのお城をアトリエにしていた。(現在この街にはピカソ美術館があります。)ピカソの大ファン、大コレクターで自分のレコード会社に「パブロ」という名前までつけちゃったグランツは、ピカソ邸にしばしば昼食に招かれ、親交を深めたそうです。そのジュアン・レ・パンで、エラさん達のオフ日がありました。

 グランツは、自分の最高の芸術品であるエラさんを、偉大なるピカソに紹介するチャンス到来、あわよくばポートレートを描いてもらおう!とばかりに、エラさんをピカソ邸に連れて行こうとしました。

 並のセレブなら、雑誌記者に連絡して、おめかしをしてすっ飛んで行くところですが、エラさんはそうじゃなかった。”ファースト・レディ・オブ・ザ・ソング”は、権力や名声に媚を売ったりしなかった。とにかく「社交」が大嫌い。だから、グランツにこう言ったんだそうです。

 「ノーマン、今日は忙しいの。ストッキングのほころびや、他にも縫いものが色々あるの。だから、出かけられない。」

ella_85-ELLAFITZGERALD.jpg この話を聞いたパブロ・ピカソは大笑い、まだ見ぬエラを大いに気に入った。何しろピカソは、セレブ嫌い、権力者嫌いなことではエラに一歩も引けを取らない反骨のアーティストだったからだ。

 それでササっと描き上げたのが上のドローイング。後にジョー・パスとポール・スミス(p)3とのコンサート・ポスターに使われました。

 えっ!何故トミー・フラナガンとのコンサートじゃなかったのって?

 それは、トミー・フラナガンもまた権力者ノーマン・グランツにちっとも媚びへつらわない、反骨の人だったからです。それはまた別の機会に。

 私はエラが大好き、あの甘く優しい声、その中から時々現れるヒリヒリするような熱さ、貴婦人の様に完璧な発音に交じるベランメエの啖呵、底抜けに明るい青空から覗く深い深いインディゴ・ブルー…

 あなたがトミー・フラナガンを連れて’75年に来日しなければ、このブログも存在しませんでした。

 エラさん、お誕生日おめでとうございます!! 

ハンク・ジョーンズが教えてくれたこと(後編)

hank_dizzy.jpgビバップ時代のハンクさんたち―左から:ディジー・ガレスピー(tp)、タッド・ダメロン(p)、ハンク・ジョーンズ、メアリー・ルー・ウィリアムズ(p)、ミルト・オレント(b.、NBCスタッフ・ミュージシャン)’47 William P. Gottlieb撮影

  

  前編で紹介したケニー・ワシントン・インタビューの聴き手は、ニック・ルフィーニというドラマー、現存するバップ・ドラムの第一人者で、自他ともに認めるジャズのうるさ型であるケニーは、ドラム教本のことは知っているけど、ジャズのことは素人同然の彼のために、ハンク・ジョーンズがどんなピアニストかを、ちょっとガラの悪い池上彰みたいに、忍耐強く簡潔に説明してあげていた。ケニーもヤルモンダ、じゃなくて、丸くなったもんだ!

 

hank-jones_bluenote.jpg ケニー・ワシントン:「ハンク・ジョーンズは歴史上最高のピアニストの一人だ。彼は膨大なレコードに参加している。’50年代、彼は引っ張りだこのスタジオ・ミュージシャンだった。名ベーシスト、ミルト・ヒントン、名ドラマー、オシー・ジョンソン(OCジョンソンちゃう!オシー・ジョンソンや!)と一緒にリズム・セクションを組み、時にはギターのバリー・ガルブレイズを入れ、何百枚というレコードに参加した。毎日、色んな相手と、2~4枚ものレコーディング・セッションをこなしたんだ。そして夜になるとライブをしていた。なのに彼らの録音には一枚の凡作もないっ!!ただの一つもだ!マジだぜ!」

 ハンクさんは、関西に強力なパトロンが居て、歯の治療をするためだけでも、関西にやって来た。NYの一流ミュージシャンと強力な信頼関係を持っていた故西山満さんも、盛んにハンクさんを招聘して地元のミュージシャンを加えたコンサートを企画していたから、関西のミュージシャンはハンクさんに接することが多く、ケニーと同じように襟を正した人も少なくないはずです。「(小型電子ピアノのない時代)来日時には必ず、特製の鍵盤を持参し、ホテルの部屋で練習してはった。」「コンサートが終わると、ステージの撤収を、自ら進んで手伝った。」とか、色んな伝説が伝わってきた。 

<若者たちへの言葉>

  ハンクさんは、亡くなる前の年に、ダウンビート誌の批評家投票で「名声の殿堂」入りを果たしました。御年91才!遅きに失した殿堂入りではあったけど、記念インタビューで若い人達へのアドヴァイスを求められ、自分が行ってきた節制と精進について淡々と語った。タバコも酒もギャンブルもしないというハンクさん。もっと若い時なら、愛奏よく微笑んで、沈黙を守ったかもしれない。71歳で亡くなったトミー・フラナガンは「自分の背中を見て覚えろ」の姿勢を貫き、練習してないふりを通した。

 ハンクさんの謙虚な言葉は、自分の選んだ生業と人生に対するこの上ない敬意と誇りが満ちた宝の山です。

0809.jpgダウンビート・マガジン2009年8月号より抜粋(聴き手ハワード・マンデル) 

<父を手本に>

 何をするにも、100%集中しろと言いたいね。全身全霊で努力しろ。私はこの年になっても、そうするべきだと思っている。私はこういうことを父親から学んだ。父は私の知るうちで、最も公明正大で筋の通った人間でね、人生の最高の手本を身をもって示してくれたんだ。清い生き方をした人だった。酒もタバコもやらなかった。そして敬虔なキリスト教徒だった。父のように生きようと努力してきたが、かなりうまくいったのではないかな。

(訳注:ハンクさんのお父さんはミュージシャンではなく、バプティスト教の助祭で、木材検査官として生計を立てていた。)

 

<集中するということ>

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 「集中力」には何が必要か?「興味を持つ」ことが第一!とにかく自分のしている事に興味を持たなくてはいけない。そこに完璧に焦点を絞り込んで没頭せよ。そして、知識、能力、知覚神経、創造力といった関連要素をありったけ注ぎ込め。

 自分の眼前の題材について考えろ。自分が集中している対象物が一体どんなものなのかをしっかり考えるのだ。何故そうするのか、どうしているのか、そんなことをごちゃごちゃ考えるな。私の言うように集中すれば、結果が出る。集中力というのは、物凄いパワーがある。どういう仕組みかは知らないが、「集中力」さえあれば、「聴く」力がつく。もし聴こえないのなら、集中が足りないんだ。 

<センスを磨きたいなら沢山聴け!> 

 (エレガントで趣味の良い)演奏スタイルをどのように確立したかだって(驚)!?

 誰だってそうだと思うが、沢山のものを聴き、多様なスタイルを吸収しそれを消化すれば、遅かれ早かれ、いずれ各人、自分なりのアイデアが出来上がってくるものじゃないかね?自分流に演奏したくなるのは当たり前だ。出来上がった自分のスタイルが、ほかの誰かに似ていたという結果になるかもしれないし、そうではないかもしれない。運が良ければ、誰にも似ていないスタイルが出来上がる。独自のスタイルや演奏解釈を会得すること、同じ曲でも、余人と異なる自分の流儀で演奏できるというのは、道半ばの学習者全ての目標だ。

 もうひとつの目標は、喜んで聴いてもらえるような演奏をすることだ。それはスタイルとはまた別で、センスの良し悪しが関わってくる。センスとは、ものの捉え方だ。それもまた、多彩な人たちの演奏を聴くことによって生まれるのだ。自分が聴いた音楽が、受け容れられるものなのか、聴きたくないものか、取捨選択を繰り返して、やっと身に付くものだ。多種多様なものを聴いた末に、自らの中に残っているもの、それこそが、「この楽曲はこういうサウンドであるべきだ」という意識をかたちづくる。それを人は「センス」とか「趣味の良さ」と呼ぶのだ。

 

 <即興演奏>

 私は自分のイマジネーションをうまく使おうとする。それに関わる要素について思いを巡らす。和声だけではなく元のメロディーについても思考を働かせ、そこから何かを作り出そうと試みるわけだ。その行為は家を建てるのと似ている。まず基本設計からスタートし、それに従って実際に建築してみる、その作業が進むうちに、装飾も加える、というようなことだ。

<ピアノ上達に近道はない!>

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 まず言っておきたいのは、ピアノが上手になる魔法なんてどこにもないということだ。ピアノに関わらずいかなる技量も、稽古するかしないか。毎日の練習は絶対に必要だ。毎日稽古すれば、どんなレベルであろうと現状を維持することができる、そして、ひょっとすると、そこからさらに上に行けるかもしれない。

 私の場合、ピアノはクラシックの練習から始めた。おかげで、どんなピアニストにも必須の基礎を身につけることが出来た。まともなピアニストになるための指針を教えてくれと言うのなら、私の答えはこうだ。

-まず勉強しろ。ピアノという楽器について熟知せよ。初心者の段階では、(可能な限り)最良のピアノ教師を見つけ、その人に習え。なぜならば、まず最初に正しい演奏法を学ぶことができなければ、後から誤った演奏方法を変えるには、大変な努力を要するから。間違ったテクニックを身に着けてしまうと、悪い癖を取り去るのは至難の業だから。これが若い人達への私からのアドバイスだ。(了)

  DBインタビューはアメリカ人の翻訳者ジョーイ・スティールさんが「読め」って送ってくれたものです。最後の「ピアノ習得」のくだりに、私は爆笑してしまいました。だって、毎日稽古を欠かさない寺井尚之が、常日頃自分の生徒たちに口を酸っぱくして言っていることだったから。

 ともあれ、ハンクさんが亡くなって、さらに世の中は便利になり、次期大統領でさえ、ツイートばっかりやってる世の中になった。ハンクさんの言葉は、ミュージシャンのみならず、私たち全員がちゃんと生きていく上での忘備録のように思えます。