What It Is! Mr. Flanagan?
Tommy Flanagan Trio Live at OverSeas George Mraz(b), Arthur Taylor (ds)
1984年12月14日、初めてトミー・フラナガンがやって来た!
終演後の記念写真:最前列左からアーサー・テイラー(ds)ジョージ・ムラーツ(b)、ダイアナ&トミー・フラナガン、ダイアナの背後にいるのが寺井尚之、私はトミー・フラナガンの右後に。
大阪の小さなジャズクラブがトミー・フラナガンのコンサートを公表するや否や、北海道から九州まで全国のファンから電話が殺到し、二部制で各60席分しかないチケットは瞬く間に売り切れてしまいました。それどころか、「うちの店でも“トミフラ”をやりたいが、どうすれば出来るのか?」と、全国のジャズクラブから問い合わせが来ました。
「どうすれば出来たのか?」
…それは、寺井尚之がずうっとトミー・フラナガンを尊敬していたからと言うほかはありません。単なる大ファンやコレクターでなく、フラナガンの音源を研究して、譜面を起こし、すでに自分のレパートリーとして消化していました。学生の頃からトミフラなんて呼んだこともありません。OverSeasも開店以来5年の歳月が過ぎ、それが、すでにジャズ界の関係者には良く知られていました。それで、阿川泰子(vo)さんの伴奏者として来日の話が出た時、「せっかくフラナガンを呼ぶのなら、OverSeasでやってはどうか?」と関係者に助言をして下さった方々がいたのです。今思っても、本当にありがたいことでした。
前回のブログにも書いたように、私はビリーからアメリカ人であるMr.フラナガンの心に通じるように、英会話を教わって、OverSeas開店以来、5年間、ひたすらこの日を待っていた事を伝え、寺井尚之を弟子として受け入れてもらえるような空気を作りたいと切望していました。
ところが、コンサートの数日前、招聘元の事務所から、異例の通達が来ました。
 「一行は、ハード・スケジュールで疲れ切っていて、非常にナーバスになっている。とにかくフラナガンは神経質なアーティストだから、応対にはくれぐれも気をつけて欲しい。疲れているので、店に入るのも本番直前にして欲しいし、終演後は、サインや接待も一切お断り。翌日に備え、すぐにホテルに戻り休養したいと希望している。加えて、フラナガン夫人がマネジャーとして同行しており、この人がフラナガンに輪をかけた難しい人です。お願いですから、そっとして刺激しないようにして下さい。」というのです。
ええっ!?あんな美しいピアノを弾く人が威張り屋の意地悪じいさんなの?信じられない…どうしよう!!! もう大ショックでした。
一方、寺井尚之は慌てず騒がず、調理場のコックさん達に通達しました。「どんなに気難しい人間でも、うまいもんには弱いはずや。コーヒー言うはったらケーキもつけて出してくれ。腹減った言うはったら、アメリカ人が好きそうなピザやフライド・チキンでも、子羊のローストでも、何でも、欲しい言いはるもんを、思い切りうまいこと作って手早く出したってくれ!」
コンサート第一部のトミー・フラナガン
その日は、12月らしくなく、とても暖かい日だったと記憶しています。本番ぎりぎりにしか来ない予定でしたが、結局フラナガン一行は5時過ぎにやって来ました。初めて近くで見る姿は、別に尊大でもないけれど、むやみに愛想を振りまくという風でもありません。写真で見るとおり、ヘリンボーンのハンチングをかぶっています。
奥で歓迎の拍手をしている私に、フラナガンが近づいてきた瞬間、(最初の挨拶はWhat it is!だよ。)ビリーの声が頭に蘇り、ここぞとばかりに呼びかけました。
“Hi! What it is!(調子はどう?) “
寡黙なムードのハンチングの紳士は、まるで、小学生にカツ上げされそうになったアインシュタインのような表情になり、うつむき加減で眼鏡を少しずらしてから、眼鏡越しに、長いまつげの鋭く大きな瞳で、私をじーっと見つめました。(気に障りはったんかしら…大失敗やん、どないしよう…)一瞬の沈黙が、果てしなく感じます。地球外生物に会ったように、私の頭の先から足の先まで観察した後、立派な鼻から少し息を出し、おもむろに彼は答えました。
“Yeah, What it is!(絶好調さ、お前さんはどうだい?) …エヘン、私のコートを預かってくれるかね? ”
“イエッサー!!We are So Happy you are here! ヨウコソ、オコシクダサイマシタ!”
“I am happy, too”(私も嬉しいよ。)あのかすれ声で、フラナガンは威厳を持って言うと、再び私のニコニコ顔を、診察なのか観察なのか判らない目つきで見つめました。
きっと私は、桂米朝の様な大師匠に、「ヨロオネ!」みたいな初対面の挨拶をしてしまったのだ、今になって思います。でも、フラナガンの反応は、”恥ずかしいことをした”という気持ちにさせるような意地悪なものではなかった。
預かったベージュ色のバーバリーはウールのライナーが付いていて、ずっしり重かったけど、「そんな意地悪じいさんでもないやんか!」と、スキップしながらハンガーに掛けに行きました。
一部の風景:左、ジョージ・ムラーツ、右、アーサー・テイラー
ジョージ・ムラーツ(b)は当時40歳、瞳と同じブルーのスーツと、より淡いブルーのワイシャツでビシっと決めた姿は、ジャズメンというより外交官か一流商社マン、ため息の出るような男前。アーサー・テイラーは、日本の職人さんのようにキリっとした様子、二人とも黙々と楽器のセッティングをしています。トップシンバルは、いかにも使い込まれたもので、BeBopの歴史を生き抜いてきたドラマーの風格を感じさせました。
飲み物に少し口をつけただけで、休憩もせず、立ち位置を決めて、そのままサウンド・チェックに入るようです。寺井尚之はピアノの後ろにセミのように張り付き、どんな些細なことも見逃さず、聞き逃さぬように集中しています。
サウンド・チェックというのは、マイクの調子やモニターを調べる為にするものですが、今回はフラナガン側の要望で、全てマイクなしの生、ジョージ・ムラーツだけがポリトーンのベース・アンプを使います。だから、サウンドチェックはピアノの調子と、トリオのバランスを調べるためだけに軽く弾いてみるだけのはず…
ところが、フラナガンは、後の二人を放っておいて、ソロで弾き始めました。聴いたことのないルバートから、ゆったりした分厚い質感の“Yesterdays”が響きます。それはサウンドチェックというよりも、寺井尚之へのメッセージだったのです。「お前が待ち焦がれたトミー・フラナガンがここにいるんだぞ。しっかり聴け!」と言わんばかり、侠客の仁義や、歌舞伎役者が切る見得と似ているように感じました。
背後の寺井は、全身全霊で貪りつくような聴きぶりです。6年後に出た”ビヨンド・ザ・ブルーバード”という名盤で、この聴いたこともなかったYesterdaysのヴァースは再現されています。
次の「サウンドチェック」もソロ、それも、BeBopでもこれ以上ハードなものはないというバド・パウエルの“Un Poco Loco”でした。イントロを聴いただけで寺井尚之が「おおっ!!」と呻きながらピアノの後ろにある手すりを握ってのけぞります。余裕がありながら疾走するグルーヴ、”Amazing Bud Powell Vol.1″でパウエルすら突っかかっている左手の猛烈なカウンター・メロディが、ごくスムーズに繰り出されます。本家パウエルより磨きのかかった”Un Poco Loco”、私達は竜巻に呑み込まれ、OverSeasごと不思議な夢の世界にワープした様な、非現実的な気持ちになりました。強い衝撃を受けた寺井尚之は後年、自分でもこの曲の鮮烈なヴァージョンを“Fragrant Times”というアルバムに収録しています。
Beyond the Bluebird/Tommy Flanagan4, Fragrant Times/寺井尚之3
ふと我に返ると、傍らのフラナガンのマネジャー兼奥さんと目が合います。おっちょこちょいの私は、そっとしておくよう事務所の人に言われていたこともすっかり忘れ、ビリーに習った最高の褒め言葉が口をつきました。
「He is Amazing! isn’t he!? 」
彼女は、人懐っこい優しそうな笑みを浮かべました。
「ええ、そのとおり!トミーはAmazingなの! 私はダイアナっていうの。あなたの名前は? 英語上手ね、カリフォルニアにいたことあるの?」
サウンドチェックを終え、ウィンストンをふかせながら休憩をするフラナガンにダイアナ夫人が話しかけます。
「トミー、この子はタマエ、あなたのこと、Amazingだって言ったわ!彼女英語が話せるのよ。」
フラナガンは、どこ吹く風という様子で、宙を見ながら「I know.」とボソっと言ったのを覚えています。フラナガンは目も鼻も口もすごく立派なので、ボソボソとしゃべると、声帯が振動せずに、立派な鼻孔から発声しているようです。「トミー、演奏の後で、ディナーを作ってくれるんだって。ぜひごちそうになりましょうよ!さっき生ハムのサンドイッチを作ってもらったんだけど、おいしかったのよ。ねえ、タマエ。」
私は、予想に反する彼女の笑顔に見とれながら、「なんだ、フラナガン夫妻は、それほど神経質でも難しい人でもないじゃない。」と思ったのでした。そんな私の思いは、ある意味当たっていたし、ある意味でははずれていました。
これからのコンサートでの演奏や、その後の年月で、私達はトミー・フラナガンと言う人が、心の中に途方もなく熱く激しいマグマを秘めた、余りに巨大なアーティストである事を見せ付けられるのです。
さあ、これから初めてのトミー・フラナガン3の開演!
(つづく)
投稿者: 寺井珠重
“BILLY’S エイゴ CAMP”
フラナガン来訪前夜の英会話レッスン
アジアビルにあったOverSeas
フラナガンを迎える直前に出会った私のユニークな英語の恩師、ビリーに出会ったのは、1984年8月末、ちょうど今頃の暑い夏の土曜日の夜でした。
夏休みでひっそりしたOverSeas、洗いざらしの白いTシャツとジーンズ、ブルネットの長身の女の子と、ヨガ・ウエアみたいな白リネンのシャツとパンツ姿の男の子、ファッション雑誌から抜け出たような外人のカップルがふらりと入って来ました。化粧っ気はないのに、お人形さんみたいに可憐な女の子、男性もこの街に沢山いるビジネスマンじゃないみたい。どこの国の人だろう?ロックなら似合うだろうけど、とてもジャズを聴くタイプじゃなさそうだ…私は思いました。でも二人は予想に反して、楽しそうに演奏に耳を傾け、「いい音楽だね。LAから来たんだけど、しばらくこの街にいるんだ。また来るよ。」と帰っていきました。でも、きっと二度と来ないだろうな…と、私は思っていたのです。
数日後、またその男性が現れました、また翌日も、その翌日も…何日目かに、アイスコーヒーを飲んでから、彼は切り出しました。「あのピアニストはオーナーなの?彼にちょっと話があるんだけど…」聞けば、彼はLAで活動するロック・ドラマーで、ビリー・ルーニーと言います。妻のジュリーが日本のモデル・エージェンシーと契約して数ヶ月間大阪で仕事するので一緒に来た。妻は超売れっ子のファッション・モデルで毎日忙しいが、自分はたまにモデルのバイトをするくらいで時間がある。だから一緒に演奏をさせてもらえないだろうか?自分の父親はジャズ・ピアニストでレッド・ガーランド(p)の友人だった。本業はロックだが、アメリカのまともなロッカーは、ジャズに対する尊敬と理解がある。だからこの機会に日本でジャズを覚えたい。ギャラは少なくていいから、僕もバップを演りたい、と言います。
OverSeasで熱演中のビリー(’84)
案外真面目そうなビリーの態度に、寺井尚之も快諾し、帰国までの数ヶ月間、週に一度セッションを始めました。バップの猛スピードにヒーヒーいいながら、「そんなトロいドラム叩いてたら音符に蝿が止まるぞ。」なんて寺井の毒舌(ビリーはこの一言が今でも忘れられないらしい。)に耐え、寺井のレパートリーを覚えて行きました。イケメンの彼が演奏していると、外からその姿を見て入ってくる女性客や、美人妻のジュリーや仲間の外人モデルが沢山来るので、調理場のコックさん達も張り切って仕事してました。ジュリーの写真はコックさん達が皆持って行ってしまったので、手元にないのが残念です。
それから間もなく、トミー・フラナガン・トリオ(ジョージ・ムラーツ(b)、アーサー・テイラー(ds))が12月に、レコードで共演した美人ジャズ歌手、阿川泰子さん(vo)のディナー・ショウに付き合い来日が決まり、とんとん拍子にOverSeasでのみフラナガン・トリオとしてコンサートを開くことが決まりました。トミー・フラナガンが日本の小さなジャズクラブ出演するのは史上初!という快挙でした。一方、寺井尚之は、フラナガンが’75年、エラ・フィッツジェラルド(vo)の伴奏者として来日以来、フラナガンの来日時には必ず会い、リハーサルにも同行させてもらっていました。その都度、弟子入りをフラナガンに志願しましたが、「私は演奏家で教える暇はない。」と、首を縦に振ってはもらえなかったのです。だから今回が寺井にとって弟子入りの最後のチャンスと言えました。OverSeasは、すでに何度もアメリカのジャズメンのコンサートの経験はあったものの、このコンサートは、寺井だけでなく、私にとっても人生の一大事でした。
’75年2月、雪の京都会館の楽屋口にて、初めて弟子入り志願したものの…
初めてOverSeasにやって来るフラナガンに、何とか想いを伝えたい!
ボンベイビル時代からウエイトレスとしての英語には困ることはありませんでしたが、それ以上の英語力なんて、私には何もありませんでした。子供のときから勉強嫌い、小学生の時に近所の教会のお姉さんに英語を習った貯金と「試験に出る英単語」だけで大学受験まで誤魔化した怠け者が、生まれて初めて「英語を勉強せな!!」と目覚めたのです。とはいえ、私には、英会話学校に通うような時間とお金の余裕などないし、逆に常連のネイティブの英会話講師さんたちに「あなた英語どうやって勉強したの?授業の参考にしたいから、詳しく教えてほしい。」と聞かれる始末ですからいけません。
そこで、周りを見渡すと、ちょうどビリーがいたのです。彼とは誕生日が数日しか違わず、見た目は全く違うのに、なんとなくウマが合いました。交渉の結果、お店が空いている午後の一時間、一回2000円(!)で教えてくれることになりました。生徒は寺井尚之と私、講義は全て英語、テキストはなし、お茶つきという条件。年末に来るトミー・フラナガンに心を伝える事に的を絞った4回のレッスンが、私の受けた唯一の、まともな(?)「英語のレッスン」です。大学で国語教師の免状を持っているというビリーのレッスンはユニークで実践的、即戦力の効果抜群、加えて、その後の勉強の基礎として大いに役立ちました。以下がレッスンの概要です。
ビリーと私(’84)
“BILLY’S エイゴ CAMP=学習ノート”
<レッスン1:口語を覚えろ>
初めてのレッスンで開口一番、ビリーは言いました。「トミー・フラナガンとちゃんと話したければ、まず”Colloquial English”を覚えろ。」「コ・ロッ・キャル??それなに?」「教科書に書いてある堅苦しい英語でなく、普通に皆が話してる言葉のことや。わかるか?」後で辞書を引くと「口語」と書いてありました。
最初の3語。
① Umm… ② Let me see…. ③ Well…
レッスンはまずこの3つの言葉じゃないような言葉から始まりました。
「相手の言うことが即理解できなかったら、上のどれかを使って時間稼ぎして、その間に次の手を考えろ。」
3つとも、つなぎことばの間投詞ばかり。半開きの口を閉じて鼻から息を出すUmm…(アム~)「なんや、単語というより鳴き声やん」と戸惑いましたが、日常大いに重宝してます。今思えば「演奏中何をすればよいか判らなくなったらドラム・ロールをせよ。大抵の困難はしのげる。」と言ったドラムの神様、ビッグ・シド・カトレット(ds)と同じ話だった。
<レッスン2:人さまの話には合槌を打て。>
「フラナガンにとってタマエはガイジンなんだから、彼が何か言ったら、判っているとをアピールしなくちゃいかん。びっくりするような話ならWow! 普通の話ならReally? 同感したらI hear yeah.おいしい話ならGreat! と合いの手を入れろ。ほな会話が弾む。ただし、どれもあまり連発するとアホと思われるから注意せよ。」
<レッスン3.褒め言葉を覚えろ。>
「フラナガンはアーティストや、プレイに感動したら、感動したと伝えろ。」と言うビリー、「“感動度”は、Amazing > Incredible, Unbelievable> Beautiful > Great の順番や、Amazing を一番ええ時に使え。“アメイジング・バド・パウエル”って知ってるやろ?」
「気に入ったら素直に口に出せ。すごく気に入ったのなら、Like でなくてI love it!みたいにLoveを使う。日本人と違って、アメリカ人はlikeとloveの境目がないんだ。すごく気に入ったら I really love it!と強調すればいいんだ。really って言葉は3回まで繰り返していいぞ。I really really really love it! って言っても大丈夫、でも4回繰り返したらアホと思われるから注意しろ。」
<レッスン4.米国社会と人種問題を理解せよ。>
「僕はアイルランド-カソリック系の白人で、人種的に言うとマイノリティだ。アメリカの社会はWASPと言って、実質的に白人(White)で英国系(Anglo Saxon)の新教徒(Protestant)が支配してるんだ。アメリカの白人といっても、一くくりには出来ない。ケネディはWASPでなく、僕と同じアイルランド系だから暗殺された。黒人は昔アメリカで奴隷だったのは知ってるだろ?実は白人は奴隷制度の時代から、内心「黒人は、自分達より、知性も体力もあって、カッコもいいと思い、恐れていたんだ。差別はコンプレックスの裏返し。いまだに白人は、言葉でも音楽でも、黒人を真似ようとしてるんだよ。」
<レッスン5.黒人英語と四文字言葉を理解せよ。>
「黒人が使う言い回しは、反対語が多いんだ。黒人がBad(悪い)と言うときは、時としてGood (良い)という意味の場合があるから注意しろよ。心配ないさ、言い方で判るから。ポルシェを見て、A Baaaad Ride! ってのは、『いい車だね』ってこと。黒人も白人も親しかったら、Swear Wordsといって、fu*k、sh*t,とか言ってはいけない悪い言葉を使うんだよ。黒人は友達をmotherfu*kerって呼んだりする。うまく使うと、ぐっと親しくなれると言うことだけは理解しておいた方がいい。だけどタマエは絶対に自分で使うなよ。」
上の項目以外にも、沢山のミュージシャン用語や、ダサいもの、鼻持ちならないもの、その他、世間で出会う多種多様な人物のキャラクターにぴったりな形容詞、ゲイ・カルチャーやドラッグ、アルコールに関する隠語などが、大学ノートにびっしり。ほとんどが一時的な流行語でなく、今でも十分使えるし、映画を見るときにも重宝してます。なにより、英語で英語を説明してもらうと、日本語の訳よりもよっぽどよく判ったような気持ちになりました。後に、頭をエイゴモードに切り替えるのにも役に立ったと思います。
とうとう最後のレッスンになり、私はビリーに質問しました。
「初めてトミー・フラナガンに会ったら、なんて挨拶すればいいの?」
「ジャズ・ミュージシャンだから、くだけた言い方がいい。What it is?って言いなよ。」
「What it is? 何よ、それ?疑問文か肯定文かどっち?」
「What’s going on? (調子はどう?)っていう意味や。近頃、ヒップな人は皆こう言うんだ。その後に、”ようこそ”って言いなよ。I’m happy you are hereでいいから。」
「もうひとつ、君達にぴったりの言葉を教えてあげる。for the love of it ってわかるかい?ヒサユキとタマエはジャズが好きだからこの仕事を一生懸命やってる。大変なことだけど、すばらしい。for the love of it, not for the moneyだ。(金のためじゃなく、好きだから、心を込めてやっている。) 音楽は金のためにやると、watered down (水っぽくなって感動できない)からな。
ビリーがマネジメントをしている、巨匠チック・コリア(p)
短く有意義な英語レッスンや、ジュリーが果敢に店の調理場に入って作ってくれたメキシコ料理をごちそうになった後、秋の終わりに二人は帰国しました。以来、長いこと音信普通でしたが、一昨年の夏、突然、大阪に来たと、ビリーから電話がかかって来ました。
ビリーはその後、出版業界で仕事をした後、数年前からフロリダに移り、チック・コリアのマネージャーとして、コンサート・ツアーやレコーディング、出版やCMに至るまで、完璧主義の彼の全てのプロジェクトが同時進行できるよう仕切っているのだそうです。今回もCコリアのアコースティック・バンドの来日と、コマーシャル撮影の為に同行してきたのです。マネジャーの分をわきまえ、服装も地味になり、すっかりおじさんになったビリーがどうしても食べたいと言うビーフカレーを作り、寺井尚之と3人でランチを楽しみながら、しみじみ彼は言いました。
「あれから、僕は“スペース・フロンティア”っていう宇宙雑誌を出版したりしたけど、長いこと食えない時期が続いたんだ。だけど、ジュリーは文句ひとつ言わず、しっかり僕について来てくれた。ジュリーにはほんとうに感謝している。今は娘が二人、ハイスクールに通ってるし、チックともうまくやってる。彼は最高のアーティストだよ。」そう言って財布からジュリーと娘さんたちの写真を見せてくれました。ジュリーは相変わらず細くて、髪の長いウィノナ・ライダーみたい。お嬢さんたちもジュリーにそっくりの美人だから、よくモデルにスカウトされるらしい。
現在のビリー&寺井尚之(’05)
We’ve been through a lot.(色々あったよね…) 誰かがそうつぶやき、私は昔教えてもらったとおり言いました。Yeah, we all did it for the Love of it… ビリーは何度も頷き、カレーの匂いに混じって、食卓に思い出と微笑が溢れました。
ビリーがレッスンをしてくれたのも、 for the love of itだったんだ。ありがとう!
さて、次週は初めてOverSeasにトミー・フラナガン3を迎えた日のお話。はてさて、ビリーに習った英語で心を伝えることは出来たのか…週末に更新予定!CU
Detroit New York Junction /サド・ジョーンズ(cor.tp)
デトロイト・ハード・バップ:美の壷
“Detroit New York Junction”(’56録音) はジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」の記念すべき第1回に登場したアルバムです。前に紹介したオスカー・ペティフォードもNYの後見役側として参加しています。一般的には、名門Blue Noteレーベルの栄えある1500番代の地味な一枚として知られていますが、寺井尚之はそれとは関係なく『デトロイト・ハード・バップの代表作』とし、その内容を高く評価しています。
デトロイト・ハード・バップってなんだろう?
命名者は寺井尚之ですが、最近はジャズ誌にも、この言葉を見かけるようになりました。デトロイトで発展し、NYで実を結んだハード・バップの一形式、フラナガンや、サド・ジョーンズ(tp.cor)、ビリー・ミッチェル(ts)のスタイルと言うが、どんな特徴があるのでしょう?
ジャズ講座では、このアルバムを聴きながら、デトロイト・ハード・バップの秘密が、手品の種明かしのように明らかになって楽しかった。
レコードで親しみ、さらに生で観るにつけ、私には、デトロイト・ハード・バップなる音楽のキーワードが、coolやhip、refinedとかいう英語より、私たちの御先祖様が作った“粋(いき)”という日本語の方が、ずっとぴったり来るように思えてなりません。
たとえば、落語の高座で、渋い羽織姿の噺家さんが、噺の途中に、さりげなくスルっと羽織を脱ぐと、一瞬目にも鮮やかな裏地が見えて、高座の空気が変わる瞬間があるでしょう?このレコードも、羽織の裏地のように、一瞬の鮮やかな変わり目が楽しくて、不思議で仕方がなかったのです。ところが、講座を聴くとそれが何故なのかが分かり、とてもすっきりとした気分になりました。
*左のカヴァーと同様のストライプは、江戸時代延享年間というから18世紀前半、上方歌舞伎の女形、嵐小六が江戸の舞台で着て、町で大流行した「小六染」。
江戸時代の庶民が生んだ“粋”のセンスは『いきの構造』なんて本もあるくらいで、今さらここで理屈をコネる必要もないでしょう。簡単に言うと、『封建社会』の強い制約の中、『色気』というものを『庶民が自由な精神で表現する』為に、わざわざ『意地と心意気で抑制してみせる』という、相反する要素の微妙なバランスから成り立つ文化と、私は捉えています。
色気と自由精神と節度を兼ね備えた頑固者でも、バランスが悪ければ、“粋”にならず、野暮になったり地味に終わるところが難しい。“粋”には修練が必要で、玄人(プロ)でなければ無理。いくら美人でも素人が着飾り厚化粧してもダメ、花柳界で行儀と芸を叩き込まれ、肌を磨き上げたプロの女性でないと“粋な姐さん”にはなれないのです。現代、グローバル・スタンダードになっている「かわいい」の対極にある価値観かもしれません。
*左はフラナガンのアルバムOverseasのジャケットからC並びのパターン/右は役者文様と言われるパターン。江戸時代の歌舞伎スターが舞台で着た柄が巷で流行し、今に伝わる役者文様と呼ばれる柄、これは市村格子と呼ばれるもの。十二代目 市村羽左衛門(いちむら うざえもん)が流行させた。つまり、一本と六本の縞と「ら」の字で「一六ら」という洒落。
さて、ここで、視点を変えて、粋の要素である『色気』を『ジャズ』に、『封建社会』を『デトロイトの過酷な人種差別社会』に置き換えると、デトロイト・ハード・バップのイメージとダブってきませんか?
トミー・フラナガンは’30年生まれ、お父さんは、’20年代の大恐慌時代に南部のジョージア州で失業し、はるばる自動車産業で景気の良いデトロイトにやって来ました。コナント・ガーデンズという黒人の住宅地に住み、郵便配達夫として生計を立てながら、気立ての良いフラナガンのお母さんと温かな所帯を持ち、苦労をして地区の教会を建造した人です。公民権法以前の時代、全米に人種の区別と差別はありましたが、大工業都市デトロイトでは、黒人人口の急激な増加に、自分達の領分が侵されるという白人の恐怖心から摩擦が多かった、人種間のトラブルは、公平を望む黒人からではなく、専ら白人サイドから起こったそうです。住み分けの進む南部や、都会のNYより、ずっと状況が悪かったといいます。第二次大戦中の’43年、全米最大の人種暴動が勃発したのもデトロイトです。
*デトロイト時代のケニー・バレル(g)とトミー・フラナガン(p)(於:Club666) ’46というからフラナガンはノーザン・ハイスクール時代の16歳!
フラナガン達が腕を磨いたジャズクラブ“ブルーバード・イン”も、黒人のダウンタウンにありました。白人は気が向けば“ブルーバード・イン”で極上のジャズを楽しむことが出来ても、有色人種は白人専用クラブに客として入ることは出来なかった。それどころか、白人のダウンタウンを歩くだけで襲撃された時代もあった。黒人ミュージシャンはライブやレコーディングの仕事は出来ましたが、デトロイトのラジオ局の演奏者は白人のみと決まっていました。黒人市民は税金は払えど、公営住宅にも入れないし、銀行の融資を受けることも出来なかったのです。
左:フラナガン、右:サド・ジョーンズ
そんな中、フラナガン達は、子供のときから音楽に親しみ、楽器の稽古に励みます。加えて、デトロイトの高校や専門学校には、’30年代後半にヒトラーの弾圧を逃れ、ヨーロッパから亡命した優秀な音楽家が、沢山教師として従事し、彼らに音楽の技術と教養を与え、更にチャーリー・パーカー達にBeBopの洗礼を受け、強烈な信念と自尊心を獲得したのです。
サドにせよ、フラナガンにせよ、バレルにせよ、演奏中、派手に体をゆすったり、芸術家ぶった「無我の境地」の笑みを誇示することなど決してありません。彼らにとっては野暮の骨頂です。カウント・ベイシー楽団のコンサートで、広い肩幅のサド・ジョーンズが、どっしりと姿勢良くステージに立ち、、ほとんど身動きせず、素晴らしい音色と音使いのソロで会場をノックアウトした姿は今も忘れられません。ひけらかさない、弾き過ぎない。プレイや音色にドキっとする色気はあるけれど、出しすぎはなし。どっぷりブルージーでありながら、コテコテにならない。「上品」だけど、「お上品」じゃない。甘さもあるが、酸っぱさや渋さがある。抑えが効いているから垢抜けている。ピリっとした緊張感の中にふと出す遊び心がまた最高です。
そんな事を思いながら、私が講座で学び、すっきりしたデトロイト・ハード・バップの壺をここにちょっと記しておきましょう。もっと知りたい方は、ぜひジャズ講座の本第一巻を開いてみてください。
1)デトロイト・ハード・バップは「テーマのアンサンブルがきれいで完璧」
テーマの端正さは、デトロイト・ハード・バップの一番わかり易い特徴。ハード・バップらしい複雑なハーモニーと、疾走感を損なわず、高級マニュアル車のようにパチっとギアチェンジしながら、サラリと品良く主題を提示することから始まります。これがモーターシティならでは!このアルバムの、<Blue Room>や<Scratch>を聴いてから、同時期の他のハード・バップ・コンボのテーマ処理と比べると、その辺がよく判るかもしれません。
2)デトロイト・ハード・バップは構成にひねりがある。
本盤のオープニング、<Blue Room>は、戦後ヒットした、マイホームなスタンダード曲で、一般的なAABA形式の32小節の曲。だけど、サド・ジョーンズ5は、ファースト・テーマを半分だけしか提示しない。中途半端と思いますか?実際にアルバムを聴いてみてください。一糸乱れぬアンサンブルで、鮮やかにキマるので、聴く者にテーマの印象を充分に与えます。後半分は、テナーのビリー・ミッチェルがのアドリブソロを取り、リーダー、サド・ジョーンズにバトンタッチ、コルネットを吹くサドの2コーラスのソロが圧巻です。次に来るフラナガンのソロはあくまで爽やか!ところがこのアドリブが24小節とまた変則、残りの8小節だけを鉄壁のアンサンブルでラストテーマにする。それでもなお<Blue Room>の曲想を十二分に出すという仕組み。
ほらね!デトロイト・ハード・バップは、お皿に山盛りのフライドチキンより、日本の懐石料理に似ているでしょ?イヴニングのデコルテより、和服の女性の襟足の色気に似てるでしょ?
3)デトロイト・ハード・バップは転調を隠し味にする。
もう一度、キーを意識しながら<Blue Room>を聴いてみる。すると、前半だけ提示されたテーマはF、その後、ビリー・ミッチェルのテナー・ソロから、A♭に転調する。フラナガン達がNYに去った後、世界を席捲するモータウン・サウンドの、派手でインパクト溢れる転調とは違い、ここでの転調は、和食の味に奥行きを増す砂糖のような隠し味だ。聴く者はキーが変わったことよりも、サウンド・カラーの変幻に、訳もわからずワクワクするのみ。(1)のようにソリッドにソロを回した後に聴かせるたった8小節のラストテーマは、A♭から再び転調して最初のFに戻る。どうです? “粋”でしょう?
本作では、<Scratch>や<Zec>など、後年、トミー・フラナガンのおハコとなるサド・ジョーンズ作品も聴ける。録音当時、フラナガンとバレルは若干25歳、ジョーンズ32歳、ミッチェル29歳、この落ち着き、この完成度には、ただただひれ伏すのみ。
トミー・フラナガンが日本で非常に人気があるのも、日本人に共通する“粋”のエッセンスを、無意識に看破していたからではないかしら?
四谷、赤坂、麹町、チャラチャラ流れるお茶の水、粋なねえちゃん… デトロイト・ハード・バップに人生を捧げる寺井尚之が、“粋”を貫く故に面白く、やがて哀しい“フーテンの寅さん”を熱狂的に愛好するのも、私にはあながち偶然とは思えないのです。
さて、次回は、初めてフラナガン3を迎える前夜、カリフォルニアからウルトラマンのように飛んで来て、英会話の特訓をしてくれた私の「先生」の話をします。来週末更新予定!
CU
ビリー・ハーパー(ts) カルテット
義を見てせざるは…美しきミュージシャンシップ
ビリー・ハーパー(ts,ss)
ビリー・ハーパーというテナー奏者をご存知ですか?
トミー・フラナガンゆかりのOverSeasのサイトですから、ここを訪れてくれる若い皆さんには、特に馴染みがないかもしれませんね。ビリー・ハーパーは、テナーの宝庫、テキサス出身、1943年生まれで、昔は何度も来日しました。でも’94年のコンコード・ジャズフェスティバルで、<テナー・サミット>と銘打ってジョニー・グリフィンと競演して以来、日本に来たという話は聞きません。
幼い頃から歌っていたゴスペルの延長線上でテナーサックスを習得、16歳でプロ入りしNYに進出するや否や、魂を揺さぶるような歌心のあるハードなプレイで注目を浴び、ジョン・コルトレーンの跡を継ぐ若手の逸材と騒がれます。以来ギル・エヴァンスOrch.、ジャズ・メッセンジャーズ、サドーメルOrch.など名だたる楽団で活躍しました。特に’74年、サド-メルOrch.で、サー・ローランド・ハナ(p)、ジョージ・ムラーツ(b)や、弱冠20歳の天才トランペッター、ジョン・ファディスと共に来日して、強烈な印象を残しました。深夜、確かサンTVでサド・メル特番があり、その迫力と、個性溢れる人種のるつぼの様なメンバー達、圧倒的なフルバン・ジャズ!高校生だった私は、ものすごく感動したのを覚えています。
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アジアビルにあったOverSeas
これからの話は、もう20年も前のこと、来日中のビリー・ハーパー(ts)カルテットがツアー中に、大阪で数日間オフとなり、OverSeasに、プライベートで遊びに来た或る夜の出来事です。
同行メンバーは、サー・ローランド・ハナ(p)の一番弟子と言われた超絶技巧のピアニスト、ミッキー・タッカー(p)、スタンリー・カウエル(p)、チャールズ・トリヴァー(tp)のMusic inc.またジョン・ヒックス(p)やウディ・ショウ(tp)と共演するベーシストで速弾きの鬼才と言われたクリント・ヒューストン、現在、巨匠として第一線で活躍するビリー・ハート(ds)、全員が新主流派の錚々たる面々です。寺井尚之は30歳少し出たくらい、OverSeasはボンベイビルからアジアビルに移転して間もないころでした。
その夜、OverSeasの客席にはハーパー達の他に、サラリーマンの団体さんが、居酒屋気分でワイワイ飲んでいました。演奏が始まっても、一向に耳を貸そうとしません。それどころか、音楽に負けじと自然に声も高くなる…ジャズ演奏を提供しているNYのレストランでも、よく出くわす光景です。
客席のハーパー達の前で、何となく恥ずかしく、またプレイヤーに申し訳ない、そう思いつつも、ホール係りの未熟な私は成すすべなしのお手上げ状態でした。
ハーパー達は、細長いお店の後部にある9番テーブルに陣取り、ざわめきも気にならないのか、真剣な表情で演奏に耳を傾けてくれています。一曲目のピアノソロが終わった瞬間、4人のミュージシャンが、一斉に大きな歓声と拍手を爆発させました。すると、大騒ぎしていたお客さんたちが、ぎょっとなって彼らの方を振り向き、演奏をしていることに初めて気付いたように静かになったのです。
クリント・ヒューストン(b)
4人の風貌だけでも人目を引くのに充分でした。ビリー・ハーパーは身長190センチ以上の長身で肌はチョコレートの様に艶のある褐色、大きな瞳がマッチ棒の先の様に小さな顔の強いアクセントになっています。ジーンズに漆黒のタートルセーター、精悍な姿はバスケ選手のようにも見えました。ビリー・ハート(ds)は対照的に、クレオールの浅黒い肌、ずんぐりした体型で、鋭い目つきと、角刈りのような短髪がいかにもコワモテ、クリント・ヒューストン(b)は、白人の様に白い肌と淡いへーゼル色の瞳が美しく、アフロヘアと濃い髭面がビートニク詩人のように知的で個性的、ミッキー・タッカー(p)が、激しい演奏ぶりと裏腹に一番目立たない風貌だけど、甲高い掛け声が凄かった。
ビリー・ハート
ほとぼりが冷め、再び大声を出す背広姿のお客さんに、今度はハートが、射抜くような視線を投げ、絶妙のタイミングで、バンドスタンドに喝采を送ります。今思えば、メジャーリーグのベンチの様でもありました。
強力な味方に意を強くした寺井尚之デュオがゴキゲンに2曲目を演奏し終える頃には、客席はすっかり静かになっていました。騒いでいたお客さんたちも、ハーパー達の魔法にかけられたように、いつしかプレイに大きな拍手と歓声を送りながら、一緒に音楽を楽しんでくれていたのです。
私はハーパー達の応援ぶりに、初めてミュージシャンシップというものの素晴らしさを体験したのです。格の上下は関係なし、心のこもったプレイには、受け手も全力で聴くのがジャズメンの道、バンドスタンドの窮地を見れば、進んで手を差し伸べるのがジャズメンの掟と学びました。
翌日再びやって来たミッキー・タッカー(p)と寺井尚之
音楽を聴いてくれない人たちの前でシリアスにプレイするということが、どんなものかを一番良く知っているのは演奏家自身です。一流ピアニストのサー・ローランド・ハナやジュニア・マンスでさえ、騒々しいヤッピー達には無力であるバンドスタンドの悲哀を口にしたのを聴いたことがあります。
そんな光景に出くわせば、絶対に見殺しにせず助けてやろうというミュージシャンシップは、「義を見てせざるは勇なきなり。」の武士道精神と同じやん!と、意気に感じたのでした。
それ以来、OverSeasでも他所のお店でも、NYでもどこでも、同じような光景に出くわすと、必ずその夜のことを思い出して、私も同じように応援しようとします。この事件の後、トミー・フラナガン達、ジャズの巨人というものは、目下の者の演奏であろうと、全力で聴く態度が備わっていることに気づきました。
他人の演奏を全力で精魂込めて受け取ろうとする人は、自分が演奏の送り手となる時のエネルギーも、より大きくなる。ジャズの世界でも、「エネルギー保存の法則」は成り立つのです。
夜が更けると、楽器を持ってきていなかったハーパー以外のメンバー達と寺井尚之のセッションが始まりました。送り手となった彼らの演奏は、やはり物凄いものでした。
ただのセッションなのに、寺井尚之とデュオで顔を高潮させ汗だくになってプレイしたヒューストンや、ハイハットの二段打ちのウルトラCをまざまざと見せつけてくれたハート、タッカーの剃刀の如く研ぎ澄まされたピアノ・サウンド、今でも強く心に焼き付いています。
その後ミッキー・タッカー(p)は単身で何度も何度も寺井尚之を訪ねて来てくれるのだけど、それはまた別の機会にお話しましょう。
現在もビリー・ハーパーは活躍中で、最近ポーランドで60人の合唱団を入れたコンサートがDVDになるらしい。ビリー・ハートは押しも押されもせぬドラムの巨匠となり、’99年にムラーツカルテットのコンサートで正規に演奏してくれました。
一方クリント・ヒューストンは2000年に53歳という若さで亡くなりました。ミッキー・タッカーは、’89年に奥さんの祖国オーストラリア、メルボルンに移住、’91年、当地の音楽学校で教鞭を取っている最中に突然脊椎を損傷し、不幸にもピアノを演奏することが出来なくなったけれど、音楽への情熱は衰える事無く、現在もプロデュースなど活動を続けているそうです。
或る夜、旅の途中でふらりとOverSeasに立ち寄った4人のジャズのサムライ達、彼らのくれた贈り物は、今も私の心にしっかり焼き付いています。
さて、次回は、ジャズ講座名場面集シリーズ、サド・ジョーンズの名盤 – Detroit-New York Junctionを聴きながら、デトロイト・ハード・バップについて語る予定です。
来週末に更新予定、CU
Jazz Club OverSeas創世記
サラーム・ボンベイ
NYジャズクラブの草分け“ヴィレッジ・ヴァンガード”は、約75年前のオープン時にはジャズクラブでなく、様々な試行錯誤の末にジャズに行き着いたそうです。一方、Jazz Club OverSeasは28年前、『ジャズクラブ』を目指して、オープンしたものの、最初はなかなか理想どおりには行きませんでした。
寺井尚之は、学生バンドマンを経て、更にサラリーマンとプレイヤーの二足のワラジで更に荒稼ぎをし、ある日遂に、最も尊敬するトミー・フラナガンのアルバムから名前を取った“OverSeas”という名の店を持つ決心をします。
大きなコーヒー・ショップの厨房で、しばらく飲食業の修行をした寺井尚之が、両親の助けを借り、繁華街より手堅い商売が出来そうなビジネス街に、“Piano Play House OverSeas”をオープンしたのは’79年5月でした。朝はモーニング・サービス、昼はランチ、夜はピアノ演奏をしながらお酒と居酒屋風の料理を出していました。ライブ・チャージは無料、当時コーヒーは一杯230円、オフィス街に合わせ、日、祝日と土曜日の夜が休みでした。
“Piano Play House OverSeas”は、現在の店舗から東南に数ブロック離れた南本町1丁目のテイジンビルの東向かい、“ボンベイビル”という少し風変わりな古めかしい建物の一階にありました。現在では新しいビルに建て替わっています。当時その界隈は「インド村」と呼ばれ、大阪の主要産業であった繊維関連のインド人貿易商達がたくさん商売をしていました。現在も船場センタービルなど、町の中にインドの人達は多く居ますが、何倍も人口が多かったのではないでしょうか。背広姿の企業戦士の群れに混じり、様々な形のターバン姿や髭の彫りの深い顔立ちの男性達、目を見張るように美しいサリー姿の女性達が往き来するエキゾチックな街でした。
ボンベイビルは名前の通り、隣近所インド系の人たちばかり、天井がものすごく高い3階建で、コロニアル様式というのか、各階に中二階のある実質6階建て、ご近所のオフィスは中二階を応接間や倉庫にしていました。OverSeasも、他の部屋同様、天井に映画“カサブランカ”のような大きな扇風機が2機ついていて、中二階のこじんまりしたバルコニー席は、絶好のデート・スポットでした。現在の常連さんで、ここを知っているのはジャズ講座発起人のダラーナさんくらいかな・・・でもたしかダラーナさんはデートでなく、近くの大企業に就職の際に、この中二階でパーティをされていたはずです。
バルコニー席から…
寺井尚之は開店当時26歳、朝早くから夕方まで、コックさんと共に厨房に入り、忙しくコーヒーを点て、仕込みを手伝い、色んなドリンクを作っては、夕方になると演奏していました。ドリップの腕はかなりのもので、私は今でも寺井がネルドリップで点ててくれるコーヒーが一番好きです。
開店後しばらくして、寺井のレギュラー・ベーシストとなったのが、当時関大1回生のYAS竹田。関大生らしくジーンズに下駄とか履いていて、私とおやつの取り合いでよくケンカしてました。そんな彼がNYで沢山のギグを抱えるベーシストになろうとは…一年遅れでやってきた甲南大のベーシストが倉橋幸久(b)、今と同じく無口で物事に動じず、コックさんから「東海林太郎=ショージさん」と仇名を付けられ可愛がられてました。今だに、それが彼の本名と思っている人がいます。山の手の甲南ボーイのイメージに反し、夜店の“輪投げ”の店番でお金を貯めてベースを買った時には、皆あっと驚きました。
レギュラー・ドラマーは、設計士の松田利治と、現在フラナガニアトリオの河原達人、当時はイケメン関大生でした。ゲスト出演していたのが、やはり関大の末宗俊郎(g)、その頃からブルージーにガンガン・スイングしていましたよ。
寺井尚之は、すでに流麗なデトロイト・ハード・バップスタイルだったけれど、今よりもずっと音数が多かったように思います。ピアノの響きの力強さは、現在を10にしたら6くらいかな?髭は白くなっても、ずっと今のほうが、ピアノのサウンドはカラフルで若々しいように思います。
私は開店時、四ツ橋本町のテキスタイル会社の新入社員で、退社後バイトまがいのことをしていて、正式に就職(?)したのは80年の3月です。スタッフは寺井がマスター、寺井の母がママさん、アルバイトたちと、プロの料理人、殆んどが素人のお店でした。中でも一番不出来なウエイトレスが私、サービスのノウハウも知らぬまま、毎日13時間労働、足は腫れて痛いし、食事はゆっくり出来ず、寝不足で悶々とする日々が続きました。でもふとしたお客さんの言葉や笑顔に、励まされたり、教えられたり、おかげで、なんとか今までやって来れてます。
そのうち、外国のご近所さん達のおかげで、ウエイトレスとして必要最低限の英語を話すことを少しずつ覚えました。彼らはシンガポール、スリランカなど様々な国籍で、中には神戸で生まれ、大学はUCLAというジャズファンもいました。殆んど人たちはコテコテの大阪弁とインディアン・イングリッシュのバイリンガル、ビジネス用には「もうかってまっか」、プライベートは「Hi, What’s up?」と使い分け、オフィスには十日戎の福笹とシバ神の絵姿を一緒に祭っていました。日本文化に対して懐が広く、開けっぴろげではないにしても社交的、付き合い上手。現在はIT国家として学力の高さが注目されていますが、私にはちっとも目新しいことではありません。今も町で出会うと、優しいまなざしで気軽に声をかけてくれます。子供のときからOverSeasのカレーが大好きというインド人も沢山居て、もうランチ営業していない今でも、祖国から帰ってきて、日本の味を食べたいと、出前の電話を頂くことがあるほどです。
お向かいのテイジンホールで催しがあると、落語家さんや、モデルさん達が休憩に来て、お店も華やかな雰囲気に包まれました。でも主流はサラリーマンのお客さんたち、今みたいにジャズを聴くためだけにやって来るお客様はまだいませんでした。
当時のタウン誌、“プレイガイドジャーナル”に、OverSeasが紹介されていますが、その記事が当時のOverSeasの様子を端的に表現してくれています。
「…ライブと、モダンジャズがたっぷり楽しめる。日差しの入り込んだ店内は、外の喧騒とは無縁、隣のテーブルからは仕事の打ち合わせは聞こえて欲しくないもの。」
お店は賑やかでも、まだまだジャズクラブには遠かったお店の転機は、1982年6月に故デューク・ジョーダン(p)3のコンサートを開催したこと。ジョーダンはまだ59歳でプレイは円熟を極め溌剌としていました。初めて一流プレイヤーのコンサートを、自分の店で出来て、すごく興奮したのを覚えています。トリオのメンバーはデンマークの実力派、ジェスパー・ルンゴール(b)とオーエ・タンゴール(ds)、不思議な縁で、ジェスパーはその後、トミー・フラナガンが北欧ツアーする際のお気に入りベーシストとなり、フラナガンの名盤“Let’s”やジャズパー賞受賞記念のライブ盤“Flanagan’s Shenanigans”に参加しています。当時は髪もふさふさでした。
左から:ジェスパー、寺井、オーエ
初めて、“聴く為”に沢山のお客様達がOverSeasに集まって来たのです。私たちはテーブルを全部外にほうり出し、パイプ椅子をレンタルして一人でも多くの人に聴いてもらおうとしました。満員の聴衆がぎゅうぎゅう詰めで膝突き合わせながら、ドリンク片手に、ジョーダンの演奏と、甲高い声ではっきりしたMCに聴き入ったのを思い出します。今ならテーブルがないと皆さんに叱られたことでしょう。目と鼻の先で聴ける臨場感たっぷりのコンサートは大成功で、OverSeasは初めてジャズファンに知ってもらうことが出来たように思えました。マイルス・デイヴィスやサラ・ヴォーンから直接指名がかかる、ジャズ界屈指のロードマネージャー、斉藤延之助氏の、ミュージシャンの熱演を引き出す仕事振りも、私にはすごく勉強になりました。
演奏中のデューク・ジョーダン
その翌年、同様の形態でジョージ・ケイブルス(p)トリオ(bass:デヴィッド・ウィリアムス、drums: ラルフ・ペンランド)、再びデューク・ジョーダントリオを開催、そして、今まで周囲がひっそりしているからと休んでいた土曜日の晩に、ゆっくりジャズのライブを楽しんでもらおうとライブを始め、徐々にジャズ・クラブへと軌道修正を目指したのです。
左から、私、寺井尚之、(一人置いて)ジェスパー・ルンゴール、YAS竹田、デューク・ジョーダン、(二人置いて)オーエ・タンゴール、オーエの後ろが寺井の母、横顔が斉藤マネージャー
ボンベイビル時代にトミー・フラナガンは2度来日しています。私はジャズ・ピアニストの内でも最高ランクのギャラを取るフラナガンをOverSeasに招くとは、夢にも思っていませんでしたが、寺井尚之はボンベイビルでのライブ録音も視野に入れ、フラナガン3のリハに立ち会ったりして、色々と計画を練っていました。
ところが83年の秋、やっと慣れ親しんだボンベイビルは近代的なビルに立替工事をすることになり、新しい本拠地を探さなければならなくなり、私たちは途方にくれてしまいます。
さて、この続きはまたの機会に。
次回は、私が今でも忘れられないジャズメンたちの思い出をお送りします。前回のオスカー・ペティフォード(b)が、国定忠治のようなジャズの“侠客”なら、次回はジャズの“武士道”のお話。
どうぞお楽しみに。CU
Oscar Pettiford in Hi-Fi- ビッグ・ハード・バップ・バンド!(その2)
=オスカー・ペティフォードの肖像=
ジャズ、クラシック、民俗音楽、映画やTV音楽、ビートニクのカルチャー・ムーヴメントなど、ボーダレスな音楽界の名士として、私を含め、カルト的信奉者を持つデヴィッド・アムラムは”Oscar Pettiford in Hi-Fi”など一連のオスカー・ペティフォード楽団のアルバムにフレンチホルンで参加しています。作編曲、指揮、それに数え切れないほどの楽器を演奏できるらしい。
トミー・フラナガンと同じ1930年生まれで、彼の自伝「ヴァイブレーションズ」には、ペティフォードのカリスマ性や、楽団を必死で維持する熱い生き方が、活き活きと描かれています。
こういう話は他人事と思えない!ついつい誰かに教えたくなってしまいます。下記のオリジナル・テキストを日本訳にし、それからダイジェスト版にしてみました。もっと編集するつもりでしたが、寺井尚之に「このままでええ!」と言われたので、ちょっと長いよ。
デヴィッド・アムラム 著 ”ヴァイブレーションズ“より
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僕がとうとう文無しになり、昼の職を探そうとした矢先、オスカー・ペティフォードからお呼びがかかった。オール・スター・バンドでしばらくツアーをするという。僕は喜んで仕事に飛びついた。ギャラが少ないのは承知の上だ。とにかくもう一度、仲間と一緒にプレイをしたいと思っていた。シェイクスピア祭(NYでは’54から毎年行われているイヴェント、現在はセントラル・パークでやっているようです。)の仕事ばかりやっていた僕にとって、20世紀に戻るというのは、最高の気分転換だ。ペティフォードと仕事をすれば、自分の三重奏の作品を書くためにもためになるだろう。
この楽団はツアーに参加するミュージシャン達との付き合いがまた楽しい。リハはなるべく早めの時間にして、後は一緒に飲んでは話に興じた。
「俺はお前のプレイを聴いたぜ。ヤバダバディー♪」:テナー奏者のジェローム・リチャードソンは、なんと、僕が昨年のシェークスピア祭で、作曲して演奏したファンファーレをくちずさんでくれた。他にも何人かのメンバーは僕の演奏を聴いていた。僕はミントンズで1955年に、ジェロームとジャムったことがあった。彼はジャズと同じくらいクラシック音楽や音楽理論に精通しており、4種類の楽器に熟達していた。だが彼だけでなく、全員がそういうレベルの楽団だったのだ。
*本拠地『バードランド』に出演中のペティフォード楽団、画像をクリックして拡大すると、ハープのジャネット・パットナム、JRモンテロース(ts)、アート・ファーマー(tp)、ブリット・ウッドマン(tb)など、”In Hi-Fi”に参加している面々の姿が見れる。
オスカーは、リハが終わると「ギャラは雀の涙くらいかも知れない。」とバンド全員に警告した。だが誰も文句を言う者などいない。皆、彼を敬愛していたからだ。約束していたギャラが払いきれぬ場合は、扶養家族の居ない独身ミュージシャンのギャラが一番安くなる決まりだった。勿論、彼の懐が豊かなら、我々は必ず分け前をもらえた。こういう楽団を維持していくのは、苦労がつきものさ。しかし、全員が楽しんでいた。
フロリダへのツアーは、毎日が移動日で仕事という、一番ハードなツアーだった。レギュラーのトロンボーン奏者が行方不明になり、代理の奏者は”ポークチャップ”っていう仇名だ、実力は推して知るべし…
列車やバスを乗り継ぎ、空港からフロリダのどこかに着陸し、最初のバスよりもオンボロのバスに乗り込むと、フロリダの風光明媚な湿地帯エヴァーグレードを途中駐車することもなく走り抜ける。青い目をしたなんとも感じの悪い白人運転手が、同じ白人のエド・ロンドン(frh)や、J.R.モンテローズ(ts)たちに向かって話しかけた。「おめえら、黒いのと一緒に混ざりやがってうっとうしい!いい加減にしろってんだ。すぐにおだぶつにされちまうぜ。」まるで自分がその予言を実行したいような口ぶりだった。
それはまだワシントン大行進や公民権運動以前のことだ。バスを待っている間、僕はすでに気付いていた。フロリダの黒人達が、3人の白人を従えた黒人のバンドリーダーを見て呆気に取られていたのを。一方NYのミュージシャン達は、フロリダの「人種」に関するひどい社会常識に動揺していた。同時に地元の黒人達に浮かぶある種の「恐怖」の表情に対しても。それは僕らには悲しい光景だった。
やっとの思いで我々は大学に着いた。今までのトラブルのおかげで、オスカーはとても気分を害していて、バスから出ようとしない。「俺はここで寝るよ。」と言ったきり、車両の奥で横になりバタンキューと寝込んでしまった。僕達団員は、着替えと食事の部屋を提供されたものの、部屋に入れたのは夕刻6時で、じきに本番だった。”ポークチャップ”のように 土壇場でトラとして入った連中は、演奏曲の譜面さえ見ておらず、本番前にリハーサルをすることになっていたのだが、オスカーは寝ている。しかたなく僕達は夕食を取り、余った時間は疲れ切った体を休める事にする。そして、本番直前にオスカーを起こして演奏を始めた。無論『バードランド』でのいつもの演奏レベルには及ばなかったが、学生達は大いに楽しみ、ダンスに興じた。彼らは、バンド・メンバーの多くがジャズ界で有名であることを知っていて、惜しみなく喝采を送ってくれた。
コンサートの後、大学の学長が楽団の為に公式レセプションを開催してくれた。しかしオスカーは当夜の演奏の内容が不服で、宴会場の隅っこにふてくされて座っていた。
とうとう、件の学長が、団員と共にオスカーのところに挨拶にやって来た。「オスカー、学長さんを紹介したいんだけど。」団員がそう言うや否や、ふくれっつらのオスカーの顔が悪魔的な笑顔に一変した。腕を大きく広げ抱擁し、びっくり仰天している学長に向かってこう言った。「ヘイ、マザーファッカー、調子はどうだい?」それから再び学長をしっかり抱きしめると、まるで、それが彼の出来る唯一の芸であるかのように、雄叫びのような笑い声を出した。学長も他の教授達も呆気にとられた様子だったが、両者の緊張がほぐれて、パーティはぐっと打ち解けた雰囲気になったのだ。
僕も多くのバンドリーダーと仕事をしたが、オスカーほど誠実で気性の良い人はいない。狂気じみたところも彼が大天才である証拠だった。だからミュージシャン達は彼のためならどんな苦労も厭わなかった。
パーティが終わる頃には、学部のスタッフ全員が、すっかりオスカーに魅了されていた。我々は朝の4時まで起きていて、バスでNYへと戻った。やっとの思いでマンハッタンたどり着いたと思ったら、その15時間後には、再び汽車や飛行機、バスを乗り継ぎ、トイレや食事の時だけ小休止というハードな巡業が始まるのだった。
その一週間後、僕達の最後の大仕事があった。マサチューセッツ州スプリングフィールドで、人気歌手ダイナ・ワシントンも出演するコンサートだ。しかし、コンサートの看板は町中にたった8つしかなかったし、新聞広告も出ていない、PRとおぼしきものが皆無なのだ。武器庫をにわかコンサート・ホールに仕立てた会場に、お客はたったの25人。誰もコンサートがあることを知らないのだから仕方がない。オスカーは当時ジャズ界のスターだし、ダイナ・ワシントンはそれ以上の知名度があったから、満員になって当然なのに。ダイナも不入りに驚いていた。ダイナがうちの楽団に飛び入りで歌い、我々も彼女のバンドに入り、コンサートはセッションの様相になった。不入りのコンサート終了後、オスカーはどうにか金をかき集め、家族のいるメンバーにギャラを払い、独身者たちには、自腹を切って支払った。
帰り道には、全団員がバンドは解散せざるを得ないだろうと察し、暗い気持ちで一杯だった。オスカーは、すぐにそんなムードを感じて、大声を出したり笑ってみせたり、皆を元気付けようとした。オスカーにとって、憐れみを受けるのは、耐え難いことだったのだ。
「これからもシェークスピアを演るのかい?」他の団員が家路に着いた後、オスカーは僕と28丁目を歩きながら尋ねた。
「ああ…」僕は応えた。「でも、これからも一緒に出来ればいいなあ。ねえ、僕に何か助けられることはない?例えばパート譜を写譜するとか、どんなことでもいいからさ…」
「“た・す・け・る”?!おい、お前が俺を助けるってかよ?!」オスカーは、まるで金星人の襲撃に遭ったように怒鳴りちらした。「一体何言ってんだ?俺がお前の助けを必要としてるってのか? おい、デイヴ、お前は自分のことだけ助けてりゃいいんだよ!しっかりしろよ。精一杯良いプレイをして、良い曲を書けよ。お前さんなら出来るさ。他人を助けるなんて考えるな!そんなのたわ言だって判ってるだろ。頑張って書き続けろ。誰にも邪魔立てさせるな。俺たちはな、神様に祝福されて音楽の世界に遣わされてるんだ!まあいいさ。俺の家でちょっと何か食べて行け。俺はな、フレンチホルンが大好きだ。次に一緒に演る時は、ミスノートなんか吹いてバンドを滅茶苦茶にすんなよな。俺が気付いてないとでも思ってるのか?全て耳に入ってるんだからな。」
それから、僕達はオスカーのアパートでエール(例えばギネスビールのような飲み物、日本のラガービールよりフルーティだったり苦かったりする。)を飲み始めた。
「人生って素晴らしいよなあ!」オスカーが大声で言う。「俺たちのバンドは世界一だ!なあ、そうさ!だから、おまえ大声出すなよ!」と、オスカーは雄叫びを上げた。「俺の息子が眠ってるんだ、明日学校に行かなくちゃならないんだから。さあ、乾杯だ!!デイブ。」
「乾杯、オスカー」僕は小声で囁いた。
「神様が俺たちをこの世に遣わしたのは、凄いプレイをする為なんだ。お前がこれ以上しょうもないことばかり言うと、俺はフレンチホルンのセクションをしょぼいメロフォーンに変えちまうぞ、判ってるだろうな。だけど今夜はゴキゲンなサウンドを出してたよな!何てすげえバンドなんだ!!」
僕達は結局一晩中盛り上がっていた。やがてオスカーは子供の時に覚えたインディアンの踊りを披露してくれた。彼の息子が学校へ行く支度の為に起きてきたときには、僕達は輪になってインディアンのダンスをしている真っ最中だった。奥さんが作ってくれた朝食をごちそうになってから、僕はやっと家路に着いた。
オスカーは世界一の同志だった。最高に心の広いボスだった。何事にも純粋な気持ちで向かっていく力の凄さを見せてくれた人だった。自らのエネルギーと生命力で、ミュージシャン達や他の人々の苛立ちや悪感情も、喜びに変えてしまえる事を教えてくれた人だった。(了)
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どうですか?天才ミュージシャンというものは、こんな風に音楽の天国と、現実社会の地獄の狭間を駆け抜けていくものなのでしょうか・・・
長いのを読んで下さってありがとうございました!
次回のお題は、『OverSeasの足跡を辿る その1-サラーム・ボンベイ』、今は昔、OverSeasの始まった頃について、書いてみたいと思います。
来週のウィークエンドに更新予定、CU
Oscar Pettiford in Hi-Fi- ビッグ・ハード・バップ・バンド!
OPことオスカー・ペティフォードは天才だ! ベースでもチェロでもソロを取っては華があり、アンサンブルでは安定したビートでバンドに命を与え、弦楽器特有の魔力を放つ。曲を作れば、腕に自信のあるミュージシャンなら必ず挑戦したくなる<Tricrotism>や、マグマの様に燃えるようなブルース<Swingin’ Till the Girls Come Home>など、力強い作品を創った。そして何よりも、個性の強いミュージシャン達をぐっと自分の下に引き寄せ、途方もないエネルギーにまとめ上げる錬金術師のようなリーダーシップがあった。
トミー・フラナガン(p)がケニー・バレル(g)と共にNYに進出した1956年当時、すでにOPはNYの有名ジャズクラブ『バードランド』(現在のNYの同名クラブとは違う。)で、ビッグバンドを率いて活動していた。同時にジャムセッションも主催しており、バド・パウエルの代役として急遽ここでNYデビューを果たした若きフラナガンのプレイが、即オスカー・ペティフォードの耳に留まっただろうことは推測に難くない。
OPはアメリカ先住民族とアフリカ系アメリカ人の混血で、1922年にオクラホマのインディアン居留地で生まれている。両親と11人の兄弟殆んどが複数の楽器に熟達する音楽家の血統だ。この録音の3年後、僅か37歳の若さで、デンマークで客死した。アイラ・ギトラーの名著<Swing to Bebop>では、ビバップ維新の立役者であると同時に、破天荒な武勇伝の持ち主として描かれている。滅法ケンカが強く、同じく親分肌でボブ・サップのような武闘派ベーシストとして名高いチャーリー・ミンガスが酔って暴れた時には、ピーター・アーツのように数秒間でノックアウトしたという神話さえある。
このアルバムが録音された1956年と言えば、ビッグバンド時代はとうの昔に終焉し、スモール・コンボ全盛時代、だがOPはトレンドより理想を優先した。ハープやフレンチホルンを擁し、ホレス・シルバー、ジジ・グライス、ベニー・ゴルソンといった、スモール・コンボ主流のハード・バップ時代をリードするコンポーザー達のオリジナル曲を、ビッグバンドの大スケールで表現した。’40年代に時代を先取りしたビリー・エクスタイン楽団同様、OPのビッグバンドは経済的に行き詰まり、あえなく短命に終わる。
講座では『名盤中の名盤』と紹介されていたこのアルバム、とにかく聴いていて気持ちがいい!明るくてキップがいい!品が良くてキレがいい!
私のお気に入りは<Smoke Signal>-ジャズ講座では、リチャード・ロジャーズ作曲のスタンダード<Lover>の進行を基にしていると教わった。最初から最後まで颯爽として起伏に富むカラフルな構成、作曲者、ジジ・グライス(as)の、風が吹きぬけるようなソロや、オシー・ジョンソン(ds)のツボにはまったドラミング、一音一音が有機的に連鎖しながら、このハード・バップ・ビッグバンドに生命を与えている、同時に、全てがお釈迦様然としたOPの掌の上で起こっているような安定感があるから、一層気持ちが良くなるのかな?“スモーク・シグナル”とは、インディアンの連絡手段だった「のろし」のことだ。それゆえ、何かの「前兆」と言う意味もある。新たな音楽的地平を予見する曲なのだろうか?
最低のギャラしかなくたって、OPと一緒に演りたいから、音楽の喜びを味わいたいからと、ハードバップの獅子達がこぞって参加したビッグバンド!デトロイトで頑固にバップへの信念を貫き、NYで同じ志を持つ集団に参加した若きフラナガン、彼の大きな瞳の輝きはどんなだったろう?
ヒーロー達の姿に思いを馳せながら、このアルバムを聴くと、レンブラントの集団肖像画のように、ペティフォード、アート・ファーマー、ジジ・グライス、ラッキー・トンプソン…そしてフラナガン…疾走するジャズメン達の一瞬の表情が、ビッグバンドと言う名の大きなカンバスに鮮やかに浮き上がり、自分もその時代の空気を共に呼吸しているような不思議な気持ちにさせてくれる。
フラナガンのソロ・パートは少ないけれど、余りある名盤だ。そして、再び講座の本を読むと、詳しいアレンジやソロの解説に加えて、ライナーノートの余談など、お楽しみがまた大きくなる。
次回のブログでは、本アルバムに参加しているフレンチホルン奏者-デヴィッド・アムラムの自伝に、その時の情景が鮮やかに描かれているので、抄訳を紹介したい。
ブログ始めました。tamae teraiの自己紹介
私の名前はtamae terai、父は関東育ち、母は根っからの大阪人、母方の曾祖母は、「雀のお松」と呼ばれ、口八丁手八丁を活かし、大阪天満で鮪(まぐろ)屋を営み、昭和初期には、大きな鮪問屋となりました。おまつさんは三度のご飯より歌舞伎が好き、芝居小屋の大向こうから女だてらに掛け声をかけるのを得意とし、大阪の三女傑の一人と謳われたそうです。鮪問屋は、第二次大戦前の経済統制で廃業を余儀なくされ、私が生れた時には影も形もありませんでしたが、子供の時から、ライブやコンサートを聴いたり、市場に行くと何故か血が騒ぎます。
私自身はごく普通の家庭に育ちました。父も弟もカタギのサラリーマンですが、縁あって、ジャズピアニスト寺井尚之と結婚し四半世紀以上、ふと我が道を振り返ってみれば、人生の半分以上をOverSeasというジャズクラブの片隅で過ごしていました。生活は楽ではないけれど、今もこうして、毎日主人のピアノを聴けるのは、誰にも味わえない私だけの幸せです。また仕事柄、たくさんの方々と知り合い、有形無形に、貴重なことを学ばせてもらっています。
NYに、ナット・ヘントフという、政治ジャーナリスト兼、ジャズ評論家がいます。彼は回想録で、「これまでワシントンDCで数多くの政治家達に出会ったが、ジャズ・ミュージシャンは、彼らよりよっぽど、博学で賢明だ。」というようなことを述べています。私は政治家には会ったことはありませんが、優れたジャズメンとは、数多くの出会いや別れがありました。
さて、ひょんなことから、この度ブログを作ることになりました。雀のお松の血が騒ぐ!そんなこんなの『誰にも奪えぬ思い出』や、OverSeasと、その周辺で体験した色々なことを記して行こうと思います。どうぞよろしく!