夢のピアノジャズクラブ《ブラッドリーズ》と太平洋戦争のこと(1)

 

 トミー・フラナガン&ジョージ・ムラーツ・デュオの名盤『バラッズ&ブルース』(Enja)を聴いていると、その昔、このデュオが頻繁に出演していた《Bradley’s (ブラッドリーズ)》というクラブを懐かしく思い出しました。

 《ブラッドリーズ》(1969-’96)は、NY大学の近く、グリニッジ・ヴィレッジのワシントン広場の近くにあったピアノ・ジャズ主体のクラブだった。《ヴィレッジ・ヴァンガード》や《ブルーノート》といったNYの主要ジャズ・クラブはシアター形式で。旅行者の多い観光スポットだったが、ここは地域密着型のカジュアルで清潔な店だった。純白のテーブルクロスがかかる食卓にはキャンドルが点っている。早い時間帯は、おいしいカクテルとお料理目当てのホワイトカラー(当時はYuppieって呼ばれてた。)でにぎわう。フラナガンの奥さんは「ヤッピーたちは音楽を聴かずに、大声でおしゃべりするのよ!」と怒っていたっけ…

 ’69年の開店当時(’69)のライブ事情は、店主のブラッドリーがロイ・クラール(ジャッキー&ロイの)のエレクトリック・ピアノを150ドルで譲り受け、それをジョー・ザヴィヌルやデイヴ・フリッシュバーグが演奏するというものだった。だが、店の常連であったポール・デスモンドが、それを見かねてボールドウィンのグランドピアノを寄贈したことが転機となった。デュオ主体で、ほとんど生音の、極上の生演奏が楽しめるクラブになったらしい。

 開店当初は閑古鳥が鳴いていたのだけど、ウディ・アレンが《ブラッドリーズ》でくつろぐ写真が雑誌に載ったことから、爆発的にお客が増え、繁盛店になったのだとか。

 ブラッドリーは音楽の趣味がよく、ビリー・ストレイホーンが大好き、そして、トミー・フラナガンが大好きだった。彼は1988年に63才の若さで亡くなり、その後を未亡人のウエンディが引き継いだ。代替りしてからは、ドラムやホーンが盛んにブッキングされるようになったが、不慮の火事で’96年に閉店、それ以来、この場所は《Reservoir》というスポーツ・バーになっている。

 フラナガンは’88年までは《ブラッドリーズ》で頻繁に演奏し、レッド・ミッチェル(b)やジョージ・ムラーツ(b)と日常的に共演を重ねた。そうして磨きぬいたマテリアルを、ピアノ・トリオによるレコーディングに用い一段とスケールアップさせた。そんなプロセスの中で生まれたアルバムが、ミッチェルとのデュオ・アルバム『You’re Me』(’80 Phontastic)であり、ムラーツとの『バラッズ&ブルース』(’78 Enja) だった。前者はミッチェル作のタイトル・チューン+スタンダード曲、後者は、〈With Malice Towards None〉〈They Say It’s Spring〉という、後にフラナガン・トリオの名演目となる作品の初期ヴァージョンが聴けて興味が尽きません。斬新なアイデアと、自由闊達で息の合った品格ある演奏内容は、《ブラッドリーズ》という場所があったからこそ、時間をかけて熟成できたに違いない。この店が当時のピアノジャズに果たした役割は計り知れません。

 もし《ブラッドレイズ》で、この二人が頻繁に演奏していなければ、『バラッズ&ブルース』の完成度に到達することはなかったでしょう。フラナガンのみならず、ハンク・ジョーンズ、ケニー・バロン、ジミー・ロウルズ、ジョン・ヒックスなどなど、この店に常時出演した多くのピアニストやベーシスト達がデュオという演奏形式を発展させる貴重な場を提供したと言えます。

 

=夢のジャズ・クラブ=

或る夜のBradley’sの風景-カーメン・マクレエがフラナガンームラーツのデュオに飛び入り!
写真:阿部克自

《ブラッドリーズ》は、朝まで営業していた。夜が更けると、騒々しいヤッピーたちは退散し、ヴィレッジ界隈の主要ジャズ・クラブの出演ミュージシャンや、その演奏を聴いて勉強していた若手ミュージシャン、それにパパ・ジョー・ジョーンズ(ds)のような大御所さま… ありとあらゆるジャズ界のメンバーがやって来た。運が良ければパノニカ男爵夫人にさえ会えた。ジャズを愛する人にとっては、最高の社交場!

 私たちを初めて《ブラッドリーズ》連れて行ってくれたのはトミー・フラナガンで、寺井尚之を色んな人に紹介し、挙句の果てに、レッド・ミッチェル(b)に推薦して共演するという思い出もあります。

 宿泊ホテルにアーサー・テイラー(ds)から電話がかかってきて「ベイビー、僕は明日の晩、《ブラッドリーズ》に行っているからヒサユキと一緒においで。」なんて言われたら、もう有頂天でした。

=店主 ブラッドリー・カニングハム=

Bradley Cunningham: Bradley’s のFBページより。

 そんな夢の空間のオーナー、ブラッドリー・カニングハム(1925-88)は伝説のバーテンダーとも言われている。シカゴで生まれ、色んな土地を渡り歩きNYに落ち着いた。小さなバーを開店し、利益が出たら売却するということを繰り返し、《55bar》を経て’69年にオープンしたのが《ブラッドリーズ》で、これが彼の最後の店になった。ブラッドリーはサスペンス映画に出てきそうな大男、最高のカクテルを供し、話し上手、聞き上手、喧嘩が強くてピアノも上手、おまけに日本語も堪能だった。彼が出演を依頼したピアニストはテディ・ウイルソン、ハンク・ジョーンズ、フラナガン、サー・ローランド・ハナ、バリー・ハリス、ケニー・バロン…ピアノの鍵盤を「叩く」のではなく「弾く」ピアニストをブラッドリーは好んだ。そして、お気に入りの作曲家はビリー・ストレイホーンだった。そんな趣味の良い人選で、《ブラッドリーズ》に出演することは、一流ピアニストの証になっていった。 

 ブラッドリーの誕生日は、ジョージ・ムラーツ、エルヴィン・ジョーンズと同じ9月9日で、バースデー・パーティはいつも三人一緒だったそうです。ムラーツはブラッドリーの一人息子の名前をとった〈Jed〉という曲を作って、サー・ローランド・ハナのアルバム『Time for the Dancers』(’77, Progressive)に収録しています。

(続く)