GW にバリエットはいかが? 連載”PRES” (第ニ回)

ホイットニー・バリエット著 『アメリカン・ミュージシャンズⅡ』より
《プレズ PRES》 (2)
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<キング・オリヴァーとの出会い>
armstrong_oliver.jpg  (右)Joe “King” Oliver (1885-1938) コルネット&バンドリーダー。深いブルース・フィーリングを持ち、ニューオリンズからシカゴで花開いた。キング・オリヴァーはルイ・アームストロング(左)以前のKing of Jazzだ。写真は’28年、Frank Driggs Cllectionより
 ヤングが家族の楽団、ヤング・ファミリーを辞めたのは18歳の時で、それ以降6~7年の間に、しばらくファミリーに戻った後”アート・ブロンソンのボストニアンズ”に参加、ミネアポリスの『ネストクラブ』でフランク・ハインズやエディ・ベアフィールド(saxes)と共演した。また「オリジナル・ブルーデビルズ」、ベニー・モートン(p)、クラレンス・ラブ、キング・オリヴァー(cor)と活動、そして1934年、カウント・べイシーの最初の楽団に入団した。
 ヤングは、ジャズ評論家ナット・ヘントフのインタビューで、50代でなお意気盛んだったキング・オリヴァーとの共演やオリヴァーの晩年について語っている。
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「ボストニアンズの後、キング・オリヴァーと一緒に演った。すごく良い楽団だったよ。僕はレギュラーとして、主にカンザスやミズーリ方面で1~2年共演した。
 キング・オリヴァーの楽団は金管3本、木管3本とリズム隊4人の編成だった。彼のプレイに衰えはなかったが、なにしろ年だから一晩中出ずっぱりではなかった。だが一旦吹けば、非常に豊かな音色だったよ。オリヴァーはショウのスターとして各セットに1曲か2曲だけ吹いた。
 ブルース?無論ごきげんなブルースを吹いたとも!人柄も良くて、明るいおっちゃんだった。若いメンバー全員を凄く可愛がってくれたよ。一緒に演って退屈なんてことは全くなかった。」

<第一のトラウマ:フレッチャー・ヘンダーソン楽団>
fletcher_henderson_hawk.jpgLヤング入団前のFヘンダーソン楽団、前列の囲みが若き日のホーキンス、右端:ヘンダーソン
 ベイシー楽団入団後間もなく、ヤングはコールマン・ホーキンスの後釜としてフレッチャー・ヘンダーソン楽団への移籍を要請された。気のすすまない事ではあったが、結局承諾する。それはレスター・ヤングの人生で、克服しがたい最初の苦難であった。ホーキンスはヘンダーソン楽団に10年在籍し、大海を思わせるようなホークの芳醇なトーンと、分厚い和声のアドリブが楽団の核となっていたのだ。通常ジャズ・ミュージシャンというものは、注意深く寛容な聴き手だが、テナーに転向したばかりで、まだアルト臭かったヤングの音色やふわふわした水平方向のソロは、同僚の楽団員達にとっては異端と受け止められた。やがて彼等はレスターの陰口を叩く様になり、フレッチャー・ヘンダーソンの妻は「こういう風に吹いてくれたら」と、彼にホーキンスのレコードを聴かせた。それでもヤングは3~4ヶ月持ちこたえたが、遂に 「自分は解雇されたのではない」という旨の手紙を書いてくれるようリーダーのヘンダーソンに頼んで退団。カンザスシティへと向かう。2年後にベイシー楽団に再加入、彼のキャリアはそこから始まった。
<カウント・ベイシー楽団>
 ピアニスト、ジョン・ルイスは当時のヤングを知っている。
john__Lewis.jpg  John Lewis(1920-2001) ニューメキシコ州アルバカーキ育ち、40年代NYでBeBop時代の頭角を表す。
 ジョン・ルイス:「私がまだアルバカーキに居て、まだ非常に若かった時、ヤング・ファミリーが町に逗留していると噂に聞いた。
 野外のテント・ショウで巡業に来たものの、金がもらえず立ち往生していたらしい。地元にセント・セシリアズ”という名のなかなか良い楽団があり、レスターはそこで演奏していた。街にはチェリーと言うスペイン人がいてね、ペンキ屋だったが、素晴らしいテナー奏者で、レスターは彼ととサックスで勝負したりした。当時のレスターのプレイ自体は殆ど覚えていないが、軽めの良い音色だったよ。しばらくしてヤング・ファミリーは街を離れミネアポリスに移った。
 次に会ったのは1934年頃で、彼が西海岸へ楽旅中にベイシー楽団のコーフィー・ロバーツというアルト奏者を迎えに町に戻ってきた時だ。その時代の彼はすでに1936年の初レコーデイングと同じサウンドだったよ。この地方は真鍮製のベッドが多くてね、レスターはいつもベッドの足元にテナーを吊るして寝ていた。夜中に何かアイデアが浮かぶと、サックスを手に取りすぐ音を確かめられるからだ。」

basie_lester.jpg      ヤングの初レコーデイングは、ベイシー楽団選抜のスモールグループだ。メロディの浮揚感は、フランキー・トランバウワーやジミー・ドーシーを想起させる。
 ヤングが以後15年間使用する上向きのグリスや急上昇するフレージングはコルネット奏者ビックス・バイダーベックの影響を暗示している。ヤングには深いブルース・フィーリングがあった。それはキング・オリヴァーのセンスを自分の一部として取り込んだのに違いない。淡い音色と最小限に抑制するヴィブラート、「間」のセンス、息の長いフレージング、そして容易くリズムを操る柔軟性を併せ持っていた。
 彼の登場まで、大部分のソロイスト達はオン・ビートでリズムに乗り、垂直的で短いフレージングに終始するため、リズムの波は途切れがちになった。ヤングはこのようなバウンスするアタックを滑らかにして、バーラインを越える長いフレーズとレガートを駆使した。(フレッチャー・ヘンダーソン楽団時代、同僚だったトランペット奏者レッド・アレンと同じ手法である。)さらに彼は、しばしばコードからアウトする音を使った。奇妙な音符こそが、彼のソロで耳を惹きつけるものであり、沈黙は強調の為に使われた。
カウント・ベイシー楽団のベーシスト、ジーン・ラミーはこう回想する。
gene_ramey.jpg  「ヤングは33年の終わりには、非常に間のあるサウンドを手中にしていた。あるフレーズから次の新しいフレーズを始めるのに最低三拍の間を置いた。」
 真正面から胸倉をわし掴みにするようなコールマン・ホーキンスと反対に、ヤングのソロはわざとそっぽを向いて人をはぐらかすようにさえ聴こえる。ヤングのアドリブは非常に論理的に動き、滑らかで耳に優しい。彼は装飾音符の達人であり完璧な即興演奏家であった。
 “Willow Weep for Me”や”The Man I Love”といったおなじみの曲を、一瞬そうと判らないほど鮮烈に仕立てた。頭の中に原曲のメロディをしっかり持ちながら繰り出すサウンドは、曲に対して抱く「夢」であり、彼の紡ぐソロは「幻想」だ。-叙情性がありソフトで滑らか―それは演奏だけでなく、恐らくは彼の人生もそうだったのではないだろうか?
 ハミングにさえ思える気楽なソロ、だがそれは見せかけだ。音の動きは急速で、不意にホールドしたと思えばガクっとビートを落とす。リズムのギアチェンジで大胆に変化を付け、ソロは絶え間なく変化を続ける。繰り出すメロディは時に非常に美しい。スロウな演奏は優しい子守唄のようだが、テンポが速まるにつれ、彼のトーンは荒々しくなった。同時にヤングは随一無比のクラリネット奏者でもあった。30年代後半に、メタル・クラリネットを吹き、心に訴えかけるような澄み切った音色を手中にしていた。(しかし、クラリネットが盗まれたので、ヤングはいとも簡単に楽器を諦めてしまった。)
(明日につづく)
 

GW にバリエットはいかが? 連載 ”PRES” (第一回)

ホイットニー・バリエット著 『アメリカン・ミュージシャンズⅡ』より
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《プレズ PRES》 (1)
lester-young.jpg サックス奏者レスター・ヤングが独創性に欠ける点はほぼ皆無だ。腫れぼったい瞼と飛び出し気味の目、少し東洋的で角ばった顔、飛び切り小さな口髭、歯の隙間が見える笑顔。彼は内股で軽やかに歩き、話し声はソフト、何かしらダンディなところがあった。スーツとニット・タイにカラー・ピン、踝(くるぶし)丈のレインコート、それにトレードマークのポークパイ・ハットを、若い時には後頭部に軽くのせ、年を取ると目深にかぶった。性格は内気、話し掛けられた場合に限り、しばしば自分も話す。演奏中は前方斜め45°にサックスを構え、まるで水中に櫂(かい)を漕ぎ入れるカヌー乗りの様に見えた。その音色は空気の様に軽くしなやか、それまで耳にした事もないようなフレーズは、何とも言えず抒情的で捉えどころのないものだった。
  サックス奏者がこぞってコールマン・ホーキンスに追従した時代、ヤングは二人の白人奏者を模範とした:Cメロディのサックス奏者フランキー・トランバウアーとアルトサックスのジミー・ドーシー、両者とも一流ジャズ・プレイヤーではない。だが1959年にレスター・ヤングが没した時、彼は白人黒人両方の無数のサックス奏者の模範となっていた。優しく親切な男で、人をけなした事はない。

ftrumbouer.jpgjimmy_dorsey.jpg  左から:Frankie Trumbauer(1901-56), Jimmy Dorsey (1904-57)
 そして彼は暗号のような言葉を使った。
<レスター・ヤング的言語について>
 レスター・ヤングの暗号化された言語についてジミー・ロウルズ(p)はこう語る。
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 「彼の言う事を理解するためには、暗号の解読が必要だった。それは辞書を暗記するようなもので、私の場合は判るようになるまで約3ヶ月はかかったと思う。」
 ヤングの言語は大部分が消滅してしまったが以下はその一例である。

  • ビング(クロスビー)とボブ(ホープ)= 警察 
  • 帽子(Hat)= 女性 中折れ帽 orソンブレロ= 女性のタイプを表す。
         

  • パウンドケーキ = 若く魅力的な女性 
  • グレーの男の子 = 白人男性 
  • オクスフォードグレイ= 肌の白い黒人、つまりレスター自身も意味する。
         

  • 「目玉が飛び出る」=「賛成する。」
  • カタリナの目orワッツの目 =どちらも非常に感嘆した時の表現
  • 「左の人たち」 =ピアニストの左手の指
  • 「召集令状が来る気分だ。」= 人種偏見を持った奴が間近にいる。
         

  • 「お代わりを召し上がれ。」=(バンドスタンドでメンバーに対して)「もう1コーラス演れ。」
  • One long, Two long = 1コーラス、2コーラス
  • 「耳元がざわざわする」=人が彼の陰口を言っている。
  • 「ちょいパチをもらう。」= 喝采を受ける。
  • ブンブンちゃん = たかり屋
         

  • ニードル・ダンサー = へロイン中毒者
  • アザを作る =失敗する。
  • 種族=楽団
         

  • トロリー・バス =リハーサル
  • マダムは燃やせるかい? =お前の奥さんは料理が上手か?
  • あの人たちは12月に来る。=2人目の子供が12月に出来る。(因みに彼は3回結婚し2人の子供を持った。)
  • あっと驚くメスが2時。 =美女が客席右手”2時”の方角に座っている。

<旅芸人>
LesterYoungonaltoJoJones.jpg 奇人変人は往々にして、混雑しつつ秩序ある場所に棲息する。ヤングが人生の大半を過ごしたのは、バスや鉄道の中、ホテル、楽屋、車の中やバンドスタンドであった。
  彼は1909年ミシシッピー州ウッドヴィルに生まれ、生後すぐに家族でニュ―オリンズの川向こうの街、アルジャーズに移った。10歳の時に両親が離別、レスターは、弟のリー、妹のイルマと共に父に引き取られ、メンフィスからミネアポリスへと移り住む。父親はどんな楽器でも演奏することが出来、家族で楽団を結成し、中西部や南西部をテント・ショウの一座として巡業した。ヤングは最初ドラムを演奏し、後にアルトサックスに転向した。初期の写真を見ると、彼のサックスの構えは後年と同様非常にヴォードヴィル的なものだ。
 「自分は譜面を読める様になるのが人より遅かった。…」かつて彼は語った。
 
レスター・ヤング : 「ある日、父がバンドのメンバー全員に各自のパートを吹くよう言った。父は僕が出来ない事を百も承知で、わざとそう言ったんだ。僕の小さなハートは張り裂け、オイオイ泣きながら思った。家出して腕を磨こう!あいつらを追い抜かして帰ってきてやる…帰って欲しけりゃな。覚えてろ!そして僕は家を出て、たった一人で音楽を学んだ。」
(明日につづく)

ウォルター・ノリス先生、静養中

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 ベルリンの巨匠、ウォルター・ノリスさんは5月に、名声の殿堂入りしている故郷アーカンソー州で、映画のプレミアやコンサートなど、様々な行事を予定していましたが、2週間前に奥様と散歩中、軽い心臓発作に襲われ、全てのツアー予定のキャンセルを余儀なくされました。
 現在自宅療養中のノリス先生からいただいたメールによれば、手術はせずに投薬治療をし、体力は現在充分回復しておられるようです。
 でも、心臓に負担をかけぬために、長時間、飛行機に乗ることは、お医者様から固く禁じられているそうです。それはノリス先生にとっての念願だった、再来日を果たすことができなくなったということでもあります。
 ノリス先生のメールは、「数年前にOverSeasで行った演奏は、私の人生で特別のものだった。あの最高の時を与えてくれた皆に心から感謝している。」と結ばれていました。
 トミー・フラナガンもノリスさんも、ハナさんも、大きな感情のうねりをピアノに託し、同時にピアノが喜んで倍音を膨らませてくれるようなソフトタッチの演奏家は、心臓に大きな負担がかかるのかもしれません・・・トミーがお医者さんが止めるのも聞かず、世界中で演奏を続けてあんなに早く逝ってしまったことを考えれば、ノリスさんの決断は、ちっともさびしいことでなく、むしろ喜ばしいことだと思います。
 ノリス先生は、現在も自宅で執筆活動をし、しばらくすれば、ピアノ・ルームで練習を始められることでしょう。もう二度と日本にお迎えすることはないにしても、ベルリンに行きさえすれば、ノリス先生のあのサウンドをいつでも聴けるのですから、ちっとも悲しいことはありません。
 ウォルター・ノリスさんへのお見舞いメッセージは、英文なら彼のサイトへ、日本語なら、OverSeas宛てに送ってくだされば、英訳してお送りいたします。
 5月になったら、ノリスさん宅の美しい庭に色んなバラが咲くでしょう。ノリスさん、心からお大事に!

巨匠ジョージ・ムラーツ近況: NY & Prague

george_mraz_09_march.jpg  ジョージ・ムラーツ・ファンの皆様こんにちは!
  我らのアニキは、この春、快調にハード・スケジュールをこなしてます。写真は3月、チェコ共和国トゥルトゥノフにて。 撮影Patrick Marek
<At Birdland, NY>
  4月7日~10日まで、ムラーツはNYのど真ん中にある高級ジャズクラブ「バードランド」に出演。
birdland.JPG      メンバーは、ジョー・ロヴァーノ(ts)、ハンク・ジョーンズ(p)、そしてポール・モティアン(ds)のオールスターズ、ビル・エヴァンス3のドラマー、お久しぶりのモティアンはレギュラー・ドラマーのルイス・ナッシュの代役だったそうです。
 NJ.comに載っていたジャズ・ライター、ザン・スチュワートの記事よれば、演奏は絶好調、ムラーツ兄さんが、チャンスがあると寺井尚之(p)と聴かせてくれるサド・ジョーンズの楽しい曲“Three in One”も演奏したらしい。
  御年90歳のハンク・ジョーンズのフィーチュア・ナンバーは、勿論 “Oh, Look at Me Now”、いつもどおり会場を沸かせたそうです。
maestro_george_mraz_shota_ishikawa.jpg Maestro George Mraz and his assistant from Berklee Shota Ishikawa
  昨年から、ムラーツのNYギグで楽器のセッティングや搬入出、マッサージに至るまで、優秀なアシスタントを務めているのが、バークリー音楽院の特待生、「しょうたん」こと石川翔太君(21才)、神戸出身のしょうたんは”エコーズ”の鷲見和広(b)さんの一番弟子でもあります。飛び入りを嫌う寺井尚之も「若いのに弾けるやん」と、機会があればセッションしていました。下の2枚は彼がバードランドで撮影してくれたショットです。
mraz175915036.jpg    mraz30606071_594346490.jpg  OverSeasのBBSは、海外のプロキシ・サーバーを受け付けないので、彼に直接NYレポートしてもらえないのが残念ですが、バードランドのギグでは、ジョージ・ムラーツの神業連発ソロの後の拍手は、誰よりも大きかったそうです。
 数年前に、OverSeasで観たジョージ・ムラーツに心酔し、ムラーツをがむしゃらに研究する姿に共感した寺井と、師匠の鷲見さんが、兄さん本人にしょうたんをボウヤ&弟子にしてくれるようアピールしたのがきっかけ。何しろムラーツは、自分の愛器を任すなら、鷲見和広さんや宮本在浩さん、OverSeasのベーシスト達を一番信頼しているので、説得は簡単でした。以降、現場で、しょうたんの勤勉さと努力が功を奏し、今ではオフィシャルなボーヤとしてアンドレ・ザ・ジャイアントとそっくりな名物プロデューサー、トッド・バルカンたちフロント陣にも可愛がられているようです。嬉しいな!
 ボストンからバスに何時間も揺られた末、師匠の楽器をセッティングして、深夜まで付きっ切りというのは、体力的に大変でしょうが、教室の授業の何倍も勉強になるよね。きっと、この世界でもマナーも身に付くでしょう。ムラーツ兄さんに言ったら、「そや!」と言うてはりました。
しょうたん、写真をどうもありがとう!帰国したら、ぜひ私たちに演奏を聴かせて下さいね!
<王宮コンサート, Prague Castle>
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logo_jazz_84x84.jpg   「Birdland」のギグ後、兄さんは故郷プラハに飛び、21日には世界遺産プラハ城のジャズ・コンサートに出演しました。このコンサート・シリーズは”Jazz in the Castle” (チェコ語でJazz Na Hrade)という名前で、クラウス大統領就任以来、ジャズ・ピアノをたしなむ大統領主催の年間イベントです。(ムラーツ兄さんは、先代のハヴェル大統領とも民主運動以来の飲み友達でした。)
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 コンサート会場は、日本語でスペイン・ホールと呼ばれるこんな場所!
 今回の共演バンドは、”Kosvanec Jazz Orchestra”、チェコのトロンボーン奏者、スバルトップ・コズヴァネックがリーダーで、英米からもプレイヤーを招聘している国際チームのようです。コンサートは超豪華なボールルームで行われ、バックステージにはシャンパングラスと、よく冷えたドンペリが一杯おいてあり、楽屋見舞いも各界の著名人が一杯来るそうですよ・・・
OverSeasなら11番テーブルで、ファンたちと気軽におしゃべりしながら、桃谷商店街のコロッケや味噌汁でくつろいでいるムラーツ兄さん、いつもすんません。ほんまにごもったいないことです。
 そんな巨匠ジョージ・ムラーツとトミー・フラナガンの傑作デュオ・アルバム、<Ballads & Blues>は、いよいよ5月9日(土)のジャズ講座に登場します。たぶん「トミー・フラナガンの足跡を辿る」のクライマックスのひとつになるでしょう。初めての人もぜひどうぞ!
追記:しょうたんの師匠、鷲見和広さんから、優しく謙虚なコメントをいただきました! 何故だかこのブログ・システムにバグがあり、このエントリーだけコメント欄に入力できない状況ですので、本文に追記させていただきます。鷲見さん、お世話かけてすみませんでした。

 鷲見和広さんよりしょうたんへ:
しょうたん。
ムラーツ師匠の為に、毎回N.Y.へ通い、アシスタントをさせてもらっている事は素晴らしい事だと思います。
今や、ムラーツ氏を、世界のトップ・ベーシストとして誰もが疑わないでしょう。
そんな巨匠と、師弟とか友達のように語り合えるのはヨダレが出るくらい羨ましい限りです。
このキッカケを作ってくださった、OverSeasの寺井さん、珠重さんに感謝の気持ちは一生忘れてはならぬぞ!
また報告を楽しみにしています。

 

トリビュートの前にメドレーの話を!”エンブレイサブル・ユー~カジモド”

  トミー・フラナガンの生演奏をお聴きになった事がある方なら、忘れられないのがメドレー!

 年月が経ち、改訂を加えて以下のURLに再掲しました。

http://jazzclub-overseas.com/blog/tamae/2015/11/-embraceable-you30youtube.html

トミー・フラナガンの思い出:「喜」力と「怒」力のダイナミクス

 トリビュート・コンサート近し。
 3月に入るとピアノがやたらに良く鳴って、サウンドミキサーを先月と同じ設定にしていると、ハウリングが起こるという不思議な現象が現れています。
 トミー・フラナガンのコンサートを一度でも聴いたことのある方なら、よくお解かりだと思いますが、そののプレイは、いつでも起承転結があり、落語のオチのようなものさえ付いていて、その時わからなくても、3日後にハタと気づいて大笑いすることすらありました。
 片耳だけで心地よく聴くうちにフェイドアウトしてしまうような、ぬるい演奏は聴いた事がありません!ジェットコースターみたいに山あり谷あり、しっかり掴まっていないと、翻弄されて振り落とされそうになる、スリルに満ちた音楽でした!
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 ソフト・タッチの囁きから、怒涛のように、クライマックスへとワープしていくフラナガンの名人芸を回想する時、ある思い出が心をよぎります。それが音楽と関係があることなのか?私だけの無理な「関連付け」なのか・・・自分でも良く判らないのですが、皆さんにお話してみようと思います。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
 殆どのインタビューや書物では、トミー・フラナガンを、”物静かな巨匠””温厚な紳士”として紹介しています。そのとおりで、私も公の席で、トミーが大声を出したり、人に文句を言ったのを見たことがありません。子供の頃から、すごく無口で、トミーの両親は、「この子は、ちゃんとものを言うようになるだろうか」と心配したほどだったそうです。
 だけど本当は、誰よりも気性の激しい人だったのではないかしら? 自分の感情が一旦爆発すれば、核爆弾のように、周囲に被害が及ぶのと判っていて、常にポーカー・フェイスを装っていたのではないかと、思えてならないのです。

 それは、’80年代半ば、初めてNYのフラナガン宅に招待されたときのことです。寺井と私の他に、トミーと親しいマーシャル・ソラールの紹介で、フランス人のエリート・ピアニストの女の子達が来ていて、昼から夕食まで一緒に楽しく過ごしました。やがてマドモアゼル達が帰った頃には、とっくに10時を回っていました。
 ロイヤルブルーに統一された薄暗い居間に私達4人だけ、コニャックや、フランスのきつい食後酒を飲みながら、寺井がピアノを弾いたり、トミーにピアノを聴かせてもらったり、それから夫妻に、色んな話をしてもらいました。 フラナガン・トリオの色んなメンバー達についてどう感じているか? トミーの若い頃の話、デトロイトの親類や、娘さんたちや息子さんの話、そしていよいよ話題はビバップへと移り、トミーが高校時代にチャーリー・パーカーと共演した喜びを語ってくれました。今から思えば、寺井が受けた最初で最高の「ジャズ講座」であったかも知れません。するとダイアナが、「高校生がバードと共演するというのが、どれほど凄いことか!バッパー達が街を歩くとどれほどの人だかりになったか!」と詳しく補足してくれるので、私は「無邪気に」質問しました。
   「それじゃあ、バッパー達は、ビートルズやストーンズとか、今のロック・ミュージシャンみたいに熱狂的に受け容れられていたんですか?」 
 ところが、この不用意な質問から、すごい夫婦喧嘩になってしまったんです。
 ダイアナがにこやかにYeah・・・と言って続けようとしたその瞬間、トミーが遮りました。
「No, No! そんなんじゃない。Absolutely Not.
ダイアナ「そうよ!  ロックみたいに人気があったじゃない。」
「No!! そういう流行とは違うんだ。根本的に違う!精神的に違う!」
ダイアナ 「だってスイートハート、世間に受け容れられるって点では同じじゃない!」
Nooooo!!! ビバップは我々の精神と生き方そのものを、根本的に変えたんだ!ビバップは、精神的にも音楽的にも、もっと高度な革新性があるんだ!ロックなんぞとは、根本的に違うんじゃ!」・・・
「チャーリー・パーカー達の頭の中は、そんな薄っちょろいものではないっ!!絶対に絶対に違う!!

lightning_bolt.jpg いつもデトロイト訛りで「ホニャララ…」と静かに話すトミーの声は、大ホールのスタインウエイ以上の大音響になり、広い部屋の中に、物凄い空気が充満していました。初めて見るトミーの激昂は、恐いというよりも、夜空につんざく稲妻の如く見事で、多分、私は口をポカンと開けて眺めていたように覚えています。
 いつもはトミーよりずっと口の立つダイアナも、すすり泣きを始め降伏です。確かにトミーの大声は、目に沁みるものでした。しばらくすると、トミーはいつもの温厚なフラナガンに戻り、私たちを深夜のヴィレッジ・ヴァンガードに連れて行ってくれました。そこでも色んな事件に遭遇するのですが、ザッツ・アナザー・ストーリー。
 以降、長いお付き合いの間で、私たちは、何度か雷の落ちる場面に居合わせることになります。いつも私達だけしかいない場所に限られていました。いついかなる場合も、トミーは汚い言葉で罵ったりすることはなかったし、常に論理的でした。ですから、「キレる」という形容詞は全く当てはまらないし、むしろ、感情のダムがドンと開き、一気に流れてくる感じ、ギリシャ神話のジュピターの雷みたいなものかも知れません。心の中の雷を、トミーは必死で抑えていたのではないかと思えて仕方がないのです。例えばコミック映画で、超能力のあるヒーローが、ひたすら普通の人であろうとするように、トミーも苦労していたのでは…と、そして、その雷を自由自在に放電できるのがピアノの前であったのではないかと思ってしまうんです。
 Tin Tin Deoや、Our Delight…怒涛のように盛り上がる寺井尚之のプレイを聴く時、私は、No! と、激しくまくし立てたトミー・フラナガンの怒声を思い出す。そして、スプリング・ソングスのように、心躍るグルーヴを感じる時には、色んな時のフラナガンの喜びの表情が蘇るんです。
 トミー・フラナガンの生演奏は勿論もう聴くことは出来ませんが、28日のトリビュート・コンサートで、私も色んな時のフラナガンの表情を味わいたいと思います。
CU

スタンリー・カウエル速報

タウンホールのスタンリー・カウエル    2月27日タウンホールにて、スタンリー・カウエル
 1月末に来日したチャールズ・トリヴァー・オールスター・ビッグバンドのおかげで、OverSeasでは、プチ・スタンリー・カウエルブームが巻き起こっています。  深夜の歓迎パーティで、スタンリー・カウエルやルーファス・リードと交流した方々は、せっせと彼らのレコードを蒐集されているようです!
 トリヴァーOrch.はグラミー賞にもノミネートされ、これから更に注目される存在ですから、先日の来日は時流を先取りしすぎていたのかも知れません。 その時に、スタンリー・カウエルさんから2月にNYで大きなコンサートをすると聞き、ずっと楽しみにしていたのですが、コンサート速報がインターネット上に出ているので、紹介しようと思います。
<Thelonious Monk at Town Hall 50th Anniversay Celebration>
セロニアス・モンク・タウンホール・コンサート50周年祝賀コンサート

Eスミス撮影 ジャズロフトのリハ風景  E.スミス撮影のリハ風景から音が聴こえてきそう!アーサー・テイラーのドラムセットに注目。フィル・ウッズのクールな姿も・・・
 
   このコンサートは、セロニアス・モンクが、キャバレーカード剥奪や病気など、様々な困難を経て、1959年に初めて大編成のバンドを率いタウンホールという大舞台で成功を収めた<タウンホール・コンサート>と呼ばれる歴史的な公演の50周年を記念するイベントとして開催されたものです。当時の演目をトリバーが、同じ会場、同じ楽器編成、同じソロオーダーで再現するコンサート!モンクの出生地であるノースカロライナ州の名門、デューク大学が後援する大プロジェクトでした。
   余談ですが、モンクのタウンホール・コンサートのリハーサルやミーティングは、20世紀を代表する社会派の写真家、ユージン・スミスのロフトで行われたそうです。ユージン・スミスといえば、シュヴァイツァー博士の写真が小学校の教科書に載っていたと思います。また日本人にとっては、水俣病の写真集や、その撮影を巡る暴行事件が記憶に残ります。
 スミスが、ロフト撮影した多数のジャズメンの写真や3000時間もの録音テープを、デューク大学が保存しようという「ジャズ・ロフト」プロジェクトも進んでいるとラジオは報じていました。フォト・ジャーナリストのロフトで何故モンクたちがリハーサルをしていたのか興味は尽きません。とにかく不況下で大事な資料が散逸せぬように祈ります。
 さてコンサートの模様は、ネット上のNYパブリック・ラジオで聴くことが出来ます!
 コンサートの反響をネット上で眺めると、NYタイムズは、スタンリー・カウエルに対する賞賛もなく、オリジナル・メンバーのアーサー・テイラー(ds)とジーン・ジャクソン(ds)を比較して「前の方が良かった」という、全く当たり前のいや言に終わっていて、同じトリビュート・コンサートをしている者としては腹立たしいものでした。一方、ウォール・ストリート・ジャーナルのコンサート評は、激賞していてスタンリー・カウエルを「モンクのコピー・フレーズは一切使わずに、モンク音楽の精髄を表現して見せた。」と絶賛しています。百聞は一聴にしかず。ご自分で聴いて見られたら、よく音楽聴いた上での論評か、プレス・キットだけでテキトーにまとめているの記事かが、お分かりに成ることでしょう。
スタンリー・カウエルとルーファス・リード  タウンホールルーファスのタキシードも貫禄!
  このエントリーの下方にラジオのプレイヤーを埋め込んでおきましたけど、「More」をクリックしてパブリックラジオのサイトから直接入ればもう少し聞きやすいかも・・・ 冒頭に、プロジェクトの趣旨やトリヴァーやカウエルの肉声インタビューなどが11分ほどあり、それからコンサートが始まります。
チャールズ・トリヴァー
 オープニングは、スタンリーのソロでIn Walked Bud、寺井尚之が愛して止まない10thヴォイシングのブラックなサウンドが味わえます!
2曲目ではルーファス・リード(b)をフィーチュアしたトリオも聴けますよ。
<セットリスト>
1.In Walked Bud’ 
2.Blue Monk’
3.Rhythm-A-Ning’
4.Thelonious
5.Friday The 13th
6.Monk’s Mood
7.Little Rootie Tootie
8.Off Minor
9.Crepuscule With Nellie
アンコール:Little Rootie Tootie’

 まだ16歳だったトリヴァーは、当時のタウンホール・コンサートの聴衆の一人であったそうです。後にモンクのバンドに加入したトリヴァーですが、よもや少年時代に聴いたコンサートを自分が再現するとは予想していなかったことでしょうね。
  イベントは2夜連続で、2日目は編曲者、ホール・オバートンへのトリビュートとなり、ジェイソン・モラン(p)がフィーチュアされたそうです。初日は T.S.モンクを始めとするモンクの遺族や、当時のオリジナルメンバーも集まりイベントは大成功だったようです。
  OverSeasのトリビュート・コンサートは、スポンサーもいないし、決して大ホールの大プロジェクトではないけれど、フラナガンを誰よりも理解する寺井尚之とThe Mainstemでタウンホールのコンサートに負けないトリビュートにします!
CU

パノニカに夢中「三つの願い」を読みながら(その3)

写真順:
 セロニアス・モンク:2枚連続~
 アート・ブレイキー2枚連続
 ~ベティー・カーター(vo)
 ~ジョン・コルトレーン(ts)
 ~ニカのミンクを着たチャーリー・ラウズ(ts)とソニー・クラーク(p)
 ~英国の盲目のピアニスト、エディ・トンプソン(p)
 ~猫と戯れるトミー・フラナガン
 ~レックス・ハンフリーズ(ds)
 ~ジョン・ヘンドリクス(vo, lyricist)
 ~メアリー・ルー・ウィリアムズ(p)
 ~デューク&マーサー・エリントン親子
 ~ロイ・ヘインズ(ds)とチャーリー・ミンガス(b)
 ~チャーリー・ミンガス(b)
 ~バド・パウエル(p)
 ~レイ・ブライアント(p)
 ~ソニー・ロリンズ2枚連続
 ~ホレス・シルバー(p)
 ~エロール・ガーナー(p)
 ~マイルス・デイヴィス(tp)2枚連続
 ~ラストは愛猫たちとレコードに囲まれたパノニカ。


  皆さん、お元気ですか?先週は「ジャズの歴史」「ジャズ講座」二大イベントで、靴が脱げちゃうほど店の中を走り回ってました。
 今回は、パノニカ男爵夫人が遺した「三つの願い」の完結編、本には300人近いジャズメンの「三つの願い」が収められていますが、Interludeの読者の皆さんに身近なごく少数のアーティストが何を願っていたかを紹介したいと思います。
 パノニカ夫人が、「三つの願いプロジェクト」を開始したのは’60年代前半、ベトナム戦争が社会に影を落とし、ビートルズが世界を席巻していたジャズの「真冬」であったことを心に止めておく必要があります。フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)の”Money, Money, Money”という答えは決して強欲なものではなく、多くのジャズメンは、当時本当に”食い詰めて”いたんです。
 トミー・フラナガンがエラ・フィッツジェラルドの伴奏者になったのも、丁度この頃です。
 優れたジャズメンが経済的に不遇であったからこそ、パノニカはこんな問いを投げかけてパトロンとしての自分に出来ることを探っていたのかもしれません。
  冒頭には、「三つの願い」に対する、セロニアス・モンクのいかにもモンク的な反応が記されていました。

<ニカの遺稿から:>
私はまず最初に”3つの願い”をモンクに訊くことにした。
「3つの願いが何でも叶えられるとしたら、あなたは何を願う?」
 モンクは、黙って部屋の中を歩き回った。やがて彼は窓のところで立ち止まり、しばらくハドソン川の向こうの摩天楼を眺めてから、おもむろに答えた。
① 音楽的に成功すること。
② 幸福な家庭
③ 君みたいにクレージーな友人を持つこと。
 私は言った。「あらセロニアス、別に願わなくたって、もうすでに持っているものばかりじゃない!」
 すると、彼は静かに微笑み、再び部屋を歩き回った。

<巨匠たちの願い>
 先日の勉強会で、皆で聴いたビバップ以前の巨匠達は当時不惑の年齢、音楽さながらに、答えにも各巨匠の「スタイル」を感じます。ルイ・アームストロングがステージで隠す知的な顔を見せているのが、私には特に印象的でした。

ルイ・アームストロング
①一年間演奏を休み、今まで蒐集したテープを聴き直し、それらを整理する。そうしたら、何か新しいものが書けるだろう。充電すると自分の為に成ると思う。
②休養後にカムバックして、もう一度ファンの皆の前で演奏を聴かせたい。
③100歳まで生きたい。自分の音楽を追求しながら、次の世代がどんなことを演っているのか聴くんだ。
ロイ・エルドリッジ(tp)
① ラジオ・TV技師の学校を卒業すること。そうすりゃ、もうペットをブロウしなくてもよくなるから。
(エルドリッジは唇を損傷し、往年のハイノートが吹けなくなっていたんです。)
② 自分のクラブを開店できるくらいの資金。
③ せめて10年間戦争がないように。そうすりゃ僕は60歳だから、それまでに金を貯めて隠居できる。
デューク・エリントン
「私の願いは非常にシンプルだ。常に最高のものしか望まない。」
ビリー・ストレイホーン
「僕の望みは、音楽が今よりも、ずっと美しいものになること、僕はそれらを聴き、自分も永遠に音楽を書き続けたい。」
ジョー・ジョーンズ (ds)
「俺の願いは一つだけ、後10年演奏することだ。」
<ビバップのサムライ達 >
 パノニカを魅了した往年のビバッパーたちの多くが、ヨーロッパに新天地を求めてNYを離れていった頃です。バド・パウエルやA.Tの願いは、本当に切ない。
ディジー・ガレスピー(tp)
① 金のために演奏しなくてもよくなること。
② 世界恒久平和
③ パスポート不要の世界。
ケニー・クラーク(ds) 
① ブリジッド・バルドー② ブリジッド・バルドー③ ブリジッド・バルドー
(1a) いや、今のは冗談だ。一番目の願いは、ディジー・ガレスピー(tp)、J.J.ジョンソン(tb)、レイ・ブラウン(b)、ハンク・ジョーンズ(p)で、僕のドリーム・クインテットを結成することだ。
(2a) 次の願い?判らないよ、ニカ、しいて言えば僕の息子をこっち(パリ)に呼んで、音楽をさせることかな…
(3a)三番目の願いは、この土地、パリに学校を作って、若者たちに正しい音楽の道を教えることだな。それが出来れば僕は充分幸せだ。金儲けより、何か意義有ることをするほうがいいな。
タッド・ダメロン(arr.p)
「自分自身でいること」
アーサー・テイラー(ds)
① チャーリー・パーカーが今でも生きていますように。
② バド・パウエルが今もNYで、昔みたいにバリバリ弾いているように。いや、とにかく弾いていればいい。
③ 金
バド・パウエル(p)
① 医者や病院に通わなくてもよくなりますように。
② 日本に行きたい。
③ レコードを作りたい。
 バド・パウエルが日本に来てくれたら、バド・パウエルのスタジオ・レコーディングがもっとあれば、どんなに素晴らしいことだったでしょう!’60年代初来日したアート・ブレイキー(ds)とジャズ・メッセンジャーズが、日本人のジャズに対する愛と理解に心底感動したそうで、ジミー・ラッシング(vo)や、ダグ・ワトキンス(b)も「日本」が願いの中に入っていました。彼らが現在の日本に来ても同じように思ったでしょうか? 
<うまくなりたい!>
 音楽的な成功を願うジャズメンが多いのは当然ですが、テクニックのある人ほど、技術的な向上を願うのは、オズの魔法使いに出てくる、勇気を欲しがる「ライオン」や知性を欲しがる案山子たちを連想しました。


J.J.ジョンソン(tb)
「思いのままに演奏できるようになること。」
ハンク・ジョーンズ(p)
「自分の楽器で、世界一になること。」
 
オスカー・ピーターソン(p)
① 思いのままにピアノを演奏できるようになること。
② 皆が、どんな芸術形式に対しても、本質的に理解してくれること。
③ 世界中の人に愛が溢れること。
<意外な人の意外な願い…>
 最後に、Interludeを愛読してくださる皆さんが、最も身近に感じるミュージシャン達の望みをピックアップしておきます。新しい大統領になった現在でも有色人種をサル扱いする社会(私たちアジア系も決して例外ではありません。)に対する憤怒、公民権運動の時代の香り、クラブ・ギグの悲哀、色々感じられるのではないでしょうか?

サー・ローランド・ハナ(p)
① 第一に、自分の能力が全開できるよう、音楽の勉強が出来るような経済的余裕が欲しかった。
② 二番目は、全ての人間が平等かつ個性を持って生まれてくること。
③ 三番目は… 今でも母が生きていてくれること。
ジミー・ヒース(ts,as,fl)
① 「君は社会に対して責務を果たした。」という一項が、真実になるよう願ってる。つまり、刑務所で服役し出所して、これで終わったという気分になっても実際はそうじゃない。一旦犯罪を犯したものには、前科が付いてまわる。
(信じられないでしょうが、ジミーは麻薬のトラブルで刑務所で服役していたことがあるんです。)
② 世界をもう一度作りなおすなら、人間の肌の色を全員一緒にする。人間は誰でも、その人の実力、個人の長所で判断されるようになるんだ。
③ 3番目の願いをする権利は、僕の妻に譲るよ。
コールマン・ホーキンス(ts)
① 完璧な健康。
② 音楽に於ける大成功。
③ 大金持ちになること。
ジョン・コルトレーン(ts)
① いつまでも、音楽が新鮮であること。今僕はちょっとスランプなんだ。
② 全ての疾病への免疫
③ 現在の3倍の性的パワー、それにもうひとつ、他人へのさりげない愛情、これはほかの二つのどっちかにくっつけといてくれてもいいよ。
トム・マッキントッシュ(tb, comp, arr.)
「我々の創造主である神の望むようにいられること。万事それでよし。」
クラーク・テリー(tp, flg)
① 健康が保障されれば、幸福と長寿が手に入るよね。
② 金のことをあれこれ心配しないでいいくらいの財産。
③ 人種差別をやめるきっかけになるような出来事が皆に起こること。
ディック・カッツ(p)
① どのクラブにもスタインウエイがありますように。
② ドラマー達が、今みたいにうるさく叩きませんように。
③ 3番目の願いを考える時間をください。
ビル・エヴァンス
「子供のときに、同じことを質問された!一番目の望みは、何でも願いを叶えてくれる指輪を手に入れること。そうすりゃ、願いは一つだけですむ!」
バリー・ハリス(p)
① 世界平和
② スタインウエイと、ちゃんとしたレコード・プレイヤー、それさえあれば、バド・パウエルやチャーリー・パーカーのレコードをずっと聴いていられるから。
③ ”ソウル””ファンク””ロックンロール・ジャズ”の滅亡。
トミー・フラナガン(p)
「僕はずっと健康で生きていたい。そして、一人でちょっと楽しめるような秘密の隠れ家が欲しい!」
○  ○  ○  ○  ○  ○  ○
 今日ダイアナ・フラナガンに電話したとき、パノニカのことを訊いて見ました。ダイアナは勿論ウィーホーケンのお家にも行った事があるそうです。
 パノニカには独特のすごいオーラがあって、自分の知る限りでは、皆がちゃんと「パノニカ」と呼んでいた。面と向かって「ニカ」なんて呼べる人はいなかったわ。とっても複雑な女性だから、ひとことで彼女を「どんな人」なんて言えない。
 とにかく、ジャズとジャズ・ミュージシャンに対してリスペクトがあったの。そうそう、お家には猫が沢山いてね…猫嫌いなら気持ちが悪かったかも知れないけど、トミーは小さな生き物は何でも大好きだったからねえ。
 お金の援助?そうね、具体的に誰がいくらもらったなんて私は知らない。でも、そんなことがあったって、ちっとも不思議じゃないわ。彼女は、いつでも親身になってミュージシャンに接していたもの。

 皆さんがパノニカに「3つの願い」を訊かれたら何と答えますか?
ニカの孫娘、ナディーヌの序文の結びには、彼女の最後の願いが書かれてありました。

 私が死んだら、遺体は火葬にして骨はハドソン川に蒔いて下さい。真夜中ごろ(Round Midnight )

CU

巨匠達のDear Old Osaka


 左から:ルーファス、メインステム:菅一平(ds)、宮本在浩(b)、そして今年NYに行く田中裕太(b)、スタンリー、寺井尚之
 27日に大阪御堂会館で、チャールズ・トリヴァー・オールスター・ビッグバンドのコンサートが!うちの常連様たちが大勢行っておられて、皆さん、ビリー・ハーパー(ts)達、実力派が揃った白熱のプレイに感動しておられました。東京で充実のコンサートに行った仲間も、HPの掲示板のためにレポートしてくれました。私はお店があるので行けなくて残念・・・
ルーファス&ベーシストたち    左から、宮本在浩、ルーファス、田中裕太、
ルーファス・リードはいつも若いベーシストたちへの指導や励ましを怠らない心優しき巨匠です。

   コンサートがハネた後、久しぶりに大阪に来たスタンリー・カウエル(p)ルーファス・リード(b)を迎えて、二人をこよなく愛する常連様や寺井尚之ジャズピアノ教室の生徒達、ミュージシャン達が集まり、深夜、ささやかな歓迎会を催しました。
NYアップステイトのゴルフ・コースで その昔NYで、アップステイトまでドライブで連れて行ってもらったことも。(’89)

 ルーファスとは10年ぶり、スタンリーとは15年ぶり!本当に久しぶり!大学の大先生になるまでは、頻繁に来日し、殆ど毎年OverSeasでコンサートをやったり、アフターアワーズに遊びに来たり・・・スタンリーは自宅に泊りに来たこともあります。浴衣を貸してあげたら、膝丈になってびっくりしたのを覚えてます。あれから10数年…テンパス・フュジット、月日の経つのは速い。
 でもOverSeasの長年の常連様は、二人がOverSeasで聴かせてくれた名演の数々を決して忘れてはいなかった!
 寺井尚之The Mainstemは歓迎に、二人を迎えられた喜びを表して、タッド・ダメロンのOur Delight と、スタンリーのおハコだった超速のJust One of Those Thingsを演奏!私は、特製スパイシー・スペアリブや地鶏のローストを心を込めて作った。それにパノニカ・マダムが差し入れてくださった中央卸売市場のお寿司に舌鼓。15年前のマダムとのツーショット写真を見てウルウルしたり、マイクを持った寺井尚之の思い出話にうなずいたり笑ったり・・・何よりも、皆の笑顔と温かい歓迎に、二人は大喜び!
「スタンリーは昔はもっと大きかったけど、年とって縮みはった。(ルーファスが“シーッ”とジェスチュアで最高のオブリガード)・・・しやけど、わしも髭と頭が真っ白になってしもた。わしらみんな同じように年取りました・・・(爆笑の歓迎スピーチで。)…
 スタンリー・カウエルは、フラナガン師匠やハナさんと同じように10th ボイシングを駆使し、ブラック・ミュージックならではの重厚な威厳のあるサウンドを聴かせることの出来る最後の巨匠や!(寺井尚之)
 
オバンになった私を二人に見られるのが恥ずかしかったけど、再会できた喜びはそれ以上!口では言えないくらい嬉しかった!歳を取るのはいいもんだ!
 翌日、移動で忙しい中、二人からお礼のメールが来ました。昔の仲間が集まって、温かなメッセージをくれた事に二人とも感激したと書いてありました。
  あれほどの巨匠達を感動させた皆のホスピタリティはすごいね!OverSeasは、自慢じゃないが豪華なものは何一つないけど、お客様たちのヒップな心意気が、うちの誇りです。
 ぜひいつか、スタンリーやルーファスのコンサートをやりたいものです。その時はぜひ皆さんも来て下さい。
 今夜の東京でも沢山の皆さんが、スタンリーの圧倒的なピアノと、包み込まれるようなルーファスのパルスと音色を楽しんでくださるように祈ります。
CU
 

パノニカに夢中:「三つの願い」を読みながら(その2)

若き日のパノニカ夫人パノニカ男爵夫人(1913 – 1988)
<20年前の謎>
 パノニカが亡くなったのは、今から20年前の12月のことです。今週から日本ツアーのスタンリー・カウエル(p)は、ちょうどその冬の日、J.J.ジョンソン(tb)クインテットで来日していた。大阪でスタンリーを迎えた時、開口一番彼が口にしたのがそのことでした。
   「タマエ、パノニカが手術の最中に亡くなったんだよ。そしてチャーリー・ラウズ(ts)も同じ日に逝ってしまった!ああ、何てことだ。ほとんど同じ時間に天に召されるなんて。ニカの本当のソウル・メイトは、いつもモンクのそばにいたラウズだったんだなあ、J.J.ジョンソンたちはそう言ってるんだ…」
  ごった返すホテルのロビーで、会話はそれきりだったのですが、それ以来、パノニカという女性は、私を魅了して止まない『謎』の人となりました。
チャーリー・パーカーチャーリー・パーカー(1920 – 1955)
<闘士は中傷に屈しない>
   パノニカ男爵夫人が有名になったのは’55年のことです。警察絡みの二つの事件に次々と巻き込まれ、「ジャズ男爵夫人」としてマスコミの餌食にされてしまったんです。
   まずチャーリー・パーカーの死:麻薬で体も心もボロボロになったチャーリー・パーカーが、入院を嫌いニカに助けを求め、彼女のホテルで静養中、突然吐血してそのまま亡くなったという事件。(当時のアメリカの人種差別体制での病院の黒人に対する扱いを考えると、入院を拒むのは不思議ではありません。)ビバップを生んだ天才チャーリー・パーカーを助けるのは、彼女には至極当然のことでした。でもスタンホープ・ホテルの医者は、黒人である故にパーカーの診療を拒み、マスコミは女性のホテルの部屋での「変死」「怪死」と大騒ぎしたんです。時代とはいえ、ひどい話です...
   そしてもうひとつは麻薬所持、ニカがロード・マネージャーとなり、セロニアス・モンクとチャーリー・ラウズをベントレーに乗せ、南部をドライブ中、警察に不審者として取調べを受けます。何しろ都会しか知らないイギリス貴族、南部がどれほどNYと違うかなんて彼女は知らなかった。ニカのバッグからマリワナが発見され、麻薬法違反で、留置場に繋がれ三年の禁固刑を言い渡されます。欝状態で尋問に答えないモンクは警棒で殴打された挙句キャバレー・カードを剥奪されました。結局ニカは多額の弁護費用を払い、兄や知識人達の運動で告訴を取り下げさせるのですが、彼女のジャズ嗜好は、タブロイド誌によってセックスとドラッグに結び付けられてしまいます。中傷にまみれたパノニカは、ジュール男爵の名誉を傷つけない為に離婚し、ロスチャイルドの親戚達からもうとまれることになりますが、彼女のジャズとジャズメンに対する友情は決してゆるがず、一生ジャズメンを援護し続けたんです。ドナ・カランやオメガ…’90年代、ジャズを援護した企業スポンサー達の逃げ足の速さをごらんあれ。これは並のパトロンやタニマチのレベルを遥かに超えたもので、凄い女傑です。
<兄に導かれたジャズ>
 元々ニカにジャズの楽しさを教えたのは、仲良しの兄、ヴィクター・ロスチャイルド男爵だった。クラシック・ピアノの素養がある兄は、戦前からジャズ好きで、ベニー・グッドマン楽団の大ファンだった。楽団がロンドンに来ると、自宅にテディ・ウイルソンを招いてはピアノ・レッスンを受け、ニカは横で兄のレッスンを見物、レッスンの後はテディ・ウイルソンのプレイを楽しんだそうです。
victor_rothchild.JPGニカの兄、ヴィクター・ロスチャイルド男爵23歳の時
   第二次大戦が始まると、ヴィクターは英国チャーチル首相の特使として渡米、ルーズベルト大統領とチャーチルの橋渡しをして、大戦を勝利に導く仕事をしながら、アート・テイタムやテディ・ウイルソンと親交を保ちました。このヴィクター卿は、20世紀を陰で動かしたロスチャイルド家の当主として非常に有名な人物です。IQ180以上の天才で、一説に英国秘密諜報員MI-5、また冷戦中は、ソ連KGBのスパイであったとも噂されている。銀行家の息子でありながら金融界に入らず、戦後はケンブリッジ大で動物学者として教鞭を取っていますが、その素顔は謎に満ちている。パノニカに負けないほど興味をそそられる人です。
<大使の妻として>
ケーニグスウォーター男爵レジスタンス時代の夫との写真をニカはずっと持ち歩いていたという。
  大戦後、パノニカは、大使となった夫や子供たちと、メキシコやノルウエイに赴任しました。庶民の私から見れば、レジスタンスに命を賭けて勝ち得た平和な外国暮らしは最高に思えるのですが、パノニカにとって大使夫人としての生活は、地獄のように退屈だったそうです。
 
 末息子のパトリックはNYタイムズにこう語っています。「母は芸術を愛し、性格的には大雑把、時間にルーズ。それに対して父はジュールは几帳面で厳格、母の趣味を受け容れようとしなかった。」
 ジュール男爵はジャズが大嫌いで、大使公邸ではジャズを聴くことも出来なかったとニカは言っている。戦時に、ぴったり一つだった夫婦の心が、平和になると離れていったのは皮肉ですね。
<ジャズ男爵夫人の誕生>
ニカと愛車ベントレーとモンク
 ’52年、ニカは長女を伴い夫と離れNYのど真ん中、五番街のスタンホープ・ホテルに居を構えます。兄のピアノの師匠、テディ・ウイルソンのアパートを訪ねた時に、聴かせてもらったレコードがセロニアス・モンクの『ラウンド・ミッドナイト』だった。彼女は感動の余り泣いたと言います。二年後、モンクが懐かしいパリでコンサートをすることを知ったニカは、自分もフランスに飛び、メアリー・ルー・ウィリアムズ(p)を通じて、モンクとの友情が始まります。ニカが41歳の時でした。
 
  以来、彼女のパトロンとしての生活が始まりました。コールマン・ホーキンス、トミー・フラナガン、バリー・ハリス、ライオネル・ハンプトンなど名だたるミュージシャンが彼女のベントレーに乗り込み、共にジャズクラブを梯子し、クラブが閉店すると、彼女のスイート・ルームでジャム・セッションが始まります。
 ジャズメンから仲間として迎え入れられたニカは、彼らの生き様を観ながら憤懣を感じます。
パノニカ:あれほど素晴らしく才能豊かでクリエイティヴな芸術家であるジャズメン達が、なぜいつも職がなく、困窮しているのか?私には全く理解しがたいことでした。 (Live at the Village Vanguard/ Max Gordonより)
 そして、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの為に、自らミュージシャン組合に加盟、上等のブルーのタキシード8着を誂え、エージェントとして働こうとするのですが、結果は惨憺たるものだったとニカは告白しています。ジャズメンが芸術家として活動できるようと試行錯誤の末、彼女はマネージャーよりも、パトロンとしてジャズメンを支援する道を選んだんです。パトロンというものは、モーツァルトの昔から、往々にして芸術の真髄を理解せず、自分の趣味を押し付けたりするものですが、、ニカは懐が深かった。ゴマをすることが一番嫌いなトミー・フラナガンが彼女にあれほど素晴らしい曲を献上しているのが一番の証拠です。
<パノニカの功績> 
 マスコミに叩かれ中傷されてもニカのジャズメン援護の信念がゆらぐことは決してありませんでした。
 ジャズ・クラブの出演者に義務付けられていた指紋押捺の条例を市長にかけあって廃止させたのも、ニカの功績だし、南部の事件で剥奪されたモンクのキャバレー・カードを再発行させて、モンクのカルテットが”ファイブ・スポット”で開花させたのも、ニカのおかげなんです。
 ニカのミュージシャンへの支援は単に金銭的なものだけでなく、心のこもったものだった、晩年のコールマン・ホーキンスが病で倒れた時、彼のアパートの冷蔵庫を常に食料で満たし、電話を至る所に据えて緊急連絡が出来るようにしたのもニカです。貴夫人でありながら、近所のおばちゃんみたいに気が利いていますよね。
<セロニアスとニカ>
ボリヴァー・ホテルから
 セロニアス・モンクは、自宅が焼失した後、家族全員でニカのホテルに移り住みました。ニカはモンクのために、スタインウエイのグランドを調達し、ツアーで街を離れるときは国内外に関わらず、ニカと長女のジェンカ、モンクの妻ネリーが同行しました。 
  ニカとモンクの間は純粋にプラトニックなものだったそうです。モンクの妻、ネリーはニカのことを、自分と夫の数少ない親友のひとりで、掛け替えのない人と言っています。
 ’60年代、ニカは居心地の悪いホテル住まいを止め、マンハッタンの川向、ウィーホーケンと呼ばれる郊外に、ハドソン川と摩天楼が一望できる邸宅を購入しました。「3つの願い」に載っているミュージシャンのくつろいだ写真の大部分はキャットハウスと呼ばれるその屋敷でニカが撮影したものです。キャットハウスという名前は、ジャズ・ミュージシャン(cat)が集まるだけでなく、動物愛護家のニカが飼っていた100匹以上の猫に由来しています。モンクは晩年、’73からキャットハウスに住み、そこで息を引き取りました。ニカ亡き後、現在その屋敷にはバリー・ハリス(p)が住んでいます。
 そこで、初めのスタンリー・カウエルが発した言葉に私は立ち返ります。・・・「ニカのソウルメイトはモンクではなくラウズだったんだ…」
 彼女の親族で昨年BBC放送でニカのドキュメンタリーを制作したハナ・ロスチャイルドのタイムズへのコメントに、私の謎を解くひとつの鍵が載っていました。

「ニカには、愛する父親が自らの命を絶つほど苦しんでいるのを見ながら、幼い自分には助けることが出来なかったったという原体験がある。精神を病み苦しむモンクの姿に父のイメージを重ね合わせ、今度は助けたいと強く思っていたのではないだろうか。」

 ニカは父を助けられず、その後多くの親族や友人をホロコーストで亡くしました。そして、セロニアス・モンクは、チャーリー・パーカーやバド・パウエルを始めとする多くの同志達を、暴力や麻薬で失っています。モンクの心の底にある深い悲しみを誰よりも理解したのはニカであったのかもしれません。
 チャーリー・ラウズ&セロニアス・モンク  
 「三つの願い」の表紙も、モンクとラウズのツーショットです。様々なモンクが遺したカルテットのレコーディングや映像を観るにつけ、チャーリー・ラウズ(ts)のプレイが、モンク・ミュージックを完璧に理解する最高の共演者であったことは、寺井尚之も昔からよく言っていることでした。批評の世界では、モンク・カルテットのフロント奏者として賛美されるのはジョン・コルトレーンやジョニー・グリフィンですが、ミュージシャン達の意見は違うんです。ラウズは共演者としてモンクを深く理解し支えた。ニカは友人として経済的にも精神的にもモンクを支えた。二人の間に、不思議な運命の相似点があったのかも知れません。
○ ○ ○ ○
 たった5ページほどのナディーヌの序文でしたが、庶民の私が説明するとまた長くなっちゃったね。寺井尚之ジャズピアノ教室の発表会が終わったら、ミュージシャン達がニカに告白した切ない「3つの願い」について書こう。
 トミー・フラナガンの名盤『セロニカ』