ジョージ・ムラーツが来るまえに(2)

George Mraz 公式HPより
<バイオグラフィー>
《チェコ時代》
 1944年、チェコ共和国生まれ、7歳でヴァイオリンを始め、高校時代にアルトサックスでジャズを始める。61年プラハ音楽院入学、66年卒業。
 恐らく、彼が若いうちにヴァイオリンやサックスなどのメロディ楽器に親しんだことは、後にベーシストとして叙情的な資質を成熟に関連しているのであろう。
 ムラーツは回想する。「高校の頃、僕は週末になるとビッグバンドの仕事をしていた。このバンドのベーシストが今ひとつうまくなかった。下手なのか天才なのかどちらかだった。」彼はそう言って笑った。「だって、彼はいつでも間違った音ばかり弾いているように聴こえたからだ。まぐれでもいいからたまには「正しい音」を弾いてくれよって感じだった。でもまぐれ当たりもなかったんだ。それで僕は休憩時間に彼のベースをちょっと借りて、正しい音を弾いてみることにした。そうしたら、『そんなに難しくないじゃないか。』と思ったんだ。それで、ベースを少しやり始めたんだ。気が付けば、プラハ音楽院に入学していた。」
 学生時代から、ムラーツはプラハの一流ジャズグループで活動、卒業後ミュンヘンに移り、ベニー・ベイリー、カーメル・ジョーンズ、レオ・ライト、マル・ウォルドロン、ハンプトン・ホーズ、ヤン・ハマー達とドイツ全土のクラブやコンサートで共演、中央ヨーロッパにツアーをする。
 当時、アメリカ合衆国の国際放送、VOA(ヴォイス・オブ・アメリカ)が世界中に発信するウィリス・コノーバーのジャズ番組に大きな影響を受ける。それは彼に、海の向こうの新世界への大きな可能性を示唆するものだった。
「僕が初めて聴いたジャズはルイ・アームストロングだった。地元プラハの軽いオペレッタ放送の間にアームストロングの特別番組が一時間放送されたんだ。僕は、サッチモのへんてこな声に大きなショックを受けた。最初は、なんでこんな変な声でうまく歌えるんだろう?と不思議だったけど、一時間番組が終了する頃には、この日僕が聴いた音楽のうちで、これが一番好きだという結論に達したんだ!それでジャズに興味を持ち始めた。
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ジョージ・ムラーツHPフォトギャラリーより:ズート・シムス(ts)と
「VOAは深夜一時間ほど放送されていたんだけど、僕のラジオは上等じゃなかったから、ベースの音を判別するのは一苦労だった。仕方なく、ベースばかり聴くのでなく、全部の楽器を聴き、サウンド全体がどういう様に関連しているのか耳を傾けた。だから楽器の種類にかかわらず、色んな楽器から影響を受けた。もちろん、レイ・ブラウン、スコット・ラファロ、ポール・チェンバース、ロン・カーターは、必死になって聴いたよ。」
 このように、ムラーツは、自然に音楽の世界に引き寄せられ、彼の想像力を毎晩出し尽くすクラブで、味のあるベテランに成長して行く。
 「音楽院を卒業できたのは、ある種の奇跡と言えるけど、その後、ミュンヘンでベニー・ベイリーやマル・ウォルドロンと仕事を始めた。しばらくして、バークリー音楽院から奨学金をもらえることになった。丁度、ソ連の戦車がプラハに侵攻したのと同時期のことだ。奨学金を利用する絶好のタイミングだと思った。」
《新世界アメリカへ》
 1968年、ジョージ・ムラーツはバークリー音楽院の奨学生となるや否や即、当地の有名クラブ、レニーズや、ジャズ・ワークショップでクラーク・テリー、ハービー・ハンコック、ジョー・ウィリアムズ、カーメン・マクレエなど一流どころと共演した。
 翌’69年冬、ムラーツはディジー・ガレスピーからNYに来て彼のバンドに加入するよう要請され、ディジーと共演して僅か数週間後、オスカー・ピーターソンと約2年間ツアーをすることになる。その後、サド・ジョーンズ-メル・ルイスOrch.のレギュラー・ベーシストとして6年間活動、70年代後半には、スタン・ゲッツ、サー・ローランド・ハナとのニューヨーク・ジャズ・カルテット、ズート・シムス、ビル・エヴァンス、ジョン・アバクロンビー達と、その後、いよいよトミー・フラナガンとの10年間の共演期を送る。
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ジョージ・ムラーツHPフォトギャラリーより:トミー・フラナガンと
 ジョージ・ムラーツはアコースティック・ベースへの完璧な資質を持って生まれたアーティストだ。故郷チェコスロヴァキアから、米国に上陸した瞬間から、ミュージシャンの間で大きな評価を得て、確固たる存在感を確立した。それに比べて一般的には過小評価されている気味がある。恐らく、ステージ上でも私生活でも物静かな彼の性格を反映して、バンドスタンドでも、自分の実力をひけらかそうとしないせいかもしれない。
 この無欲な性格ゆえに、ムラーツは素直に、今まで自分が決してリーダーとして活動することを恥ずかしがって避けていたわけではないと認める。
 「ただ、その暇がなかったんだ。」つまり、この30年間、ジャズ界の人名辞典に載る一流ミュージシャン達(サドーメルOrch.、ディジー・ガレスピー、カーメン・マクレエ、クラーク・テリー、スタン・ゲッツ、スライド・ハンプトン、エルヴィン・ジョーンズ、ジョー・ヘンダーソン、ジョー・ロヴァーノetc…)がこぞって、ずっと彼をファースト・コールのベーシストにしていることが、リーダー活動を阻止した主たる原因であることは驚きに値しない。「’92年にトミー・フラナガンのトリオを退団してからは、かなり時間の余裕が出来たよ。」ジョージは微笑みながら付け加えた。「もっと色々なことをやって行っても大丈夫だよ。」
フラナガンの許を去った後、ジョージは、ジョー・ヘンダースン、ハンク・ジョーンズ、グランドスラム(ジム・ホール、ジョー・ロヴァーノ、ルイス・ナッシュ、DIM(ハービー・ハンコック、マイケル・ブレッカー、ロイ・ハーグローヴ)、マッコイ・タイナー、ジョー・ロヴァーノ+ハンク・ジョーンズ4、マンハッタン・トリニティなど、多岐に渡るフォーマットで活動。
 加えて、リッチー・バイラーク、ビリー・ハート、リリカルなテナー、リッチ・ペリーを擁する自己カルテットを率いている。(このカルテットは、マイルストーン・レコードの一連のアルバムで聴くことが出来る:当レーベルでの第一作“ジャズ”、1997年に、ムラーツが自己作品や、ベーシスト仲間(ジャコ・パストリアス、ロン・カーター、マーカス・ミラー、チャーリー・ミンガス、バスター・ウィリアムス、スティーブ・スワロウ)ばかりを取り上げたアルバム“ボトムライン”で、また、バイラークとハートとのトリオは、“マイ・フーリッシュ・ハート”で堪能することが出来る。
 
 「ジョージはいつも、正にこっちが欲しいと思う音をドンピシャリと弾いてくれるんだ。」 リッチー・バイラーク(p)はムラーツについてこう語る。「それに、まるで彼自身がベースっていう楽器を発明したんじゃないかという位、楽器を知り尽くしたプレイだ。」だが、ムラーツはそれをわざとひけらかすようなことはしない。縁の下の力持ちとして、何をすべきかしっかりと感知しながら、わざと自らの存在を透明なものにしてしまう。「例え、四分音符のランニングしかしなくとも、彼の音の選択は完璧だ。まるで、ソロイストの後ろで、素敵な物語を語っているかのようだ。」彼のプロデューサー、トッド・バルカンは熱っぽく語る。
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ジョージ・ムラーツHPフォトギャラリーより:フィリップ・モリス・オールスターズで世界ツアーをした時、モンティ・アレキサンダーが若い!(ジョージの左手前)
《レコーディング歴》
 
 ジョージ・ムラーツのレコーディングの共演者は膨大だ。:オスカー・ピーターソン、トミー・フラナガン、サー・ローランド・ハナ、ハンク・ジョーンズ、チャーリー・ミンガス、サド-メルOrch.、NYJQ、ライオネル・ハンプトン、ウッディ・ハーマン、秋吉敏子、ケニー・ドリュー、バリー・ハリス、テテ・モントリュー、ジミー・ロウルズ、ラリー・ウィリス、リッチー・バイラーク、マッコイ・タイナー、アダム・マコーウィッツ、ジミー・スミス、スタン・ゲッツ、ズート・シムス、ペッパー・アダムス、アート・ペッパー、ウォーン・マーシュ、フィル・ウッズ、グローヴァー・ワシントンJr.、アーチー・シェップ、デイブ・リーブマン、ジョー・ロヴァーノ、ジム・ホール、ジョン・アバクロンビー、ケニー・バレル、ラリー・コリエル、ディジー・ガレスピー、チェット・ベイカー、アート・ファーマー、ジョン・ファディス、ジミー・ネッパー、ボブ・ブルックマイヤー、ジョン・ヘンドリクス、カーメン・マクレエ、ヘレン・メリル、エルヴィン・ジョーンズ他書ききれない。
 リーダー作としては、アルタ・レコードから“キャッチング・アップ”、マイルストーン・レコードから、“ジャズ”“ボトムラインズ”“デュークス・プレイス”などがある。
《チェコへの回帰:最新作 Moravian Gems》
 ジョージ・ムラーツの最新作は「モラヴィアン・ジェムズ(モラビアの至宝たち)」だ。モラヴァ民謡を題材とし、鋭いリズム、面白いハーモニー、様々なメロディが、ジャズのスイング感、洗練さ、即興演奏の独創性と合体し新しい世界を構築している。ムラーツは成長期を父の生地で過ごした、西欧では『モラヴィア』と呼ばれる地方だ。彼の心に残る「モラヴァ」の思い出は、緑生い茂る草原、そして陽気で心温かい人々、メリハリの効いた方言で歌われる民謡の数々だ。その思い出が本作でのムラーツのプレイの中に生きている。
 ピアニスト、エミール・ ヴィクリツキーは、本作で一曲以外の全ての作編曲を担当している。もう一人のパートナー、ラツォ・トロップは、ヴィクリツキー・トリオの長年のドラマー、ここに驚異的な才能を誇るシンガー、イヴァ・ビトヴァが加わる。
 ムラーツとヴィクリツキーは、1976年、ユーゴスラビアのジャズフェスティバルで知り合った。ムラーツがNYに移り、世界で最も多忙なベーシストとして、スタン・ゲッツ・カルテットなどで共演をし、一方ヴィクリツキーはボストン、バークリー音楽院卒業後、チェコに帰国しカレル・ヴェレブニー(vib)のSHQアンサンブルに参加して、ピアニストとしての評価を確立していた頃だ。ムラーツ自身は、それに遡り、プラハ音楽院の学生時代にヴェレブニーのバンドで活躍していた。初顔合わせから20年後の1997年、再び二人の大きな出会いが始まった。プラハを訪問した時、ムラーツがエミールに、モラヴィア民謡とジャズを融合した音楽を創るというプロジェクトを提案したのだ。本CDはこの二人のコラボレーションの産物だ。
  二人は、モラヴィア音楽特有のリリシズムと深いエモーションの伝え方や、ジャズのアドリブのポテンシャルなど、モラヴィア音楽の持つ広範な可能性について深く考えていった。
 
 本アルバムのプロデューサー、ポール・ヴルセックは、モラヴィア民謡、特に南モラヴィア地方の音楽のモーダルな特性を指摘する。地理的に孤立していた為だけでなく、その音楽が土地の人に愛され、歌い継がれてきたために、時代や流行の変遷に影響されず、何世紀の年月を経ても、音楽の美質が損なわれずに守られてきたのだ。本能的にモーダルな和声進行を感知する鋭敏な耳を持つモラヴィア人達にとっては、これらの民謡を歌い奏でたり、ちょっと風変わりなものであっても、自然に音楽を作るのはいとも容易いことなのだ。モラヴィア人でない者にとっては、それらの音楽は予想もつかない斬新なものだ。
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ジョージ・ムラーツHPより:イヴァ・ビトーヴァはヨーロッパでは凄いスターらしい。クラシックからアヴァンギャルドまでボーダレスな凄い音楽家だそうだ。
本作のヴォーカルとして、エミールはチェコのみならずヨーロッパ全土で活躍するスター、イヴァ・ビトヴァ を推薦、並外れて清らかな声と、あらゆるフォーマットに対応する柔軟さを持つ大歌手であり、ヴァイオリニストとしても一流、しかも映画界では主役を何本も勤める名女優でもある。ビトヴァは1958年北モラヴィアの街ブルンタル生まれ、母、リュドミラ・ビトヴァは教師で歌手、父、コロマン・ビトヴァは、多数の楽器を演奏し、中でもダブル・ベースの名手である。
 ビトヴァは語る、「私は今回のマテリアルが大好きです。録音前、エミールやラコと一緒にリハーサルをした時は、気楽だったんだけど、ジョージとは初めてだったし、ジャズバンドとレコーディングするのも全く初めてだったの。でもジョージのベースからは、同じ楽器を演奏した私の父コロマンの心臓の鼓動が聞こえてくるようでした。父は素晴らしい音楽家だったんですが、’84年に54歳の若さで亡くなりました。ジョージの演奏には心の底から感動しました。それで、レコーディングではヘッドフォンやモニターは一切使わず、その瞬間の波動を直接感じながら歌うことにしたんです。この方法は私に凄い刺激を与えてくれました。」
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 ジョージとイヴァ・ビトヴァは、今後、本アルバム『モラヴィアン・ジェムズ』からのレパートリーやオリジナル曲を、デュオで演奏する予定。演奏スケジュールはイヴァ・ビトヴァのHPを参照されたい。
水曜日コンサートなので、Interludeで速報をお届けする予定です。CU

“CAPTAIN BILLY”後日談

 INTERLUDE 増刊号
 8月に、私に英語特訓してくれたビリー・ルーニーと美人妻ジュリーのことを書き、チック・コリアのHPを覗いてみたら、写真を配信するプレス担当のメルアドがジュリーになっていた。それで、本ブログに書いたことをメールしたら、自分と娘さんの写真を送ってきてくれました。
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左が長女エミー、右がママのジュリーです:念のため
 化粧っ気のない美貌もスリムな肢体もぜんぜん変わってません。美人は得だネ!
 このメールが来たのは数週間前だけど、奇しくも12日に皮膚ガンの為、故国オーストリアで他界したジョー・ザヴィヌルとのスリー・ショットも送られて来た。
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左からビリー、チック・コリア、故ジョー・ザヴィヌル
 ザヴィヌルは、フュージョンの旗手として有名だけど、彼のルーツはBeBopだったことを知っていて欲しい。キャノンボール・アダレイ(as)5でデビューしアレサ・フランクリンの初期の作品などにも、ファンキーなバックを聴かせている。
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テナーサックスの父:コールマン・ホーキンス
 忘れてならないのは、フラナガンやハナさん同様、コールマン・ホーキンスを尊敬する若手ミュージシャンの一人であったこと。
 ウィーン音楽院を卒業しNYに来たサヴィヌルはホークのアパートに集い、彼のヨーロッパ仕込みの手料理をごちそうになった後は、ホークに乞われるまま、ショパンやブラームスを弾いて食後のひとときを過ごしていたのだった。
合掌
次回は、ジャズ講座名場面集、トロンボーンの神様J.J.ジョンソンの『ダイアルJJ5』『ライブ・アット・カフェ・ボヘミア』を聴きながら、’57当時、グリニッジ・ヴィレッジで盛況を極めたカフェ・ボヘミアをInterlude的に探索してみます。
CU
 

Oscar Pettiford in Hi-Fi- ビッグ・ハード・バップ・バンド!(その2)

=オスカー・ペティフォードの肖像=

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 ジャズ、クラシック、民俗音楽、映画やTV音楽、ビートニクのカルチャー・ムーヴメントなど、ボーダレスな音楽界の名士として、私を含め、カルト的信奉者を持つデヴィッド・アムラムは”Oscar Pettiford in Hi-Fi”など一連のオスカー・ペティフォード楽団のアルバムにフレンチホルンで参加しています。作編曲、指揮、それに数え切れないほどの楽器を演奏できるらしい。

 トミー・フラナガンと同じ1930年生まれで、彼の自伝「ヴァイブレーションズ」には、ペティフォードのカリスマ性や、楽団を必死で維持する熱い生き方が、活き活きと描かれています。

 こういう話は他人事と思えない!ついつい誰かに教えたくなってしまいます。下記のオリジナル・テキストを日本訳にし、それからダイジェスト版にしてみました。もっと編集するつもりでしたが、寺井尚之に「このままでええ!」と言われたので、ちょっと長いよ。

デヴィッド・アムラム 著 ”ヴァイブレーションズ“より 

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NYC マクミラン社刊:

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 僕がとうとう文無しになり、昼の職を探そうとした矢先、オスカー・ペティフォードからお呼びがかかった。オール・スター・バンドでしばらくツアーをするという。僕は喜んで仕事に飛びついた。ギャラが少ないのは承知の上だ。とにかくもう一度、仲間と一緒にプレイをしたいと思っていた。シェイクスピア祭(NYでは’54から毎年行われているイヴェント、現在はセントラル・パークでやっているようです。)の仕事ばかりやっていた僕にとって、20世紀に戻るというのは、最高の気分転換だ。ペティフォードと仕事をすれば、自分の三重奏の作品を書くためにもためになるだろう。

この楽団はツアーに参加するミュージシャン達との付き合いがまた楽しい。リハはなるべく早めの時間にして、後は一緒に飲んでは話に興じた。
 「俺はお前のプレイを聴いたぜ。ヤバダバディー♪」:テナー奏者のジェローム・リチャードソンは、なんと、僕が昨年のシェークスピア祭で、作曲して演奏したファンファーレをくちずさんでくれた。他にも何人かのメンバーは僕の演奏を聴いていた。僕はミントンズで1955年に、ジェロームとジャムったことがあった。彼はジャズと同じくらいクラシック音楽や音楽理論に精通しており、4種類の楽器に熟達していた。だが彼だけでなく、全員がそういうレベルの楽団だったのだ。

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 *本拠地『バードランド』に出演中のペティフォード楽団、画像をクリックして拡大すると、ハープのジャネット・パットナム、JRモンテロース(ts)、アート・ファーマー(tp)、ブリット・ウッドマン(tb)など、”In Hi-Fi”に参加している面々の姿が見れる。

 オスカーは、リハが終わると「ギャラは雀の涙くらいかも知れない。」とバンド全員に警告した。だが誰も文句を言う者などいない。皆、彼を敬愛していたからだ。約束していたギャラが払いきれぬ場合は、扶養家族の居ない独身ミュージシャンのギャラが一番安くなる決まりだった。勿論、彼の懐が豊かなら、我々は必ず分け前をもらえた。こういう楽団を維持していくのは、苦労がつきものさ。しかし、全員が楽しんでいた。
 
 フロリダへのツアーは、毎日が移動日で仕事という、一番ハードなツアーだった。レギュラーのトロンボーン奏者が行方不明になり、代理の奏者は”ポークチャップ”っていう仇名だ、実力は推して知るべし…

 列車やバスを乗り継ぎ、空港からフロリダのどこかに着陸し、最初のバスよりもオンボロのバスに乗り込むと、フロリダの風光明媚な湿地帯エヴァーグレードを途中駐車することもなく走り抜ける。青い目をしたなんとも感じの悪い白人運転手が、同じ白人のエド・ロンドン(frh)や、J.R.モンテローズ(ts)たちに向かって話しかけた。「おめえら、黒いのと一緒に混ざりやがってうっとうしい!いい加減にしろってんだ。すぐにおだぶつにされちまうぜ。」まるで自分がその予言を実行したいような口ぶりだった。
 
 それはまだワシントン大行進や公民権運動以前のことだ。バスを待っている間、僕はすでに気付いていた。フロリダの黒人達が、3人の白人を従えた黒人のバンドリーダーを見て呆気に取られていたのを。一方NYのミュージシャン達は、フロリダの「人種」に関するひどい社会常識に動揺していた。同時に地元の黒人達に浮かぶある種の「恐怖」の表情に対しても。それは僕らには悲しい光景だった。

 やっとの思いで我々は大学に着いた。今までのトラブルのおかげで、オスカーはとても気分を害していて、バスから出ようとしない。「俺はここで寝るよ。」と言ったきり、車両の奥で横になりバタンキューと寝込んでしまった。僕達団員は、着替えと食事の部屋を提供されたものの、部屋に入れたのは夕刻6時で、じきに本番だった。”ポークチャップ”のように 土壇場でトラとして入った連中は、演奏曲の譜面さえ見ておらず、本番前にリハーサルをすることになっていたのだが、オスカーは寝ている。しかたなく僕達は夕食を取り、余った時間は疲れ切った体を休める事にする。そして、本番直前にオスカーを起こして演奏を始めた。無論『バードランド』でのいつもの演奏レベルには及ばなかったが、学生達は大いに楽しみ、ダンスに興じた。彼らは、バンド・メンバーの多くがジャズ界で有名であることを知っていて、惜しみなく喝采を送ってくれた。

 コンサートの後、大学の学長が楽団の為に公式レセプションを開催してくれた。しかしオスカーは当夜の演奏の内容が不服で、宴会場の隅っこにふてくされて座っていた。
 とうとう、件の学長が、団員と共にオスカーのところに挨拶にやって来た。「オスカー、学長さんを紹介したいんだけど。」団員がそう言うや否や、ふくれっつらのオスカーの顔が悪魔的な笑顔に一変した。腕を大きく広げ抱擁し、びっくり仰天している学長に向かってこう言った。「ヘイ、マザーファッカー、調子はどうだい?」それから再び学長をしっかり抱きしめると、まるで、それが彼の出来る唯一の芸であるかのように、雄叫びのような笑い声を出した。学長も他の教授達も呆気にとられた様子だったが、両者の緊張がほぐれて、パーティはぐっと打ち解けた雰囲気になったのだ。
 
 僕も多くのバンドリーダーと仕事をしたが、オスカーほど誠実で気性の良い人はいない。狂気じみたところも彼が大天才である証拠だった。だからミュージシャン達は彼のためならどんな苦労も厭わなかった。

 パーティが終わる頃には、学部のスタッフ全員が、すっかりオスカーに魅了されていた。我々は朝の4時まで起きていて、バスでNYへと戻った。やっとの思いでマンハッタンたどり着いたと思ったら、その15時間後には、再び汽車や飛行機、バスを乗り継ぎ、トイレや食事の時だけ小休止というハードな巡業が始まるのだった。

 その一週間後、僕達の最後の大仕事があった。マサチューセッツ州スプリングフィールドで、人気歌手ダイナ・ワシントンも出演するコンサートだ。しかし、コンサートの看板は町中にたった8つしかなかったし、新聞広告も出ていない、PRとおぼしきものが皆無なのだ。武器庫をにわかコンサート・ホールに仕立てた会場に、お客はたったの25人。誰もコンサートがあることを知らないのだから仕方がない。オスカーは当時ジャズ界のスターだし、ダイナ・ワシントンはそれ以上の知名度があったから、満員になって当然なのに。ダイナも不入りに驚いていた。ダイナがうちの楽団に飛び入りで歌い、我々も彼女のバンドに入り、コンサートはセッションの様相になった。不入りのコンサート終了後、オスカーはどうにか金をかき集め、家族のいるメンバーにギャラを払い、独身者たちには、自腹を切って支払った。
 
 帰り道には、全団員がバンドは解散せざるを得ないだろうと察し、暗い気持ちで一杯だった。オスカーは、すぐにそんなムードを感じて、大声を出したり笑ってみせたり、皆を元気付けようとした。オスカーにとって、憐れみを受けるのは、耐え難いことだったのだ。

 「これからもシェークスピアを演るのかい?」他の団員が家路に着いた後、オスカーは僕と28丁目を歩きながら尋ねた。

「ああ…」僕は応えた。「でも、これからも一緒に出来ればいいなあ。ねえ、僕に何か助けられることはない?例えばパート譜を写譜するとか、どんなことでもいいからさ…」

“た・す・け・る”?!おい、お前が俺を助けるってかよ?!」オスカーは、まるで金星人の襲撃に遭ったように怒鳴りちらした。「一体何言ってんだ?俺がお前の助けを必要としてるってのか? おい、デイヴ、お前は自分のことだけ助けてりゃいいんだよ!しっかりしろよ。精一杯良いプレイをして、良い曲を書けよ。お前さんなら出来るさ。他人を助けるなんて考えるな!そんなのたわ言だって判ってるだろ。頑張って書き続けろ。誰にも邪魔立てさせるな。俺たちはな、神様に祝福されて音楽の世界に遣わされてるんだ!まあいいさ。俺の家でちょっと何か食べて行け。俺はな、フレンチホルンが大好きだ。次に一緒に演る時は、ミスノートなんか吹いてバンドを滅茶苦茶にすんなよな。俺が気付いてないとでも思ってるのか?全て耳に入ってるんだからな。」

 それから、僕達はオスカーのアパートでエール(例えばギネスビールのような飲み物、日本のラガービールよりフルーティだったり苦かったりする。)を飲み始めた。
「人生って素晴らしいよなあ!」オスカーが大声で言う。「俺たちのバンドは世界一だ!なあ、そうさ!だから、おまえ大声出すなよ!」と、オスカーは雄叫びを上げた。「俺の息子が眠ってるんだ、明日学校に行かなくちゃならないんだから。さあ、乾杯だ!!デイブ。」

「乾杯、オスカー」僕は小声で囁いた。

「神様が俺たちをこの世に遣わしたのは、凄いプレイをする為なんだ。お前がこれ以上しょうもないことばかり言うと、俺はフレンチホルンのセクションをしょぼいメロフォーンに変えちまうぞ、判ってるだろうな。だけど今夜はゴキゲンなサウンドを出してたよな!何てすげえバンドなんだ!!」

 僕達は結局一晩中盛り上がっていた。やがてオスカーは子供の時に覚えたインディアンの踊りを披露してくれた。彼の息子が学校へ行く支度の為に起きてきたときには、僕達は輪になってインディアンのダンスをしている真っ最中だった。奥さんが作ってくれた朝食をごちそうになってから、僕はやっと家路に着いた。

 オスカーは世界一の同志だった。最高に心の広いボスだった。何事にも純粋な気持ちで向かっていく力の凄さを見せてくれた人だった。自らのエネルギーと生命力で、ミュージシャン達や他の人々の苛立ちや悪感情も、喜びに変えてしまえる事を教えてくれた人だった。(了)

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 どうですか?天才ミュージシャンというものは、こんな風に音楽の天国と、現実社会の地獄の狭間を駆け抜けていくものなのでしょうか・・・
長いのを読んで下さってありがとうございました!

次回のお題は、『OverSeasの足跡を辿る その1-サラーム・ボンベイ』、今は昔、OverSeasの始まった頃について、書いてみたいと思います。
来週のウィークエンドに更新予定、CU