翻訳ノート:ウエス・モンゴメリー『アーリー・レコーディングス・フロム1949-1958 イン・ザ・ビギニング』

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キング・インターナショナルHPより:

驚愕の未発表音源!!<<ウエス草創期の一大アンソロジー>>

オクターブ奏法, ベースを弾くウエス, クインシー・プロデュース音源・・

『エコーズ・オブ・インディアナ・アヴェニュー』を凌ぐ作品の登場!!

 

  先月、日本先行発売、まもなく本国米国で発売される、ウエス・モンゴメリー話題の未発表音源『アーリー・レコーディングス・フロム1949-1958』、私の周りでも、ジャズにかぎらずロックやクラシックを主に演奏しているミュージシャン達も、すぐにチェックして愛聴しているみたいです。

 このアルバムは地元インディアナポリスの人気ギタリストとして活躍した時期、26才から33才のライブ、スタジオから、プライベートなジャム・セッションでのエレキベースまで、さまざまなシークエンスのプレイを収録したものです。ウエスが遅咲きであった理由は、家の生活を守るため、俗にデイ・ギグと呼ばれる工場勤めをしながら、地元に留まって音楽活動を続けたというのは有名ですよね。でも、ここでの演奏を聴くと、すでにウエスのあのスタイルは出来上がっていたことを、自分の耳で確かめられるのが嬉しいです。

 NYの一流ミュージシャンの間では、「インディアナポリスにウエスあり!」と口コミで噂は伝わっていて、楽旅でインディアナポリスを訪れると、こぞって、彼の出演場所にやって来た。本作は、そんなミュージシャン達の気持ちを共有できます。ウエスと共演している地元ミュージシャン、プーキー・ジョンソン(ts)、ソニー・ジョンソン(ds)も並々ならぬ実力派です。

 2枚組CDには、当時の貴重な演奏写真と共に、当時のウエスの実像に迫る様々なエッセイがぎゅうぎゅう詰めになった小冊子付き。この辺りが、「ジャズ発掘人」として名高いゼヴ・フェルドマンらしいアルバム作りですね!小冊子の冒頭には、「ジャズ発掘人」と呼ばれるフェルドマン自身が語るアルバム誕生秘話。世界中から情報を集め、良いアルバム作りに邁進するのプロジェクトXに血沸き肉踊ります。続いてウエスの家族たち、22才の若さでウエスをプロデュースしたクインシ―・ジョーンズ、ロック畑のウエス・ファン代表、ピート・タウンゼント、さらには、2月に『オファリング:ライブ・アット・テンプル大/ ジョン・コルトレーン』のアルバム・ノート執筆者としてグラミー賞を勝ち取ったアシュリー・カーンなどなど、音楽解説だけでなく、その当時のインディアナポリスのジャズ・シーン、歴史や社会状況が手に取るように見えてくる高内容の一冊!

 当時のインディアナポリスで黒人たちが直面していた人種差別からは、ウエスが、パノニカ男爵夫人の「三つの願い」で、『No discrimination whatever いかなる差別もなくなること。』 と願っているのが深く頷けました。そして、その差別をウエス達が音楽の力で正す痛快な事件のことも書かれています。

 初期ウエスの貴重なレコーディング、それに、まつわる音楽史の興味深い断面を、ぜひご一読ください!日本語訳は不肖私が担当させていただきました。King e-SHOP

 下のヴィデオは、ゼヴさんがホスト役で登場する、アルバム制作ドキュメンタリーです。

CU!

’60年代のトミー・フラナガン・インタビュー(その1)

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今日はトミー・フラナガン生誕85周年!

Stanley and Earl - photo by Brian Kent.jpg 来る28日(土)は、当店OverSeasで第26回目の追悼コンサート、“Tribute to Tommy Flanagan”を開催。 この時期に愛奏した春の曲(Spring Songs)など、フラナガンならではの名演目でありし日の巨匠を偲びます。ぜひぜひご参加ください!

 というわけで、今週、来週は、当店OverSeasで毎月開催している「トミー・フラナガンの足跡を辿る」が’60年代の演奏解説に入っていますので、’60年代のフラナガン・インビューを掲載することにしました。
 ソースはダウンビート誌、1966年1月13日号、聴き手は英国からNY近郊へ移住しジャズに一生を捧げた歴史家スタンリー・ダンス(左の写真は、アール・ハインズと)。ダンスは”Mainstream”という言葉をジャズ界に定着させ、その知力とペンの力で、多くのジャズメンやビッグ・バンドを、「芸人」から「芸術家」へと正しい評価へ導いた人、その反面、”ビバップ嫌い”ではありましたが、ここでは、好意に溢れた対話を展開しています。



 

 <トミー・フラナガン:脇役からの飛躍>

静かなる男へのインタビュー 聴き手:スタンリー:ダンス

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 NYに進出して10年、トミー・フラナガンは、卓抜した趣味の良さ、繊細さ、そしてオリジナリティを併せ持つピアニストとして名声を手にした。その名声の源は、ケニー・バレル(g)、タイリー・グレン(tb)、マイルズ・デイヴィス(tp)、J.J.ジョンソン(tb)、コールマン・ホーキンス(ts)、エラ・フィッツジェラルド(vo)といった様々な主役たちとライブやレコーディングを通じた多岐に渡る活動であるが、それは決して偶然に得られたものではない。

tommy2.bmp ”あらゆる仕事をやってみたかったので。” と、彼は説明する。

 多くのレコーディング参加は、仲間うちの彼に対する好感度と評価の高さを示すものだ。しかし、リーダー作は今のところ、プレスティッジに於るトリオ作品2枚に留まっている。それ故、彼の実力に相応しい知名度が一般のファンには行き渡っていない。

 ”決して目立つことがないんです。” 彼は少し残念そうに言ってから、すぐさま微笑んで付け加えた。”でも、自分が売れるか?売れないか?なんて気にしていません。”

 1961年、ダウンビートのレコード・レビューはいみじくも、「派手にひけらかすことはないが、複数の音楽的ルーツを継承していることを示す演奏家。」と評していた。様々なルーツを踏まえた上でのスタイルが彼独自のものであることは、言うまでもない。

 物静かで控えめな物腰とは裏腹に、フラナガンの談話は、鋭い機知と皮肉が随所にちりばめられ、彼の音楽的信条に反する不合理な仮説や教条を持つ連中に痛烈な一撃を与える。同様に、彼が大尊敬するミュージシャンについて、私が「もう盛りを過ぎたのでは?」と言うや否や、 ”じゃあ、彼の全盛期はいつだと思っておられるのですか?”と、いともクールに斬り返された。すなわち、彼の音楽性は、 尖ったり、押し付けがましさの一切ないものであり、現在も手堅く的を得たプレイは衰えることなく健在であるという所以である。

 1930年 デトロイト生まれ、フラナガンは子供の頃のクリスマスを回想する。-彼が6歳の時、ギタリストの父とピアニストの母に、子供たち全員が楽器をプレゼントされたのだった。

 私には4人の兄と一人の姉が居まして・・・” トミーは言う。”私がもらったプレゼントはクラリネットでした。高校までは、ずっとクラリネットを続けました。高校時代はサックスなどいろいろな楽器をいじくりましたが、主楽器は相変わらずクラリネット、もう少しで首席だったんだ!学校行事、例えば行進などで演奏もしました。ジャズに興味を持ったのはその頃です。当時はベニー・グッドマンが大流行で、兄貴はよくビリー・ホリデイとレスター(ヤング)の共演盤を家に持ち帰って、一緒に聴いたものでした。

 ”自分が聴いて、自分でも演奏したいと思えば、そのまま演奏することができました。まあ、単なる物真似ですがね。クラリネットが、ピアノ上の思考に影響していると思います。ずっとクラリネットを続けていましたが、いつのまにかピアノの方が好きになってしまった。それは多分ピアノ・レッスンを受けていたからです。クラリネットは、学校の教科に近かった。クラリネット教本で勉強するにはピアノに向かうことが必要だったし。”

 さらに、フラナガンは、長兄、ジョンソン フラナガンJr.のピアノの演奏を見て、兄を見習おうとした。ジョンソン・フラナガンJr.は、現在NY近郊で活躍する実力派ピアニストで、ラッキー・トンプソンとレコーディングした”ベイズン・ストリート・ボーイズ“に加入し、’40年代半ばにデトロイトを離れている。

  “兄のように演ってみたいと思って…” とフラナガンは言う。 ”そういうわけで、聴けば聴くほど、ますますピアノが好きになった。そして兄と同じピアノ教師、グラディス・ディラードに就きました。彼女は文字通り、私の家族全員にレッスンをした先生です。通常、彼女の元で修了するのに7年間かかる。彼女は完璧な教師だったから、悪い所をそのままにして見逃すことは決してなかった。

 ”自分で、レッスンの成果が出ていると判ると、上達する過程が嬉しくてたまらない。それでずっと彼女に付いて習った。兄がデトロイトを離れてから数年間は、兄の影響は少なくなりましたが、ますますジャズを演奏することに興味を持つようになりました。

 ”最初は、もっぱらレコードを聴いて影響を受けました。バド・パウエルやその他の人達も、デトロイトに来た時を除いては、全てレコードを通して聴いたのです。生で聴いて感動したのは、スモール・コンボでのチャーリー・パーカーです。メンバーはマイルズ・デイヴィス、デューク・ジョーダン、トミー・ポッター、マックス・ローチ・・・素晴らしかったなあ。まだ子供だったので演奏している店の中には入れなかったが、横手のドアにへばりついて必死で聴いた。そこは店内よりずっと音がよく聞こえる場所でね。私にとって、特に素晴らしいことは、前もってレコードで聴いたものを、改めて生で聴けるということだった。

 ”ダンスホールに出演する人気バンドも、いくつか聴きに行ったことがあるのだけど、そういうバンドは、レコードと寸分違わぬ様に演奏するんだ。だがバードとディジーのバンドはそうではなかった。当時はホーンに感動しました。もちろんピアニストもいいのだけれど、それ以上にバードとディジーに圧倒されました。自分は、特にフレージングの点で、彼らから大きな影響を受けていると思います。

tatum444.jpg ”その頃の私は、なんとかピアノの腕前を上げようと四苦八苦していたんです。アート・テイタムを聴いてからは、ソロで仕事ができる位うまくなりたいと思ってね。そうして、自分に欠けているのは、テイタムのようなピアニスティックな要素だと痛感しました。それは自分の考え方が余りにもホーンライクで、ホーンのフレーズを引用しているためだと気付いた。ほんの初期のころから、ずっと、リズミックなシングル・ライン中心のスタイルで、分厚いコードのオーケストラ的サウンドを弾きたいと切望するようになった。”

 フラナガンは、最初、テディ・ウィルソンやカウント・ベイシーを愛聴し、その後、やはりレコードで、アート・テイタムと出会う。そして1945年、テイタムがデトロイトを訪れた。

 ”フリーメイソンの寺院でソロのコンサートがあった。”フラナガンは回想する。

 ”途中の休息を計算に入れず、テイタムは1時間半演奏した。お客の入りは余り良いというわけではなかったが、とても熱のこもった演奏だった。二階席の切符しか買えなかったが、二階には僕以外ほとんど人が居なかった。目の前で彼の生の演奏を聴くということが、私にとって、とても大事だった。これまで彼の演奏をよく聴いて知っていて、そういう風に弾きたいと思っていたのだから!”

 (続く)

対訳ノート(44):Come Sunday

 さて、今月の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」は、『Moodsville9 トミー・フラナガン・トリオ』の解説がありました。本来この『Moodsville』シリーズは、ムード・ミュージック、BGM目的。フラナガンの演奏は、制作意図にしっくり馴染むように見せかけながら、曲の持つ気骨と品格をしっかりプレイに忍ばせる、静かな炎のソロ・ピアノ!いつも聴いてるのに、講座でまたまた感動して、この演奏の元になったマヘリア・ジャクソンとエリントンの決定版を聴き、久々に対訳ノートを書きたくなりました。

<歌のお里は超大作だった>

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 ”Come Sunday”は、現在、賛美歌として教会で歌われているそうですが、元々、”エリントン、アメリカ黒人史を語る“という趣向の壮大な組曲“Black, Brown and Beige”(’43)の第一楽章“Black”の一部分でした。この楽章は、3つのパートから成り立っていて、アメリカに連れて来られた黒人奴隷達の姿を音楽で描いています。”Come Sunday”は、過酷な労働を唄う”Work Song”と、苦難の中の希望の光見出す”Light”の間のモチーフで、稀代のアルト奏者、ジョニー・ホッジスをフィーチュアしたスピリチュアル(黒人霊歌)、現在の私達におなじみの“Come Sunday”は、このパートの中の32小節を抜粋したものです。

  “Black, Brown and Beige”は、エリントンが、従来のエンタテインメント的イメージから脱却し、アーティストとして、黒人音楽の金字塔にするべく挑んだ芸術作品で、48分の超大作だった。つまり、コットンクラブに象徴される奔放で官能的なイメージとはおよそかけ離れた組曲だったんです。

 超人気バンドリーダーして不動の地位を保ちながら、40代半ばで、おまけに戦争中、しかも、黒人ミュージシャンは道化であることを強いられた人種差別時代、マネージャーの反対を押し切り、敢えて芸術的大作を発表したというのはどういうわけなのだろう? 戦時下の遊興税によってダンス・バンドが先細りになることを見越して路線変更をしたのだろうか?いえ、それよりも、この時期に勃興したビバップ同様、「ダンス・ミュージック」ではなく「鑑賞するジャズ」に向けて黒人たちが創造力を振り絞った時代、その世界のトップランナーとして当然のことをしただけだったのではないだろうか。

 ともかく、勝負を賭けたカーネギーホールのコンサートは、満員御礼ではあったものの、クラシック畑の評論家からは「話にならない低レベル」、ジャズ評論では「退屈極まりない。おもろない!さっぱりわからん。」と、ケチョンケチョンに叩かれて、この企画にずっと反対していたマネージャー、アーヴィング・ミルズと袂を分かつことになりました。

 でもエリントンは諦めなかった。

<マヘリア・ジャクソン>

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  この曲が大きな注目を集めたのは、公民権運動が全米各地に波及しつつあった1958年にリリースした“Black, Brown and Beige”改訂版。オリジナル版を大幅に短縮して、ゴスペルの女王、マヘリア・ジャクソンが”Come Sunday”に、新しい命を吹き込んだ!

 南部の綿畑の日々の過酷な労働の中、詠み人知らずの歌として、自然に歌い継がれた「黒人霊歌」(Black Spirituals)は、アフリカと西洋の異文化融合の原点と言われています。そんな趣を湛えるこの歌詞は、基本的にエリントンが作り、オリジナル・ヴァージョンを演奏したジョニー・ホッジス(録音には不参加)とマヘリアが修正を加えたもののようです。当初エリントンは、自分の歌詞がキリスト教の規範に合わなかったらどうしようと、かなり悩んだと言われています。duke-ellington-feat-mahalia-jackson-black-brown-and-beige-1958-inlay-cover-21853.jpg

 一方、リハーサル中に、マヘリア・ジャクソンが歌うのを初めて聴いて、楽団のレイ・ナンス(tp, vln)は、感動で涙が止まらなかった!

  この録音の前日、LAのスタジオでこのアルバムの録音が行われた時、エリントンの片腕、ビリー・ストレイホーンは楽団から離れ、ジョニー・ホッジスとともに、LAから遠く離れた東海岸のフロリダにいました。この当時は、経済的な問題をクリアするためだったのか、ホッジス達は一時的に独立して公演することが許されていたのです。ところが、ぎりぎり録音の前日に、エリントンが長距離電話をかけてきて録音曲のアレンジを頼んできた!必要な編曲の中には、”Come Sunday”も含まれていて、ストレイホーンはタクシーの運転手をホテルに待たせ、徹夜で楽団用にアレンジを書き上げ、その譜面の束を運転手が全速でマイアミ空港まで飛ばし、文字通りエアメイル・スペシャルでLAのスタジオに届けました。ところが、ジャクソンをフィーチュアしたトラックでは、ストレイホーンがアレンジした楽団とのヴァージョンはボツになり、エリントンのピアノがイントロと間奏に少し入る他は、ア・カペラで歌うトラックが採用されました。ジャクソンの芳醇な声は、オーケストラ的なハーモニーが内蔵されているから、敢えて楽団を取っ払う快挙に出たのでしょうか?

 黒人霊歌(Black Spirituals)は、南部で過酷な労働に従事する奴隷達が創造した、黒人と白人の文化をつなぐ最初の架け橋であり、同時に、神を敬う歌詞の裏には、自由への願いや、逃亡に際する秘密の教えが隠されている。エリントンは、この架け橋から産まれた天才。初演から15年、公民権運動の高まりにつれ、“Black, Brown and Beige”にも、「日曜」がやってきて、”Come Sunday”は公民権を願うプロテスト・ソングとして聞こえてきます。

 

<Come Sunday>

Duke Ellington

主よ、愛する主よ
天にまします全能の神よ、
どうか我が同胞に
苦難を乗り越えさせ給え。

(くりかえし)

太陽や月は
また空に輝く。
暗黒の日にも、
雲はいつか通り過ぎる。

神は平和と慰めを、
苦しむ皆に与えられる。
日曜が来ますように。
それは我らの待ち望む日。

我らはよく疲弊する。
でも悩みは密かに届けられる。
主はそれぞれの苦悩をご存知で、
それぞれの祈りをお聞きになる。

百合は谷間に
物言わずひっそりと居るけれど
春には花を咲かせ、
鳥達はさえずる。

夜明けから、日没まで、
同胞は働き続ける。
どうか日曜が来ますように。
我らの待ち望む日曜が。

対訳ノート(43) クール・ジャパン-”Poor Butterfly”

at-ease-with-coleman-hawkins-cover.jpg  トミー・フラナガンはライブ命のアーティスト、だから、自分が参加した歴史的名盤には、レコードでフラナガンに親しむファンにとって、驚くほど無関心だった。「今の自分が最高なんだ!」という強烈な自負があったのだ。

 とはいえ、そんなフラナガンが終生誇りにしていたアルバムがある。それはコールマン・ホーキンスとの『At Ease』(Moodsville)で、LPのジャケットを居間に飾るほどのお気に入りだった。
  

mickey_mouse_10-834x1024.jpg だが、その録音セッションは、前もって入念な準備をしたわけでなく、スタジオで渡された市販の譜面で録音する日雇い仕事だった。スタジオでの限られた時間内で、凡人なら一生かけても到達不能の深い演奏解釈とアレンジを魔法のように作り上げ、1テイクで出来上がったトラックを集めたアルバムは、一生聴いても飽きない出来栄えだった。大魔法使い(ホーキンス)のリードで、それまで気付かなかった自分の魔力に目覚めるハリー・ポッターがフラナガンだ!

 ホーキンスの音楽的意図を瞬時に読み取り、そこしかないタイミングに、それしかないというフレーズを創造した瞬間の、フラナガンの鼓動が聴こえてくる。

 性を超越した師弟の大きな「愛」さえ感じる即興演奏-これがジャズの醍醐味だ!

「トミー・フラナガンの足跡を辿る」では、このアルバムを文字通り毎日愛聴する寺井尚之が、一瞬の合図さえも読み取って、最高の音楽解説をしてくれました。中でも皆で一番感動したのが日本女性の歌 “Poor Butterfly”

<歌のお里>

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 有名なプッチーニのオペラ『Madam Butterfly (蝶々夫人)』由来のポップソング- “Poor Butterfly”は、大正時代=1916年の古い歌。当時、NYで大盛況を博した’ヒッポドローム’という大劇場のドル箱レビュー-’ザ・ビッグ・ショウ’のために作られた作品だ。

 ’ザ・ビッグ・ショウ’はバレエやオペラなど様々なスターの出演が目玉で、伝説のバレリーナ、アンナ・パブロワが「眠れる森の美女」で登場したことさえあった。

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 その’ビッグ・ショウ’に、異国情緒溢れる日本のゲイシャ・ガールを出演させて歌わせたのが、この歌の初演。次に白人女性歌手が歌い大人気を博した。

 それでヴィクター軍楽隊がレコーディング(1916)、バイオリンのスター、フリッツ・クライスラー(1875-1962)もカヴァー(1917)するほどのヒット曲になりました。

  その後、朝鮮戦争が終わった’50年代後半、映画「サヨナラ」に象徴されるような日本ブームが起こり、それに便乗するかたちでリバイバル・ヒットした。フランク・シナトラ、そして決定版、サラ・ヴォーンの『Sarah Vaughan Sing Broadway』のおかげでジャズ・スタンダードになった。

 < 咲き続ける桜>

 a8a3d63806057a1c1cdab4b257a76f22.jpg   若い皆さんのために「蝶々夫人」のストーリーをちょっと説明しておきましょう。
 舞台は幕末の長崎、アメリカの軍艦に乗って入港したハンサムな海軍士官ピンカートンは、うら若き美貌の舞妓、「蝶々さん」に恋をする。二人は国際結婚し、長崎の地で家庭を持ち、子供にも恵まれた。
 
 やがて彼は「帰ってくる」と言い残し、再び船に乗って旅立った。貞淑な蝶々夫人は、桜の舞い散る屋敷で、来る日も来る日も、ひたすら夫を待ち続ける。

 3年後、長崎に戻ってきたピンカートンの傍らにはアメリカ人の妻が寄り添っていた!

 蝶々夫人は、息子を彼に託し、名誉の自害で果てる。「一巻の終わり」-という美しくも哀しいお話。

 ピンカートンという名前がユーモラスに響き、私の子供の頃は落語や漫才のギャグになっていた。

 この物語の原作は、アメリカ人の弁護士、John Luther Longが書いた短編。色々リアリティ・ギャップはあるものの、満開の桜の花が咲き続ける情景には、シュールな美しさが漂います。

 歌詞のツボは『The Moon and I』のくだりと、一瞬が何時間に何年にもなる時間の経過感、サラ・ヴォーンもコールマン・ホーキンスも、いつまで経っても欠けることのないスーパームーンと桜吹雪が舞い散り続ける夢のような情景がサウンドに溢れます。

 名唱、名演を聴きながら目に浮かぶのは、日本の八千草薫さんが演じた蝶々さん(日伊合作映画 ”Madama Butterfly” 1955)の美しい姿・・・映画もぜひ観てみてくださいね。

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<Poor Buttterfly

詞John Golden/曲Raymond Hubbell (原歌詞はここに

Verse

桜の木の下に楚々と座る
小さな可愛い日本人の物語、
その名はミス・バタフライ。
彼女は愛らしく、無邪気な少女、
立派なアメリカの若者が、海を越え、彼女の庭にやって来るまでは…
満開の桜の下、二人は毎日逢う瀬を重ね、
彼は、アメリカ流の恋の作法を教えました。

それは全身全霊愛する事。

教わるのは簡単でした。
やがて若者は、きっと戻ると約束し、船に乗って行きました。

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Chorus
哀そうな蝶々さんは、桜の下で待っている。
ああ、蝶々さんはこんなに深く愛しているのに・・・

時は過ぎ、ひとときが数時間に、
そして何年も・・・
涙の中に微笑みをたたえ、
彼女はかすかにつぶやく。
お月様と私はあの方の誠実を存じております。 
きっといつかお帰りになる!
もし、お帰りにならなくても、
ため息をついたり、泣いたりなどいたしません。
この命、断つのみでございます!」
なんと哀れな蝶々夫人・・

 

 誠実で貞淑な日本女性、伝統的クール・ジャパンな世界がここに!

 ところが、古来からヴァースを導くイントロには、サラ・ヴォーンのヴァージョンを含め、ステレオタイプな中国のメロディーがくっついていた。

 その譜面を渡されたコールマン・ホーキンスは、即座にヴァース部分をカット! 日本人の魂に響く素晴らしいアレンジを瞬時に施した

 雑味を排し曲本来の良さだけを活かす調理法は和食だ!まさしくクール・ジャパン!

 このホーキンスの魔法を真近で観て学んだトミー・フラナガンどうやら、後年のトミー・フラナガンの名演目の秘密はこの辺りにあるようですがザッツ・アナザー・ストーリー!

 「トミー・フラナガンの足跡を辿る」は毎月第2土曜日に開催中!是非一度覗いてみてくださいね。

CU

翻訳ノート:ジョン・コルトレーン 『オファリング(魂の奉納)ライヴ・アット・テンプル大学』

33526.jpg  後期 ジョン・コルトレーンの最も濃密な演奏、40歳という早すぎる死の8ヶ月前、故郷フィラデルフィアで行ったコンサートの貴重な全貌を捉えた未発表音源、『オファリング(魂の奉納)ライヴ・アット・テンプル大学』の日本盤がリリースされます。(キングインターナショナルより7月21日発売予定)

 私が訳したのは、本作のプロデューサーであり、JAZZ歴史家としてNY大学で教鞭をとるジャーナリスト、アシュリー・カーン氏による骨太のライナー・ノートです。

 これまで音質の悪い海賊盤しかなく、多くのコルトレーン研究者が血眼で探すそのマスターテープを米国で発掘したトレジャー・ハンターはなんと大阪人!岩波新書「ジャズの殉教者」の著者として、コルトレーン書の金字塔『ザ・ジョン・コルトレーン・リファレンス』の研究チームの一員として多くの受賞歴を持つ藤岡靖洋氏でした。コルトレーン関係の史料を求め、年がら年中、和服で世界を飛び歩き、サンタナやハンコック、TSモンク達と太いパイプを持つ藤岡氏がかっ飛ばした満塁ホームラン。今回、日本語盤の監修にあたり、光栄なことに、ライナー・ノート翻訳のお声をかけていただき感謝。 

 これは、コルトレーンの実家からほど近くにある、全米有数の名門テンプル大学で学生が主催したカレッジ・コンサート、商業的な興行ではなかったため、PRが行き届かず「空席が多かった」というのが驚きです。地元パーカッション・グループを始め、外部ミュージシャンの飛び入りがあり、コルトレーンがホーンを置いて雄叫びを発するという異例なパフォーマンス、それらを、息子さんのラヴィ・コルトレーンや、共演ミュージシャン、客席に居合わせた人々に詳細な取材をしながら、コルトレーンの「真意」がどこにあったのかを解き明かし、音楽に対する情熱の炎を燃やし続けた巨匠の姿を浮き彫りにしていくドキュメンタリーになっています。 

  演奏や、時代についての考察も読み応えがありますが、感動的なのは、コルトレーンが若手、無名のミュージシャンにとても優しく接したという証言の数々で、10代のコルトレーンがフィラデルフィアに来たチャーリー・パーカーに、デトロイト時代のトミー・フラナガンがアート・テイタムに励まされたエピソードを彷彿とさせるものでした。ジャズにかぎらず、巨匠として、人間としてのあるべき姿なんですね。また、コルトレーンの崇拝者だった故マイケル・ブレッカーの高校時代、このコンサートを契機にミュージシャン人生を歩もうと決意したという証言も必読です。私の身近にいる寺井尚之も、大学時代に観たエラ・フィッツジェラルド+トミー・フラナガン3のコンサートが天啓となったわけで、とても共感しました。

 歴史的発掘音源のお供に、藤岡氏が書き下ろしたエネルギッシュな解説文と併せて、ぜひご一読を。

88a2efab.jpgチラシは藤岡氏のブログより

 

 

 

 

トミー・フラナガン・トリビュートの前に読みたいAmerican Musicians(最終回)

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<演奏のこと、レパートリーのこと>

 「このあいだヴィレッジ・ヴァンガードで、ある人物に、私が影響を受けたピアニストは誰かとしつこく尋ねられた。実は(ピアニストではなくて)ホーン奏者のようなプレイを狙っているんだけどね…つまりピアノでブロウするわけだ。
 演奏で一番気を使うのは、一曲のサウンド、つまり全体のトーナリティだ。もしCのブルースを演るなら、全体が一つの円になるようにプレイしなければならない。頭にはCのサウンドをしっかりキープしながらも、心はそのサウンドに覆われて茫洋とするわけだ。(トーナリティに比べれば)曲のコード進行もメロディも、さほど重要ではない。でも弾いているときに迷ったときには、メロディとコードが道標になる。

 僕の取り上げる題材に、目新しいものは殆どないよ、僕にとっては新鮮だとしてもね。新曲をレパートリーに加えると、プレイが高揚する。特に好きなのは(ジェローム・)カーン、(ハロルド・)アーレン、ガーシュイン、それにデューク・エリントン―ビリー・ストレイホーン、タッド・ダメロンといった作曲家たちだ。まあ何を演ろうと、演奏するというのは大変な仕事だ。一週間続けてギグをやった後は、とにかく休みたい!癒されたい!」

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 フラナガンは真剣に聴くことをリスナーに求める。シングルノートのメロディラインは上へ下へと動き続けるが 、彼はパーカッシブなプレイヤーでもあるから、思いがけない音にアクセントを付ける。絶え間なく変化するフレーズはリスナーに挑みかかると思えば、また遠ざかる。その結果生まれるダイナミクスは微妙で、しかも魅力に溢れている。縦横の双方向に流れるメロディに、聴く者は2本のラインが動いているような印象を受けるし、フラナガンはその両方をしっかり聴いて欲しいと思っているのだろう。このラインの内側が、また違う動きを見せる。―倍テン、倍ノリの動き、それにフラッテッド・ノートの塊、ダンスするように疾走感のあるパッセージ、そして休符-それは前のフレーズの余韻を響かせる空間だ。フラナガンはまさしく超一級である。

 時として、天気が良く、聴衆が熱意に溢れ、ピアノも良く、最高の雰囲気になると、彼の情熱はすさまじいものになる。一旦そうなると、もう手がつけられない。熱いインスピレーションを沸き立たせ、息を呑むソロ、ソロ、ソロ繰り出し、一夕を弾き通す。すると聴衆は、神々しい出来事に立ち会ったような気分にさせられる。

<ダイアナ・フラナガン再登場>

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 ダイアナ・フラナガンが居間へ入ってきた。するとフラナガンは立ち上がり伸びをして、散歩の時間だからと言う。今日のコースはリンカーン・センターに向かって南下し、セントラルパークを通って帰宅する、そう言って日除け帽をかぶると部屋を出て行った。

 ダイアナ・フラナガンはクッキーをつまみソファに腰掛けた。
彼女曰く、今までの人生で、一番良かった行いは、NYに来たことと、フラナガンとの結婚だ。

  「私はアイオワ州エイムズからNYにやって来ました。父が転々として落ち着いたのがアイオワだったので。生まれた場所はケンタッキー州ラッセルビルで、そこから、テネシー州クラークスビル、ケンタッキー州ホプキンスビル、ノースキャロライナ州、ゴールズボロなど色んな場所に移り住んで育ちました。父はセールスマンで保険や紳士服、冷蔵庫、色んな営業マンをして、ナショナル・キャッシュレジスターにも務めてました。物静かで、洞察力があり優しく上品な人でした。父の名前はウイリアム・キルシュナー、スコットランド、アイルランド、ドイツの血を引いています。トミーも私も、父がテネシーに住んだことがあったので、テネシーの言葉使いが一緒だったんです。例えばテネシーでは「靴べら」のことを「スリッパのスプーン」と言うんです。父は1971年に亡くなりました。

B00000GWXL.01_SL75_.jpg 母は老人ホームで暮らしており、もうすぐ90才です。フィラデルフィア出身で名前はルース・ステットスンと言います。母方の祖父はイングランド人で、祖母はフランスとアイルランドの混血、母はいつも音楽や書物が趣味でした。ウイットがあり、感情の起伏の大きい人でした。私はアイオワ大学で奨学生として2年間音楽を学び、NYに出てきたのは1949年です。ずっと、自分の落ち着く場所はNYだと思っていました。9-10才頃、1939年のNY万博に連れていってもらってからずっとそう思っていました。NYに行ってからはコロンビア大の演劇科に進みました。それとは別にバイオリニストや歌手もやりました。芸名はダイアナ・ハンター…ああカッコ悪い! NY界隈で歌ったり、エリオット・ローレンスやクロード・ソーンヒルの楽団とツアーもしたわ。ソーンヒルは私にとても親切でした。今でも彼のプレイはビューティフルです!”スノウ・フォール”とか、夢見るようなシングルノートのサウンドがいいわね。

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  1956年、私はエディ・ワッサーマンというテナー奏者と結婚しました。彼はジュリアード出身でチコ・オファレル、チャーリー・バーネット楽団で活動、ジーン・クルーパー・カルテットにも長いこと在籍していました。私は1962年にプロ歌手を引退し、エディとは1965年に離婚しました。それからシティ・カレッジで国語の学位を取得し、バンクストリートで教育学を学んで教師になり、最初はベドフォード・スタイブサント、そしてサウス・ブロンクスで10年間、音楽、英語、黒人学などの教鞭を取りました。教師の仕事は、トミーと結婚する直前の1976年まで続けていました。
 私とトミーは、本などを読み聞かせし合うんです。私が興味のあることはなんでも興味を持ってくれるし、彼が興味の持つことは、私も面白いんです。スポーツ以外ですけどね。

Rainbow_room.jpg 彼の優しさや物静かなところは見せかけです。本当は強い男性です。とても気骨があり、面白くて、一緒に暮らすには最高の伴侶です。彼の発言には、どれも表と裏の2重の意味があって、尖っているのよ。二人だけのゲームをしたり、一緒に笑ってばかりいます。彼はダンスもするんですよ。ちょっとしたタップダンスや、サイドシャッフルなんかをこの辺りで踊るの、人前では絶対にしませんが。昔デューク・エリントン楽団を聴きに”レインボー・グリル”(訳註:ロックフェラーセンターの高級展望レストラン 左写真)に行ったことがあって、彼は私をダンスフロアに誘ってくれたのだけど、同じ所に突っ立って左右に身体を揺すってるだけだったわ・・・

 夜が更けたら、彼の伴奏で、今も時々歌ってます。今じゃもう誰も知らないような曲を私たちは沢山知ってるんですもの。」

(抄訳)

原書 ”American Musicians II: Seventy-one Portraits in Jazz, POET (pp 455-pp 461)”  Whitney Balliett 著  Publisher: Oxford University Press,

 Jazz Club OverSeasでは、寺井尚之メインステムがトミー・フラナガンを偲ぶトリビュート・コンサートを誕生月3月と逝去月11月に、開催しています。ぜひ一度お越しください。

“トミー・フラナガン・トリビュートの前に読みたいAmerican Musicians(最終回)” の続きを読む

トミー・フラナガン・トリビュートの前に読みたいAmerican Musicians(2)

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<幼い頃、両親のことなど>

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    玄関のベルが鳴り、フラナガンが妻を家に招き入れた。

 「トミー、ごめんなさい!荷物が一杯で鍵がどこにあるかわからなくて…ブドウとクッキーを買って来たから、荷物をほどいたらお出ししますね。」

   山のような食料品を抱え、よろよろしながら彼女は言った。ブルネットの美人だ。その黒髪が透き通るように色白の顔を引き立て、ビクトリア朝絵画を思わせるが、声は夫より大きく、動きも倍は早い。

 フラナガンは再び腰掛けて語りだした。

 「心臓発作に襲われたとき、たいしたことはないと言われながらも、17日間入院した。禁煙し、酒を控え、体操も始めた。もっぱらウォーキングするだけだが…とにかく街中を正しいペースで歩く。これは郵便配達だった父親の遺伝かもしれないな。子供の頃、兄弟で父が郵便を配達するルートを計算してみたら、少なくとも10マイル(16km)あった。父は郵便配達の前はパッカード自動車会社で働いていた。とにかく大恐慌時代の行政のほうがずっと手厚かった。

cob651.jpg 僕の父は1891年、ジョージア州のマリエッタの近くで生まれた。第一次大戦で、陸軍に入隊し、終戦後に北部へ移住した。その前はフロリダやテネシーを転々とした。父と僕は背丈も同じでそっくりなんだ。若いうちから禿げていたしね。父も音楽が好きで、カルテットを組みスパッツ姿で歌っていた。ギターを抱えた父の写真を見たことがあるが、実際に弾くのは聴いたことがない。6人兄弟、そのうち男が5人で、僕が末っ子だ。5人もいる男の子をちゃんと躾けるのは大変だから、父は規則をつくって、いつも僕達を厳しくチェックした。悪さをすると、地下室に入れて、特権を剥奪する決まりもきちんとあった。でも父は、まともな人間になるにはどうしたらいいかを完璧に教えてくれた人だった。それに父はある種のユーモアのセンスも持っていた。ジョークを言い始めると、自分でウケて大笑いするんだけど、絶対にオチがないんだ。

53373582.jpg   母の名はアイダ・メイ、小柄で美しい人だった。1895年、ジョージア州のレンズ生まれで、父と同時期に北部に移住してきた。母はインディアンとの混血だ。両親は20才になる直前に結婚し、母は教会の仕事を沢山していた。実際にデトロイトの僕達の地域(コナントガーデンズという黒人居住区域)に教会を開いたのは僕の両親だ。母のほうが父より音楽好きで、アート・テイタムやテディ・ウイルソンも知っていた。僕がそんな人たちのレコードをかけると、『それ、アート・テイタム?』『あら、これはテディ・ウイルソンでしょ?』なんて言うから、僕は嬉しくなったもんだよ。
 母は独学で譜面を読んだ。おっとりしたシャイな人で、料理や洋裁がすばらしくうまかった。僕らの洋服や、綺麗なパッチワークのキルトを縫ってくれた。1930年代の暮らしは決して楽ではなかったはずだが、母は生活苦をスイスイ乗り切って、僕たち家族に不自由を感じさせなかった。milkdoor.JPG母は1959年に亡くなり、父も1977年に86才で亡くなった。父の晩年には、長男のジョンスン・アレキサンダー・ジュニアが父の家で同居し最期を看取った。兄夫婦は今でもそこで暮らしている。姉のアイダは医院で働いていたが今は隠居している。姉には7人子供がいて、末っ子は双子だ。別の兄ジェイムズ・ハーベイは最近亡くなり、ダグラスはデトロイトの教育委員会で働いている。ルーサーはランシングに住み地域の社会福祉の仕事をしている。父の家は玄関と裏側に両方ポーチがあり今は柵で囲ってある。2階と1階に2部屋ずつ、合計4つベッドルームがある。台所口にはミルク・ドアといって、牛乳配達に空ビンを出しておく郵便受けのようなものがある。

 

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  僕が幼い頃、辺りは凄く田舎で、道は舗装されてなかったし両側に深い溝が掘ってあった。舗装されたのは1930年代の終わりだったし、地域に学校はなかった。だから、小学校は徒歩1マイル、ハイスクールはバスを2つ乗り継がねばならなかった。学校は人種混合だったが、当時のデトロイトには至るところで激しい人種差別があった。勿論、その結果が1943年の人種暴動だった。この家にはずっとピアノがあった。僕はピアノの椅子にハイハイしてよじのぼれるようになると、すぐピアノで遊び出した。6才のクリスマス・プレゼントに兄弟全員が楽器をもらった。僕はクラリネット、他の兄弟はバイオリンやドラム、サックスなどをもらったから、兄弟でちょっとしたバンドを作り、変てこな音楽を演っていた。だけど、クラリネットは余り気に入らなかった、音を出すのが凄く難しかったから。でもクラリネットのおかげで、譜面が読めるようになったのさ。ラジオのクラリネット教室の講師、マッティ先生にフィンガリングの譜面を申し込んでね。学校でも番組と同じ譜面を教材にしていたから、ラジオで勉強していて、中学に上がるまでにはちょっとは吹けるようになっていたよ。高校に上がったら、学校のバンドに入っても、へたに聞こえず溶け込めるくらいにはなっていた。

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 ピアノのレッスンを始めたのは10才か11才位でバッハやショパンを習った。地元で有名な先生、グラディス・ディラードに指示した。彼女の教室は凄く大きくなり、やがて学校を開設して講師を7-8人抱えていた。最近デトロイトでソロ・コンサートを演った時、彼女に会ったがとても元気そうだったよ。でもクラシックを習っていても、僕が聴いていたのはファッツ・ウォーラーやテディ・ウイルソン、アート・テイタム、それに色んなビッグバンドだった。高校時代になると、バド・パウエルが定着していたし、ナット・キング・コールも同じくらい基本になっていた。ナット・コールは、洒落ていてすっきりしたテクニックと、鮮やかなアタックがテディ・ウイルソンと共通していた。それに、すごくスイングしてどの音も弾けるようにバウンスしていた。

<朝鮮戦争>

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  僕は朝鮮戦争から逃げなかった。終戦間近に徴兵され陸軍で2年過ごした。基礎訓練を受けたのは韓国と同緯度にあるミズーリ州のレオナードウッド基地で、そこは地形まで似せてあった。訓練の終了前に、僕の訓練任務が短縮され戦地に派遣されることになっていた。まさに悪夢だったが、ちょうど、基地の余興のショウでオーデションがあることがわかった。そのショウにピアニストの出番があって、応募したらうまくパスしてミズーリに留まれた。だが1年ほどしてからやはり派遣された。僕はすでに映写技師として訓練されており港町、クンサン(群山)に着任した。戦時下だったから、深夜や早朝に、あの北朝鮮の戦闘機が我々のレーダーをかいくぐって空襲してきた。僕らは空襲に「ベッドチェック(就寝検査)・チャーリー」という名前を付けていた。軍隊のキャリアでただひとつ良かったことは、ぺッパー・アダムス(bs)としょっちゅう出会えたことくらいだな…

pepper-adams.jpg(Pepper Adams バリトンサックスの名手:デトロイト出身 1930-86)

 妻の ダイアナ・フラナガンがブドウとジンジャークッキーを盛った菓子盆を持って居間に入ってきた。フラナガンはクッキーを2枚取り礼を云うと、彼女は台所に戻った。フラナガンは2枚のクッキーを平らげ、ブドウも少しつまんだ。しばらくの沈黙をおいてから、彼はさらに語り続ける・・・ (続く)

 

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トミー・フラナガン・トリビュートの前に読みたいAmerican Musicians(1)

Jazz-Poet.jpg トミー・フラナガン(1930-2001)の誕生月、3/15(土)に、寺井尚之(p)メインステムが名演目をお聴かせするコンサートを開催します。その華麗な楽歴の中でも最高レベルのアルバム『Jazz Poet』(’82)から、”ジャズ・ポエット”はフラナガンの代名詞になりましたが、この名付け親は”The New Yorker”のコラムニスト、ホイットニー・バリエットという人で、1950年代からフラナガンのことを”Poet :詩人”と呼んでいた。

03Balliett.jpg ご存知のように、”The New Yorker”は、音楽雑誌でもタウン誌でもなく、世界的な影響力を持つ文芸誌、歴史的カリスマ編集長、ウィリアム・ショーンの厳格な統括時代は、ゴシップ記事皆無、格調高い編集ポリシーで(にもかかわらず?)週刊誌として広く愛読されてた一流誌。「これさえ読んでりゃあんたもインテリ!」みたいなブランド力がありました。バリエットは40年間、ここでジャズや書評のコラムを書き、長文、短文、署名、無署名併せて550篇の記事があります。だからジャズの記事でも、文学的な比喩が多いし、少々難しいかもしれないけれど、いわゆる「ジャズ評論家」とは少し違った文章が味わえます。もとより音楽誌ではないので、村上春樹が「意味がなければスイングはない」で、当代一番評価の高いジャズ・アーティストを「うさんくさい」と書いたのと同じように、業界の通例に従う必要のない自由闊達さがいい感じ!これから紹介するのは『Poet』というタイトル、フラナガンがエラの許から独立した1970年代の終盤に書かれたフラナガンのポートレート。勿論インタビューもあります。バリエットは、テープを一切回さず素早くメモしながら取材する伝統的職人芸。フラナガンとバリエットが個人的に親しかったのは、そういうアナログなところが好きだったのかも・・・

 原書は、彼が自分のコラムを一冊の本にまとめた『American Musicians Ⅱ』、ジェリー・ロール・モートンからセシル・テイラーまで、アメリカの音楽、すなわちジャズに関わる実に71人の一味違ったポートレート集。ずっと以前に、レスター・ヤングの章も紹介しています。英語がお得意で、ジャズと文学がお好きなら、ぜひ原書で読んでみてください。

<POET 詩人>

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 <シングル・ノートの系譜>

EarlHines.jpg 叙情的でホーンライクなシングルノートを身上とするピアニストの系譜、その源流はアール・ハインズである。カウント・ベイシーの言葉を借りるなら、かれらは『ピアノの詩人』だ。その先駆者はメアリー・ルー・ウイリアムスかもしれない。ジェリー・ロール・モートン、ファッツ・ウォーラー、ハインズ、アート・テイタムから色々吸収した後に、バップ・ピアニストとなり、同時にビバップを教える師となって、セロニアス・モンクやパウエルと共に、ピアノ奏法の若き革命家として活動した。次に現れたのがテディ・ウイルソンである。(テイタムはそれより数年早く登場しているが、もっとオーケストラ的なピアニストだ。)

teddy_wilson_2.jpg ウイルスンの静かではあるが、殆ど数学的な無敵の右手パターンはピアノ・スタイルの一大ジェネレーションを形成することになる。この世代に属するのはビリー・カイル、ナット・キング・コール、ハンク・ジョーンズ、ジミー・ロウルズ、レニー・トリスターノたちだ。カイルの右手は断続的な破線を表現し、肝心かなめのフレイズの最初の音符に強烈なアクセントを付けるというところが特徴だ。一方、ナット・キング・コールは’40年代には、ジャズ界で最もビューティフルなピアニストであった。そのタッチ、いともやすやす繰り出される驚異的なラインの数々、心憎い独特のリリシズム、そのプレイがキラキラと輝いていた。透明感のあるタッチということでは、ハンク・ジョーンズも同じだが、彼の場合はテディ・ウイルソンの右手のタッチを、一層モダンに、そしてソフトにしたスタイルだ、ジミー・ロウルズは、ウイルソンとテイタムを併せ、そこに独特のウイットと鋭いハーモニー・センスをブレンドして、ルイス・キャロル(訳注:不思議の国のアリスの作者)やエドワード・リアー(ルイス・キャロルに影響を与えたと言われているナンセンス詩人&画家)を彷彿とさせるようなシングルノートを得意とする。トリスターノは、ウイルスンやテイタムとは、異なった奏法を追求し、悪魔的な力で、息継ぎも、一部の隙も無いメロディクなラインを創造した。ジョン・ルイスとエロール・ガーナーは「ハインズ-ウイルソン世代」の最後を飾る、最も風変わりなピアニスト達だ。言わばジョン・ルイスは点描派であり、エロール・ガーナーは野獣派であった。ピアニスト達は、ハインズの豊かな音楽性に、ありとあらゆるものを見出したわけである。

Bud_powell81.jpg ‘40年代半ば、ビリー・カイルとアート・テイタムから生まれたバド・パウエルは、ピアノの新世代を魅了した。彼のシングルノートは緊張感に満ち、硬質で、スイングする。特にアップテンポでは、荒々しく、超速の閃きを見せた。このバド・パウエルの信奉者は2つのグループに分けられる。一つは初期のビバップのピアニストたち、ドド・マーマローサ、アル・ヘイグ、デューク・ジョーダン、ジョー・オーバニー、ジョージ・ウォーリントンなどのグループだ。もう一つは、彼らよりもっと若く、もっとオリジナリティのあるピアニスト集団で、ホレス・シルバー、トミー・フラナガン、バリー・ハリス、そしてビル・エヴァンスたちがいる。(50年代に登場し、パウエルに追従しなかった例外的ピアニストは2人いる。デイブ・マッケンナとエディ・コスタだ。)

Bill_Evans-Portrait_In_Jazz.jpg ビル・エヴァンスは、シルバー、トリスターノ、ナット・キング・コールといった人たちの要素に、独特の内向性を結び付けた。彼はやがて、バド・パウエル以降、最も影響力のあるピアニストとなったのである。’60年代以降に登場したピアニストで彼の影響から逃れられた者はほとんどいない。

<トミー・フラナガン登場>

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 そして、二つの全く無関係な事件が相次いで起こった。ひとつめは、1978年にトミー・フラナガンが10年来携わったエラ・フィッツジェラルドとの仕事を辞めたこと。ふたつめは、1980年、エヴァンスが死去したことの二つだ。フラナガンはソロ・ピアニストとして、時にはトリオやデュオで再出発、ゆっくりではあるが順調な道を歩んだ。今では、影響力という点で、この非常に内気な男がエヴァンスの後継者となっている。

Jimmy-Rowles-Isfahan-550106.jpg   シングル・ノートの長老ピアニスト、ジミー・ロウルズはフラナガンについてこう語る。

 「トミーは凄いピアニストだよ。賞賛の言葉以外思いつかないな・・・伴奏者としてもソロイストとしてもね。よく一緒に”ブラッドレイズ” (訳注:NY大学の近くにあったジャズ・クラブでフラナガンが出演していた。朝までやっていて、仕事がハネたミュージシャンのたまり場だった。)で、うだうだ飲んだもんだよ。色んな曲をおさらいしたり、仕事のぐちや噂話をしたりしてね。彼のレパートリーの広さには舌を巻くよ!今どき『鈴掛の木の下で』を知ってるピアニストが何人いると思う?!

 トミーはね、 ちょっと水くさいところもある、何でもあけっぴろげにするのが嫌な性格なんだ。だけど面白い奴だよ。会ったら「近頃どうだい?」って挨拶するだろ?すると、『ああ、僕の持ち物(訳注:tools: ピアノや仕事、そして男性のシンボルも併せて…)で、最善の効果を挙げようと鋭意奮闘中だ。』 なんてね!」

 03_bradleys-sm.gif  “ブラッドレイズ”のオーナー、ブラッドレイ・カニングハムはこう語る。

 「トミーは礼儀正しいし、それでいてめっぽう面白い人だ。一緒に居て楽しいし、プレイはそれ以上に大好きだよ。10年ほど前の、ニューポート・ジャズフェスティバル期間中、エラの仕事にしばらく空き日があり、トミーをうちの店に雇ったことがあった。ジョージ・ムラーツとデュオでね。ところが初日に一人の客も来なかった。うちの客も知り合いも、誰も来なかった。この業界で長くやってると、そんなこともあるから、私だって承知の上さ。成す術なし!せいぜい、”お手上げ”のジェスチュアをするのが関の山だ。トミーとジョージは周りを見回してから、顔を見合わせているばかりだったよ。しかし、この二人は音楽的に一体だった。その夜、閉店後、二人がちょっと演奏したんだが、それは、今までに聴いたこともないほど独創的でスイングする音楽だった。ピアノ弾きというものは、まず聴く者を笑わせ、それからおもむろに、笑ってた同じ心が感動で張り裂るようなプレイをしなければならない。トミーの演奏は、まさにその手本だ。」

 

 <アパートにて>

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  フラナガンは中肉中背だ。禿げ頭の裾野に白髪が残っていて、その頭に釣り合いのとれた濃い口髭を蓄え、シャイな目元に眼鏡をかけている。話す時には、首を右にかしげ、部屋の左側に目をやる、あるいは左に首をかしげ、部屋の右側に目をやる。彼の握手は柔らかく、声も同じく柔らかで、その言葉は人をはぐらかせる。しかし、そういう態度の大部分はかりそめの姿だ。彼は端正でえくぼの入る微笑みを見せ、よく笑う。フラナガンは妻ダイアナとアッパーウエストサイドに住んでいる。アパートは南向きで昼間は太陽がさんさんと差し込む。窓辺にはレースのカーテンが掛かり、ロイヤルブルーのベルベットのソファが置かれ、ダイアナ・フラナガンの蔵書が壁の一方を埋めている。そこにはアンドレ・マルロー、ジューン・ジョーダン、アレック・ワイルダー、ポール・ロブスン、ジャイムズ・アギー、デューク・エリントン、メイ・サートンなどの著作が並んでいる。 

 或る午後のひと時、フラナガンは、その居間に座り自分自身について語った。その話振りはとても遠慮がちで、まるで今初めて会った人間について語っているかのようだった。

 フラナガンは1930年、デトロイトに昔からある黒人居住区、コナントガーデンズに生まれた。’40~’50年代にデトロイトで音楽的才能が大量に噴出したのは、当時デトロイトの過酷な人種差別状況に対する、婉曲な代償であったのかも知れない。

 <回想>

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 その時代のジャズ・シーンは、フラナガンの思い出として心の中で今も輝き続けている。

MusicANDWillie.jpg 「デトロイト出身者には、ミルト・ジャクソン(vib)、ハンク・ジョーンズ(p)、ラッキー・トンプソン(ts,ss)のように、早くから町を離れ、ときおり演奏の仕事で町に戻ってくる先輩達が居る一方、ウイリー・アンダースン(p)のように地元に残るミュージシャンも居た。アンダースンは長く美しい指を持ち、独学でベース、サックス、トランペットを演奏する事ができた。ベニー・グッドマンにスカウトされても、彼は一緒に行こうとしなかった。多分字が読めないことが恥ずかしかったのだろう。その下が僕達の一団だ。僕より後輩もいたし、早まって町を出るのをよしとしない先輩もいた。名前を挙げると、僕の同窓生のローランド・ハナ(p)、ポール・チェンバース(b)、ダグ・ワトキンス(b)、ドナルド・バード(tp)、ケニー・バレル(g)(ケニーはオスカー・ムーアが大好きで、僕らはナット・キング・コール・スタイルのトリオを結成したことがある。)、ソニー・レッド・カイナー(as)、バリー・ハリス(p)、ぺッパー・アダムス(b)(ペッパーはロチェスター高校出身で、最初会ったときはクラリネットを吹いてた。)カーティス・フラー(tb)、ビリー・ミッチェル(ts)、ユセフ・ラティーフ(ts,etc…)、テイト・ヒューストン(ts.bs)、フランク・ガント(ds)、フランク・ロソリーノ(tb)、パーキー・グロート、サド・ジョーンズ(cor)にエルビン・ジョーンズ(ds)(ふたりともハンク・ジョーンズの弟でデトロイトから少し離れたポンティアック出身だ。)アート・マーディガン(ds)、オリバー・ジャクソン(ds)、ダグ・メットーメ(tp)、フランク・フォスター(ts)(出身はシンシナティ) 、 ジョー・ヘンダースン(ts)、JRモンテローズ(ts)、ロイ・ブルックス(ds)、ルイス・ヘイズ(ds)、ジュリウス・ワトキンス(french horn)、テリー・ポラード(p.vib)、ベス・ボニエ(p)、アリス・コルトレーン(p)… 歌手ではベティ・カーター、シーラ・ジョーダンという連中だ。ミュージシャンが集まり、ザ・ワールド・ステージ・シアターという劇場で毎週コンサートを主催した。僕らはまた<ブルーバード・イン>、<クラインズ・ショウバー>、<クリスタル>、<20グランド>といったクラブや、<ルージュ・ラウンジ><エル・シーニョ>といった店でも演奏した。エル・シーニョはチャーリー・パーカーが出演した店だ。10代の頃、僕らははパーカーがその店に出演するというと、みんなでバンドスタンドの脇にある網戸の外につっ立って、中を覗き込んだもんだよ。そんな生活が’50年代半ばまで続き、やがて皆、町を去り始めた。ビリー・ミッチェルはディジー・ガレスピー楽団に、サド・ジョーンズはベイシー楽団、チェンバースはポール・キニシェット楽団、ダグ・ワトキンスはアート・ブレイキー、ルイス・ヘイズはホレス・シルバーのバンドに落ち着いた。僕は1956年頃までデトロイトに居て、それからケニー・バレルとNYへ出ていった。

<NYへ>

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  その当時は、まだアップタウン(ハーレム)でジャムセッションが行われていた。月曜は<125クラブ>、火曜は<カウント・ベイシーズ>水曜は<スモールズ>だった。ジャムが自分の実力を世間に披露するのに最適な場所だ。もちろん新入りは、出番が回ってくるまで長いこと待たなくてはならない。時には午前3時、4時までバンドスタンドに上がれないときもあった。だが、NYにきてたった数週間で初レコーディングの仕事をした。レーベルは”ブルーノート”、アルバム・タイトルは<デトロイト-NYジャンクション>で、ビリー・ミッチェル、サド・ジョーンズ、ケニー・バレル、オスカー・ペティフォード、シャドウ・ウイルスン(ds)の共演だった。その後すぐに、マイルズ・デイビスやソニー・ロリンズとも録音した。コールマン・ホーキンスとの出会いはマイルズの紹介で、彼ともレコーディングした。初めてのナイトクラブの仕事は”バードランド”だ。バド・パウエルの代役を頼まれたんだ。同じ年の7月、ニューポート・ジャズフェスでエラ・フィッツジェラルドと初めて共演した。それからJJジョンスンのバンドで1年間やって、ヨーロッパ全土を楽旅した。その後はNYに留まり、色々なところで演奏したりレコーディングした。

  1960年に最初の妻、アンと結婚したが、70年代の初めに離婚した。私達の間には3人の子供がいる。トミーJr.はアリゾナ在住、レイチェルとジェニファーは二人とも子供をもうけて、カリフォルニアに住んでいる。アンは1980年に自動車事故で亡くなった。

<エラ・フィッツジェラルドと>

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  1962年、エラと2度に渡る長期の仕事の一回目が始まり、’65年まで続けた。その後1年間はトニー・ベネットと共演した。その頃には西海岸に移住していた。その後は「カジュアル」-いわゆるクラブギグを専ら演っていた。西海岸の仕事は手堅い。というか、派閥が強くて排他的だった。エラもカリフォルニアに住んでいて、1968年に、再びエラから声がかかった。以来10年間彼女のミュージカル・ディレクターとして落ち着いた。彼女のことをよく知ってしまえば、これほど一緒に仕事をやりやすい相手はいない。だけど最初のうちはきつかったよ。とにかくいつクビになるか不安で危なっかしい。例えば僕が少しでもミスしようものなら、「もしこれからもこんなブサイクなことになるんだったら、仕事がなくなっちゃうじゃないっ!」と言われるんだ。だから、しっかり演奏しなければと肝に銘じた。何しろ僕はエラのミュージカル・ディレクターなんだし、彼女の引退が僕の責任だなんてまっぴらだったからね。

 でも彼女は僕たちの誕生日だって絶対に忘れることはない。エラの為に働くというのは、他の歌手の伴奏とは全く違っていた。求めるレベルがずっと高度だ。彼女のイントネーションは完璧だった。ジム・ホールが以前、彼女の声はチューニングできるとまで言ってたよ。僕は楽旅することがキツくなり、1978年に心臓発作にやられたこともあって、とうとう辞めたんだ。」 (続く)

ビリー・ホリディを彩る二人のアイリーン(2):Irene Higginbotham

 510f25a6.jpg  ジャズ史上に残るビリー・ホリディの名演目”グッドモーニング・ハートエイク”、失恋の苦しみを忘れることが出来ない。そんなら逃げるのはやめた!これからは「哀しみ」と手に手をとって歩いて行くんだ・・・捨てられた女の花道だ!涙の海の向こうの地平線のような歌の心は、70年経っても色褪せません。まるで普通に話しをしているような自然で胸を打つメロディーの作曲者が、もう一人のアイリーン(Irene Higginbotham: ヒギンボサム)です。 

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 Irene Higginbotham (1918- 1988)

Jay_Higginbotham,_Jimmy_Ryan's_(Club),_New_York,,_between_1946_and_1948_(William_P._Gottlieb_04121).jpg 長らく”Some Other Spring”の作者、アイリーン・ウィルソンと混同されて、ルイ・アームストロングなどと共演したトロンボーン奏者、J.C.ヒギンボサムの姪であることくらいしかわからなかった謎の作曲家でしたが、一昨年末にChet Williamson(チェット・ウィリアムソン)がマサチューセッツ州ウースター出身の作曲家を語る自己ブログ「Worcester Songwriters of the Great American Songbook」に、これまでの決定版といえる情報を掲載してくれました。ウィリアムソンは”The New Yorker”や”Esquire”誌に寄稿する作家で、ミュージシャン、役者として舞台活動するマルチ・タレント。女優の岸田今日子さんに似た上の写真もこのブログから拝借しました。 

 彼のブログを読むと、ビリー・ホリディと私的に親しく、彼女に相応しいカスタム・メイドの歌を作曲したアイリーン・ウィルソンに対し、ヒギンボサムは職人的な作曲家だったようで、その存在が謎に包まれていたのは、様々なペンネームで作曲活動をしていたからでした。その理由としてあげられるのが、1940年代の「レコーディング禁止令」、ASCAPに所属していた彼女が、ラジオ放送可能なBMI著作権団体に帰属する作品を書くための苦肉の方策だったんでしょうね。

 ASCAPの資料によると、ヒギンボサムはウースターで生まれた後、ジョージア州アトランタに移り、5才でピアノを、13才で作曲を始め、クラシックのコンサート・ピアニストとしてもデビューした。クラシックの作曲家について作曲技法も学び、歌って弾けて作編曲の才もあったのに芸能界は難しい。なかなか職業音楽家としてブレイクできず、NYのビジネス・スクールで速記術を身につけ、事務の仕事に就きながら音楽を続けた。

<ブギ・ウギからロックン・ロールまで>

atamp_stanpy.jpg   彼女が所属していた芸能エージェントがジョー・ディビスという海千山千の策士で、著作料収益を稼ぐための一計を案じました。彼の抱える作曲家達でチームを編成し、彼らの作品の一部をグレン・ギブソンというペンネームで発表したんです。複数の作曲者に多額の印税収入を分割する体裁をとれば節税できるというわけです。グレン・ギブソンは1940年代から’50年代にかけてR&Bの人気グループ”スティーブギブソンレッドキャップス“などでヒット曲を連発しており、ヒギンボサムも相当数の作品をギブソン名義で書いていた。

 それ以外にも、ブギウギの名曲をピアノ用にアレンジした譜面集や、歌って踊る人気コメディ・コンビ、”スタンプ&スタンピー”の持ち歌、果てはCMソングまで、驚くほど広範囲の作曲を手がける本物の職人でした。

<Goodmorning Heartache>

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51ALLDF25jL._SL500_AA280_.jpg ヒギンボサム名義の作品を探してみるとあるもので、古くはコールマン・ホーキンスが若いころ共演していたブルース歌手、マミー・スミスの”No Good Man”や、寺井尚之が大好きなナット・キング・コールの”This Will Make You Laugh”など、やっぱりいい歌が揃っています。 名曲”グッドモーニング・ハートエイク”は、”Perdido”や”Tico Tico”などのいわゆる「後付け」の作詞によってヒギンボサムと比較にならない名声を得たアーウィン・ドレイクとの共作。この二人と並んで作者としてクレジットされているダン・フィッシャーは音楽出版会社のプロデューサーですから名目上の作者だと思われます。

 今年95才になる作詞家ドレイク自身は、ちょうど失恋の矢先だった。結婚を決めていた美しいコーラス・ガールの恋人が彼を捨て、お金のある実業家の元に去ってしまった。絶望で眠れない夜が続いているとき、ヒギンボサムの曲が心に響き、自分の心を投影したのだといいます。「女の歌」にしか聞こえない歌詞は、男の心情だったんですねえ。

 出来上がった曲をビリー・ホリディに売り込んだのがダン・フィッシャー、ホリディはたいそうのこ歌が気に入って、「ぜひストリングスを入れて歌いたい!」と言った。 そしてこの歌が、彼女にとってストリングスとの初共演になりました。レコーディングは作詞家のドレイクがスタジオ入りして、ホリディの傍らで立ち会った。あのデッカ盤はワン・テイクのみで録音完了、さらに1956年、トニー・スコットOrch.と最録音、ホリディの歌唱は一層円熟していた・・・

 

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 余談ですが、フランソワーズ・サガンの「悲しみよ、こんにちは」ってご存じですか?最近、オットー・プレミンジャー監督映画をまたまた観たのですが、ショートヘアにマリンルック、シックなドレス・・・、’50年代の映画なのにソール・バスのタイトル・デザイン(右)が象徴するように、不滅なおしゃれ感覚で目が離せませんでした。

 原題は”Bonjour Tristesse”、英語にすると、”Goodmorning Heartache”、ビリー・ホリディを愛したフランス文学ですから、何か関係があるのかな・・・とずっと疑問に思っていたのですが、このフランス語原題の元は、同じフランスの大詩人で、プーランクの歌曲の作詞も沢山手がけたポール・エリュアールの「直接の生」という詩の一節から取ったものだった。

 この詩は1938年に作られていて、「悲しみよ、さようなら、悲しみよ、こんにちは・・・」が冒頭のことばですから、ひょっとすると、ドレイクもサガン同様、言葉のトップ・アーティストだったエリュアールのポエムをヒントにしたのかも知れない。

 ホリディの”Goodmorning Heartache”は発売当初、ラジオのヒットチャートの上位にランキングされることはなく、1970年代にダイアナ・ロスが「ビリー・ホリディ物語」に主演してカバーしたレコードは、その何倍ものセールスを記録した。大ベストセラー、サガンの「悲しみよ、こんにちは」の印税は日本円にして340億円だったそうですが、私には関係ない。


<グッド・モーニング・ハートエイク>

おはよう、悲しみさん、
いつも鬱っとうしい様子だね。
おはよう、悲しみさん、
昨日の夜、さよならしたはず。
あんたの気配がなくなるまで
寝返りばかり打っていた。
それなのにまた
夜明けと共に戻ってきたのね。

忘れたいのに、
あんたはどっかり居座ってる。
最初に会ったのは
恋に破れた時だったっけ。
今じゃ毎日、
あんたへの挨拶で
一日が始まる
悲しみさん、おはよう、
調子はどう?・・・(後略)

原歌詞はこちら。

対訳ノート(42) Blues for Dracula

先週の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」、チャラ男系の巨匠ドラマー、フィリー・ジョー・ジョーンズの『Blues for Dracula』(Riverside)で、大いに楽しみました。フィリー・ジョー自らブラッシュでパタパタパタとコウモリの羽音でイントロを奏でてから繰り出すドラキュラ伯爵のモノローグ。
 
 ジョニー・グリフィン(ts)、ナット・アダレイ(cor)、ジュリアン・プリースター(tb)、ジミー・ギャリソン(b)、トミー・フラナガン(p)という申し分のないフィリー・ジョーのセクステット(訳詞にある「夜の子どもたち」)が奏でるこのブルーズはグリフィン作、本録音の4ヶ月前には”Purple Shades“というタイトルで、『Art Blakey’s Jazz Messengers and Thelonious Monk』(Atlantic ’58)に収録されています。
 足跡講座では、まず構成表でプレイの組み立てを頭に入れておいて、レコードを聴きながら、下の対訳表をモノローグに沿って映写しました。
 お時間があれば、下の音源と対訳表で、OverSeasの足跡講座の気分を、私と一緒に味わってみませんか?

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  フィリー・ジョー・ジョーンズはこのレコーディング以前、2年間”Prestige”でハウス・ドラマーのような役割をしていました。オーナーのボブ・ワインストックに、「もういい加減自分のリーダー・アルバムを作ってくれ」と掛け合ったが、ワインストックは首を縦に振らなかった。「そんなら、うちで演らないか?」と声をかけたのが”Riverside”のオリン・キープニュース、初リーダー作録音の休憩中に、ふざけてやってたチャラ男のドラキュラ・ネタがあまりにも面白かったので、ブルーズに乗せて録音、『Blues for Dracula』がそのままアルバム・タイトルになったと言われています。
 でも、このモノローグはとてもその場でやったとは思えないほど、しっかりした作りになっている。『ビバップ・ヴァンパイア』や『夜の子供たち』は、ヘロインの禁断症状に悩むバッパーだとすぐにわかるけど、そんなジャズメンを脅して生き血を吸うクラブ・オーナーこそが、「ほんとはコワいんだぞお~」というオチが最高です。
 
view_from_within_the.jpg ”Riverside”のプロデューサー、オリン・キープニュースはフィリー・ジョーや、このモノローグの本家、レニー・ブルースとベラ・ルゴシのドラキュラについて、面白いことを書いていました。 
 「レニー・ブルースのスタンダップ・コメディが、とりわけジャズ・メンに愛されたのは、彼らを取り巻く環境がよく似ていたからだ。5時に終わる仕事なら、それからカクテルでもすすりながらほっと一息つく場所はどこにでもある。だが、午前2時や4時に仕事が終わる人間にとって、仕事帰りにくつろげる場所は非常に限定されてしまうんだ。
 彼らはオールナイトの映画館で朝まで過ごし、TVの深夜映画を観て、否が応でもB級映画に詳しくなってしまった。ベラ・ルゴシへの愛と理解は、正にレニーとフィリー・ジョーが共有するものだった。」
(”The View from Within:Jazz Writings 1948-1987″ Orrin Keepnews著/ Oxford University Press刊)