9/28(土):寺井尚之The Mainstem、音楽のおしながき

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 残暑厳しい9月も終盤、今年の月は美しかったですね!夜明けにマンションのベランダに出ると、東に朝日が上り、西に十六夜(いざよい)の月が沈む神秘的な光景を観ました。その月の大きく白く美しかったこと!別世界のようでした。
 さて、土曜日は寺井尚之のイチオシ・レギュラー・トリオ、”The Mainstem”が出演します。
久しぶりに予定の曲目を教えてもらったので掲載!
<1st Set>

  1. Bitty Ditty (Thad Jones) ビッティ・ディッティ
  2. Out of the Past (Benny Golson) アウト・オブ・ザ・パスト
  3. Strictly Confidential (Bud Powell ) ストリクトリー・コンフィデンシャル
  4. Lament (J,J,Johnson)  ラメント
  5. Minor Mishap (Tommy Flanagan)マイナー・ミスハップ

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1st Setはサド・ジョーンズで始まりトミー・フラナガンで締めるデトロイト・ハードバップの王道です!
 1, 3, 4は、寺井尚之のアルバム”Dalarna” (’95) の収録曲。このアルバムも9月の末にレコーディングしたもので、秋の日差しや空気にぴったりな感じがします。
<2nd>
  1. Moon and Sand (Alec Wilder) ムーン&サンドPaper Moon 2.jpg
  2. Moonray ムーン・レイ (Artie Shaw)
  3. It’s Only a Paper Moon (Harold Arlen) ペーパー・ムーン
  4. Moonlight Becomes You ムーンライト・ビカムズ・ユー (Jimmy Van Heusen)
  5. Old Devil Moon オールド・デヴィル・ムーン (Barton Lane)
 2nd Setは、いろんな表情のお月様の名曲がいっぱい!
 1.は「変人」と言われることを厭わず、クラシックとポピュラーの両方で活躍した文人系作曲家アレック・ワイルダーの名作。夜の砂浜に輝く名月といった趣です、歌詞は対訳ノートに。
 2.はとても印象的なメロディ、トミー・フラナガン参加盤『Out of the Afternoon / Roy Hanes』のジョニー・グリフィン;ラサーン・ローランド・カークのプレイも心に残ります。冴え冴えしたピアノの音色とザイコウ、イッペイのハーモニーが映えるメインステムのヴァージョンは「美しきヴァンパイヤ」のイメージかな?
 3.は言わずと知れた名作、コニー・アイランドの遊園地の場面で歌われた初演ミュージカルは大コケでナット・キング・コールやエラ・フィッツジェラルドによってポピュラーになりました。作曲はハロルド・アーレン、作詞はE.Y.ハーバーグ。
 4.は寺井尚之のピアノ・タッチにぴったりの輝くバラード!”月光は君に似合うね“ なんて言われたことありますか?
 クロージングは先週の対訳ノートに書いたデヴィルな月、3同様にJ.J.ジョンソン・スタイルでキレッキレッにスイングさせることでしょう。
<3rd>
  1. Autumn Serenade (Peter DeRose)~The Tadd Walk (Tadd Dameron) オータム・セレナーデからザ・タッド・ウォークへ…
  2. Lonely Town (Leonard Bernstein) ロンリー・タウン
  3. Beats Up (Tommy Flanagan) ビーツ・アップ
  4. Autumn in N.Y. (Vernon Duke) ニューヨークの秋
  5. Tin Tin Deo (Chano Pozo, Gill Fuller, Dizzy Gillespie) ティン・ティン・デオ
 

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 ラストセットは、メインステムの秋景色、さりげない引用や挿入句は、もうすぐ終わる「あまちゃん」みたいに楽しくて奥深い。
爽やかな秋空から、夕焼けのセントラル・パーク、そして堺筋本町のちょっと寂しい秋の路地裏まで、いろんな秋の情景を!
寺井尚之メインステム・トリオ:宮本在浩 bass、菅一平drums
9月26日(土) 7pm-/ 8pm- / 9pm-
Live Charge 2,625yen (学割半額)です。
 おすすめ料理は、黒毛和牛の赤ワイン煮込 (税込)1,575円也
ぜひご来店お待ちしています!
 

対訳ノート(39) Old Devil Moon

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石川賢治氏撮影写真集「京都月光浴」より:銀閣寺にて石川賢治「月光浴」HPより転載しました。

 中秋の名月です!上の写真は「月光写真」の第一人者、石川賢治氏が撮影した京都、銀閣寺の月。美しいですね!(写真集「京都月光浴」より)   9月はOverSeasでも、「月」に因んだたくさんの名曲を寺井尚之(p)がお聴かせします。28日(土)のメインステム・トリオ(piano 寺井尚之、bass 宮本在浩、drums 菅一平)のライブ、きっと素晴らしい「月光浴」ができそうです!今日は、メインステムが演奏を予定しているジャズ・スタンダード、”Old Devil Moon”のお話を!

 <フィニアンの虹>

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 バートン・レイン作曲、E.Y.ハーバーグ作詞、この作品は、1947年から725回というロングラン記録を打ち立てたブロードウェイ・ミュージカル、『フィニアンの虹』の中のラブ・ソング。OverSeasにとっては、名盤、『Dial J.J.5』(J.J.ジョンソン5)のヴァージョンが決定版。

 ABC1, ABC2 48小節と変わった構成で、ブロードウェイの曲なのに、Verseもないユニークな曲。J.J.ジョンソンはラテンと4ビートを絶妙に組み合わせて、アウト・コーラスはCから始まる意表をついた演奏構成!これが、歌詞と曲想にぴったり!

 フランシス・フォード・コッポラの初期督作品『フィニアンの虹』の”Old Devil Moon”は夜空とボサノバのラブ・シーンですが、それよりずっと歌詞にぴったり来る感じがします。

 『フィニアンの虹』は古典的ミュージカルの名作だから、映画をご覧になった方も多いと思います。百万長者を目指し、金の壺をかかえてアイルランドからアメリカの小さな村にやってきた変なオジサン(フレッド・アステア)と美しい娘(ペトゥラ・クラーク)を中心に、壺の妖精の魔法が、村にドタバタ騒ぎを引き起こす。結局、人間の幸せってお金じゃないんだ、愛なんだ!というファンタジー系のお話、でもそのウラには拝金主義や、人種差別に対する強烈な風刺のあり、脚本には作詞のE.Y.ハーバーグが関わっていました。

 <E.Y.Harburg ファンタジーと反骨精神>

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E.Y.Harburg(1896-1981)

 エドガー・イップ・ハーバーグは開拓時代の移民の町、ロウワー・イーストサイド育ちのNYっ子。子供の頃は、夕方に街灯を点灯して回るアルバイトで小遣いを稼ぎ、シティ・カレッジ時代ではアイラ・ガーシュインと同級生でした。ジャーナリストとして活動したり、電気器具の会社を設立してみたり、色々やって、作詞家になったのは30代の後半です。

 作詞家としての最初のブレイクは1939年、ハロルド・アーレンと組んで音楽を担当した『オズの魔法使い』で”Over the Rainbow”はアメリカ準国歌と言えるほどの「みんなの歌」になりました。

 『フィニアンの虹』も『オズの魔法使い』も、子供から大人まで楽しめるファンタジーですが、どちらも、社会に対する強烈な風刺と皮肉を感じます。

 

<オールド・デヴィル・ムーンって何?>

 この”Old Devil Moon”という言葉、とてもひとことの日本語にはしにくいです。私の翻訳パートナー、ジョーイさんに伺ったらこんなアドバイスをいただきました。

「例えば“harvest moon”(中秋の名月)の夜は、魔法のようにロマンチックなムードになるでしょう。この歌の場合、主人公の女性の瞳の中に輝くロマンチックな月が、相手の男性に魔法をかけて虜にする。基本的に「月」というものは良い意味で恋の悪魔のような役割をするんです。」

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 なるほど、Max Wilk著 “They’re Playing Our Song”というインタビュー集にはこんな逸話がありました。

 E.Y..ハーバーグが『フィニアンの虹』に取り組んでいるとき、「オズの魔法使い」で一緒に仕事をした友人の作曲家ハロルド・アーレンが家に遊びに来た。イップがバートン・レインと一緒に取り組んでいる「フィニアンの虹」の楽譜を弾いて聴かせると、或る曲についてアーレンが、「これはイマイチだ」とダメを出した。それで、「じゃあこんなのは?」 と、バートン・レインに、彼がいじくっている曲を弾いてもらった。これが”Old Devil Moon”の原型だ。

 他の映画のために、別の歌詞を付けたんだが結局オクラになったものだった。するとアーレンはこの曲を絶賛してくれて、ハーバーグはこれまでの歌詞をボツにして新しいアイデアを探した。

「魔法っぽい感じの歌詞がいい、何となく気味が悪くて、ヴードゥー魔術を暗示するような詞にしよう!」そうして出来たのが”Old Devil Moon”。通常の32小節パターンと違う変わった構成でヴァースもない。でもこの曲は大ヒットした。オリジナルであること。それが名曲の秘密だ。

 

<オールド・デヴィル・ムーン>原歌詞はこんな感じE.Y.Hurburg / Barton Lane

わたしが…

あなたを一目見た途端、

その瞳の奥の何かの、

虜になった。

それは魔法のお月様

あなたが空から盗んできて、

瞳の中にキラキラさせてる

魔法の月。

あなたは、輝く月をチラリとさせて、

私の恋を熱くする。

夜空の星は

ピカピカ光を放つけど

あなたの魅力には

これぽっちも及ばない。

あなたは

魔法の絨毯に私を乗せて

恋の冒険に誘う、

私の心はドッキドキ!

泣きたいよ!歌いたいよ!

バカみたいにヘラヘラ笑いたい!

これはきっと

瞳の月の魔法のせいだ。

私の心が鳩のように

自由、

あなたの瞳の奥に輝く

魔法の月が

恋で私を

盲目にしたから。

 

  ハーバーグがファンタジー系の歌曲を得意としていたのは、現実のアメリカ社会にある格差や人種差別など、資本主義が生む不正に強く憤懣を思えていたからかも。

 1950年には社会主義者としてブラックリストに載せられ、電話だって盗聴されていたかも知れないけれど、うまく世渡りをして、ギリギリの「風刺」で社会の世相を判し続けました。 
 「私がグっと来るのは、本当に危険で根深い問題を、笑いによって突き崩すことが出来た時なんだ。」:E.Y.ハーバーグ。
  泣いて、歌って、笑いたい!今月今夜の中秋の名月を観て、OverSeasで聴きに来てくださいね!
オールド・デヴィル・ムーンを!
CU

Jazz it’s Magic とデトロイト・ジャズ・シーン

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Magic.jpg  シーツをかぶり、白いパンスの上に赤い水着…あまちゃん??これ誰がデザインしたの?

 『Jaz…It’s Magic』(1957年9月録音)が、14日(土)の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に登場します。CD化されたときは、当たり障りのないジャケットでした。いずれにせよ、中身はれっきとしたハードバップ!

 NYっ子、ジョージ・タッカー(b)以外、全員がデトロイト出身ですから、CDのライナー・ノートに書かれているように、Savoyがら出た、もうひとつの『Jazz Men Detroit』なのかも知れません。

  

 フロントのカーティス・フラー(tb)とソニー・レッド(as)は、この年に一緒にNYに出てきたばかりの新進ミュージシャンでした。

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 フラーは、永遠の愛聴盤『Blues-Ette』など、今後の足跡講座に頻繁に登場しますが、レッドはこの一枚だけです。 

 ソニー・レッド(表記が色々ありますが、正しくはSonny Red)は、本名、シルヴェスタ・カイナー、1932年デトロイトのノース・エンドと呼ばれる黒人居住区に生まれました。フランク・ガント(ds)やドナルド・バード(tp)と幼馴染、アレサ・フランクリンやダイアナ・ロスもこの地区出身です。

 

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 レッドは、デトロイトの若頭的存在だったバリー・ハリス(p)の指導をうけ、一人前のバッパーに成長、1954年になるとハリスやフランク・ロソリーノ(tb)と共演、同僚にはダグ・ワトキンス(b)がいました。一足先にNYに進出し、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの創設メンバーとなったワトキンスの推薦だったのか、同年、NYで短期間、メッセンジャーズで活動し、’57年に再びフラーとNY進出することになるわけです。

 この年、レッドはフラーのリーダー作『New Trombone』や、ポール・クイニシェットのアルバム『On The Sunny Side』 に参加し、快調なスタートを切るのですが、レッドには肺疾患の持病があり、ホーン奏者として致命的な問題でした。

 レッドは翌1958年、父が亡くなったのを機に一旦デトロイトに活動の拠点を移します。トミー・フラナガンやサド・ジョーンズ、ビリー・ミッチェルなど、デトロイト・ハードバップを牽引した天才たちがNYに去った後の、”ブルーバード・イン”やデトロイトのジャズ・シーンはどんな様子だったのでしょう?


<トミー・フラナガン後の”ブルーバード・イン”> 
sonny_redSCN_0017.jpg“ブルーバード・イン”にて:NYのから帰郷後のソニー・レッド (1932-1981) 

 

 OverSeasで寺井尚之が演奏を続けているデトロイト・ハードバップの基礎を作った、トミー・フラナガンやサド・ジョーンズでおなじみの“ブルーバード・イン”、サド&エルヴィンのジョーンズ兄弟やトミー・フラナガンは、いわば楽天イーグルスのマーくんのようにメジャー行きが約束される別格的存在でした。

 彼らが去った後、後輩ミュージシャンを指導し束ねるボス的な役割は、自宅で私塾的セッションを開催するバリー・ハリス(p)や、昼間はクライスラーの工場で働きながら、精力的に演奏していたユセフ・ラティーフ(ts,ss,etc…)が果たしていたようです。

  

tommy5994508.jpg ”ブルーバード・イン”は地元の精鋭でハウスバンドを組織し、そこに一流ゲストを組み合わせることで人気を博しましたが、そのためにハウス・ミュージシャンがNYにスカウトされ流出するという図式になっていたのかもしれません。 1957年、店は一旦改装、再オープンのときには、全国区クラスのモダン・ジャズ・バンドをブッキングする方針に転換。経営者、クラレンス・エディンスが、マイルズ・デイヴィスやミルト・ジャクソン、ソニー・スティットなどのスターと特に懇意なタニマチで、比較的安いギャラで導入できる利点があったためでした。以後2年間はデトロイトで唯一ビッグ・ネームを出演させるクラブとして君臨。再オープンした年は、モダン・ジャズ界で人気ナンバー1を誇るジョン・コルトレーン、キャノンボール・アダレイを擁するマイルズ・デイヴィス・セクステットを始め、スターの公演が目白押し、さらにカウント・ベイシー・オール・スターズとして、サド・ジョーンズ、ビリー・ミッチェルが里帰り公演を行い、大盛況であったといいます。

 この時期の”ブルーバード・イン”で、ハウス・バンドというのは大物ローテーションの谷間を埋める役割で、インターナショナル・ジャズ・バンドというグループ名。アリス・コルトレーン(p)の義兄となるアーニー・ファーロウ(b)がリーダーで、フロントに、帰郷したソニー・レッド(as)が、そして ヒュー・ロウソン(p)、オリヴァー・ジャクソン(ds)というメンバーでした。(上の写真) レッド以外のメンバーは3人とも、ユセフ・ラティーフの舎弟といえるミュージシャンたちです。


 デトロイトで唯一、大物が出演するジャズ・クラブとして再び隆盛を誇るった“ブルーバード・イン“ですが、そのうち、同じような業態のライバル店が出現、そんな状況で、ミュージシャンの出演ギャラが高騰、やがて満員になってもペイできない状況になり、モータウン・ミュージックへの流行の移り変わりで、ジャズ・シーンは衰退していきます。

 だんだん身につまされてきたので、今日はここまで!

 「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」は毎月第ニ土曜日 6:30pm- OverSeasにて開催中!

受講料2,625yenです!(学割半額)

ビリー・エクスタイン:アイドルから伝説へ

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 9月7日(土)に「楽しいジャズ講座」で観るビリー・エクスタインは、寺井尚之が一番好きな男性ボーカリスト!バップの香り高い高度なフレージングと深い心の味わい、「智」と「情」を併せ持つ歌唱と、寺井尚之の熱い解説が楽しみです。

 その男性的な魅力に溢れるバリトン・ボイスから「セピア色のシナトラ」、その容姿から「黒きクラーク・ゲーブル」と呼ばれ、Mr.Bとして親しまれたエクスタインは、人種を越えた女性ファンに絶叫される黒人スターのパイオニアでした。

 同時にミュージシャンからも、かっこいいアニキと慕われ、パーカー-ガレスピーを始め実力者を擁するビバップのドリーム・バンドを率いて活動した3年間が、ジャズに寄与した役割の大きさは計り知れません。講座直前、戦前から80年代まで、第一線で活躍したビリー・エクスタインのことを簡単にまとめておきます。
 

 <ラブ・ソングを歌う黒人歌手>

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左から:アール・ハインズ(p)、エロール・ガーナー(p)、エクスタイン、マキシン・サリヴァン(vo)、 ピアノ前に座るメアリー・ルー・ウィリアムズ   

 ビリー・エクスタインは1914年(大正3年)に鉄鋼の街、ペンシルベニア州ピッツバーグ生まれ。同郷の先輩にはロイ・エルドリッジ(tp)が、後輩にはアート・ブレイキー(ds)がいます。
 父方の祖父はドイツ帝国に併合されたいまはなきプロイセン王国出身のヨーロッパ人で、祖母となる黒人女性と合法的に結婚しました。エクスタインのエキゾチックな容貌はそのせいなのかも… 7才の頃から歌を始め、ブラック・ハーバードと呼ばれる名門ハワード大学に進学しますが、アマチュア・タレント・コンテストに優勝したおかげで中退、本格的に歌手への道を進みます。
 1939年頃にかつてアル・カポネに愛された名門オーケストラ、アール・ハインズOrch.に専属歌手として加入、一気にトップ・シンガーに!最高のスーツでキメたゴージャスなバンドの雰囲気に、エクスタインはまさにぴったりでした。

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 アール・ハインズは最高のピアニストであると同時に、斬新なアイデアを受け容れる懐の深さがあり、その楽団.は、ビバップという新しい音楽を育むゆりかごのような場所でした。ギル・フラー、ディジー・ガレスピー、チャーリー・パーカー、それにマイルズが大きく影響を受けた夭折の天才トランペット奏者、フレディ・ウェブスターなどなど、キラ星のような団員で構成され、エクスタインは同僚のガレスピーにトランペットを習い、他の歌手と一線を画した器楽的なアイデアと歌唱スタイルを身につけます。

 イケメンでベスト・ドレッサーだったエクスタインが、アポロ劇場のアマチュア・ナイトで発見した逸材がサラ・ヴォーン!その頃は全く垢抜けない女子だったのですが、輝く才能を見込んだエクスタインが、容姿端麗主義のハインズに強力プッシュ、ピアニスト兼歌手として入団させたんです。当時、サラ・ヴォーンを観たエージェントは、ハインズの頭がおかしくなったのでは・・・と心配したそうですが、みるみるうちにショートカットの美女へと変身し、エクスタインからバップのコンテキストを伝授されスターへの階段を駆け上がった。サラは終生、エクスタインを兄のように慕いました。

<なんたってバンドリーダー!>

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左から:ラッキー・トンプソン, ディジー・ガレスピー, チャーリー・パーカー, エクスタイン

 当時の黒人歌手に許されたレパートリーは、コミックソングか意味のないジャンプ・チューンばかり、「黒人は道化に徹せよ」という社会で、白人客の前では、シリアスなラブソングを歌うことすらタブーだった。黒人はシリアスであってはダメという社会だった。ですからバラードで女心をメロメロにしたエクスタインの人気は、全く前例のない快挙だった。屈せず媚びない芸術家魂は、チャーリー・パーカーと共通するものがあり、若手の黒人ミュージシャンに尊敬された。その人気ぶりに、1944年、エージェントはエクスタインに自己楽団を組織して独立することを勧めます。

 ハインズ楽団で産声を上げた後にビバップと呼ばれる新しいジャズのかたちに心酔していたエクスタインは、自分のバンドをビバップのドリーム・チームに仕立て、本気で器楽演奏を主体とする活動を目指しました。トミー・ドーシー楽団から独立して、映画と歌の両方で大成功したフランク・シナトラとは、全く違う道を目指したわけです。いくら人気があっても、ハリウッドに黒人スターはあり得ない時代です。もしも、当時の映画界に有色人種をスターとして受け入れる度量があったら、ジャズの歴史はまた違うものになっていたのかもしれませんね。

 ビリー・エクスタインは自己バンド結成の理由をこんなふうに語っています。
 「バンドシンガーは楽団の使い捨てにされる。歌手としての私の自衛策は自分でバンドを持つ事だった。当時の人々は、私のような黒人歌手がバラ-ドやラブソングを歌うことをよしとしていなかった。今ならおかしいと思うかもしれないが、そんな時代だった。我々黒人は労働歌やブル-スや、アホな歌だけ歌っていればよく、愛については歌うべきではないとされていた。それにもうひとつ、私はビッグバンドが大好きだった!」
 
 billy-eckstine-orchestra-1.jpgビリー・エクスタイン楽団の在籍ミュージシャンを列記しするだけで、ドリーム・チームの様子がお分かりになるはずです。(ts)ジーン・アモンズ、デクスター・ゴードン、フランク・ウエス、(as) チャーリー・パーカー、ソニー・スティット (tp)ディジー・ガレスピー、ファッツ・ナヴァロ、ケニー・ド-ハム、マイルズ・デイヴィス、(ds)シド・カトレット、アート・ブレイキー・・・すごいでしょう!

メンバーたちは、仕事がはねてから次の午前中まで、ディジー・ガレスピーを中心にリハをやり、ピアノの前に集まってバップの新しいイディオムを創っていきました。ジュリアードなんて必要ない。バンドが大学だった!メンバー達はそう言いました。

エクスタイン自身もバルブ・トロンボーンを担当しました。なかなかの腕前だったけど、ビバップだけ、インストルメンタルだけというのは、世間は許さなかった。

 エクスタインの歌をフィーチュアした、A Cottage for SaleとPrisoner of Loveはミリオン・セラーになりましたが、大所帯、バンドの経営は大変です。戦時中でビッグ・バンドは遊興税を課せられ、移動手段のバスのガソリン配給もままならないイバラの道、地方巡業の公演地では、ほとんどのお客さんのお目当てはダンスとエクスタインの歌で、ビバップは理解されなかったんです。

 
1944savoy.jpg おまけに南部を旅すると、行く先々で人種差別や、ヤクザ絡みのトラブルがある。おまけに団員の音楽的な規律はビシっとしていたけれど、私生活はグダグダ。エクスタインは、上等のスーツの下にピストルを常に携帯してトラブルに備えた。それがまた「かっけえ!」と団員に慕われる!男の中の男だった。

 でも、バンド経営は別問題。あるときは公演地に譜面帳を忘れ、またある時は、チャーリー・パーカーがクスリ代のためにアルトを質入し、オカリナでソロをとる。そんなドタバタな毎日で、1947年、楽団は経済的に破綻してしまいます。

 儲からないと世間は冷たいもんだ!後に「最も過小評価されたバンド」と評したレナード・フェザーだって、その当時は、「調子っぱずれのバンド」と酷評してた。

 戦争とビッグバンドという形態の過渡期にあったドリーム・バンド!彼らの活躍ぶりをちゃんと捉えたレコーディングはないとブレイキーは残念がっています。  

<バラードを極める>


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 エクスタインはそれでもスターであり続けた。新境地はここからです。1947年 バンド解散直後、新生MGMレ-ベルと契約し、その2年後、ビリー・ホリディの献身的な伴奏者であった名手ボビ-・タッカ-を専属伴奏者し最高のバラード・シンガーとして活躍を続けました。タッカーとのパートナー・シップは、1992年、脳卒中で引退するまで終生続きました。 70年代はTVや映画などなど多方面で活躍。80年代は、ヨーロッパや、日本の「ブルーノート」にもたびたび出演し、さらに身近な存在になりました。

 2度の結婚で、連れ子を含め7人の子供のよき父親でもありましたが、そのうち、エド・エクスタインはマーキュリー・レコードの社長になり、日本公演にもドラマーとして同行したガイ・エクスタインは、プロデューサーとなり、クインシー・ジョーンズと共同で何度もグラミー賞を受賞し、現在私たちが頻繁に使うMP3の開発を手がけた音楽界の大物です。

 

 時代を先取りしながら、挫折に負けず終生「智」と「情」のある音楽を全うしたMr.B、晩年の味わいも、ビバップの土台があってこそ。その辺りを土曜日一緒に楽しみましょう!

 

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アポロ劇場主の息子ジャック・シフマン著:<ハ-レム ヘイデイ>より:
 「終戦後の芸能界の変革期に躍り出たニュ-スタ-は、ハンサムで才能あるビリ-・エ クスタインであった。Mr.Bは戦後初の真のス-パ-スタ-であった。・・・彼の発散する強烈なセックス アピ-ルは、黒人エンタテイナ-として初めて、アメリカ白人社会に受け入れられた。そのセクシ-さとは、ずば抜けた容姿だけでなく彼の音楽性、ショウマンシップ、人間性から出る魅力であった。」