Super Hip:デクスター・ゴードン

Dexter_Gordon.jpgDexter Gordon (1923-90)

 

 8/1(土)の映像で辿るジャズの巨人たち:『楽しいジャズ講座』では、デクスター・ゴードンの晩年の映像を観ます。 映画『ラウンド・ミッドナイト』の名演技でアカデミー主演男優賞にノミネートされ、映画に因んだオールスター・バンドのコンサートです。  

  私がゴードンを生で観たのは’75年、ケニー・ドリュー(p)、NHOペデルセン(b)、アルバート”トゥーティ”ヒース(ds)という最強リズムセクションを従えたワンホーン・カルテット、”ロング・トール・デクスター”と呼ばれる長身にやたらと細くて長い足、酔っ払ってるのか、生来そういう吹き方なのか、足元がおぼつかない感じでソロを取る。出てくる音は強烈で、ノン・ビブラートの直球勝負、強烈にスイングしてた!あの頃、未体験ゾーンだったペデルセンの超絶技巧を凌駕するほどの存在感は一生忘れられません。

 

<ジャズができるなら!>

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 当時のゴードンは、コペンハーゲンに居を移して20年になろうとしていた頃です。’50年代、ヘロイン所持で逮捕され、更正後、NYで演奏活動をするために必要だったキャバレー・カードを取得できないことが移住の理由だった。

 ブラック・パンサーのコペンハーゲン支部の一員として名を連ね、米国政府の人種政策に抗議する傍ら、ゴードンはエリントン達先輩が嫌った「ジャズ」という言葉を愛し、ジャズ・ミュージシャンとして活動できるなら、どこへでも行ってやる!という信念の人だったようです。

 米国でのジャズ活動が困難になりヨーロッパに移住したミュージシャンは「ジャズ・エグザイル」と呼ばれますが、当然ながら、ゴードンも、「落ち武者」的な呼び名を嫌悪した。エグザイルなんていうことばは、演奏スタイルからファッションに至るまで徹頭徹尾、ダンディズムにこだわるゴードンにはそぐわないですよね。

 <マイルズのファッションを全否定>

Coleman_Hawkins,_Miles_Davis_(Gottlieb_04001).jpg レスター・ヤングの洗礼を受け、ロスアンジェルスから一躍、NYのビバップ・シーンのスターとなったゴードンは、プレイもファッションもファンのみならず仲間の憧れだった。ジャズのファッション・リーダーの一人、マイルズ・デイヴィスの伝記にはビバップ勃興の’40年代、デクスター・ゴードンからマイルズのファッションセンスについてケチョンケチョンに言われた有名な逸話が!

「なんだ?そのピッタリしたスーツは!?全然イケてない。もうちょっとましな格好をしろよ。」

「えっ?このスーツは大金をはたいて買ったのに。一体どこがいけないの?」

「あのなあ、値段の問題じゃないんだ。要はヒップかどうかってことなんだよ!肩パッドの入ったスーツとMr.B(ビリー・エクスタイン)の着てるハイカラーのワイシャツじゃなきゃだめ!それからヒゲを生やせ!でないと俺たちの仲間じゃない。」

 インディアンの血統から、元々ヒゲの薄いマイルズは、とても困った。あだけど尊敬するデクスターはSurper Hip!彼には逆らえない。結局、F&M’sというブロードウェイのバッパー御用達の店で揃えたのが左の出で立ち。ゴードンはこのファッションを絶賛して「仲間」だと認めてくれたそうですが、マイルズにとって、このW・ゴットリーブの名写真は痛恨の極みらしい・・・

<華々しいカムバックの陰で>

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 私が初めてゴードンを観た翌年、彼はNYで華々しいカムバックを遂げ、帰国をすることになります。それは、新しいマネージャー、マキシン・グレッグの功績だった。10代から大のジャズファンとして、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの追っかけを自認する彼女は、ジャズ好きが高じてロード・マネージャーやミュージシャンのマネージメントを正業とした女傑。ヨーロッパでゴードンの勇姿を観た彼女は、本人を説き伏せた後、「ブランクが長すぎる」と、なかなか首を立てに振らないNYのクラブ・オーナーを「ギャラは出来高でいいから」と説得し、NYで凱旋公演をします。それが大当たり!ヴィレッジ・ヴァンガードは連日長蛇の列、あっという間にコロンビアとレコーディング契約を取り付けた。

 二人の関係は、いつの間にかロマンスに発展し、1982年に正式に結婚。マキシンはゴードンの三度目で最後の妻になりました。それ以前に彼女が尽くしたのが名トランペッターのウディ・ショウで、彼もまた尊敬するゴードンのカムバックのために誠心誠意協力を惜しまなかった。

 ゴードンが彼女と結婚した数年後、ウディ・ショウは地下鉄で悲劇的な死を遂げますが、賢者は目して語らず。彼女とショウの間に出来た息子はウディ・ショウ三世は、ゴードンが引取り、現在はプロデューサーとして、二人の父親の音楽遺産の管理をしています。

 <映画 ラウンド・ミッドナイト>

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  ゴードンは結婚してまもなく健康上の理由で現役を引退、一年の半分をホリスティック治療のためメキシコで暮らしていた。’50年代から、オーラ溢れるルックスを買われ、俳優として映画やTVに出演経験があったゴードンに、’80年代半ば、フランス人の監督ベルトラン・タベルニエとレコード・プロデューサー、ブルース・ランドバルから映画出演の話がきた。

「ジャズ映画の話は十中八九流れるもんだ。」

 当初は渋っていたゴードンですが、リムジンがお迎えにやってきて、面会場所に行くと、「主役として完璧だ!」と監督は一目惚れ!大のジャズ・ファンを自認するクリント・イーストウッドが後方支援して、低予算ながらも公開にこぎつけた。

 映画『ラウンド・ミッドナイト』がベネチア映画祭に出品された時は、舞台挨拶したゴードンを讃え、20分間スタンディング・オベーションが続くほどの好評、ゴードンは、アカデミー賞主演男優賞にノミネート!

  ゴードンが演じたのは、レスター・ヤングやバド・パウエルを彷彿とさせるデイル・ターナーという架空のテナー奏者。撮影中は、腎臓の持病を抱えるゴードンのために医師を常駐させ、時にはアル中ミュージシャンの役柄になりきるために、深酒をして撮影が中断することもあったそうですが、スクリーンの中のゴードンはほんとうに素晴らしい!ジャズの神話として語り継がれる様々な名言の重み、何気ない佇まいに、どんな名優でもかなわないリアリティがありました。ジャズファンにとっては、歴史解釈の怪しいシーンもあるのですが、ゴードンの存在感が優る名画。プレイのタイム感が、演技に生かされていて、監督はそういうところを上手に捉えているなあと感心します。

DG_Laughing_Jan+Persson.jpg さて、映画の成功は、再度ゴードンを再びステージに引っ張りだすことになります。映画に因んだオールスター・バンドでのコンサート!(土)に観る映像はその時のものです。

 この映像の2年後、ゴードンは腎臓疾患で亡くなりました。享年67才、Super Hipな人生を貫くにはファッションだけじゃだめ、信念と覚悟が必要なんだぞ!そんなことを教えてくれる巨匠です。 

 

 参考資料:

  • LA Times 1987 4/12 “A Sax Man Returns”/ Leonard Feather
  • All About Jazz :Maxine Gordon “The Legacy of Dexter Gordon”
  • Miles: The Autobiography / Miles Davis, Quincy Troup (Simon and Schuster) Courtesy of Michiharu Saotome
  • Swing to Bop / Ira Gitler

 

  

 

アキラ・タナ『音の輪』:本拠地で絶賛!

  先日ご紹介したアキラ・タナの『音の輪』、来日に先駆けて本拠の西海岸で精力的に活躍中!スタンフォード・ジャズフェスティバルでコンサート・レビューが、Jazz Policeというサンフランシスコのジャズ系有名ポータルサイトに掲載されていました。ライターはサンフランシスコ・ベイエリアの有名ライター、ケン・ヴァームズ、自らもテナー奏者です。インターナショナルな土地柄と音楽を結んだ視点で聴く3つのコンサート、筆者が最もインパクトを受けたのがアキラ・タナと『音の輪』であったことが、文章からじわ~っと滲み出てくるレビューです。

『音の輪』、ライブで聴いてみたいですね!2015ツアー・スケジュールはバンドのHPに!

アキラ・タナを単独でフィーチュアするライブは9/8、OverSeasで!


=ジャズに溢れる国際色:フィロリ&スタンフォード・ジャズフェスティバル=

Thursday, 16 July 2015, Jazz Police 原文はこちら

  ベイエリアは音楽の驚きに溢れる場所だ。国際的な土地柄が理由のひとつである。世界中のミュージシャンが、単なるツアーではなく、この地を目指してやって来る。最近行われた二つのフェスティバル、なかでも3本のパフォーマンスは、ここベイエリア特有のグローバルな香りと、強烈な音楽の魅力を最大限に発揮していた。

7/12 フィロリ・ジャズフェスティバル

­=ラリー・ヴコヴィッチ=

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Larry Vukovich (p)and Rob Roth(sax) ©Ken Vermes

 ラリー・ヴコヴィッチは、旧ユーゴスラヴィア、モンテネグロの小さな町の出身だ。1951年、14才の時、家族と共にに政治的圧力から逃れ、サンフランシスコにやって来た。以来、町のレコード店をめぐり、ラジオから流れてくるジャズを聴き、やがてミュージシャンとなり、活況を呈するクラブ・シーンに飛び込む。 彼の活動の幅は広く、ジョン・ヘンドリクス(vo)との長期の共演をはじめ、様々なバンドを率いてクラブやフェスティバルを舞台に活躍してきた。さて、7月12日、州間高速280号線をウッドサイドで降りたところにある風光明媚な史跡、フィロリ・ガーデンで毎年開催されるフィロリ・ジャズフェスティバル、ヴコヴィッチは特別編成のオールスター・バンドを率いて出演した。

jackie and hector 0715.jpgJackie Ryan(vo) and Hector Lugo (perc) ©Ken Vermes

 ラリーはピアノの名手に留まらず、バンドリーダー、音楽研究者、教育者、プロデューサーとして長年活動している。大なり小なり彼と無関係な音楽環境はほとんどないだろう。そして、どの分野でも徹底した国際主義が特徴だ。だれだって、彼と少しでも話してみれば、どんな苦境や試練に見舞われようと、それを教訓としてしまう高度な知性と知力の持ち主であると判る。

 さて、今回のコンサートは二部構成、ロブ・ロス、ノエル・ジュークス(saxes)をフィーチュアしたデクスター・ゴードン・トリビュート・クインテット、「スヌーピー&チャーリー」の音楽担当として有名なピアニスト、ヴィンス・グアラルディへのトリビュート・バンド、ラテン・バンド、ヴォーカル・グループ、そして、全ミュージシャン+ヴォーカリストのジャッキー・ライアンという複数のバンドで登場した。

 ラリー以下それぞれのグループが各テーマに相応しいプログラムを披露したが、特筆すべきは、デクスター・ゴードンにトリビュートした”チーズケーキ”、ノエル・ジュークスのクラリネットをフィーチュアした”プア・バタフライ”の歴史的ヴァージョン、ライアンのヴォーカルをフィーチュアした”アイ・ラヴズ・ユー・ポーギー”、ヴィンス・グアラルディ・トリビュートでの”風の吹くまま”(「スヌーピーの大冒険」より)、”ギンザ・サンバ”、フィナーレに全員で演奏した”キャラヴァン”であった。全プログラムを支えたメンバーはジョシュ・ワークマン(g)、若手ジョン・アーキン(ds)、ルイス・ロメロ、ヘクター・ルゴ(perc)、そして長年にわたり引っ張りだこのトップ・ベーシスト、ジェフ・チェンバース(b)であった。

6/20, 7/10:スタンフォード・ジャズフェスティバル

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Akira Tana©Ken Vermes

イリアーヌ・アライアス

 高速280号線から少し南に行くと、スタンフォード・ジャズフェスティバルだ。その2つのコンサートで、さらに豊かな国際色が楽しめた。まず6月20日、コンサートのオープニングは、あの素晴らしいイリアーヌ・アライアス、彼女をフェスの幕開けに望まない主催者はいないはずだ。

 アライアスは、デビュー当時、ブラジル人ヴォーカリストとしてクレジットされていたが、彼女もまだ、ヴコヴィッチ同様、歴史上の様々な音楽の研究者であり権威だ。また彼女の場合、数十年の歴史を誇る奥の深いブラジル音楽に属する演奏家、作曲者など、あらゆる人々に精通している。その資質を思えば、フェスティバル全体を一人でもやってしまいそうだ。彼女がプロデュースしたステージには、もっとブラジルのプレイヤーを入れてほしかったとも思うが、今回の共演者は、夫君マーク・ジョンソン(b)、ラファエル・バラータ(ds)、ルーベンス・デラ・コルト(g)、1939年作の超スタンダード”ブラジル”やジョビンの名曲、ボサノヴァとして初めてレコーディングされたと言われる”思いあふれて”、チェット・ベイカーにトリビュートした”エンブレイサブル・ユー”などを演奏。コンサートは、この現代の音楽の巨匠が、正確無比なプレイと、さりげないヴォーカルを楽しませるという気楽な雰囲気だった。特筆すべきは、マーク・ジョンソンの素晴らしさとともに、緩急自在のスインギーなプレイで、終始一貫して演奏を盛り上げたドラマー、バラータの美技であった。

 

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Masaru Koga ©Ken Vermes

=音の輪=

 7月10日、ベイエリア・ジャズの地理範囲は、”音の輪“というグループによって、ユーゴスラヴィア、ラテン諸国、ブラジルを越え、ついに日本まで到達した。バンドの主役であるドラマー、アキラ・タナを、筆者は様々なグループで何度も聴いたことがあるし、マサル・コガはフェイスブックでフォローしている。だが、スタンフォード大音楽学部ビルにあるこじんまりしたキャンベル・リサイタル・ホールでファースト・セットが始まった途端に度肝を抜かれた!まず講堂という場所で、これほどハイレベルなコンサートにお目にかかったことがなかったのである。

 そのサウンドは活き活きと輝き、時に圧倒的なパワーを放つ。なにより演奏内容が凄かった。とにかく”音の輪“のメンバーそれぞれの技量が桁外れであった。 

 演奏前に詳しく聞いたところでは、今回は、コンサートが唯一の目的ではなく、2011年に起った東日本大震災と津波の被災者のために演奏しに行くのに必要な、日本への往復渡航費用獲得に向けた組織的努力の一環だという。2013年には、バンドと同名タイトルのCDがアキラ・タナのレーベルからリリースされ、この夜も、そのCDに収録された日本の民謡やポップ・ソングのアレンジ・ヴァージョンを披露した。

 タナと共にリーダーを務めるホーンとフルートの名手、マサル・コガが、尺八、テナー、バリトン、西洋の”Cキー”フルートなど、彼の得意とする様々な楽器で曲のテーマを奏でた。アート・ヒラハラのピアノは力強く、ノリユキ”ケン”オカダもまた非常に骨太なベーシストだ。彼らが演奏するのは、多くの日本人が子供のころから聴き親しむメロディだが、それは西洋の我々の耳を捉えて離さない。プログラムの半分は日本の民謡や童謡で、中には、西洋の「子守唄」のようなものもあった。それ以外は「恋のバカンス」といった’70年代の流行歌で、日本人の心に残る懐かしのメロディだ。「祇園小唄」のように、芸者の舞踊のための曲もある。編曲は全てバンドのメンバーによるもの。演奏曲の大半は日本の学校で演奏されているとはいうものの、この日の聴衆にとっては、馴染みのない曲ばかり。しかしこれらの楽曲の印象は素晴らしく、聴衆はすっかり魅了されてしまった。大切なものを失い、今も心の傷を抱える日本の人々に、これらの歌を贈るというアイデアにも、大きく感動したのだった。

=幅広い芸術の恵み=

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Eliane Elias and Rubens de La Corte (photo by Jeff Dean, Stanford Jazz Festival)

 

  以上の3つのコンサートそれぞれが、異文化、いやそれ以上に、異なる芸術と創造の世界に対する視野を広げてくれた。また、それはカリフォルニアという土地が生み出すユニークな文化の絶え間ない波動と緊密につながっている。ヴコヴィッチ、アライアス、タナと彼の“音の輪”、皆シリアスなアーティストばかりだ。楽器の名手であるのはもちろんだが、その上に研鑽を怠らず、莫大な労力と時間を費やして、彼ら独自のアートを、底抜けの楽しさに溢れる、ひとつの有意義な「かたち」として作り上げている。その結果、メンバー全員に深い感情が浸透し、バンドとして、パワフルで芳醇なサウンドになっている。それぞれ、単にジャズやポップの枠を超えた音楽ばかりで、ワールド・ミュージック、あるいはむしろクラシックの音楽体験に似た感動を受けた。筆者を含め、世界中の多様で素晴らしい文化を体験するためにここに住む人々にとって、彼らの演奏は広大な芸術の恩恵を実感させてくれるものだ。彼らの芸術は、人間の声と楽器のサウンドによって織り上げた「世界」そのものと言えるだろう。このような音楽が、人々の心を癒し、世界をひとつにしてくれるように、そう願ってやまない。

2015,7/15  レポート: ケン・ヴァームズ 

(訳:寺井珠重)

 

 

 

アキラ・タナ:「音の輪」 と東日本大震災被災地支援ツアー

otonowa01-720x405.jpg『音の輪』:左からマサル・コガ(マルチ・リード)、アート・ヒラハラ(p)、アキラ・タナ(ds)、ケン・オカダ(b)

 9月にOverSeasにやってくるアキラ・タナ、来日の目的は、在米日系人のスーパー・バンド『音の輪』を率い、日本の懐かしい歌を『音の輪』流にアレンジして福島、岩手、宮城の被災地の方々に音楽の贈り物を届けて回ることです。

 2週間近い連日のツアー日程は大変な強行軍。日本への渡航費用は本拠地のサンフランシスコ・ベイエリアでコンサートやセミナーを重ねることによって調達、文字通りの「手弁当」!「音楽を聴かせてあげる」というような上から目線なところは微塵にもありません。自分たちのできることをして、大切なものを失った仲間になにかをしたい。そして、現地の人々に喜んでもらうことができれば、逆に、自分たちも元気をもらえる!そんな交流に感謝の気持ちを持っていることが伝わってきます。

 震災直後、米国の地で、何かできることはないかとベネフィット・コンサートを始めたのがきっかけで結成した『音の輪』、だんだん、実際に被災地で音楽交流をしたいという思いが募り、2013年に初めての『音の輪』ツアーを敢行しました。

 かつて自分たちの町があった場所に集まった被災地の方々の前で演奏を披露して、喜んでいただけた。涙を流している人もいた。ミュージシャン冥利で、自分がもっと泣いてしまった、感動してしまったと、アキラさんは演奏体験を語ります。J.J.ジョンソンやヒース・ブラザーズなど、超一流のバンドで世界を華々しくツアーしてきた巨匠ドラマーの心を、これほどまでに突き動かした心の交流って素晴らしい!それは、第二次大戦中、米国市民でありながら敵国人として、住み慣れた場所や生活、財産、全てを没収され、「戦時敵国人抑留所」に収監された日系人の方々の歴史、アキラさんの家族の歴史と決して無関係ではないように思えます。

 今回が3回目となった『音の輪』ツアー、ぜひ、私たち皆で、おもてなしと応援をしたいものですね!

『音の輪』の日本語サイトはこちら

ツアーは、8/20から9/3まで、東京と河口湖でも出演を予定しています。ツアー・スケジュールはこちら

 アキラ・タナさん単独のライブ@OverSeasは9/8(火)  我らが寺井尚之(p)+宮本在浩(b)との、底抜けに楽しい共演も、どうぞお楽しみに!

News! アキラ・タナ(ds) 9月来演!

tana-01.jpg Good News! この春OverSeasに来演し、優しい笑顔と神業ドラミングで、客席をノックアウトしたアキラ・タナ(ds)が、9月8日(火)にOverSeasに来演決定。

 微笑みの男、アキラさんと共演するのは、ポーカーフェイスのピアニスト、虎視眈々の旧友、寺井尚之、そして二人のサムライの間を取り持つベーシストは真摯なプレイに貫禄が加わった宮本在浩という、OverSeasならではのスペシャル・トリオ!

 皆様のご来場を皆で心よりお待ちしています。

 今回の来日は、東日本大震災の被災地を回り、被災者の方々に真心こもった演奏を贈る『音の輪』ツアーです。アキラさんの来演を記念して、次回は彼の活動についてご紹介します。

 CU

 

akira_tana_at_overseas2.JPG寺井尚之(p)トリオ featuring Akira Tana (ds)

with 宮本在浩(b)

【日時】9月8日(火) 開場:18:00~
MUSIC: 1st set 19:00- /2nd set 20:00- /3rd set 21:00- (入替なし)
チケット制:前売り ¥3500(税抜)
当日 ¥4000(税抜) 

(当店は、入場料以外にチャージはありません。ご飲食料のみ頂戴します。)

Stanley Cowell 新譜『Juneteenth』

 

 juneteenth copie.jpg 先日ご紹介したスタンリー・カウエルの最新ソロ・アルバム『Junettenth』、澤野工房さんより発売中です。

 ライナー・ノートは、ファンのひとりとして、不肖私が書かせていただきました。

 この間、自分の書いたものを英語にしてスタンリー・カウエルに読んでもらったら、「よっしゃ、これでええ!」のお墨付き貰ったので、改めてご報告。

 それはどうでもいいけど、内容はほんとうに素晴らしいです!

 本物のピアノの音をCDで聴いてみたいすべての皆様にお勧めいたします。

 お求めは澤野工房さんのHPよりどうぞ!(ライナーノートも読めます。)

 

 『Sooth As the Wind』やタッド・ダメロンのことなど

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7月の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」に『Smooth As the Wind / Blue Mitchell (Riverside ’61)』が登場!タイトル・チューンとして、タッド・ダメロンが書き下ろした “Smooth As the Wind”や”A Blue Time”は、’70年代以降フラナガンが愛奏し名演目となりました。

blue-mitchell.png ブルー・ミッチェルの艶やかで伸びのあるトランペットをフィーチュアした10ピースのバンドにストリングス、プログラムからアレンジまで入念な準備と、多額の経費をかけたものの売れなかった。
だけど、商売と音楽の質は無関係。アルバムの内容は、経費に余りある出来!自分の録音作品に決して満足することのなかったブルー・ミッチェルが終生愛し、唯一誇りとした作品になりました。

orrin_cannon1.jpg 《Riverside》のプロデューサー、オリン・キープニュースがミュージシャンの登用やアルバム企画で、アドバイザーとして、最も信頼を寄せていたのがキャノンボール・アダレイでした。インディアナポリスで活動していたウエス・モンゴメリーを専属契約したのも、キャノンボールの進言だった。そのキャノンボールが、ブルー・ミッチェルを専らスモール・コンボでプロデュースしていたキープニュースに進言した。
「ブルー(ミッチェル)のサウンドは”ちょっとしたストリングス・カルテットのようなもの”を入れて盛り上げるのがいいんじゃないかな?」その一言に喰いついたキープニュースは、ベニー・ゴルソンとアレンジ企画を立てて、ブラスやストリングスを加えようと話は膨らむばかり。そのうち、ビバップ時代に鳴らした往年の作編曲家、タッド・ダメロンがミッチェルの使い方をかなり心得ているという話を耳にした。タッド・ダメロンといえば、ビバップ時代にディジー・ガレスピーの側近として、ミュージシャン達に表現の奥義を指導した司令塔、大胆かつ繊細な編曲で、ビバップの「美」を開花させた伝説の巨匠でした。

<獄中のダメロン>

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その頃ダメロンは、麻薬所持、売買の罪で2度の逮捕の後に、ジャズの檜舞台から遠く離れたケンタッキー州レキシントンで服役中でした。都会の喧騒を離れた地で奉仕活動に従事し、新しい人生を夢見て早3年。ダメロン起用のアイデアをキープニュースに摺り込んだのは誰だか分かりませんが、模範囚として出所を目前にしたダメロンに、なんとか復帰への道筋を付けてやろうと画策した賢明な仲間であったのかもしれません。

とにかく、伝説のダメロンの”美”バップ手法でミッチェルの魅力を全開にするというアイデアは、キープニュースのプロデューサー魂を虜にしてしまいました。現場で指揮をとる軍師ベニー・ゴルソンは、10年前、R & Bのブル・ムースOrch.でダメロンからアレンジ術を学んだ舎弟、だから例えダメロンが獄中でも、彼の音楽的意図をうまく音に出来るに違いない!そう確信したキープニュースは、手紙を書いて、獄中のダメロンに作編曲を依頼した。

「自分は忘れられていなかった!」

手紙を受け取ったダメロンはどれほど意気に感じたことでしょう。麻薬に頼らなくても、溢れるほどのアアドレナリンが分泌されたに違いない!
ケンタッキーとNY、長距離電話や手紙で、選曲や編曲作業がトントン拍子に運びます。ダメロンは、家事の奉仕活動をさせてもらっていた家庭のピアノを使わせてもらいながら、新たに”Smooth As the Wind”と”A Blue Time”の2曲を書き下ろし、スタンダード曲”But Beautiful”や”Nearness of You”、獄中の真情を吐露する”The Best Thing in Life Is Free (人生最良のものは無料で手に入る)”、それからミッチェルにとって気心知れたホレス・シルヴァーの作品”Strollin”を、いかにもダメロンらしい耽美的なイメージで編曲した。
現場では、ダメロンの指示に従い舎弟ゴルソンが指揮、3回のスタジオ・セッションによって出来上がったのがこのアルバム。

彼が塀の中で過ごす間、ジャズの潮流の変化にもまれてきた無二の親友、フィリー・ジョー・ジョーンズや往年の仲間は、獄中で書いた譜面を前にしてどんな感慨を持ったのでしょう?

一方、当時30才の若手フラナガンは、伝説のダメロンによる、出来立てほやほや、湯気の出るようなスコアを初見する興味と興奮で、静かな闘志を湧き立たせていたはずです。

<トミー・フラナガン>

フラナガンにとって、ダメロンの書き下ろした曲は、「とても親切」なものだったようです。とにかく彼の作品はどれもこれもオーケストラのためのカスタムメイドで、「曲の中にオーケストラが装備されている」便利な音楽、ピアノ・ソロ、あるいはデュオ、トリオで演奏しても、自然とオーケストラ的な味わいが生まれる。フラナガンはかつてマリアン・マクパートランドのラジオ番組で、そんな風に語りました!いかにもフラナガン!凡人には考え付かないことですね。

<ダメロンの講評>

さて、このレコーディングから数カ月後、出所したダメロンが、出来上がったアルバムを聴いて感想を述べています。全トラック中、最も高得点を付けたのが”Smooth As the Wind”と”But Beautiful”。その理由は、他のトラックの録音では「少々ストリングスが勝ちすぎている」から、ということでした。
録音に関わった様々な人たちに、大きな影響を与えたアルバム。7/11(土)「トミー・フラナガンの足跡を辿る」では、もっと色々楽しい音楽の話が聴けますから、ぜひ覗いてみてくださいね!

6a00e008dca1f0883401b8d0e04791970c-400wi.jpg40余年後:プロデューサー、オリン・キープニュース

「《リヴァーサイド》は、製作に大金を突っ込む悪癖があった。ミュージシャンと余りにも深く交わりすぎ、身内のように思ってしまったので、どうしても彼らよりの作り方をしてしまった。やれビッグバンドだ、ストリングスだと言われ、到底、採算の取れない企画を通した。それで自ら墓穴を掘り、倒産した。馬鹿だよ!だが、今になって、このアルバムを聴くと、つくづく自分が馬鹿でよかったと思う。

 たとえ、あのときの彼らの演奏を今聴けるだけでも。」
(Jazz Times 2005 March)