アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(1)

akira_tana1981994.jpgAkira Tana photo by Jim Bourne

otonowa_natori_n.jpg 9/8(火)にOverSeasにやってくるアキラ・タナ(ds)の率いるグループ”音の輪”による東北応援ツアーが8/20(木)いわき市よりスタートしています。”音の輪(Sound Circle)”は日本ルーツの在米ミュージシャンで編成されたバンドとして、その実力が認められていることも素晴らしい!今回のツアーも被災地では大部分が無料、または格安コンサート!福島、岩手、宮城から東京へと強行軍で、音楽の贈り物を届けます。もし、お近くにいらっしゃるのでしたら、ぜひ「音の輪」の懐かしくて新しいサウンドを聴きに行ってみては如何ですか?ツアー・スケジュールはこちら。  (左写真は「音の輪」フェイスブックページより)  

 それにしてもアキラさん達の東北の被災地に対する想いは純粋で熱い!ジャンルや人種関係なし、ベイエリアのミュージシャン達の尊敬の的であり、プロデューサーとして、今年のグラミー賞にノミネートされた不惑のベテラン・ドラマー、気は優しくて力持ち!決して偉ぶらず、笑顔に知性が溢れるアキラさんを、これほどまでに被災地の方々へと駆り立てるものは何だろう?

  アキラさんの熱さと、「音の輪」サウンドのまとまりに、大阪のおばちゃん魂燃える~っ!そこで私は、アキラさんのルーツとなる日系アメリカ人の歴史を辿ってみることにしました。実は、8月の初旬のエントリー、「リトル・トーキョーのチャーリー・パーカー」は、その際の資料を元に書いたものです。

 アキラさんは四人兄弟の末っ子で、ご両親はすでに他界されています。お父様、田名大正(たな だいしょう)さんは僧侶で、お母様のともゑさんは、宮中の歌会始に招かれたほどの名歌人である、ということだけは知っていた。アキラさんの自宅にご両親の名が記された立派な書物が飾ってあるのも見たことある。驚いたことに、「取材の鬼」の異名を取る山崎豊子の小説で、太平洋戦争と日系人の悲劇をテーマにした『二つの祖国』の膨大な参考文献リストの中に、その本の名前がありました。(以下敬称略)

 

「戦時敵国人抑留所日記」

日記tanadaisho.jpg  「サンタフェー・ローズバーグ戦時敵国人抑留所日記」(田名大正 著、田名ともえ 編、 山喜房沸書店)は、アキラの父、田名大正が、真珠湾攻撃のその日から、敵国人であるという理由で逮捕勾留された4年間に書き綴った貴重な日記です。後に、妻、ともゑがその日記を編纂、1976年から’89年の期間に四巻の書物として自費出版した。総ページ数1500頁を越える壮大な日記文学です。現在はいくつかの図書館でしか読めない希少本で、私も英訳された抜粋を読んだだけですが、簡潔な文章の中に、宗教人として、ひとりの人間として、不条理な状況に立ち向かう赤裸々な想いが吐露されていて、大きく心を揺さぶられました。最近になって、主に米国の仏教研究者がその価値を再発見し、英語版の翻訳作業も進行しているということです。思い起こせば、英語で育ったアキラさんが、猛然と日本語の読み書きを学んだのは、この日記の出版時期と重なっている。

 日本文学研究の権威、ドナルド・キーンは、その日に起こった事実を書き留める欧米の日記とは異なり、書き手の内面を日々記すという、日本の日記文学の素晴らしさを事ある毎に説いていますが、キーンさんと日記文学との出会いは、第二次大戦中、南方に通訳として赴いた際、玉砕した兵士たちの遺品の中にあった血まみれの日記であったということです。同じ時期、米国の異なる不条理の中で書かれた大正の貴重な日記が、広く知られていないのは、様々な理由があるのですが、それは追って書いていきたいと思います。

「父 田名大正」 

tuna_camp1943f8bc5de155a4416a914d6cd29df442c.jpgツナ・キャニオン日系人一時勾留所は現在歴史遺産に認定されている。

アキラ・タナの父、田名大正は、ここに4ヶ月拘置された。

日系人達の努力で、現在ここは史跡として保存されていて、今年8月に開催された2周年記念行事にはアキラさんの長兄、Yasuto Tana氏が参加した。

 アキラの父、田名大正(Daisho Tana 1901-72)は、明治34年札幌生まれ、本人は子供時代の事を余り語らなかったということですが、後の研究によれば、貧しい家に生まれ、祖父母に育てられたとされています。札幌の東の町、厚別にあった寺の住職は子宝に恵まれず、尋常小学校を卒業した大正を跡取りとして預り仏の道を教え、17才で得度(とくど:出家して僧侶になること。)します。大正は、幼い時に叶わなかった学問への情熱が消えず、親代わりの住職は、その志を汲み、京都にある浄土真宗本山、西本願寺へと送り出しました。そこで大正は7年間研鑽を積み、海外での布教活動を担う「開教使」という役職を賜りました。23才の若さで、台湾、そして米国へ赴任、多数の日系人が働くカリフォルニア、バークレーの仏教寺院で奉職に就きます。三十代後半になった’38年に一時帰国し、同じ北海道の寺の嫡男であった同僚の妹で、聡明な娘、早島ともゑと結婚、新婚夫婦揃ってカリフォルニアに戻り地域の日系人社会のために法務を続けました。

 この時代は見合い結婚が当たり前、一回り年上の夫の許に嫁いた途端、異国の地に向かったともゑの新生活はどんなものだったのでしょう? 里帰りも叶わず、法務の手伝いや家事、出産、育児・・・ホッとする間もなく月日だけが流れたのではないでしょうか。夫婦が互いに深い男女の愛情を自覚したのは、戦争によって引き離されてからのことであったそうです。

 渡米して7年、二人の男の子を授かった田名夫妻が、カリフォルニア州北部のロンポックという町で、法務と、日系子弟のための日本語教育に勤しんでいた頃に真珠湾攻撃勃発、3ヶ月後、大正はFBIに連行されてしまいます。

 FBIは、用意周到に在米日本人のブラックリストを作成しており、スパイ行為やプロパガンダ活動を抑止する目的で、日系人社会でリーダーの役割を担う人々を根こそぎ逮捕した。リストに入っていたのは、日本人会、県人会、在郷軍友会といったグループの会長、日本語学校の校長、日系新聞社の幹部、そして仏教開教使と呼ばれる僧侶たちでした。

 大正はサンタバーバラ刑務所から、日本人の逮捕者が次の勾留地が決まるまで一時的に留め置かれる山岳部のツナキャニオン・キャンプ(上写真)に4ヶ月勾留された後、カリフォルニアから1300km東に離れたニューメキシコ州に移送され、サンタフェとローズバーグ勾留所を往来、劣悪な生活環境のため、台湾時代に感染していた結核を発症しながら、終戦まで抑留されます。日系のリーダー達の勾留所は司法省管轄で、一般の日系人転住センターより遥かに厳しい警備のある刑務所のような場所でした。

 gila.jpg一方、排日運動高まる中で、二人の幼児、そして三人目の子供を身籠りながら、夫の留守を守るともゑは、いつアメリカ人の襲撃を受けるかと不安な日々を過ごし、その数カ月後に発効された大統領令9066号によって、息子たちと共に、アリゾナのヒラ・リヴァー転住センター(Gila River Camp:左写真)に収容され、夫と離れ離れの収容生活を送ることになります。

 それまで当たり前であった日常の生活が、或る日突然に、どうしようもない大きな力に呑み込まれ、家族も財産も故郷の町も失われる、その人々の喪失感と、見えない未来、アキラさんの被災地への強い想いは、家族の歴史への想いと、どこかで重なっているように見えます。(つづく) 

ジャズファン注目:NYキャバレー法と日本の風営法

 8/19付:朝日新聞「withnews」、ジャズ史と関わりの深い「NYキャバレー法」の歴史と、日本の”クラブ”に於けるダンスの規制についての裁判や法改正でマスコミを賑わした「風営法」を比較検討した記事が話題になっています。

 

   朝日新聞デジタル編集部の神庭さんは、風営法の取材を通じ、一般の人が”ダンス”をするという娯楽を規制するNY市の「キャバレー法」に注目、現地で綿密な取材を行った上で記事にまとめていて、”クラブ”やダンスには全く無縁な私にとっても、とても興味深い考察が行われています。

 結婚してからダンス・クラブに行ったのは20世紀、トミー・フラナガンに連れられてイースト・ヴィレッジの”CAT CLUB”に行っただけ。普段はディスコだけど、その夜は、Swing Dance Societyという団体が、メル・ルイス(ds)やジョン・ファディス(tp)といった超豪華メンバーによるビッグバンドで催したダンス・イベントだった。フラナガンは見た目通り、踊るのは嫌い。小さなテーブルに座って、プロのダンサー達が見せつけるアクロバティックなリンディ・ホップそっちのけで、バンドばっかり必死で観察してました…

SCN_0034.jpg 「NYキャバレー法」から派生した「キャバレー・カード法」は、’40年代以降、ビリー・ホリディやチャーリー・パーカー、セロニアス・モンクなど幾多の天才達の生活の糧を奪ってきた法律。人種隔離政策を背景に持つシーラカンスのようなこのキャバレー法にチャレンジを続けるNYの名弁護士、大ジャズファンでもあるポール・シェヴィニーのインタビューや、NY市政史がスカっとまとめられているのも、私たちにとっては嬉しい記事です。

 私がこのブログで紹介したJ.J.ジョンソンのキャバレー・カード裁判にも言及してくださっています。

 ジャズ史の視点からも楽しく読める記事、ぜひご一読を!

メインステムが奏でる「地中海の情景」

  デトロイト・ハードバップの名演目と季節に因んだ”旬” の名曲をお聴かせするメインステム、寺井尚之(p)、宮本在浩(b)菅一平(ds)の3人が集まって、稽古に没頭してるのが、サー・ローランド・ハナの名作”Mediterranean Seascape (地中海の情景)”です。

 この作品は、”New York Jazz Quartet”時代のもの。このグループは、度々メンバーが入れ替わるのですが、ハナさん、フランク・ウエス(soprano sax)、ロン・カーター(b)、ベン・ライリー(ds)での来日コンサートで、素晴らしい演奏を聴くことができました。レコーディングは上のYoutubeで聴ける『Live in Tokyo』(CTI)と、もうひとつ、ハナさん自身がとても気に入っていたソロ・アルバム『Round Midnight』で演奏されています。今この曲をレパートリーにしている演奏家はいるのかな?

 c58315h7107.jpg情熱のロマン派、ハナさんのオリジナル曲には、いつも物語があります。この「地中海の情景」はアフリカ、中近東、ヨーロッパに囲まれた地中海のハイブリッドな文化圏を音楽で俯瞰する趣き、アフリカのリズム、中近東のエキゾチックな旋律、クラシカルなハーモニー、曲の中に様々な民族の文化と歴史が走馬灯のように現れては消えていき、ジャズに通じる海路を思わせます。イントロはアルゴー船の櫂の音?それともローマ軍の足音か、ハナさんならではの壮大な歴史ロマンが聴こえてきます。

 もう随分前になりますが、OverSeasでコンサートを終え、ディナーを楽しんだ後のハナさんのために、寺井尚之が鷲見和広さん(b)とデュオでこの曲を演奏し、大変喜んでもらったことがあります。あれからもう15年以上の歳月が経ちました・・・

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 ハナさんとトミー・フラナガンは兄弟みたいに仲良しで、弟分のハナさんは、寺井尚之を甥っ子みたいに可愛がってくれました。

 そんなハナさんを偲ぶ「地中海の情景」、ぜひご一緒に聴いてみませんか?

「一般に、音楽は色々なカテゴリーに分割して捉えられている。しかし、私は違う。私にとって音楽とは食物と同じだ。これはリンゴだ、梨だと、いちいち区別をする必要はない。」-サー・ローランド・ハナ(1932-2002)

もしサー・ローランド・ハナ(p)をご存じない方は、このブログに色々と書いています。

戦争とリトル・トーキョーのチャーリー・パーカー

 暑中お見舞い申し上げます。

 下町の市場に買い出しに行くと、商店街のあちこちから「大阪大空襲」「学童疎開」や「学徒動員」といった言葉が聞こえてくる暑い夏、否応なしに青春を戦争と過ごした両親や、さらに祖父母の世代の苦労を想います。

  第二次大戦以前、米国に出かけていった日系移民の方々の主な出身地は、広島、山口、岡山などの中国地方、長崎、佐賀、熊本などの九州、そして和歌山だった。一世の子弟達は、れっきとした米国市民であったのに、原爆をわざわざ広島と長崎に投下したのは何故だったのだろう?

 <キャバレー税とBebopの関係>

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 さて、数年前、ウォール・ストリート・ジャーナル電子版に、私達がこよなく愛するビバップ芸術は、第二次大戦の産pyramid.ai.jpg物、つまり「キャバレー税」という戦争税の産物であるという説が掲載されていました。

 戦前、ジャズの本道として人気を博したスイング・ジャズはビッグバンド形式のダンス音楽として発展した。楽団は全米津々浦々、星の数ほど存在し、「National Band (全米的な名楽団)」「Territory Band (米国の決まった地方を巡業する楽団)」「Local Band(地元で活動する楽団)」というサッカーや野球のリーグに似たピラミッド型の構成の住み分けが確立し、各層がそれなりの安定収入を確保していた。演奏家は様々な土地を巡りながら、その土地の音楽を吸収し、上の階層を目指し切磋琢磨することによって、ジャズ音楽は有機的な発展を続けたわけです。

 ところが、第二次大戦が勃発すると、ガソリンやタイヤは配給制となり、巡業の要であるバスの調達が困難になります。同時に若手ミュージシャンは次々と徴兵されていった。さらに1944年、「キャバレー税」という連邦税の施行はビッグバンド界へのとどめの一撃となったのです。

 「キャバレー税」は、飲食を含むダンスホールの勘定書の20%。課税対象は、ステージのあるなしに関係なく、とにかくダンスをさせる店、そして、歌を聴かせる店だ。戦争特需の好景気とはいえ、20%という重税で全米のダンスホールは閑古鳥、ビッグバンドを支える営業システムは崩壊してしまったのです。ダンス音楽の代わりに台頭したのが、ダンスせずに「聴く」ことを目的としたスモール・コンボ、しかも歌手のいないインストルメンタル・ジャズ、つまりビバップだったのです。強烈な個性と洗練、ハーレムのヒップな香り一杯の音楽とファッション、ミュージシャンが大きく注目を浴びるようになりました。

charlie_parkerdizzy_gillespie.jpg バップ時代の立役者の一人、マックス・ローチ(ds)は語る。

「誰かが席を立ってダンスをすれば、勘定書きに20%の税金がプラスされた。誰かが立ち上がって歌ったら、また20%。…しかし器楽奏者の発展には素晴らしい時期だったな・・・」
 

 一方で、ビバップは、レコーディング禁止令のおかげで、最良の録音が少ないと言われています。

 できることなら、タイムマシンに乗って’40年代初期にタイムスリップして、52丁目でチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーのライブを聴きに行きたいなあ!

 ところがどっこい、もしタイムマシンが出来たって、時は太平洋戦争中。日本人がNYの街を闊歩できるようになるのは、’50年代まで待たなければ・・・

<リトル・トーキョーのチャーリー・パーカー> 

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 終戦直後、1945年12月、NYジャズシーンの寵児となったチャーリー・パーカー-ディジー・ガレスピー・バンドは本拠地NYの52丁目を離れ、西海岸LA、ハリウッドのど真ん中にある有名クラブ、《Billy Berg’s(ビリー・バーグス)》に8週間出演した。「ビバップ旋風」が西に!地元のミュージシャン達は熱狂したものの、輝く太陽とパームツリーと夜間外出禁止令・・・西の文化は、東のNYとはずいぶん違っていた、というか、遅れていた。結局、娯楽性が少ない先鋭的な黒人音楽は、ハリウッドのリッチな娯楽嗜好と合わず興行は大コケになった。麻薬の調達が困難なために、パーカーが度重なるすっぽかしをやらかしたのも火に油。やっとギグを終え、NYに帰る飛行機に、パーカーの姿はなかった。どうやら飛行機代は、いつのまにかクスリに替わっていたらしい…ディジー・ガレスピーの忍耐もジ・エンド。ジャズ史上最高の名コンビは、袂を分かつことになります。

 パーカーにとっては住み難い土地柄であったはずなのに、彼はそのまま居残って活動を続け、心身ともにボロボロになり、滞在ホテルでボヤ騒ぎ、ロビーに全裸で現れて、カマリロ病院送りになります。この悲劇の舞台がLAの日本人街、リトル・トーキョーであったことは、余り知られていません。でもなぜリトル・トーキョーなんでしょう?

<戦時敵性外国人強制収容>

Instructions_to_japanese.png  1941年12月、日本海軍による真珠湾攻撃によって太平洋戦争が起こり、翌42年2月、フランクリン・ルーズベルトは大統領令9066号を発令。「特定地域を軍の管理下に置く」という法令の元に、敵性外国人である日系人のほとんどが、「保護」の名目の元、家も財産も放棄させられ、家族離散、コロラドやアリゾナ砂漠など人里離れた辺境地域にある粗末な強制収容所に移送された。その数12万人!鉄条網と監視兵に囲まれた劣悪な環境の中、ある者は、日系人の米国に対する忠誠の証に志願兵として前線に赴き、ある者は日本に引き揚げた。広島で被曝した日系米人の数は3000人に上ると言われています。

 強制収容は最長4年に及び、戦争が終わると収容所は閉鎖、日系人は市民権を剥奪され、着の身着のままで、「解放」された。そこから、元の生活に戻るまで、日系の方々が、どれほどの時間と労力を費やされたのか、想像もつきません。チャーリー・パーカーの滞在した町は日本人のいないリトル・トーキョーだったんです。

<リトル・トーキョー/ブロンズヴィル>

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  元来、ロスアンジェルスは、日系人や黒人といった「特定」の集団の住居所有を制限する居住隔離の町であり、リトル・トーキョーもまた、日系人に特化した人種隔離の町であったそうです。第二次大戦中、戦争特需の好景気に湧くLAには、南部から多くの黒人労働者が流入してきました。戦前から、リトル・トーキョーの南方に位置する、セントラル地区、ワッツ地区が黒人の居住地域として割り当てられていましたが、黒人人口の爆発的な増加で、従shepps-ad-1-31-46.jpg来の地区には収まりきれず、必然的に、日系人が退去させられゴーストタウンとなったリトル・トーキョーの空き家を急ごしらえの生活の場とし、瞬く間に「ブロンズヴィル」という名前の黒人の町に変貌します。

 「ブロンズヴィル」は、治安が悪く、不衛生なスラム街であったと言われる一方、24時間体制のシフトで働く黒人労働者が溢れる町には「ブレックファスト・クラブ」と称し、朝食を提供するという建前で、深夜営業をする非合法クラブが乱立し、ジャズやダンスの娯楽の殿堂として活況を呈します。中でも最も有名だったのは、パーカー-ガレスピーをLAに招聘したkawafuku-menu-1_jpg_515x515_detail_q85.jpg張本人、ビリー・バーグが出資した《Shepp’s Playhouse》で、《川福》という日本料理店であった場所にオープンしたクラブ。コールマン・ホーキンスやTボーン・ウォーカーといった人気ミュージシャンを出演させ、ハリウッドからジュディー・ガーランドといったセレブが通うほど繁盛した。 

 <ザ・フィナーレ>

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 一方、チャーリー・パーカーの出演場所は《The Finale》というクラブ、1944年にオープンしてから、度々経営者が代り、神出鬼没で、店の住所は転々とした。モグリ営業であったことは明らかですが、チャーリー・パーカーは1946年3月ころからハワード・マギー(tp)のバンドに飛び入りし、やがて20才のマイルズ・デイヴィス、ジョー・オーバニー(p)、アート・ファーマーの双子の兄弟アディソン・ファーマー(b)、チャック・トンプソン(ds)とバンドを組んで出演。おかげで《The Finale》はバップの聖地の様相を呈したそうです。『Dilal』というマイナー・レーベルを起こしたばかりのロス・ラッセルは、ここに足繁く通って録音契約を取り付け、演奏の模様はLAやパサデナのラジオ局が中継放送していた。怪しげな『Charlie Parker at the Finale Club and More』というCDはエアチェック盤ですね。

 バードの出演当時、実質的な経営者は兄弟分のハワード・マギーであったと言われています。上の写真でサングラスをかけたアルト奏者がバードです。

 その当時の《The Finale》の場所は、日本文化協会のビルの一室にあり、入り口はOverSeasの裏口のようなビルの廊下にあった。ライブは午前一時より、もとより「ブレックファスト・クラブ」にリカー・ライセンスなどないので、客は酒のボトルを持ち込んで、トニックやソーダや氷を店で買うシステムだった。 

 

 1st_and_San_Pedro.jpg7月29日、『Dial』の録音セッションでLover Manの演奏中、バードの心身のバランスはとうとう限界点に達し、ヒステリー症状に陥りました。

 数時間後、心神喪失のチャーリー・パーカーは、滞在ホテルのロビーを全裸で徘徊し、それどころかタバコの火の不始末で火事を起こし、大騒ぎになり、カマリロ病院に収容されることになります。

 そのホテルは、サンペドロ・ストリートと1st Avenueの交差点にあった「シヴィック・ホテル」、当時、巡業した多くのミュージシャンの滞在地であったと言われていますが、ここも元は「ミヤコホテル」として、リトル・トーキョーを代表する一流ホテルだったのです。

  8週間のはずのLAの滞在は、バードにとって地獄の14ヶ月となったのでした。

 一方、戦後この街に帰還した日系の方々が、それまでブロンズヴィルとして住み着いた黒人コミュニティとの協調と軋轢を繰り返しながら、リトル・トーキョーを再建するまでには、さらに何年もの歳月を要することになります。

 日本の経済白書に「もはや戦後ではない」という文言が入ったのは1956年、米国政府が日系人に対する非人道的な強制収容についての謝罪と倍賞がなされたのは、1980年代以降のことです。 

参考資料:How Taxes And Moving Changed The Sound Of Jazz
 
多人種都市ロスアンジェルスと環太平洋の想像力/南川文里
Little Tokyo / Bronzeville, Los Angeles, California / 日系アメリカ人資料館「伝承」
Memories of Bronzeville, a Forgotten Downtown Era 
Boronzeville, Little Tokyo, Los Angels 
Bronzeville Gypsy: How Charlie Parker lit up Little Tokyo 
Azusa Street to Boronzeville, Black History of Little Tokyo 

Miles: The Autobiography / Miles Davis, Quincy Troup (Simon and Schuster) Courtesy of Michiharu Saotome
Swing to Bop / Ira Gitler (Oxford University Press)