ハンク・ジョーンズが教えてくれたこと(後編)

hank_dizzy.jpgビバップ時代のハンクさんたち―左から:ディジー・ガレスピー(tp)、タッド・ダメロン(p)、ハンク・ジョーンズ、メアリー・ルー・ウィリアムズ(p)、ミルト・オレント(b.、NBCスタッフ・ミュージシャン)’47 William P. Gottlieb撮影

  

  前編で紹介したケニー・ワシントン・インタビューの聴き手は、ニック・ルフィーニというドラマー、現存するバップ・ドラムの第一人者で、自他ともに認めるジャズのうるさ型であるケニーは、ドラム教本のことは知っているけど、ジャズのことは素人同然の彼のために、ハンク・ジョーンズがどんなピアニストかを、ちょっとガラの悪い池上彰みたいに、忍耐強く簡潔に説明してあげていた。ケニーもヤルモンダ、じゃなくて、丸くなったもんだ!

 

hank-jones_bluenote.jpg ケニー・ワシントン:「ハンク・ジョーンズは歴史上最高のピアニストの一人だ。彼は膨大なレコードに参加している。’50年代、彼は引っ張りだこのスタジオ・ミュージシャンだった。名ベーシスト、ミルト・ヒントン、名ドラマー、オシー・ジョンソン(OCジョンソンちゃう!オシー・ジョンソンや!)と一緒にリズム・セクションを組み、時にはギターのバリー・ガルブレイズを入れ、何百枚というレコードに参加した。毎日、色んな相手と、2~4枚ものレコーディング・セッションをこなしたんだ。そして夜になるとライブをしていた。なのに彼らの録音には一枚の凡作もないっ!!ただの一つもだ!マジだぜ!」

 ハンクさんは、関西に強力なパトロンが居て、歯の治療をするためだけでも、関西にやって来た。NYの一流ミュージシャンと強力な信頼関係を持っていた故西山満さんも、盛んにハンクさんを招聘して地元のミュージシャンを加えたコンサートを企画していたから、関西のミュージシャンはハンクさんに接することが多く、ケニーと同じように襟を正した人も少なくないはずです。「(小型電子ピアノのない時代)来日時には必ず、特製の鍵盤を持参し、ホテルの部屋で練習してはった。」「コンサートが終わると、ステージの撤収を、自ら進んで手伝った。」とか、色んな伝説が伝わってきた。 

<若者たちへの言葉>

  ハンクさんは、亡くなる前の年に、ダウンビート誌の批評家投票で「名声の殿堂」入りを果たしました。御年91才!遅きに失した殿堂入りではあったけど、記念インタビューで若い人達へのアドヴァイスを求められ、自分が行ってきた節制と精進について淡々と語った。タバコも酒もギャンブルもしないというハンクさん。もっと若い時なら、愛奏よく微笑んで、沈黙を守ったかもしれない。71歳で亡くなったトミー・フラナガンは「自分の背中を見て覚えろ」の姿勢を貫き、練習してないふりを通した。

 ハンクさんの謙虚な言葉は、自分の選んだ生業と人生に対するこの上ない敬意と誇りが満ちた宝の山です。

0809.jpgダウンビート・マガジン2009年8月号より抜粋(聴き手ハワード・マンデル) 

<父を手本に>

 何をするにも、100%集中しろと言いたいね。全身全霊で努力しろ。私はこの年になっても、そうするべきだと思っている。私はこういうことを父親から学んだ。父は私の知るうちで、最も公明正大で筋の通った人間でね、人生の最高の手本を身をもって示してくれたんだ。清い生き方をした人だった。酒もタバコもやらなかった。そして敬虔なキリスト教徒だった。父のように生きようと努力してきたが、かなりうまくいったのではないかな。

(訳注:ハンクさんのお父さんはミュージシャンではなく、バプティスト教の助祭で、木材検査官として生計を立てていた。)

 

<集中するということ>

photo_hadenjone_300rgb-2-_wide-7c1668b908245c30380aff029d86d52ec2057770.jpg

 「集中力」には何が必要か?「興味を持つ」ことが第一!とにかく自分のしている事に興味を持たなくてはいけない。そこに完璧に焦点を絞り込んで没頭せよ。そして、知識、能力、知覚神経、創造力といった関連要素をありったけ注ぎ込め。

 自分の眼前の題材について考えろ。自分が集中している対象物が一体どんなものなのかをしっかり考えるのだ。何故そうするのか、どうしているのか、そんなことをごちゃごちゃ考えるな。私の言うように集中すれば、結果が出る。集中力というのは、物凄いパワーがある。どういう仕組みかは知らないが、「集中力」さえあれば、「聴く」力がつく。もし聴こえないのなら、集中が足りないんだ。 

<センスを磨きたいなら沢山聴け!> 

 (エレガントで趣味の良い)演奏スタイルをどのように確立したかだって(驚)!?

 誰だってそうだと思うが、沢山のものを聴き、多様なスタイルを吸収しそれを消化すれば、遅かれ早かれ、いずれ各人、自分なりのアイデアが出来上がってくるものじゃないかね?自分流に演奏したくなるのは当たり前だ。出来上がった自分のスタイルが、ほかの誰かに似ていたという結果になるかもしれないし、そうではないかもしれない。運が良ければ、誰にも似ていないスタイルが出来上がる。独自のスタイルや演奏解釈を会得すること、同じ曲でも、余人と異なる自分の流儀で演奏できるというのは、道半ばの学習者全ての目標だ。

 もうひとつの目標は、喜んで聴いてもらえるような演奏をすることだ。それはスタイルとはまた別で、センスの良し悪しが関わってくる。センスとは、ものの捉え方だ。それもまた、多彩な人たちの演奏を聴くことによって生まれるのだ。自分が聴いた音楽が、受け容れられるものなのか、聴きたくないものか、取捨選択を繰り返して、やっと身に付くものだ。多種多様なものを聴いた末に、自らの中に残っているもの、それこそが、「この楽曲はこういうサウンドであるべきだ」という意識をかたちづくる。それを人は「センス」とか「趣味の良さ」と呼ぶのだ。

 

 <即興演奏>

 私は自分のイマジネーションをうまく使おうとする。それに関わる要素について思いを巡らす。和声だけではなく元のメロディーについても思考を働かせ、そこから何かを作り出そうと試みるわけだ。その行為は家を建てるのと似ている。まず基本設計からスタートし、それに従って実際に建築してみる、その作業が進むうちに、装飾も加える、というようなことだ。

<ピアノ上達に近道はない!>

HankJones2 (1).jpg

 まず言っておきたいのは、ピアノが上手になる魔法なんてどこにもないということだ。ピアノに関わらずいかなる技量も、稽古するかしないか。毎日の練習は絶対に必要だ。毎日稽古すれば、どんなレベルであろうと現状を維持することができる、そして、ひょっとすると、そこからさらに上に行けるかもしれない。

 私の場合、ピアノはクラシックの練習から始めた。おかげで、どんなピアニストにも必須の基礎を身につけることが出来た。まともなピアニストになるための指針を教えてくれと言うのなら、私の答えはこうだ。

-まず勉強しろ。ピアノという楽器について熟知せよ。初心者の段階では、(可能な限り)最良のピアノ教師を見つけ、その人に習え。なぜならば、まず最初に正しい演奏法を学ぶことができなければ、後から誤った演奏方法を変えるには、大変な努力を要するから。間違ったテクニックを身に着けてしまうと、悪い癖を取り去るのは至難の業だから。これが若い人達への私からのアドバイスだ。(了)

  DBインタビューはアメリカ人の翻訳者ジョーイ・スティールさんが「読め」って送ってくれたものです。最後の「ピアノ習得」のくだりに、私は爆笑してしまいました。だって、毎日稽古を欠かさない寺井尚之が、常日頃自分の生徒たちに口を酸っぱくして言っていることだったから。

 ともあれ、ハンクさんが亡くなって、さらに世の中は便利になり、次期大統領でさえ、ツイートばっかりやってる世の中になった。ハンクさんの言葉は、ミュージシャンのみならず、私たち全員がちゃんと生きていく上での忘備録のように思えます。 

ハンク・ジョーンズが教えてくれたこと(前編)

hankjones-8cdd0687c19c46d8ce42a7e67d9eac3ba6714ff4-s6-c10.jpg

Hank Jones (1918-2010)

’70年代以降、トミー・フラナガンとハンク・ジョーンズは、双方ともに謙虚で控えめな物腰の裏で、互いに最大のライバルとして、闘志の火花を激しく燃やしていた。

だから、この二人を(しばしばバリー・ハリスも含め)同じカテゴリーで議論されると、寺井尚之の癇癪がときどき爆発します。言うまでもなく、寺井はハンク・ジョーンズの凄さをいやというほど良く知っているからなのですが…

そんな中、今年初めて寺井が「楽しいジャズ講座:映像でたどるジャズの巨人たち」のテーマに選んだのがハンク・ジョーンズ・トリオがフランク・ウエスはじめ4人のテナー奏者と共演するという日本のコンサート映像なので、楽しみで仕方がありません。

 

<ハンク・ジョーンズ略歴>

 JATP 1950 multi signed with clipped coupon Hank Jones.jpg  ハンクさんは1918年(大正7年)ミシシッピ州生まれ、奇しくもハンクさんがCM出演していたパナソニックの前身である「松下電気器具製作所」のできた年です。幼少期が米国の工業化に伴う労働人口の南部から北東部への大移動時代と重なり、家族でミシガン州ポンティアック(フラナガンの出身地デトロイトとすぐ近くです。)に移り住みました。父が聖職と木材関係の仕事に就くジョーンズ家の子供は七人、姉二人はピアニスト、ハンク、サド、エルヴィンのジョーンズ・ブラザーズはジャズ史に輝く天才兄弟ですが、ヒース・ブラザーズ(パーシー、ジミー、アルバート)のように兄弟で共演することは稀でした。

 

 プロデビューは13歳で、フラナガンはまだピアノの鍵盤の上に上るのがやっとのよちよち歩き。すでにミシガン一やオハイオで、そこそこ名の知れた楽団に入り巡業に明け暮れた。成人すると、地元のメジャー・ミュージシャン、ラッキー・トンプソンの誘いを受け、故郷を出てNYに進出、当時のジャズのメッカ、52丁目の有名クラブ《オニキス》でホット・リップス・(tp)と共演、たちまちエラ・フィッツジェラルドやビリー・エクスタインといったスター達から引っ張りだこの超売れっ子となった。 

 だからデトロイト時代のフラナガン少年にとってハンクさんは、親友(エルヴィン)の兄さんであったけれど、ラジオやレコードを通じてしか知らない名手、神と崇めるチャーリー・パーカーと共演する天上人で、実際にフラナガンがハンクさんに会ったのはずっと後、NYに出てきてからのことだった。 

 1959年、ハンクさんは、全国ネットワークCBSのスタッフ・ミュージシャンとなった。以来17年間、エド・サリヴァン・ショウなど、TV界屈指のスタジオ・ミュージシャンとして活動しながら、空き時間はNYのレコーディング・スタジオに入り録音に勤しむ毎日が続く。参加アルバムには、ビリー・ホリディ晩年の不朽の名作<Lady In Satin>、ウエス・モンゴメリー<So Much Guitar>、ローランド・カークの<We Free Kings>といったものから、ジョニー・マティスなどのポップ・スター達のアルバムまで数百枚に上る。

 HCD-2023-l.jpg1968年には、弟サド・ジョーンズとメル・ルイスの双頭ビッグバンドの創設メンバーとして兄弟共演を果たしています。毎日色んな場所でいくつもの仕事を掛け持ちするハンクさんについたあだ名は「キャンセル魔」-昼間に街で会って、「ほんじゃ今夜のレコーディング、よろしく頼むわ。」「よっしゃ!」と挨拶しても、現場に現れるのはハンクさんに頼まれた別のピアニスト、というのが日常茶飯事。それでも、ハンクさんの仕事が減らなかったのは、その腕前に対する絶大な信頼であったから。

 ’70年代中盤にはブロードウェイ・レビュー《Ain’t Misbehavin》で音楽監督とピアノを担当、流れるようなシングルトーンが身上のハンクさんの演奏スタイルとは異なるファッツ・ウォーラー・スタイルを見事に再現し、ジャズピアノ通の度肝を抜いた。一方では、日本企画の《グレイト・ジャズ・トリオ》が大当たり、パナソニックのTVコマーシャル「ヤルモンダ!」でお茶の間にも親しまれ、新旧の名手と様々なフォーマットで、世界各地を公演、92才まで現役レジェンドの道をひた走った。

 ジャズ・ミュージシャンの旬は案外短く、かつての名手も、70を越えたライブに行くとがっかりすることも。でもハンクさんのピシっと伸びた背筋と、タッチ・コントロールの完璧さは、80才を超えても不変だった。

その秘密はどこにあったのだろう?

 

<端整なプレイの陰で>

kennywashingtonzildjian550.jpg

 昨年、寺井のドラマー、菅一平さんから、彼が尊敬するバップ・ドラマー、ケニー・ワシントン・インタビューの日本語訳を頼まれました。ドラマー向けのインターネット・ラジオ番組”Drummer’s Resource“のものだったのですが、そこでケニーが大変面白い話をしていた。彼を「練習魔」にした人が、ハンクさんだったというのです。

ケニーの話を要約すると…

 僕が20代そこそこの駆け出しの頃、光栄なことにハンクさんからギグに誘われた。ベースはジョージ・ムラーツ!ピアノ・トリオのコンサートだ。演奏会場がハンクさんの家から遠く、音出しが早いので、「家内の手料理をご馳走するし、君が寝る部屋もある。前日から自宅に泊まりなさい。翌朝一緒に出発しよう。」と言ってもらった。

泊めてもらった翌朝6:30amに目覚めると、スケール練習をするピアノの音が聞こえてきた。Cメジャー、Dメジャー…順番に、全音と4ビートで稽古している。あの名人がこんな基礎練習をしている!!若いドラマーはぶっ飛んだ。

 

 やがて、ハンクさんが朝食を食べに食堂にやってきた。

「おはようございます。ジョーンズさん」

「おはよう、ワシントンくん、昨日は良く寝られたかな?」

「あのう…ジョーンズさん、さっきの練習は毎日やっておられるのですか?」

彼は私を真顔でじ~っと見つめた。

「そうだよ。あれは絶対にやらなくてはいけない。」

そのとき、僕の中でディンドン、ディンドンと鐘が打ち鳴らされた。当時ハンク・ジョーンズ70代だったが、物凄い名手だった。彼のタッチが完璧なのは、この練習を続けているからだんだ!

僕も今から同じことを始めれば、彼の年齢になってもプレイできるに違いない!!それから、僕は毎日早朝練習をするようになった。(つづく)