連載:ペッパー・アダムス最期の『アダムス・イフェクト』(その3 最終回)

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  サー・ローランド・ハナが、昔こんな風に教えてくれたことがあります。
「ペッパーは亡くなるまで災難続きだったんだよ。自分の車に轢かれて大怪我をして、治ったと思ったら病気になってしまったんだ…」

 ペッパー・アダムスが体の異変に気づいたのは1985年3月、ヨーロッパの長期ツアー中に立ち寄ったスウェーデン北部のボーデンという街だった。現地の病院の診断は肺がんだった。まだ54才、その前年の大部分を骨折の治療で棒に振り、やっとカムバックし軌道にのった矢先の出来事だった。円熟期の管楽器奏者が、よりによって肺のがん宣告を受けるとは、アダムスのショックはどんなものだっただろう。体調不良を押してヨーロッパ各地のツアー日程をこなし帰国後、NY市聖ルカ-ルーズベルト病院で精密検査を行ったが、診断結果は同じだった。

 アダムス最期のリーダー作となった『Adams Effect』は、抗がん剤治療の合間を縫って行った録音だ。プロデュースは、NY地元の〈Uptown Records〉、共同オーナー兼プロデューサーであるマーク・フェルドマンとロバート・スネンブリックの本業はどちらも医師で、特にスネンブリックは腫瘍専門医だったのが幸運だったのかもしれない。
 
 録音メンバーは、ドラムのビリー・ハートを除く全員がデトロイト時代のペッパーの仲間だ。テナーのフランク・フォスター、ピアノのトミー・フラナガンは、デトロイトのジャズシーンと兵役時代の両方の仲間だし、ベースはデトロイトの後輩格ロン・カーターだ。ドラムには、やはりデトロイトで共演を重ねたエルヴィン・ジョーンズが予定されていたが、妻でありマネージャーのケイコとギャラで折り合わず、アダムスが頻繁に使っていたビリー・ハートを起用、全メンバーをペッパー・アダムスが選ぶ結果となり、6月25日と26日の2日間、イングルウッドのルディ・ヴァン・ゲルダー・スタジオを押さえて録音を行った。

 録音曲は、企画段階で〈Uptown Records〉のスネンブリックが〈マイ・ファニー・ヴァレンタイン〉など、スタンダード曲を含めた30曲の録音候補リストを作成したが、アダムスは候補曲をことごとく却下、結局候補リストから彼が選んだのは唯一曲、フォスターが作曲し、彼のデビュー盤『Here Comes Frank Foster』(BlueNote ’54)に収録した〈How I Spent the Night〉だけで、一体、他にどんな曲を録音するのか?二人のプロデューサーはスタジオに入っても、さっぱりわからなかったのだそうです。つまり、A&R(アーティスト&レパートリー)もアダムスが仕切った結果のアルバムなのです。

 余談ですが、フォスターは〈How I Spent the Night〉の譜面はもう持っていなかったので、自分のアルバムを聴いて、譜面起こしをする羽目になったのだとか…

 実際、このアルバムを聴いてみると、アダムスは準備万端、完璧にネタを仕込んで録音に臨んだ感がするし、はつらつ他のメンバーもアダムスを中心に鉄壁のワンチームという印象を受けますが、バンド全体のリハーサルは皆無で録音したというのですから、さすがに一流は違います!

images (2).jpg トミー・フラナガンの証言(1988) 

「この録音をしたとき、ペッパーは絶好調で、実に力強く説得力のあるプレイだった。曲はほとんど彼のオリジナルばかりだ。彼の旧友、フランク・フォスターと共演出来たことを心から楽しんでいたなあ。二人は長年の間、共演者として最高の相性だったのだからね。」

〈Uptown Records〉プロデユーサー:ボブ・スネンブリックの証言(1988):
当時ペッパー・アダムスは、抗がん化学療法の第4サイクルだった。彼は、迅速な治療効果を望み、抗がん治療を積極的に行っていた。実際、彼の場合には、副作用の吐き気が余りなかったんだ。そのことについて、彼に話したことを覚えているからね。化学療法を受けた8-10日後に録音セッションの予定を組んだ。スタジオ入りしたときの調子は上々だった。見た目は元気そうではなかったが、コンディションは実によかった。
目を閉じれば、昔のペッパーがそこに居た。彼は非常にストロングで、最高の出来上がりになった。

 多分、これが最後のリーダー作になると思っていたのだろう。

ドラマー・ビリ-・ハートの証言
hartimages (2).jpg ペッパーは、ケニー・バレルやサド・ジョーンズ、ジョニー・グリフィンといった人たちと同類でね、だしぬけに、プロとしての実力をテストする。一度共演すれば、沢山のことを思い知る。言い換えれば、彼の創造活動の邪魔になってはいけないことを叩き込まれる。つまり、ある時突然に、演奏曲の全貌を見ろというプレッシャーがかかってくる。彼がどんなソロを取るのか、どんな曲を引用してくるのかは、全然予想がつかないのだから。あのとき、彼の周りを固めるのは、極めてハイレベルな名手達だった。まずロン・カーター、それにフランク・フォスターだ!多くの人間は、フランク・フォスターがどれほどすごいミュージシャンかわかってないがね。ああいう人たちは、いかなるレベルのミスも絶対に犯さない。彼らは初見で完璧に読譜し、正しいアクセントを把握してしまう。初めて演奏する曲でも、ワンテイクで素晴らしいソロが取れる。このメンバーで、テイクの取り直しがある場合は、決まって僕のせいだった!恥ずかしいことだと思っている。

 先日の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」では、オープニングのブルース〈Binary〉での6小節交換や、〈How I Spent the Night〉のアウトコーラスで8小節のみテーマを提示して余韻をもたせる粋な手法など、演奏構成の隅々に溢れるデトロイト・ハードバップのエッセンスを寺井尚之が具体的に提示してくれたので、さらに楽しく鑑賞することができました。

 ペッパー・アダムスがこのアルバムに収録オリジナル曲のタイトルを見ても、このアルバムが最期になるとわかっていたのではないかという気がする。自らのアイルランド(ケルト人)の血を意識した〈Valse Celtique(ケルト人のワルツ)〉息子ディランに捧げた〈Dylan’s Delight〉、妻に捧げた〈Claudette’s Way〉、そして〈Now in Our Lives(我々が生きている間に)〉には、アダムスの覚悟が伝わってきます。 

 録音の3ヶ月後、アダムスの治療を支援するチャリティ・コンサートがNYで行われ、アダムスが尊敬するディジー・ガレスピーや、デトロイトの仲間達-ミルト・ジャクソン、ケニー・バレル、そしてトミー・フラナガンと言った面々が演奏しています。

 翌年8月、自宅療養していたアダムスの元に、かつてのリーダー、サド・ジョーンズがコペンハーゲンで客死したという知らせがディジー・ガレスピーから届きました。骨肉腫というガンで、わずか4ヶ月の短い闘病期間で亡くなったということでした。

 それからわずか数週間、トミー・フラナガンが彼を見舞いに訪れた3日後にアダムスは天に召されました。-1986年9月10日、まだ56才でした。

 セント・ピーターズ教会での音楽葬の葬儀委員長はトミー・フラナガンが務め、エルヴィン・ジョーンズ他、デトロイトの仲間たちや、サド・メル時代の親友、ジョージ・ムラーツ、そしてアダムスの対極にあるバリトン奏者、ジェリー・マリガンといった多くのミュージシャンが演奏に参加しました。

  アイルランドの血を引くバリトン・サックスの勇者、大いなるデトロイト・ハードバップのサムライよ、永遠に!

 アダムス関連の資料の宝庫!Gary Carnerに感謝します。

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連載:ペッパー・アダムス最期の『アダムス・イフェクト』(その2)

=戦友=

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 モーターシティとして活況を呈するデトロイト・ジャズ・シーンは、NYからツアー・サーキットで巡演してくる超一流バンドのリーダーたちにとって、人材とアイディアの宝庫だった。アレサ・フランクリンや後のモータウン・サウンドに象徴される黒人のソウルフルな感性と、ナチスから逃れてきたトップクラスの音楽家がもたらした高度な西洋音楽理論、加えてチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーのビバップ革命の信条に啓発を受けた黒人ミュージシャン達は、NYジャズと一線を画す、非常に洗練されたジャズのスタイルを確立していきます。それがサド・ジョーンズを中核に開花したデトロイト・ハードバップです。(左下写真:サド・ジョーンズとペッパー・アダムス)その後NYに進出したアダムスが、’60年代終盤から’70年代後半まで、サド・ジョーンズ&メル・ルイスOrch.の花形ソロイストとして大いに人気を博したのも偶然ではないのです。

thad_f_0bc763.jpg しかし、前途洋々たるモーターシティの若手ミュージシャンの躍進の壁となったのが、激化の一方を辿る朝鮮戦争でした。1951年にはトミー・フラナガン、フランク・フォスター(ts)が、翌52年にはペッパー・アダムスにも召集令状が届きます。彼らジャズ・エリート達は24ヶ月間兵役に付き、軍楽隊や前線の慰問団、そして北朝鮮の爆撃に抗する朝鮮半島の最前線で働きました。

 トミー・フラナガンは、この期間を「人生における地獄」と呼び、その中で、時にアダムスと遭遇できたことが、唯一の救いだったと語っています。

 フラナガンの証言:「ペッパーは、一足先に(ミズーリの基地で)数週間の基礎演習を終えていた。彼は、私がホヤホヤの新兵として訓練中だと知り、私が野営地に向かって行進していると、ペッパーが隊列の中の僕を目がけて走ってきた。そして僕のポケットに懐中電灯をぎゅっと押し込んた。 『きっと役に立つよ!』と言ってね…」

Koreaf_0bc74c.jpg  ペッパーは軍楽隊での演奏と、耳が良いことから、敵機襲来の爆音をいち早く感知して本部に伝えるという最前線の諜報活動も行った。軍隊時代、ペッパーは占領下の東京にも寄港し、アーニー・パイル・シアター(旧:宝塚大劇場が進駐軍に接収され改名、日本人の入場は禁止されていた。)でも演奏している。サド・ジョーンズ+メル・ルイスOrch.より先に来日していたわけですね。(左写真:朝鮮半島38度線北側をツアーしたアダムス加入慰問団のルート。)

 丸2年の従軍期間を経て、ペッパーはジャズシーンに復帰し、デトロイトで活動を再開。トミー・フラナガンが理想のジャズクラブと呼んだ《ブルーバード・イン》では、ビリー・ミッチェル(ts)の代役としてサド・ジョーンズやフラナガンと共演、ジョーンズやフラナガンが相次いでデトロイトを去った後は、バリー・ハリス(p)達とハウスバンドを組みました、

 デトロイトで、朝鮮半島で、そしてNYで…憧れや高揚感…様々な感動体験と、人に言えないほどの苦難を分かち合ったフラナガンとの友情は、アダムスの早すぎる死まで続きました。

 最晩年の’85年、ペッパー・アダムスは 最期のリーダー作『アダムス・イフェクト(Uptown』で、アダムスは朝鮮戦争の戦友であったトミー・フラナガン(p)、フランク・フォスター(ts)に参加を要請し、抗がん剤治療の合間を縫ってレコーディングに臨みます。(続く)

=参考文献=

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連載:ペッパー・アダムス最期の『アダムス・イフェクト』(その1)

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「トミー・フラナガンの足跡を辿る」-かれこれ16年余り毎月欠かさず開催してきましたが、10月は台風のため今月に延期!

目玉アルバムは、バリトン・ザックスの名手、ペッパー・アダムス最後のリーダー作『アダムス・エフェクト/ Adams Effect 』(’85 Uptown Records)。来月の講座まで時間ができて、幸か不幸か、久々のブログ更新!

 

=ペッパー・アダムスとは=

pepper_3.pngPepper Adams (1930-1986)

 ペッパー・アダムス(本名パーク・アダムス三世)は、ジャズ史を代表するバリトン・サックス奏者、ハリー・カーネイやジェリー・マリガンと並ぶ名手であると同時に、デトロイト・ハードバップを代表する音楽家でもある。アダムスのプレイは、グイグイとドライブするパワフルなスウィング感と、豊かで繊細なハーモニー感覚を併せ持ち、白人らしいクールなスタイルのスター、ジェリー・マリガンの対極にある。白人でありながら、ブラックなフィーリングで「マリガンとは違う」音楽性によって、一部の批評家はアダムスをこき下ろしたが、彼の音楽的信条は微塵にも揺らがなかった。 

=生い立ち

 ペッパーはアイルランド系アメリカ人三世、本名をパーク・フレデリック・アダムス三世と言います。大恐慌の嵐が吹き荒れた1930年(昭和2年)、ミシガン州の裕福な家庭に生まれていますが、父親が事業に失敗したため、母子は父を残しNY州ロチェスターにある母の実家に身を寄せた。ペッパーは14才ですでにクラリネットやテナー・サックスを演奏し、稼いだギャラは教師だった母親の安月給よりも多く、ずいぶん家計を助けた。17才になると、母親の転任に伴いデトロイトに引っ越すことに。自動車工業で栄えるデトロイトは若年層教育に予算を充当していたため、NYの学校よりずっと高給が保証されたのです。フラナガンやサー・ローランド・ハナさんがハイスクールで、これまでヨーロッパで一流音楽家として活動してきたユダヤ人教師たちから高度な音楽教育を授けられたのも、教育熱心なデトロイト市政の賜物だったのですね。

=トミー・フラナガンとの友情

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トミー・フラナガン(20代前半)

  アダムスが生涯の親友となるトミー・フラナガンと出会ったのは、アダムスがデトロイトに越してきて3日目に参加したジャム・セッションの場だった。二人はすぐに意気投合し、トミーはこの新顔を、ケニー・バレルやサー・ローランド・ハナ、ダグ・ワトキンス、後に双頭コンボを組むドナルド・バードなど、同じ年頃の仲間たちに紹介していきました。テナーとクラリネットが主楽器だった彼が、質屋でお買い得のバリトン・サックスを手に入れたのもちょうどその頃です。フラナガンとアダムスは、その当時デトロイトに住んでいたラッキー・トンプソン(ts.ss)率いる9ピースの楽団に加入、トンプソンは、若手ミュージシャンだった二人にとって、正規に共演した初めての大物ミュージシャンになりました。後年、後にフラナガンはラッキー・トンプソンを、デューク・エリントンやサド・ジョーンズ、コールマン・ホーキンスに匹敵する本物の天才と絶賛しています。 

paradisetheater.jpg その当時は人種隔離の時代、自動車工業で繁栄していたデトロイトには、南部から多くの黒人労働者が流入し、一大黒人コミュニティが形成されていました。デトロイト・リヴァーの北西部は黒人の住宅地と歓楽街となり、ウッドワード・ストリートの東側には、数多くのジャズ・クラブが軒を連ねるジャズの街だったのです。 (左写真:黒人街のシンボル的な劇場、パラダイスシアターはエリントン、ベイシーなど錚々たる楽団が演奏する映画館だった。)

 黒人人口の爆発的な増加は、デトロイトに人種間の軋轢がもたらすことになります。白人警官が黒人市民に対して、正当な理由なしに射殺する事件は今もなお多発していますが、フラナガンも若い頃、何度も警官に職務質問され、殺されるんじゃないかというオソロシイ目に会ったらしい。

  ジャズの世界もまた、ミュージシャンは白人グループと黒人グループに分かれ、演奏場所も違えば、演奏スタイルも違っていた。白人たちはスタン・ゲッツを信奉し、ドラッグをガンガンやりながら専らクール・ジャズを演奏。一方、黒人達が崇拝するのはもちろんチャーリー・パーカーで、ビバップを追求しつつ、案外ドラッグにはクリーンで、メジャーな先輩たちに一歩でも近づけるよう、楽器の技量と音楽理論の研鑽に励む気風がありました。その当時デトロイトでは、ヤクザ社会でも人種の棲み分けがきっちりしていて、黒人マフィアが、同胞の子弟に薬を売りつける非道はしなかった。NYでヘロイン中毒になったマイルスがデトロイトで静養していたのも、そういう理由があったのです。そんなわけで、地元の白人ミュージシャンと黒人ミュージシャンの交流はほとんどなく、数少ない例外がペッパー・アダムスだったというわけです。アダムスはただ一人の白人として、ブラックなジャズ・シーンの中で切磋琢磨して行きます。(続く)