ジョージ・ムラーツ追悼文by エミール・ヴィクリツキー(p)

George Mraz (1944-2021) photo taken by Shinji Kuwajima at OverSeas Club

 コロナと訃報の2021年、ジミー・ヒース、スタンリー・カウエル、ニッセ・サンドストローム…親しく接していただいた巨人たちが次々と亡くなり、9月16日、プラハでジョージ・ムラーツがひっそりと世を去った。

 ジョージ・ムラーツさんは、寺井尚之とともに、トミー・フラナガンの次に触れ合う機会の多い巨人であり、アニキだった。

 寺井尚之にとっては初恋のベーシストであると同時に永遠のベーシストだった。何度も共演レコーディングのチャンスはあったけれど、師匠フラナガンの最高のパートナーであったから、義理を立て録音はしなかった。もう二度とその機会はないけれど、それでよいと思う。

 悲しすぎて涙が出ないということがある。たくさんある思い出も何を書けばよいのかわからない。

 これまで、公にされていなかったジョージ・ムラーツさんのご家族の悲劇や亡命の真相などを、同じチェコ出身のピアニストとして何度も共演し、親交深かったエミール・ヴィクリツキーさんが、英国ロンドンのジャズニュースに追悼文を寄稿されていたので、ここに翻訳文を掲載します。原文はLondon Jazz News 9/20, 2021

 永遠のアニキ、ジョージ・ムラーツさんのご冥福を心よりお祈りします。

George Mraz (1944-2021). A tribute by Emil Viklický

 去る2021年9月16日、ベーシスト、ジョージ(ジリ)・ムラーツが死去した。享年77。かつてロン・カーターはムラーツについてこう述べた。-「最高に素晴らしい音選び+秀逸なイントネーション+ビューティフルなサウンド+ナイスガイ=ジョージ・ムラーツだ。」

 ピアニスト、リッチー・バイラークは彼をこう評する。「ジョージは、こちらが聴きたいと思う音をぴったり出してくれるし、まるで、自分がベースを発明したかのような演奏ぶりだ。」 

以下は、チェコのピアニスト、エミール・ヴィクリツキーが、よき友であり音楽仲間であったムラーツの思い出を語る追悼の言葉である。

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=父を奪ったソ連軍侵攻=

 2007年のことだ。ジョージ・ムラーツと私は、ブルノ(チェコ共和国第2の都市)でのコンサートの後、ホテルのバーで一杯やっていた。いつになくジョージは饒舌で、白ワインを片手に、昔話や現在の話題に花を咲かせた。 

 そううしていると、ブルノの中心にそびえ立つ聖ヤコブ教会の塔を一望できるホテル最上階のバーの客は、急に我々だけになってしまった。小雨降る静かな夜、店じまいして帰りたがるバーテンダーをなだめようと、モラビア産ピノ・グリの上物をボトルで注文し、チップをはずんだ。おかげで、バーテンダーが退出した後も、我々は居残って話を続けた。

 ジョージは、1968年8月にソ連がチェコ侵攻した直後、事故死した父親のことを話し始めた。ソ連軍の戦車が市街に侵入し、通行優先権は路面電車にあることにお構いなしだった。戦車は、ジョージの父が乗っていた路面電車に突っ込んだ。そのため、戦車の主砲が電車の窓を突き破り、ジョージの父の頭部を直撃したのだ。後の調査でジョージは知った。お父さんは、最初座っていたが、事故の一瞬前に乗ってきた年配の女性に席を譲って立っており、そのために犠牲になったのだった。席を譲られた女性に怪我はなかった。ソ連軍が関与する事故であったので、チェコ警察はそれ以上の捜査を禁じられたという。この事件が、ジョージにとって祖国を離れる決定的な動機になったのである。 

 そのあと、ジョージは、私がなぜ数学の世界と決別したのかを尋ね、その理由を面白そうに聞いた。そして、モラビアのホレショフかクロメルジーシュの中学校で数学を教えていた彼自身の祖父の話をはじめた。退職後も、大学受験生に数学を教え続けた先生だったそうだ。

 このおじいさんは長命で、私は、きっとジョージも病を克服して長生きできると固く信じていた。骨折したり重病を患っても、彼はいつも瞳を輝かせ、元気を回復させてきた。だから、古びてはいるものの居心地の良いプルゼニ (チェコ、ボヘミア州) のホテルの部屋に飛び込んできた彼の訃報は、私を大きく打ちのめした。近くの駅から聴こえてくる列車の音を聴きながら、その夜は一睡もできなかった。

 ジョージがチェコスロバキアを離れたのは1968年、やがて彼は米国に移住した。ボストンのバークリー・カレッジ籍を置いたが、ボストンに付いたその日から、ピアニストのレイ・サンティニは彼にレギュラーの仕事を与えた。ほどなく、ジョージはNYに進出した。

=ジョージとの出会い= 

 私とジョージが直接出会ったのは1975年になってからだ。それ以前、私はチェコのオロモウツで数学を学んでいた。1971年に5年間の学業を終えた私は、博士号を目標にしていた。だが、そんな私に学部長は言った。「君の作った対称式などどうでもよい。博士号が欲しければ、マルクス主義に専念したまえ。」 私は論文の提出を放棄し、プラハに移り住んでジャズ・ピアニストに転身したのだった。

 1974年9月、私はチェコのトップ・ジャズ・バンド、カレル・ヴェレブニー SHQカルテットに加入した。それはジョージが移住する前に所属していたバンドでもあった。翌1975年、SHQカルテットはユーゴスラヴィアのベオグラード・ジャズフェスティバルに出演。ところが、手違いがあり、コントラバスを持参できず、現地で楽器を調達せねばならなくなった。幸運なことに、我々の出番の次がスタン・ゲッツ・カルテットだったのだ。メンバーは、ジョージ・ムラーツ(b)、アルバート・デイリー(p)、ビリー・ハート(ds)だった。そこで、ジョージは、快くフランチシェク ウフリーシュに自分の楽器を貸してくれたのだった。その夜のことはよく覚えている。なぜなら、アルバート・デイリーが私のプレイを誉めてくれたからだ。だが、スタン・ゲッツにとっては、必ずしも楽しい夜ではなかった。彼は時計ばかり眺め、本番でジョビムのスロー・ボサ〈O Grande Amore〉のプレイ中、デイリーのピアノ・ソロを遮り、バンドに退場するよう命令した。聴衆の拍手は10分ほど鳴りやまなかったが、スタンはアンコールに応えなかった。ひどい話だ。きっと主催者側と何かもめごとがあったのだろう。 

 幸運にも我々SHQはスタンたちと同じホテルに投宿しており、終演後、ジョージと話す機会に恵まれた。フランチシェクも私も彼のうわさはいやというほど耳にしていた。その夜は、彼が話す面白いエピソードの数々をむさぼるように聞いた。-それは、ドイツでのオスカー・ピーターソンとの共演に始まり、スタン・ゲッツ・カルテットがロンドンに行ったときにエリザベス女王に謁見した話まで、ありとあらゆる話題だった。やがて、カレル・ヴェレブニーが、スタン・ゲッツのサインをチェコのジャズ・ファンへのお土産にしたいと言いだして、20枚ほどの絵葉書をジョージに手渡そうとした。その途端、ジョージじゃ大笑いした。「マジかい?今夜スタンに頼めって言うのか?!」そしてジョージは名案を思い付いた。「よし、その絵葉書と鉛筆をくれ。」そう言うと、彼は一枚ずつゆっくりとサインを始めた。Stan Getzと!書き終えると、彼はいたずらっぽく微笑みを浮かべて言った。「この絵葉書のスタン・ゲッツのサインが僕の作だとわかる奴なんか世界中探してもいるもんか。」

 =エンパシー能力=

 ジョージは回想録執筆の依頼を何度も受けていた。誰でも、彼には数多くの興味深いエピソードがあることはわかるだろう。英国チェルトナム在住、『Moravian Gems』のプロデューサー、ポール・ヴルチェクはジョージに自伝を書くように勧めていた。だが、私の知る限りでは、ジョージは首を縦に振らず、これらの逸話は我々ミュージシャンだけのものとなってしまった。

 1999年のクリスマス、ジョージは、プラハの《ヴィオラ劇場》に、私のトリオと、ヴォーカリスト兼ダルシマー奏者のズザナ・ラプチーコヴァーを観に来てくれた。終演後、彼は、モラビア民謡をアレンジしたものを、Milestone/Fantasy Recordsに一緒に録音しないかと言ってくれた。驚いた私は「君は一体何本ビールを飲んだんだい?」と尋ねたほどだったが、彼の表情は真面目そのものだった。その結果できたCDが『Morava』(MCD 9309-2 in NYC)で、ビリー・ハートとズザナが参加している。このアルバムの数トラックをかけていたら、伝説的プロデューサーのトッド・バルカンが言った。-「ジョージのメロディック・センスの源泉がどこなのか、やっと判った!」 トッドは、ジョージ・ムラーツの至高の音楽性、ハートフルなリリシズムとスイング感ゆえ、敬愛の念を込めて、彼を “バウンセアロット卿”と呼んだ。加えて、ジョージには、最高の音楽的エンパシー能力があった。共演者のアイディアを瞬時に察知し、本人が気づかないうちに、そのアイディアを高め、二手三手先まで見通すという超能力の持ち主だった。

 Mr.バウンス、別名”ヤバいチェコ人(bad Czech)”-ジャズ史上最高のベーシスト、ジョージ・ムラーツは多くの人々に惜しまれながら世を去った。

written by エミール・ヴィクリツキー、ピアニスト

Emil Viklický (L) and George Mraz. ACT Music/ Marc Dietenmeier

 *チェコ人ミュージシャンのカナ表記は、指田勉氏にサポートいただきました。この場を借りてお礼申し上げます。