「サンタフェー・ローズバーグ戦時敵国人抑留所日記 第一巻 (山喜房佛書林 刊)」より抜粋
「仮収容所である、ロスアンゼルス郊外のタハンガCCCキャンプの夜は開けた。昨夜の雨は、山では雪であったと見えて真っ白になっている。(中略.)..
午後一時から訪問者が来た。今日と水曜日が訪問日である。特に収容最初の日曜日であるので、家族がある種、興奮してたくさん押かけていた。全く訪問者なき筈の身は存外平穏に過ごすことが出来てよいと思う。面会時間三十分がすんで、遠く自動車の停車場と、鉄柵内とでサヨナラの手を振る目の中は光っている。
鉄柵を隔てて三分間の面会で何が語れよう。英語の出来ない者は、日本語のわかる者が立ち会っての会話である。中にいる者は存外あきらめているだろうが、鉄柵の内からたゞ指先だけを触れ合う、そしてサヨナラでは、折角会いに来た人達にとっては、収容された夫、父に対してどんなにみじめな気持を起こさせるか。消灯後にも室内の者は安眠していないようだった。満足を与えない面会をさせる事が、決して収容者への親切ではないと思う。折角会わせるのならば、収容者は罪人ではないのだから、人格を無視したこんな会見方法は、米国の自由精神に照らして改めるがよい。
田名大正著、田名ともゑ編:戦時的黒人抑留所日記 第一巻 p.110-112
アキラ・タナの両親による幻の日記文学「戦時敵国人抑留所日記」からの抜粋です。アジア系アメリカ文化研究者、神田稔氏のご協力のおかげで、研究者の間で広く引用されている英訳の原文を閲覧することができました。その一部が上の引用文です。大正が「僧侶である」という理由から、FBIに逮捕され、他の日系要人と共に、サンタバーバラ刑務所から「日系人一時勾留所」に移送された直後の記述。その勾留所は、LAのダウンタウンから30kmほど北上した場所で、後に『E.T』のロケ地となったタハンガ(Tujunga)という山間地の「ツナ・キャニオン日系人一時勾留所」でした。アキラ・タナが誕生するちょうど10年前のことです。
この短い記述の中に、収容所の気候や、家族との面会の哀しさ、会話に日本語が禁じられるもどかしさが、映画の1シーンのように描かれ、悲惨な歴史の一端を垣間見せてくれます。
<仏教東漸と家族愛>
田名大正師は、寺の嫡男や高学歴の、いわゆるキャリア組ではなく、実力で開教使というエリート職に抜擢された僧侶だった。収監されて外界と隔絶するまでは、家族よりも仏への帰依を重んじた人だという。180センチほどもある長身の堂々とした体躯と容貌は威厳を放ち、収容所内でも「聖人(しょうにん)さま」と呼ばれていた。だが、強靭な外見に反し、非常に病弱であったため、収容所での重労働を免除されていたという。
収容所時代の大正は、戦争が終わった後、この異国の地でどのように仏教を広めようかと思索し、妻と子供の住む収容所の人々のために法話を書き、習字やこれまで叶わなかった英語学習などに時間を費やした。一方、東京帝国大学卒など、立派な肩書を持ちながら、拘留所で野球やギャンブルに興ずる「お坊ちゃん」開教使への批判を日記に綴りながら、大正は苦境の中で前向きな姿勢を崩そうとはしなかった。
他の日系一世の人達と同様、大正もまた大日本帝国の勝利を信じ、解放の日を心待ちにしていたのである。ところが1942年ミッドウエ-海戦で日本軍が大敗北を喫し戦況は暗転。そして入所して一年半経ったころ、大正はとうとう結核を発症し収容所内で病院暮らしを送ることになった。隔離された収容所で、更に隔離された大正の日記は、より内省的になり、妻と子どもたちに対する愛情がこれまでにないほど色濃く投影されていく。
日系人拘留所の助成金プログラムによって行われたアキラ・タナのインタビューによれば、両親は結婚した当初は、お辞儀をして挨拶するほど他人行儀だったということです。皮肉にも見合い結婚した二人の恋は、戦争によって遠く引き裂かれた状況の中、文通という手段を通して、初めて燃え上がりました。日記には、名歌人であったともゑが大正送った短歌が挿入されている。そこに込められた想いが仏の道一辺倒だった大正の心の扉を開き、万葉集の人々のように恋や家族への思いを吐露する日記への変貌していく様子が感動的です。
「正直に言えば、自分自身と家族のために働くことが、最も幸福な生活であろう。そのためには、以前ともゑが言ったように、庭師になればよいであろう。だが、この僧侶然とした私の顔つきのため、仏事によって得た金で肉を買うのが心苦しい。奉納された金で、妻の下着を買うのか?と訊かれることのない末世に生まれていればどれほどよかったか、と思うほどである。一方、仏僧の家族というものは悲惨である。ともゑは、それが自分の身に降りかかることであれば、甘んじて受け入れてきたが、我々の子供たちのこととなると、話は別である。
(抑留所日記 第四巻、p188-189 阿満道尋による英訳を和訳)」
大正の内面の変容は、一徹な夫を支え続けるともゑの愛の深さと、彼女が送り続けた短歌が大きな役割を果たしている。聡明さと強靭な忍耐力を兼ね備えたアキラ・タナの母、田名ともゑ、米国で短歌を広めた立役者はどんな女性だったのだろう?
うるむ瞳(め)を
日記にはしらせいきつかず読み終りたり汗もわすれて
(『サンタフェー・ローズバーグ戦時敵国人抑留所日記』第一巻 250より)
(続く)