アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(2)

「サンタフェー・ローズバーグ戦時敵国人抑留所日記 第一巻 (山喜房佛書林 刊)」より抜粋 

   アキラ・タナの両親による幻の日記文学「戦時敵国人抑留所日記」からの抜粋です。アジア系アメリカ文化研究者、神田稔氏のご協力のおかげで、研究者の間で広く引用されている英訳の原文を閲覧することができました。その一部が上の引用文です。大正が「僧侶である」という理由から、FBIに逮捕され、他の日系要人と共に、サンタバーバラ刑務所から「日系人一時勾留所」に移送された直後の記述。その勾留所は、LAのダウンタウンから30kmほど北上した場所で、後に『E.T』のロケ地となったタハンガ(Tujunga)という山間地の「ツナ・キャニオン日系人一時勾留所」でした。アキラ・タナが誕生するちょうど10年前のことです。 

 この短い記述の中に、収容所の気候や、家族との面会の哀しさ、会話に日本語が禁じられるもどかしさが、映画の1シーンのように描かれ、悲惨な歴史の一端を垣間見せてくれます。 

<仏教東漸と家族愛>

ツナキャニオン勾留所内部

  田名大正師は、寺の嫡男や高学歴の、いわゆるキャリア組ではなく、実力で開教使というエリート職に抜擢された僧侶だった。収監されて外界と隔絶するまでは、家族よりも仏への帰依を重んじた人だという。180センチほどもある長身の堂々とした体躯と容貌は威厳を放ち、収容所内でも「聖人(しょうにん)さま」と呼ばれていた。だが、強靭な外見に反し、非常に病弱であったため、収容所での重労働を免除されていたという。
 収容所時代の大正は、戦争が終わった後、この異国の地でどのように仏教を広めようかと思索し、妻と子供の住む収容所の人々のために法話を書き、習字やこれまで叶わなかった英語学習などに時間を費やした。一方、東京帝国大学卒など、立派な肩書を持ちながら、拘留所で野球やギャンブルに興ずる「お坊ちゃん」開教使への批判を日記に綴りながら、大正は苦境の中で前向きな姿勢を崩そうとはしなかった。 

 他の日系一世の人達と同様、大正もまた大日本帝国の勝利を信じ、解放の日を心待ちにしていたのである。ところが1942年ミッドウエ-海戦で日本軍が大敗北を喫し戦況は暗転。そして入所して一年半経ったころ、大正はとうとう結核を発症し収容所内で病院暮らしを送ることになった。隔離された収容所で、更に隔離された大正の日記は、より内省的になり、妻と子どもたちに対する愛情がこれまでにないほど色濃く投影されていく。

 日系人拘留所の助成金プログラムによって行われたアキラ・タナのインタビューによれば、両親は結婚した当初は、お辞儀をして挨拶するほど他人行儀だったということです。皮肉にも見合い結婚した二人の恋は、戦争によって遠く引き裂かれた状況の中、文通という手段を通して、初めて燃え上がりました。日記には、名歌人であったともゑが大正送った短歌が挿入されている。そこに込められた想いが仏の道一辺倒だった大正の心の扉を開き、万葉集の人々のように恋や家族への思いを吐露する日記への変貌していく様子が感動的です。

(抑留所日記 第四巻、p188-189  阿満道尋による英訳を和訳)」

 大正の内面の変容は、一徹な夫を支え続けるともゑの愛の深さと、彼女が送り続けた短歌が大きな役割を果たしている。聡明さと強靭な忍耐力を兼ね備えたアキラ・タナの母、田名ともゑ、米国で短歌を広めた立役者はどんな女性だったのだろう? 

Daisho and Tomoe Tana

うるむ瞳(め)を
日記にはしらせいきつかず読み終りたり汗もわすれて

(『サンタフェー・ローズバーグ戦時敵国人抑留所日記』第一巻 250より)
(続く)

アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(1)

 

寺井尚之とアキラ・タナ
Hisayuki Terai-piano, Akira-Tana-drums May 2024

 サンフランシスコを拠点に各地で演奏活動を行う日系アメリカ人名ドラマー、アキラ・タナさんは現在72才、同い年の寺井尚之との親交は40年余りの長いお付き合いです。
 2024年5月にアキラさんを迎えて行ったコンサートは、一部が寺井の師匠Tommy Flanaganの演目、二部はアキラさんが長い間共演していたテナーの巨匠Jimmy Heathの作品集で、他では聴けないプログラムと演奏内容。ジャズ・ジャイアント、アキラ・タナの衰えを知らない実力と、音楽に対する造詣の深さをまざまざと感じさせる素晴らしい機会になりました。

「戦時敵国人抑留所日記」

 さて、日系アメリカ人二世であるアキラさんは、四人兄弟の末っ子として、戦後に生まれました。お父様、田名大正(たな だいしょう)さんは僧侶で、太平洋戦争前は、サンフランシスコの日本人コミュニティのリーダー的な役割を果たし、お母様のともゑさんは、戦後、宮中の歌会始に招かれたほどの名歌人で、地域の日本文化の担い手です。
 私がアキラさんのご両親に興味を持ったのは、アキラさんのNY時代、彼の自宅にご両親の名が記された立派な書物が数冊飾ってあるのを目にしたことがきっかけでした。それが「サンタフェー・ローズバーグ抑留所日記」です。
 それから何年も経ってから、私はこの本の名前と再び出会います。「取材の鬼」の異名を持つ作家、山崎豊子の長編小説『二つの祖国』を読んだとき、の名を、巻末の膨大な参考文献リストの中に見つけ、不思議なめぐりあわせの感覚を覚えました。(以下敬称略)

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 「サンタフェー・ローズバーグ抑留所日記」(田名大正 著、田名ともゑ 編、 山喜房沸書店)は、アキラの父、田名大正が、真珠湾攻撃のその日から、敵国人であるという理由で逮捕勾留された4年間に書き綴った貴重な記録です。戦後、妻、ともゑがその日記を編纂、1976年から’89年にかけて自費出版した四巻の書物は、総ページ数1500頁を越える壮大な日記文学です。現在は国会図書館などでしか読めない希少本、私はアキラさんにお借りしたり、英訳された抜粋で読みましたが、簡潔な文章の中に、宗教人として、ひとりの人間として、不条理な状況に立ち向かう赤裸々な想いが吐露されていると同時に、米国の抑留所にいながらも、大日本帝国の勝利を固く信じていた姿に心を揺さぶられました。
 最近になって、主に米国の仏教研究者がその価値を再発見し、英語版の翻訳作業も進行しているということです。思い起こせば、英語で育ったアキラさんが、猛然と日本語の読み書きを学んだのは、この日記の出版時期と重なっています。

 日本文学研究の権威、ドナルド・キーンは、その日に起こった事実を書き留める欧米の日記とは異なり、書き手の内面を日々記す、日本の日記文学の素晴らしさを事ある毎に説いていました。そして、キーン先生と日記文学との出会いは、第二次大戦中、南方に通訳として赴いた際、玉砕した兵士たちの遺品の中にあった血まみれの日記であったということです。同じ時期、米国の異なる不条理の中で書かれた大正の貴重な日記が周知されないのには、様々な理由があるのですが、それは追って書いていきたいと思います。

「アキラ・タナの父 田名大正」 

田名大正 Daisho Tana (1901-72)

 アキラの父、田名大正(Daisho Tana 1901-72)は、明治34年札幌生まれ、本人は子供時代の事を余り語らなかったということだが、後の研究によれば、貧しい家に生まれ、祖父母に育てられたとされている。尋常小学校卒業後、札幌の東の町、厚別にあった寺の住職に跡取りとして引き取られ、17才で得度(とくど:出家して僧侶になること。)した。

 大正は、幼い時に叶わなかった学問への情熱が消えず、親代わりの住職は、彼の志を汲み、京都にある浄土真宗本山、西本願寺へと送り出した。そこで大正は7年間研鑽を積み、海外での布教活動を担う「開教使」という役職に就く。そして、23才の若さで、台湾、そして米国へ赴任、多数の日系人が働くカリフォルニア、バークレーの仏教寺院で奉職した。

 やがて、三十代後半になった’38年に一時帰国、同じ北海道の寺の嫡男であった同僚の聡明は妹、早島ともゑとの縁談がまとまり、新婚夫婦揃ってカリフォルニアに戻り地域の日系人社会のために法務を続けた。

 この時代は見合い結婚が当たり前、一回り年上の夫の許に嫁いた途端、異国の地に向かったともゑの新生活はどんなものだったのだろう? 里帰りも叶わず、法務の手伝いや家事、出産、育児・・・新婚生活を楽しむ余裕はなく、月日だけが流れたのではないだろうか。夫婦が互いに深い男女の愛情を自覚したのは、戦争によって引き離されてからのことであったそうです。

 渡米して7年、アキラの兄になたる二人の男の子を授かった田名夫妻が、カリフォルニア州北部のロンポックという町で、法務と、日系子弟の日本語教育に勤しんでいた頃、真珠湾攻撃勃発、3ヶ月後、大正はFBIに連行されてしまう。

 FBIは、用意周到に在米日本人のブラックリストを作成し、スパイ行為やプロパガンダ活動を抑止する目的で、日系人社会でリーダーの役割を担う人々を根こそぎ逮捕した。ブラックリストに入っていたのは、日本人会、県人会、在郷軍友会といったグループの会長、日本語学校の校長、日系新聞社の幹部、そして仏教開教使と呼ばれる僧侶たちだ。

Tuna Canyon Camp

 大正はサンタバーバラ刑務所から、日本人の逮捕者が次の勾留地が決まるまで一時的に留め置かれる山岳部のツナキャニオン・キャンプ(上写真)に4ヶ月勾留後、カリフォルニアから1300km東に離れたニューメキシコ州に移送され、サンタフェとローズバーグ勾留所を往来、劣悪な生活環境のため、台湾時代に感染していた結核を発症しながら、終戦まで抑留されます。日系のリーダー達の勾留所は司法省管轄で、一般の日系人転住センターより遥かに厳重な、刑務所のような場所でした。

田名大正、ともゑ夫妻

 一方、排日運動高まる中、二人の幼児、そして三人目の子供を身籠りながら、夫の留守を守るともゑは、いつアメリカ人の襲撃を受けるかと不安な日々を過ごした。やがて、大統領令9066号が発効され、ともゑは息子たちと共に、アリゾナ州のヒラ・リヴァー転住センター(Gila River Camp:下左写真)に収容、砂漠の中の施設で、夫と離れ離れの生活を送ることになった。

 それまで当たり前であった日常の生活が、或る日突然に、どうしようもない大きな力に呑み込まれ、家族も財産も故郷の町も失われる、その人々の喪失感と、見えない未来…東日本大震災を契機に、アキラさんが、在米のミュージシャンたちとのバンド『音の輪』を結成し、精力的に被災地への支援を続けた原動力は、家族の歴史と、どこかで重なっているように見えます。(つづく) 

夫の手の我がに触るるとして醒めし目に入るものか星のまたたき 
田名ともゑ
My husband is about to touch my face;

When I awake from that dream, the flickering of stars enters my eyes.

アキラ・タナ- ロング・インタビュー(後編)

好感度満点!

パーカッショニスト Akira Tana (後編)

OFC_0118JJ coverlink.jpgJazz Journal Magazine 2018 1月号より:

=ボストンから世界へ=

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(前項から続く ハーヴァード大学からニュー・イングランド音大へ、驚異的な学生ドラマーとして地元シーンで注目を集めたアキラにとって、ボストン時代で最高の体験は1978年にやってきた。彼のアイドルであったソニー・ロリンズと共演する機会を得たのだ。このチャンスもまた、当時ロリンズのベーシストだったジェローム・ハリスとの仲間としての友情のおかげだった。  

s-rollins.jpgアキラ・タナ:「ソニーは、言わばドラムを含め、自己バンドの転換期にあった。それでジェリーがこう言ってくれた。『ソニーがNYでドラムのオーディションをやることになったんだけど、受けてみないか?』そこで僕はNYに出かけ、オーディション会場になっているリハーサル・スタジオに行った。-僕が一番乗りだったんだ。-そしてソニーと僕のデュオで演奏させられた。30分、45分…それくらいたっぷり一緒にやった。まるで夢が現実になったみたいだったよ。だって、あのソニー・ロリンズと僕が同じ部屋に一緒に居て、サシで演ってるんだから!僕の他にドラマーが2,3人、それにピアノやギター弾きも居たけれど、ロリンズは僕に、終わるまで残っているよう告げた。言われたとおり、居残っていたら、オーディションの終了後、彼が僕のところにやってきて、2週間のツアーに帯同してくれないかと言ったんだ。」


  ロリンズとの共演は、この若手ドラマーにとって強烈な体験となった。

「それまでボストン周辺では、ヘレン・ヒュームズと何本か仕事をしていたし、結構好評だったんだ。しかし、この種のハードな音楽でツアーをしたのは初めてで、精神的にも体力的にもクタクタになってしまったけど、とても貴重な経験になったよ…だって2時間で1セットなんだよ。彼はプレイを始めたら、止まることなく吹き続けるから…」 

 10年に渡るボストンでの生活に区切りをつけ、アキラは本格的なプロとしてのキャリアをスタートさせるためにNYに進出したが、ここでも、ボストンで築いた音楽的人脈が大いに功を奏した。そして、彼の成功の源は、ちょうど良いタイミングにちょうど良い場所に居ること、そして何事にも常に前向きな姿勢であるところだ。

Julian_Priester.jpg「ジュリアン・プリースターがNYでの仕事について言っていたことを思いだすよ。『人脈作りが仕事のうちだ。声がかかれば、自分にはいつでも仕事をする準備ができていると、皆に知ってもらうこと。いつでも彼に頼めると思ってもらえる状況を作ることだ。』自分でチャンスを作ること、存在を意識してもらうようにすること。それが彼の教えだった。」

 

 

  彼の教えどおり、アキラ・タナは、1980年代全般、NYを拠点したフリーランスのドラマーとして注目度が増す。信頼できるパーカッショニストとして、またバンド・メイトとして、音楽的にも人間的にも高い評価を得たことが、数え切れないほどの演奏とレコーディングを依頼される結果となった。多くの録音の中で特に思い出に残っているのが、ズート・シムズ(ts)との共演盤三作で、そのうち2枚はピアノにジミー・ロウルズが参加している。これらは非常にリラックスしたセッションとなった。

R-7503031-1442825362-8907.jpeg.jpg「ズートは言った。『これはレコーディング・セッションだ。だから時間どおりに来て、ドラムをセットして、演奏すりゃいい。』彼が曲名をコールすると、リハーサルなしで録音したんだ。あんなすごい人達と演奏するのは素晴らしいことだった。ジミーは名作曲家でありピアノ奏者、ビリー・ホリディやエラ・フィッツジェラルド…すごい人たちと一緒に演ってきた…だから、こんなすごい人達と付き合い、一緒に録音したものがレコードになって残るとは、本当にありがたいことだね。」

 

しかし、パブロでの録音の全てが、ズートやジミーとの関係のようにスムーズなわけではなかった。

 norman_granz.jpg「一連のセッションで、最も記憶に残っているのは、ノーマン・グランツとのことだ。録音場所がRCAのスタジオで、そこは通常、トスカニーニのような人の大編成オーケストラが使うような大スタジオだった。だだっ広いスタジオの中で、僕たちのセッティングが離れ離れの位置になっちゃった。おかげで、ピアノも、誰の音もちゃんと聴こえない。僕の位置は他のプレイヤー達から一番離れた隅っこだったから。それで、僕はノーマン・グランツに『ヘッドフォンを使わせてもらえませんか?誰の音も聴こえないんです。』と頼んだ。するとグランツのお説教が始まった。昔から、どの時代でも、誰もそんなものは使わん!だからお前も必要ないってね。それで、ちょっとイラっとして、『ズートの音も聞こえません。ジミー・ロウルズが何を弾いてるのかも聞き取れないんです。だからヘッドフォンが必要なんですっ!』と言い返した。そうしたら、やっと彼がヘッドフォンを持ってきてくれて、皆の音が聞こえるようになった。このレコーディング・セッションが忘れられないのは、多分それが理由なのかも知れないね。」

  NYに進出したアキラは、他にアート・ファーマー(tp)やキャロル・スローンといったミュージシャンとも共演。そして、ジミー・ヒース、パーシー・ヒースの”ヒース・ブラザース”の一員としての長期に渡る活動(1979-82)は、数枚のLPに結実し、彼の名声が確立する。NY時代は、ドラマーとして多忙を極め、多くのレコーディングにも参加している。もう一枚の思い出深いセッションは、1989年録音のジェームズ・ムーディのアルバム『Sweet And Lovely』である。

cover_039.jpg「ジェームズ(ムーディ)がセッション前にこう言った。『私の友人が一人、このセッションに参加することになっている。もうすぐやって来るはずなんだが…』彼は、その友達が誰だか言わなかったので、てっきり、からかっているんだと思ってた。だが、それはディジーだったんだ。ディジーがやって来て、3-4曲一緒に録音した。その中の一曲が強烈に記憶に残ってる。シャッフル・ブルースみたいなので、二人がスキャットしたり歌ったりし始めた。すると、エンジニアのジム・アンダーソンは、それををうまくヴォーカル・トラックに作り上げだ。そして、結果的にグラミー賞最優秀ジャズ・ヴォーカル部門にノミネートされた!」(ディジー・ガレスピーはこのアルバム中〈Con Alma〉と〈Get the Booty〉の2トラックに参加している。後者がタナの言及したシャッフル・ブルースで、ディジーは1957年、ソニー・ロリンズとソニー・スティットをフィーチャーしたVerve盤『Duets』に〈Sumphin’〉という別タイトルで録音した。)

XAT-1245399253.jpg 1990年代の到来とともに、アキラ・タナの活動主軸は”タナリード”となる。”タナリード”は、ベーシスト、ルーファス・リードとの双頭バンドとして、9年間に渡って活動を続けた。ジャズ史の谷間的世代にもかかわらず、この名コンビのアルバムは、何枚もヒットを記録している。

  僕はノーマン・グランツに頼んだ。『ヘッドフォンを使わせてもらえませんか?誰の音も聴こえないんです。』するとお説教だ。「昔からどの時代でもそんなものは使わん!だからお前も必要ない!」僕は少しイラっとした。 

「僕たちよりも前の世代は、時代を越えて高い知名度を保っているし、僕たちより下の世代となると、ウィントン&ブランフォード・マルサリスのように、ヤング・ライオンとしてマスコミに大きく注目されていた。だから、僕たちのような、中間に属する世代のプレイヤーは、彼らに比べると日陰の存在だ。でも、僕たち(タナリード)は、ツアーで自分たちの音楽を演奏することができた。本当に素晴らしい体験だったよ。」 

 ’90年代の終わり頃、家庭の事情でサン・フランシスコのベイエリアに戻った後も、アキラは、日本ツアーを時々行いながら、地元ジャズ・シーンで存在感を見せつけている。大都市NYの最尖端の音楽シーンでチャレンジを続けた時代を懐かしむ気持ちはあるものの、彼は自分の選んだ人生について達観している。

「確かに楽しい仕事のチャンスはあるよ。だがその一方で、生き残るために、余りグッとこない仕事もしなくては…そういう生活はうっぷんがたまる。あとになって後悔することを、最初からやるべきじゃない。」

 -悪くない人生哲学だ。そんな彼の生き方は、今後もジャズ・シーンに於いて、巨匠パーカッショニストとしての大きな存在感をずっと発揮し続けると強く確信させてくれる。(了) 

インタビュー by Randy Smith

Akira Tana Selected discography

As leader

Otonowa, Acannatuna Records

Moon Over The World, with Ted Lo & Rufus

Reid (Sons of Sound)

Secret Agent Men, with Dr. Lonnie Smith

(Sons of Sound)

As co-leader

TanaReid: Back To Front (Evidence)

TanaReid: Yours And Mine (Concord)

As sideman:

Al Cohn: Overtones (Concord)

Claudio Roditi: Gemini Man (Milestone)

Heath Brothers: Expressions Of Life (Columbia)

Heath Brothers: Live At The Public Theatre

(Columbia)

James Moody: Sweet And Lovely (Novus)

Zoot Sims: I Wish I Were Twins (Pablo/OJC)

Zoot Sims: The Innocent Years (Pablo/OJC)

Zoot Sims: Suddenly It’s Spring! (Pablo/OJC)

アキラ・タナ- ロング・インタビュー(前編)

 我らがヒーロー、興味の尽きないアーティストであり一人の人間、アキラ・タナが、今月後半から単身来日。5月3日にはOverSeasに待望の来演を果たします。

 ”Interlude”ブログ復帰初投稿は、英国のメジャー・ジャズ雑誌“ジャズ・ジャーナル”誌の1月号に掲載されたアキラ・タナのカバー・インタビューの日本語訳です。

 世界のどこに行ってもアキラさんは尊敬され好かれるんだ!という印象を新たにした読み応えのある内容でした。

 来日前にアキラさんのジャズ・ライフを覗いた後は、ぜひOverSeasにも聴きにきてください!

 長文なので、まず前編から:

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akira_tana_2016.jpg好感度満点!

パーカッショニスト Akira Tana 

1970-80s-ズート・シムス、ソニー・スティット、ジェームズ・ムーディはじめ、スイングからバップの激動期を生き抜いたベテランの巨匠と幅広く活躍したドラマー、アキラ・タナの素顔にランディ・スミスが迫る。

 

ソニー・ロリンズとの共演について:
「この種のハードな音楽でツアーをしたのは初めてで、精神的にも体力的にもクタクタになってしまったけど、とても貴重な経験になったよ…だって2時間で1セットなんだよ。彼はプレイを始めたら、止まることなく吹き続けるんだから・・・

「アキラ・タナはとてつもない才能のミュージシャンだ。私を含め、仲間たちから尊敬されている。…礼儀正しく素晴らしい人物で、長年、家族ぐるみで親しく付き合っている。」-この賛辞の言葉は、当時89才のジミー・ヒースが、”ヒース・ブラザース”時代のアキラ・タナについて、E-mailで寄せてくれたコメントの抜粋だ。

 また、ベテラン・ピアニスト、ジュニア・マンス(87才)も、同様の質問に対して、以下のように明言する。「アキラは滅茶苦茶すごいドラマーだ。彼自身も最高だし、どんな最高のミュージシャンたちと一緒に演っても、しっかりタイム・キープができる名手だ。」

 

 これらの発言から、多くのミュージシャンたちが、ライヴやレコーディング・セッションにアキラを好んで使う理由が、お分かりになるだろう。彼と共演した大物ミュージシャンのごく一部を挙げても、アート・ファーマー、アル・コーン、ズート・シムス、ソニー・ロリンズ、ディジー・ガレスピー、ジム・ホール、ジョニー・ハートマン、ジミー・ロウルズ、ケニー・バレル、ジャッキー・バイアード、クラウディオ・ロディッティ、レギュラーとしては、前述のザ・ヒース・ブラザーズ、パキート・デリヴェラ、アート・ファーマー+ベニー・ゴルソン・ジャズテット、ジェームズ・ムーディなどが続く。また、ベーシスト、ルーファス・リードとは”タナリード”を結成し、’90年代に、ほぼ9年間に渡りツアーやレコーディングを行なった。 

otonowafrontcover_227.jpg 近年のアキラ・タナの活動として“音の輪(Otonowa)”というグループがある。”Otonowa”は日本語で “sound circle”という意味だ。グループ結成のきっかけは、2011年に起こった東日本大震災だ。アキラと志を同じくするバンド・メンバーは、アート・ヒラハラ(p)、マサル・コガ(reeds)、ノリユキ・ケン・オカダ(b)である。”音の輪”は、同名タイトルのアルバムをリリース、日本ゆかりのメロディーを新鮮なジャズ・ヴァージョンに甦らせ、震災の被害にあった東北地方の慈善ツアーを何度も行なっている。

 だが、アキラ・タナは、このような活動に至るまでに、どんな経緯があったのだろう?それを解明すべく、筆者はスカイプ・インタビューを敢行。以下は、好感を抱かずにはいられない魅力あふれるジャズ・アーティスト、アキラ・タナとの楽しい邂逅のハイライトである。

 インタビューを始めるにあたって、私は彼が1952年3月15日、カリフォルニア州サンホセ生まれであることを確認し、日本人移民である両親の影響について尋ねてみた。

 

アキラ・タナ「僕の母親は歌人で琴とピアノを弾いていました。だから、”芸術”という意味では、多分母の影響があったのだろう。」

 

アキラにとって、生まれて初めての打楽器体験は、この母がレンタルしてくれたスネア・ドラムだった。また、彼はピアノのレッスンを受け、トランペットも少々演奏する。早くからロック・バンドでドラムの演奏を始めて、『Miles Smiles/マイルス・デイヴィス』のLPを手に入れたのがきっかけで、ジャズへの興味がわいた。

 

「多分8年生か9年生の頃(日本の教育制度では中2か中3)、ロック・バンドをやっていたんだ。バンド仲間は皆2-3才年上でね、メンバーの一人が、このレコードを好きじゃないからと言って、僕に1ドルで売ってくれた。マイルス・デイヴィスは聞いたことがあったので興味が湧いた。何をやってるのかさっぱり理解できなかったから。でも、そのレコードのサウンドに圧倒されてしまったんだ!」

 

’70年代初め、ボストンのハーヴァード大在学中、ドラマー、ビリー・ハートと親交を持ったことから、タナのジャズ・パーカッションへの興味が生まれた。ハートは、バークリー音楽院で教えるベテラン・ドラマー、アラン・ドウソンに師事するように勧め、アキラは彼の言葉に従い、1年半の間、ドーソンの元でしっかりと研鑽を積んだ。彼から叩き込まれたテクニックと練習方法は、現在に至るまで、後進の指導と自分自身が演奏に活用し続けている。

1974年、ハーヴァード大学を卒業したタナは、ニューイングランド音楽大学に入学、クラシック音楽の打楽器に関する基礎知識をしっかりと見に付けた。それと同時に、出来る限りギグに勤しんだ。

combatzone1.jpg「僕は、管弦楽の打楽器の学習に時間の大部分を費やし、その傍ら、生活費を稼ぐためにありとあらゆるギグをこなした。ボストンの”コンバット・ゾーン”(ボストンの赤線地帯)と呼ばれる赤線地帯でストリップの伴奏もやったよ。ストリップ小屋ではオルガン・トリオを使っていたからね。」

 

  ’70年代半ばから終わりにかけてのボストン時代、アキラはドラマーのキース・コープランドと親交を結んだことがきっかけで、単発で、ジャズの名手たちとの共演が始まる。共演者の中には、名歌手、ヘレン・ヒュームズが居た。

タナは当時を回想する。-「彼(コープランド)が(引き受けていたのに)都合の悪くなったギグは、それがどんな仕事であっても、僕に代役を回してくれた。その中の一本がヘレン・ヒュームズ(vo)で、バックがメジャー・ホリー(b)、ジェラルド・ウィギンズ(p)というメンバーだった。」

 他にも、ソニー・スティット(ts.as)やミルト・ジャクソン(vib)といった大物達にリズムを提供する仕事があった。その中でもスティットとの1週間に渡るギグは特に思い出が深い。

sonnystitt.jpg 「ソニー・スティット!いつも彼はかなり酔っ払っていた。ベーシスト のジョン・ネヴスは、ソニーと同世代だが、ピアノのジェームズ・ウィリアムズと僕は、ずっと若造だった。そのせいかもしれないが、ソニーは演奏中に、何度か僕とジェームズの方へ振り返って、どなりつけたんだ。当然だけど、震え上がったよ。まず彼の才能のすごさ、そして彼の振る舞いにね。でも、ジョン・ネヴスはさすがに、そういう時はどうすればいいかを知っていた。『つけ込まれたら、やり返せ!』だね。それでソニーにこう言ってくれた。『ギャーギャー言わずに、プレイしろ!』するとソニーは彼の言う通り怒鳴るのをやめて、前を向いてひたすらプレイしたんだ。」

 

アキラにとって、ボストン時代で最高の体験は1978年にやってきた。彼のアイドルであったソニー・ロリンズと共演する機会を得たのだ。このチャンスもまた、当時ロリンズのベーシストだったジェローム・ハリスとの仲間としての友情のおかげだった。(続く)

39thlogo.jpg39周年記念ライヴ5/3-5/5開催

アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(5) 母ともゑのカレッジ・ライフ

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アメリカの
国歌うたいて
育つ子に
従い行かん
母我の道

 上の一首はアキラさんの生まれる前の年、夫の任地であった日米開戦の地、オアフ島、ホノルルで詠まれた。戦時中、日本人であるが故に被った様々な苦難を乗り越えたともゑの決意が31文字に凝縮されている。深みのある彼女の短歌には、独特の清涼感が漂っていて、アキラ・タナのドラミングと相通ずるものを感じます。この短歌に感銘を受けた大歌人、斎藤茂吉は 「下の句で、アメリカの国歌を歌う子供達の幸福を願う母の心情が明瞭に浮かび上がる感動的な一首。」と評した。

<よく学び、よく教え>

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 最愛の夫、田名大正を看取り、息子たちを立派に社会に送り出した時、ともゑはすでに還暦を過ぎていた。高校時代のアキラ・タナを鮮烈に捉えたドキュメンタリー映画『マイノリティ・ユース』で、「母は英語を勉強したいと思ってるけど、なかなか余裕がない。」という独白から十年、やっと勉強のチャンスがやって来たのだ。

 
  異国の生活と太平洋戦争、夫と離れ離れで収容所に4年間、その後は家族を支え、早朝から夜中まで27年間働き続けた人ならば、「余裕」ができると同時に、エネルギーが尽き果てて、波乱万丈の人生をフィードバックさせながら余生を送るのが普通ですが、ともゑは違った。真っ直ぐな瞳は曇ることなく、妻として、母として、一人の人間として、思い出を将来の遺産にしようと、まっしぐらに進みます。何十年という苦労の蓄積をエネルギーに変えてしまう力は、一体どこから受け継いだのだろう?それとも、その歳月を苦労とも思っていなかったのだろうか?

 念願の英語習得のため、近郊の州立”フットヒル・カレッジ”に入学したのが61才。 社会人大学生なんてゴロゴロ居る米国でも、毎日バスで通学し熱心に学ぶ熟年学生であり天皇に選ばれた歌人を、コスモポリタンな気風溢れる西海岸は放っておかなかった。しばらくすると、所属大学や傍系の文化センターに請われ、習字や琴といった日本の伝統文化の教師として大活躍するともゑの姿が評判になります。

tomoe_tana_teach_stanford.jpg 左の写真はスタンフォードの”イーストハウス“というアジア文化センターで教えるともゑを報じた新聞記事。「Tomoe Tana: 学生の身でありながら、教える事多く」の見出しの元 これまでの波乱万丈の人生と、歌人としての功績とともに、「ウィークデーはフルタイムで受講と教授を続け、授業に欠席したのはたった一度だけ。毎(土)には、自宅で育てる花を山程抱えて、夫と同胞の墓参りを欠かさない。学生たちは、習字や琴、そして彼女の人生から、多くを学んでいる。  と紹介されています。一流教師であると同時に、幅広い教養と、彼女の人柄が、多くの人々を魅了したようで、これ以外にも、ともゑは地元の新聞にたびたび掲載されている。これらの学業と並行して、短歌活動と、亡夫、田名大正の「敵国人抑留所日記」の丁寧な編纂作業と自費出版を10年間続けているわけですから、彼女のパワーの凄さは、想像もつきません!

 <学問の理由>

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 ともゑは学業も、自己満足の教養では終わらせなかった。じっくり急がず、6年かけてフットヒル・カレッジを卒業、1979年には、正真正銘の名門校、サンノゼ州立大学に入学し、’82年に学士号を取得した。その頃には、ともゑの英語力は、多くの人々を前に感動的なスピーチが出来るほどになっていました。

 彼女は、LAの国際的スピーチ団体で、日系一世、69才の学士として、「父の日の輝く贈り物」という講演を行っている。

 いったい何故、この年になって学士号を取ったのか?このスピーチで、ともゑは3つの理由を挙げた。

 1. アメリカ市民である子どもたちに付き従うため。
 2. アメリカで幸福な人生を送るために、他の人々と同じ立ち位置に付きたかった。

 3. 最大の理由は19才のときに亡くなった父(享年52才)の遺志に報いるため。
  「私の父は、幼い頃病弱で、小学校5年生までしか学校に通えませんでした。中学に復学できた時、弟と同じクラスで授業を受けるのが苦痛で、学校に行かず、寺に入り学問を受けたのです。出家後は、開拓時代の北海道に赴き人々に尽くし、名僧と呼ばれるほどになりました。父には、国作りには、何よりもまず若者の教育が必要!という信念がありました。私は9人兄妹ですが、父は、さらに10人以上の恵まれない子どもたちを引き取り養育し、実技や高等教育を受けさせました。子どもたちの中には、日本やドイツで大学教授と成った者、医師となった者も居ます。それでも、父は高等教育を受けられなかったことを終生悔いていました。
 このたび私が頂いた学位は、亡父への『父の日の贈り物』です。」

  ともゑは、別のインタビューで英語習得の目標について、さらに語っている。

  「亡夫は、日記と法話の本を三冊遺しました。私は夫の哲学を子や孫に伝えたい!日系の若い世代は、どんどん日本語を話さなくなっています。私がこれらの本を英訳しなければ、夫の遺産は失われてしまいますから・・・」

 

<アメリカ発:日系短歌史>

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  卒業後、さらに上を目指し、迷わずサンノゼ大学院史学部に進んだともゑは、米国の短歌発展史という前人未到のテーマに取り組んだ。2年後、「The History of Japanese Tanka Poetry in America (アメリカに於ける日系短歌史) 」と題する論文(’85)で、修士号を授与されます。

tomoe_autograph.JPG 借り物ではない筆者自身の英語で書かれたこの論文はネット上でも読むことができます。私は幸運にもアキラさんから紺色の革で丁寧に装丁された元本をお借りしました。(左は本の内側に書かれていたサインです。) 私も時たま文学系の学術論文を読ませてもらう機会があるのですが、ともゑの著作は「修士論文」のレベルを遥かに超越しています。

 「短歌」に馴染のない読者が明瞭に理解できるように、日本書記に遡る短歌の起源や、米国でより知名度の高い「俳句」と比較し、「短歌」という詩形式を定義付けた上で、米国、南米、カナダを網羅した短歌史を明瞭に述べている。

 この論文を読んで、ジャズや短歌、スポーツ、何事でも、それがどんなものか知るには、その分野の名手で愛情と知識のある人に訊くのが一番だという事を改めて実感しました。日頃、三十一文字に全く無縁で無学な私も、この論文を読んで、「短歌」をもっと知りたくなりました。

 本論中、とても興味を惹かれたのは、米国に於ける短歌運動のパイオニアが泊良彦(とまり よしひこ)という植木屋さんだったというところ。泊は50年間、庭師として労働する傍ら、戦前から短歌会を主宰して、この詩芸術を大いに広めた。彼の非凡なところは、自分の派閥にこだわらず、他の短歌サークルからも広く秀作を集めて歌集を編纂したこと。収容所時代、自らガリ版で短歌を印刷、他の収容所にも回覧し、短歌運動を展開、先の見えない苦難の日々の中で、短歌は多くの日系人、日本人の心の拠り所となっていったというのです。そして、この時代が分岐点となり、日系人短歌の芸術性が飛躍的に向上したことを、ともゑは、様々な実例を挙げて論証していきます。「受難の時代が、芸術の開花を促す」というのはジャズの歴史と共通していて、ともゑの論文にすごく共感しました。

 論文には、ルシール・ニクソンなど、非日系アメリカ人の短歌運動史や、研究者でなくても、興味をそそるアペンディクスもたっぷり!活動範囲が広すぎて、今だ実態が掴めない伝説の文芸評論家、木村穀が企画した日系人短歌集、日米の新聞雑誌に掲載されたものの、本としては未出版の「在米同房百人一首」を、一挙日本語と英訳を合わせて付録にしている。そこには、短歌翻訳に関する留意事項もあり、翻訳者としても見逃せないコンテンツ満載の論文でした。

 ともゑはこの論文を亡き親友、ルシール・ニクソンに捧げ、結論で「短歌を詠む」という行為について、ジャズの即興演奏に通ずる見解を述べている。

 「短歌創作は決して特別な作業ではない。短歌はその人の人生であり、感じたこと、思うこと、それらが短歌として日常的に湧き上がるものである。(デューク・エリントンだ!)・・・短歌創作は、人間の隠れた一面であり、日々の仕事と離れた余暇の世界、短歌にはそれぞれの平安と喜びが表現されている。
 私は短歌が、それぞれの人の、様々な心の模様を表現するかたちであることを、このアメリカの、内に秘めた詩心が花開かずにいる未知なる人たちに知らせたい。この研究が、全人種の未知なる詩人たちにとって、真の美しい人生を送る一助になることを、そして日系人短歌活動が、アメリカの未知なる詩人たちに受容されることを祈る。」

 前人の研究や参考文献はほぼ皆無、ゼロから論拠と考察を行って自説を構築した短歌論、一体、ともゑはどれほどの努力と時間を費やしたのだろう?出来上がったアメリカの日系短歌史は、あくまで清明な筆致で、気負いや自己陶酔の痕跡は一切見つからない。でも、クリスタルで論理的な考察の行間には、短歌に貢献した亡き同胞や親友への愛が溢れていた。私は学術論文を読んで初めて泣きました。 

 この素晴らしい論文から6年後、1991年4月、ともゑは77才で、最愛の夫の元へ旅立ちました。

 ともゑの死後、遺族と友人は、ともゑの母校、“フットヒル・カレッジ”に「Tomoe and Daisho Tana Scholarship」という奨学金制度を設立。日米の相互理解の促進を目指す学生たちを支援しています。

 田名大正、ともゑの歩んだ稀有な人生、私も、このパーフェクト・カップルが差し出したバトンを受け取るために、これからも二人の歴史を調べていきたいと思っています。 ともゑさんのように、あせらず、ゆっくりと。

(この章了)

アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(4) 母ともゑ:愛と気骨の人

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  意外にも、アキラ・タナは高校時代に、教育用の短編ドキュメンタリー映画に主演しています。映画のタイトルはズバリ“Akira( 照)”(BFA Education Media, ’71)で、アメリカの様々な少数派に属する若者の青春像を描く”Minority Youth”というシリーズの一編。日米二つの文化の間で戸惑いながらも、アイデンティティを確立していく日系人少年、アキラさんの姿や、両親との日常生活が描かれていて、15分の短編ながらとても心を打たれました。

映画の中で、少年時代のアキラ・タナは母、田名ともゑについてこんな風に語っています。

 「母は長い間、よその家の掃除や庭仕事をするメイドをして、僕たち家族を養ってきた。その合間に短歌を創っている。朝早くから起きて、夜中まで台所で皿洗いをやっている。母がどうやって時間をやりくりしているのか、僕にもわからないほどだ。母は結婚するまで日本で教師をしていた。だけど、英語がうまくないから、こっちでは教えられない。英語をちゃんと勉強したいと思ってるんだけど、その余裕がないんだよね。」
 アキラは日本人らしく謙遜して、お母さんのことを語ったのでしょう。実のところ、ともゑは、すでに「Tanka Poetry」として北米に大きく広がる短歌運動の担い手の一人でした。後には、「英語の習得」どころか、日米の短歌史に関する素晴らしい学術論文(もちろん英語で)を発表して修士号を取得しています!日本には、世界に誇る美女や芸術家、偉人も沢山いるけど、私は、ともゑさんのような人生の歩き方をした女性は、他に知りません。

<家政婦、青い目の歌人を育成する>

tomoe_3.png(田名ともゑ1913-1991)

  戦後、晴れて家族一緒の暮らしを再開したともゑは、仏に仕える病弱な夫と、食べ盛りの幼い子供たちの生活を支えるために、家政婦として、様々な上流家庭に出入りしました。アキラさんは、1952年、戦争を知らない末っ子としてサン・ノゼで生まれパロ・アルトで育っています。一家がパロアルトに落ち着いた頃、ともゑは、地元の教育委員会の役員であったルシール・M・ニクソンという女性宅で、毎週掃除をすることになります。このニクソン女史は町の名士、詩人でもあり、GHQ日本占領時代、少年時代の平成天皇(明仁親王)の家庭教師となったエリザベス・ヴァイニング夫人の親友でもありました。ニクソンがともゑを雇い入れたのは、このヴァイニング夫人の推薦で、おそらくは天皇の歌会始に選ばれたことを知っていたからかも知れません。


 ある日、ニクソンが、ともゑに自作の詩を見せると、「あなたの詩は日本の短歌ととても似ていますね。」と言われた。どこまでも嘘のない誠実な瞳を持つともゑの言葉に、ニクソンの知的好奇心は否応なく刺激されます。たちまち二人は意気投合!いつしか、女主人が在宅している時は、ともゑが掃除機を動かす暇はなくなっちゃった。ともゑは家庭教師として、彼女に請われるまま、日本語と短歌を教えることになり、掃除は彼女が留守の時しかできなくなってしまったのだそうです。
 いつしか、二人は無二の親友となり、「日本書紀の時代から受け継がれてきた独自の詩形式、短歌を米国に広めよう!」という共通の目標を持つようになりました。英語の短歌創作、在米日本人の詠んだ短歌の味わいを、そのまま生かした英訳、という課題に取り組み、パロアルトの公立小学校のカリキュラムに短歌を導入するという事もしています。ニクソンは、一方で、日本語による短歌創作にも励みました。

lucileAS20140124002490_comm.jpg 1957年、ニクソンは日本でも大注目されることになります。新年の宮中歌会始に彼女の作品が見事選出されたのでした!高額な渡航費にも、地元有志や短歌会から寄付が集まり、ニクソンは儀式への参列をすることに!その年の歌の御題は「ともしび」で、ニクソンの歌は日本への想いを綴ったものでした。

「あこがれの
うるはしき
日本法隆寺
ひるのみあかし
いつまたとはむ」
(大意:私は憧れの日本にやっと来ています。法隆寺に入ると、昼間からともされる灯明に、浮かび上がる荘厳な伽藍の様子に心打たれます。いつかまた、この光景を見ることはできるのでしょうか・・・)

 昭和天皇より「日本と米国の文化の懸け橋になってください。」とお言葉を賜ったニクソンのニュースは「青い目の歌人、宮中歌会始へ!」と、当時の日本のメディアで大きく報道されました。 (左写真)

 8年前、同じように選出の光栄に浴したともゑは、宮中に参じることはできなかったけれど、親友の快挙を自分のことのように喜んだのでしょう・・・

 この後も、二人は自分たちが英訳編纂した短歌を一冊の本にして出版しようと仕事を続けます。この計画が成就する目前の’63年、ニクソンは鉄道と自分の車が衝突するという事故によって不慮の死を遂げ、彼女が保管していた校正原稿が紛失するという憂き目に遭ってしまいます。

 でも、ともゑは決してくじけなかった。

<友情と不屈の精神>

 ともゑは、ニクソンの死によって失われた校正原稿を、独力で復元し、英語で読め4193CUpobbL._SY344_BO1,204,203,200_.jpgる日系人短歌集『Sounds from the Unknown (未知の響き)』として出版にこぎつけ、ニクソンへの追悼としました。一言で「復元」といっても、パソコンもワープロもない時代、それがどれほど忍耐力と知力の要る大変な作業であったのか・・・想像することすらできません・・・

 ともゑの情熱は、衰えることなく、1976年には、亡きニクソンの短歌と彼女の伝記を『Tomoshibi』という本にして、自費出版を成し遂げます! この本に感銘を受けたのが、アーカンソー州立大の教授で詩人でもあるウェズリー・ダンで、『Tomoshibi』は、彼の授業の教科書として採用されます。ともゑの友情が、短歌をひとつの文学スタイルとして最高学府に認知させたわけです。これらの出版物の収益は、さらに夫の「勾留所日記」4巻の自費出版資金にもなっていきます。

  51549-TWJGL._SL500_SX314_BO1,204,203,200_.jpg これらの短歌集にせよ、夫、大正の「抑留所日記」の編纂にせよ、どの作業も途方も無い労力と心配り、そして時間が必要です。どの仕事も、自分の功名のためではなく、短歌への愛情、夫や親友への愛情、そして後の世代へ伝えたいという不屈の熱意によって実現したものばかり。彼女の愛の大きさと、しなやかで鋼のように折れない意志に、ほんとうに心を打たれます。

 もし、私が入稿寸前に、パートナーと原稿の両方を失ってしまったら、どうしただろう?

 もし私が、朝から晩まで、家族の世話と、他のお宅の掃除に明け暮れていたら、短歌の創作だけでなく、他人の作品まで愛情をこめて、英語で編纂することなんかできただろうか?

 田名ともゑさんの愛の力は底知れないほど凄い!

  そして、映画でアキラさんが語っていた、ともゑの「英語習得」の熱意もまた、息子達への深い愛に根ざしたものでした。末息子のアキラさんをハーバード大学に遣り、4人の息子全員が立派なアメリカ市民として独立したのを見届けたともゑは、とっくに還暦を過ぎていましたが、迷わず地元の大学に入学します。(つづく) 


 Special thanks: 短歌の大意について助言してくださった Wakamiya Makiko様、ありがとうございました!

アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(3) 母ともゑ:しなやかな人生

daisho_tomoe_tana_berkeley_buddhist_church5.jpgカリフォルニア州バークレー仏教会にて (1941) Photo from “A Century of Gratitude and Joy”

:Courtesy of Akira Tana

  アキラ・タナの音楽に導かれて知った、米国の日本人達の苦難と再生の姿は、自分の両親が体験した色々なことと重なり合って、興味は尽きません。上の写真は、アキラさんからいただいたご両親の写真です。前列中央、黒っぽい洋装のカップルが、田名大正、ともゑ夫妻。これは太平洋戦争直前戦前、人種差別のため住む場所に困る日系青少年のために、二人が資金集めに奔走して、カリフォルニア、バークレーの仏教教会に併設した学生寮(自知寮=Jichiryo)で寮生たちと記念撮影したもののようです。

 西海岸の陽光に負けないみんなの晴れ晴れとした笑み!この場面から、わずか数カ月後に太平洋戦争が始まり、「自知寮」はおろか、仏教教会も、日本人の町もあっというまになくなった。大正は他の日系リーダーと共に検挙され拘留所へ、身重のともゑと息子達は、大正と引き離され、アリゾナ砂漠の収容所で4年以上の歳月を送りました。ともゑは収容所内で三人目の男の子を出産し、何百キロも離れた夫との文通が二人の愛をさらに強く深いものにしました。二人が交わした手紙は800通近くに上ります。大正は結核に倒れますが、心は病むどころか、家族愛によって宗教家としての新たな展望を開きます。勾留所生活と病気という二つの苦難を抱えた大正は、次世代の日系人のために法話を書き続け、それを受け取ったともゑがガリ版で印刷して同胞達に回覧しました。同じ施設に拘留された位の高い僧侶達の中には、本道を忘れて野球やギャンブルに没頭する者も多かった中、病気の大正が常に前向きで居られたのは、ともゑの手紙の力であったかも知れません。

 激動の歴史を生きたアキラ・タナの母、田名ともゑはどんな女性なのだろう?

 調べていくと、ともゑは、大正の日記の他に、何冊もの短歌集を編纂し、出版していました。子育てを終え、60歳をすぎてから英語を学び、大学から大学院に進んで修士号を取得しています。
 晩年は地元パロアルトの名士として、尊敬された田名ともゑ、この人の業績は多岐に渡っていて、もう、どこから手を付けていいかわからないほどです。

 田名ファミリーのご厚意で、近いうちに大正の「抑留所日記」は原文で読むことが出来そうですので、後でゆっくりと調べることにして、その他の彼女の半生について書いてみます。

  <自分の道を拓く人>

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Tana Family (circa ’54 or ’55): photo courtesy of Akira Tana
田名大正師を中心に、ともゑさんと膝に抱っこされている幼いアキラさんと3人の兄(Yasuto, Shibun,Chinin: 敬称略)

 田名ともゑ(1913-1991)は北海道の寺の娘、父は名僧の誉れ高く、姉妹兄弟全て仏教に仕える家系の出身で、ともゑ自身は小学校の教諭をしていました。開教使仲間で、渡米後、大正の親友となったともゑの兄、早島ダイテツ(漢字不詳)が、二人の仲を取り持ち、ともゑと大正は祝言の後すぐに、赴任地に赴きました。1938年、ともゑ25才、大正37才、カリフォルニアに着いた翌朝、大正は新妻にこう言いつけたそうです。

 「これからは自分で正しい道を見つけなくてはならない。さあ、まず手始めに、サンフランシスコまで一人で行って帰ってきなさい。」

 ともゑは夫の言葉どおり、英語が全くできないままに、初めての土地でサンフランシスコ湾を渡り町を目指し一日がかりで歩き回った。まさに”ロスト・イン・トランスレーション”!でもちゃんとシスコの町までたどり着き、夫が帰宅する夕方にはちゃんと家に戻っていた。

 このエピソードは、少年時代に田名家の子どもたちと交流し、ともゑさんに習字と短歌を教わったアーティスト、ゲイリー・スナイダー修士論文「A Profile of Tomoe Tana」で見つけたものです。困難に遭遇しても、打ち克つのではなく、受け容れて、慌てることなく、素直に努力する。そのうちに、いつの間にか新しい道が拓けている。これこそともゑ投げ!それは北海道の開拓者魂と、仏教のこころに裏打ちされた比類ない資質を象徴した話のように感じます。

<肝っ玉母さん>

 収容所を出てから半年、やっと家族の再会が叶った後、ともゑは病弱の夫を支え、4人の息子を米国市民として立派に育て上げた。

 長男 Yasutoは名門公立大学、カリフォルニア州立バークレー校卒業、軍人となり米国海軍少佐まで出世しました。(日系社会に詳しいお客様によると、少佐にまで昇進できる日系人は極めて少ないらしい。)次男、Shibunはサンホセ州立大からIBMへ、三男、Chininは、ハーバード法科大学院(ロースクール)から弁護士になった。三兄弟から10歳以上年の離れた末っ子がアキラ・タナ、彼もまた全額奨学金でハーバード大学から法科大学院を卒業していますから、どれほど秀才の兄弟なのかは私にも想像がつきます。アキラは、ほかの兄弟と同じようにエリートとして安定した生活が保証されているのに、家族の猛反対を押し切って、音楽に方向転換、名門ニューイングランド音大の打楽器科に在籍中、すでに世界的なミュージシャンと共演を重ねていました。そのあとは皆さんご存じのように、在米日本人ではなく、メジャーの檜舞台に上る日系人ミュージシャンのパイオニアとなりました。

 アキラさんの「道の拓き方」もまた、両親の影響なのかも知れません。

 それにしても、夫の大正は、宗教家として余りにも誠実な人だった。常に、己よりも他の人々の利益を優先させ、法務のお布施で家族の生活を賄うことに常にジレンマを感じる僧侶、そして病弱でもありました。4人の男の子をおなかいっぱい食べさせて、一流大学に行かせるための生活費はどうしていたのだろう?

 一家の生計を支えるために、ともゑは家政婦として働いた。

 真面目で清潔好きな日本人のハウスボーイやメイドを置くことは、ビヴァリーヒルズはもちろん、当時の米国上流家庭の一種のステータスだったそうですが、元敵国人への憎悪や人種差別もあからさまな時代、短歌や琴や習字も教えることのできる女性の適職というわけじゃない。ともえは30年近く、色んなお家の掃除をして働いていた。家の用事は深夜に済ませ、夫や子どもたちにも不自由な思いをさせないスーパー肝っ玉母さんです。この家政婦の仕事が、ともゑの短歌の業績につながっていくのだから面白い!

 子育てと家政婦の傍ら、彼女は日系人の短歌サークルを主催し、創作を続けています。ほんとに、どうやって時間を工面したのか、息子のアキラさんにも謎だったと言います。とにかくエネルギーと知性と心身の健康がなければ、そのうちのどれひとつもちゃんとできませんよね。三千年の歴史を持つ「短歌」という詩の形式は俳句よりもっと認知されるべき日本の文化だ!ともゑの夢は「短歌」の素晴らしさを日系の次世代に伝え、さらに英語のTankaとして、米国で広めることだった。

 1949年、ともゑが詠進した短歌は宮中歌会始に入選を果たします。

 その年のお題は「朝雪(あしたのゆき)」 ともゑの作品は現在も宮内庁HPで読むことが出来ます。

アメリカ合衆国カリフォルニア州 田名ともゑ
ふるさとの朝つむ雪のすがしさを加州にととせこひてやまずも

  (カリフォルニアで十年の歳月を経ても、故郷で朝に積もる雪の清々しさ、その情景が恋しくてたまらない。)

 故郷、北海道の「朝つむ雪のすがしさ」は、無垢な少女時代への憧憬かも知れない。ただ残念なことに、ともゑは宮中でこの作品の詠唱を聴くことは出来なかった。入選の通知が届いた頃には、歌会始の儀はとうに終わっていたからだ。ただ、もしちゃんと知らせが届いたとしても、日本への往復の渡航費を捻出できたかどうかは分からない。

 夫の赴任先ハワイでの2年間の生活の後、’51年、一家は再びサンフランシスコに戻り、ベイエリアの町、パロアルトの寺に落ち着きました。その間も、ともゑは家政婦として働き続けます。平安の昔、上流階級の遊びであった短歌が、米国で庶民の文化になったことを、ともゑは身を持って示した。やがて、家政婦としてともゑを呼んだ女流詩人、ルシール・ニクソン(1908-63)と運命的な出会いを果たすことになります。(つづく)

 

lucileAS20140124002490_comm.jpg Lucile Nixon はカリフォルニア州パロアルトの教育者、詩人、ともゑに短歌を師事、1956年

宮中歌会始に入選し「青い目の歌人」として日本でも大きな注目を浴びた。