昨日は「トミー・フラナガンの足跡を辿る」で“Sea Changes”を皆で一緒に聴きました。
アルバム録音直後にOverSeasでライブを行ったときの思い出や、終演後のアメイジングな練習風景など、皆一緒にOverSeasの旧店舗にタイムスリップした気分。月蝕に「Eclypso」を聴くと魔法が起こるのかもしれません!
参加くださった皆様、本当にありがとうございました。
さて、トリビュート・コンサートの前に、マシュマロレコードの上不さんから999枚限定の貴重なLPの差し入れが!
それは<J.J. Johnson In Sweden 1957>
収録の全11曲の内、Track1-5は、トミー・フラナガンがウィルバー・リトル(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)と『Overseas』を録音したスエーデン・ツアーの2日目に録音されたもので、残りはNYとNJの録音だそうです。詳しくはネット上のライナーをどうぞ。
上不三雄氏直筆のライナー・ノートによれば、『Overseas』を産んだJ.J.ジョンソン5の楽旅は2ヶ月に及ぶもので、コンサートの殆どが野外の公園であったそうです。ライナーにはツアー日程が仔細に掲載されていて興味深いです。J.J.のクインテットがベルギーでTV出演した映像が残っているとあるので、ぜひ観てみたいですね!
トミー・フラナガンの話では、『Overseas』の録音スタジオは、ストックホルムを襲った豪雨で浸水しひどい状態だったといいます。そうすると野外公演は主体のツアーは大幅な予定変更を強いられたものだったのかも知れませんね。ダイアナに聞いてみなければ!
クインテットのメンバーは、J.J.Johnson(tb,trombonium),Bobby Jaspar(ts,fl),Tommy Flanagan(p),Wilbur Little(b),Elvin Jones(ds).という布陣。傑作『Dial J.J.5』のような端整でダイナミックなアンサンブルが楽しめます。
J.J.ジョンソンは、普通のスライド・トロンボーンと、トロンボニュームというヴァルブ・トロンボーンに似た楽器を使っていて、一番上のジャケット写真にも写っています。
寺井尚之も『J.J. Johnson In Sweden 1957』に大満足。
「最高の録音であるとは言えないが、さすがのレギュラー・コンボ!さすがのJ.J.ジョンソン!音楽の内容が素晴らしい!
ライブ録音もスタジオも、どれをとってもマスター・テイクや!これはすごい!!」と、nbsp;口を極めて絶賛していました。J
.J.ジョンソン・ファン、トミー・フラナガン・ファンは必携ですね!
収録曲もJ.J.ジョンソン・ファンならお好みのものばかり!
1. Thou Swell (R.Rodgers)
2. Undecided (C.Shavers)
3. Never Let Me Go (J.Linvingston)
4. It’s Only a Paper Moon (H.Arlen)
5. A Night in Tunisia (D.Gillespie)
6. Solar (M.Davis)
7. Thad Ben Wess (T.Jones)
8. It’s All Right with Me (C.Porter)
9. Undecided (C.Shavers)
10. Chasin’ the Bird -take 2 (C.Parker)
11. Chasin’ the Bird -take4,5 (C.Parker)
「7.サド・ベン・ウエスだけ知らないなあ・・・」と思ったあなたはJ.J.ジョンソン検定合格です!これは、サド・ジョーンズのBird Songですよ!
LPは重量盤で999枚限定、急がないと売り切れ間近かも…アナログ・プレイヤーのない方はCDもあるのでご安心ください。ジャケット写真のトミーがカッコイイね!
ハマの親分、上不さま、ありがとうございます!
J.J.ジョンソン・クインテットの第一期黄金時代を記録した<J.J. Johnson In Sweden 1957> Check it!
カテゴリー: ジャズのサムライ達、聖人達
ウォルター・ノリスさんを悼む
寺井尚之とOverSeasにとって掛け替えのない巨匠が10月29日に亡くなりました。アート・テイタムの流れを受け継ぐピアニスト、ウォルター・ノリスを聴いたことはありますか?ぜひ聴いてみてくださいね!
ウォルター・ノリス(1931-2011) 写真は名盤 『Another Star』
オーネット・コールマンの歴史的アルバム『Somethin’ Else!!!』に参加したことよりも、私達にとってウォルター・ノリスは、サー・ローランド・ハナ以降のサド・メルOrch.最高のピアニストであり、ジョージ・ムラーツやアラダー・ペゲなど、超絶技巧のベーシスト達とデュオを組むことにで、一層プレイが開花する音楽的会話の達人でした。’70年代後半からヨーロッパに拠点を移し、ドイツで結婚、ベルリン芸術大で教鞭を取りながら、レコーディングやコンサート活動を続けました。
アーカンソー州出身のノリスさんは、同郷のクリントン大統領時代、’95年に州の「ジャズの殿堂」入り。ハーレム・ストライドから現代音楽まで、何を弾かせても、極上のタッチと迸るジャズ魂で、鮮烈さと幽玄を併せ持つノリスさん独特の世界を現出させていました。
初来日は’50、ミュージシャンでなく通信兵として佐世保基地に駐留し、地元のジャズ・ミュージシャン達と連夜ジャムセッションに明け暮れたそうです。その後、サド・メルOrch.やコンコード・ジャズフェスティバルで日本ツアー、2003年にOverSeasの要請で夫妻で一週間大阪に滞在。大ファンだったとはいえ面識はただの一度もなかったんです。
<それは一通のメールから始まった>
2003年にOverSeasにノリスさんがやって来たのは一通のメールがきっかけです。常連様の強い要望があり、ノリスさんのHPからメールをしてみました。寺井尚之とOverSeasのことを説明して、フラナガンやサー・ローランド・ハナ亡き後、アート・テイタムのタッチを思わせるのはノリスさんしかいないので、ぜひ大阪に来て演奏してほしいという内容であったと思います。
すぐに返事が来て、とんとん拍子に歓迎会を兼ねた演奏会とセミナーを開催することが決まりました。滞在期間は一週間、プライベートで京都の苔寺(西芳寺)に行きたいというのが唯一のリクエストでした。ベルリンから遠い日本の小さなジャズクラブに飛んでくるなんて、なんて向こう見ずな巨匠なんでしょう!メールを読んだ途端にビビっと来るものがあったと後で伺いましたが、奥さんは、信用できないから断りなさいと大反対されたそうです。親友のジョージ・ムラーツやトミー・フラナガンの名前と、なによりもアート・テイタムというのがマジック・ワードだったのかも知れません。
<必殺技伝授>
エキセントリックな天才やったらどうしよう・・・内心おののきながら関空でKLMの到着を待ちました。にこやかに手を振りながら現れた巨匠は、カウボーイがベレー帽をかぶっているという感じ、奥さんのカースティンも英語がベラベラで優しそうな女性、「とにかくOverSeasのピアノが見たい。」と店に向かう道中、寺井尚之と昔からの知り合いみたいに熱心に話し込んでいます。「サド・メルOrch.の来日コンサートで演奏した”Quietude”のピアノ・ソロがすごかったけど、ピアノではあり得ないベンドするような不思議なサウンドがあるんですが…」というようなことを言っていました。
店に着くと、ノリスさんはすぐさまピアノの蓋を開け、その「不思議なサウンド」を実際弾いてみせてくれました。ノリスさんがピアノを鍵盤を撫でると音がベンドするんです。それはショパンが編み出した技で「ヴァイオリン奏法」と呼ぶのだそうです。ノリスさんの指導で寺井は瞬く間にその技を習得してしまいました。それにしても、あんな大技を初対面の人間に教えてくれるとは考えられないことです。…天使の様な巨匠でした。
<名演>
ノリス先生の演奏を聴いたことのある方なら、圧倒的な迫力のプレイと共に、赤鬼みたいな顔つきや独特の呼吸に度肝を抜かれることでしょう。この後藤誠氏撮影の写真は、OverSeasでのライブの凄さがよく現れています。
演奏はソロと鷲見和広(b)とのデュオ、”タイガー・ラグ”や”ボディ&ソウル”、そしてストレイホーンの”ラッシュライフ”…スタンダードやバップ・チューンにオリジナルやクラシックまで、巧みなプログラム構成と、ノリスさんならではの深遠なアレンジで、息の呑むプレイを聴かせてくれました。
鷲見さんとの共演はノリスさんにとって満足の行くもので「凄い才能だ!」と絶賛。同時にピアノをコンサートの合間もしっかり調律調整してくださった名調律師、川端さんの腕前にはとても感銘を受けて、帰国後エッセイやインタビューで再三「世界的調律師」と書いています。
<泣き虫>
苔寺にて
熱いスタンディング・オベーションを送るお客様に、ノリスさんも「大阪に来て良かった!」ともらい泣き。演奏後、寺井家にあった兜の置物をプレゼントすると、「Beautiful!」と嬉し泣き、京都旅行では苔寺の幽玄美を前に立ち尽くしてまた涙…やはり人に感動を与えるということは、同じように自分も感動できる人なんだ!エネルギー保存の法則を強く実感するほどの泣き虫でした。
感動の達人ノリスさんが、話してくれる巨匠達の逸話の数々は、本当に面白いものでした。アート・テイタム、チャーリー・パーカー、ベン・ウェブスター、デューク・エリントン、そして親友ジョージ・ムラーツ・・・天才たちの武勇伝や神秘的なテクニックの話、ウォルターが眉毛と声をひそめて、前かがみになって話し始めると、おとぎばなしに耳を傾ける子供のような気分になったものです。
最後の夜は宗竹正浩(b)さんと共演。
<筆まめ>
セミナーにて:台本と全く違うトークになり通訳慌ててます。
元々高血圧気味だったノリスさんは、数年前の心臓発作に襲われて、飛行機に乗ることとピアノ演奏を医者に禁じられました。故郷の米国に気軽に帰ることも出来なくなってしまったんです。辛さを押さえ、専ら執筆活動に専念されていたノリスさんの著作の一部は彼のHPに掲載されています。
その傍ら、私達には頻繁にメールを下さいました。テーマは近況から世界情勢、踊るトナカイのクリスマスカード、ユーモラスな話、自分の草稿などなど。大阪で出会った皆さんに感動されたからだと思います。
ウォルターが就寝中に亡くなったと言う知らせは「最近は体調が良くて医者が驚くほど」というメールから僅か数ヵ月のことでした。
最後のメールは3週間ほど前です。「自分は年金生活だから、彼を充分助けてやることが出来ない。日本人の若者(石川翔太くん)が身の回りの世話をしてくれているらしいが、彼がいない時はどうしてるんだろう。心配で仕方がない。君達も手助けしてやってくれないか。」親友ジョージ・ムラーツの怪我を気遣う長いメールでした。
最後になりましたが、ベルリン在住のSoon Kimさん、東京のノリス先生の教え子、徳山さん、訃報お知らせいただきありがとうございました。
優しき巨匠、ウォルター・ノリス先生、私たちはあなたを一生忘れません。
関西JAZZの顔:西山満さんを悼む
関西ジャズを代表するベーシスト、ジャズクラブSUBのオーナー、西山満さんが昨日未明逝去されました。心よりご冥福をお祈りします。
最近はお酒も煙草も止められてすこぶるお元気と伺っていました。脳梗塞で緊急入院されたというニュースが飛び込んできたのが、つい一週間前のことです。始めたばかりのFace Bookで西山さんを見つけて、ご挨拶を交わした直後でした。
’89年、左から西山さん(b)寺井尚之(p)ミッキー・ロカー氏(ds)、OverSeasにて
学生時代は客席でそのプレイを聴き、OverSeasでは、何度も寺井との共演を聴かせていただいた。西山さんのベースは熱くて黒く、強いパルスで、ひとたびツボにはまると、最高のビバップになりました。
西山さんはプロモーターとして、アーティストを単身招聘するケースが多く、関西のミュージシャンに「共演」という宝を与えてくださった。上の写真は単身で来たミッキー・ロカー(ds)と西山さんに、末宗俊郎(g)を加えてライブした時のもの、寺井はミッキーさんに「お前はバッパーや!」と言われたことを今でも誇りにしている。私がInterludeを始めた頃に書いたビリー・ハーパー(ts)達のエピソードも西山さんからもたらされた忘れがたい思い出です。
西山さんは、米国のジャズメン達にはNISHIという名前で愛されました。レイ・ブラウン(b)、ソニー・ロリンズ(ts)、クインシー・ジョーンズ、アート・ブレイキー(ds)…NISHIとSUBを愛した巨匠の名前を挙げるうちに日が暮れてしまいます。若手ジャズメンは初めて大阪に来たらNISHIに挨拶に行くのが不文律。フランクでフレンドリー、少しエキセントリックだけどナイーブなお人柄、4文字英語力は、ラッパーなんか足元にも及ばない、日本では右に出るものなし!黒人同士でしか使わない言葉遣いを駆使し、あっという間に「ブラザー」のコミュニュケーションを作り上げる天才。国内でも同様に、圧倒的なカリスマ性で自治体にジャズの意義を納得させ大イベントを数多くプロモートされました。
大先輩でありながら、寺井尚之をいつも「さん」付けでリスペクトしてくださったけど、怒るとコワかった。西山さんが師と仰ぐレイ・ブラウン(b)オールスターズ(スタンレイ・タレンタイン、ジーン・ハリス、ミッキー・ロカー)のコンサートを聴きに行った時のこと。寺井と早くから前売りで一等席を買って陣取っていたのですが、予想外に席が埋まっていなかった。開演前に西山さんがステージにツカツカと出て来て、客席に向って怒りを爆発された。
「こんな偉い人のコンサートやのに、客こんだけか!!!ええ加減にせい!何や思とんねん!!」そして寺井を発見し「おう!あんたか!!」って手を揚げられたので、思わず「すみません。」って…。納得できない事物にはBlow Up! 怒れる西山さんはチャーリー・ミンガスみたいだった。
やがて、ロマンスグレーで上品な紳士の風貌になられたけれど、「ゆとり教育」時代に、「音楽は一生かかって学び取るもんや」と、若手に厳しく指導できる数少ない先生であり続けた。業界人やクラブオーナーである前にミュージシャン、心の底からビバップ、ひいてはジャズを愛した方だったと思います。
今朝SUBにお別れに伺った時、棺の中にパノニカ男爵夫人の「Three Wishes」がそっと置かれていました。ジャズを愛して人生をビバップのように疾走した西山さんの「三つの願い」は何だったのでしょう?こんなとき、西山さんだったら何とおっしゃったろう?
最後に西山さんのブログから、ジャズについての名言を。
ジャズ音楽は礼に始まり礼に終わる。偉大なジャズ音楽家は自分に対する礼儀、 他に対する礼儀、全て心得ておりその上で厳しい自己練磨を課す。
だから聴く人の心を打つんです。いい加減な気持ちでやる音楽はジャズと言いません。
西山さん、どうぞ安らかに。本当にお世話になりました。
SO MANY THANKS、 GOD BLESS NISHI!!!
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ジャズの専門店、三村晃夫さんを偲ぶ
「ジャズの専門店ミムラ」の三村晃夫さんが7月29日未明に急逝されました。いつも笑顔で元気一杯、永遠のお兄さん、52歳なんて速過ぎる。同日の午前中、携帯にSMSが入ってきた時、てっきり悪い冗談だと思い込み、お知らせくださった、ジョン・コルトレーンの権威、藤岡靖洋氏に怒りの電話をしてしまったほどです。
仕事の後、応援しているミュージシャンのライブの帰り道に心不全に襲われたとのことです。あの日のTwitterで、三村さんは、「目がチカチカする」「やばい!」と何度か投稿されていました。ひょっとしたら無意識にSOSを発信されていたのでしょうか?「はよ家に帰って休みなはれ!」と、大阪のおばちゃんらしく返信すればよかった。約束を守るミムラさんだから、結果は一緒かも知れないけど、悔やまれてなりません。
「ジャズ講座」チャーリー・パーカー特集で。
三村さんと私たちOverSeasのお付き合いは「ワルツ堂」時代の1990年代初めからです。「エスト1のワルツ堂のジャズ担当マネジャーは凄いやり手や!予約分のレコードが顧客別に分けられて山積みになってるで。」と評判で、寺井尚之が父の代から懇意にしていた「ワルツ堂」堂島店の名物マネージャー、大井さんと稲村さんを通じてお知り合いになったのがきっかけだったと覚えています。
デビュー盤『Anatommy』から寺井尚之のアルバムでお世話になり、やがて’97年に「寺井尚之のジャズ講座」が始まると、各回のテーマに沿ったアルバムをOverSeasに持ち込んで、ワルツ堂出張所として毎回即売するのがお決まりの行事になっていました。
講座で気に入ったアルバムが一般市場で入手困難だったりすると、ジャンケンで取り合ったり大変!おかげで講座の後は夜店みたいで楽しい雰囲気でした。エスト1のお店に行くと、三村さんは常連さんに取り囲まれていて、挨拶ももできないほどと寺井尚之の生徒達が言い、「カリスマ・ミムラ」というあだ名をつけました。
そのころは、まだジャズ専門のレコード屋さんがキタにもミナミにも沢山あり、各店舗に名物のオヤジさんや、名物マネージャーが必ずいらっしゃったものです。その中で、素人のお客さんと同じ目線で、イチゲンさんでも分け隔てなく、気さくに判りやすく接客してくださる「優しいお兄さん」的キャラクターは、ある意味、濃い目のジャズの世界で、全く新しいタイプの実力者でした。
とにかく几帳面で整理整頓の出来る人、ジャズ講座でトミー・フラナガンのディスコグラフィーを最初に作ってくださったのが三村さんです。本番の講座でも、レコードやCDを入念に並べてから、初めて見るお客様の名前を予め覚えたり、皆が寺井尚之の講義を楽しんでいる間に、セールスの準備をしっかりされていて、凄いプロ意識と敬服していました。三村さんの接客術に色々勉強させてもらったことを今も感謝しています。うちの常連様は三村さんのところで買い物をし、三村さんのお客様もOverSeasに寺井尚之を聴きに来て下さるということが続きました。TVでしか知らなかった桂南光師匠もその内のお一人です。
2002年にワルツ堂が閉店し、「ジャズの専門店ミムラ」として独立される際も、それまでに築き上げた、お金で買えない人間関係が成功の基だったのではないでしょうか?ミムラ開店のニュースがTVや新聞に大きく載ったのも、関西メディアの方々に「ミムラさんを応援したろう!」という気運が高かったからだと思います。やがて、熊本放送のラジオ・パーソナリティや雑誌のコラムなど、三村さん自身がメディアの世界に移行されていっているように見受けました。肩肘張らず、それでいて几帳面な文章も三村さんのお人柄がよく出ていました。時々「珠重さんのブログからネタ拾わせてもらいましたわ~」なんておしゃっていたっけ。
その一方、ミムラさんのもう一つの功績が、若い人たち、特に学生さんにジャズの扉を開けてくれたこと。若手ミュージシャンを積極的に応援し、これからジャズを目指す人たちにCDを売るだけでなく、生演奏を聴いて勉強しなさいと勧めてくれた。また彼らの演奏に足を運ぶことにで励ましを与えていたのは、本当に素晴らしいことです。同時に、しっかり未来の顧客を開拓するプロフェッショナルの姿勢であったとも思っています。
ご家族を一番大切にされていたから、音楽好きな若者を見ると、ご自分の子供さんと同じように温かく接してあげることが出来たんですね。独立された時、真新しいお店でこうおっしゃったのを覚えています。
「僕は家族が一番大切やから、なんぼジャズが好きやからって、嫁さんに迷惑かけて、赤字出してまで続ける気はないねん。儲からんかったらトラックの運転でも何でもする気でいてるから。」
お酒も煙草も嗜まず、節制されていた三村さん、赤穂浪士、三村包常(かねつね)の子孫、ややこしい人間関係もスルリとうまくまとめるコミュニュケーションの達人、優しき三村さんは、たったの52歳で旅立ってしまった。奥様やお父様、子供さんたちは、どれほどご無念でしょう。思うだけで胸が詰まります。同時に、ジャズ界にとっては、かけがえのない大きなものが失なわれてしまった。
また日曜日のお葬式に参列し、長年ご無沙汰していた恩人にもご挨拶が出来ました。それも三村さんの心遣いかと感じています。
帰り道京阪電車のホームで、涙でボロボロになった顔を直していると、隣の女性に「三村さんをご存知だったんですか?」と声をかけられました。息子さんがトランペットを勉強していて、ミムラに通っていたのだそうです。「三村さんには、学校では教わらない色んなジャズの知識を授かって、ガンバレ!と背中を押してもらってました。本当に感謝しています。良いCDやライブを聴くためにバイトしているから、どうしても今日は抜けられず、母親の私が替わりにお礼とお別れを言いに来ました。」と・・・そのとき「僕CD売ってただけとちゃうのよね!」と聞きなれた声が私に囁きかけました。
三村さん、本当に色々お世話になりました。いずれ再びそちらでお目にかかるまで、私も寺井尚之も、出来る限りがんばりますね!
寺井尚之と共に、心よりご冥福をお祈りいたします。
トミー・フラナガン・インタビューを読もう!(3)
フラナガンは、ホーン奏者と同様のアプローチをピアノでしていると語る。彼にとって、曲のテーマは、聴きなれた曲を作り変える為の出発点である。コンサートやクラブで真夜中が近づくと、モンク作のジャズ聖歌、“ラウンド・ミッドナイト”をよく演奏するが、同じ演り方で弾くことは二度とない。
ある秋の夜、ノルウェイの豪華客船上で開催される『フローティング・ジャズフェスティバル』で西カリブ海を航海中、ピアノに向かうフラナガンは出だしの5分間テーマを弾かずにじらした挙句、おもむろに”ラウンド・ミッドナイト”のメロディに戻った。翌晩、フラナガンはまた違ったアプローチでこの曲を弾くのである。
<テイタム、パウエル、パーカーたち>
「アート・テイタムには私の演りたいことの原型がある。アートの様に弾く事は誰にもできないが、ミュージシャンはどうあるべきか、その目標として、向上心を与えてくれる。彼のメロディ、テクニック、タッチ、ハーモニー・センス、全てが時代や流行を超越している。」
「テイタムのように、いつまでも時代遅れにならないソロ・プレイを目指すのは、常に正しい!充分に長い間演奏し、あらゆる要素が合致すれば、うまく流れに乗ることが出来て、前よりは良い演奏になっていると感じるだろう。」
「NYに出てくる以前に私が聴きこんだ人々のうち、バド・パウエルはテイタムの次に影響を受けた名手達の一人だ。テディ・ウイルソンとファッツ・ウォーラーはテイタムと同じくらい大きな影響を受けた。この三人は初めて私が熱心に聴いたピアニストたちだ。彼らこそ、”ピアノの世界:The World of Piano“だった!」
「テディ・ウイルソンは他の巨匠よりも判りやすく、初心者の私にはとっつきやすかった。ウイルソンを理解する事はアート・テイタムに進む布石となった。
バド・パウエルはチャーリー・パーカーと切っても切れない存在だ。彼の音楽は一生懸命取り組むのに相応しい完璧なものだった。10代の高校生だった私にとって、パーカーの音楽は、まさに進むべき道を示すメッセージのようなものだった。バドとの共演盤を聴く迄は、私が聴く器楽奏者はバードだけというという時期もあった。だがバドとバードが一緒にやっているのを聴き、これだ!と思った。二人のコラボの中に全ての要素が凝縮されていた。ビバップのピアニスティックな要素とホーンの要素が融合し、ここから全てが始ったのだ。」
フラナガンは時にオリジナルを作曲し録音している。だが彼は、他の作曲家作品への嗜好が強いと明言する。
「私は、作曲家がどのようにその曲を演奏して欲しいのかを突き止めることに没頭する傾向が、どうもあるようだ。自分で作曲する能力より、作曲家が私に説明してくれる能力の方が優れているんだろうな。デューク・エリントンの音楽を例にするなら、演奏すれば演奏するほど、私には一つ一つの音によって彼が何を言おうとしているか、彼が何故その曲を何度も演奏し、繰り返しても飽きなかったのかが、よく判るようになるんだ。
ラッセル・プロコープ(cl)は毎晩”ムード・インディゴ”でフィーチュアされることが判っていたが、それでも26年間、毎晩、ムード・インディゴを演奏することを心待ちにしていた。そうでなくてはならないんだ!その曲が好きならば、何度演奏しようと、お客さんも自分自身も退屈なんてすることはない。」
<楽曲の真髄に到達するには>
大いなる音楽の冒険家であるフラナガンが、一旦スタンダード作品を弾き始めると、疑問が湧く。『一体彼は、この曲を始める時に、はっきりした構想があるのだろうか?それとも、曲に誘われるまま、音楽的冒険を楽しんでいるのだろうか?』
「どんな感じになるのか確かめているんだ。」フラナガンはこう答える。「演ってみて、流れがよくなければ、曲を乗りこなすための正しい方法を探す。つまり、自分にとって最高の流れを探すんだ。そしてうまく構成して演奏しようとする。」
「私のレパートリーは、あちこちからとりとめなくかき集めたものだ。アメリカ・ポピュラー音楽の有名作曲家の作品もあるし、知人の作品にもこだわっている。要するに演りたいものなら何でも演る。何もガーシュインばかり演ることもない、他の人間がプレイしようと思うのであればね。私はジェローム・カーンやハロルド・アーレンの曲が好きだ。ジャズ以外の分野ではこの二人が最も好きな作曲家だ。自分の知っている古い曲をプレイしたいし、プレイのためにはより深く理解しなければと感じる。
新しい曲には、何となく束縛されるように感じるときがある。うまく演奏する方法は一つしかなくて、良くしようとしても変更の余地がない。逆にみたいな曲であれば、20人の演奏家がいまだに20通りの方法で演奏するだろう。もう変えようがないと思った途端、モンクが全く違うヴァージョンでやっているのを聴いたりするわけだ。」
現在フラナガンは新作アルバム、『ジャズポエット』を製作中。タイムレス・レーベル制作でジョージ・ムラーツ(b)、ケニー・ワシントン(ds)とのピアノトリオ作品である。その他チェスキー・レーベルからのフィル・ウッズの新作『ヒアーズ・トゥ・マイ・レイディ』に参加している。
フラナガンは近い将来、サド・ジョーンズ作品集を録音したいと言う。(名盤『Let’s』として結実)
「私は他の人の音楽を自分なりに解釈して演奏したい。曲を作った人間を良く知っていると、より良い演奏をする事が私にとって容易になる。私は30年前に、サドの音楽をデトロイトで演奏していた。今やっと、楽曲のあるべき姿、最高の形態が見えてきた。曲の真髄に達すると言う事は、それほど長い年月と道のりを要するものなのだ。」
(了)
いかがでしたか?フラナガンの発言には、彼自身の姿勢だけでなく、ジャズ・ミュージシャンの進むべき道が色々暗示されているように思いました。「楽曲を愛する」意味もよくよく判ります。
翻訳にあたり、「ジャズタイムズ」のバックナンバーを提供いただき、上の同誌カラー写真もお送りいただいたジャズ評論家、後藤誠先生に心より感謝いたします。
CU!
トミー・フラナガン・インタビューを読もう!(2)
<巨匠たちに学ぶ>
強い音楽的個性が人気を博し、演奏スケジュールが多忙を極め、特に必要の無い限り練習をしないという贅沢を味わっているフラナガンではあるが、かつて1940年代のデトロイトでの成長期には、常に練習していたと語る。兄ジョンソン・フラナガンJr.(ピアニストとして地元デトロイトで活動し、後進の指導にあたった。弟子にはカーク・ライトシーがいる。)に倣い、迷うことなくピアノへの道を選択したのだった。
「ほんの幼いころ、兄がピアノを弾いてるのを見つけた。背伸びをしてなんとかピアノによじ登ろうとした。最初は、兄が家でレッスンをしているのを真似て弾こうとした。8歳の頃、まだレッスンを受けていなかったが、兄の練習曲を弾いていた。10歳で、やっとレッスンをさせてもらえるようになった。私は練習がとても好きだったので、誰も私に稽古しろとやかましく言う必要は無かった。むしろ誰かが止めないといけない程だった。『さっさと表に行って遊びなさい!』ってね。」
当時のモーター・シティ(デトロイト)は、ツアー・ミュージシャンの仕事場として、新人アーティストの育成地として、音楽的に隆盛を極めた。ドナルド・バード(tp)、ケニー・バレル(g)、ペッパー・アダムス(bs)、カーティス・フラー(tb)、メジャー・ホリー(b)、オリヴァー・ジャクソン(ds)、ビリー・ミッチェル(ts)、ハンク(p)、サド(cor)、エルビン(ds)のジョーンズ兄弟(隣町のポンティアック育ち)、ベティー・カーター(vo)…この土地から巣立ったミュージシャンは枚挙に暇が無い。デトロイトのミュージシャンの多くは、カス・テック・ハイスクールに通った。フラナガンは1930年3月16日生まれで、同世代のローランド・ハナ(p)やアルト奏者ソニー・レッドと同じノーザン・ハイスクール卒である。
「中学に入学する頃までには、他の楽器をかなりうまく弾ける同じ年頃の子供達が何人もいた。そんな優秀な子供達は、高校入学までに、プロとしてツアーに出れる実力をしっかり身につけていた。私が15歳の頃時、ダンスパーティに行けばジーン・アモンズ(ts)が演奏していたし、バンドのピアニストはジュニア・マンスだった。彼も15歳でツアーに出ていたんだ。そんな具合だから、いやでも一生懸命練習する様になるんだ。」フラナガンは語る。
「音楽的に成長するのに、戦後は良い時代だった。私はあらゆるジャズの巨人たちを間近に聴けたし、会うことだって出来た。アート・テイタムはアフターアワーズの店でしょっちゅう生で聴いた。色々なピアニストが、交代にピアノを存分に弾いた後、おもむろにテイタムがピアノの前に座ると、それまでのピアニスト全員がぶっ飛ばされた。」
「レイディ・デイも、歌唱とルックスの絶頂期に生で聴いた。私はまさに彼女に恋をしていた。バードともデトロイトで何度か共演した、私がまだ十代のときだ。」
「高校時代、ディジー・ガレスピー楽団がデトロイトにやって来た。公演場所はパラダイス・シアターと言う大劇場で、高校から歩いて行ける距離だった。その頃までに有名なミュージシャンは全て知っていた。初めてチャーリー・パーカーをジューク・ボックスで聴いたのが1945年、15歳の時だ。
もう、そんなジュークボックスは無くなってしまったなあ。良い音楽が流行していて、良い音楽に出会うにも、上達するにも、最高の時代だった。今は、そういう音楽が無くなって寂しいし、そういった音楽を創造した人達が亡くなった事も同じくらい寂しいね。」
1956年、ケニー・バレル(g)と共にNYのジャズシーンに進出したフラナガンにとって、デトロイトでのキャリアは大きく幸いした。NYに移って僅か数日で、トランペット奏者、サド・ジョーンズが自己リーダー作に彼を抜擢。フラナガンの26歳の誕生日には、デトロイト時代にすでに親交があったマイルス・デイヴィス(tp)とソニー・ロリンズ(ts)がレコーディングに起用した。プレスティッジのセッション(『Collector’s Items』)には、<Vierd Blues><No Line>、デイブ・ブルーベック(p)の<In Your Own Sweet Way>が収録されている。その僅か数ヵ月後、ソニー・ロリンズの代表作、『サクソフォン・コロッサス』に参加、3年後には、さらに歴史的名盤の録音でスタジオ入りする事になる。ジョン・コルトレーンの『ジャイアント・ステップス』であった。
<エラ・フィッツジェラルド>
フラナガンがNYに進出した年、代役としてエラ・フィッツジェラルドの伴奏者を務める。それがきっかけでエラは1962年に、正式にフラナガンを招聘、二人の音楽的コラボレーションが開始した。音楽監督として専任した1968-78を含めて、二人の共演は断続的に16年間続く。
「歌手の伴奏はもう私のするべき仕事ではない。」現在のフラナガンは言う。
「だが、非常にやりがいのある仕事だった。他人の気質や趣味についてあれこれ気配りしなければならないのだから。…
エラは文字通り仕事一筋で、年間52週のうち48週は仕事をする。我々は年に2回ヨーロッパ中をツアーした。伴奏者達には、余り自由に演奏させる機会を与えてはくれなかったがね。とにかく、世界中回ったよ。…」
エラ・フィッツジェラルドの仕事に慣れたと思う間もなく、演奏のパターンはしょっちゅう変った。トリオで伴奏したかと思えば、次はベイシー楽団と一緒に何ヶ月か公演する。彼女にとっては大変な違いだ。ベイシーをバックに歌うコンサートの次の夜がトリオだったら、エラは私にこんな風に言った。
『一体どうなってるのよ? 何が起こったっていうの?』
で、私はこう答える。
『15人ほどいなくなったんだだけだよ。何かが起こったと言うのならね。』
おかげで、どんなことがあっても、自分の演奏を高度に保持する術を学んだ。エラのエネルギーも芸術的レベルも本当に凄いものだったよ。」
(つづく)
寺井尚之のコメント::師匠の若いときの回想は、わしが’70年代に思うことと良く似ています。師匠は、どんなときでも、誰よりも練習をしていました!騙されてはイケません!おわり
ヨチヨチ歩きでピアノを弾いた天才トミー・フラナガン少年、子供の頃はクラシック・ピアノのレッスンを受けていました。恩師はグラディス・ディラードという女性の先生で、フォームや指使い、タッチなど大変厳しい指導で有名だったそうです。
チャーリー・パーカーやビリー・ホリディと共演した話は、私たちも直接何度か伺ったことがあります。記念写真があればいいのですが、トミーは何度も引越ししていて、その間に紛失してしまったとか・・・残念です。
それにしても高校のダンスパーティにジーン・アモンズとジュニア・マンスが来たら、ダンスするのを忘れて、グレーヴィーなサウンドに聴き惚れてしまうでしょうね!
明日22(金)は河原達人(ds)リターンズ!23(土)は寺井尚之The Mainstemトリオ!お勧め料理は、自家製のバジルをふんだんに使ったチキンのジェノヴァ・ソース、やはり自家製の柔らかいナスを付け合せにしておいしいメニューを作ります。
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“Let’s” Talk about Thad Jones(3)
<ビッグ・バンドの世界へ>
’54年、ディジーやブラウニー以上の「ジャズの救世主」として期待を集めたサド・ジョーンズはカウント・ベイシー楽団に入団。ミンガスのレーベルと専属契約しながら、偽名で他社に録音し裁判沙汰になるトラブルが一因だったのかも知れません。ベイシー楽団以降、ミュージシャンなら誰もが畏敬するサド・ジョーンズのプレイヤーの資質は、アレンジャーやコンダクターといった顔の陰になってしまうのが残念です。『Detroit NY Junction』など『 Motor City Scene』など、トミー・フラナガンとの幾多の共演作のことは、ジャズ講座の本を読み直してくださいね。
<カウント・ベイシー楽団>
サド・ジョーンズがベイシー楽団に在籍したのは、’54-’63までの10年間。バンドのソロイストとして活躍する傍ら、バンドの作編曲も多数手がけました。『Let’s』に収録されている気品溢れるバラード”To You”は、ベイシーとエリントンの二大ビッグバンドの夢の競演盤『First Time』で聴くことが出来ます。
ベイシー楽団のソロイストとして、最も有名なの演目は、なんといっても”パリの四月”で、アドリブの中に誰でも知ってる童謡”Pop Goes to Wiesel”の一説を挿入したものでしょう。”Pop Goes to Wiesel”は、私と同世代の方は、子供の頃ロンパールームっていうTV番組で、うつみ宮土里おねえさんが「箱の中からジャック君が・・・」って言う時に流れていたメロディとしてよくご存知ですよね!このソロでヒットしたのがサド・ジョーンズの退団の引き金になったのですから、皮肉なものです。
サド・ジョーンズはベイシー楽団独立の際、ダウンビートにこんなコメントを残しています。
「僕が”April in Paris”のレコーディングでたまたま吹いた短い童謡(Pop Goes to Weasel)の一節が良い例だ。そのレコードがヒットしたものだから、ベイシーはそのナンバーを演る時には必ず、ソロで同じフレーズを入れるように指示した。僕が一体何度そのフレーズを吹いたか判るかい?つくづくうんざりしてしまったんだが、必要不可欠だった。一度、フィラデルフィアで演ったとき、わざと全く違うソロを吹いてやった。そうしたら客席から「パリの四月」を演ってくれ!とリクエストが来たよ。あの短い童謡フレーズがなければ、同じ曲とは判らなかったんだな。それが楽団を辞めた理由のひとつだ。この曲がいやと言うわけじゃないが、もうそろそろ本当にプレイがしたい。今の苦痛からは解放されるだろうし、一旦退団して、柔軟性を取り戻したいんだ。」
優れたジャズメンを殺すのに刃物は要りません。狭い枠にむりやり押し込めて、同じプレイばかりさせると間違いなく窒息死します。サー・ローランド・ハナは同じ理由でブロードウェイの大ヒットミュージカルを降板し、アキラ・タナ(ds)は「毎日、毎日、同じがたまらなくて」超人気グループのバックバンドを辞めました。
<ドリーム・チーム!サド・メル楽団>
サド・ジョーンズが独立した’63年は米国にビートルズ旋風が巻き起こり、ジャズ・ミュージシャンは受難の時期、ヨーロッパに移住した者も多かった。(トミー・フラナガンがエラ・フィッツジェラルドの専属になる直前です。)同時に活況を呈するTV局のスタジオ・ミュージシャンとして安定した収入を稼ぐジャズメンもいました。サド・ジョーンズは、しばらくフリーランスで演奏や編曲の仕事をした後、米国TV三大ネットワークのひとつCBSに勤務、兄のハンク・ジョーンズやベイシー楽団の盟友、スヌーキー・ヤング(tp)はNBCのスタッフ・ミュージシャンとして常勤していました。一方、メル・ルイス(ds)やペッパー・アダムス(ts)たちは、スタジオ・ミュージシャンとしてポップスターのレコーディングに明け暮れていました。つまり多くの一流ジャズメンがツアーに出ずNYで高給を稼ぎ、夜になると本物のジャズがやりたくてうずうずしていたんです。伝説のビッグバンド誕生の第一要因でした。
もうひとつ直接要因があります。以前、サド・ジョーンズはカウント・ベイシー楽団のアルバム制作に際し、LP一枚分のアレンジを依頼されたのですが、出来上がった譜面は余りにも複雑、「シンプルでスインギーな」ベイシー楽団のコンセプトに合わないとボツにされていたのです。寛大なベイシーは、ジョーンズに譜面の使用許可を与えてくれたので、NYの町でTVやスタジオの仕事で退屈しているミュージシャンたちに声をかけると、ビッグバンドの面子はすぐに集まり、週に一度、深夜リハーサルが始まったんです。スタジオの借り賃は、見習いのエンジニアが練習で録音するのを許可する条件で無料にしてもらいました。集まったのはジョーンズ選りすぐりの一流ミュージシャンばかり!勿論ドラムはメル・ルイス(ds)、創設メンバーとして他に有名なところでは、ハンク・ジョーンズ(p)、リチャード・デイヴィス(b)、ボブ・ブルックマイヤー(vtb)、エディ・ダニエルズ(as,cl)、ペッパー・アダムス(bs)などなど…よだれが出そうなメンツですね。
やがて噂を聞きつけた業界人が覗きに来て、その凄さに度肝を抜かれます。著名なジャズ批評家、ダン・モーガンスターンはリハについてこんな風に語っています。
「バンドのサウンドは、最初から従来のものと全く違っていた。ひとつはサドのアレンジに起因している。さらにリズム・セクションの使い方が革新的だった。サドの合図ひとつで、ソロのバックのリズム・セクションが出し入れされ、大きなコントラストが醸し出された。」(ディック・カッツさんによるモザイク盤「サド・メルOrch.」のライナーノーツより)
ジャズ系FMのDJ、アラン・グラントは「こんな凄いバンドなのに、プライベートなリハだけじゃもったいない!」と、ヴィレッジ・ヴァンガードのオーナー、マックス・ゴードンに掛け合い、一番お客の少ない月曜に出演させるところまでこぎつけました。1966年2月7日(月)初演、バンド名は「サド・メル」でなく「ザ・ジャズバンド」、初日のギャラは一人僅か15ドル!ハンク・ジョーンズやリチャード・デイビスが15ドルのギャラなんて考えられませんよね!さすがマックス・ゴードンは商売人です。蓋を開けてみれば、お客の少ないはずのマンデイ・ナイトがソールド・アウト!評判が評判を呼び、結局毎週月曜に出演することに。以来、メンバー変更を繰り返しながら、数多くのレコーディングを重ね、私の知る限り三度来日しています。来日コンサートの翌日は、陶酔しきった友達が一杯でした。サー・ローランド・ハナ、ジョージ・ムラーツ、ウォルター・ノリスなどなど、OverSeasゆかりの巨匠もサド・メル卒業生は数多い。『Let’s』に収録される“Quietude” ”Mean What You Say””Three in One”などはバンドの十八番でもありました。’78年、サドが突然脱退して以降、メル・ルイスOrch.となり、メル・ルイスの死後、月曜の夜は、ヴァンガードOrch.が現在もヴィレッジ・ヴァンガードで演奏を続けています。
<別天地コペンハーゲン>
’78年、サド・メルOrch.がグラミー賞を受賞した直後、サド・ジョーンズは、家族も仲間も全て残し、何も言わずに単身コペンハーゲンに移住し、ジャズ界を大いに当惑させます。それについては、「女性問題」や「メル・ルイスとの相克」とか様々な噂が飛び交いました。サドをよく知る人は、バンド経営で財産を使い果たしアメリカに留まることが出来なかったと言うのですが、本当だとしたら惨い話です。国務省から冷戦時代のソ連に派遣されたアメリカ文化を代表する楽団のリーダーですよ!クラシックの世界なら、政府や財団の助成金で決してそんなことにはならなかったでしょう。
コペンハーゲンでは、自己バンド”エクリプス”やデンマークのラジオ局のバンドで活躍、同時に王立デンマーク音楽院で教鞭を取り、現地のミュージシャンに多大な貢献を果たしました。『Flanagan’s Shenanigans』や『Let’s』に参加しているベーシスト、イエスパー・ルンゴールは当時のメンバーですから、サド・ジョーンズ音楽のエキスパートなんです。
’85年には再び米国に戻り、ベイシー亡き後のカウント・ベイシー楽団を率い、同年、再来日しています。サドはフリューゲルで最高のバラードを吹き、トランペット・セクションは、今まで何度も観たカウント・ベイシー楽団のうちで最もビシっと充実していたと思いました。厚い胸板で、ピリっとも動かず、完璧なコントロールで吹く姿は、そのまま銅像にして美術館に飾っておきたい位美しかった!しかし、すでに癌に犯されていたことは、誰も知らなかったんです。
翌1986年8月21日、サド・ジョーンズはコペンハーゲンで死去、僅か63歳でした。娘さんのThediaは小児科医、息子さんのBruce Jonesは音楽プロデューサー、コペンハーゲン時代に、サド・ジョーンズJr.という息子さんを儲け、モーター・シティでなく、コペンハーゲンの墓地に埋葬されています。
気品に溢れるデトロイト・ハードバップの創始者、サド・ジョーンズ作品集、”Let’s”by トミー・フラナガン3は6月11日(土)ジャズ講座に登場します。6:30pm- 受講料\2,625 皆様のお越しをお待ちしています!
おすすめ料理は「黒毛和牛の赤ワイン煮 北海道産グリーン・アスパラ添」です。
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“Let’s” Talk about Thad Jones(2)
地震や台風、心が休まらない毎日ですが、皆様お元気ですか?6月11日(土)ジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」に名盤“Let’s”が登場するのを記念して、今日もサド・ジョーンズのお話をご一緒に!
<幼年時代>
サド・ジョーンズは、1923年、3月28日、ミシガン州ポンティアックに生まれました。トミー・フラナガンより7才上、兆速で発展した当時のジャズ史を考えると、一世代上と言えます。父は教会の助祭でギタリスト、母はピアノをたしなんだ。10人の子供達は、音楽に囲まれて育ちました。皆さんもよくご存知のように、5才上兄のハンク・ジョーンズ(p)、4才下の弟のエルヴィン・ジョーンズ(ds)と共にジョーンズ兄弟はジャズ史を語る上で欠かせません。姉のオリーブ(クラシックのリサイタル・ピアニスト)、兄のポールとハンクが順番でピアノの稽古に明け暮れ、なかでもハンクの上達は目覚しく、兄弟全員が大いに発奮したといいます。
ところが、サド坊やは、ピアノよりも何故かホーンに心引かれて、最初はトロンボーンに憧れた。やがて、デトロイトに来演したルイ・アームストロングを聴き「これだ!」と思い、叔父さんに中古のトランペットをもらって吹き始めた。でもルイのスタイルは「彼独自のもの」と判っていた。まあ、なんて生意気なガキでしょう!子供の頃から、楽団のサウンドがフルスコアで縦割りに把握できた天才なんでしょうね!因みにサドが始めて楽団の編曲したのはなんと13歳の時です。
サド・ジョーンズの証言(Downbeat 1963 5/9):「ルイ・アームストロングと同じことをしようとは思わなかった。あれは彼だけのスタイルだということに気がついたから。それにコピーするのは好きじゃなかった。おかしな話だが、今もトランペットのレコードは余り持っていない。そりゃ勿論ディジー・ガレスピーのレコードは何枚か持っているけど、殆どビッグバンドだ。なぜかピアノ・トリオのレコードばかり買ってしまう。」
まもなくコルネットに転向し、終生、主楽器としました。コルネットはトランペットより音域が高く、丸みのある明るい朗々とした音色が魅力、ビックス・バイダーベックやナット・アダレイのサウンドを思い出してみてください。
子供時代、兄弟や音楽仲間のお小遣いは、ほとんどデューク・エリントンやチック・ウエッブ、それにブルースのレコードになりました。やがて、町内の少年楽団に入団、少年といっても、きっと高レベルだったんでしょうね。一晩5$のギャラで、レコードだけでなく新品のホーンも買えました。
’30年代の終わりには兄弟バンドを結成、ソニー・スティット(as,ts)との共演を皮切りに、ミシガン州で本格的にプロ活動を始めます。
終戦近い’43年、20歳になると兵役に就きテキサスなど内地に駐屯、非公式なアーミー・バンドで断続的に演奏、’46年にアイオワ州デモインで除隊後、各地を周りバンド稼業の苦労も味わい、’50年代に故郷に舞戻ります。
<ジョーンズさんちのジャムセッションに行こう!>
サドが帰郷した時、兄ハンクはすでに街を去り、NYで売れっ子ピアニストとして活躍していました。弟のエルヴィンはギグのない夜にポンティアックの自宅でジャム・セッションを開催し、フラナガン、サー・ローランド・ハナ、バリー・ハリス、フランク・フォスターetc…隣町デトロイトから腕に覚えのある連中がワンサカ車で押し寄せ、「ジャズ虎の穴」的様相を呈していたといいます。
なにしろジョーンズのお母さんが腕によりをかけた夜食をたっぷり用意して応援してくれるし、高度なバップ理論を学べるのですから夢のセッションです。でもセッションに参加できるのは、本当に上手な子だけ。ピアノの一番手がトミー・フラナガンでした。後輩、サー・ローランド・ハナは、クラシックからジャズに転向したばかりで”How Long Has Been Goin On?”を一緒に演らせてもらったけれど、サドがどんどんコードを変えていくのに付いていけなくて・・・』と嘆くのですから恐るべし。
<伝説のクラブ”ブルーバード・イン”>
やがて、サド・ジョーンズはデトロイトのジャズクラブ、”ブルーバード・イン”のレギュラーバンドに入ります。メンバーは、バンドリーダーがテナー奏者、ビリー・ミッチェル(後にカウント・ベイシー楽団に入団)と、若手のトップジャズメンたち、トミー・フラナガン(p)、ジェ-ムズ・リチャードソン(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)という凄い編成で、ZecやElusiveなど『Let’s』にも収録されている作品群やパーカーやガレスピーのバップ・チューン、アフターアワーズはソウルフルなブルースまで、デトロイト・ハードバップ・ジャズの真髄が確立されたのです。
’50年代の”ブルーバード・イン”はデトロイトで最も腕の立つミュージシャンを集め、最先端のモダン・ジャズを聞かせるクラブとして内外から注目を集めていました。ミュージシャン達もリスナーも歴代のレギュラー・バンドの中で、ミッチェル&ジョーンズのこのコンボが最高だったと口を揃え、サド・ジョーンズ自身も、このコンボが最強だったと回想しています。
彼らの演奏はNYで活躍するトップ・ミュージシャンにも大きく影響を与えました。
トミー・フラナガンの証言:「マックス・ローチ(ds)とクリフォード・ブラウン(tp)は街に来るたびに、サドのアレンジを聴きに来ていた。ブラウンーローチ・クインテットのレコーディングには、サドの影響が色濃く出ている。例えば、”I Get a Kick Out of You”でワルツを入れる有名なヴァージョンがそれだ。僕達のテンポの切り替えにマックスは夢中だった。」
ドラッグのリハビリでデトロイトに滞在していたマイルス・デイヴィスは、サドのコルネットを聴き、「涙を流しながら佇んでいた」とハナさんは証言しています。(Before Motown p.130)それは感動の涙?それとも悔し涙だったのだろうか?ライバルのプレイを聴いて泣けるなんて、なんとナイーブな人だろう!私はこのエピソードを聞いてマイルスが凄く好きになりました。
<デトロイトにて:チャーリー・ミンガス >
ベースの巨匠チャーリー・ミンガスも、”ブルーバード・イン”のサド・ジョーンズに天啓とも言える強烈なショックを受けた一人でした。そして自己レーベルでサドをレコーディングすることを決意。’54年にダウンビートのエディター、ビル・コス宛てに、サドを絶賛した書簡を送ります。以下はダウンビート誌’63 5/9号に公開された文面です。
“サドは僕の人生で遭遇した内で最高のトランペッターだ。クラシック音楽の技量が完璧に備わっている。クラシックのテクニックでスイングしてみせた史上初のトランペット奏者だ。…弟のエルヴィンはドラムで双璧の実力者。サドを、仲間のミュージシャンは、「トランペットの救世主」と呼んでいる。
左:Fats Navarro(’25-’50) 右クリフォード・ブラウン(’30-’56)
サドは信じられないほど凄い。ディジー・ガレスピーやファッツ・ナヴァロさえ苦手にすることを、いとも簡単にやってのける。この二人以外ならハナから思いつかないこと、マイルズですらやったこともないことだ。ディズがバードのプレイで聴き、ファッツならば出来たのでは・・・と期待したことをだ。(ファッツの死後)我々はひたすら待ち続けた。そしてクリフォード・ブラウンが現れた。(この手紙はブラウンの早過ぎる事故死以前に書かれたものである。)ブラウニーは、もしもファッツが、麻薬に耽溺せず一週間練習していたら…と思うプレイをした。
だがとうとう出現した!ファッツが怠ける間に練習し、ブラウンがコピーにいそしむ間に考えるトランペッターが!まるでヴァルヴをつけたバルトークが、神に授かった鉛筆で譜面を書いているようなものだ。
サド・ジョーンズは、アメリカ音楽史上初めて第一コーラスをホールトーンの束から始める作曲家だ。…セカンド・コーラスはファースト・コーラスの展開型…それを聴きながら、僕達は深く息を吸う。彼が吹くのを止めてしまわないか、あるいはそれ以上続けると、がっかりさせれらはしないかと恐れながら。もしそうなら本物じゃない。その64小節はただの偶然で、僕らは、改めてバードを亡くした事を嘆くのみ。だが彼はミスしなかった!…”
ミンガスは強面(コワモテ)だけに説得力がありますね!ミンガスに「クラシックのテクニックを全て備える演奏者」と言わしめたサド・ジョーンズ、実は、初心者の時に基本的な吹き方を教わっただけで、後は全て独学だったんです。楽器はおろか、『Let’s』で聴ける時代を超えたモダンな作曲法から、ビッグバンドの編曲に至るまで、全て自分で習得したんですって!
ミンガスは’54年自己レーベル、”Debut”で、ハンク・ジョーンズ(p)、ケニー・クラーク(ds)、フランク・ウエス(ts,fl)とミンガス自身でレコーディングし好評を博します。(『The Fabulous Thad Jones 』)、ElusiveやBitty Dittyも収録されており、フラナガン・バージョンとの違いが興味深いです。ところが、このアルバムが発売された時、すでにサド・ジョーンズはカウント・ベイシー楽団に入団して、ソロ活動の出来ない状況になっていた。
運命の女神はいたずらですね。
(続く)
ジョージ・シアリングを悼む
トミー・フラナガンと親交のあった巨匠、ジョージ・シアリングが2月14日、亡くなった。Interludeを読みにきてくださっている方なら、「バードランドの子守唄」の作曲家としてより、戦後一大ブームを巻き起こした、「シアリング・サウンド」よりも、’70年代以降にMPSやコンコード・レーベルに遺したリーダー作や、10年間コンビを組んだメル・トーメ(vo)との共演盤、それにフレンチ・ホルンの名手、バリー・タックウエルとオーケストラを擁し、シアリング自身がアレンジしたコール・ポーター集などの作品に、より心打たれた方が多いのではないでしょうか?
ギャラが破格であることと、日本が盲導犬の入国を認めない為に、晩年まで来日公演が叶わなかった。NYで、ジャズ・ピアニストが沢山集まるパーティに行ったときも、ツアー中でシアリングは欠席してた。やっと生で初めて観れたのは’87年のコンコード・ジャズフェスティバル、ピアノを撫でるように弾く。そのタッチのきれいなこと、音の粒立ち、趣味の良さ、洒落ていて、ストレートで、全てが超一流!笑みを絶やさず、さり気なく連発する神業にだんだん怖くなり、ゾ~ッと鳥肌が立ちました。
<Sir George Shearing>
英国女王からナイトの称号”サー”を戴いたジョージ・シアリングは、決して裕福でない境遇に育った。1919年、ロンドンの下町生まれ、チェルシー・ブリッジのあるバターシーという地区で、父親は石炭を運ぶ労働者、母は鉄道列車の掃除婦、子沢山の家庭で、中絶を失敗したためか、過度の飲酒のせいか判らないが、末っ子のジョージは生まれたときから盲目であったと言います。
盲学校で音楽を学び、点字譜面で音楽理論と演奏を習得、卒業後は英国のパブから出発して、ヨーロッパに来る米国のジャズメンの間で有名になり、ジャズのメッカ、NY52番街へ。サラ・ヴォーンの幕間のピアニストが、スター街道の出発点だったそうです。
「シアリング・サウンド」で一世を風靡た、クインテットは、盲目だと何かに付けて旅がしにくいサー・ジョージのために、超豪華なキャンピングカーを特注し、全米をツアーした。
<天才はボーダレス>
サー・ジョージはPCや最新オーディオ機器が大好きだった。エリー夫人と。Eメールというものが出来始めたとき、家の中で2階から下にいる奥さんにメールすると茶目っ気たっぷりにラジオで言ってたことがある。
’70年代以降のシアリングの演奏解釈は、国境や音楽ジャンルを悠然と網羅するボーダレスなもの、ベートーベンのピアノ・ソナタ「月光」からコール・ポーターの「Night & Day」が始まったり、ブラームスの「間奏曲」をヴァースにして「Taking a Chance on Love」演ったりするのだけど、トミー・フラナガンが「How High the Moon」にヨハン・シュトラウスを入れても、殆ど気づかないの同じで、何の違和感もなかった。
ちょうどその頃、シアリングは欧米でクラシックを盛んに演奏していたらしい。子供の頃何気なくTVの音楽番組を観ていたら、N響でタクトを振っていた日本人指揮者が、「最近感銘を受けた音楽は」?と訊かれ、こんなことを言っていたのを、今でもよく覚えています。
「このあいだロンドンのロイヤルアルバート・ホールで、あっちのジャズ・ピアニストと共演したんですよ。 ジョージ・シャーリング(!)って人なんだ。ドビュッシー演ったんだけど、それがものすごい演奏でね。オーケストラ全員総毛立っちゃった・・・」
今、若い人に「ジョージ・シアリング知ってる?」て聞いても、「知らない」っていう人が多い。
私が、何となく翻訳を始めた大昔、大好きなホイットニー・バリエットがシアリングについて書いた「Bob’s Your Uncle(これでキマリ!)」というエッセイを日本語に作ったことがあったので、ブログにアップしようと思ったのですが、今読むと、直したい箇所が余りに一杯で躊躇。なにしろ、PCも知らない、ネットもない時代だったし、今ならもっとわかりやすく書いたのに・・・と負け惜しみ。
皆さんがシアリングのことをもっと知りたいなら、いつか紹介したいと思います。
Good News and Bad News
チリの落盤事故、全員救出されて良かったですね!昨日からBBCのサイトで、救出の様子がずっと中継されていて、思わずかじりつきそうになりました。
もうひとつのGood Newsは、大江戸コットンクラブでのヒース・ブラザーズのプレイは、ライブを見尽くしている某ジャズ評論家の先生が「今年最高の演奏!」と絶賛するほどの素晴らしいものだったこと。akeminさんも絶賛のコメントを下のエントリーに投稿してくださっています。Thank you akeminさま!
昨日のライブに行って来た中央大学のピアニスト、コシケン青年からも、深夜に興奮のメールが届きました。若い人は親に借金して、良いライブを観て聴かなければなりません。一生の思い出になります・・・なーんて年寄りはすぐ説教したがるからイヤだね!
コシケン君は寺井尚之のコネでバックステージに入れてもらって、ジミーやモナ夫人やトゥティと、楽しい時間を過ごしたらしい。ジミー、若い衆に良くしてくださってありがとうございました!
以下コシケンくんから届いたセット・リストです。
10/13 THE DIZZY GILLESPIE ALUMNI ALL-STARS featuring THE HEATH BROTHERS@ コットンクラブ
《2ndセット》
1 Gingerbread Boy
2 Hot house
3 Warm Valley(ピアノトリオ)
4 Sleeves(フロントはjimmy・heathのみ):
5 Alone Together(逆にjimmy heathだけ抜けて)
6 Ow!(最後は全員で)
正に「音」が聴こえてきそうな曲順!3.のエリントン・チューンはジミーのリクエストだったかも知れない。4.は「枯葉」のチェンジで、秋色を隠し味にしているのが、やっぱしジミー・ヒースです!
Bad Newsは、ジミー・ヒース夫妻来日の数日前、息子さんが心臓発作で急死されたこと。今日、G先生から知らされました。
ビバップ、ハードバップ通の皆様なら、もうご存知、ジェフリー・ヒースこそ、あのジミーの代表曲、”Gingerbread Boy”のことです。東京で聴けた”Gingerbread Boy”は、追悼の心で演奏されていたんですね・・・ジェフとはクイーンズの自宅でお会いしたことがありました。彼はミュージシャンの道を進まずに、当時プラモデル・ショップに勤めていて、日本製の稀少プラモデルを探して買い付けたりしてはりました。
Jazzcorner.comによれば、ジェフリーの遺骨は、ジミーの兄、パーシー・ヒースが愛したロングアイランド、モントークの海に撒かれるということです。
愛息に先立たれたヒース夫妻の悲しみはどれほどでしょう・・・心よりお悔やみ申し上げます。
今夜はヒース・ブラザーズの東京公演最終日。関東の同志たちよ!ジミーを聴きに行って元気付けてあげてください。
合掌