トミー・フラナガンの名演目(2): With Malice Towards None

ballads_and_blues_0.jpeg OverSeas的大スタンダード、”With Malice Towards None” (ウィズ・マリス・トワーズ・ノン)。トミー・フラナガンはジョージ・ムラーツ(b)とのデュオ・アルバム『Ballads and Blues』(’75)、トリオでのバースデー・ライブ、『Sunset And The Mockingbird』(’97 )、ソロはフランク・モーガン名義の『You Must Believe In Spring 』と繰り返し録音し、ライブでも演奏し続けた愛奏曲です。

 作曲者はトム・マッキントッシュでラナガンのお気に入り!この曲以外にもCup Bearers, A Balanced Scaleなど数多くマッキントッシュの作品を取り上げている。

 

 生前、フラナガンはこの曲についていくつかのヒントをくれました。

     

① この曲はリンカーンの名言がタイトルで、メロディーの元は賛美歌だ。

     

② トム・マッキントッシュはとても信心深くて、音楽そっちのけで牧師をしていたことがある。(笑)

     

③ マッキントッシュの作品が好きな理由は非常に”ブラック”だからだ。

 フラナガンの言葉はいつも謎、謎、謎ばかり。少し調べてみよう!

       

<エイブラハム・リンカーン+賛美歌=ウィズ・マリス・・・>

 

quote-with-malice-toward-none-with-charity-for-all-with-firmness-in-the-right-as-god-gives-us-to-see-abraham-lincoln-112732.jpg “ウィズ・マリス・トワーズ・ノン”・・日本人には言いにくいし、聞きづらいタイトルですが、米国ではだれでも知っているエイブラハム・リンカーンの名言、大統領第二期就任演説の結びの言葉。   

 

何ものにも悪意を向けず、すべてのものに慈悲の心を向けよう…」

    南北戦争終結直前のスピーチ、今は敵と味方でも、終戦後は一丸となって平和な国歌を目指そう!という呼びかけです。でも、リンカーンはこの演説の3週間後に暗殺されました。

 曲のの名付け親はマッキントッシュの友人でGene Keyesという名のシカゴのピアニスト。曲を聴いていて、この名言が浮かんだのだそうです。
 
 そして、どこか懐かしいメロディーの元になった賛美歌は、日本のキリスト教会でも極めてよく歌われる「賛美歌461番:主われを愛す(Jesus loves me,this I know)」だった。  余談ですが、同じ賛美歌が、中山晋平作曲、野口雨情作詞の「シャボン玉」の元になっている!明治時代、国策として編纂された「唱歌集」以降、賛美歌のメロディーをベースに造られた童謡は日本にも多いらしい。
 
 
  

<神童マック> Mac05dac.jpg トム・マッキントッシュ(1927-)

 

  作曲者、トム・マッキントッシュについて:ジャズ通の皆さんは、”ジャズテット”やサドーメルOrch.の一員としてご存知かも・・・一般的な人気よりも、仲間内の評価がずっと高い、いわゆるMusician’s Musicianです。ジャズが下火になった’70年代は映画やTV音楽の世界で活躍。「スパイ大作戦」、それにオスカー受賞の「黒いジャガー」の映画音楽は、アイザック・ヘイズ作とされていますが、本当のところはマッキントッシュ作だった。(ヘイズは譜面の読み書きができなかった。)
 
 でもフラナガンとの接点はどこにあったのだろう?
 
 トム・マッキントッシュ、愛称”Mac”は1927年、メリーランド州ボルティモア生まれ、当時、多くの黒人家庭がそうであったように、生活保護を受けながら子供時代を過ごした。黒人層の収入が他の都市より遥かに多いデトロイト育ちのフラナガンとは違い、楽器のレッスンなど受ける余裕なし。でも類稀な歌声と素晴らしい耳を持っていた。どんな音楽でも一度聴くと覚えちゃう。そして数日後でも、再びそのメロディーを歌って聴かすことができた。さらに、天性のハーモニー・センスがあった。メロディーを聞くと同時に、長3度、6度といったハーモニーが、頭の中で聴こえていて、瞬時に声で再現できたそうですから天才だ!フラナガンと一緒だ!ただし、幼い頃からクラシックの英才教育を施されたフラナガンと異なり、マックの中学校には「音楽」という教科すらなかったんです。
 ところが、担任の先生が偉かった!彼の並外れた才能に気づき、奨学金を申請、原則白人オンリーの名門音楽学校、ピーボディ・インスティチュートの声楽科に特別枠で入学し、首席になります。当時のマックはまだまだジャズには縁遠く、”ダニー・ボーイ”のような伝統的なアメリカ歌曲を愛した。フラナガンが「クラシック音楽の呪縛から解放されているブラックな音楽家」と絶賛する秘密はこの辺りにあるのかも・・・ところが、 学校の窮屈さと経済的な理由でさっさと陸軍に入隊志願、天才マックがジャズに出会うのは、戦争の酷い爪跡が残る敗戦国ドイツの駐屯地でした。
 

<ドイツでジャズと出会う>  
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 ドイツに上陸したマッキントッシュを迎えたものは、至る所に立ち込める「死臭」、そして貧困に苦しむ人々。戦争さえなければ裕福で知的なレディでいたはずのドイツ人女性が、飢えないために娼婦に身を堕とし、道端でマッキントッシュ達、若い進駐軍を誘う。ガス室に送られて死に絶えたドイツ系黒人達の死体、ホロコーストはキリストのせいと、神を断罪するユダヤ人たち、その惨状に大きなショックを受けます。それがマックを「エホバの証人」の信仰に駆り立てたのかも知れません。 洗濯兵だったマックは、声楽家ながら軍楽隊に転属し、21歳で初めてトロンボーンを始めます。同時にバンド仲間を通じて、デューク・エリントンやチャーリー・パーカーの音楽に出会い、たちまち虜になりました。マッキントッシュは、エリントンに魅了された理由を、「単にハーモニーが素晴らしいと言うのではなく、楽団の各メンバーが歌う様々な歌が合わさって、エリントン・サウンドというひとつの音楽に統合されていることに驚いた。」と語っています。
 
 トロンボーンを独習し、わずか数ヶ月でトルーマン大統領直属の特別な軍楽隊の選抜メンバーに抜擢。マックの伸びしろの大きさを看破したオーディションの担当上官がなんとレッド・ミッチェル(右:写真)!上官にはチャーリー・パーカーの共演者だったピアニスト、アレン・ティニーが、トロンボーンの同僚にはジョージ・ベンソンのお父さんがいた。ベンソンもマックと同じ「エホバの証人」の信者で、ミュージシャンとしては、プリンス、テニスのビーナス & セリーナ・ウィリアムズ姉妹たちも教団の著名人欄に名前を連ねています。後に、マッキントッシュがパラマウント映画から解雇された理由は、余りに熱心な宗教活動のためだったらしい・・・ 
 
  
<NYとトミー・フラナガン>
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    1956年、マックはリスク覚悟で音楽の道に進むことを決意、GI ビル(退役軍人の学費免除制度)を利用し、NYのジュリアード音楽院に進学しました。除隊の際、軍楽隊の仲間でデトロイト出身のトップ・ピアニストがこんな風にアドバイスした。  「君は僕を最高のピアニストと思ってるみたいだが、本当はそうじゃない。NYにはトミー・フラナガンというピアニストが居る。彼こそが本当に”弾ける”奴だ。彼を訪ねて行くといいよ。」   NYにやって来たマックがフラナガンを見つけるのは簡単でした。フラナガンは街中のジャズメンが共演を望む引っ張りだこの存在だったし、二人の住むアパートは目と鼻の先、たちまち親友になります。
 「最高の人間になる近道は、最高の人間と付き合うことだ。」
 フラナガンの人脈のおかげで、マックはジャズ・シーンの若頭的存在だったジョン・コルトレーン宅のジャムセッションに参加することができ、元上官のレッド・ミッチェルと再会を果たします。やがてミルト・ジャクソンやジェームズ・ムーディといったディジー・ガレスピー組に迎えられ、アレンジャーとしての実力が知れ渡っていきました。
<フラナガンの思う壺、With Malice…>
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 ”With Malice…”は、トム・マッキントッシュの処女作。マックの作曲センスに興味を抱いたフラナガンは、作曲していると現れる。「さて、ここからどうしよう・・・」と迷って考えこむと、肩越しに覗きこんで「こうすれば?」「こっちの動きの方がいいんじゃない?」と逐一ナビゲートした!そのアドバイスはいつも適切で、「トミーが僕の作品をキメてくれた。」と、マッキントッシュ自身が語っています。
 フラナガンはマッキントッシュが紡ぐメロディーに、エリントンの”Come Sunday”に通じる黒人音楽のブラックな輝きを見つけたのに違いない。フラナガンは、自分がこの曲を演奏するという前提に立って、創作の舵取りをしたのではないだろうか?例えば、フェリーニがニーノ・ロータに注文を付けるように、マックのイマジネーションを喚起したのではないだろうか?

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 出来上がった作品は、チャーリー・ミンガスの目に留まり、マックに編曲を依頼して”ファイブ・スポット”で初演された。ただし、ミンガスが曲名を”With Malice Towards Those Who Deserve It” (憎まれても当然な奴らに悪意を向けて)と勝手に変えてしまったのですが・・・
 以来、有名ジャズ・スタンダードではないにせよ、”With Malice Towards None” は様々なミュージシャンが演奏している。フラナガンは、サイドマンとして『Dusty Blue/ Howard McGhee 』(’60)、同じ曲ながら”Mallets Towards None”という曲名で『Vibrations / Milt Jackson 』(’60)に参加(トム・マッキントッシュ編曲)。2003年にやっと出たという感のある、トム・マッキントッシュ自身の作品集のタイトル曲にもなっています。
 色々聴いてみましたが、曲の持つ良さ、つまり曲名が象徴する、魂を揺さぶるゴスペルの感覚と、エリントン的な洗練を併せ持つヴァージョンということでは、フラナガンが傑出している感があります。
 フラナガンの演奏に咲く華は、作曲の段階でフラナガン自身が撒いた種のせいに違いありません。
  フラナガン亡き後、この演奏解釈を再現できるのは寺井尚之だけかもしれない。11月のトリビュート・コンサートでメインステムの演奏を聴いてみてくださいね!
参考資料:
  • Reflections on Jazz and the Politics of Race/Tom McIntosh
Vol. 22, No. 2, Jazz as a Cultural Archive (Summer, 1995), pp. 25-35 Published by: Duke University
  • Smithsonian Jazz Oral History Program NEA Jazz Master Interview 

http://www.smithsonianjazz.org/documents/oral_histories/McIntosh_Tom_Transcript.pdf

トミー・フラナガンの名演目(1): Tin Tin Deo

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 11月16日(土)はトミー・フラナガンの命日!OverSeasでは、寺井尚之(p)が宮本在浩(b)、菅一平(ds)を擁するトリオ、The Mainstemで、在りし日の名演目を演奏するトリビュート・コンサートを開催!ぜひこの機会に、Jazz Club OverSeasにお越しください。

 フラナガンが亡くなって12年!現在もフラナガンの音楽に親しむ常連様から、トリビュート・コンサートに先駆けて、聴きたい演目の「総選挙」をしてはどうか?というご提案をいただきました。「総選挙」の体制が整うように、当ブログで演目のご紹介をしていきたいと思います。今日は、フラナガンがよくラスト・チューンとして愛奏した”Tin Tin Deo (ティン・ティン・デオ)”のお話を!

<アフリカ発~キューバ経由~USA着>

Flanagans_shenanigans.jpg  寺井尚之が初めてトミー・フラナガン・トリオの”Tin Tin Deo”を聴いたのは今から25年前の“ヴィレッジ・ヴァンガード”。むせ返るようなラテンの土臭さと都会的な洗練美が同居する演奏に大きな衝撃を受けました。作曲はChano Pozo, Gill Fuller, Dizzy Gillespieと3人の連名、1951年にディジー・ガレスピー楽団がデトロイトでレコーディング。フラナガンの親友、当時19才のケニー・バレル(g)が録音に参加しています。

 フラナガン自身のレコーディングは1993年ですが、亡くなるまで演奏ヴァージョンはどんどん進化していきました。トリビュート・コンサートでは、その中でも最高のアレンジメントでお聴かせします。

 ビバップの生みの親、ディジー・ガレスピーは、キューバ出身のコンガ奏者、チャノ・ポソとの出会いで、アフロ・キューバン・ジャズという新しいスタイルを創造しました。それまでにも、ルンバやマンボは、ダンス音楽として米国で人気がありましたが、ガレスピーとポソの音楽は、Slave Christianityと呼ばれるアフリカの土着信仰とキリスト教が融合した宗教的なルーツを持っていました。

 

<暴力と神:チャノ・ポソの凄絶な生涯>

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(Chano Pozo 1915 – 1948)

 ハヴァナ生まれのチャノ・ポソはアフリカから連れて来られた奴隷の子孫で、元は奴隷の居住地だっ

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たスラム育ち、小学校中退で札付きの不良でした。13才で少年院に送られ、そこで打楽器と宗教に目覚めます。スペイン統治時代、キューバの奴隷たちは、強制的にキリスト教に改宗させられたために、自分たちのアフリカの神々を、ローマン・カトリックの聖人になぞらえて信仰する「サンテリア」という宗教が生まれたんです。サンテリア教で打楽器は神々と人間を結ぶ重要な役割を果たすもので、それぞれの神々に一定のドラム・パターンがあり、打楽器と歌とダンスによってトランス状態になりながら神々と交信する宗教儀式が行われました。ポソは、そのような宗教的なミュージシャンだったんです。

 でも、ポソは決して清廉な宗教音楽家ではなかった。少年院からシャバに出た後は、靴磨きからボディガードまで、様々な職を転々としながら、ミュージシャンとして有名になり、作曲も行うようになりました。NYのラテン系ミュージシャンの間で、ポソの評判はとても悪かったそうです。呑む、打つ、買うの三拍子、派手に遊んだポソの音楽が、世俗的なものではなく、逆に深く宗教に根ざしているのが面白いですね。倫理的、哲学的な「宗教」というより、むしろ「まじない」と考えた方が判りやすいのかも知れませんね。

 1942年、マチートがポソの作品を録音したことで、NY在住のラテン系ミュージシャンの間でポソの名前が知られ、1946年渡米、翌1947年9月、ディジー・ガレスピー楽団に参加。12月のカーネギー・ホールで行われた楽団のコンサートは大好評でアフロ・キューバン・ジャズという新しいジャンルの到来に湧き、ヨーロッパでも絶賛されました。

Courtesy Frank Driggs Collectionchano-dizzyg.jpg

 その僅か1年後、12月3日の午後、ポソは粗悪なマリワナを売りつけられた腹いせに、同胞キューバのヤクの売人を殴り倒し、その日の夜、バーから出たところを、その売人が倍返しと射殺。34歳の誕生日を迎える一ヶ月前のあっけない最期でした。

<ディジー・ガレスピーの吸収力>

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Dizzy Gillespie playing with the Giants of Jazz, Hamburg, Germamy, 1973 (Photo credit: Wikipedia)

 チャーリー・パーカーにせよ、ポソにせよ、ディジー・ガレスピーは短命な盟友達から新しい音楽のエ

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ッセンスを貪欲に取り込んで、仲間のミュージシャンを指導してジャズ史を発展させて行ったというのが凄い。ポソは英語も読み書きもだめで、楽団のミュージシャンと決して良好な関係は築けなかった。ガレスピーが優れた統率力で団員をまとめ、僅か一年余りの共演期間中、できる限りポソに寄り添い、「サンテリア」の各々の神にまつわる「クラーヴェ」というリズム・パターンを吸収していきました。ポソの伝える複雑なリズムや哀愁に満ちたメロディーは、ガレスピーにとってエキゾチックなものというよりは自身のルーツへの道案内だったのかも知れません。彼の持つアフリカ土着の音楽言語をビバップの洗練された文体に取り込んだものが、この”Tin Tin Deo”であり、 “Manteca”であり、いかにも『チャント:お経』の趣がある”Cubana Be, Cubana Bop” (作曲はジョージ・ラッセル名義)です。サルサを始め、NYという水に洗われたラテン音楽の中でも、ガレスピーとポソが創ったアフロ・キューバン・ジャズは独特の香りがあります。

<トミー・フラナガンのヴァージョン>

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 後年、ディジー・ガレスピーはキューバのミュージシャンを米国に受け入れる支援をし、オール・スター・バンドとしてアフロ・キューバン・ジャズを披露していましたが、ポソが在籍していた頃の土臭さが時代とともに薄まって行ったように感じます。それでは、フラナガンのヴァージョンは当時のアフロ・キューバンの再現かというと決してそうではないんです。

 ビッグ・バンドの演目をピアノ・トリオに置き換えて本来のダイナムズムを失わないというのは大変な作業ですが、それこそフラナガンの得意技!キューバ音楽の特徴であるコール&リスポンスを、ピアノとドラムの掛け合いに生かしてイントロにし、名ドライバーがシフトチェンジとクラッチワークで、走りを自在にコントロールする如く、ラテン・リズムと4ビート、倍ノリ、4倍ノリと、変幻自在のグルーヴ変化、そして印象的なリフ、黒人ピアニストの伝統的な10thボイシングの奥行きで、強烈なダイナミズムを描出!洗練されて、一層鮮やかな仕上がりですが、日本料理のように素材本来の持ち味はは損なわれていないんです。


 そんなTin Tin Deo、フラナガンの名演目ってこんなだったのか!と思わせる演奏を11月のトリビュート・コンサートでお楽しみください!

 

 

 

 

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トリビュートの前にメドレーの話を!”エンブレイサブル・ユー~カジモド”

  トミー・フラナガンの生演奏をお聴きになった事がある方なら、忘れられないのがメドレー!

 年月が経ち、改訂を加えて以下のURLに再掲しました。

http://jazzclub-overseas.com/blog/tamae/2015/11/-embraceable-you30youtube.html