Oscar Pettiford in Hi-Fi- ビッグ・ハード・バップ・バンド!(その2)

=オスカー・ペティフォードの肖像=

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 ジャズ、クラシック、民俗音楽、映画やTV音楽、ビートニクのカルチャー・ムーヴメントなど、ボーダレスな音楽界の名士として、私を含め、カルト的信奉者を持つデヴィッド・アムラムは”Oscar Pettiford in Hi-Fi”など一連のオスカー・ペティフォード楽団のアルバムにフレンチホルンで参加しています。作編曲、指揮、それに数え切れないほどの楽器を演奏できるらしい。

 トミー・フラナガンと同じ1930年生まれで、彼の自伝「ヴァイブレーションズ」には、ペティフォードのカリスマ性や、楽団を必死で維持する熱い生き方が、活き活きと描かれています。

 こういう話は他人事と思えない!ついつい誰かに教えたくなってしまいます。下記のオリジナル・テキストを日本訳にし、それからダイジェスト版にしてみました。もっと編集するつもりでしたが、寺井尚之に「このままでええ!」と言われたので、ちょっと長いよ。

デヴィッド・アムラム 著 ”ヴァイブレーションズ“より 

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NYC マクミラン社刊:

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 僕がとうとう文無しになり、昼の職を探そうとした矢先、オスカー・ペティフォードからお呼びがかかった。オール・スター・バンドでしばらくツアーをするという。僕は喜んで仕事に飛びついた。ギャラが少ないのは承知の上だ。とにかくもう一度、仲間と一緒にプレイをしたいと思っていた。シェイクスピア祭(NYでは’54から毎年行われているイヴェント、現在はセントラル・パークでやっているようです。)の仕事ばかりやっていた僕にとって、20世紀に戻るというのは、最高の気分転換だ。ペティフォードと仕事をすれば、自分の三重奏の作品を書くためにもためになるだろう。

この楽団はツアーに参加するミュージシャン達との付き合いがまた楽しい。リハはなるべく早めの時間にして、後は一緒に飲んでは話に興じた。
 「俺はお前のプレイを聴いたぜ。ヤバダバディー♪」:テナー奏者のジェローム・リチャードソンは、なんと、僕が昨年のシェークスピア祭で、作曲して演奏したファンファーレをくちずさんでくれた。他にも何人かのメンバーは僕の演奏を聴いていた。僕はミントンズで1955年に、ジェロームとジャムったことがあった。彼はジャズと同じくらいクラシック音楽や音楽理論に精通しており、4種類の楽器に熟達していた。だが彼だけでなく、全員がそういうレベルの楽団だったのだ。

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 *本拠地『バードランド』に出演中のペティフォード楽団、画像をクリックして拡大すると、ハープのジャネット・パットナム、JRモンテロース(ts)、アート・ファーマー(tp)、ブリット・ウッドマン(tb)など、”In Hi-Fi”に参加している面々の姿が見れる。

 オスカーは、リハが終わると「ギャラは雀の涙くらいかも知れない。」とバンド全員に警告した。だが誰も文句を言う者などいない。皆、彼を敬愛していたからだ。約束していたギャラが払いきれぬ場合は、扶養家族の居ない独身ミュージシャンのギャラが一番安くなる決まりだった。勿論、彼の懐が豊かなら、我々は必ず分け前をもらえた。こういう楽団を維持していくのは、苦労がつきものさ。しかし、全員が楽しんでいた。
 
 フロリダへのツアーは、毎日が移動日で仕事という、一番ハードなツアーだった。レギュラーのトロンボーン奏者が行方不明になり、代理の奏者は”ポークチャップ”っていう仇名だ、実力は推して知るべし…

 列車やバスを乗り継ぎ、空港からフロリダのどこかに着陸し、最初のバスよりもオンボロのバスに乗り込むと、フロリダの風光明媚な湿地帯エヴァーグレードを途中駐車することもなく走り抜ける。青い目をしたなんとも感じの悪い白人運転手が、同じ白人のエド・ロンドン(frh)や、J.R.モンテローズ(ts)たちに向かって話しかけた。「おめえら、黒いのと一緒に混ざりやがってうっとうしい!いい加減にしろってんだ。すぐにおだぶつにされちまうぜ。」まるで自分がその予言を実行したいような口ぶりだった。
 
 それはまだワシントン大行進や公民権運動以前のことだ。バスを待っている間、僕はすでに気付いていた。フロリダの黒人達が、3人の白人を従えた黒人のバンドリーダーを見て呆気に取られていたのを。一方NYのミュージシャン達は、フロリダの「人種」に関するひどい社会常識に動揺していた。同時に地元の黒人達に浮かぶある種の「恐怖」の表情に対しても。それは僕らには悲しい光景だった。

 やっとの思いで我々は大学に着いた。今までのトラブルのおかげで、オスカーはとても気分を害していて、バスから出ようとしない。「俺はここで寝るよ。」と言ったきり、車両の奥で横になりバタンキューと寝込んでしまった。僕達団員は、着替えと食事の部屋を提供されたものの、部屋に入れたのは夕刻6時で、じきに本番だった。”ポークチャップ”のように 土壇場でトラとして入った連中は、演奏曲の譜面さえ見ておらず、本番前にリハーサルをすることになっていたのだが、オスカーは寝ている。しかたなく僕達は夕食を取り、余った時間は疲れ切った体を休める事にする。そして、本番直前にオスカーを起こして演奏を始めた。無論『バードランド』でのいつもの演奏レベルには及ばなかったが、学生達は大いに楽しみ、ダンスに興じた。彼らは、バンド・メンバーの多くがジャズ界で有名であることを知っていて、惜しみなく喝采を送ってくれた。

 コンサートの後、大学の学長が楽団の為に公式レセプションを開催してくれた。しかしオスカーは当夜の演奏の内容が不服で、宴会場の隅っこにふてくされて座っていた。
 とうとう、件の学長が、団員と共にオスカーのところに挨拶にやって来た。「オスカー、学長さんを紹介したいんだけど。」団員がそう言うや否や、ふくれっつらのオスカーの顔が悪魔的な笑顔に一変した。腕を大きく広げ抱擁し、びっくり仰天している学長に向かってこう言った。「ヘイ、マザーファッカー、調子はどうだい?」それから再び学長をしっかり抱きしめると、まるで、それが彼の出来る唯一の芸であるかのように、雄叫びのような笑い声を出した。学長も他の教授達も呆気にとられた様子だったが、両者の緊張がほぐれて、パーティはぐっと打ち解けた雰囲気になったのだ。
 
 僕も多くのバンドリーダーと仕事をしたが、オスカーほど誠実で気性の良い人はいない。狂気じみたところも彼が大天才である証拠だった。だからミュージシャン達は彼のためならどんな苦労も厭わなかった。

 パーティが終わる頃には、学部のスタッフ全員が、すっかりオスカーに魅了されていた。我々は朝の4時まで起きていて、バスでNYへと戻った。やっとの思いでマンハッタンたどり着いたと思ったら、その15時間後には、再び汽車や飛行機、バスを乗り継ぎ、トイレや食事の時だけ小休止というハードな巡業が始まるのだった。

 その一週間後、僕達の最後の大仕事があった。マサチューセッツ州スプリングフィールドで、人気歌手ダイナ・ワシントンも出演するコンサートだ。しかし、コンサートの看板は町中にたった8つしかなかったし、新聞広告も出ていない、PRとおぼしきものが皆無なのだ。武器庫をにわかコンサート・ホールに仕立てた会場に、お客はたったの25人。誰もコンサートがあることを知らないのだから仕方がない。オスカーは当時ジャズ界のスターだし、ダイナ・ワシントンはそれ以上の知名度があったから、満員になって当然なのに。ダイナも不入りに驚いていた。ダイナがうちの楽団に飛び入りで歌い、我々も彼女のバンドに入り、コンサートはセッションの様相になった。不入りのコンサート終了後、オスカーはどうにか金をかき集め、家族のいるメンバーにギャラを払い、独身者たちには、自腹を切って支払った。
 
 帰り道には、全団員がバンドは解散せざるを得ないだろうと察し、暗い気持ちで一杯だった。オスカーは、すぐにそんなムードを感じて、大声を出したり笑ってみせたり、皆を元気付けようとした。オスカーにとって、憐れみを受けるのは、耐え難いことだったのだ。

 「これからもシェークスピアを演るのかい?」他の団員が家路に着いた後、オスカーは僕と28丁目を歩きながら尋ねた。

「ああ…」僕は応えた。「でも、これからも一緒に出来ればいいなあ。ねえ、僕に何か助けられることはない?例えばパート譜を写譜するとか、どんなことでもいいからさ…」

“た・す・け・る”?!おい、お前が俺を助けるってかよ?!」オスカーは、まるで金星人の襲撃に遭ったように怒鳴りちらした。「一体何言ってんだ?俺がお前の助けを必要としてるってのか? おい、デイヴ、お前は自分のことだけ助けてりゃいいんだよ!しっかりしろよ。精一杯良いプレイをして、良い曲を書けよ。お前さんなら出来るさ。他人を助けるなんて考えるな!そんなのたわ言だって判ってるだろ。頑張って書き続けろ。誰にも邪魔立てさせるな。俺たちはな、神様に祝福されて音楽の世界に遣わされてるんだ!まあいいさ。俺の家でちょっと何か食べて行け。俺はな、フレンチホルンが大好きだ。次に一緒に演る時は、ミスノートなんか吹いてバンドを滅茶苦茶にすんなよな。俺が気付いてないとでも思ってるのか?全て耳に入ってるんだからな。」

 それから、僕達はオスカーのアパートでエール(例えばギネスビールのような飲み物、日本のラガービールよりフルーティだったり苦かったりする。)を飲み始めた。
「人生って素晴らしいよなあ!」オスカーが大声で言う。「俺たちのバンドは世界一だ!なあ、そうさ!だから、おまえ大声出すなよ!」と、オスカーは雄叫びを上げた。「俺の息子が眠ってるんだ、明日学校に行かなくちゃならないんだから。さあ、乾杯だ!!デイブ。」

「乾杯、オスカー」僕は小声で囁いた。

「神様が俺たちをこの世に遣わしたのは、凄いプレイをする為なんだ。お前がこれ以上しょうもないことばかり言うと、俺はフレンチホルンのセクションをしょぼいメロフォーンに変えちまうぞ、判ってるだろうな。だけど今夜はゴキゲンなサウンドを出してたよな!何てすげえバンドなんだ!!」

 僕達は結局一晩中盛り上がっていた。やがてオスカーは子供の時に覚えたインディアンの踊りを披露してくれた。彼の息子が学校へ行く支度の為に起きてきたときには、僕達は輪になってインディアンのダンスをしている真っ最中だった。奥さんが作ってくれた朝食をごちそうになってから、僕はやっと家路に着いた。

 オスカーは世界一の同志だった。最高に心の広いボスだった。何事にも純粋な気持ちで向かっていく力の凄さを見せてくれた人だった。自らのエネルギーと生命力で、ミュージシャン達や他の人々の苛立ちや悪感情も、喜びに変えてしまえる事を教えてくれた人だった。(了)

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 どうですか?天才ミュージシャンというものは、こんな風に音楽の天国と、現実社会の地獄の狭間を駆け抜けていくものなのでしょうか・・・
長いのを読んで下さってありがとうございました!

次回のお題は、『OverSeasの足跡を辿る その1-サラーム・ボンベイ』、今は昔、OverSeasの始まった頃について、書いてみたいと思います。
来週のウィークエンドに更新予定、CU