Diana Flanagan追悼

  ご無沙汰しています!!

皆様お元気ですか? 

 Interlude も長いフェルマータ…そのうち、コロナ禍に見舞われて、OverSeasは4月の緊急事態宣言とともに2か月休業、6月からやっと営業再開し、何とか元気にしています。

 今回の騒動のおかげで、私たちがジャズを仕事にしていけるのは、皆様の応援のおかげなんだと一層実感することができました。そして、生のジャズを聴ける喜びも、これまで以上に大きくなりました。休業中にご支援いただいた皆様に、心より御礼申し上げます。

diana_tommy_tamae_hisayuki_his_mom_stuff_of_overseas.jpg(’84年初来店時のフラナガン夫妻と寺井尚之やOverSeasのスタッフたちと)

 コロナ禍の中で、トミー・フラナガン未亡人、ダイアナ・フラナガンが訃報を知ることになりました。ダイアナはトミーが亡くなった後、NY郊外の老人ホームに入ってから数年間は、何度も電話で連絡を取っていたのですが、そのうち軽い認知症になり、いつのまにかホームを退所。そのあとは後見人役の弁護士も退任し、行方が分からなくなっていました。NYのミュージシャンやジャズ関係者、音楽評論家など、ダイアナと親交のあった方々を当たったのですが、居所を知る人はおらず、途方に暮れていた矢先に見つけた記事でした。

 トミー・フラナガンのマネージャーとして、欧米や日本のジャズ界と渡り合ったダイアナ、業界の評判は様々ですが、寺井尚之と私には本当によくしてもらい、数え切れない思い出をいただいた恩人です。

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 ダイアナはトミーより一つ年上の1929年生まれ、上の死亡記事では「フィラデルフィア生まれ」となっているけれど、本人は西部の出身と言っていた。お父さんの仕事の都合で、トミーの両親の出身地であった南部各地を転々としながら育ったので、トミーと話が合ったんだと言っていた。アイオワの大学で音楽を勉強した後、NYコロンビア大学演劇科に入学、卒業後はブルネットの美人シンガーとしてクロード・ソーンヒルOrch.などで活動し、ジーン・クルーパ楽団のサックス奏者、エディ・ワッサーマンと最初の結婚をし、歌手を引退した後は教師としてNYの中学校で国語を教えていた。だから、私の英語が間違っていると、辛抱強く修正して、正しい発音と文法を教えてもらいました。

 エラ・フィッツジェラルドと同じキーで歌うのを自慢にしていたダイアナの歌曲の知識はミュージシャンも驚くほどで、どんな歌のヴァースも歌詞も記憶しているという評判でした。

 フラナガン夫妻がご機嫌なときは、まるでミュージカル!会話の最中にそれに因んだ歌が次々と出てきて一緒に歌うので、本当に楽しかった。或るときは、NYアッパー・ウエストサイドのアパートで、ダイアナが〈That Tired Routine Called Love〉(マット・デニスの作品でフラナガンの愛奏曲)を歌ってくれたことがある。もちろん伴奏はトミー・フラナガン(!) ダイアナはなかなか上手いシンガーだった。

 ダイアナがトミーが結婚したのは1976年、ちょうどトミーが、エラの許を離れ、一枚看板のピアニストとして独立しようという転換期とオーバーラップしている。

 =剛腕マネージャー=

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(Tommy and Diana Flanagan (’93): 中平穂積氏の写真展にて、中平氏撮影)

 トミーの独立後、ダイアナは彼のマネージャーを務め公私ともにパートナーとなります。古巣のジャズ界に戻ったダイアナは寡黙なフラナガンに代わり、強気のディールで剛腕ぶりを発揮し、日本のプロモーターからは、エルヴィン・ジョーンズ、ジェリー・マリガンの奥さんたちと並ぶ「三大」として恐れられた。

 レコーディングでは『Jazz Poet』(’89)から『Sunset and the Mocking Bird-The Birthday Concert』に至るフラナガンの円熟期のリーダー作全てにダイアナの名前がプロデューサーとしてクレジットされている。

 ダイアナの基本ポリシーは、「トミーをいい加減な輩から守る!」こと。-海千山千もジャンキーもヤクザもジャズ界には居る。そういうリスペクトのない人間からトミーを守ることだった。NYのジャズクラブに行った人ならご存じでしょうが、音楽を聴かずにおしゃべりばかりしているマナーのないお客もいる。トミーの演奏中にそんな人を見つけようものなら、ダイアナの鉄槌は容赦なく下された。

 私が一番印象に残っているのは、’80年代にフラナガンが《ヴィレッジ・ヴァンガード》に出演していた休憩時間、最前列に陣取っている私たちの後ろのテーブルに、おそらく日本人と思われるジーンズ姿の若い男性客がやってきた。フラナガン・トリオがバンドスタンドに登場すると、拍手もせずにあの小さな丸テーブルに土足を乗せてリラックスしている。やにわに振り向いたダイアナはそのお兄ちゃんをにらみつけ、まるでちゃぶ台のように、土足の乗ってる小さなテーブルをひっくり返したのだった。男性の姿は、次の瞬間には消えていた・・・

  一方で、ダイアナの押しの強さは、出しゃばり、身勝手とも受け取られ、時には軋轢を生んだ。彼女のごり押しのおかげで、フラナガンと袂を分かったミュージシャンもいるし、彼女さえいなければ、フラナガンはもっとビッグになれたのに・・・という関係者もいる。

  でも私は思う。トミーは敢えてダイアナを悪役に仕立て、それを盾に自分の我を通したのではないだろうかと・・・表向き、尻に敷かれているふりをしながら、周りに業界人がいないときには、昭和の日本人と変わらない亭主関白のトミーの素顔を見せてくれたことがあるからだ。

 少なくとも、ダイアナなしには、フラナガンのサド・ジョーンズ集『Let’s』や『Jazz Poet』といった円熟期の名盤群は生まれなかっただろう。

  ダイアナは世界一のトミー・フラナガン・ファンを自認してはばからなかったが、寺井尚之には一目も二目も置いていた。未発表ソロと称してストリーヴィルからリリースされた音源がフラナガン以外のピアニストのものと見破ったのも、この二人だ。

 音楽だけでなく、詩や文学にも造詣深いインテリ、リベラルな超駄々っ子、あれほどエモーショナルな人は、彼女の旦那さんを別にすれば他に知らない。ダイアナと知り合えて、色々語り合えたことは、私たちの人生の財産です。

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 ダイアナ・フラナガン、本当にいろいろお世話になり、ありがとうございました。

心よりご冥福をお祈りします。

 

 

寺井珠重の対訳ノート(52)-英国趣味と大恐慌:Nice Work If You Can Get It

新年明けましておめでとうございます。

 お正月休みが明けるとすぐの「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」(1/11)-キャロル・スローンがトミー・フラナガン・トリオとフランク・ウェスという豪華メンバーをバックに繰り広げるガーシュイン・ソング・ブックの対訳作りでアタフタ!

R-5312369-1486121972-8739.jpeg.jpg キャロル・スローンは日本のヴォーカル・ファンの間でも人気が高い!以前、米国のライブ録音をラジオで聞いたことがありますが、日本で人気があることについて「私は、自分の国じゃ逮捕すらしてもらえないのに…」とMCしていて大受けでした。

 エラ・フィッツジェラルドやカーメン・マクレエといった本格派をこよなく愛し、真摯に研究するスローンの姿勢には共感するのですが、それ故コーラスを重ねるごとに、同じ歌詞は絶対繰り返さないアーティスト、対訳作りは楽じゃない。はあ~疲れた… 

 そうだ、正月休みだ!そんなときには寄り道して日本語に浸ろう!私の生家の隣町の文豪、山崎豊子の小説を読もう!大阪が商人の街だった昭和の原風景と、船場のしきたり、商いや色事がつぶさに書かれた「ぼんち」を読んでます。折しも元旦に読んだ章はお正月、老舗足袋問屋に使用人や妾たちが挨拶に来る華やかなシーン。華やかな表向きと、裏側に渦巻く愛憎が入り交じる場面だった。OverSeasはその舞台にほど近い場所にありますが、昔の栄華今何処? 主人公の喜久治は、粋な着流しの豪商、様々な女性と関係を重ねていく様子はまるで浪速の光源氏でもあるけれど、女に贅沢をさせて喜ばせる道楽を、しっかりと商売へのエネルギーに変えていく。ちょうどその頃、海の向こうでは、ガーシュイン兄弟のヒットソングが、不況のアメリカのショウビジネスを華やかに彩っていたんですね。

 

 =歌のお里=

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 さて、今も精彩を放つスタンダード〈Nice Work If You Can Get〉の起源は、フレッド・アステア主演のミュージカル映画『A Damsel in Distress(囚われの姫の意)/邦題:”踊る騎士”』(’37)です。ストーリーは、ロンドンを舞台に、アステア扮するアメリカ人ダンサーが、清楚なジョーン・フォンテイン扮する英国貴族の令嬢と恋に落ち、歌って踊るラブ・コメディー-霧のロンドンと恋の歌〈A Foggy Day〉もこのミュージカルのために作られた。

 残念ながら、映画の準備期間は、作曲者ジョージ・ガーシュウィンの体調不良の原因が脳腫瘍と判明した時期で、ジョージは映画の完成を見ることなく、38才の短い生涯を閉じている。そのせいかどうかはわからないが、このNice Work If You Can Getは、もともの別の題名と歌詞でお蔵入りのままだった歌曲のリメイクだった。 

Nice Work If You Can Getその意味は?=

Ira-Gershwin.jpg(左:作曲家 ジョージ・ガーシュイン、右:作詞家 アイラ・ガーシュイン)

 ガーシュウィン兄弟の歌は、口語の日常会話を歌詞に取り入れることによって、従来のポップ・ソングにはない、シンプルで生き生きとした世界を作り上げた。では、アイラ・ガーシュウィンの作ったこの歌詞の面白さはどこにあるのでだろう?

 まず、このタイトル”Nice Work If You Can Get“は、英語を母国語としない私たちにも、語呂のいい言葉なのだけど、いったいどういう意味なんだろう?訳詞をネット検索すると、実に多様な推測や憶測が述べられている。シンプルな言葉ほど奥が深くて難しい。 

 忘れてはいけないのは、この歌が発表された1937年の世相だ。大恐慌から10年近く経過したというのに、出口の見えない不況が続くという状況だった。

 イギリスを舞台にしたミュージカルらしく、作詞担当のアイラ・ガーシュインは、英国の有名な風刺漫画雑誌「パンチ」を読んでいた時、この言葉に出会った、という逸話がある。それは、不景気な世相を風刺した漫画で、二人の掃除婦がおしゃべりしている。一方のおばさんがコックニー訛りで「○○さんの娘は売春婦になったんだってね。」と言うと、もうひとりが「Nice Work If You Can Get」と羨ましがる、という漫画だった。

 その一方で、この英国由来の言い回しは、大恐慌時代のアメリカでも、働き口のない庶民の心を象徴する言葉だったらしい。

    正しい語意を辞書で調べてみよう。”ロングマン現代英英辞典“には、こう書いてあった。

 nice work if you can get it:

British English used humorously to say that someone has a very easy or enjoyable job, especially one which you would like to do.

(訳:イギリス英語-誰かが、簡単に金が儲かる、あるいは、楽しい仕事を持っている場合、特に自分もあやかりたいということを、面白おかしく言う際に使われる。)

 

 もう一冊、イギリス英語を主体とするケンブリッジ・ディクショナリーの説明では、金銭との関係がさらに深くなる。

something you say about an easy way of earning money that you would like to do if you could:

(訳:もしもできるなら、自分もしたいというような、簡単な金儲けの方法について言う言葉。)

She got one million dollars for appearing on television for five minutes – (that’s) nice work if you can get it!

(例文:彼女は、テレビに5分間出演して100万ドルを手にした。-そんなことができれば結構ですね!)

  つまり、「そんなに楽に儲かるとは結構だね!羨ましい!できることなら私もやってみたい、あやかりたい!」という意味なのだ。

   

=人間は金じゃない。=

 では、歌詞全体を見てみよう。冒頭の”ヴァース”部分は、金や名声を得るためだけの人生に対するクエスチョン・マーク、続く”コーラス”部分では、金に関係なく、ロマンチックな恋の成就を願い、「金儲け」への羨望の言葉であるはずの”Nice Work If You Can Get it”でリズミックに締めるという仕掛けになっている。

 つまり、この歌は、拝金主義に対するアンチテーゼであり、失業にあえぐ庶民にそこはかとない希望を与えるという、不況時代の歌(ディプレッション・ソング〉だったんだ!

 <Nice Work If You Can Get It

Music: George Gershwin/ Lyrics by Ira Gershwin

(原歌詞はこちら)

(ヴァース)
金儲けだけが生きがい、
そんな男の人生は明るいというわけじゃない。
名声を得ようと躍起になる野心家も同じ、
そんな名声も、時間の波にさらされりゃ、
消えない保証はないんだよ。
要するに…
本当の喜びをもたらす仕事はただ一つ、
運命の男女が恋をすること
それならば悔いはない。
それこそ最高の仕事-もしもそれができるなら…

(コーラス)
星降る夜更けに
手に手をとって…
うまく行くとは羨ましい、
やってみれば出来るものさ。

心に決めたあの娘とそぞろ歩く、
ため息ばかりつきながら、
うまく行くとは羨ましい、
やってみれば出来るものさ。

思ってもみなよ、
誰かが別荘の戸口で待っている、
二人の心が一つになれば、
願ったりかなったり!

愛し愛され、相思相愛、
そして将来を誓い合う…
それができれば苦労はしない、
うまく行くとは羨ましいね、
じゃあ、その方法を教えてよ。

 時代は変わっても、人の心はそんなに変わらないものなのかな?このガーシュインのスタンダード・ソング、焼け野原になった大阪の街に、新しい活路を見出す「ぼんち」、それに50年経っても、日本人の郷愁を誘う寅さん…、令和になっても感動を与えてくれます。

 今年もたくさんの皆様にOverSeasで生演奏を聴いていただけて、ついでにお金も儲かったらシメたものなんだけど-Nice Work If You Can Get It- Won’t YouTell me How?

参考文献-

  • George Gershwin: An Intimate Portrait: Walter Rimler著 University of Illinois Press 刊
  • America’s Songs: The Stories behind songs of Broadway, Hollywood and Tin Pan Alley: Phillip Furia, Michael Furia共著 Routledge刊
  • Ira Gershwin, the Art of the Lyricist: Philip Furia 著 Oxford University Press
  • Reading Lyrics: Robert Gottlieb and Robert Kimball著 Pantheon Books

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連載:ペッパー・アダムス最期の『アダムス・イフェクト』(その3 最終回)

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  サー・ローランド・ハナが、昔こんな風に教えてくれたことがあります。
「ペッパーは亡くなるまで災難続きだったんだよ。自分の車に轢かれて大怪我をして、治ったと思ったら病気になってしまったんだ…」

 ペッパー・アダムスが体の異変に気づいたのは1985年3月、ヨーロッパの長期ツアー中に立ち寄ったスウェーデン北部のボーデンという街だった。現地の病院の診断は肺がんだった。まだ54才、その前年の大部分を骨折の治療で棒に振り、やっとカムバックし軌道にのった矢先の出来事だった。円熟期の管楽器奏者が、よりによって肺のがん宣告を受けるとは、アダムスのショックはどんなものだっただろう。体調不良を押してヨーロッパ各地のツアー日程をこなし帰国後、NY市聖ルカ-ルーズベルト病院で精密検査を行ったが、診断結果は同じだった。

 アダムス最期のリーダー作となった『Adams Effect』は、抗がん剤治療の合間を縫って行った録音だ。プロデュースは、NY地元の〈Uptown Records〉、共同オーナー兼プロデューサーであるマーク・フェルドマンとロバート・スネンブリックの本業はどちらも医師で、特にスネンブリックは腫瘍専門医だったのが幸運だったのかもしれない。
 
 録音メンバーは、ドラムのビリー・ハートを除く全員がデトロイト時代のペッパーの仲間だ。テナーのフランク・フォスター、ピアノのトミー・フラナガンは、デトロイトのジャズシーンと兵役時代の両方の仲間だし、ベースはデトロイトの後輩格ロン・カーターだ。ドラムには、やはりデトロイトで共演を重ねたエルヴィン・ジョーンズが予定されていたが、妻でありマネージャーのケイコとギャラで折り合わず、アダムスが頻繁に使っていたビリー・ハートを起用、全メンバーをペッパー・アダムスが選ぶ結果となり、6月25日と26日の2日間、イングルウッドのルディ・ヴァン・ゲルダー・スタジオを押さえて録音を行った。

 録音曲は、企画段階で〈Uptown Records〉のスネンブリックが〈マイ・ファニー・ヴァレンタイン〉など、スタンダード曲を含めた30曲の録音候補リストを作成したが、アダムスは候補曲をことごとく却下、結局候補リストから彼が選んだのは唯一曲、フォスターが作曲し、彼のデビュー盤『Here Comes Frank Foster』(BlueNote ’54)に収録した〈How I Spent the Night〉だけで、一体、他にどんな曲を録音するのか?二人のプロデューサーはスタジオに入っても、さっぱりわからなかったのだそうです。つまり、A&R(アーティスト&レパートリー)もアダムスが仕切った結果のアルバムなのです。

 余談ですが、フォスターは〈How I Spent the Night〉の譜面はもう持っていなかったので、自分のアルバムを聴いて、譜面起こしをする羽目になったのだとか…

 実際、このアルバムを聴いてみると、アダムスは準備万端、完璧にネタを仕込んで録音に臨んだ感がするし、はつらつ他のメンバーもアダムスを中心に鉄壁のワンチームという印象を受けますが、バンド全体のリハーサルは皆無で録音したというのですから、さすがに一流は違います!

images (2).jpg トミー・フラナガンの証言(1988) 

「この録音をしたとき、ペッパーは絶好調で、実に力強く説得力のあるプレイだった。曲はほとんど彼のオリジナルばかりだ。彼の旧友、フランク・フォスターと共演出来たことを心から楽しんでいたなあ。二人は長年の間、共演者として最高の相性だったのだからね。」

〈Uptown Records〉プロデユーサー:ボブ・スネンブリックの証言(1988):
当時ペッパー・アダムスは、抗がん化学療法の第4サイクルだった。彼は、迅速な治療効果を望み、抗がん治療を積極的に行っていた。実際、彼の場合には、副作用の吐き気が余りなかったんだ。そのことについて、彼に話したことを覚えているからね。化学療法を受けた8-10日後に録音セッションの予定を組んだ。スタジオ入りしたときの調子は上々だった。見た目は元気そうではなかったが、コンディションは実によかった。
目を閉じれば、昔のペッパーがそこに居た。彼は非常にストロングで、最高の出来上がりになった。

 多分、これが最後のリーダー作になると思っていたのだろう。

ドラマー・ビリ-・ハートの証言
hartimages (2).jpg ペッパーは、ケニー・バレルやサド・ジョーンズ、ジョニー・グリフィンといった人たちと同類でね、だしぬけに、プロとしての実力をテストする。一度共演すれば、沢山のことを思い知る。言い換えれば、彼の創造活動の邪魔になってはいけないことを叩き込まれる。つまり、ある時突然に、演奏曲の全貌を見ろというプレッシャーがかかってくる。彼がどんなソロを取るのか、どんな曲を引用してくるのかは、全然予想がつかないのだから。あのとき、彼の周りを固めるのは、極めてハイレベルな名手達だった。まずロン・カーター、それにフランク・フォスターだ!多くの人間は、フランク・フォスターがどれほどすごいミュージシャンかわかってないがね。ああいう人たちは、いかなるレベルのミスも絶対に犯さない。彼らは初見で完璧に読譜し、正しいアクセントを把握してしまう。初めて演奏する曲でも、ワンテイクで素晴らしいソロが取れる。このメンバーで、テイクの取り直しがある場合は、決まって僕のせいだった!恥ずかしいことだと思っている。

 先日の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」では、オープニングのブルース〈Binary〉での6小節交換や、〈How I Spent the Night〉のアウトコーラスで8小節のみテーマを提示して余韻をもたせる粋な手法など、演奏構成の隅々に溢れるデトロイト・ハードバップのエッセンスを寺井尚之が具体的に提示してくれたので、さらに楽しく鑑賞することができました。

 ペッパー・アダムスがこのアルバムに収録オリジナル曲のタイトルを見ても、このアルバムが最期になるとわかっていたのではないかという気がする。自らのアイルランド(ケルト人)の血を意識した〈Valse Celtique(ケルト人のワルツ)〉息子ディランに捧げた〈Dylan’s Delight〉、妻に捧げた〈Claudette’s Way〉、そして〈Now in Our Lives(我々が生きている間に)〉には、アダムスの覚悟が伝わってきます。 

 録音の3ヶ月後、アダムスの治療を支援するチャリティ・コンサートがNYで行われ、アダムスが尊敬するディジー・ガレスピーや、デトロイトの仲間達-ミルト・ジャクソン、ケニー・バレル、そしてトミー・フラナガンと言った面々が演奏しています。

 翌年8月、自宅療養していたアダムスの元に、かつてのリーダー、サド・ジョーンズがコペンハーゲンで客死したという知らせがディジー・ガレスピーから届きました。骨肉腫というガンで、わずか4ヶ月の短い闘病期間で亡くなったということでした。

 それからわずか数週間、トミー・フラナガンが彼を見舞いに訪れた3日後にアダムスは天に召されました。-1986年9月10日、まだ56才でした。

 セント・ピーターズ教会での音楽葬の葬儀委員長はトミー・フラナガンが務め、エルヴィン・ジョーンズ他、デトロイトの仲間たちや、サド・メル時代の親友、ジョージ・ムラーツ、そしてアダムスの対極にあるバリトン奏者、ジェリー・マリガンといった多くのミュージシャンが演奏に参加しました。

  アイルランドの血を引くバリトン・サックスの勇者、大いなるデトロイト・ハードバップのサムライよ、永遠に!

 アダムス関連の資料の宝庫!Gary Carnerに感謝します。

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連載:ペッパー・アダムス最期の『アダムス・イフェクト』(その2)

=戦友=

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 モーターシティとして活況を呈するデトロイト・ジャズ・シーンは、NYからツアー・サーキットで巡演してくる超一流バンドのリーダーたちにとって、人材とアイディアの宝庫だった。アレサ・フランクリンや後のモータウン・サウンドに象徴される黒人のソウルフルな感性と、ナチスから逃れてきたトップクラスの音楽家がもたらした高度な西洋音楽理論、加えてチャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーのビバップ革命の信条に啓発を受けた黒人ミュージシャン達は、NYジャズと一線を画す、非常に洗練されたジャズのスタイルを確立していきます。それがサド・ジョーンズを中核に開花したデトロイト・ハードバップです。(左下写真:サド・ジョーンズとペッパー・アダムス)その後NYに進出したアダムスが、’60年代終盤から’70年代後半まで、サド・ジョーンズ&メル・ルイスOrch.の花形ソロイストとして大いに人気を博したのも偶然ではないのです。

thad_f_0bc763.jpg しかし、前途洋々たるモーターシティの若手ミュージシャンの躍進の壁となったのが、激化の一方を辿る朝鮮戦争でした。1951年にはトミー・フラナガン、フランク・フォスター(ts)が、翌52年にはペッパー・アダムスにも召集令状が届きます。彼らジャズ・エリート達は24ヶ月間兵役に付き、軍楽隊や前線の慰問団、そして北朝鮮の爆撃に抗する朝鮮半島の最前線で働きました。

 トミー・フラナガンは、この期間を「人生における地獄」と呼び、その中で、時にアダムスと遭遇できたことが、唯一の救いだったと語っています。

 フラナガンの証言:「ペッパーは、一足先に(ミズーリの基地で)数週間の基礎演習を終えていた。彼は、私がホヤホヤの新兵として訓練中だと知り、私が野営地に向かって行進していると、ペッパーが隊列の中の僕を目がけて走ってきた。そして僕のポケットに懐中電灯をぎゅっと押し込んた。 『きっと役に立つよ!』と言ってね…」

Koreaf_0bc74c.jpg  ペッパーは軍楽隊での演奏と、耳が良いことから、敵機襲来の爆音をいち早く感知して本部に伝えるという最前線の諜報活動も行った。軍隊時代、ペッパーは占領下の東京にも寄港し、アーニー・パイル・シアター(旧:宝塚大劇場が進駐軍に接収され改名、日本人の入場は禁止されていた。)でも演奏している。サド・ジョーンズ+メル・ルイスOrch.より先に来日していたわけですね。(左写真:朝鮮半島38度線北側をツアーしたアダムス加入慰問団のルート。)

 丸2年の従軍期間を経て、ペッパーはジャズシーンに復帰し、デトロイトで活動を再開。トミー・フラナガンが理想のジャズクラブと呼んだ《ブルーバード・イン》では、ビリー・ミッチェル(ts)の代役としてサド・ジョーンズやフラナガンと共演、ジョーンズやフラナガンが相次いでデトロイトを去った後は、バリー・ハリス(p)達とハウスバンドを組みました、

 デトロイトで、朝鮮半島で、そしてNYで…憧れや高揚感…様々な感動体験と、人に言えないほどの苦難を分かち合ったフラナガンとの友情は、アダムスの早すぎる死まで続きました。

 最晩年の’85年、ペッパー・アダムスは 最期のリーダー作『アダムス・イフェクト(Uptown』で、アダムスは朝鮮戦争の戦友であったトミー・フラナガン(p)、フランク・フォスター(ts)に参加を要請し、抗がん剤治療の合間を縫ってレコーディングに臨みます。(続く)

=参考文献=

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連載:ペッパー・アダムス最期の『アダムス・イフェクト』(その1)

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「トミー・フラナガンの足跡を辿る」-かれこれ16年余り毎月欠かさず開催してきましたが、10月は台風のため今月に延期!

目玉アルバムは、バリトン・ザックスの名手、ペッパー・アダムス最後のリーダー作『アダムス・エフェクト/ Adams Effect 』(’85 Uptown Records)。来月の講座まで時間ができて、幸か不幸か、久々のブログ更新!

 

=ペッパー・アダムスとは=

pepper_3.pngPepper Adams (1930-1986)

 ペッパー・アダムス(本名パーク・アダムス三世)は、ジャズ史を代表するバリトン・サックス奏者、ハリー・カーネイやジェリー・マリガンと並ぶ名手であると同時に、デトロイト・ハードバップを代表する音楽家でもある。アダムスのプレイは、グイグイとドライブするパワフルなスウィング感と、豊かで繊細なハーモニー感覚を併せ持ち、白人らしいクールなスタイルのスター、ジェリー・マリガンの対極にある。白人でありながら、ブラックなフィーリングで「マリガンとは違う」音楽性によって、一部の批評家はアダムスをこき下ろしたが、彼の音楽的信条は微塵にも揺らがなかった。 

=生い立ち

 ペッパーはアイルランド系アメリカ人三世、本名をパーク・フレデリック・アダムス三世と言います。大恐慌の嵐が吹き荒れた1930年(昭和2年)、ミシガン州の裕福な家庭に生まれていますが、父親が事業に失敗したため、母子は父を残しNY州ロチェスターにある母の実家に身を寄せた。ペッパーは14才ですでにクラリネットやテナー・サックスを演奏し、稼いだギャラは教師だった母親の安月給よりも多く、ずいぶん家計を助けた。17才になると、母親の転任に伴いデトロイトに引っ越すことに。自動車工業で栄えるデトロイトは若年層教育に予算を充当していたため、NYの学校よりずっと高給が保証されたのです。フラナガンやサー・ローランド・ハナさんがハイスクールで、これまでヨーロッパで一流音楽家として活動してきたユダヤ人教師たちから高度な音楽教育を授けられたのも、教育熱心なデトロイト市政の賜物だったのですね。

=トミー・フラナガンとの友情

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トミー・フラナガン(20代前半)

  アダムスが生涯の親友となるトミー・フラナガンと出会ったのは、アダムスがデトロイトに越してきて3日目に参加したジャム・セッションの場だった。二人はすぐに意気投合し、トミーはこの新顔を、ケニー・バレルやサー・ローランド・ハナ、ダグ・ワトキンス、後に双頭コンボを組むドナルド・バードなど、同じ年頃の仲間たちに紹介していきました。テナーとクラリネットが主楽器だった彼が、質屋でお買い得のバリトン・サックスを手に入れたのもちょうどその頃です。フラナガンとアダムスは、その当時デトロイトに住んでいたラッキー・トンプソン(ts.ss)率いる9ピースの楽団に加入、トンプソンは、若手ミュージシャンだった二人にとって、正規に共演した初めての大物ミュージシャンになりました。後年、後にフラナガンはラッキー・トンプソンを、デューク・エリントンやサド・ジョーンズ、コールマン・ホーキンスに匹敵する本物の天才と絶賛しています。 

paradisetheater.jpg その当時は人種隔離の時代、自動車工業で繁栄していたデトロイトには、南部から多くの黒人労働者が流入し、一大黒人コミュニティが形成されていました。デトロイト・リヴァーの北西部は黒人の住宅地と歓楽街となり、ウッドワード・ストリートの東側には、数多くのジャズ・クラブが軒を連ねるジャズの街だったのです。 (左写真:黒人街のシンボル的な劇場、パラダイスシアターはエリントン、ベイシーなど錚々たる楽団が演奏する映画館だった。)

 黒人人口の爆発的な増加は、デトロイトに人種間の軋轢がもたらすことになります。白人警官が黒人市民に対して、正当な理由なしに射殺する事件は今もなお多発していますが、フラナガンも若い頃、何度も警官に職務質問され、殺されるんじゃないかというオソロシイ目に会ったらしい。

  ジャズの世界もまた、ミュージシャンは白人グループと黒人グループに分かれ、演奏場所も違えば、演奏スタイルも違っていた。白人たちはスタン・ゲッツを信奉し、ドラッグをガンガンやりながら専らクール・ジャズを演奏。一方、黒人達が崇拝するのはもちろんチャーリー・パーカーで、ビバップを追求しつつ、案外ドラッグにはクリーンで、メジャーな先輩たちに一歩でも近づけるよう、楽器の技量と音楽理論の研鑽に励む気風がありました。その当時デトロイトでは、ヤクザ社会でも人種の棲み分けがきっちりしていて、黒人マフィアが、同胞の子弟に薬を売りつける非道はしなかった。NYでヘロイン中毒になったマイルスがデトロイトで静養していたのも、そういう理由があったのです。そんなわけで、地元の白人ミュージシャンと黒人ミュージシャンの交流はほとんどなく、数少ない例外がペッパー・アダムスだったというわけです。アダムスはただ一人の白人として、ブラックなジャズ・シーンの中で切磋琢磨して行きます。(続く)

寺井珠重の対訳ノート(51)-Over the Rainbow (最終回)

yip-harburg_wide-821d82cf252b6593d7ae0afa36d2c9aeec690835.jpgイップ・ハーバーグ(1898-1981)

 映画史に輝く『オズの魔法使い』-ストーリーと音楽を一体化させ、ハロルド・アーレンと共に、国民的ポップ・ソング〈Over the Rainbow〉を創り上げた作詞家イップ・ハーバーグはどんな人だったのだろう?

R-3580411-1472158908-8340.jpeg.jpg  イップ・ハーバーグの作詞作品は、〈April in Paris(パリの四月)ヴァーノン・デューク曲〉や〈Last Night When We Were Young ハロルド・アーレン曲〉といったラブ・ソングも多いけれど、〈Over the Rainbow〉を始めとするユニークな歌詞の作品も多い。例えば、初ヒット作〈Brother, Can You Spare a Dime (’32) 〉は、大恐慌で失業した労働者の歌。鉄道や道路建設に汗を流し、社会貢献したのに、職にあぶれた身の上を語りつつ、「10Brother セントCan You 恵んでSpare aくれ Dime・・・」と物乞いをする・・・哀愁を帯びたロシア民謡のメロディーと身につまされる歌詞を、ビング・クロスビーがさらっと歌い上げて、庶民は大共感!”ディプレッション・ソング(恐慌歌)”と呼ばれるトレンドの先駆けを作った。日本でも有名な〈It’s Only a Paper Moon (’33) ハロルド・アーレン曲〉は、カメラが普及していなかった時代、写真館でポートレート撮影する際の背景として流行したボール紙で作った三日月を主題にしたポップな感覚で一世を風靡しました。市井の人たちの心情に寄り添うイップの視点は、お坊ちゃま育ちで、贅沢に疲れた富裕層の香り高きコール・ポーター作品の対極と言えるかも知れません。

=ドブ板人生= 

 6a00e54fe4158b88330120a6ac14ae970b-600wi.jpg イップ・ハーバーグ(Yip Harburg)は1896年生まれ、親友のガーシュイン兄弟(左写真:左から-弟のジョージ、兄のアイラ)や、コンビを組んだハロルド・アーレン、バートン・レインといった作曲家と同じロシア系ユダヤ人です。ロシアからNYに夢と希望を抱えてやってきた両親は、英語も満足に話せず、婦人服工場で最低の賃金とひきかえに重労働を強いられた。四人兄弟の末っ子であったイップも、幼い頃から、日暮れにエジソン社の街灯を順番に点けて回る仕事で家計を助けた。一家の暮らすロウワー・イーストサイドは、当時究極の貧民街、いくら働いても劣悪な環境から抜け出せない…貧乏の辛さが骨の髄まで滲み込んだと、晩年のイップは回想している。マイノリティに門戸を開き、才能を伸ばす教育方針で知られたタウンゼント・ハリス高校時代、イップが隣の机に居た生徒もロシア系ユダヤ人二世、共に文学好きだったから意気投合。その男子はブルックリンに住み、彼よりも裕福な家の子で蓄音機を持っていたからしょっちゅう遊びに行っては音楽を楽しんだ。生涯の友となったその生徒の名はアイラ・ガーシュイン!二人は共にシティ・カレッジに進学し、イップが青年社会主義同盟(YPSL-イップスルと発音)に入団したのもその時期だった。YIPというニックネームは、そこから付いたのでした。前の大統領選挙で若者の絶大な支持を得て善戦したバーニー・サンダース上院議員もYPSL出身者です。余談ですが、米国の小学校などで行われる国旗への「忠誠の誓い」を発案したのも、実は社会主義者なんです。第一次世界大戦が始まると、反戦の意思硬いイップは、南米ウルグアイに渡り徴兵を避け工場で働いた。両親の面倒を見るために帰国した後は電器店に就職し、数年後自ら共同経営者として家電販売会社を立ち上げて、実直なビジネス・マンを目指した。ところが、数年後に大恐慌が起こり、会社はあえなく倒産してしまいます。彼の文才を知るアイラ・ガーシュインは、多額の借金を抱え途方に暮れるイップに、「作詞家になれば借金が返済できる。」と、ショウビジネスに入ることを強く勧めました。

 =作詞家稼業=

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 アイラの紹介で、ブロードウェイでレビューの作詞を担当すると、ショウは首尾よく成功し、次々と作詞の依頼が舞い込んでくるようになった。やがて1932年のブロードウェイ・レビュー『アメリカーナ』の劇中歌として、ロシアの子守唄由来のメロディーに歌詞をつけた〈Brother, Can You Spare a Dime 〉が全米で大ヒットしたのは、大恐慌の3年後のことだった。イップ・ハーバーグは作詞家として、そして、ショウの脚色や演出に手を入れて、お客に受けるヒット作に微調整する”ショウ・ドクター”として現場の信頼を確立していきました。 

 イップは、ポップソングの歌詞の中に、こっそりと、支配者層に対する皮肉や風刺を忍ばせるということをした。日本人の私には、そんなイップのスピリットが、江戸時代の浮世絵師、歌川国芳や葛飾北斎の技と重なります。そしてアメリカの寓話、『オズの魔法使い』は、反骨の士にとっては、願ってもない題材でした。

 

 =『オズの魔法使い』という寓話=

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 お若い皆さんは、もはや『オズの魔法使い』がどんな話か知らない人もいるかも知れません・・・

 ごく簡単にあらすじを言うと、カンサス州の単調な片田舎で、両親を幼い頃に亡くし叔母さんと農家で暮らす12歳の少女、ドロシーの冒険物語。ある日、大竜巻に吹き飛ばされたドロシーと愛犬のトトの行き着いた先は、カンザスとは似ても似つかぬカラフルなおとぎの国-オズという大魔法使いが支配する”マンチキン・ランド”だった。「家に帰りたいなら、エメラルドの都にいらっしゃるオズ大王に頼めばいい。」-良い魔女に教わったドロシーは、愛犬トトとエメラルドの都を目指します。道中出会った「脳みそ」が欲しいカカシ、「勇気」を願うライオン、「心」を持ちたいブリキ男の命を次々に助け、皆で一緒にオズ大王に望みを伝えようと、一路エメラルドの都へ…色々な冒険をしながら、やっとのことで都にたどり着くと、街の入り口で「ここはエメラルドが輝きすぎて目に悪い」からと、メガネをかけさせられた。すると、そこはまさにエメラルドが輝く美しい都市、しかし、謁見を許された大王の正体は、なんとネブラスカからやってきた手品師兼ペテン師のおっさんで、メガネをはずせばエメラルドの都も普通の街だったのです。結局、カカシ、ライオン&ブリキ男が切望した、勇気、叡智、感情は、数々の苦難を制することのできた彼らに備わっていたものだった。そして、ドロシーも、自分が履いていた魔法の靴があれば故郷に帰れることを知らされる。結局、オズの魔法使いの助けなど必要なかったのだ!ドロシーが憧れた虹の向こうの幸せは、あれほど退屈だったカンザスの叔母さんの家に有った!というお話です。

  1900年、原作者フランク・ボームが登場人物に込めた寓意は、かかし=銀行に搾取される西部の農民、ブリキ男=資本家に搾取される東部の工場労働者、ライオン=人民の権利を守ろうとしたW.J.ブライアンという民主党の政治家、悪い魔女=資本家、ペテン師のオズ大王=当時の大統領-であったとされている。それから30年余り、スラム街に育ち、不況倒産の憂き目にあったイップ・ハーバーグにとって、インチキなエメラルド・シティとは、大恐慌後にルーズベルト大統領が、景気回復とバラ色の未来を提唱するニュー・ディール政策だったのです。 

=反骨の美学=

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  映画『オズの魔法使い』はディズニーの長編アニメ『白雪姫』に対抗して巨額を投入したプロジェクトだったが、実のところ、公開当時はそれほどの評判も収益も得られなかった。

 この映画が全米で親しまれるようになったのは、むしろ’50年代中盤からのTV放映のおかげだった。奇しくもその時期は米ソ冷戦時代、共産主義者=反政府分子を駆逐しようというマッカーシズム(赤狩り)旋風がハリウッドに吹き荒れた時期と重なっている。’30年代から共産主義は理想主義として若者の間で人気があり、危険視されていなかった。ディジー・ガレスピー始めビバップのミュージシャンもコミュニスト集会で盛んに演奏していた歴史があるし、ビリー・ホリディが『奇妙な果実』を歌った人種混合のクラブ《カフェ・ソサエティ》もまた「赤狩り」によって閉店を余儀なくされたのです。

 チャップリンは米国を追放されスイスに移住、膨大な著名映画人が映画産業から閉め出された。ジョン・ウェインやウォルト・ディズニー、ロナルド・レーガンは赤狩りを応援し、オーソン・ウェルズやヘンリー・フォンダ、ハンフリー・ボガート(写真上中央:妻ローレン・バコールと)達は、違憲な人権侵害だと真っ向から抵抗しましたが、国家権力には勝てません。実のところ、イップの標榜したのは、北欧的社会民主主義で、共産党員であったことはないのですが、立派な(?)要注意人物として’51年から11年間ブラックリスト入りし映画の仕事ができなくなります。でも彼には印税という収入源があり、比較的寛容なブロードウェイに戻って仕事を続けました。

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   イップは赤狩りでハリウッドを追われ、投獄された脚本家の友人で、「ローマの休日」や「パピヨン」など数多くの名作で映画史に名を残し、後に「トランボ」という映画にもなったダルトン・トロンボが投獄された間には、多額の経済的援助を行っています。 

 赤狩りのヒステリーが一段落する頃、イップをハリウッドに復帰させたのは、『オズの魔法使い』で〈Over the Rainbow〉を守ったアーサー・フリードだったといいますから、縁の深さを感じます。 

large.jpg イップの反骨精神は一生衰えることはありませんでした。 1944年には、女性開放運動家として、ブルマーという言葉の元になり、南部の黒人奴隷の逃亡を援助する秘密結社で、コルトレーンの曲でも知られる〈アンダーグラウンド・レイルロード〉の幹部でもあった女性運動家、アメリア・ブルーマーをモデルにした『ブルーマー・ガール』の作詞を担当。人種混合のステージで、ヒロインが人権活動家という、何十年も時代を先取りしたミュージカルでさえヒットさせたのだから、さすがはショウ・ドクターです。その3年後には、人種差別と資本家に対する風刺をこめたファンタジー『フィニアンの虹』の脚本、作詞を担当。ブロードウェイで725回のロングラン記録を樹立し、後にフランシス・コッポラが映画化しています。

 82歳で天寿を全うしたイップの遺骨は、無神論者らしく海に散骨されたといいます。

 「私は単に歌を書いてるだけの男じゃない。自分の歌に、なにかしら特別な意味を持たせたい。」イップ・ハーバーグ (1981 

=参考文献=

 

寺井珠重の対訳ノート(51)-Over the Rainbow (その2)

TheWizardOfOz.OverTheRainbow.png   『オズの魔法使い』(1939) -〈Over the Rainbow〉を歌うジュディ・ガーランド

〈Over the Rainbow〉
 E.Y. Harburg 作詞 / Harold Arlen 作曲
(原詞は上をご参照ください)

=ヴァース(映画では未使用)=

世界中がどうしようもなく混乱し

大雨が到るところに降ると

神様が魔法の道を開いてくれる。

黒い雲が空に立ち込めると、

虹のハイウエイが見つかる、

あなたの家の窓から太陽の後ろ側、

雨のもう一歩向こうまで…

=コーラス=

虹の彼方の

お空のどこか

ずうっと前に、

子守唄で聞いた国がある。

虹の彼方のその国は

晴れ渡る青い空、

身の程知らずの夢も

きっと叶う。 

いつかお星様にお願いしよう、

目覚めたときには、

黒い雲は過ぎ去り、

悩みはレモン・ドロップみたいに溶けている、

煙突よりもずっと高い

素敵なところにいるんだもの。 

虹の彼方のその場所には

幸せの青い鳥が羽ばたく、

鳥が虹の向こうに飛べるなら、

私もきっと行けるはず。 

小さな青い鳥が

虹の向こうに飛べるのなら、

私もきっと行けるはず。

the-wizard-of-oz-75-years-facts-ftr.jpg=このシーンはダルい=

image.jpg12_Memorable_Moment_director_victor_fleming.jpg 映画『オズの魔法使い』中、カンザスの農家で暮らすあどけない少女ドロシーが、納屋の横で〈Over the Rainbow〉を歌うモノクロの場面は、映画史上最高の名場面のひとつとされていますが、実のところ、このシーンは編集段階で3度もボツにされていたのだ。その犯人は共同プロデューサーで、後にハリウッドの黒幕として名を馳せたエディ・マニックスと、映画監督チームのアンカー役を務めたヴィクター・フレミング(左写真)だ。フレミングはこの作品の後の「風と共に去りぬ」で映画史に残る名監督となる。アングロ・サクソンで大きな体躯、威厳に満ちた風貌のフレミングは、音楽担当チームでNYのユダヤ系移民であるハロルド・アーレンとイップ・ハーバーグをオフィスに呼びこう言った。

 「こういうことを言って大変申し訳ないんだが、レインボー、オーバー・ザ・レインボーと歌う場面のせいで、映画前半のモノクロ部分の展開がダルくて冗長になっている。あのシーンはカットする以外に仕方ない…」それは、上司の最後通告と言えるものだった。その背景には、冒頭オクターブで跳躍するこの歌がメインテーマとなっても、素人が歌うのは難しく、シート・ミュージックのセールスが期待できないという楽譜出版社の事情もあった。

 アーレンとハーバーグは、〈Over the Rainbow〉が映画の最強のナンバーであるという自負があり、この一曲に賭けていたのに…

judy_louis.jpg 温厚な性格のアーレンは嘆き悲しんだ。対照的にハーバーグは反骨精神の塊、「てやんでえ、べらぼうめ!」とNY弁でまくしたて、自分に脚本の手直しを任せてくれた共同プロデューサー、アーサー・フリードのオフィスへ!このシーンをカットすれば映画が台無しになる!と熱弁をふるった。フリードは作詞家出身でユダヤ系の大物プロデューサーとして、かねてからハーバーグの才を認め信頼を寄せており〈Over the Rainbow〉の良さもよく理解していたので、彼のためにひと肌脱ごうということになった。フリードが直談判したのは、監督やプロデューサーよりもっと地位の高い人物、MGM(メトロ・ゴールドウィン・メイヤー)の創設者にして最高責任者であるルイス・B・メイヤー(左写真 w/J.ガーランド)である。 

 フリードは、ハリウッド最大の映画帝国のドンにこう言い放った。

 「虹のシーンを外すと仰せなら、私は会社を辞めます!」

 その数年前、腹心の天才プロデューサー、アーヴィング・タルバーグを失い、フリードを彼の後継者として覇権維持の望を託していたメイヤーは、その一言に折れて、編集方針の撤回を通告したのだった。アーサー・フリードは後に『雨に歌えば』などのヒット作を連発してメイヤーの期待に応えるが、シャーリー・テンプルにセクハラをしたのは彼であり、昨年のMe Too運動の発端となったハーヴェイ・ワインスタインの元祖ともいえるキャスティングをしたプロデューサーでもある。(下写真)

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  このような、様々な障害を乗り越えて、反骨の作詞家イップ・ハーバーグと天才音楽家ハロルド・アーレンによる名歌〈Over the Rainbow〉の場面は、MGMが築いたミュージカル帝国ハリウッド映画史を象徴するシーンとなったのでした。 

ハーバーグがこれほどまでにこの映画作品に入れ込んだのは、この一曲のためだけでなく、もっと深い思い入れを持っていたからなのです。(つづく)

寺井珠重の対訳ノート(51)ーOver the Rainbow(その1)

 今から80年前の1939年8月、ハリウッドでプレミア上映されたファンタジー・ミュージカル『オズの魔法使い』の劇中歌〈Over the Rainbow〉は、アメリカ第二の国歌といわれるほど親しまれ、80年以上経った現在も様々な国で、ジャンルを超えた多くのアーティストが取り上げている。主役のドロシーを演じ、自分のために初めて書かれたこの歌を初演したジュディ・ガーランドは当時16才、この映画を機に国民的スターとなった彼女は、短く悲劇的な47年間の生涯を通して歌い続けた。 

 書きます、書きますと言いながら、なかなかアップデートできないInterlude、何で今さら、〈Over the Rainbow〉のようにシンプルな歌を取り上げようと思ったかというと、昨年「トミー・フラナガンの足跡を辿る」で聴いた、トミー・フラナガンの『ハロルド・アーレン集』のプレイに改めて感動したのこと、そして、この歌、この映画が生まれた時代を今一度見てみようと思ったからです。

=原作にない『虹』の仕掛人=

 映画『オズの魔法使い』は、 “アメリカの子どもたちに、グリム童話やアンデルセンではないアメリカのおとぎ話を!”と、フランク・ボームが1900年に書いた『オズの魔法使いシリーズ』の中の『The Wonderful Wizard of Oz』 を基に、280万ドル(約3億円)という製作費を投入して作られたファンタジー映画だった。ほぼ同時期の、ジャズ・スタンダード曲の源泉、『有頂天時代(スイング・タイム)』『トップ・ハット』といったフレッド・アステア&ジンジャー・ロジャoz_.jpgース主演のヒット・ミュージカルの予算が100万ドル以内であったことを考えれば、途方もない超大作ということになります。ところが、製作プロデューサー陣はミュージカル映画に関してはド素人に近く、他にも複数の作品を抱えていて忙しいったらありゃしない。企画段階で主演のドロシー役を予定していた子役スター、シャーリー・テンプルちゃんの獲得に失敗(一説にはプロデューサーの一人がセクハラをしたためとも言われている。)、その代わりに抜擢されたのが、歌はうまいが端役扱いだったジュディ・ガーランド、実年齢より幼い少女を演じるため、映画会社の指示でアンフェタミン(覚せい剤)の服用で体重を減らして役作りをし、それが後年の薬物依存に繋がったとされています。この歌を含め、映画音楽を担当したハロルド・アーレン(作曲)&イップ・ハーバーグ(作詞)が決まったのはクランクインの5カ月前、その時点では監督すら決定していなかった。結局、撮影の土壇場に4人の映画監督と11人の脚本家による大所帯が編成される。しかし「船頭多くして船山に登る」という諺どおり、ライター達に物語の展開で意見の相違が生まれ、最終的なシナリオがなかなかまとまらない。そこで、共同プロデューサーのアーサー・フリードがまとめ役として白羽の矢を立てたのが作詞担当のイップ・ハーバーグだった。何故ならハーバーグは、ブロードウェイとハリウッドで修羅場を潜り抜け、まとまらないものを剛腕と人望を駆使して現場でまとめ上げる”ショウ・ドクター”の異名を取っていたからです。ハーバーグがかつて一緒に仕事をした実力者が揃う脚本家チームの内でも、当時無名の南アフリカ出身のライター、ノエル・ラングレーのドラフトが気に入り、そこに自分達のミュージカル・ナンバーがストーリーの一部として自然に収まるようにリライトした。シナリオ・チームのブーイングには映画に登場するカカシのように知らんぷり、ライオンの如く威嚇しながら、ブリキの木こり同然にシークエンスをぶった切って、ここぞという箇所に自ら科白を書き入れた。何度も一緒に仕事をして、気心知れたダンス部門のスタッフ達との共同作業で、歌からダンスへという自然な映画の流れを作って行ったのです。この映画の脚本、脚色にハーバーグはクレジットされていませんが、陰のチーフ・シナリオライターがハーバーグだったことを当時のクルー達が証言しています。

  今回、改めてボームの原作を読んでみましたが、カンザスの単調な片田舎に暮らす少女ドロシーが虹を見る場面は全くありません。それどころか、原作に”rainbow”の文字はただの一度も登場しないのです。

  小麦とトウモロコシの畑が果てしなく続くカンザス、農場の片隅で眺める『虹』に夢を託して歌う〈Over the Rainbow〉、このモノクロの名シーンこそハーバーグの創造物だった。

  ハーバーグにとって「虹」は『夢』や『憧れ』の象徴として非常に特別な思い入れがあり、彼が創った様々な歌や作品に登場していて、かねがね『虹の仕掛人(Rainbow Hustler)』と自らを呼んでいた。中でも、この『Over the Rainbow』と、作詞、脚本&脚色に本格的にコミットした『フィニアンの虹』が代表的な仕掛けだと言えるでしょう。  

 =産みの苦しみー幻の『虹』=

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 〈Over the Rainbow〉は映画の中で最初に登場する歌、それもバラード、観客の心を掴みにしたい勝負のナンバー!ところがアーレンにとってが、最後まで産みの苦しみを味わったのが、この〈Over the Rainbow〉だった。ハーバーグから提示された曲のイメージは”「憧れ」を表現するバラ―ド”だったが、いくら考えてもメロディーが浮かばず行き詰まってしまった。曲を仕上げなくてはギャラがもらえない…気分転換に妻と映画でも見ようとチャイナタウンまでドライブする車中で、だしぬけに冒頭の8小節が閃いた。まさに天の啓示!意気揚々とハーバーグにピアノで聴かせたのだが、冒頭のオクターブで跳躍するオペラチックな曲想に、ハーバーグは思わずこarlen-dog.jpgう言った。「おいおいハロルド、これはテノール歌手のネタで、子供用じゃないだろうが…」キツい一言にアーレンはガックリして再び意気消沈…ハーバーグは、なんでも思ったことをズケズケ言っちゃうニューヨークの下町に育ったことを悔やんだ。しかし、何かにつけ互いにアドバイスし合う共通の親友であり偉大なる作詞家、アイラ・ガーシュウィンの助言が曲を救った。彼の言うように、少しテンポを変えてみたら、大仰さが文字通りレモン・ドロップのように溶けてなくなったのだ。次はサビだ!アーレンの居間のピアノの前で二人があれこれ考えている間に、愛犬が居間からどこかに行っちゃった。アーレンは落ち着きのない小型犬を呼び戻すため、手元に置いていたホイッスルをピロピロと鳴らした。すると、そのピロピロいう音がいいんじゃないか、ということになりサビが出来たのです。〈Over the Rainbow〉は二人の才能と、一人と一匹の友に助けられて完成したのだった。

 すったもんだの末、映画は綿密な編集作業を経て、ようやくファイナル・ヴァージョンが完成!しかし、そこから〈Over the Rainbow〉のシーンは消えていた。(つづく)

 

第33回トリビュート・コンサートの曲目

IMG_3281.JPG 去る11月17日に33回目となるトミー・フラナガンへの追悼コンサートを行いました。
生前のトミー・フラナガンの名演目をメドレーを含め20曲余り、寺井尚之(p)寺井尚之メインステム・トリオ(宮本在浩 bass 菅一平 drums)が演奏しました。

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 トミー・フラナガン・トリビュートは「フラナガンが築いた伝統を、習ったとおりにやる」コンサート、それは寺井尚之の生き方の表現なのかもしれません。

 フラナガンが亡くなって早17年、フラナガンを師匠と仰ぐ寺井尚之も66才になり、こんな風に挨拶していました。

teraiIMG_3025.JPG寺井尚之:「よう新聞で永代供養の広告を見ますけれども、あれは永久やのうて20年やそうです。トリビュート・コンサートは今回で17年目、そやから僕もあと3年はがんばろうと思てます。ありがとうございました。」

 今回も大勢お越しいただき感謝あるのみです!

 次回のトリビュートは2019年3月16日(土)、トミー・フラナガンの誕生日に予定しています。どうぞ宜しくお願い申し上げます。
 以下は、トリビュートで演奏したフラナガンの名演目の説明です。写真は「トミー・フラナガンの足跡を辿る」でおなじみの後藤誠先生です。後藤先生ありがとうございました。
 

 

1.Bitty Ditty(Thad Jones) ビッティ・ディッティ 

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サド・ジョーンズ
(1923-1986)
 フラナガンが’50年代中盤のデトロイト時代から作曲者であるサド・ジョーンズと愛奏した作品。ヒップ・ホップの流行で、日本でもよく知られるようになった”エボニクス”(黒人英語)は、”Bad!”= “Good!”で逆説的になる。つまり”Bitty Ditty”(ちょっとした小唄)の本当の意味は「とても難しい曲」なのだ。
 「サドの作品は、よほど弾きこまないと、本来あるべきかたちにならない。」-トミー・フラナガン談

*サド・ジョーンズ関連ブログ

2. Out of the Past (Benny Golson) アウト・オブ・ザ・パスト nights_at_the_vv.jpg
 テナー奏者、ベニー・ゴルソンがハードボイルド映画のイメージで作曲したマイナー・ムードの作品。ゴルソンはアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズや、自己セクステットで録音、フラナガンはゴルソンの盟友、アート・ファーマー(tp)のリーダー作『Art』で、後にリーダー作『Nights at the Vanguard』などで録音し、’80年代に自己トリオで愛奏した。
 人気ジャズ・スタンダードが多いゴルソン作品の内では知名度は比較的低いものの、フラナガンがアレンジした左手のオブリガードが印象的で、OverSeasで大変人気がある曲。
3. Rachel’s Rondo  (Tommy Flanagan) レイチェルズ・ロンド

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 フラナガンが美貌で有名な長女レイチェルに捧げたオリジナル曲。明るい躍動感に溢れる曲想は美貌の長女に相応しい。トミー・フラナガンはレッド・ミッチェル(b)エルヴィン・ジョーンズ(ds)とのアルバム『Super Session』の録音が唯一遺されている。恐らく現在愛奏する者は寺井尚之だけかもしれない。
4.メドレー: Embraceable You(Ira& George Gershwin)
   ~Quasimodo(Charlie Parker)
 エンブレイサブル・ユー~カジモド

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 トミー・フラナガンを語る時、「メドレー」の素晴らしさははずせない。近年の調査から、「メドレー」は、戦後から’50年代前半のデトロイトで盛んに演奏された形態だったことが判る。
〈エンブレイサブル・ユー(抱きしめたくなる魅力的なあなた)〉というガーシュインのバラードの進行を基に作ったBeBop作品に、チャーリー・パーカーは、原曲とは真逆の醜い”ノートルダムのせむし男”の名前〈カシモド〉と名付けた。〈カシモド〉はいわれなき差別を受ける黒人のメタファーであったのかもしれない。だが、ヴィクトル・ユーゴーの原作では、カシモドは密かに愛する美貌のジプシーの踊り子と天国で結ばれることになるのだ。フラナガンは、この2曲を組み合わせたメドレーで、深く感動的な物語を語ったのだ。
 *関連ブログ
5. Good Morning Heartache (Irene Higginbotham) グッドモーニング・ハートエイク 4-07-a-billie-holiday.jpg
  フラナガンのアイドルであり、同時に音楽的に大きな影響をうけた不世出の歌手ビリー・ホリディのヒット曲(’46)。フラナガンは「ビリー・ホリディを聴け!」と寺井尚之の顔を見るたびに言った。それから数十年、寺井のプレイはビリー・ホリディを彷彿とさせる。
6. Minor Mishap (Tommy Flanagan) マイナー・ミスハップ

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 フラナガンがライブで最も愛奏したオリジナル曲のひとつで、曲の語意は、「ささやかなアクシデント」だ。その曲名の由来は、初収録した『Cats』(’57)での演奏の出来栄えに隠されたほろ苦い顛末にある。
7. Dalarna  (Tommy Flanagan) ダラーナ sea_changes_cover.jpg
 『Overseas』に収録された幻想的な作品で、厳しい転調をさりげなく用いることによって洗練された美を湛える初期の名品。フラナガンが心酔したビリー・ストレイホーンの影響が感じられる。ダラーナは『Overseas』が録音されたストックホルムから列車で3時間余り離れたスウエーデン屈指のリゾート地。
 『Overseas』に録音後、フラナガンは長年演奏することがなかった曲だが、寺井尚之のCD『ダラーナ』に触発されたフラナガンは、寺井のアレンジを用い『Sea Changes』(’96)に再録した。「ダラーナを録音したぞ!」とフラナガンが弾んだ声で電話をかけてきたのが寺井の大切な思い出だ。
 
8. Tin Tin Deo (Chano Pozo, Gill Fuller Dizzy Gillespie) ティン・ティン・デオ

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ディジー・ガレスピー
(1917-1993)

 第一部のクロージングは、ディジー・ガレスピーが開拓したアフロ・キューバン・ジャズの代表曲。この曲のように、ビッグバンドの演目を、ピアノ・トリオでさらにダイナミックに表現するのがフラナガン流。
 現在はメインステム・トリオの十八番でもある。


<2部>

1. That Tired Routine Called Love (Matt Dennis) ザット・タイアード・ルーティーン・コールド・ラヴ

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マット・デニス
(1914-2002 )

 作曲者マット・デニスは、フランク・シナトラのヒット曲を数多く作曲、自らも弾き語りの名手として活躍した。JJジョンソンは、’55年、セレブ御用達のナイト・クラブ”チ・チ”でデニスと共演後、この曲を《First Place》に収録、ピアニストはフラナガンだった。自然に口づさめるメロディーだが転調が頻繁にある難曲で、そのあたりがバッパー好みだ。それから30年後、フラナガンは自己トリオで名盤《Jazz Poet》(’89)に収録。その際、「私以外にこの曲を演奏するプレイヤーはいない。」と語った。録音後もライブで愛奏を続け、数年後には録音ヴァージョンを凌ぐアレンジが完成させた。トリビュート・コンサートでは、寺井尚之が受け継ぐ完成形で演奏する。
2. Smooth As the Wind  (Tadd Dameron) スムーズ・アズ・ザ・ウィンド

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  一編の詩のような曲の展開、吹き去る風のようなエンディングまで、文字通りそよ風のように爽やかな名曲。
 ビバップの創始者の一人、タッド・ダメロン(ピアニスト、作編曲家)の耽美的な作品をフラナガンはこよなく愛した。〈スムーズ・アズ・ザ・ウィンド〉曲は、麻薬刑務所に服役中のダメロンがブルー・ミッチェル(tp)のアルバム「Smooth As the Wind」の為に書き下ろした作品で、アルバムにはフラナガンも参加している。
 
「ダメロンの作品には、オーケストラが内包されているから、弾きやすい。」-トミー・フラナガン

*タッド・ダメロン関連ブログ

 

3. When Lights Are Low (Benny Carter) ホエン・ライツ・アー・ロウ

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ベニー・カーター
(1907-2003)

 フラナガンが子供の頃に親しんだベニー・カーター(as.tp.comp.arr)のヒット作。フラナガンは ’80年代終りにカーネギー・ホールでカーターの特別コンサートに出演している。尊敬するカーターに選ばれたことを意気に感じたフラナガンは、この曲を盛んに演奏、今夜のように<ボタンとリボン>を引用して楽しさを盛り上げた。
4. Eclypso (Tommy Flanagan) エクリプソ eclypso.jpg
 フラナガンの代表曲、<エクリプソ>は”Eclipse”(日食や月食)と”Calypso”(カリプソ)を合わせた造語。ジャズメンは昔から言葉遊びが大好きだ。
 フラナガンは《Cats》、《Overseas》(’57)、《Eclypso》(’77)、《Aurex’82》、《Flanagan’s Shenanigans》(’93)《Sea Changes》(’96)と、多くのアルバムで録音を重ね、ライブでも愛奏した。
 寺井にはこの曲に特別な思い出がある。’88年にフラナガン夫妻の招きでNYを訪問した時、フラナガン・トリオ(ジョージ・ムラーツ.b、ケニー・ワシントン.ds)はヴィレッジ・ヴァンガードに出演中で、毎夜火の出るようなハードな演奏を繰り広げた。フラナガンは寺井を息子のようにもてなし、昼間は色んな場所に案内してくれて、あっという間に10日間が過ぎた。最後の夜の最終セットのアンコールで、フラナガンが寺井に捧げてくれたのがこの曲。
5. If You Could See Me Now (Tadd Dameron) イフ・ユー・クッド・シー・ミー・ナウ sarah_basie.jpg
 1946年、売り出し中の新人だったサラ・ヴォーンのためにタッド・ダメロンが書き下ろしたバラード。フラナガンは、ヴォーンのフレージングをセカンド・リフとしてピアノ・トリオ・ヴァージョンを作り上げた。しかし、寺井が師匠よりさきに『Flanagania』に収録してしまったために、フラナガン自身はレコーディングしなかった痛恨のナンバーだ。
6. Mean Streets (Tommy Flanagan) ミーン・ストリーツ

suga_IMG_3195.JPG菅一平(ds)

 『Overseas』(’57)では、”Verdandi”というタイトルで初演、その後、’80年代の終わりに、トリオに抜擢されたケニー・ワシントン(ds)のフィーチュア・ナンバーとして、彼のニックネーム “ミーン・ストリーツ”に改題された。トリビュート・コンサートでは菅一平(ds)のフィーチャー・ナンバー。
7. I’ll Keep Loving You (Bud Powell) アイル・キープ・ラヴィング・ユー Bud_Powell_Jazz_Original.jpg
 バド・パウエルの美学を象徴する、静謐な硬派のバラード。
トミー・フラナガンがパウエル作品を演奏すると、曲も持ち味を失うことなく、一層洗練された美しさが醸し出される。トリビュート・コンサートでは、寺井のフラナガンに対する想いが滲み出る。
6. Our Delight (Tadd Dameron) アワ・デライト tadd_dameron1.jpg
タッド・ダメロン
(1917-1965)

 タッド・ダメロンがビバップ全盛期’40年代半ばにディジー・ガレスピー楽団の為に書いた作品。
ビッグバンド仕様のダイナミズムを、ピアノ・トリオに取り入れるフラナガンの音楽スタイルがここでも顕著に表れる。
フラナガンがこの曲をMCで紹介する決まり文句は、「ビバップはビートルズ以前の音楽、そしてビートルズ以後も生き続ける音楽である!」だった。そで歓声が沸くと、プレイに一層気迫がこもった。

<アンコール>

With Malice Towards None (Tom McIntosh) ウィズ・マリス・トワード・ノン tommyflanagan-balladsblues(1).jpg
 ”ウィズ・マリス”はフラナガン流のスピリチュアルと言うべき名品。フラナガンージョージ・ムラーツ・デュオによる『バラッズ&ブルース』に収録されている。今は寺井尚之の十八番としても知られている。
 作曲はトロンボーン奏者、トム・マッキントッシュ(tb)、メロディーの基は、讃美歌「主イエス我を愛す」で、曲名はエイブラハム・リンカーンの名言の引用。
Ellingtonia billy200703_052a_depth1.jpg 
  Chelsea Bridge (Billy Strayhorn) チェルシーの橋
whistler_old_butter.jpg   ”チェルシーの橋”はビリー・ストレイホーンの傑作、そしてフラナガンが『Overseas』(’57)、『Tokyo Ricital』(’75)と、繰り返し録音した名演目。フラナガンは晩年「ビリー・ストレイホーン集」の録音企画を進めていたが、実現を待たずに亡くなってしまったことが、残念だ。
 フラナガン同様、美術を愛したストレイホーンが印象派の画家、ホイッスラーの作品に霊感を得て作った曲と言われている。
  Passion Flower (Billy Strayhorn)パッション・フラワー  
   これもビリー・ストレイホーン作品で、花を愛したストレイホーン自身が最もよく演奏した曲。日本でトケイソウと呼ばれるパッション・フラワーは、欧米では磔刑のキリストに例えられる。
フラナガンの名パートナーだったジョージ・ムラーツの十八番としてよく知られている。今回は、宮本在浩の弓の妙技が特に好評だった。 
zaiko_passion.jpg宮本在浩(b)
  Black and Tan Fantasy (Duke Ellington)ブラック&タン・ファンタジー  
black-and-tan-29-photo-arthur-whetsel-fred-washington-duke-ellington-1.jpg   晩年のフラナガンは、BeBop以前の楽曲を精力的に開拓していた。ひょっとしたら、自分のブラック・ミュージックの道筋を逆に辿ってみようと思っていたのかもしれない。その意味で、禁酒法時代、エリントン楽団初期の代表曲「ブラック&タン・ファンタジー」は非常に重要なナンバーだ。
フラナガンがOverSeasを来訪したとき、寺井が「Black & Tan Fantasy」を演奏すると、フラナガンが珍しく絶賛してくれた思い出の曲でもある。
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アキラ・タナ- ロング・インタビュー(後編)

好感度満点!

パーカッショニスト Akira Tana (後編)

OFC_0118JJ coverlink.jpgJazz Journal Magazine 2018 1月号より:

=ボストンから世界へ=

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(前項から続く ハーヴァード大学からニュー・イングランド音大へ、驚異的な学生ドラマーとして地元シーンで注目を集めたアキラにとって、ボストン時代で最高の体験は1978年にやってきた。彼のアイドルであったソニー・ロリンズと共演する機会を得たのだ。このチャンスもまた、当時ロリンズのベーシストだったジェローム・ハリスとの仲間としての友情のおかげだった。  

s-rollins.jpgアキラ・タナ:「ソニーは、言わばドラムを含め、自己バンドの転換期にあった。それでジェリーがこう言ってくれた。『ソニーがNYでドラムのオーディションをやることになったんだけど、受けてみないか?』そこで僕はNYに出かけ、オーディション会場になっているリハーサル・スタジオに行った。-僕が一番乗りだったんだ。-そしてソニーと僕のデュオで演奏させられた。30分、45分…それくらいたっぷり一緒にやった。まるで夢が現実になったみたいだったよ。だって、あのソニー・ロリンズと僕が同じ部屋に一緒に居て、サシで演ってるんだから!僕の他にドラマーが2,3人、それにピアノやギター弾きも居たけれど、ロリンズは僕に、終わるまで残っているよう告げた。言われたとおり、居残っていたら、オーディションの終了後、彼が僕のところにやってきて、2週間のツアーに帯同してくれないかと言ったんだ。」


  ロリンズとの共演は、この若手ドラマーにとって強烈な体験となった。

「それまでボストン周辺では、ヘレン・ヒュームズと何本か仕事をしていたし、結構好評だったんだ。しかし、この種のハードな音楽でツアーをしたのは初めてで、精神的にも体力的にもクタクタになってしまったけど、とても貴重な経験になったよ…だって2時間で1セットなんだよ。彼はプレイを始めたら、止まることなく吹き続けるから…」 

 10年に渡るボストンでの生活に区切りをつけ、アキラは本格的なプロとしてのキャリアをスタートさせるためにNYに進出したが、ここでも、ボストンで築いた音楽的人脈が大いに功を奏した。そして、彼の成功の源は、ちょうど良いタイミングにちょうど良い場所に居ること、そして何事にも常に前向きな姿勢であるところだ。

Julian_Priester.jpg「ジュリアン・プリースターがNYでの仕事について言っていたことを思いだすよ。『人脈作りが仕事のうちだ。声がかかれば、自分にはいつでも仕事をする準備ができていると、皆に知ってもらうこと。いつでも彼に頼めると思ってもらえる状況を作ることだ。』自分でチャンスを作ること、存在を意識してもらうようにすること。それが彼の教えだった。」

 

 

  彼の教えどおり、アキラ・タナは、1980年代全般、NYを拠点したフリーランスのドラマーとして注目度が増す。信頼できるパーカッショニストとして、またバンド・メイトとして、音楽的にも人間的にも高い評価を得たことが、数え切れないほどの演奏とレコーディングを依頼される結果となった。多くの録音の中で特に思い出に残っているのが、ズート・シムズ(ts)との共演盤三作で、そのうち2枚はピアノにジミー・ロウルズが参加している。これらは非常にリラックスしたセッションとなった。

R-7503031-1442825362-8907.jpeg.jpg「ズートは言った。『これはレコーディング・セッションだ。だから時間どおりに来て、ドラムをセットして、演奏すりゃいい。』彼が曲名をコールすると、リハーサルなしで録音したんだ。あんなすごい人達と演奏するのは素晴らしいことだった。ジミーは名作曲家でありピアノ奏者、ビリー・ホリディやエラ・フィッツジェラルド…すごい人たちと一緒に演ってきた…だから、こんなすごい人達と付き合い、一緒に録音したものがレコードになって残るとは、本当にありがたいことだね。」

 

しかし、パブロでの録音の全てが、ズートやジミーとの関係のようにスムーズなわけではなかった。

 norman_granz.jpg「一連のセッションで、最も記憶に残っているのは、ノーマン・グランツとのことだ。録音場所がRCAのスタジオで、そこは通常、トスカニーニのような人の大編成オーケストラが使うような大スタジオだった。だだっ広いスタジオの中で、僕たちのセッティングが離れ離れの位置になっちゃった。おかげで、ピアノも、誰の音もちゃんと聴こえない。僕の位置は他のプレイヤー達から一番離れた隅っこだったから。それで、僕はノーマン・グランツに『ヘッドフォンを使わせてもらえませんか?誰の音も聴こえないんです。』と頼んだ。するとグランツのお説教が始まった。昔から、どの時代でも、誰もそんなものは使わん!だからお前も必要ないってね。それで、ちょっとイラっとして、『ズートの音も聞こえません。ジミー・ロウルズが何を弾いてるのかも聞き取れないんです。だからヘッドフォンが必要なんですっ!』と言い返した。そうしたら、やっと彼がヘッドフォンを持ってきてくれて、皆の音が聞こえるようになった。このレコーディング・セッションが忘れられないのは、多分それが理由なのかも知れないね。」

  NYに進出したアキラは、他にアート・ファーマー(tp)やキャロル・スローンといったミュージシャンとも共演。そして、ジミー・ヒース、パーシー・ヒースの”ヒース・ブラザース”の一員としての長期に渡る活動(1979-82)は、数枚のLPに結実し、彼の名声が確立する。NY時代は、ドラマーとして多忙を極め、多くのレコーディングにも参加している。もう一枚の思い出深いセッションは、1989年録音のジェームズ・ムーディのアルバム『Sweet And Lovely』である。

cover_039.jpg「ジェームズ(ムーディ)がセッション前にこう言った。『私の友人が一人、このセッションに参加することになっている。もうすぐやって来るはずなんだが…』彼は、その友達が誰だか言わなかったので、てっきり、からかっているんだと思ってた。だが、それはディジーだったんだ。ディジーがやって来て、3-4曲一緒に録音した。その中の一曲が強烈に記憶に残ってる。シャッフル・ブルースみたいなので、二人がスキャットしたり歌ったりし始めた。すると、エンジニアのジム・アンダーソンは、それををうまくヴォーカル・トラックに作り上げだ。そして、結果的にグラミー賞最優秀ジャズ・ヴォーカル部門にノミネートされた!」(ディジー・ガレスピーはこのアルバム中〈Con Alma〉と〈Get the Booty〉の2トラックに参加している。後者がタナの言及したシャッフル・ブルースで、ディジーは1957年、ソニー・ロリンズとソニー・スティットをフィーチャーしたVerve盤『Duets』に〈Sumphin’〉という別タイトルで録音した。)

XAT-1245399253.jpg 1990年代の到来とともに、アキラ・タナの活動主軸は”タナリード”となる。”タナリード”は、ベーシスト、ルーファス・リードとの双頭バンドとして、9年間に渡って活動を続けた。ジャズ史の谷間的世代にもかかわらず、この名コンビのアルバムは、何枚もヒットを記録している。

  僕はノーマン・グランツに頼んだ。『ヘッドフォンを使わせてもらえませんか?誰の音も聴こえないんです。』するとお説教だ。「昔からどの時代でもそんなものは使わん!だからお前も必要ない!」僕は少しイラっとした。 

「僕たちよりも前の世代は、時代を越えて高い知名度を保っているし、僕たちより下の世代となると、ウィントン&ブランフォード・マルサリスのように、ヤング・ライオンとしてマスコミに大きく注目されていた。だから、僕たちのような、中間に属する世代のプレイヤーは、彼らに比べると日陰の存在だ。でも、僕たち(タナリード)は、ツアーで自分たちの音楽を演奏することができた。本当に素晴らしい体験だったよ。」 

 ’90年代の終わり頃、家庭の事情でサン・フランシスコのベイエリアに戻った後も、アキラは、日本ツアーを時々行いながら、地元ジャズ・シーンで存在感を見せつけている。大都市NYの最尖端の音楽シーンでチャレンジを続けた時代を懐かしむ気持ちはあるものの、彼は自分の選んだ人生について達観している。

「確かに楽しい仕事のチャンスはあるよ。だがその一方で、生き残るために、余りグッとこない仕事もしなくては…そういう生活はうっぷんがたまる。あとになって後悔することを、最初からやるべきじゃない。」

 -悪くない人生哲学だ。そんな彼の生き方は、今後もジャズ・シーンに於いて、巨匠パーカッショニストとしての大きな存在感をずっと発揮し続けると強く確信させてくれる。(了) 

インタビュー by Randy Smith

Akira Tana Selected discography

As leader

Otonowa, Acannatuna Records

Moon Over The World, with Ted Lo & Rufus

Reid (Sons of Sound)

Secret Agent Men, with Dr. Lonnie Smith

(Sons of Sound)

As co-leader

TanaReid: Back To Front (Evidence)

TanaReid: Yours And Mine (Concord)

As sideman:

Al Cohn: Overtones (Concord)

Claudio Roditi: Gemini Man (Milestone)

Heath Brothers: Expressions Of Life (Columbia)

Heath Brothers: Live At The Public Theatre

(Columbia)

James Moody: Sweet And Lovely (Novus)

Zoot Sims: I Wish I Were Twins (Pablo/OJC)

Zoot Sims: The Innocent Years (Pablo/OJC)

Zoot Sims: Suddenly It’s Spring! (Pablo/OJC)