|
<第1部>
デューク・エリントンの片腕であった天才作編曲家、ビリー・ストレイホーンの作品群はトミー・フラナガンの広汎なレパートリーの中で大きな比重を占めている。寺井尚之が初めてフラナガンの生演奏に接したのは1975年、エラ・フィッツジェラルドとの来日公演である。通常の歌手の前座の演奏とは全く異なり、エラが登場する前に、伴奏陣のフラナガン・トリオ(キーター・ベッツ b、ボビー・ダーハム ds.)による1時間近くの白熱した演奏が展開された。本曲は思い出深いそのコンサートのオープニングナンバーである。翌日の演奏地京都での二人の出会いの写真は今もOverSeasのピアノの上に掲げられている(本ページの最後にも掲載)。
'75年のトリオ演奏の第2曲目で、「オール・デイ・ロング」と同様、寺井尚之の人生を強く決定づけた曲といえる。チェルシーの橋とは、ロンドンのテムズ川に架かるプリンスアルバート・ブリッジのことで、本作品もロンドンの霧を思わせるような幻想的な美しさに満ちている。 '57年録音の初期の名盤『オーバーシーズ』(Metronome)に収録され、また日本ツアー中に録音されて寺井を魅了したアルバム『トーキョーリサイタル』('75-Pablo)にも収録されている。トミー・フラナガンは『オーバーシーズ』録音直前にNYのレストラン<ビーフステーキ・チャーリーズ>で偶然ストレイホーンと出会った。そこでフラナガンが「あなたの曲を録音します」と挨拶すると、ストレイホーンは自分の音楽出版社にフラナガンを連れて行き、自作品の楽譜を一抱えくれたという。
トミー・フラナガンの音楽スタイルの特徴の一つにメドレー演奏の素晴らしさを挙げる事が出来る。様々な花や草木を組み合わせて、単独の花とは異なった美しさを創造する活花の様に、曲の持つ性質を知り尽くしたフラナガンのメドレーは、ウイットに富み、アドリブフレーズの端々に深い意味のある引用が挿入されて、この上なくドラマチックで楽しいものである。 '88年9月に寺井尚之がNYを訪問した際、その時ヴィレッジ・ヴァンガードに出演していたフラナガン・トリオ(ジョージ・ムラーツ b.、ケニー・ワシントン ds.)は、この素晴らしいメドレーを毎夜演奏していた。寺井はこれに非常に感銘を受け、それ以来自分の愛奏曲にした。しかし残念なことに、師匠フラナガンは寺井がフラナガニアトリオのデビュー盤『フラナガニア』('94-Flanagania)に本メドレーを収録して以来、ぷっつりとこのメドレーを演奏するのを止めてしまった。 「カジモド」は、ガーシュインの美しいバラード「エンブレイサブル・ユー(抱きしめたい貴方)」のコード構成を元にチャーリー・パーカーが作曲したビバップ・チューン。パーカーの付けたタイトルは“抱きしめたい”とは程遠い、醜いノートルダムの鐘突き男の名前であった。寺井尚之はそれを、「人間は見かけではなく、カジモドの魂の美しさこそが“抱きしめたい”ものだ」解釈し、神々しい音楽世界を作り出している。
作曲家としてのトミー・フラナガンは決して多作家ではない。また全てのオリジナル曲は、キーやコード進行、小節構成の複雑さから、演奏するのが非常に困難なものばかりである。また中にはフラナガン自身が演奏するのを止めてしまい、いまでは寺井尚之しか取り上げないオリジナル曲も幾つかある。本曲はアルバム『ザ・キャッツ』('57-Prestige)で初演されて以来、フラナガンが生涯愛奏した数少ないオリジナル曲の一つ。また寺井が『フラナガニア』に本曲を収録したのは、フラナガンのリクエストによるものである。
寺井尚之はかねてから、ムーズヴィルというムード音楽のレーベルから出たフランク・ウエス名義のアルバム『Frank Wess Quartet』('60 Moodsville8-Prestige)に収録されていたこの曲における、フラナガンのイントロを熱烈に賞賛していた。ある日トミー・フラナガンがOverSeasに立ち寄り昼食をとっていた時、偶然このアルバムが流れ、寺井はいつものように、「これはジャズ史上最も優れたイントロだ!」とトミーに向かって講釈した。その時は黙って話を聞いていたフラナガンであったが、間もなくNYで彼がこの曲を演奏しているという噂が流れてきた。後に寺井は自身の3枚目のCD『ダラーナ』('96-Flanagania)に本曲を収録し、フラナガンはデンマークのジャズパー賞受賞記念のライブ盤『Flanagan's Shenanigans』('93-Storyville)で、トリオによる名演を残している。
レイチェルとは現在西海岸に在住するトミー・フラナガンの美しい長女。今でもフラナガンのアパートを訪ねるとレイチェルの写真が居間のあちこちに飾られている。フラナガンはレコーディング(『スーパー・セッション』'80-Enja)以外ほとんど演奏したことはないが、寺井尚之が愛奏し継承しているオリジナル曲の一つ。
『オーバーシーズ』に収録された美しいバラード。ダラーナはこの名盤の録音地スウェーデンの美しい地方の名前である(サンタクロースの村もダラーナ地方にある)。この曲もレコーディング以外でフラナガンが演奏する事はなかったが、寺井尚之がこの曲をアルバムタイトルとして録音したことが、その後フラナガンに『シー・チェンジズ』('96-Alfa)で38年ぶりに再録音させるきっかけとなった。フラナガンはこの曲の録音直後わざわざ寺井尚之に電話をかけ、その事を報告してきた。その後、96年5月24日のOverSeasでのコンサート(ピーター・ワシントンb.、ルイス・ナッシュ ds.)では、なんと寺井尚之のヴァージョンと全く同様の構成でこの曲を演奏、寺井尚之のフレーズまで挿入し、OverSeasファンを狂喜させた。
ディジー・ガレスピー楽団のヒット・ナンバー。楽団のメンバーでキューバ生まれの天才パーカッション奏者だった文盲のチャノ・ポゾが歌うメロディを、口移しで写譜した作品といわれている。情熱的なラテンのリズムとメロディは一度聴くと忘れられない。寺井尚之は『アナトミー』('93-Hanil)に、フラナガンは『Flanagan's Shenanigans』(Storyville)と『サンセット&ザ・モッキンバード』('98 BLUENOTE)に収録している。トミー・フラナガンと寺井尚之両者のライブのフィナーレを飾るナンバーとしてよく知られた曲。 <第2部>
「セロニカ」は、トミー・フラナガン・トリオ(ジョージ・ムラーツ b.、アーサー・テイラー ds.)による名盤『セロニカ』('78-Enja)のタイトル曲となったフラナガンのオリジナル曲。セロニアス・モンクとパノニカ・デ・クーニングスウォーター男爵夫人との間の終生変わらぬ類稀な友情に捧げられた名曲である。 2002年3月に寺井尚之がフラナガン夫人のダイアナを訪ねた際、フラナガンの遺品であるピアノの上にこの曲の譜面のコピーが無造作に置かれていた。その時同席していたピアノの名手、ディック・カッツがこの入手困難な譜面を発見して、いそいそとポケットに入れるのを見たダイアナ・フラナガンは、カッツに誇らし気にこう言った。「ヒサユキはトミーの曲を全て知ってるからこんな譜面なんて要らないのよ」。 続く「エクリプソ」は楽しいカリプソリズムの名曲で、恐らくフラナガンの全作品中で最も有名な曲であろう。フラナガンがまだ20代だった『オーバーシーズ』時代から終生愛奏し続けたオリジナル曲であるが、寺井にはこの曲に特別な思い出がある。寺井が初めてNYにフラナガンを訪ねた時、フラナガン・トリオはヴィレッジ・ヴァンガードに出演中で、寺井は10日間毎夜、五線紙を持って通いつめたが、とうとう最後の夜がやって来た。最終セットでトミー・フラナガンは聴衆に「大阪から来て毎晩聴いてくれたヒサユキに捧げる」とアナウンスしてこの曲を演奏し、寺井は満員の聴衆から大きな拍手を送られたのだった。
トミー・フラナガンが自らの修行時代を送った町であり、数多くのジャズメンを輩出したジャズの豊穣地帯であるデトロイト。本曲はそのデトロイトのジャズクラブ<ブルーバード>を回想しながら作った作品。一聴するとブルージーでスムーズなナンバーであるが、実は大変な難曲。寺井がフラナガン宅を訪問した折に書き写した曲の一つである。レコードが出る前に譜面を手に入れた寺井は、もちろん日本でこの曲を初めて演奏したピアニストである。<ブルーバード>は営業形態こそ変わったが現存しており、晩年のフラナガンは、帰郷の折にたびたびそこで演奏会を行なった。 フラナガンの青春時代の<ブルーバード>は、フラナガンの言葉を借りると「ここはもうデトロイトじゃないみたい…」と思うほど素晴らしい場所で、お客達にはミュージシャン達を盛り立てようという気持ちが大変強かったという。生前フラナガンは、<ブルーバード>は扉を開けるとすぐ左側にバンドスタンドがあるところも、お客様が温かくサポートしてくれるところもOverSeasに非常によく似ていると言っていた。
ビバップの創始者の一人であり、作編曲家、ピアニストであるタッド・ダメロンの代表作。1960年にトミー・フラナガンが参加したブルー・ミッチェル(tp)名義の同タイトルのアルバム(Riverside)が初演。爽やかで目まぐるしく移り変わる色合いを持ち、気品あるデトロイトバップ・スタイルにぴったりの素材。80年代終わりに欧州ツアーを行なったフラナガンは、オランダのラジオ局が製作したフラナガンの為の特別番組で、現地のオーケストラと共に名演を披露している。 また、昔フラナガン夫妻が日本ツアー中、寺井宅に泊まりに来た事があった。その夜は近畿地方に大型の台風が接近中で物凄い嵐の夜となった。しかし寺井のピアノ室では、嵐をよそに極めて密度の濃いレッスンが行なわれていた。冗談の大好きなフラナガンが「今夜の天気にぴったりだから」と教えてくれたのが、“そよ風の様に穏やかな”という意味の本曲であった。寺井尚之は『フラナガニア』で録音している。
洒落た歌詞にマッチする非常に洗練された音楽構造ゆえ、多くのジャズミュージシャンに愛奏されたマット・デニス作品の一つで、転調だらけの難曲。フラナガンは'50年代のJ.J.ジョンソン・コンボ時代、『ファースト・プレイス』('57-CBS SONY)でこの曲を初録音、後に自身の名盤『ジャズ・ポエット』('89-Timeless)で録音しているが、録音後も愛奏し続けた。ステージで演奏を重ねるたびにその音楽は発展を続け、数年後には録音されたものを遥かに凌ぐヴァージョンに仕上がっていた。そのアレンジを引き継ぐ者は寺井尚之だけである。
ビリー・ホリデイの有名なヒット曲。トミー・フラナガンの録音としては'73年カーネギーホールでのエラ・フィッツジェラルドとの録音と、'81年のリーダー作『スピーク・ロウ』(Century)がある。フラナガンという演奏家は、批評家達にホーン奏者のスタイルを鍵盤楽器に適用したホーンライクなピアニストとして賞賛されている。しかし彼は寺井にホーン奏者から学べと言った事はなく、常々「ビリー・ホリデイを聴け!」と口を酸っぱくして諭した。寺井尚之が歌詞を大切にし、ピアノで歌詞を語りかけ、聴く者の胸を打つ現在のスタイルを確立する事が出来たのは、恐らくそのおかげである。寺井の演奏する「グッドモーニング・ハートエイク」はフラナガンを失った深い悲しみ、同時にその死を乗り越え、その音楽を伝えようという前進への強い希望が伝わってくる。フラナガンの音楽的精神は寺井尚之の演奏するこの作品の中に大輪の花を咲かせている。
'57年録音の『オーバーシーズ』では「ヴァーダンディ」というタイトルであったが、80年代に若手の名手ケニー・ワシントン(ds)がフラナガン・トリオに加入して以来、このドラムをフィーチュアした弾丸のようなナンバーにはケニーのニックネームが冠された。「エクリプソ」と並んでトミー・フラナガンが生前最も頻繁に演奏した自作品であろう。寺井尚之も何度となく様々なドラマーを使ったフラナガンの演奏を聴いており、フラナガニアトリオでもおなじみのナンバーとなっている。
「グッドモーニング・ハートエイク」同様、これもビリー・ホリデイの愛唱歌。トミー・フラナガンは『ライブ・アット・モントルー'77』(Pablo)におけるビリー・ホリデイ・メドレーで素晴らしい演奏を遺した。 フラナガンが亡くなった2001年11月17日土曜日(日本時間)、OverSeasはフラナガニアトリオの出演日であった。寺井はショックを押さえるため、敢えてトミーの訃報を知る前に予め決めていたプログラムをそのまま演奏することにした。その中で最終セットのバラードとして約20年ぶりに選んでいた曲がこれであった。悲しみをこらえて演奏していた寺井だが“貴方に捧げた年月を私は決して後悔しない…”という歌詞のところに来てとうとうそれまでこらえていた感情が堰を切ってしまった。寺井尚之は演奏中号泣し、OverSeas全体が涙につつまれた忘れられない曲。
フラナガンと寺井尚之の師弟共にライブのセットのクロージングとして愛奏した曲。「スムーズ・アズ・ザ・ウインド」と同様、タッド・ダメロンの代表作でディジー・ガレスピー楽団のヒット曲でもある。フラナガンが生前この曲を紹介する時には、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、セロニアス・モンク、サラ・ヴォーン等ビバップ時代を代表するミュージシャン達の名前を列挙してこう言うのが常であった。 「ビバップはビートルズ以前の音楽、そしてビートルズ以後の音楽である!」 そこで大拍手が沸くと、フラナガンはにやりとして火の出るようなヒップなプレイを繰り広げるのであった。ジェットコースターの様に目も眩むような変化に富み、フラナガン音楽の白眉を示す作品。 <アンコール>
「カム・サンデイ」は'60年録音の初期のリーダー作『ザ・トミー・フラナガン・トリオ』(Moodsville9 -Prestige)、そしてずっと後の'93年に日本でライブ録音した『富士通100ゴールドフィンガーズ』で、いずれもソロ・ピアノのヴァージョンを遺している。 「ウィズ・マリス・トワード・ノン」はフラナガン、寺井双方のレパートリーを語る上で絶対不可欠な作品である。作曲は宣教師の肩書きもあるボルチモア出身のトロンボーン奏者、作編曲家トム・マッキントッシュ。タイトルはエイブラハム・リンカーンの奴隷解放宣言の一節、「いかなる者にも悪意を向けず、全ての者に慈悲の心を」から引用されたもので、ホワイトハウスに行くとリンカーン像の土台にこの言葉を見つける事が出来る。そしてこの親しみやすいメロディは賛美歌の一節をもとに作られた。 この曲はまたOverSeasの常連達の間で最も人気のあるナンバーである。OverSeasでもブルーノート大阪のステージでも、フラナガンがこの曲を紹介する時は、必ずOverSeasの常連達が一斉に大きな拍手を送ったものである。 「カム・サンデイ」にはゴスペルの、「ウィズ・マリス〜」には賛美歌のキリスト教的精神性が感じられ、それ以上に2曲ともアフロアメリカンの手による作品ならではの“ブラック”なダイナミズムがある。NYタイムズの追悼記事に“エレガント・ピアニスト”と評されたフラナガンであるが、実は彼の音楽のキーワードは常に『ブラック』であった。そして自分の好きな作編曲家として、「西洋音楽の悪影響から免れており、非常に『ブラック』だから」という理由で、デューク・エリントン、トム・マッキントッシュ2人の名前を挙げている。 寺井尚之は、この「ブラック」なメドレーをソロからトリオへとなだらかに、やがて荘厳で大きな感動を生むドラマチックな構成を展開する。
「ウィズ・マリス〜」と同様、トム・マッキントッシュの作品。変則小節の難曲であるが、一旦フラナガンや寺井の手にかかるとデトロイトバップならではのエレガンスを遺憾なく発揮させる素材となる。 2002年2月にかつてトミー・フラナガン・トリオのベーシストとして15年以上活動したジョージ・ムラーツが、サイラス・チェストナット(p)とルイス・ナッシュ(ds)の<マンハッタン・トリニティ>というトリオで大阪公演を行なった。寺井尚之はOverSeasの常連や生徒達を伴い大勢でムラーツを応援に行ったが、その夜のアンコールとして、ムラーツが「寺井尚之とOverSeasの皆、そして今は亡きトミー・フラナガンに捧げる」と紹介して演奏したのがこの曲であった。
晩年のトミー・フラナガンは、自分が極めて若い時に親しんだビバップ以前のナンバーをレパートリーに加え、新たな音楽的境地を開拓しつつあった。この曲もその内の一つで、デューク・エリントン楽団が1929年に初録音した古典的な作品である。ただ本曲のエンディングは葬送行進曲であり、フラナガンがこれを取り上げたのは心臓大動脈瘤の度重なる再発と長年戦った自分の死の予感を表す、彼一流のアイロニーかもしれない。寺井尚之はフラナガンの演奏を聴いて、すぐにこの曲を演奏するようになった。無論フラナガンそっくりにではなく、エリントン楽団のアイデアをより多く取り入れた独自のアレンジを作った。最後の来日となった2000年5月、フラナガンは夫妻で大雨の中OverSeasを訪問してくれたが、フラナガンの前で寺井がこれを演奏すると、彼はいつになく出来が素晴らしかったと大変褒めてくれた。 このプリミティブな香りを持つ作品には愛、喜び、悲しみ、恐れ、怒り、叫び、ブルース、詩、ダンス、とジャズに必要な全てのエッセンスが凝縮されている。2002年3月16日の夜、寺井尚之の気迫に溢れた演奏が終わった瞬間、グランドピアノの左上に飾られた遺影がニヤリとしたように見えた。トミー・フラナガンの追悼ライブの幕を閉じるのにふさわしい壮大な作品である。 |
PDFファイルでも読むことができます。→PDFファイルをダウンロードする。 上記の曲目解説を印刷してじっくり読みたいという方は、PDFファイルをダウンロードして印刷されると便利です。ただし、PDFファイルを閲覧するためにはお使いのパソコンにAdobe Acrobat Readerがインストールされている必要があります。インストールされていない場合は、こちらからダウンロードしてインストールしてください。 |