対訳ノート(45) Skylark : 禁じられた恋の鳥

 かつてトミー・フラナガンはNYに春が来ると”スプリング・ソング”と称し、春に因んだ曲を演奏するを常としていました。寺井尚之もその流儀を引き継いで、楽しかったり、悲しかったり、色んな春の情景を描き出しては、お聞かせしています。この“スカイラーク”もそのひとつです。

  空を舞い、美しい声で春を謳歌するスカイラーク( ヒバリ)に語りかけるこの曲、アレック・ワイルダーは名著『American Popular Song』の中で、「これほど素晴らしいブリッジ(サビ)の曲は聴いたことがない!」と絶賛しています。確かに、この間の演奏も、サビの部分で、雲雀の飛ぶ大空が、青空から燃えるような夕焼けへと鮮やかに変化していく情景が浮かび、昔の思い出がよみがえります。

<歌のお里>

 ”Skylark“は”Star Dust”でおなじみのホーギー・カーマイケル作曲(左写真)、作詞はアメリカ・ポピュラー・ソング史上最高の作詞家とされるジョニー・マーサー(上写真)、歌の誕生は、太平洋戦争直前の1941年。曲が先にあり、歌詞は後付けです。曲は、カーマイケルの盟友であった夭折のトランペッター、ビックス・バイダーベックの生涯をミュージカル化する企画で生まれたものです。ビックスのバンドで学生時代共演していたカーマイケルは、生前ビックスが吹いたフレーズを元に作曲したのですが、企画が流れたために、マーサーに「詞を付けてみて」と曲を渡し、そのままこの曲のことは忘れてしまっていた。余談ですが、10年後、流れた企画はハリウッド映画に生まれ変わり、カーク・ダグラスがビックス役で、様々なジャズ・スタンダードを散りばめた『Young Man with the Horn(’50) 』としてヒットしました。この映画で、カーマイケルは音楽担当ではなく、ピアニスト役で出演。日本では『情熱の狂詩曲』というタイトルで上映され、私もTVの深夜映画で観た記憶があります。

<ジョニー・マーサー>

Johnny Mercer | Emmy Awards and Nominations | Television Academy

Johnny Mercer (1909 -76)

 ”Come Rain or Come Shine””酒とバラの日々””I’m Old Fashioned”…今もよく耳にするジャズ・スタンダードでジョニー・マーサーが歌詞を書いた歌を挙げるときりがない。上述のホーギー・カーマイケル、ハロルド・アーレン、ジェローム・カーンといった当代随一の作曲者とコラボし、エリントンなど黒人アーティスト達のビッグバンド曲にぴったりの歌詞を後付けした。なかでも”Satin Doll”はいかにもオシャレで語呂がいい。15才の頃から作詞作曲を独学で始め、トミー・ドーシー楽団の専属歌手としても人気を博した。シンガー・ソングライター(こんな言葉は、その時代にはなかったけれど)の先駆者とも言えます。

 マーサーの言霊は、一言で言えば「ナチュラル」-トレンディな新語を作り、大都会のシックを強調するような、コピーライター的手法とは無縁な作家。それでいながら歌の空気感を鮮やかに紡ぐ歌詞は、ぽっちゃりした丸みと詩情に溢れ、耳に心地いい。それをアメリカ人は 「南部的」( southern )と評し、北部の水で育ったヤンキー・リリシスト達には、逆立ちしても真似が出来なかった。
それは、マーサーがジョージアの美しい港町サヴァナ出身であるだけでなく、なにより優れた歌手であり作曲家であったからかもしれません。

  マーサーは南部に代々続く指折りの名家に生まれながら、大恐慌で家は没落し一家はNYに落ち延びた。そこでボードヴィル芸人から叩き上げ、ビング・クロスビーの後釜としてトミー・ドーシー楽団でブレイク、さらにハリウッドで作詞作曲家として成功、キャピトル・レコードの創始者となった音楽家です。

<国民的美少女との禁断の恋>

(Judy Garland 1922-66)

 マーサーのキャリアは、晩年に至るまで順風満帆そのもの、そんな彼にも果たせなかった夢が二つあった。第一は、ブロードウェイのヒット・ミュージカルを書くこと、そして第二は、運命の女性と結ばれる夢だ。その女性とは『オズの魔法使い』のドロシー役で映画史に残る女優、歌手、エンタテイナーのジュディ・ガーランドだった。
 二人が恋に堕ちた時、すでにガーランドは、『オズの魔法使い』で有名な国民的美少女、まだ18才の若さでした。一方マーサーは30才、年の差はともかく、れっきとした妻帯者。清純少女スターと30男の不倫は、いくら自由奔放なハリウッドでも不都合な真実。不倫はあかん!!業界だけでなく、友人たちも口を揃えて猛反対!だけど、恋は理屈じゃないんですよね。

 結局、お互いのためと、引き離されたものの未練は募るばかり。マーサーは家庭を守り酒に溺れ、ガーランドは結婚離婚を繰り返し薬に溺れた。二人はそれからもしのび逢い、ガーランドが亡くなるまで、密やかな炎は消えることがなかったのだそうです。

 マーサーの名歌の数々は、断ち切れない恋のカタルシスと言われ、しみじみと心に染み入る言霊に、叶わなかった恋への静かな炎が見え隠れしています。

 中でもガーランドへの慕情が最も直接的に語られているのは”I Remember You”と言われていて、マーサーの死後に出た伝記には、未亡人、ジーン・マーサーの強い希望で、この曲についての言及は一切ありません。

“Skylark”は、二人の出会いの翌年に作られた詞、小さな体で空を舞い、歌う雲雀が誰なのかは、もうお分かりですよね!

うつくしや雲雀の鳴し迹の空 小林一茶

<Skylark>

Hoagy Carmichael/ Johnny Mercer (原歌詞はこちら

雲雀よ、
何かいいたいことがあるのかい?
恋人はどこにいるの?教えてくれよ。
霧に煙る草原で、
愛のくちづけを待っているのかな?

雲雀よ、
泉に潤う緑の谷を見たことがあるかい?
そこは僕の心の旅の先、
暗くても、雨が降っても、負けずに進む、
そうすれば花咲く小道に辿り着く。

一人ぼっちで飛ぶ間、
夜の調べを聴いたことはない?
それは素敵な音楽なんだ、
鬼火のようにひそやかで、
水鳥みたいに狂おしく、
月夜のジプシー音楽みたいに切ないよ。

雲雀よ、
ほんとにそれが見つかるかどうかは分からない。
でもね、君の翼に乗って僕の心も旅をする。
だからね、もしも旅の途中で僕の心の風景を見ることがあったら、
どうか一緒に連れて行ってくれないか?

あの頃のアート・テイタム伝説

 トミー・フラナガンは、ビバップの洗礼を受けた人であり、ピアノという楽器から最もピアノらしいサウンドを弾きだす巨匠だった。(寺井尚之が自分のピアノ教室で、まず最初に、音楽理論を概説し、ピアノの倍音を鳴らすトレーニングを行うのはそのためです。)

   ビバップの革命的なハーモニーの土壌を作り、ピアノを一番ピアノらしく弾いたといわれるのがアート・テイタム、何年も、何年も、演奏前の寺井尚之は毎日テイタムを聴いている。
  テイタムはテディ・ウイルソンから新主流派スタンリー・カウエルに至るまで、OverSeasが愛する全ピアニストの神様だ。
 

Art Tatum (1910-56)

 

Walter Norris(right) and Hisayuki Terai

 このエピソードは書物にもあるが、やっぱり本人から伺うと一層怖い。
 「昔、LAにあったクラブにテイタムを聴きに行ったら、ピアノはアップライトだった。なのに、それはスタインウェイのコンサート・グランドのような響きだったから、私はびっくり仰天した!一体どんなピアノなのか確かめたいと思い、数日後、同じ店に行って私自身が弾いてみた。そしたらどうだい。正真正銘のオンボロのピアノでアクションも最低、おまけに鍵盤が数本欠け落ちていた!なのに、次に同じ店でテイタムを聴きに行くと、やはり調律直後のグランドにしか聴こえない。そして、ないはずの鍵盤の音がちゃーんと聴こえていたんだ。」と言うのです。鬼気迫る表情と小声で語る迫力…ノリスさんは、どちらかというと普段はシャイな人で、ホラ話なんて絶対しない。ピアノの調律には非常にウルサく、とことん響きにこだわる巨匠が、こんなことを言うのです。

 カッティング・コンテストと呼ばれる名手達の壮絶な果し合いが、アメリカ各地で行われていたジャズ西部劇のような時代、テイタムはトレドの街で、NYやシカゴ、色んな土地から来た腕自慢をばったばったとなぎ倒してから、NYに進出した。
 ナイトクラブやキャバレーでの仕事を終えたミュージシャンが集まるアフターアワーズ・クラブ、ジャズシーンの裏側でテイタムが少年時代のフラナガンやアーマッド・ジャマルに聴かせた至高のピアノ・プレイ…ミュージシャン達が語るテイタム伝説には、それぞれ衝撃のドラマがあります。

ジョー・ターナーの証言=

 Joe Turner(1907-90) ボルチモア出身、ルイ・アームストロングなどの名楽団で活躍した華麗なるストライド・ピアニスト、第二次大戦後はパリのクラブで人気を博した。パリ没。

Joe Turner

 西部をツアーしたとき、ベニー・カーター(as.tp.comp.arr.)は私に警告をした。-「オハイオ州のトレドに着いたら、決して土地のクラブでピアノに触ってはいけない。街にいる盲目の若造はやり手だ。お前が逆立ちしても太刀打ちできない。」
   一体どんな奴だろう?私はトレドの街に着くとすぐ、そのピアノ弾きの居所を尋ねた。なんでも、そいつは夜中の2時きっかりに、決まってある軽食屋に現れると言う.
   午前零時、劇場の仕事がハネると、私はその店に行って例のピアノ弾きが来るのを待った。しばらく私がピアノを弾いていると、ピアノの傍らで、2人の若い女が言い合いを始めた。「この人ならアートをやっつけちゃうわね。」と一人が言うと、もう一人が言い返した。「そのうちアートが来るから、どっちが勝つか、じっくり見物しましょうよ。」
  噂どおり、2時きっかりにアート・テイタムが現れた。私が挨拶をすると、「ああ、お前さんが、”Liza“を素晴らしいアレンジで演っている、あの有名なジョー・ターナーかい?」と言うじゃないか!私が演奏してほしいと頼むと、『まずあんたのピアノを聴かせてもらってからだ。』と言って聞かない。アート相手に言い合いをしても勝ち目はなかった。私は、ベニー・カーターの忠告を無視し、“Dinah”で指慣らしをしてから、十八番の”Liza”を演った。
   弾き終わると、アートが『なかなかいいね。』と言ったので、私は少しムっとした。私の”Liza”を聴いた者は、余りの凄さにびっくりするのが常だったからだ。なのに、ただ『なかなかいいね』とは何事だ!
 それからアートはピアノの前に座り、“Three Little Words”を弾いた。その凄かったこと! 三つの短い言葉どころか、三千語でも足りない、もの凄い演奏だった!あれほどの音の洪水を生まれてから聴いたことはない。
  それ以来、私達は無二の親友となった。次の朝早く、私がベッドから出る前に、彼は、もう私のところに遊びに来て、昨日私が弾いた”Liza”を一音違わず、全く同じように弾いてみせた。
(出典:Hear Me Talkin’ to Ya / Nat Shapiro and Nat Hentoff)

Gene Rodgers (1910-87)  ピアニスト、NY生まれNY育ち、キング・オリヴァーやチック・ウエッブ等の名楽団で活躍。’39に大ヒットしたコールマン・ホーキンスのBody & Soulの名イントロはロジャーズだ。

Gene Rodgers

 目の不自由なアートが2人の男に付き添われ、ピアノに向かうだけで、皆の注意がひきつけられた。ピアノはアップライトだ。アートは右手にビールのグラスを持ち、ピアノの椅子に座りながら、左手だけで弾き始める。おもむろにグラスを置くと、右手も鍵盤に向かった。それからは、自分の耳が信じられなかった。…彼が3曲弾き終わる頃には、耐えられなくなってホテルに逃げ帰り、さめざめと泣いたよ。人生であれほど凄い演奏を聴いた事はなかった・・・
(出典:American Musicians/ Whitney Balliett)

=ビリー・テイラーの証言=

Billy Taylor (1921-2010) ビバップから現代まで、激動のジャズ史を生き抜いたピアノの巨匠、全米ネットワークのジャズ番組のホストとして有名。知名度を生かし、音楽教育や文化プログラムの資金集めを含めジャズ界に貢献した。ネット上でフラナガンとのものすごいデュオが観れる。

Billy Taylor

 テイタムのピアノ、ホーキンスのテナー、そしてエリントン楽団、この三つがビバップ語法の基礎を作った。
テイタムが繰り広げたジャム・セッションの中で忘れがたいものがある。相手はクラレンス・プロフィットというピアニスト兼作曲家だった。私を含め、皆、彼のことを単なるファッツ・ウォーラーの亜流と思い込んでいたが、この二人のジャム・セッションは何ともすさまじかった。
 二人がピアノの前に座り、同じメロディを延々弾き続ける。メロディは変えずにハーモニーを次から次へと変えていくのだ。フレーズを考えるのでなく、色んなハーモニーをどんどん考え出すという凄いジャムだった。

特に”Body & Soul”を演った時が面白かった!あの曲にはすでに決まったコードが付いているからね。彼らのセッションは信じられないような内容だった。だが、あの時やったようなことは、私の知る限り全く録音されていない。
 (出典:Swing to Bop/Ira Gitler著)

ハーレムのセント・ニコラス通りを少し入ったところにアフターアワーズの店があってね、一流ミュージシャンは仕事が終わると、皆そこに集まった。レスター・ヤング達カウント・ベイシー楽団の面々、ベニー・グッドマン、アーティ・ショウ、そしてアート・テイタム、アートはアフター・アワーズの店が大好きだった。彼が正規の出演場所よりも、アフターアワーズの方が良い演奏したっていうのは本当よ。多分、その場の雰囲気のせいかもね。違った空気があれば、それに即して違った弾き方、歌い方をする人は多いの。ある種のお客やクラブには、ミュージシャンが、普通は出来ないことをしたいと思わせる何かがあるのよね。まあアート・テイタムは余りに素晴らしくて、いつの演奏が良かったと選ぶのも無理なんだけど…
(出典:Hear Me Talkin’ to Ya / Nat Shapiro and Nat Hentoff著)

 =フラナガンのもう一人のルーツ、巨匠テディ・ウイルソンの証言=

 私はアール・ハインズとファッツ・ウォーラーが好きだ。しかし、アート・テイタムは、全く別物だという気がする。彼は生まれながらに、類い稀な天才だった。野球に例えれば、全打席ホームランを打つ程の天才だ。アートは神秘と言ってよい。アートが他のどのピアニストよりも私に感動を与えたことに間違いはない。

(ダウンビート誌 1959年1月22日号)
 

=トミー・フラナガンが語るテイタム伝説=

 私は子供の頃に一度、彼のプレイを間近で観察した。それは(デトロイトの)アフターアワーズの店だった。テイタムが現れたのは朝の4時、演奏を始めたのは5時頃だ。それから2-3時間弾くというのが彼の日課だった。まだそんないかがわしい場所に出入りしてはいけない年齢だったが、テイタムを観たさにこっそり家を抜け出したのだ。悪いことだったが、今でも、そこで彼を生で見れて良かったとつくづく思う。
 そこで彼の弾いていたのは、おんぼろアップライトで、粗大ゴミと言ってよい代物だった。テイタムが弾く前に、彼の友人のピアニストが弾くと、どれほどひどいピアノかが、つくづくよくわかった。だが、一旦テイタムがピアノの前に座ると、粗大ごみの音が、瞬く間にグランドピアノのサウンドになった。彼はまさにピアノを変身させる事ができたのだ。本当に凄かった。しかも、彼は大変音楽的だった。実にひどい楽器でも、そこから音楽を引き出して見せた。
 楽々と弾くテイタムの姿をひたすら傍で見つめるのは、素晴らしいことだった。片手にドリンクを持ち、片手だけで、僕の今迄に弾いたどれよりも凄い演奏をして見せた。そんな事が起こるのがデトロイトのアフターアワーズだった。

フラナガン-ある夜、私はボビー・キャストン(Bobbe Caston)という歌手の伴奏をしていた。テイタムは彼女の歌が好きで伴奏をしていたこともあった。歌の前座のピアノ演奏では、いつもテイタム・スタイルで”Sweer Lorraine“等を演っていた。
 ある夜、いつものようにテイタム流に奮闘している最中に、ボビーが私に近付いてこう耳打ちした。
『ほら、アート・テイタム があそこに座っているわよ。』×☆○! !
 ボビーの示した 方をそーっと観ると、本当に彼がいるじゃないか!それからは、逆の壁の方を向き、やっとの思いで弾き終えた。
 私は彼と話すのが恐かった。彼には6回程会ったことがあるが、いつもどんな話をすればよいかもわからなかった。私は彼をミスター・テイタムと呼んだ。でも彼は私にとても優しかった。私達若い者のプレイを、とても忍耐強く、じっと立ったままで聴いてくれて、「今夜は珍しくうまい子達がいるね。」なんて言ってくれた。
 テイタムがピアノの前にひとたび座れば、僕らはひとたまりもないことはわかりきっているのに。
 テイタムが、あれほど凄いピアノ・テクニックをどのようにして編み出したのかわからない。しかし彼の演奏におけるハーモニー構造には稽古の跡がうかがえる。彼こそ正真正銘のヴァーチュオーゾだ。そしてヴァーチュオーゾの至芸は基礎的なトレーニングなしには決して有り得ない。
 若い頃、アート・テイタムに感動し、彼こそパーフェクトなピアニストだと思った。今でも私はそう思っている。
 テイタムの演奏には、なにもかも、全てのものが詰まっている-Tommy Flanagan

(出典:Jazz lives: Portraits in words and pictures/ Michael Ullman著)
 

  ジャズの巨匠達が好んで語ったテイタム伝説には、畏怖とともに、敬愛の心が溢れる。フラナガンがあれほど寺井によくしてくれたのは、テイタムからもらった優しさがフラナガンの心に根付いていたからかもしれない。
やっぱりテイタムは神様だった。

News:そんなアート・テイタムの歴史的未発表版が4/26のレコード・ストア・デイにLP&CDでリリースされることになりました。

 プロデュースはジャズのインディ・ジョーンズと呼ばれるZev Feldman!

タイトルは『Jewels in the Treasure Box/ジュエルズ・イン・ザ・トレジャー・ボックス』テイタム1953年、シカゴのクラブにおける円熟のトリオ・ライブです。充実した内容の分厚いブックレットは、不肖私が翻訳しています。巨匠たちが愛した名人芸をぜひ聞いてみてください!

ビバップを彩った名司会者:意地悪ピーウィー・マーケット

birdlan.jpg左から:ホレス・シルヴァー、ピーウィー・マーケット、カーリー・ラッセル、アート・ブレイキー、ルー・ドナルドソン、クリフォード・ブラウン

 アート・ブレイキー・クインテットのアルバム<A Night at Birdland(バードランドの夜)>(’54)に収録されたピーウィー・マーケットのこんな名司会ぶりが収録されている。

Blakey_Birdland_Vol._1_Original.jpg 「レディーズ&ジェントルメン!皆さんご存知かと思いますが、今宵、<バードランド>では、なんとブルーノート・レコードが、ライブ録音を敢行いたします。お客様が色んなパッセージに拍手をなさると、それがそのまんま録音されます!レコードになった暁に、これが全国津々浦々でかかりますと、皆さんの拍手が聞こえてくるんです。だから「今のは僕の拍手だ!僕はこのバードランドの客席に居たんだ。」って自慢できますよ。
 それではご紹介いたしましょう。偉大なるアート・ブレイキー!彼のバンドのメンバーは、ピアノ―ホレス・シルヴァー、アルト・サックス―ルー・ドナルドソン、ベース―カーリー・ラッセルでございます。それでは皆さん、さあ一斉に大きな拍手をお願いします!!アート・ブレイキー!」

 

   ピーウィー・マーケット(Pee Wee Marquette 1914-92)は、歴史的ジャズクラブ《バードランド》の名物ドアマン兼司会者として人気を博した。身の丈115cmほどの小柄な体と、洒落たステージ衣装、大きな葉巻、大柄なお客のタバコに火がつけられるようにとても長い炎の出るガスライター(当時は珍しかった)、少年のような甲高い声と南部訛りがトレードマーク、愛嬌たっぷりのピーウィー・マーケットは、上のアルバムの録音当時40才だった。「小人症」であった彼は、一説には女性であったとも言われている。Pee Weeは” おちびちゃん”という意味で、本名はWilliam Clayton  Marquette、1914年アラバマ生まれ、元はダンサー兼コメディアンとしてナッシュビルで活動していた。第二次大戦中の1943年、流れ流れてNY にやって来たマーケットは、その姿かたちから、街頭スカウトされて、ナイトクラブの司会業や接待役として働き始め、’49年《バードランド》に入店、クラブが閉店(’65)するまで、名物キャラクターとしてお客さんに可愛がられた。 

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 だからといって、ピーウィー・マーケットがジャズを愛したとか、ジャズメンに好かれた、というような記録は見当たらない。村上春樹のおかげで日本でも有名になった「ジャズ・アネクドーツ」「さよならバードランド」といったビル・クロウのジャズ本にもくりかえし登場しているし、《バードランド》に出演したホレス・シルヴァー、メイナード・ファーガスン、テリー・ギヴス、ジョー・ニューマンといった様々なミュージシャン達がマーケットについての証言を遺している。彼らの話に共通しているのは、マーケットにチップをしつこくせびられた、ということだった。 

 マーケットはまず出演するバンドのリーダーから数ドルのチップをせびる。そして、ギャラの支払い日に、楽屋を回って各メンバーに50¢ずつ請求した。当時の50¢は、現在の日本では800円くらい、貧乏ミュージシャンには結構な金額でした。もしチップを払うのを拒否しようものなら、マーケットはそのミュージシャンの名前をわざと間違えて紹介した。例えばホレス・シルヴァーは”Whore Ass Silba (売春婦のケツのシルバ)”、ポール・デスモンドは”バド・エズモンド”といった具合に、ミュージシャン顔負けのアドリブ力を発揮したといいます。いやがらせに辟易してチップを渡せば、その夜からきちんと名前を紹介してくれる。まさに海千山千のプロだった。 

friedlander_marquette_and_basie1.jpg 可愛い容姿と裏腹に、護身用のジャックナイフを持ち歩き、新人ミュージシャンには高飛車で、ヴァイブラフォン奏者のボビー・ハッチャーソンに至っては葉巻の煙を顔に吐き掛けられ「今すぐ楽器をたたんで帰りやがれ!」とスゴまれたこともあったらしい。そんなわけで、ミュージシャン達はマーケットのことを名前ではなく”Midget(小人)”と陰で呼んでいた。その中で比較的マーケットと親しかったのが、カウント・ベイシー楽団の面々で、”バードランド・オールスターズ”として一緒にツアーした時には、ジョー・ニューマン(tp)、フランク・ウエス(ts)、ソニー・ペイン(ds)など比較的小柄なメンバー達と自虐志向のレスター・ヤングがマーケットと共に”The Midgets”というチームを作り、エディ・ロックジョウ・デイヴィス(ts)やエディ・ジョーンズ(b)達の大男チーム”The Bombers(爆撃達)”と各地で激しい水鉄砲合戦を繰り広げたという伝説があります。ジョー・ニューマンの有名曲”The Midgets”は、このツアー中に作られたのだった。

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 仲良くなってもチップは別、マーケットは皆平等にチップをせびった。

 或るときレスター・ヤングは、マーケットのしつこさにうんざりして、とうとう彼を怒鳴りつけた。

「うるさいよ。あっちへ行け!この1/2マザファッカー野郎!」 

peewee.jpg 《バードランド》閉店後、マーケットはタイムズ・スクエアの近くにあったお上りさん向けレストラン、《ハワイ・ケイ・レストラン》で客引きをして生活した。往年の名MCぶりを覚えている人が通りすがりに声をかけて、当時のことを訊きたがると、質問一つにつきチップ1$を請求したという伝説が残っている。 

 1985年、ジャズ・ブーム再燃、この頃マーケットは、深夜の人気バラエティTV番組、『Late Night with David Letterman』にゲスト出演し、《バードランド》時代の思い出話を語った。それから3年後、クリント・イーストウッド監督がチャーリー・パーカーの半生を描いた映画『バード』 で、小人症の個性派俳優トニー・コックスがマーケットに扮して司会ぶりを再現。マーケットはこの映画が自分を「実像からかけはなれた屈辱的な姿に描いた」として、ワーナー映画を相手取り200万ドルの慰謝料を請求する訴えを起こした。この訴えが受理された記録はない。ちょっと請求するチップが高すぎたのかな。

対訳ノート(48)You’d Be So Nice to Come Home To

 

Cole Porter (1891-1964)

=歌のお里=

   “You’d Be So Nice to Come Home To” は言わずと知れた超セレブソングライター、コール・ポーターの作詞作曲。ブロードウェイの舞台裏を描くコメディ-映画『Something to Shout About』(’43)の劇中歌で、主役、ドン・アメチが、この歌でヒロインを口説くものの、「プレイボーイのあなたは、女の子を見れば誰でも追いかけまわしているのでしょ。」と軽くいなされる。映画はコケたけど、この歌はオスカーにノミネートされ、多くの歌手や楽団がカヴァーした。中でも映画と同年にリリースされたダイナ・ショア&ポール・ウェストン楽団のレコード(メリルのヴァージョン同様、ヴァースなし)は、ヒットチャートに18週間ランクイン、ソングライターとして最大のライバル、アーヴィング・バーリンの<ホワイト・クリスマス>を追い抜き、ポーターは大いに溜飲を下げた。ジャズ・ファンに愛され続けるヘレン・メリルのヴァージョンはそれから10年以上後に録音されたものです。

 当時、この歌がヒットした理由は?
 -「歌詞哀愁を帯びたメロディーが、戦争のため、愛する人と離れて暮らす何百万という男女の共感を呼んだため。」- 伝記《Cole Porter/ A Biography (Charles Schwartz著)より。

 それなら、やっぱり歌詞を調べよう!コール・ポーター詞の特徴は、クラシックでエレガントな言葉と、口語や新語が絶妙のさじ加減で混ざり合い、独特のリズムと洒落た味わいを生み出すところ。だから英語を母国語としない私たちには難しい!

=エイゴの話=

 最大の難関は、巨泉さんでさえ誤ったタイトル・フレーズ、You’d Be So Nice to Come Home Toこのことばで歌(Refrain)が始まり、終わる。当初、歌のタイトルには、いくつか候補があり、結果的に、このフレーズを題名とした。歌の肝!英語の意味をチェックしてみよう。

 (1) You’d は、ご存知のようにYou wouldの略、ここでの wouldは、現実と異なる空想や願望を表す。

 (2) You’d Be So Nice to Come Home Toの末尾の ‘To’は目的語を導く前置詞、なのに目的語自体がないのは、それが主語と同じだから。こういう場合は、目的語を入れてはだめ。受験英語サイトを見ると、そういうのは「欠落構文」と呼ぶらしい。先月見かけた、英デイリー・テレグラフ電子版の見出しが欠落構文だった。”This is the kind of music you should listen To at work. (仕事の能率向上に役立つ音楽ジャンルはこれ!) 

(3) 次によくわからないのが ’Come Home To You‘ということばの意味。’come home’なら’家に帰る’だけど、そこに’To you’が付くとどうなるの?私が調べた英和辞書には、イディオムとしての適切な説明はなかった。そこで、ネイティブ用の便利な無料辞書サイト、The Free Dictionary.com を調べてみる。すると、以下のような記述が!

come home to someone or something

to arrive home and find someone or something there.( 帰宅して、’to’以下の人、あるいはそれ以外の何かを見つけること) 

  これだ!‘Come Home To You’とは、「自分の家に帰ると、あなたが居る。」という意味だったのだ。つまりYou’d Be So Nice to Come Home Toは、「僕が家に帰ったとき、もしも、誰かが僕の家に居てくれるとするなら、そして、もしその誰かが君なら、すごく素敵だろうなあ…」となり、直訳すると、詩的と言うには程遠い、やたらと回りくどい愛の表現になるのだった。

  巨泉さんは、この題名の正しい意味は『あなたの待つ家に帰っていけたら幸せ』としていた。そして、大戦下でヒットしたのは、『戦争によって、愛する人と離れ離れで暮らす何百万という男女の心にアピールしたから。どうやら、ずいぶん近づいてきたようだ。

 それでは、この言葉は、映画のように、男から女への口説き文句であり、「早く戦争が終わって、恋人の待つ故郷へ、或いは妻の待つ家に戻りたい!」という男たちの気持ちを語る歌なのだろうか?十年ほど前、私はそう確信し、『Ella at Juan Les Pain』でエラが快唱するこの歌の対訳を作ったのだけど…もう一度しっかり確かめておこう。 

=ネイティブに訊いてみた

 

持つべきものは友!米国に進出する日本企業のために、膨大な和英翻訳をこなすプロ中のプロフェッショナルであり、サックスでジャズ、ヴァイオリンでクラシックと幅広い音楽活動を続ける私の翻訳パートナー、ジョーイ・スティールさん(在サウス・カロライナ)は、私の疑問をいつも解決してくれる魔法使い。日英の比較言語とジャズの両方に精通するジョーイさんに、歌詞の本当の意味を訊いてみた。日本語検定一級の彼でも、英語のニュアンスを伝えるのは英語。驚いたことに、これは「プロポーズの言葉」だと、教えてもらいました。以下は要約。 

1.要するに、プロポーズの歌だよ。 

2.この歌の時代は、男性が外に出て働き、女性は主婦、というのが一般的だった。’仕事で疲れて家に帰った僕を、君が迎えてくれれば、どんなにいいだろう!’言い換えれば‘一緒になろう、結婚して!’ってこと。明らかに、男性から女性に向けた歌詞だよ。もちろん女性が歌っても問題ないけどね。 

3.結婚したカップルの間で、夫が妻にこのセリフを言う?それは、絶対あり得ない。例え離れ離れの夫婦でも考えられない。勿論、夫が戦地に居る夫婦がこの歌詞にグッとくるというのは、十分納得できるけどね。あくまで、「日常の夫婦生活に戻る」という意味じゃない。一緒に住もう、結婚しよう、という意味。

 *英語に関する質問サイトに日本人が投稿した同様の質問に対して、英国人女性がやはり「プロポーズ」という言葉で説明していました。

=リアリティ・ギャップ=

結局のところ、「帰ってくれたら嬉しいわ」よりも「家に帰ったときに、あなたがいてくれたら嬉しい。」だったが、英語を母国語とする人々の”プロポーズに特化した”感覚とは多少のズレがあった。言語のリアリティ・ギャップは至る所にある。状況証拠に気を取られずに、謙虚にならなければと自戒。

一方、戦時中の男女の心をわしづかみにしたこの歌の陰には、コール・ポーターの秘められたリアリティがあった。ポーターはアーヴィング・バーリンと並ぶ愛国者として知られているが、戦地に居たわけじゃない。そのころポーターはすでに50才を過ぎ、落馬事故によって両足の自由を奪われてから5年の歳月が経っていた。左足の再度の大手術とリハビリを経て、ようやく退院した翌月、まさに真珠湾攻撃が勃発したのだ。

今の言葉で言うとLGBTだったポーターの奔放な男性遍歴の中でも、最愛の恋人(の一人)とされるネルソン・バークリフト(右写真 Getty Imagesより)は、この歌は’僕たちの歌’、つまり二人のロマンスを基に作られたと証言している。

ダンサー、俳優、振付師であったバークリフト(1917-1993)は、ポーターより二回り年下、二十歳そこそこで俳優を目指しヴァージニア州からNYにやって来た。ポーターと親密になったのは、ブロードウェイで役が付き始めた’41年頃だ。芸能界の超大物で大金持ちのポーターは、願ってもない後ろ盾だったかもしれない。

ポーターは、この若者に夢中になった。足の自由を奪われ、合併症に苦しむポーターの目に、若く健康でしなやかな肉体を持つ美青年は、愛らしく眩しいものだったろう。ポーターが彼に送った膨大な手紙や電報は、デート場所を記した走り書きのメモに至るまで、ポーターの死後公表されていて、一部を伝記で読むことができる。 

1942年、バークリフトはポーターの元を離れ、陸軍に入隊した。耐え難い寂しさを味わったのは専らポーターだ。逞しい若者がわんさか居る軍隊、勿論、軍隊にはゲイも居る。いろいろ浮名を流す年下の恋人の帰りを待つポーターは、”My little soldier boy (僕の可愛い兵隊さん)“に宛てて、残された寂しさや、臆面もない愛の言葉、時には嫉妬や非難の言葉を書き送っている。ポーターはLAとNYに複数の屋敷を所有し(戦前はパリにも)、ビヴァリーヒルズに近いブレントウッドの邸宅には、バークリフト専用の部屋が用意されていた。

コール・ポーターの時代のアメリカでは、同性愛は違法、だから彼の嗜好はひた隠しにされた。リンダという妻を娶り、妻との「友情」は美化され語り継がれているけど、真相は本人しかわからない。彼はしばしば夫婦旅行にボーイフレンドを同行させることもあった。お気に入りのボーイフレンドを自宅近所のアパートに囲ったり、セレブ達で共同経営する高級クラブの支配人に据え、そこで別の男の子とデートしたり・・・毎日昼間から、プールサイドで男だけのパーティ三昧…私のような庶民には、面倒臭いとしか思えないけど、セレブだけに許されるゴージャスな享楽を謳歌した。実際のところ、24時間介護してくれる使用人なしでは、トイレや着替えも難しいこともひた隠しにした。

 彼の恋の相手は、このバークリフトだけでなく、ロシア人建築家からトラック運転手まで、数え切れないほどいたけれど、一生を共にする相手には恵まれず、孤独な死を迎えている。

 戦時下の大多数の男女と、コール・ポーターの事情には、少しばかりのギャップがあるけれど、<You’d Be So Nice to Come Home To>が、大きな共感を巻き起こしたのは、ドロドロの愛憎を上手にクローゼットにしまい込み、美しいところだけを見せるという、プロフェッショナルなソングライターとしての手腕の賜物だったのか?或いは、戦地に行った愛する人への想いは、誰でも同じということなのだろうか?

=暖炉のメタファー=

 

 コール・ポーターの権威、ロバート・キンボールの解説に、この疑問に対するヒントがあった。〝当初、この曲には複数の仮題が付けられていて、その中の一つが<Something to Keep Me Warm (僕を温かくしてくれるもの)>である。”というのです。恐らく、このタイトルがボツになったのは、アーヴィング・バーリンによる’30年代のヒット曲、<I’ve Got My Love to Keep Me Warm >を連想させるからでしょう。もしも、このタイトルだったら、歌手たちは、二行目の“You’d be so nice by the fire”を強調して歌ってたかも。この言葉、単純に訳せば「暖炉のそばの君は素敵だろうな。」になる。でも、この歌が「プロポーズの言葉」であるからには、「暖炉のそばの君」の意味はとても深い。

 寒い冬の夜、一人暮らしの我が家に帰ると、家の中は暗くて寒い。でも「君」と一緒になれば、明かりが灯り、暖炉で温まった家が「僕」を待っていてくれる。

 赤々と燃える暖炉は、仕事の疲れを癒し、すさんだ心を温めてくれる「君」の象徴、コール・ポーターが、いくつ屋敷を所有し、どれほど恋をしようとも、母親以外の誰に求めても得られなかった、「ぬくもり」の象徴ではなかったのかな?

=You’d be So Nice to Come Home To=
作詞作曲 Cole Porter (1943)

You’d be so nice to come home to,
You’d be so nice by the fire,
While the breeze, on high, sang a lullaby,
You’d be all that I could desire,

Under stars, chilled by the winter,
Under an August moon, burning above
You’d be so nice,
You’d be paradise to come home to and love.
 

家に帰って、君が出迎えてくれたら、とても素敵だろうな。

暖まった暖炉のそばに君が居れば、もう最高だろうな。

心地良く吹くそよ風が子守歌を歌ってくれても、

僕の願いは君と一緒になることだけ。

凍てつく冬の星の下、

8月の燃える月の下、

いつも君と一緒なら、素敵だろうな、

最高に幸せだろうな、

僕を待つ、愛する伴侶が君ならば。

 戦争を体験した昭和の文化人、大橋巨泉さんは、「遊び」を、トコトン真面目に追及する楽しさを教えてくれました。この対訳ノートを、大橋巨泉さんに捧げます。合掌

  • 参考文献COLE PORTER / A Biography by William McBrien / Alfred A. Knopf 1998刊
    The Complete Lyrics of Cole Porter by Robert Kimball / Da Capo Press 1992刊
    Cole Porter: A Biography by Charles Schwartz / Da Capo Press 1979刊

ジャズファン注目:NYキャバレー法と日本の風営法

 8/19付:朝日新聞「withnews」、ジャズ史と関わりの深い「NYキャバレー法」の歴史と、日本の”クラブ”に於けるダンスの規制についての裁判や法改正でマスコミを賑わした「風営法」を比較検討した記事が話題になっています。

 

   朝日新聞デジタル編集部の神庭さんは、風営法の取材を通じ、一般の人が”ダンス”をするという娯楽を規制するNY市の「キャバレー法」に注目、現地で綿密な取材を行った上で記事にまとめていて、”クラブ”やダンスには全く無縁な私にとっても、とても興味深い考察が行われています。

 結婚してからダンス・クラブに行ったのは20世紀、トミー・フラナガンに連れられてイースト・ヴィレッジの”CAT CLUB”に行っただけ。普段はディスコだけど、その夜は、Swing Dance Societyという団体が、メル・ルイス(ds)やジョン・ファディス(tp)といった超豪華メンバーによるビッグバンドで催したダンス・イベントだった。フラナガンは見た目通り、踊るのは嫌い。小さなテーブルに座って、プロのダンサー達が見せつけるアクロバティックなリンディ・ホップそっちのけで、バンドばっかり必死で観察してました…

SCN_0034.jpg 「NYキャバレー法」から派生した「キャバレー・カード法」は、’40年代以降、ビリー・ホリディやチャーリー・パーカー、セロニアス・モンクなど幾多の天才達の生活の糧を奪ってきた法律。人種隔離政策を背景に持つシーラカンスのようなこのキャバレー法にチャレンジを続けるNYの名弁護士、大ジャズファンでもあるポール・シェヴィニーのインタビューや、NY市政史がスカっとまとめられているのも、私たちにとっては嬉しい記事です。

 私がこのブログで紹介したJ.J.ジョンソンのキャバレー・カード裁判にも言及してくださっています。

 ジャズ史の視点からも楽しく読める記事、ぜひご一読を!

戦争とリトル・トーキョーのチャーリー・パーカー

 暑中お見舞い申し上げます。

 下町の市場に買い出しに行くと、商店街のあちこちから「大阪大空襲」「学童疎開」や「学徒動員」といった言葉が聞こえてくる暑い夏、否応なしに青春を戦争と過ごした両親や、さらに祖父母の世代の苦労を想います。

  第二次大戦以前、米国に出かけていった日系移民の方々の主な出身地は、広島、山口、岡山などの中国地方、長崎、佐賀、熊本などの九州、そして和歌山だった。一世の子弟達は、れっきとした米国市民であったのに、原爆をわざわざ広島と長崎に投下したのは何故だったのだろう?

 <キャバレー税とBebopの関係>

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 さて、数年前、ウォール・ストリート・ジャーナル電子版に、私達がこよなく愛するビバップ芸術は、第二次大戦の産pyramid.ai.jpg物、つまり「キャバレー税」という戦争税の産物であるという説が掲載されていました。

 戦前、ジャズの本道として人気を博したスイング・ジャズはビッグバンド形式のダンス音楽として発展した。楽団は全米津々浦々、星の数ほど存在し、「National Band (全米的な名楽団)」「Territory Band (米国の決まった地方を巡業する楽団)」「Local Band(地元で活動する楽団)」というサッカーや野球のリーグに似たピラミッド型の構成の住み分けが確立し、各層がそれなりの安定収入を確保していた。演奏家は様々な土地を巡りながら、その土地の音楽を吸収し、上の階層を目指し切磋琢磨することによって、ジャズ音楽は有機的な発展を続けたわけです。

 ところが、第二次大戦が勃発すると、ガソリンやタイヤは配給制となり、巡業の要であるバスの調達が困難になります。同時に若手ミュージシャンは次々と徴兵されていった。さらに1944年、「キャバレー税」という連邦税の施行はビッグバンド界へのとどめの一撃となったのです。

 「キャバレー税」は、飲食を含むダンスホールの勘定書の20%。課税対象は、ステージのあるなしに関係なく、とにかくダンスをさせる店、そして、歌を聴かせる店だ。戦争特需の好景気とはいえ、20%という重税で全米のダンスホールは閑古鳥、ビッグバンドを支える営業システムは崩壊してしまったのです。ダンス音楽の代わりに台頭したのが、ダンスせずに「聴く」ことを目的としたスモール・コンボ、しかも歌手のいないインストルメンタル・ジャズ、つまりビバップだったのです。強烈な個性と洗練、ハーレムのヒップな香り一杯の音楽とファッション、ミュージシャンが大きく注目を浴びるようになりました。

charlie_parkerdizzy_gillespie.jpg バップ時代の立役者の一人、マックス・ローチ(ds)は語る。

「誰かが席を立ってダンスをすれば、勘定書きに20%の税金がプラスされた。誰かが立ち上がって歌ったら、また20%。…しかし器楽奏者の発展には素晴らしい時期だったな・・・」
 

 一方で、ビバップは、レコーディング禁止令のおかげで、最良の録音が少ないと言われています。

 できることなら、タイムマシンに乗って’40年代初期にタイムスリップして、52丁目でチャーリー・パーカーとディジー・ガレスピーのライブを聴きに行きたいなあ!

 ところがどっこい、もしタイムマシンが出来たって、時は太平洋戦争中。日本人がNYの街を闊歩できるようになるのは、’50年代まで待たなければ・・・

<リトル・トーキョーのチャーリー・パーカー> 

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 終戦直後、1945年12月、NYジャズシーンの寵児となったチャーリー・パーカー-ディジー・ガレスピー・バンドは本拠地NYの52丁目を離れ、西海岸LA、ハリウッドのど真ん中にある有名クラブ、《Billy Berg’s(ビリー・バーグス)》に8週間出演した。「ビバップ旋風」が西に!地元のミュージシャン達は熱狂したものの、輝く太陽とパームツリーと夜間外出禁止令・・・西の文化は、東のNYとはずいぶん違っていた、というか、遅れていた。結局、娯楽性が少ない先鋭的な黒人音楽は、ハリウッドのリッチな娯楽嗜好と合わず興行は大コケになった。麻薬の調達が困難なために、パーカーが度重なるすっぽかしをやらかしたのも火に油。やっとギグを終え、NYに帰る飛行機に、パーカーの姿はなかった。どうやら飛行機代は、いつのまにかクスリに替わっていたらしい…ディジー・ガレスピーの忍耐もジ・エンド。ジャズ史上最高の名コンビは、袂を分かつことになります。

 パーカーにとっては住み難い土地柄であったはずなのに、彼はそのまま居残って活動を続け、心身ともにボロボロになり、滞在ホテルでボヤ騒ぎ、ロビーに全裸で現れて、カマリロ病院送りになります。この悲劇の舞台がLAの日本人街、リトル・トーキョーであったことは、余り知られていません。でもなぜリトル・トーキョーなんでしょう?

<戦時敵性外国人強制収容>

Instructions_to_japanese.png  1941年12月、日本海軍による真珠湾攻撃によって太平洋戦争が起こり、翌42年2月、フランクリン・ルーズベルトは大統領令9066号を発令。「特定地域を軍の管理下に置く」という法令の元に、敵性外国人である日系人のほとんどが、「保護」の名目の元、家も財産も放棄させられ、家族離散、コロラドやアリゾナ砂漠など人里離れた辺境地域にある粗末な強制収容所に移送された。その数12万人!鉄条網と監視兵に囲まれた劣悪な環境の中、ある者は、日系人の米国に対する忠誠の証に志願兵として前線に赴き、ある者は日本に引き揚げた。広島で被曝した日系米人の数は3000人に上ると言われています。

 強制収容は最長4年に及び、戦争が終わると収容所は閉鎖、日系人は市民権を剥奪され、着の身着のままで、「解放」された。そこから、元の生活に戻るまで、日系の方々が、どれほどの時間と労力を費やされたのか、想像もつきません。チャーリー・パーカーの滞在した町は日本人のいないリトル・トーキョーだったんです。

<リトル・トーキョー/ブロンズヴィル>

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  元来、ロスアンジェルスは、日系人や黒人といった「特定」の集団の住居所有を制限する居住隔離の町であり、リトル・トーキョーもまた、日系人に特化した人種隔離の町であったそうです。第二次大戦中、戦争特需の好景気に湧くLAには、南部から多くの黒人労働者が流入してきました。戦前から、リトル・トーキョーの南方に位置する、セントラル地区、ワッツ地区が黒人の居住地域として割り当てられていましたが、黒人人口の爆発的な増加で、従shepps-ad-1-31-46.jpg来の地区には収まりきれず、必然的に、日系人が退去させられゴーストタウンとなったリトル・トーキョーの空き家を急ごしらえの生活の場とし、瞬く間に「ブロンズヴィル」という名前の黒人の町に変貌します。

 「ブロンズヴィル」は、治安が悪く、不衛生なスラム街であったと言われる一方、24時間体制のシフトで働く黒人労働者が溢れる町には「ブレックファスト・クラブ」と称し、朝食を提供するという建前で、深夜営業をする非合法クラブが乱立し、ジャズやダンスの娯楽の殿堂として活況を呈します。中でも最も有名だったのは、パーカー-ガレスピーをLAに招聘したkawafuku-menu-1_jpg_515x515_detail_q85.jpg張本人、ビリー・バーグが出資した《Shepp’s Playhouse》で、《川福》という日本料理店であった場所にオープンしたクラブ。コールマン・ホーキンスやTボーン・ウォーカーといった人気ミュージシャンを出演させ、ハリウッドからジュディー・ガーランドといったセレブが通うほど繁盛した。 

 <ザ・フィナーレ>

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 一方、チャーリー・パーカーの出演場所は《The Finale》というクラブ、1944年にオープンしてから、度々経営者が代り、神出鬼没で、店の住所は転々とした。モグリ営業であったことは明らかですが、チャーリー・パーカーは1946年3月ころからハワード・マギー(tp)のバンドに飛び入りし、やがて20才のマイルズ・デイヴィス、ジョー・オーバニー(p)、アート・ファーマーの双子の兄弟アディソン・ファーマー(b)、チャック・トンプソン(ds)とバンドを組んで出演。おかげで《The Finale》はバップの聖地の様相を呈したそうです。『Dilal』というマイナー・レーベルを起こしたばかりのロス・ラッセルは、ここに足繁く通って録音契約を取り付け、演奏の模様はLAやパサデナのラジオ局が中継放送していた。怪しげな『Charlie Parker at the Finale Club and More』というCDはエアチェック盤ですね。

 バードの出演当時、実質的な経営者は兄弟分のハワード・マギーであったと言われています。上の写真でサングラスをかけたアルト奏者がバードです。

 その当時の《The Finale》の場所は、日本文化協会のビルの一室にあり、入り口はOverSeasの裏口のようなビルの廊下にあった。ライブは午前一時より、もとより「ブレックファスト・クラブ」にリカー・ライセンスなどないので、客は酒のボトルを持ち込んで、トニックやソーダや氷を店で買うシステムだった。 

 

 1st_and_San_Pedro.jpg7月29日、『Dial』の録音セッションでLover Manの演奏中、バードの心身のバランスはとうとう限界点に達し、ヒステリー症状に陥りました。

 数時間後、心神喪失のチャーリー・パーカーは、滞在ホテルのロビーを全裸で徘徊し、それどころかタバコの火の不始末で火事を起こし、大騒ぎになり、カマリロ病院に収容されることになります。

 そのホテルは、サンペドロ・ストリートと1st Avenueの交差点にあった「シヴィック・ホテル」、当時、巡業した多くのミュージシャンの滞在地であったと言われていますが、ここも元は「ミヤコホテル」として、リトル・トーキョーを代表する一流ホテルだったのです。

  8週間のはずのLAの滞在は、バードにとって地獄の14ヶ月となったのでした。

 一方、戦後この街に帰還した日系の方々が、それまでブロンズヴィルとして住み着いた黒人コミュニティとの協調と軋轢を繰り返しながら、リトル・トーキョーを再建するまでには、さらに何年もの歳月を要することになります。

 日本の経済白書に「もはや戦後ではない」という文言が入ったのは1956年、米国政府が日系人に対する非人道的な強制収容についての謝罪と倍賞がなされたのは、1980年代以降のことです。 

参考資料:How Taxes And Moving Changed The Sound Of Jazz
 
多人種都市ロスアンジェルスと環太平洋の想像力/南川文里
Little Tokyo / Bronzeville, Los Angeles, California / 日系アメリカ人資料館「伝承」
Memories of Bronzeville, a Forgotten Downtown Era 
Boronzeville, Little Tokyo, Los Angels 
Bronzeville Gypsy: How Charlie Parker lit up Little Tokyo 
Azusa Street to Boronzeville, Black History of Little Tokyo 

Miles: The Autobiography / Miles Davis, Quincy Troup (Simon and Schuster) Courtesy of Michiharu Saotome
Swing to Bop / Ira Gitler (Oxford University Press)

 

 

女の言い分:リー・モーガン事件(その2)

 先週から、この事件のことを書き始めたら、思いがけなく沢山の反響を頂きました。リー・モーガンが今もなお、ジャズの枠や時代を越えて、多くの人達を今も魅了していることを実感し、とても嬉しかったです。

<ハードバップ・バイオハザード>

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 10代から、地元フィラデルフィアで天才の名を欲しいままにしていたモーガンは、並み居る先輩にタメ口をきく、超「生意気なガキ」でしたが、ドラッグとは無縁の少年だった。19才でNYに進出したきっかけは、麻薬禍で崩壊寸前だったジャズ・メッセンジャーズ立て直しを図る、ベニー・ゴルソンが、同郷フィラデルフィアで傑出した存在だったモーガンを最終兵器として呼び寄せたからだ。 皮肉にも、そのモーガンをヘロイン漬けにした張本人は、リーダーのアート・ブレイキーだったと周囲はこぞって証言しています。ヘロインはたった一度試しただけで、ひどい禁断症状に襲われるために、瞬く間に依存症になるのだそうです。

ヘレン: モーガンがアートにハイな状態はどれくらい続くの?と訊いたら、ブレイキーが永遠だ。(Forever)と言ったから。ヘレンはそう語っている。ブレイキー自身は、ヘロインのさじ加減を熟知していて、うまくクスリと付き合うことが出来たけれど、20才になるかならないモーガンは、あっというまに呑まれてしまった・・・

 

 1940年代中期以降、ヘロインが米国の他の都市より、NYで一番流行した背景には第二次大戦中にルーズベルト大統領とマフィアの間に交わされた密約のためだと言われています。大戦中、NYマフィアは、連合軍が表立って執行できない闇の作戦を命を張って遂行し、連合軍の勝利に大いに貢献し、その見返りとして、麻薬の密輸が容易に出来るようになった。おかげで、ヘロインはNYのストリートで、アスピリンよりずっと手軽に買えるようになった。おまけに、チャーリー・パーカー、ビリー・ホリディというジャズメンの永遠のヒーロー、ヒロインのおかげで、麻薬は「最高の高揚感」だけでなく「最高のプレイ」を与えてくれる魔法の薬と信じた、多くの若手が人生を台無しにした。そんな確率はSTAP細胞が出来るより少ないのに…

 「麻薬は、ギャンブルよりもずっと危険で、善良な市民の生活を破壊する。あんなものを扱うべきではない。」 映画『ゴッドファーザー1』の中で、マーロン・ブランド扮する昔気質の侠客、ヴィトー・コルレオーネがヘロインの売買に反対すると、他のボスが「それじゃあ、ニガーにだけ売れば?」と議論するシーンがありました。つまり、黒人は「市民」じゃなかった。ましてジャズが流行し、白人女性が黒人ミュージシャンに恋をするようになると、「やってまえ!」と絶好のターゲットになった。麻薬中毒のミュージシャンは、クスリ代で借金まみれになり、タダ同然でレコーディングをし、著作権を二束三文で売り飛ばす。人種差別に拳を上げると、薬物所持で摘発され、キャバレーカードを剥奪され、仕事ができなくなるわけですが、それはまた別の話。モーガンの物語に戻りましょう。

<シーシュポスの神話>

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 さて、ヘレンは、モーガンとの付き合いが始まったのは1960年代初めだと語り、周囲のミュージシャンの証言では、二人がマネージャー、プレイヤーのおしどり夫婦として、円満な二人三脚が出来た時期は、1965年から1970年ごろまでのようです。

 彼の年譜を観ると、最初の妻、キコ・モーガンが彼の許を去ったのが1961年、その直後にジャズ・メッセンジャーズを退団、独立してからのギグがたびたび「体調不良」でキャンセルされている。1962年、NYシーンからこつ然と消えた彼について、「従軍」「入院」「転職」と色々憶測が流れた。真相は、多くのジャズメンがお世話になったケンタッキー州レキシントンの麻薬更生施設NARCOで療養していたようです。クスリとの付き合い方を覚え、再びNYに戻ったモーガンは『サイドワインダー』華々しいカムバックを遂げた。

 1963年、すでにジャズは流行遅れとなり、時代はすでにロックンロール全盛時代、そんな頃、斜陽のBLUENOTEに録音したアルバムが『サイドワインダー』。録音中に急遽トイレに籠ってトイレットペーパーに走り書きしたロック・テイストのソウルフルな変則ブルースが大ヒット!プレスが追いつかないくらいよく売れて、儲けたお金が15,000ドル!せっかく療養したというのに、大金はヘロインとなって血液中に消え、また元の黙阿弥。聴く者を翻弄しながらクライマクスに連れて行く、クールに計算された圧倒的なプレイとは裏腹に、彼の生き様は、頂点に上り詰める寸前に奈落へ転げ落ちるという不条理の繰り返しだった。

Nightofthecookers.jpg 1965年、フレディ・ハバードのライブ盤『The Night of the Cookers』にゲスト出演した時、モーガンは借り物のトランペットで演奏するしかない極貧状態だったとビリー・ハート(ds)は証言しています。それを見かねたヘレンは、本格的に彼の救済に立ち上がった。

 ヘレンはモーガンの楽器を調達し、ジャズ・メッセンジャーズに舞い戻ったり、レコーディングと単発のツアーだけの状態だった彼を鼓舞して、自己バンドを結成させた。レギュラー・メンバーは、ハロルド・メイバーン(p)、元メッセンジャーのジミー・メリット(b)、ビリー・ヒギンズ(ds)、控えにはシダー・ウォルトン(p)やハート(ds)を擁し、バンドを抱えるための資金も彼女が肩代わりしていた。ヘレンがただの娼婦であったのなら、40才になってこれほど資金力があるはずはない。彼女は詳しく語っていないけれど、やっぱり裏社会で働いていたのかも知れません。とにかく、彼女はテキパキ仕事が出来、はっきり物が言えるサバケた女傑だった。

 ヘレンはモーガンに、ヘロインを克服するように説得する。

「ヘロインをやり過ぎなければ、もう一度凄いプレイができるようになるのよ!だから自分で努力しなさい!」

 納得したモーガンはブロンクスの病院に通い、メタドンというヘロインの代替物を処方する薬物治療を受けるようになった。その頃のヘレンの家の冷蔵庫を開けるとメタドンが山のように貯蔵されていたそうです。

 同時にヘレンはモーガンの「取り巻き」を「寄生虫」と呼び、バッサリ排除するという荒業をやってのけた。寄生虫の代表格が、モーガンとホテルの部屋を共有していたルロイ・ゲイリー、彼に因んだ”Gary’s Notebook”という曲が『サイドワインダー』に収録されている。モーガンはヘレンと同居する直前、安ホテルでゲイリーと同宿し、ホテル代が払えず追い出さた挙句、二人一緒にヘレンの家に転がり込んできたジャンキー仲間だ。彼は、モーガンが立ち直るにつれて「自然消滅」した、ということになっていますが、実のところどんな形で消滅したのかは分からない。

 治療のおかげで、モーガンは精力的にギグとレコーディングをこなすようになります。ヘレンはいつも彼と一緒で、ツアーがあると必ず同行し、シャツやスーツにピシっとアイロンをかけてスタイリッシュなトランペッターの出で立ちを整えた。1968年、ヘレンはマンハッタンの”ヘレンズ・プレイス”を引き払い郊外ブロンクスの高級コンドミニアムに転居。仕事の話は全てヘレンを通して行われ、二人は、年の離れたおしどり夫婦として世間に広く認知されるようになっていました。

 思えばメタドンの治療期間が、二人の蜜月だった。ヘレンは彼が立ち直るよう、誠心誠意尽くしたけれど、彼が本当に立ち直ってしまえば、モーガンは自分の許から巣立ってしまうことを、心のどこかでずっと恐れていたのかも知れない。ヘレンにとっては年の差の不安を紛らわすため、モーガンにとってはヘロインに頼らないため、その頃巷で流行した比較的依存性の少ないコカインが絶好の嗜好物になって行きます。

<Fine and Mellow>

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 1970年になると、モーガンは高級スポーツカーを乗り回し、夜の街のどこかで、だれかとコカインを楽しむようになっていきます。朝帰りをして、ヘレンにズケズケ言われるのが耐えがたく、反抗期の子供のように、うとましいと思うようになっていた。

 この頃、彼は恋が出来るほど元気を取り戻していました。相手は、彼にお似合いの若い女の子だった。彼女が何者かはどこにも書かれていませんが、少なくとも業界の人間ではなかった。当時流行の先端だったアフロヘア、スレンダーな抜群のスタイルで、ひと目を引くほどの美女だった。モーガンは彼女と一緒にコカインを楽しみ、スポーツカーに同乗させて、仲間に見せびらかすようになった。ヘレンは、最初のうちは鷹揚に振舞っていましたが、モーガンは、恋人とコカインの両方にぞっこんになり、ブロンクスの家に帰らなくなります。そしてモーガンのギグに、これまでのようにヘレンが声援を送る姿は見られず、マネージャーとして最終日にギャラの受け取りに現れるだけになっていきます。

 或る日、ヘレンが家に帰ると、モーガンは浴室で若い恋人と一緒だった!

 ヘレンが恐れていたときが、とうとうやって来た。彼女は、自殺を図りましたが、モーガンが病院に運び一命をとりとめます。

 「もう潮時だ。」ヘレンは別れる決心がつきました。

 「私はあんたの本妻で、愛人は別にいる。」そういうのは無理なのよ。私はそういう女じゃない。そんな生き方はいや!だから、もう別れましょうよ。あなたは彼女と一緒になりなさい。私はちょっとシカゴに行ってくる。昔の友達に会いたくなった。いつ戻るかは分からない。あなたが望むのなら、これまでどおりにマネージャーの仕事はしてあげる。でも、もう終わりにしましょう。」

 すると、モーガンは喜ぶどころか懇願した。ヘレンの庇護がなければ、おちおち女の子と遊んでいられない甘えん坊なのだろうか?

「行かないで。シカゴには行くな。嫌だよ。別れたくない!」

 モーガンの甘えに負けたヘレンは結局、思いとどまり、そのときつぶやいた。

「いいわ、モーガン、でもヨリを戻すなんて、私の人生最大の過ちになるかもね。」 

 厳寒のNYでモーガンが質入れしたコートを取り返したことが縁で結ばれた二人は、数年後、やはり厳寒のNYで、一着のコートのために破滅へと導かれていきます。(続く)

 

女の言い分:リー・モーガン事件(その1)

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 北国の皆様、暴風雪の影響はいかがですか?被災された皆様には、心よりお見舞い申し上げます。こちら大阪も日頃の寒さが身に染みます。

  リー・モーガンがイースト・ヴィレッジのクラブ、Slugs’ Saloonで、内縁の妻に射殺された1972年2月19日の夜も、みぞれ混じりの雪が降る、凍てつくような夜だったそうです。

 嫉妬に狂った毒婦の犯行だ!と勝手に決め込んでいましたが、今年発表された彼女のインタビュー『The Lady Who Shot Lee Morgan』(Larry Reni Thomas著)を読んでみると、あながちそうでもないらしい。

 

<女の履歴書>

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 モーガンを撃った女、ヘレン・モアは1926年、ノース・カロライナ州の農業地帯の生まれ。リーよりも一回り上の姉さん女房ということになります。美人で早熟だったヘレンは13才で未婚の母となり翌年にはもう一人出産、子どもたちは祖父母が自分の子として育てました。

 やがて、ヘレンはウィルミントンという都市で知り合った22才年上の男性と17才で結婚。夫はNY出身で密造酒売買に携わり、たいそう羽振りのいい結婚生活を送った。しかし、わずか2年後、夫は溺死体となり、ヘレンは19才の若さで未亡人となります。NYから夫の身内がやって来て、ヘレンをNYに連れ帰りましたが、自分の居場所はなかった。大都会で、頼る人もなく、職能もなく、黒人で、若く美しい女の子が、手っ取り早くお金を稼ぐには、夜の世界に行くしかない。モーガンの共演者ビリー・ハートは、ヘレンが娼婦だったとはっきり証言しています。同時に彼女は麻薬の運び屋もやっていた。玄人であり麻薬中毒でない黒人は、その世界では” Hip Square”と呼ばれ、商品の薬に手を付けず、女だから怪しまれることも少なかった。ドラッグの取引は、たいていハーレムのアフターアワーズのクラブで行われ、ジャズ・ミュージシャンとの付き合いも、ドラッグの売人達を通じて始まりました。特に親しかったのが、その頃ハーレムで弾き語りをしていたエッタ・ジョーンズで、ヘレンが殺人罪で告発された時も、彼女は奔走してくれました。

 ヘレンはハードバップを演奏するジャズメン達が、非常に知的で教養があることに驚きます。それにもかかわらず、彼らが白人から二重三重に搾取され、白人客しか入れない場所で演奏をしなければ生きていけない。深い人種の悩みを抱え、真面目に音楽を追求しながらも、麻薬に耽溺していく姿が不憫でたまらなくなります。

 彼らが悩みを忘れられるのは、演奏に没頭できるバンドスタンドだけ。そんな若いミュージシャン達の姿は、少女時代に産んだ子供達には叶わなかった母性本能の対象となり、時にはそれが男と女の愛になりました。

 彼女のアパートは”バードランド”のすぐそばで、ジャズメン達が仕事を終えて立ち寄るには絶好の場所、まともな食事を摂る機会のない彼らはヘレンのアパートに行けば、温かくおいしい手料理をごちそうしてもらえた。そこで麻薬をやるのだけは厳禁。若手バッパー達は53丁目の彼女のアパートを”ヘレンズ・プレイス”に呼び、ヘレンはみんなに姉御として慕われるようになります。ほとんどのミュージシャン達にとって彼女は「女性」ではなく、面倒見が良く、何でも相談できる「おばちゃん」だったんです。

<男の事情>

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 リー・モーガンが初めてヘレンのアパートを訪れたのは1960年代の始め、やっぱり真冬で、その頃ヘレンと男女の関係にあったトロンボーン奏者のベニー・グリーンが連れてきた。寒い寒いNYの冬にやってきたモーガンはジャケットしか着ていなかった。おまけに仕事帰りなのに、楽器のケースも抱えていない。

「ボクちゃん、今夜は零度よ!コートはどうしたの?」

 クスリを買うためにコートもトランペットも質入れしてしまっていたのだ。

「なんてことするの!金槌持たずに仕事に行く大工なんていないわ!それじゃ、コートとトランペットを出してあげるから一緒に質屋に行きましょう。でもお金はあげないわよ。お金を渡すと、あんたはまっ先にクスリを買っちゃうでしょ!」

 あれこれ母親のように面倒を見てくれる年上のお姐さん、モーガンは年上の彼女と一緒に居ると、とても安心できて、音楽に専念できた。一文無しになっても住む場所はあるし、食事も作ってくれる。当時のモーガンは、麻薬のせいで、たびたび仕事をすっぽかすという悪評が立ち、ギグが激減していたんです。

 或る時、先輩ミュージシャンが急死し追悼演奏を頼まれたモーガンは「悪いけど行けない。」と断ろうとしていた。理由は黒い革靴まで質入れしてしまい、履くものがなかったから・・・

 情けなくて、見ちゃいられない!

 ヘレンは彼のために知り合いのクラブに電話をして仕事を取り始めた。

「私が責任を持ってギグに行かせます。もし来なかったら私が弁償するからブッキングしてよ。」と保証人になった。

 地方のクラブに行くときは、交通の手配も怠りなく、隅々まで気を配ってあげていた。モーガンは、ヘロインを辞める薬物治療を始め、だんだんと立ち直っていきました。

 「ヘレンは大した女だ。ボロボロのモーガンがまともになってきたじゃないか!」 仲間は、ヘレンを敬愛していた。

 でも彼女がどれほど努力しても、モーガンの麻薬癖だけは断ち切ることだけはできなかった。一旦ヘロインから遠ざかり、生活が安定するにつれ、今度は、比較的依存性が少ないと言われる高級薬物、コカインに手を出すようになります。そして、ヘレンも一緒にコカインを吸うようになります。

(続く)

Moanin’ と軍師ベニー・ゴルソン

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 <軍師ゴルソン>

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  みなさんご存知のように、”Moanin'”はメッセンジャーズの名ピアニスト、ボビー・ティモンズ作曲。でもテナー奏者、ベニー・ゴルソンの周到なプロジェクトなしに、名曲の誕生はなかった。ゴルソンがメッセンジャーズに入団したのは、レギュラー・メンバーのジャッキー・マクリーンがキャバレー・カードを剥奪され登録抹消になった事がきっかけでした。急遽代役に駆りだされ、なし崩し的にレギュラー登録されたんです。
 ゴルソンがアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズに在籍したのは、1958年5月頃から半年余りの短期間でしたが、メッセンジャーズへの貢献は計り知れないものがあります。 

 その時、ゴルソン29才、浮き沈みの激しい演奏家の生活を捨て、作編曲に専業しようと真剣に考えていた。若い時から憧れていたバップのメジャー・リーグ、ディジー・ガレスピー楽団に入団を果たし、理想的な音楽の場で充実したジャズライフを送っていたのもつかの間、ローマ楽旅のトラブルで楽団は破産し解散。最高の音楽を提供しても、儲かるどころか、むしろ逆なんだ…夢破れ、興行の世界に幻滅し、比較的安定した道を選ぼうとしていた矢先、ガレスピーの推薦でブレイキーに駆り出された。場所はイースト・ヴィレッジのクラブ《カフェ・ボヘミア》、ゴルソンは一晩だけトラのつもりでメッセンジャーズのギグに参加したのですが、アート・ブレイキーのドラムは余りにも素晴らしかった!一緒に演っていてシビれました。それじゃ、もう一週間やりましょう…そしてツアーに数週間、すっかりブレイキーのビートに魅入られ、気付いた時にはレギュラーになっていた。
 ホレス・シルバー(p)や、ケニー・ド-ハム(tp)で有名だったメッセンジャーズもメンバーが入れ替わり、この頃も確かに人気はありましたが、演奏もステージ・マナ―もガレスピー楽団で躾けられたゴルソンにすればB級もいいところ、本番中にピアニストが居眠りする、演奏時間になってもブレイキーは帰って来ない、当然仕事はジリ貧という体たらく。その惨状を見たゴルソンのやる気にスイッチが入った!ガレスピー楽団の敗北を繰り返してはならないという気持ちだったのかも知れません。この瞬間、ゴルソンは軍師になった!バンド再生プロジェクトを推進します。

<再生プロジェクト企画書>

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 当時のゴルソンはNYでは無名もいいところ、そのNobodyがトップ・ドラマー、アート・ブレイキーに意見した。
 「あなたは凄いドラマーです!現状のギャラはあなたの価値を考えるとタダ同然じゃないか!あなたのような才能の持ち主は大金持ちにならなくちゃいけません。新しいバンドを作りましょう!」etc.etc…いわばプレゼン、もう止まらない!自分でも呆れるほど色々アイデアを出した。最初は乗り気でなかったブレイキーも、ゴルソンの舌鋒になんとなくその気になり、メッセンジャーズ再生プロジェクトが始まったのは1958年5月のことです。ゴルソンのアイデアは次のとおり。

1. 人事:必須事項:メンバー総入れ替えだ!
 旧メンバーに対する解雇通告は、ブレイキーが「クビなんて言えない」というのでゴルソンが首切り役、同時に新メンバーの提案もした。
 新登録候補は、ゴルソンが実力をよく知る同郷フィラデルフィア出身者ばかり、ピッツバーグ出身のブレイキーは当初「ピッツバーグは俺だけかい(怒)」と難色を示しましたが、「大丈夫、大丈夫!ピッツバーグもフィラデルフィアも同じペンシルヴァニア州じゃないですか。」と丸め込まれちゃった。
 フィラデルフィア出身で固めた新レギュラーはフロントに19才の新人トランペット奏者、リー・モーガン、チェット・ベイカーのピアニストだったボビー・ティモンズ、そしてベーシストはB.B.キングと演っていたジミー・メリットに決定!フィラデルフィア出身者で固めることは、規律を守るためにもゴルソンの音楽プロジェクトにも必要な案件だった。最初は殆どの項目に難色を示したブレイキーを、ゴルソンは理詰めでどんどん説得して行きました。

2. 経理は一流バンドらしく。
 ゴルソンは、エージェントに掛け合い、これまで日銭勘定だったツアーの経費やメンバーへのギャラを、月極の一括精算とし、帳簿を自ら管理することにした。それによって明細がはっきりし、仕事の計画を立てやすくしたのだ。

3. 就業規定:メッセンジャーたる者、紳士であれ。
 ゴルソンはメッセンジャーズのメンバーに就業規則を作った。遅れない、休まない、ステージで眠らない…などなど、これによって、ステージマナーも驚異的に改善されたことは言うまでもなく、当時のDVD映像でも、メンバーの立ち位置までしっかり配慮が行き届いていたのが判ります。ただし親分ブレイキーの遅刻癖は、ゴルソンがいつも見張っていなければならなかったとか。

4. ユニフォーム着用
 ゴルソンはブレイキーに新ユニフォームの着用を提案。お客は演奏を聴く前に見た目で判断する。ビシっとクールに決めようぜと、難色を示すブレイキーを説得。恐らくホレス・シルヴァー時代と同様に、経費はパノニカが援助してくれたのではと推測されます。

5 .コンテンツ・リニューアル:オール新曲でレコーディングが目標。
 ゴルソンの作編曲者としての叡智がここで最も発揮されます。新バンドの為に書き下ろしたのが” Along Came Betty”と “Are You Real”今もジャズ・スタンダードとして演奏されている名曲。それに加えてブレイキーの魅力が最大限に爆発する”Blues March”を一晩で書き上げた。例によってブレイキーは「俺はバッパー!ニューオリンズの葬式じゃあるまいし、マーチなんて恥ずかしくて出来るかよ。ウケるわけない!」の一点張り。
「ダメ元で一度だけ演ってみて。」と小さなクラブで演奏したら、店が地響するほどお客さんが熱狂し、その夜から半世紀に渡りブレイキーの十八番は”ブルース・マーチ”になった。
 軍師ゴルソンは、ずらりと揃った新レパートリーを眺め、次の一手を案じる。もうひとつの決め球を…

<Moanin’登場>

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 その年の夏、ボビー・ティモンズがアドリブの中でよく使う、いわゆる「仕込み」フレーズ、ファンキーな8小節がゴルソンの心を捉えた。ある日、リハーサルの合間にゴルソンはティモンズに頼んだ。
 「ボビー、いつものフレーズを弾いてみてくれない?それそれ!そこにサビを付けて曲にしてくれよ。」
 「ベニー、これはただのフレーズで、曲にするほど大したものじゃないし、サビなんて思いつかないよ…」
 「ステージなら、アドリブでこのフレーズから、サビへ行ってるじゃないかよ。それなのに、ここじゃできないっちゅうの!?」
ボビーはしばらくしてサビを作って弾いてみせた。
 「これはどう?」
 「アカン!だめ、だめ、元のフレーズみたいにファンキーでないと…」
 「そんならベニーが作曲すりゃいいじゃん。」
 「アカン!お前の曲だ、サビも創らなアカン!ただし最初の8小節みたいにファンキーなブリッジにしてくれ。」
 しばらくして、ボビーは黒っぽくでかっこいいブリッジを作りあげた。よし!新生メッセンジャーズの決め球だ!ゴルソンは迷わずこの曲に”Moanin'”と名づけた。「嘆き」や「ぼやき」それに「うめき」、ときには「喘ぎ」だったり、なんとも日本語にしにくいけれど、曲を聞けば意味カテゴリーが理解できるほどぴったりした名前ですよね!

<彼を知り己を知れば…>

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 さて、新曲が揃った。お次はレコーディングだ。「ブレイキーはもう十分録音したから…」と渋るブルーノート・レコードのアルフレッド・ライオンに、半ば強引にライブを聴かせて「OK」を取り付けた。10月30日、ルディ・ヴァン・ゲルダー・スタジオで録音。選曲も、ブレイキーの顔が強烈なインパクトのあるジャケットも、『Moanin’』というアルバム・タイトルも、全部がゴルソンのアイデアだった。その結果、『Moanin’』(BLUE NOTE 4003)は世界中で大ヒット!たった一晩の代役として演奏してから5ヶ月後のことでした。

 軍師ゴルソンは、全身全霊でバンドを立て直し、作編曲全てお膳立てしておきながら、新作アルバムのタイトル・チューンは自作にしなかった!なんてクールなんでしょう!並の人間なら、まして自己主張の強いミュージシャンなら尚更、『Blues March』や『Along Came Betty』と自作をタイトルに持ってきたはず。ところが彼はバンドが売れることを第一義とし、どの曲にすべきかを冷静に見極め、ティモンズ名義の『Moanin’』をアルバム名にしたのだった。

 正に孫子の兵法=「敵を知り己を知れば百戦殆うからず」を実践できる稀有なミュージシャン!翌月、録音と平行してゴルソンがエージェントにお膳立てさせた1ヶ月に渡るヨーロッパ公演も大成功を収めた。

 でも戦を終えた軍師に安住はない。 帰国して3ヶ月後、ウェイン・ショーターを後任に決めて円満退団、潔く自らの道を進んだ。

 後年、ゴルソンはアート・ブレイキー70才のバースデー・コンサートで共演、その時ブレイキーは、ゴルソンをこう紹介しました。

「メッセンジャーズを始動させたベニー・ゴルソンに拍手を!」

 その頃には ”Moanin'”の作者ボビー・ティモンズも、リー・モーガンも生き急ぎ、とうにこの世を去っていました。

 参考文献

 Smithsonian Jazz Oral History Program NEA Jazz Master interview:Benny Golson

 Cats of Any Color: Jazz Black and White Gene Lees 著/ Oxford University Press刊

日系Lee Morgan夫人のこと

lee-morgan-800.jpg Edward Lee Morgan (1938- 1972)

 Kiko Yamamotoという名の日系アメリカ人女性がいる。1960年代、雑誌「プレイボーイ」のバニー・ガール特集の他にも彼女は何度か日米のメディアに紹介されている。若手トップ・ジャズ・ミュージシャン、リー・モーガンの妻となった日系人女性としてだった。

 Kiko Yamamotoは1940年頃、カリフォルニアの農場で生まれた。日系移民の両親は農業に従事していたが、第二次大戦中、敵性移民として財産を没収され強制収容所に送られた。山本家は差別の強い西海岸に懲りて、解放後は人種混合の文化を持つ大都会、シカゴに移っている。

 Kikoは美人の誉れ高く、10代でモデルにスカウトされ、着物(或いは着物っぽい)姿のダンス・ショーで人気を博したThe Keigo Imperial Dancersの踊り子や、プレイボーイ・クラブのバニー・ガールとして、オリエンタルな魅力な発散した。 

wifw601262_313796235374376_2082014442_n.jpg ジャズ・ファンであったKikoのお気に入りはシカゴ界隈のジャズ・スポットで、ジャズメンが黒髪の美女を見過ごすはずはなかった。

 

 左の写真はスイング・ジャーナル(’61, 2月号)から(ブログ[雨の日にはジャズを聴きながら]より拝借しました。)。名前も「山本テイコ」と誤記されているし、その魅力が捉えられていないのが残念なのですが、女優の小池栄子さんのような人だったのかも知れません。

 モーガンとKikoの運命的な出会いは1959年の大晦日の夜、シカゴのサザランド・ホテルのロビーだった。モーガンはジャズ・メッセンジャーズとヨーロッパ・ツアーから凱旋直後、リーガル・シアターでマイルズ・デイヴィスのバンドとダブル・ビル(!)で公演中。ホテルのパーティに来ていたKikoとすれ違いざまに、モーガンは「綺麗な娘だね!」とフランス語で声をかけた。数日後、同じホテルのラウンジで、モーガンとマイルズは、Kikoや仲間の女の子を誘って合コン、二人はたちまち恋に落ちた。年が明けて1月の中旬、再びメッセンジャーズでシカゴを訪れたモーガンとKikoは、何度かデートしただけで、お互いを伴侶と認め合い電撃婚約、まもなくイースト・ヴィレッジのモーガン宅で同居を始めことが、米国のアフリカ系女性誌、”Tan”に掲載されている。(’60, 8月号)

 44190011_m.jpg婚約時代にレコーディングされた『Here’s Lee Morgan』( VeeJay) では、哀しいはずの”I’m Fool to Want You”でさえも希望の星が輝くような演奏ぶりだ。結婚式を挙げたくても、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズのスケジュールはびっしり詰まっていて、5月末まで結婚式はたびたび延期された。NY市庁舎でようやく式を挙げたときには、ボビー・ティモンズ(p)が新郎の介添人を努め、出演中の”Birdland”で披露宴が行われた。ただしアフリカ系と日系の異なる人種の結婚式に、2人の両親は誰も立ち会っていない。

  (その頃は)亭主関白の国、日本文化をルーツを持つ新妻、Kikoの献身ぶりはジャズ界で前例のないことだった。

 「お風呂の湯加減はいかがですか?」「肩を揉みましょうか?」「お食事は?」・・・甲斐甲斐しく尽くすKikoの姿にブラック・コミュニティの友人はみんなぶっ飛んだといいます。

616M2XFPEKL.jpg 同年8月に録音された『A Night in Tunisia』(BlueNote)には、Kikoの旧姓”Yama”、そして2人が飼っていたプードルの名前”Kozo’s Waltz”(子犬→小僧のワルツ)をつけたオリジナル曲が収録されている。“Yama”の翳りある曲調は、この幸せは続かないかもしれないという不安の表れだったのかもしれない。

<ドリアン・グレイの肖像>

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 「私が白人だったら、リーは私と結婚しなかったでしょう。白人は彼をジャズと引き離そうとするでしょうから。彼は一流ジャズ・ミュージシャン!ジャズが彼の生きがいなんです。」 Tan誌のインタビューで新婦は語っている。ステージ上のモーガンには、パリのマダムもNYの女達も、みんな恋をした。22才の若い夫はユーモアと知性に溢れ、ちょっぴり尊大であっても、仕方ない。なんて素晴らしい夫だろう!オスカー・ワイルドの創った悪魔、ドリアン・グレイに恋をした貴婦人たちのように、愛する夫に秘密があるなんて夢にも思わなかったに違いない。

 誰だって結婚すれば「こんなはずじゃなかった・・・」というのはあるだろうが、彼らの場合はギャップが大きすぎたのだ。

 結婚してしばらくすると、Kikoは夫の収入が余りにも少ないのに驚いた。ほとんど休みなくツアーやクラブ・ギグがあって、財布にはお金がうなるほどあるはずなのに、彼のくれる生活費は余りに少ない。そうかと思えば、フィラデルフィア出身ミュージシャンの例に漏れず、高級車を買ったりするのに・・・

 そして夫はときどき姿を消すようになった。どこで何をしているかわからない。やがてモーガンがヘロインにどっぷりつかり、収入の大部分が闇社会へと蒸発していたことに気がつくが後の祭り。Kikoの貯金も吸い取られ、気がつけばその日暮らしも同然の状態で、モーガンは人前で彼女に暴力を振るうほど変わり果てていた。

 麻薬厳禁のディジー・ガレスピー楽団に在籍していたモーガンが、クスリをやるようになったのは、次のボス、アート・ブレイキーの影響と言われている。ブレイキーが歴代のメッセンジャーの中で最も気に入っていたのはモーガンがブレイキーを見習い、彼以上にドラッグに溺れたのはとても皮肉だ。やがて、モーガンのステージ・マナーは悪くなり、ボビー・ティモンズ(p)と共に、ギグをすっぽかし始める。

 2人が結婚した翌年、1961年8月、遂にブレイキーはモーガンを解雇しフレディ・ハバートと入れ替える。表向きは「独立のため」と退団と報じられたものの、当時のモーガンは長らく親しんだイースト・ヴィレッジのアパートの家賃を滞納し、なによりも大切なトランペットすら質入れしていた。

<ホームレス>

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 二人はイースト・ヴィレッジのアパートを追い出され、モーガンの故郷、フィラデルフィアの姉の家に身を寄せた。アーネスティン・モーガンはリーが子供の頃にトランペットを買い与えたお姉さん、可愛い弟の窮状を見かねて手を差し伸べたのだった。アーネスティンの幼い子どもたちは、黒髪が美しい東洋人の叔母になつき、しばらくは安住できると思った矢先のある日、モーガンは姉の家でヘロインを注射しているのを家族に見つかってしまう。幼い子どもたちの居る家庭で、モーガンは恩を仇で返すことになった。

 姉の家を退去した最後の手段として、モーガン夫妻は母を頼る。再起への援助を請うKikoに、姑は厳しかった。ネッティ・B・モーガンは、子供たちのために、リーの父親、オットーと長らく別居しながら重労働に耐えた苦労人だ。やっと出世した大事な息子がジャンキーに落ちぶれたとは、到底受け容れられないことだった。母の目には、全ての災いは、モデルかダンサーかしらないが、チャラチャラした東洋人の嫁のせいだと思ったのだろう。

 「Kiko、息子がこんなになったのはあんたの責任よ。嫁のあんたがしっかりしないからよ。息子がえらい目に合ってるときこそ助けるのが妻でしょう。なんでも職を見つけて働きなさい!」

 まだ21才のKikoには、ヘロイン中毒で暴力をふるう夫に仕える術も、姑に状況はそれほど生易しくないのだと説得する術もなく、シカゴの実家に帰る他はなかったのだった。

 リー・モーガンはKikoとの別れ話が出た頃に”Alimony”(別居手当)というタイトルの曲を作曲しているが録音はされていない。

 2人は正式に離婚せず、現在もモーガンの著作料は遺族であるKiko Morganに支払われているという。

<嫁にするなら日本人?>

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  この不幸な事件の後、ジャズメンの間で「結婚するなら日本人女性に限る。」という風潮があったと、よく耳にします。日本人妻はジャズ界ではCoolだったらしい。その理由はどうやら美貌ではなくて、”Patience(忍耐力)”。NYに居ると、この私ですら、「○○の奥さんがあんたみたいな人ならねえ・・・」と、的はずれな意見を何度か言われた。それは、Kikoさんの態度に感動したジャズメンが作り上げた幻想だったのかも・・・

 実際、メッセンジャーズのアート・ブレイキーやウェイン・ショーターが次々と、日系、あるいは日本人女性を娶り、ホレス・シルヴァーは、出光一族の出光真子さんの美しい着物姿を『Tokyo Blues』のジャケットに使い、伝記で彼女との淡いロマンスを嬉々として語っています。

 ディジー・ガレスピーやデューク・エリントンにも可愛がられた日系女性Kiko Morgan、日本女性と結婚することがCOOL! と思われたのは、Kikoさんが、リー・モーガンに尽くした証拠ではないだろうか?

 Kikoが去った後、廃人になりかけたモーガンは母親の希望どおり、しっかりものの年上の女性、ヘレンの支援でカムバックを遂げるが、彼女の銃弾に倒れ、34年間の人生を終えた。刑期を終えたヘレンの語るリー・モーガン像は、母と妻をごちゃまぜにしがちな日本人男性みたい。モーガン姓を終生名乗ったヘレン・モアのことも、いずれここに書いてみたいと思います。