コールマン・ホーキンスの肖像(2)

977.jpg  <生い立ち>

 

  ホーキンスは1904年、あるいはそれより数年前、ミズーリ州セント・ジョセフに、コーデリア・コールマンとウィル・ホーキンスの第二子として生れた。(第一子は女児で生後まもなく死亡。)「両親がヨーロッパでヴァカンスを過ごし、帰りの船の中で自分が生れた。」という話を、数々のインタビューで喜々として語っている。彼は人をかつぐ名人であり、伝説を作る名人でもあった。

 実のところ、彼の父親は電気工事の作業員であった。父は1920年代に事故死しているが、母親は学校教師で95歳まで長生きした。(祖母も104歳の長寿であった。) ホーキンスは5歳でピアノを始め、その後チェロを数年間学ぶ。テナー・サックスを与えられたのは9歳、13歳になると、もう心身ともに十分成長したことを確信した両親は、息子をシカゴへと送りだした。彼はこの大都会で、友人と同居し、高校に通った。

lg-louis-armstrong-and-king-oliver.jpg左:ルイ・アームストロング、右:キング・オリヴァー

 シカゴでは、キング・オリヴァー(tp)やルイ・アームストロング(tp)、ジミー・ヌーン(cl)を聴くことになる。高校卒業後、トペカ(カンザス州)のウォッシュバーン・カレッジに入学したと言うが、証拠はない。ホーキンスは、1921年にカンザス・シティの《12丁目劇場》に出演、そこでブルース歌手、マミー・スミスに見出される。彼女の伴奏者は、エリントン楽団のトランペット奏者、ババ・マイリーや、名マルチリード奏者、ガーヴィン・ブシェルなど、錚々たる顔ぶれであった。

 ブシェルはジャズ・ジャーナリスト、ナット・ヘントフのインタビューで、「12丁目劇場》に出演していた時にコールマン・ホーキンスと初めて出会った。」と証言している。

 ガーヴィン・ブシェル:オーケストラボックスにサックスを加えようってことになってね。だが、ホーキンスは、加入したサックスプレイヤーより、ずっと上だった。確かCメロディのサックスを吹いていたと思う。いずれにせよ、彼はまだほんの15歳くらいだった。我々が彼を巡業に連れて行く許可をもらおうと、セント・ジョセフのお袋さんの家を訪ねたら、こう言われたよ。

 『だめだめ!あの子はまだ、ほんの赤ん坊です。まだ15歳なんですからね!』

 若い頃から、途方も無い実力があった。ミス・ノートは全くなく、完璧な読譜力があった。あれから37年、。私しゃ彼が一音でもミスするのを、いまだかつて聞いた事がないよ。昔、サックスという楽器は、トランペットやクラリネットと同じような感覚で吹いていたもんだが、彼はそうじゃなかった。すでに、コード進行に添って吹くことも出来た。きっと、子供の時にピアノを習得していたからだ。」

fletcher_henderson_hawk.jpg 1922年、ホーキンスは、”メイミー・スミスのジャズ・ハウンズ”に入団、翌1923年、フレッチャー・ヘンダーソン楽団(左写真)に移籍、以後11年間在籍した。フレッチャー・ヘンダーソン楽団(パワフルでありながら、好不調の波があり、楽団としての鍛錬は欠けていた。)は、1930年代の殆ど全てのスイングバンドの手本であった。そして、この楽団は、当代一流のジャズ・ミュージシャン、ルイ・アームストロング(tp)、レックス・スチュワート(tp)、ロイ・エルドリッジ(tp)、ジョー・トーマス(tp)、ジミー・ハリソン(tb)、ベニー・モートン(tb)、J.C.ヒギンボサム(tb)ディッキー・ウエルズ(tb)、ケグ・ジョンソン(tb)、ベニー・カーター(as.tp)、ベン・ウェブスター(ts)、チュー・ベリー(ts)、ジョン・カービー(bs,tuba)、ウォルター・ジョンソン(ds)、シドニー・カットレット(ds)達を輩出した最高の学校でもあった。

<合理主義>

rex_stewart1.jpg 楽団の盟友、名トランペッター、レックス・スチュワートは著書『30年代のジャズの巨匠達』で、ホーキンスのことを回想している。

 「公演地に着くと、楽団のお決まりのメンバーで、こぞって街を見物することになっていた。とある町で、たまたまコールマンとデパートを見物に行ったことがある。すると彼は化粧品売り場で、大変高価な石鹸を半ダースも買った。ホークは『バーゲンで得だから、1年分の石鹸を買いだめした。』とのたまった。たった6個の石鹸だけで、どうやって1年持たせるのか?私はあきれ返った。ところが翌朝、ホテルの部屋でわけが判った。まず2枚の飾りの付いたきれいなタオルが出てくる。一枚は高級石鹸用、もう一枚は普通の石鹸用だった。この2枚はきっちりと区別してある。化粧用石鹸は1番タオルの隅に上品にこすりすけて、彼の顔や目の周りだけを洗うことになっていた。もう一方のタオルは、普通の石鹸を泡立てて、体を洗うことになっていた。」

 スチュワートは更に続ける。

 「Mr.サクソフォンのもう一つの顔は、倹約家の顔だ。だからと言って、ホークは決してしみったれた男ではない。用心深い人間だったのだ。彼が銀行預金への不信感を克服するまでは、常時$2,000、$3,000の現金をポケットに入れて歩きまわっていた!ある時は、夏のツアーの間に稼いだギャラを全部持ち歩いた。およそ$9000の大金だ。ある時、何かの事情で、ツアーの途中でギャラをもらえず立ち往生したたことがあったが、彼はポケットの中に蓄えた札束を見せて笑っていた。だが、例え自由の女神が、真昼のブルックリン・ブリッジで、ツイストを見せてあげると言ったとしても、彼は、25セント玉一枚すら浪費したことはなかった。」

 <花のヨーロッパ>

hawk_in_ch.jpg1937、於スイス、 Photograph by André Berner

 1934年、バンドリーダー、経営者であるフレッチャー・ヘンダーソンの無気力ぶりに辟易したホーキンスは、ヨーロッパの上流生活の噂に魅力を覚え、英国のバンドリーダー、ジャック・ヒルトンに電報を打った、すると、早速仕事のオファーが来た。楽団から6ヶ月の休暇をもらい渡欧したホーキンスは、結局5年間ヨーロッパに滞在する。恐らく、この時期がホーキンスの人生で最高の時期であった。

 彼は、ヨーロッパに初めて上陸した名ソロイストの一人として、行く先々で貴族の様に厚遇された。イングランド、ウエールズを旅した後、ヨーロッパ本土に腰を落ち着け、ベルギー、オランダ、スイス、デンマーク、フランスと各国で演奏活動を行った。同時に、英国、オランダ、フランス、ベルギーのミュージシャンと録音を行った。現地の共演者の中にはジャンゴ・ラインハルトやステファン・グラッペリが、アメリカ人には、ベニー・カーター(as, tp その他編何でも)、トミー・ベンフォード(ds)、アーサー・ブリッグス(tp)がいた。

11576.jpg クリス・ゴダード著『ジャズ・アウェイ・ホーム』で、ブリッグスが見たホーキンスのパリ生活が紹介されている。

 「彼は本当に素晴らしい人だった。あれほどアルコールを大量に飲める人間がいる事も信じ難いが、あれほど飲んでもほとんど酔わないというのも、同じほど信じ難いことだった。・・・彼は毎日ブランデーを一瓶空にしていた。・・・よく昼下がりのダンスパーティにゲストとしてフィーチャーされたが、3曲ほど演って、あとはバカラ部屋でくつろぐのが彼の常だった。といっても賭け事はしない。バーでひたすら飲んでいた。私が演奏してくれるよう使いを遣ると、彼はすぐに帰ってきた。練習をしているのは見た事がない。・・・とにかく無口で、抜群に趣味が良かった。一足のソックスに大枚$20使っていたのを見たこともある。美しいシャツやシルクの小物に目がなく、王子のようにお洒落な格好をしていた。彼にとってヨーロッパは安息の土地だったのではなかろうか。」(つづく)0cce7dc63531437cbe816d5dc8e934f5.jpg

 

コールマン・ホーキンスの肖像(1)

tommy_flanagan-coleman_hawkins-major_holley-eddie_locke.jpg  今季の 冬休み(あんまりないけど・・・)の勝手な課題は、月例講座「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」で辿り着いた、トミー・フラナガン至福のコールマン・ホーキンス共演時代に因んで、フラナガンと親しかったNewYorker誌のコラムニスト、ホイットニー・バリエットが書いたコールマン・ホーキンス論にしました。ロリンズもトレーンも、この巨人が敷いたレールの上を突っ走った。「テナーサックスの父」の肖像を読み解くことにします。

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 =Coleman Hawkins=
American MusiciansⅡ(1996)より
ホイットニー・バリエット著

 <二人の帝王> 

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 テナー・サックスの世界には二人の皇帝がいる。それは、コールマン・ホーキンスとレスター・ヤングだ。彼らはそれぞれ、「帝王」の名に相応しく、独自の音楽を発明した

 二人の個性は全く対照的である。ホーキンスの即興演奏は垂直的だ。彼は、バックミラーでメロディを確かめながら、”コード・チェンジというハイウエイをひた走った。一方、レスター・ヤングは水平的だ。彼はメロディを小脇にかかえ、燃えたぎるコード・チェンジの熱を鎮めるような演奏をした。ホーキンスは、豊満にして包み込まれるような音色トーン、ヤングは、遠くから聴こえる浮揚感のあるサウンドが身上。ホーキンスがコーラス毎に繰りだす音の量は、太陽も覆い隠すほどだが、ヤングは注意深く選りすぐった音を、光や空気にかざしては、きらめかせて見せた。ホーキンスは猛獣のごとく、激しくビートに挑みかかった、ヤングは、ビートに牽引されているようであった。ホーキンスはハンサムで逞しく颯爽とし、ヤングは細身で一風変わった神秘的な風貌だ。ホーキンスの声は良く響き、話し方は早口だがはっきりとしていた。ヤングの方は静かな声で、独特のおもしろい詩的な言葉を使い、略語だらけの判りにくい話し方だった。眺めていると、ホーキンスの方は、だんだんと逞しく大きくなるように見え、ヤングは今にも透明になって消えてしまうようだった。

 ホーキンスは結果的に酒で身を滅ぼした。ヤングも、その点では同じで、一足早く他界している。(ホーキンスは1969年没、享年64歳、ヤングは1959年没、享年49歳)そして、どちらもベスト・ドレッサーであった。ホーキンスはファッション雑誌から抜け出たかのようにダンディであった。両者とも音楽に人生を捧げ燃え尽き、音楽的に多くの子孫を遺した。

<テナー・サックスの父>

ColemanHawkins2.jpg(Coleman Hawkins 1904-69) 

 17世紀、近代小説を発明した英国の文学者、サミュエル・リチャードソンと同じ意味に於いて、ホーキンスはテナー・サックスを発明した。それまで誤用され続けた「テナー・サックス」という楽器を、初めて正しく演奏したのである。テナー・サックスは、クラシックやマーチング・バンドの世界に於いて、チューバ同様、コミカルな役割を受持ち、金管楽器と木管楽器の混合種の様に見做されていた。ホーキンスといえども、この楽器の可能性を完璧に理解し開花させるのに、十年の歳月を要した。彼はこの楽器に、従来では考えられない程幅広のマウスピースと、硬いリードを使う事を思いつき、1933年には、過去に誰も聴いた事のないようなサックスの音色を創造していたのである。(無論、彼以前にもサックスの名手は存在したが、先人達の音色は軽く、終始流麗なグリッサンドとアルペッジオの華麗な表現に留まっていた。) 彼の音色には、チェロやコントラ・アルトの歌手のように、とげのない丸みがある。その音色を聴くと、暖炉の灯に照らしだされた赤褐色の情景、雄大な土地、にれの大樹といったイメージが浮かぶ。非常に無口な人ではあったが、一旦、口を開くと、その話しぶりは、演奏と同じく、沢山の言葉を繰り出して弾みがつく。’50年代にリヴァーサイド・レコード“で、彼の自伝的レコーディングが制作されており、その中で彼自身は自分のスタイルについて論じている。 

 ホーキンス: 「色々な音楽との出会いによって私のスタイルは自然と変化した。音楽家は誰でも、自分の聴いたものが演奏に現れる。わざとではなく、自然にそうなっただけだ。そうするために練習する必要はないし、そんな練習をしたこともない。いまだかつて、ある特定のスタイルを習得するための練習は、生まれてこのかたやったことはない。演奏を続けているうちに、音楽的方向が一変したり、同じ曲でも、1年前とは全く違った演り方をしているのに気が付く。それは、私が色々な音楽を聴く事によって生れた自然の結果なのだ。つまりね、私は何かを聴くと、それを覚えてしまうんだよ。次の夜になると、もう忘れてしまっているんだが、6ヵ月後、ふいにそれが自分のプレイに顔を出す。そういうことが良く起こる。それで、常にスタイルが変わっていく。

 もうひとつ私のよくする事を話そうか。これは私だけのやり方で、他の誰もやっていない事だ。

 フレッチャー・ヘンダーソン楽団時代には、しょっちゅうツアーをした。私は、行く先々で、必ず自分の耳に、なにか新しいものを聴かせてやる事にしていた。その土地の小さなクラブや、生演奏のある店に行くんだ。小さな街に公演に行くと、私はよく、そんな場所に出かけてプレイした。この習慣は絶対止めない。今も同じ事をやっている。何処に行っても、その土地の音楽は、どんなものであろうと聴いてみることにしている。」

 そして、同じリヴァーサイドの録音で、彼は、NYという土地が、地方から出てきたばかりのミュージシャンに与える影響について語っている。

 「NYという所は、よその土地からぽっと出てきたばかりの者なら、誰であろうと、最初は、おかしな演奏に聴こえてしまう土地だ。、出身はどこであれ、初めてNYに来ると、こてんぱんにされる事を覚悟しなくてはいけない。毎回さんざんな目に合わされる。だから、実際にこっちに来ると、一から勉強だ。失敗して一旦故郷に帰るもよし、腕を磨き直し、もう一度NYに来て勝負すれば、今度は大丈夫だ。あるいはこっちに居残り、頑張って勉強して、うまくなればいい。」

  ホーキンスは早足でさっさと歩いた。背筋をピンと伸ばし、「会議がもう始まる!」という雰囲気であった。余り笑わないし、決して愛想は良くない。寡黙な雰囲気に包まれている。だが、寡黙な人は、往々にして腕白小僧のような素顔を隠していたりする。ホーキンスも、親しい友人には、ジョークを飛ばすのが大好きだったし、スピード運転を好んだ。友人であったトロンボーン奏者、サンディ・ウィリアムズはスタンリー・ダンスの著書”The World of Swing”でダンスにこう語っている。

chrysler-imperial-1948-9.jpg 「彼とウォルター・ジョンソン(ds)と私の三人でフィラデルフィアからNYまでドライブした事を思い出すなあ。彼はインペリアルの新車を手に入れたばかりだった。全速で長距離つっぱしろうという事になり、彼は時速103マイル(165km/h)でぶっ飛ばした。私は時速100マイル以上を体験したのは生れて初めてだった。だが、ホークの運転はうまかったよ。

『俺はまだ死にたくないっ!』と言ったら、すぐ言い返してきたもんだ。

『一体何言ってんだよ?心配するなよ。』ってね。」 

 (つづく)

トリビュートの前に:デトロイト・ピアノの系譜

detroit_pianists.jpg左からサー・ローランド・ハナ、トミー・フラナガン、バリー・ハリス

  トミー・フラナガンを生んだデトロイトは、ご存知のように自動車産業と命運を共にしてきました。20世紀までは函館市と同じ人口(28万人)の中都市に、南部の農場で働いていた多くのアフリカ系アメリカ人が、新天地を求め、大移動し、フラナガンが生まれた1930年代には150万人都市に。自動車産業の栄枯盛衰と、ジャズの流行は同じ歩調で、”ブルーバード・イン”が隆盛を極めた’50年代中期には、全米第5位の大都市に成長していました。

 都市の急速な発展は、激しい人種間の軋轢を生む一方、この都市は、早くから公立学校の人種混合制度を採用し、才能ある黒人師弟に手厚い音楽教育を施した。フラナガンが街のトップ・ピアニストとして名を馳せた頃には、”ワールド・ステージ”という会員数5千人を誇るジャズ・ソサエティが存在し、地元の若手と、全米に知名度を持つミュージシャンを組み合わせるコンサートを定期的に開催していた。当時まだ前例のなかったジャズ・ソサエティ活動の先頭に立っていた学生がケニー・バレルです。

 デトロイトには黒人コミュニティが積極的にジャズを応援するムードがありました。高級ナイトクラブから、大人だけが朝まで楽しむアフターアワーズの店、「ブラック&タン」と呼ばれる人種混合クラブ、バンドも客も未成年オンリーの定例ダンスパーティまで、パラダイス・ヴァレーから郊外まで、デトロイトにはジャズが溢れ、どの家庭にもピアノがあった。ミュージシャンを目指す子供は、放課後になると、自宅に仲間を集めて盛んにジャムセッションを開催し、子どもたちは、その家の家族と一緒に夕食を御馳走になる。当時のデトロイトの黒人社会はそんな状況であったのだそうです。

<デトロイトの水は甘いか?>

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 日本では、トミー・フラナガン、サー・ローランド・ハナ、バリー・ハリスの3人を、「デトロイト三羽ガラス」 とひとくくりにし、米国では、この3人にハンク・ジョーンズを加えて「デトロイト派(Detroit piano school)」としています。デトロイト派と言っても、それぞれに独自のスタイルとアプローチがありますし、実のところ、ハンクさんは、デトロイト近郊のポンティアック出身、他の3人より10才以上年上で、三羽ガラスが青年になる頃にはとっくに故郷を離れていた。ですから、必ずしも「デトロイトが育てた巨匠」ではないのですが、やはり、似た味わいを感じます。

 その味わいは、寺井尚之の言葉を借りれば「懐石料理」。スイングからバップへと発展したブラック・ミュージックの潮流をしっかり身につけた者だけが備える品格と洗練、美しいピアノ・タッチと完璧なペダル使い、流麗なテクニック、さりげない転調やハーモニーのセンスなどなど・・・

 ピアノを弾けない素人の私にも、一番わかり易いデトロイト派の特徴は、どれほどオーケストラ的なサウンドを鍵盤から発散している時でも、小柄なハナさんが必要に迫られて椅子の上を牛若丸みたいに飛ぶ、という事以外には、大仰なジェスチャーがないことかな?

 或るとき、「何故デトロイトのピアニストは洗練されているのか?」 と質問され、フラナガンは独特のユーモアで答えた。

「その原因はデトロイトの水だ。」

the-band-don-redman-built.jpg  フラナガン達が生まれた1930年前後、すでにデトロイトには実力のあるミュージシャンがひしめき合っていました。その中には例えば”マッキニー・コットン・ピッカーズ”のようにNYに進出し、ハーレム・ルネサンスの一員となったミュージシャンも居る一方で、録音が現存しないため、忘れられた天才達も居ます。ベニー・グッドマン楽団で世界的な名声を得たテディ・ウイルソンも、フラナガンが赤ん坊の頃はデトロイトで活動していました。

 アート・テイタムやバド・パウエルと言ったジャズ史に残る人々と並んで、地元の先輩ミュージシャンがデトロイト的なアプローチの源流となったことは、想像に難くありません。

<テクニックとテイスト>

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1961-weaver-of-dreams-kenny-burrell-columbia-lp-cs-85033.jpg トミー・フラナガンと親友のケニー・バレルは十代の頃、バレルがヴォーカルとギターを担当、ベーシストを加え、ナット・キング・コール・スタイルのトリオを組んでいたというのは有名です。バレル名義の『Weaver of Dreams』には、その当時の演奏が偲ばれます。フラナガン少年にとって、憧れのテイタムは、余りにスケールが大きすぎて近寄りがたい。でも、キング・コールの洒脱なピアノ・スタイルは、ハンク・ジョーンズやテディ・ウイルソンと同様、「より現実的な目標」だった、というのですから恐ろしい!

 ただし、その発想はフラナガンにとって極めて自然なものだった。テイタム―キング・コールと若いフラナガンを結ぶ線上には、もう一人、フラナガン達デトロイト派の源流なる巨匠の存在がありました。彼の名は”ウィリーA”ことウィリー・アンダーソンと言います。

 トミー・フラナガンはウィリー・アンダーソンに受けた影響を、様々なインタビューの場で繰り返し語っています。

 「・・・デトロイトの街にも、手本となるアーティストが沢山いた。その好例がウィリー・アンダーソンという人だ。独学の音楽家で、非の打ち所のないテクニックと趣味の良さがあった。彼のスタイルはテイタムとナット・コールの系統で、ピアノ+ギター+ベースでナット・コール・スタイルのトリオを率いていた。ケニー・バレルの兄さんが、そのグループのギタリストだった。なかなか良いギタリストだったよ。ビリー・バレルという名前だ。(訳注:ビリーはフォードに勤務する傍ら音楽活動をし、プロに転向することはなかった。)

 ・・・それは’40年代の始めで、私達が12か13才の頃、ちょどケニーと知り合った頃だ。アンダーソンのトリオを聴き、練習しているのを見て、色々勉強した。私達はナット・コールのレコードを全部持っていたし、それらと、彼らのスタイルはとても近かった。実際、ウィリー・アンダーソンはナット・コールのほぼ全レパートリーをカヴァーしていた。とはいえ、単なるモノマネではなく、しっかり自分の個性を持っていた。テイタムやナット・コールから、技術的なアイデアを吸収した上で、自分自身のかたちを作っていた。ほんとうに素晴らしい音楽家だった!」(WKCRラジオ・インタビュー ’94)

<伝説のピアニスト、ウィリー・アンダーソン>

young_burrell_willie_anderson_papa_jo.jpgケニー・バレル(g)、ウィリー・アンダーソン(p)、ジョー・ジョーンズ(ds)(’46) photo courtesy of “Before Motown”

  アンダーソンは、終生デトロイトで活動したピアニストだ。年齢的には、ハンク・ジョーンズとフラナガンのちょうど中間の1924年生まれで、中退したデトロイト市立ミラー高校の同級にラッキー・トンプソン、ミルト・ジャクソンがいる。この時代までの多くの天才と同じように、ピアノだけでなく、ベース、トランペット・・・とにかくどんな楽器でも一旦手にすれば、上手に(!)弾きこなすことが出来た。癌を患い47才で早逝しており、音質の粗悪なプライベート録音しか残っていない、私達には幻のピアニストです。

 そのスタイルは「アート・テイタムの饒舌さと、ナット・キング・コールの洒脱さ、エロール・ガーナーのスイング感を併せ持つ」と、当時の演奏を知るミュージシャンは口々に語る。フラナガンの証言通り、’40年代初めからキング・コール・スタイルのバンドを組み、途中からヴァイブのミルト・ジャクソンが参加して”The Four Sharps(ザ・フォー・シャープス)”というバンド名で人気を博しました。

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The Four Sharps (撮影年’44or ’45) from Detroit Music History
ミルト・ジャクソン(vib),アンダーソン(p)、ミラード・グローヴァー(b)、エミット・スレイ(g)

 当然、NYからやってくる一流ミュージシャンやプロデューサーはアンダーソンをスカウトしようと躍起になった。ベニー・グッドマンは二度も自分の楽団に勧誘し、彼のプロデューサー、ジョン・ハモンドは、’45年、エスカイヤ誌の”All American Jazz Band”のピアノ部門に彼をノミネートした。
 デトロイト派と呼ばれる4人のピアニスト全員を代り代りにレギュラーとして擁したコールマン・ホーキンスも、(当然ながら)彼のプレイをとても気に入って、NYに一緒に来るよう誘った。そして、ディジー・ガレスピーは単身デトロイトにやってきて、リハなしで”フォー・シャープス“と共演している。どんなに速く複雑なバップ・チューンでもピリっとも狂わずコンピングする彼らに、ディジーはめまいを覚えるほどぶっ飛んだ。このリーダーを、なんとかNYに連れて帰りたい!でもやっぱりアンダーソンは首を縦に振らなかった。結局ガレスピーは、ヴァイブでもピアノでも仕事ができるミルト・ジャクソンを連れて行ったので、フォー・シャープス“は解散、後に、ケニー・バレルがこのバンド名を継承している

willie_emitt.jpg アンダーソンはたびたびレコーディングのオファーを受けたのですが、制作会社が弱小で、録音セッション自体がボツになったり、リリースまでに会社が倒産したり、満足な音源がありません。もしも彼が、グッドマン達についてメジャーになっていれば、今頃ジャズ史は変わっていたかも・・・

 フラナガンはアンダーソンが地元に留まった理由を、「譜面が読めないコンプレックスのため」と推測している。そして、「白人音楽の呪縛から解放されているわけだから、譜面が読めないのは決して恥ずかしいことではないのに。」と深遠なことを言っています。

 ケニー・バレルを始め多くのデトロイト・ミュージシャンはアンダーソンの性格について異口同音にこう語る。「非常に無口で内向的だが、内に激しい情熱を秘めていて、そのプレイは饒舌そのもの。仲間に対しては、心の広い優しい人だった。」

 トミーと似てる!!フラナガンは、ウィリー・アンダーソンを最も身近な手本として、テクニックと感情をコントロールする術を身に付けたのかもしれません。

 第27回 トミー・フラナガン・トリビュート・コンサートは11月28日(土)、皆様のご来場をお待ちしています!

tribute_tommy_flanagan_27th_n.jpg

参考資料: Jazz Lives (Michel Ullman著) New Republic Books刊

Before Motown :A History of Jazz in Detroit, 1920-60
(Lars Bjorn. Jim Gallert共著)
University of Michigan Press刊

Detroit Music History

Stanley Cowell 新譜『Juneteenth』

 

 juneteenth copie.jpg 先日ご紹介したスタンリー・カウエルの最新ソロ・アルバム『Junettenth』、澤野工房さんより発売中です。

 ライナー・ノートは、ファンのひとりとして、不肖私が書かせていただきました。

 この間、自分の書いたものを英語にしてスタンリー・カウエルに読んでもらったら、「よっしゃ、これでええ!」のお墨付き貰ったので、改めてご報告。

 それはどうでもいいけど、内容はほんとうに素晴らしいです!

 本物のピアノの音をCDで聴いてみたいすべての皆様にお勧めいたします。

 お求めは澤野工房さんのHPよりどうぞ!(ライナーノートも読めます。)

 

帰ってきた巨匠:スタンリー・カウエル

SCN_0001.jpg    スタンリー・カウエルさんを初めて生で観たのは’83年、念願のThe Heath Brothersのコンサートを開催したときです。ジミー、パーシー、アルバート”ツゥティ”ヒースの超ビッグな三兄弟とピアノにカウエルさんというカルテット編成でした。『幻想組曲』や「新主流派」のイメージで捉えていたカウエルさんをフィーチュアしたナンバーは、意外にもバップの王道、バド・パウエルの”Parisian Thoroughfare”だった!そのプレイの凄かったこと!威風堂々、真っ向勝負の弾丸スピードで悠然とスイングするカウエルさんは、しっかりとジャズの伝統を踏まえたミュージシャンだった!演奏中、私の口はポカ~ンと開きっぱなしだった。 

「黒人文化伝統の10thヴォイシングを基本とした奏法を継承する最高のピアニストや!」 寺井尚之はカウエルさんのプレイに心酔、二人は親交を深め、何度もOverSeasカウエルさんのライブをしました。(上の写真は’89、大阪の成田不動尊で)

<アート・テイタム基準>

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  カウエルさんの出身地は、「黒人文化伝統のピアノ奏法」の最高峰であるアート・テイタムと同じ、オハイオ州のトレドです。黒人街のメインストリートでホテルとレストラン”Stanley’s Hamburger Grill”を経営する裕福な家庭の息子、お父さん(Stanley Cowell Sr.)は、ヴァイオリンやピアノをたしなみ、一流ジャズメンと親交深かった。特にアート・テイタムは家も近所で幼なじみ!カウエルさんが6才の時、テイタムが家に遊びに来てくれた。お父さんが息子のために「何か弾いてくれ」と頼むと、「まず息子さんから」と、カウエル少年に演奏をさせてから、おもむろに弾いてくれた。その演奏は衝撃的!その曲が、今もカウエルさんの十八番になっているロジャーズ&ハートの名曲”You Took Advantage of Me”です。カウエルさんの幼い頃のその体験が、ピアノをいじめないソフト・タッチと、あの超絶的な演奏をごく当たり前の基準として捉えさせたのかもしれない。ちょうど、少年時代のアート・テイタムが、二人のピアニストの演奏から成る自動ピアノのサウンドを、そのままコピーして演奏していたように。

 1956年、奇しくもテイタムの没年、カウエルさんは15才で、トレドのユースOrch.のコンサートでソロイストとしてフィーチュアされるほどのエリートになっていた。ほどなくオーストリアに留学、ザルツブルグのモーツアルテゥム大学で学び、帰国後、幾つかの大学で学位を取得した学究肌。NYのオバーリン・カレッジにかよっていた頃、その稀有な才能を発見したのがローランド・カークで、’60年代後半から、ジャズ界に入りました。本格的な活動の出発点は、マリオン・ブラウン(as)やアーチー・シェップ(ts)といったフリー・ジャズですが、アヴァンギャルド系のライブの聴衆が、白人のインテリ層で、同胞の黒人に顧みられないことに大いに失望します。やがて、マックス・ローチのコンボに入り、ジャズ史を生き抜いてきたローチの姿に感動、「伝統」を踏まえることの大切さを実感すると同時に、音楽業界に搾取されるジャズ・ミュージシャンの厳しい現実と向き合うことになります。

<クラシックからジャズへ>

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 ’70年代、『幻想組曲』(ECM ’73)で注目を浴びたカウエルさんの歩んだ道は、ソロイストとして自己完結したテイタムとは全く対照的なものです。

    アフリカ系ミュージシャンに活動の場を広げ、業界に搾取されないミュージシャン視点のレコード・ビジネスを目指したカウエルさんは、マックス・ローチ・クインテット時代の仲間、チャールズ・トリヴァー(tp)と共に、独立レーベル『ストラータ・イースト』を設立し、Music.Incなどで活動する傍ら、7人のピアニストのアンサンブル、”ピアノ・クワイアー”を組織、ラジカルなプロジェクトを次々と展開しますが、インディペンデントな活動は高く評価されても、音楽家とビジネスマンの両立は、ストレスの貯まるしんどいもの。常にthe Right Thingを求めるカウエルさんには不向きな役割であったように見えます。’80年代に入ると、カウエルさんは古巣の大学に戻り、NYリーマン・カレッジなど複数の大学で教鞭を執りながら、休暇中に集中してギグやレコーディングをこなすというライフスタイルになった。カウエルさんとOverSeasの出会いはちょうどその頃でした。

 大阪にやってくると、寺井にとても有意義な稽古を付けてくれたり、自宅に泊まりに来たり楽しい思い出がいっぱいありますが、名門ラトガース大の終身教授になってからは、教育者としての責任が高まり、来日回数もどんどんと減っていきました。

hisayuki_stanley_0001.jpg 寺井尚之と、カウエルさんが教鞭をとっていたNY市立大学リーマンカレッジで。寺井がカウエルさんに伝授されたレッスンは今もお宝!

 <ソロ名盤『Juneteenth:』 甦るカウエル・サウンド>

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 そんなカウエルさんも70歳を越え、昨年、ラトガース大学を退官、ファンのために、やっとジャズの世界に戻ってきました。

 先日発売された新譜『Juneteenth』は、ピアノの巨匠カウエルに相応しい、久々の本格的なソロ・アルバムです。「奴隷解放記念日(Juneteenth)」150周年に因んで、アフリカ系黒人が奴隷船でアメリカ大陸に連れて来られ、様々な苦難を克服していく祖先の歴史を、ピアノで美しく淡々と語るという趣。とにかく演奏している楽器が、カウエルさんの技量に相応しいハンブルグ・スタインウエイのコンサート・グランド(トミー・フラナガンも一番好きだった名器)で、繊細なタッチの変幻がうまく捉えられた録音、ほんとうに素晴らしい!曲目プログラムはカウエルさん作の交響曲を、ソロピアノ・ヴァージョンにしたもので、歴史にまつわる作品のあちこちに、その時代に因んだ色んなメロディーがコラージュされているのが楽しくて、鮮やかなモダンアートを鑑賞している気分になります。「美しいピアノの響き」が好きな人、本物のピアノの音色が、どんなものか知りたい方には絶対聴いてみて欲しいです。

 新作のリリースに際して、6月中旬には、ほんとうに久々に自己グループで《ヴィレッジ・ヴァンガード》に出演、巨匠らしいピアノの至芸と共に、最新鋭のシンセサイザー、Kymaをピアノのサウンドに連動させる荒業も披露して、お固い批評家を幻惑しています。

 どんなにラジカルな実験をしようと、カウエルさんのプレイに胡散臭いところは全くありません。伝統を踏まえたアーティストの型破りなんですから。

 『Juneteenth』は、大阪が誇る「澤野工房」さんが取り扱っています。お求めは「澤野工房」さんのサイトからどうぞ!

 CU

BeBop革命のフィクサー:バド・ジョンソン

 今週の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」はスイングからバップへとジャズが大変化を遂げた時期を生き抜いた二人の巨匠が!一人は、先日ドキュメンタリーを見たところのクラーク・テリー、そしてもう一人がバド・ジョンソン。ジョンソンは大スターというよりも、ビバップ革命を成功させた陰の大物だ。

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 テナーを主体にあらゆるサックスとクラリネットの奏者であり、作編曲家であるバド・ジョンソン(本名Albert J. Johnson)は明治後期1910年テキサス州ダラス生まれ。兄ケグ・ジョンソン(tb) と一緒に音楽を学んだ先生は、奴隷の身から解放された後、セオドア・ルーズベルト大統領のブレーンとして、人種間の架け橋となった偉人、ブッカーTワシントンの令嬢、黒人史上、初めて学位を取得したポーシャ・ワシントン・ピットマンだった。つまり黒人として学校で音楽教育を受けた最も初期の人です。

 バド・ジョンソンのプロデビューはドラム、14才の時には各地を楽旅しながら音楽的見聞を広め切磋琢磨、すぐにサックス奏者として頭角を現し、’30年代にはルイ・アームストロング楽団に入団、その頃にはテディ・ウイルソン(p)と共に編曲もこなすようになっていました。ジョンソンは一流楽団を渡り歩き、技と知識、そして楽団組織運営のスキルと人脈を身につけていきます。

 若かりしジョンソンが、カンサス・シティに居る頃、彼がバンドのリハーサルをしているのを、外から覗き見ていた子供の中にチャーリー・パーカーが居て、「きっと覚えておられないでしょうが、僕は子供の時、スティックボールをしながらあなたの演奏をよく聴いていました。」とNYで挨拶したというのですから、ジョンソンがどれほど業界のベテランなのか推して知るべしです。

<司令官>

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 ジョンソンへの信頼度が一気に高まるのは、’34年、アール・ハインズ楽団に入団してからのことです。ハインズ楽団に在籍した8年の間、彼が楽団に招き入れた若手ミュージシャンは、ディジー・ガレスピー(tp)、チャーリー・パーカー(as)、ビリー・エクスタイン(vo)たち!つまりジャズ界が大転換を遂げ、社会現象となったビバップの立役者は、ジョンソンを媒介として次々とブレイクしていったわけです。ガレスピー退団後はジョンソン自ら楽団の音楽監督を務め、同時にビリー・エクスタイン楽団の結成や、立て直しなど、危急の際には出向して楽団員を教育し、士気を高める役割を受け持っていたのがバド・ジョンソンだったのです。 

 <書記長>

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 ハード面だけでなく、バド・ジョンソンはソフト面でも大きな役割を果たしました。黒人の街、ハーレムのクラブ《ミントンズ》で開花したビバップは、ミッドタウンに南下して一般的な人気を獲得し始めました。ジョンソンはガレスピー、オスカー・ペティフォード(b)、マックス・ローチ(ds)らとNY52丁目の”オニックス”に出演、スモール・コンボでのビバップ・ムーヴメントの先鞭を切ります。新しい音楽を仲間に伝えるため、ディジー・ガレスピーは、手取り足取り、ハミングで口移しに伝え、自らピアノを弾いて鍵盤を見せながらバップの高度な理論を広く伝えました。その頃の黒人ミュージシャンは譜面の読めない人が多かった。まして、16分音符主体のバップの曲は、楽譜にするのもそれなりの技術が必須。そこで、ジョンソンは、途方もなくクリエイティブな曲を創作し、かつそれらを容易く演奏できるにも関わらず、譜面に起こすことが出来ない天才達のために、彼らの作品を採譜する書記長の役目を果たしました。彼が採譜を引き受けた仲間は、ペティフォードやモンク達、例えばOne Bass Hitも彼が書き留めたオリジナルです。信じがたいことですが、ペティフォードは譜面を書くことができないので、溢れ出る創造力で毎日曲を作り、それを毎日ジョンソンは譜面に記録したといいます。

<ビバップ初レコーディング>

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 ’42年、ヨーロッパからNYに帰郷したコールマン・ホーキンスは、後輩たちが繰り広げる新しい音楽に「これだ!」と膝を打ちます。かねてからクラシックを楽しみ、高度なハーモニー感覚を持つホークにとってビバップは、何の抵抗もなく受け容れることのでwoddynyouR-6766287-1426180101-6212.jpeg.jpgきるスタイルでした。新しい感覚のミュージシャンに囲まれて「自分の音楽」をやろう!そこでホークはジョンソン達に声をかけ、レコーディング用に、作、編曲を依頼。1944年2月16日、コールマン・ホーキンス名義で、歴史上初のビバップ・レコーディングが実現します。これらのSP盤に収録された曲は、私はしょっちゅう生で聴いている”Woody’n You”ジョンソンとクライド・ハート名義の”Bu-dee-Dah”やホークの十八番”Body and Soul”をリニューアルした”Rainbow Mist”など、バップのイディオムにしっくり溶け込みながらも、不変のホーキンスのサウンドは「横綱」の貫禄!

  ジョンソンは、その後もハインズ、ベニー・グッドマン、クインシ―・ジョーンズなど多彩な楽団で演奏や編曲を行い、’70年にはスミソニアン協会の「クラシック・ジャズ・プロジェクト」に参画し、往年のビッグバンドの名演を採譜してジャズ史の保存に貢献しました。

prodigy-mobb-deep-1.jpeg  ジョンソンの孫、アルバート・ジョンソンはヒップ・ホップの人気デュオ、”モブ・ディープ”の”プロディジー”として活躍中。講座に登場する『Let’s Swing』で共演している兄、ケグ・ジョンソンは、この録音後、Ray Charlesのバンドで亡くなるまで活動しました。その息子で、同名のケグ・ジョンソンは、グラディス・ナイト&ピップスなどR&Bのスターを育てた名プロデューサーとして音楽史に名を残しています。

 「 私は今もビバップが大好きだ。他のどんなスタイルよりも音楽的だが、今のアヴァンギャルドな音楽よりも、演奏するのはずっと難しい。まあ、パーカー-ガレスピーの名コンビの素晴らしいプレイを聴けば、誰だって好きになるがね。あの複雑なチェンジを正確に演奏するには、並外れた技量が必要で、おまけにそのテクニックを駆使して、自分の心の中で感じていることや、自分自身を表現しなければならないのだから・・・バップには色んなメロディーが内在していて、きっちりした型がある、そこから新しいものを構築していくんだ。ただホーンをうまく吹くのも結構だが、私はそこにもう一味を付け加えたい。」バド・ジョンソン( ’80頃の発言)

 参考文献:『Swing to Bop』 Ira Gitler著 Oxford University Press刊
       『To Be… Or Not To Bop』 Dizzy Gillespie回想録 Doubleday 刊

クラーク・テリーの福音書: ‘Keep On Keepin’ On’ を観て

 2月に94才で天寿を全うされたトランペットの神様、CTことクラーク・テリー、その晩年を描いたドキュメンタリー映画が昨年、様々な映画祭で賞を取り話題になりました。残念なことに日本未公開なのですが、持つべきものは友!米国の友達が「必見!」とDVDを送ってきてくれました。

  

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Keep On Keepin’ On()

 監督:Alan Hicks

出演:クラーク・テリー、ジャスティン・カウフリン、クインシー・ジョーンズ、ビル・コスビー、ハービー・ハンコック、ダイアン・リーヴス

製作: クインシー・ジョーンズ

   ポーラ・デュプレ・ペズマン

 

<あらすじ>

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   この映画は、テリーの輝かしい名演が随所に配置されているものの、音楽伝記映画じゃない。90才を越え、糖尿病の合併症と闘いながら音楽と共に生きるCT(クラーク・テリー)と、彼の手厚い指導を受けながら、悩み、稽古し、成長していく20代の盲目のピアニスト、ジャスティン・コーフリン(Justin Kauflin)師弟の姿を4年間に渡って捉えたドキュメント。

 師匠(mentor)と愛弟子(protégé )が、お互いの苦難に打ち克つエナジーになる、双方向のベクトルを、とても自然に描いていて感動しました。

 師弟の周りには、献身的な看護に明け暮れるテリーの妻、遺伝的な疾患で幼い時に全盲に成った息子を思いやるジャスティンの母親、けなげで表情豊かなジャスティンの盲導犬がいて、映画の中程から13才の時にCTに師事し、現在は音楽シーンのドンとなった’Q’ことクインシ―・ジョーンズが大きな役割を受持ちます。 CTの手厚い指導にも関わらず、弟子のジャスティンは、盲目28SUB-SNAPSHOT-superJumbo.jpgというハンディキャップがあり、経済的にも、日常生活の面でも、NYで生活できなくなって、ヴァージニアに帰郷します。そんな彼に「モンク・コンペの準決勝に来られたし」と連絡が入ります。CTは、練習がうまく進まずナーバスになる彼を、自宅から様々な手段で励まし続けるのですが、現実は甘くない。結局敗退…「CTに一体なんと言えばいいだろう…」と深く悩むものの、師匠は「それも勉強だ。」と一笑に付します。或る日、彼がアーカンソーの自宅にCTを見舞うと、偶然か、或いは生き神様の思し召しか、折しもQことクインシ―・ジョーンズが自分で車を運転し、みかんのいっぱい入ったビニール袋を片手にフラッとやって来た。チャンス到来!すかさずCTはジャスティンに演奏させてQに聴かせる。つまり最初の弟子と現在の弟子がCTの元で出会うのです。 Qはジャスティンの演奏を気に入って自分のツアー・バンドに加入させます。バンドでモントルー・ジャズフェスティバルに出演したジャスティンは、CTに捧げるオリジナルを演奏し、満員の聴衆から大喝采を受ける。”For Clark”とMCするクインシーの言葉は、曲目紹介でもあり、「CTへの義理は果たしたぞ!」、という独白のようにも聞こえるのです。

<弟子が撮影した!>

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 クラーク・テリーがジャズの生き神様とは知らない人も、ジャズさえ知らない人でも、大変見応えのある映画になっていて、多くの映画祭で賞に輝きました。

 意外だったのは、愛弟子のピアニスト、ジャスティンが、どうやら日本人の血を引いているらしいこと。お母さんのインタビュー場面で後ろに日本人形が飾ってあって、調べてみたら彼女は東京生まれ、そのお母さんは広島出身の日系の方のようです。アジアの血を引くミュージシャンが偉大なるCTの愛弟子とは嬉しいですね!


    CTの偉大さを知っていると、病院で主治医に両足切断を勧められ絶望する様子や、朝の4時半までベッドから稽古をつけている姿など、よくもまあここまでプライベートな撮影を許したものだと、半ば呆れ、驚愕するほどでした。映画の後で、付録に付いていた監督のインタビュー(聴き手は往年の二枚目スター、アレック・ボールドウィン)を観て、やっと納得しました。この映画はほとんど初心者の手作り、撮影、監督、制作すべてアラン・ヒックスというオーストラリア人の男の子の作品。なんとこのヒックス青年、ジャスティンの先輩格に当たるCTの愛弟子ドラマーだったんです!オージー・イングリッシュで爆笑連発のこのインタビューによると、ヒックスはジャスティンが入門する数年前からCTに師事し、CTは彼を自分のバンドに加え、世界中のギグで共演していて、ツアーの付き人として身の回りの世話もさせていた人だったんです。だから、CTの家族同然、身内として自宅でしょっちゅう寝泊まりしていたわけで、深夜のレッスンや病室も、自由に撮影するお許しをもらえたわけ。映画ファンではあったけど、作る方は全く素人だったから、「誰でも出来る映画作り」みたいなマニュアル本を読んで、バイトして資金を貯めては撮影し、お金がなくなるとオーストラリアに帰り、CTの弟子という肩書でギグを取り、またお金が貯まると渡米して撮影した。

 「照明器具はウォールマートで買いました。」と言うのでまた爆笑!そのうちクインシ―・ジョーンズがCTの自宅に来て撮影を知り、プロデューサー役を買って出ててくれた。おかげで、サウンドトラックの著作権など、もろもろの問題が解決して、公開に至ったというわけ。 それどころか、ロバート・デ・ニーロが協賛するNYトライベッカ映画祭の新人監督賞までゲットした。何もかも、生き神様CTのシナリオだったのかも・・・

    元々ジャスティンをCTに内弟子として紹介したのもこのヒックス、理由はもちろん映画を撮るためではありません。

「CTの病状が悪化して失明の危機があると聞いたので、きっと、盲目のジャスティンが一緒に居れば、彼の力になってくれると思ったんです。」 

TERRY-master675-v2.jpg さらに、全サウンドトラックは、全てCTが日常口ずさむ歌の録音ヴァージョンだった。

「CTはいつも歌っていました。音楽はどんな時も彼と共に在ります。苦しい時ほど彼は歌うんです。病気で全身激痛に襲われると、ベッドでいつも”Don’t Worry About Me”(僕のことは心配ないよ)を歌っている。彼自身が「音楽」なんだ。映画の挿入曲は、彼が歌うメロディーを検索してレコードを見つけ、それを使っただけ。」

   当初、彼の撮影プランは、CTだけがテーマだった。ところが、撮影時も、そうでなくても、ジャスティンがいつも一緒で稽古を付けてもらっている。それなら二人共、テーマにしちゃえ!ということになり、結局、それが作品として成功する鍵になった。

<金言の宝庫>

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  テリーは、病床から様々な弟子達に愛情の籠った指導を続けます。それは、アカデミックなレッスンではなく、シンプルな16分音符のフレーズを口移しで伝え、自分と同じようにスキャットさせてから、各々の楽器で演奏させ、そのフレーズを発展させていく、その繰り返しによって、スイングするアクセントや、和声の展開が自然に身についていきます。彼は、夜を徹して行うそれらの個人レッスンに授業料を請求することはただの一度もなかった。それどころか、奥さんの心の籠る夜食付き!

 お弟子さん達はラッキーであると同時に、彼の恩義に一生かけて報いる御役目を仰せつかった事になります。この映画が捉えたCTの言葉は、ジャズに関わる人間にとって正に福音書、ジャズの生き神様からの金言だ!この映画のタイトル”Keep On Keepin’ On (しっかりコツコツやり続けなさい)”もそのひとつ。映画通でもない私が、映画を紹介したのは、これが書きたかったから。

・   「シンプルこそ、最も複雑な形式だ。私はそのことをデューク・エリントンに教わった。デュークは実にビューティフルな人間だった。あれほど誠実な人に出会ったことがない。」

・   私は老いて醜い。だから、せめて魂だけは美しくありたいと思う。

 ・   ジャスティンへのメッセージ人生には挑戦がつきものだ。判っているだろうけど、君の心が大きな力になる。その心を前向きにするのが大事だ。そうすれば、私が学んで来たことを、君自身が学べる。私は君の才能を信じる。君を信じているよ。それだけは覚えておいて欲しい。

 *CTは同様のメッセージを、何百という後輩たちに書き送ったと、奥さんが証言していました。

・   私の夢の大部分は叶えられた。この年になって夢は変わるものだと気がついたんだ。今の夢は、若いミュージシャン達の夢をかなえる手伝いをすることだ。それが至上の喜びであり、野望でもある。

・   名手と素人の違いはどこにあるのか?と聞かれて:

  一つは「向上心」、より上を目指す気持ちのあるなしだ。他の誰よりもうまくなりたいという強い思い、最善を尽くしたい、という心があるかどうか。そんなことに無頓着な連中も多い。そういう人間は稽古をしない。しっかり勉強しない。それと同時に、自分自身を研究しない。そういう連中は自分の欠点に気づかない。

 まずは自分を知ることが大切。何よりも自分の欠点を知る事。そうすれば、それを克服するために何をすべきか、どんな努力をするべきかがわかる。そこが名手と素人の分かれ道だ。

   このドキュメンタリー映画が日本未公開なのは、製作者の中に『The Cove』(和歌山太地町伝統のイルカ漁をテーマにしたドキュメンタリー)を扱った ポーラ・デュプレが名を連ねていることが、ややこしい原因になっているのかもしれない。
 映画の主人公の一人、ジャスティン・コーフリンが日本にゆかりのあるアーティストであるのですから、何とか多くの人に観て欲しい。クラーク・テリーの信者として切に思っています。

 

’60年代のトミー・フラナガン・インタビュー(3)

 朝鮮戦争から故郷に戻ったフラナガンは《ブルーバード・イン》で、テナー奏者、ビリー・ミッチェル率いるハウスバンドのレギュラーとなる。そこは 「素晴らしいクラブだった!その雰囲気は、『もうここはデトロイトじゃない!』そんな感じでした…」

<ブルーバード・イン>

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《ブルーバード・イン》、デトロイトの史跡として保存を望む声もありますが今は廃墟に…

  フラナガンは《ブルーバード・イン》を懐かしむ。「もう閉店しています。あんなクラブは、国中探してもないでしょう。NYでさえ、見たことがありません。地元愛と同時に、ジャズクラブには不可欠な支援や応援がありました。デトロイトの至るところからジャズ・ファンが集まってきました。出演バンドも素晴らしかった。サドとエルビンのジョーンズ兄弟、それにベーシストはジェームズ・リチャードソン(カウント・ベイシー楽団に在籍したベーシスト、ロドニー・リチャードソンの兄弟)でした。

  《ブルーバード》では、我々バンドの演りたい音楽を演奏することができて、お客もそれを気にいってくれました。客入りも良かったし、バンドとしての一体感が高まって行くことを実感しました。サドとビリー(ミッチェル)は、当時すでに自分の演奏スタイルを確立していたと思います。エルヴィンのプレイも、今とさほどかけ離れたものではなかった。エルヴィンはバンドの中で、常に最も面白い存在でした。デトロイトにあんなプレイをするドラマーは居ません。(最初は違和感があっても)共演を重ねれば重ねるほど、うまくいくようになる。彼はそういうドラマーです。約一年位その店のハウスバンドとして出演し、客離れが始まると、他所の店に移りました。」

<いざNYへ>

tommyatartsession.JPG 1956年、ケニー・バレルとフラナガンは車でNY見聞に向かった。滞在資金節約のために、最初の数週間はバレルの叔母の家に居thad-jones-during-his-the-magnificent-thad-jones-session-hackensack-nj-february-2c2a01957-photo-by-francis-wolff.jpg候したが、一足早くNY入りしていたデトロイト同郷のサド・ジョーンズとビリー・ミッチェルが、あちこちのバンドリーダーに彼等を推薦してくれたおかげで、新参者は2人とも、すぐに自立することができた。フラナガンはレコーディングに参加し、コンサートに出演、それに今は亡きベース奏者、オスカー・ペティフォードのスモール・グループでライブをこなしている。
 その頃、エルビン・ジョーンズは、バド・パウエルと《バードランド》に出演中であった。ところが、フラナガンがギル・フラーとのコンサートに出演後、そこへ行ってみるとパウエルの姿はなかった。おかげでフラナガンは、仕事をすっぽかしたパウエルの代役として、2週間のギグをこなすことになる。その直後、エラ・フィッツジェラルドから初めて仕事を頼まれ3週間共演。状況は好転していく。デトロイト時代に《ブルーバード》で共演した縁で、マイルズ・デイヴィスとのレコーディングにも呼ばれた。ドラムのケニー・クラークからも声がかかり、演奏場所に行くと、当のクラークはギグにやって来なかった。だが、そのバンドでソニー・ロリンズと出会い、後の共演へとつながっていく。フラナガンはNYのジャズの高波に乗り、多忙を極めながらも、ここぞというチャンスは決して逃さなかった。

<リーダー作に思いを込めて>

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 「エラと共演した後、私はJ.J.ジョンソンのバンドに入りました。1956年から’58年迄、約3年dial_jj5.jpg間です。J.J.はカイ・ウィンディングとコンビ別れして、クインテットを新編成し、かなりきっちりした音楽を目指していました。結成後、たちまちバンドのサウンドは良くなった。メンバーは、エルビン・ジョーンズ、ホーンにボビー・ジャスパー、ベースがウィルバー・リトルです。1957年にスウェーデン・ツアーをしましたが、素晴らしい体験でした。ツアー中、 現地の”メトロノーム“というレーベルで、初リーダー・アルバムを作り、後にプレスティッジがそれを買い上げました。私は、ああいう種類の音楽がとても好きなんです。まもなく、もう一枚トリオのアルバムを作る予定です。ちゃんと用意をして、何らかの想いを込めたアルバムにしたいですね。」

 J.J.ジョンソンのバンドを辞めた時、フラナガンは楽旅に疲れ果て、NYの街に落ち着きたいと思っていた。’58年後半には《ザ・コンポーザー》にトリオで出演、トロンボーン兼ヴァイブ奏者、タイリー・グレンのバンドでは《ラウンド・テーブル》に2年間断続的に出演している。

「まあ、私にとっては良い時期でした。何とか食べて行く収入があり、レコーディングも数多くこなすことができました。ジャズの録音依頼は、おおむね偶発的に舞い込むものでしたから、何をするのか分からぬままスタジオ入りしなくてはなりません。現場に入るや否やリーダーに、『イントロをくれ!』と指示されます。出やすいイントロをあれこれ考えて作るのは好きな方ですが、スタジオに入るなり、イントロ、イントロと言われると、いい加減うんざりします。時にはエンディングまで、こっちで考えて作らなければいけません。だから、世間で”ブロウイング(吹きまくる)セッション”と呼ばれる録音も、私にとってはむしろ”シンキング(考える)セッション”でした・・・

 『予め譜面に書かれた』ことより高内容なことを、ささっと考えて、その場で演奏することは可能です。しかし、即興のアイデアに対する所有権はありません。現場で、そういうことをやればやるほど、同じ成果を繰り返し要求されることになります。「こいつはアレンジがなくても演れる奴だ」と判ると、ずっとあてにされることになるのです。

<コールマン・ホーキンスとの至福の時>

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 フラナガンは《ラウンド・テーブル》に数ケ月出演した後、NY周辺でフリーランスとして活動した後、コールマン・ホーキンスとの最初の共演作を録音した。ホーキンスとの共演は、まさに至福の音楽体験であった。

Editor~~element63.jpg 「ホーキンスは素晴らしくて、一緒に演ることがいつも楽しかった。彼の方も、まあまあ私のプレイを気にいってくれていたと思います。私は、クラリネットとサックスを演っていましたから、彼が名手であることがよくわかります。それに、もの凄く良い耳をしていました。あの年齢で、彼のような思考が出来る人はいません。2枚目のアルバムを録音した後は、ライブも一緒に演るようになりました。彼とロイ・エルドリッジの2管バンドで《メトロポール・カフェ》へ出演したり、コネチカットのハートフォードや、NY州北部のスケネクタディー、果ては南アメリカやヨーロッパまでツアーしました。ライブがない時は、もっぱらスタジオで一緒に演奏していました。ヨーロッパから帰国後は、カルテット編成に縮小しました。ホーキンスのワン・ホーンで一緒に演るのは最高です!彼との共演は本当に楽しかったですし、今もそれは変わりありません。とにかく一緒に居るのが好きなんです。」

1963-02-04.png コールマン・ホーキンスとの活動が小休止すると、フラナガンはギタリストのジム・ホールの誘いを受けた。ちょうど《ファイブ・スポット》が移転し、キャバレー・ライセンスを取得していなかった頃である。ライセンスがなければ、ドラムを入れることができない。そこでホールとフラナガンはベースのパーシー・ヒースと共にドラムレス・トリオで出演することになった。

「こんな編成は、デトロイト以来初めてでした。」と彼は言う。

 「私は、このフォーマットの演奏に夢中になりました。ジムは素晴らしいリズム感があるので、ドラムレスがいい感じでした。出演後2週間ほど経った頃に、レコーディングしておくべきでした。演奏の熱が冷めず、トリオで何が出来るのか、どこまで行けるのかが把握できた時期にね。やがて、二人目の子供が生まれたので、私はエラ・フィッツジェラルドとの仕事を再開しました。」

 伴奏者としてのフラナガンの実力は、数多くのレコードで証明されているが、伴奏の役目は彼に充足感を与えることはなかった。

「最近の自分の演奏は、もうひとつ気に入りませんね。」と彼は言う。

<目指すはエリントン!>

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coleman7.jpg 「伴奏の仕事を少しやり過ぎてしまいました。それが自分のやりたいことならいいんですが・・・ 私の音楽的な理想はエリントンの様なアプローチです。いつか、あれほど聴き手の心を掴む音楽を書ければと思います。つまり、編曲ではなく作曲です。これまで、自分で誇りに思えるような曲は何一つ書いたことがありません。でも、今まで演って来たことを発展させれば、オーケストラ的なものになります。自分で聴きたいと思う音のイメージを、そのまま譜面に書き下ろす能力は、充分身についたと自負しています。例えば、コールマン・ホーキンスのためのバックを書きたいんです。彼をインスパイアするようなリズム・セクションなら書けると思います。私が提供したアイデアを気に入ってもらえれば、きっと凄いことを演ってくれますよ!

 無論、そういう音楽を独力で作るには時間が必要です。これまでは、そういう時間がありませんでした。誰だって即興演奏を重ねていくと、プレイの先が読めるようになるものです。前もって、あれこれ考えるのと同じようにね。何事も、行き当たりばったりに生まれることはありません。頭より指のほうが先に動くということは往々にしてあります。でも、指なりのフレーズは、過去に学習したパターンの反復なんです。実際、そういうことが多すぎます。でも指がたまたま間違った所に行ってしまうと、頭がシャキっと動いて、考えながら弾くようになります。」

 ことによると、将来のフラナガンは作・編曲に向かうのかもしれない。しかしいずれにせよ、これ程妥協をせず、短期間のうちに素晴らしい業績を達成したにも拘らず、現状に満足していない、こんな人物がいるとは思いもしなかった。今回のインタビューでそれが判っただけでも良かったと感じる。

聴き手:Stanley Dance / ダウンビート ’66 1/13 flanagan1164.jpg

(了)

 35才のトミー・フラナガンの発言は、現在の「足跡講座」で寺井尚之が展開するフラナガン論と、驚くほど合致していました。このインタビュー、皆さんはどう読み解きますか?

 

巨星クラーク・テリー逝く

funeral11021224_927702457254519_1407399710584103427_n.jpg  巨星クラーク・テリー逝く… トランペット、フリューゲル、ポケット・トランペット、ある時は 掌に隠されたのマウスピースだけでの妙技、そして“マンブル(Mumbles)”と呼ばれる独特のスキャット、どれをとっても音楽の喜びに溢れる至高のミュージシャン!バックステージで初めてお目にかかった時に、指をパタパタしながら”ハッロ~~~~”ってめちゃくちゃ可愛い挨拶をされた姿が忘れられません。

 really_big_Jimmy 51ldCZk9cJL._SS500_.jpgクラーク・テリーといえば、もうひとつ思い出があります。寺井尚之と一緒にクイーンズにあるジミー・ヒース(ts)さんのお宅にお呼ばれした時のことです。料理上手なモナ夫人が夕ごはんを用意してくださって、いそいそテーブルに付きました、すると、「ディナーはこのクイズに答えてからじゃ!」そうジミーが言っておもむろにレコードに針を降ろします。

「ヘイ、先発ソロを取ってるのは誰や?3秒以内に言うてみい!」

 ただでさえ大巨匠を前にして緊張してるのに、答えられなかったらどないしょう???…もう泣きそうになったけど、一秒で分かった!”Clark Terryですか?”と恐れながら答えると、”Yeah~! オーライト!!最近はわからんアホがたまに居るんだからな…Damn…”と例の甲高いベランメエ英語。めでたくお祈りをして夕飯にありつきました。

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 CTことクラーク・テリーはジミー・ヒースと大親友、ジミーが刑期を終えた後の初レコーディング”Really Big”にキャノンボール・アダレイ達と共に、プロデューサー、オリン・キープニュースに志願して参加しています。(奇しくも、CTが亡くなった数日後に、キープニュースさんもまた91才で大往生されています。)

 「ジミーのレコーディングなら、いつだって最低ギャラで喜んで参加する!」スカッとした男気のある人です。

 日本じゃ「トランペッターと言えば帝王マイルズ」と相場が決まっているのかもしれないけど、そのマイルズの若い頃のアイドルが同郷セント・ルイスで傑出した実力を誇るCTだった。マイルズがボクシングを好むようになったもCTに影響されたからだし、それどころか、麻薬でボロボロになった宿なしマイルズにホテルの自室を提供し、留守中に自分の所有品を一切合切売り飛ばされても慌てず騒がず、マイルズの父親に連絡して救済するように勧告した大人物です。

<生き神様>

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 CTは、カウント・ベイシー、デューク・エリントンのジャズ史を代表する楽団両方の全盛期に在籍した数少ないミュージシャン。「カウント・ベイシーOrch.は大学で、エリントンOrch.は大学院だった。」と彼は語っている。

duke12.jpg エリントン楽団で一番仲良しだったビリー・ストレイホーンへの追悼盤『…And His Mother Called Bill/エリントンOrch.』での”Buddha”のソロは、哀しみを突っ切った底抜けの明るさと、いとも容易そうな超絶技巧で、ストレイホーンの極楽浄土を描いています。
 独特のスイング感に溢れたMumblesスキャットが人気を呼んだオスカー・ピーターソンとの共演や、バルブ・トロンボーンの達人、ボブ・ブルックマイヤーの双頭コンボなど、活動歴は書ききれませんが、ジャズが下火になった’60年代になると、同胞ジャズメンの先鞭を切って、三大ネットワーク、NBCのハウス・ミュージシャンとなり、人種の壁を破った。そんなCT=クラーク・テリーさんは、米国の人間国宝、ミュージシャンにとっては生き神様!亡くなる数ヶ月前にはウィントン・マルサリス始め数多くの後輩トランペッター達がNYから貸し切りバスを駆って入院先のアーカンソー州の病院で、生演奏付のお見舞いを献上している。

<憎しみを乗り越えて>

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clarkterry_in_karati.jpg CTのコンサートを観ると、底抜けにハッピーなエンタテイナーの顔と、鳥肌が立つほど至芸を磨き抜く厳しいアーティストの顔が、いとも自然に共存している。言葉や人種のバリアをスイスイ越えていく音楽の力で、米国国務省の親善大使として中近東をツアーしたり、クリントン大統領の命を受けて世界ツアーをしました。その音楽の力は、激しい人種差別の波にもまれた末のかもしれません。
 ’30年代からミュージシャンとして各地を渡り歩いたCTは、命の危険にさらされてきました。死別した最初の妻、ポーリーンさんも幼いころKKKの襲撃に遭い九死に一生を得ています。その際、一緒のベッドで寝ていた仲良しの従兄弟は幼くして庭先で吊るされ、酷い「奇妙な果実」になり果てた。

 一方、CTは10代のときに、南部ミシシッピー州をカーニバルの楽団で巡業中の雨の夜、次の公演地へ向かう鉄道の駅で出会った白人に話しかけられて”Yeah.”(Yes,Sirでなく)と言ったのが失礼だと、こん棒で滅多打ちにされた。その男、殴っただけでは物足らず、リンチして吊るしてやると仲間を呼びに走っていった。ぬかるみで血だらけになって倒れているCTを助けてくれたのが、列車の白人乗務員達で、CTを抱え楽団の車両まで運んでくれた。すると、さっきのこん棒男が仲間を引き連れ大挙して戻ってきた。シャベルやつるはしやナイフなど様々な凶器を手にテリーを血眼で探している。すると、乗務員は「ああ、あのニガーか、面倒を起こす厄介者だから、俺たちがケツを思い切り蹴飛ばして、向こうの方へ転がしておいたぜ。」と全く反対の方角に暴徒を誘導し、そのおかげで命拾いしたと言います。

 「殺そうとしたのも白人、命の恩人も白人」CTは、その体験から人種に対する憎悪を抱くことを止めたと言うのです。

 彼が長いキャリアを歩むに連れて、人種差別は少しずつ改善されてきたけれど、その反面「黒人富裕層はバッハやモーツァルトだと、子弟にクラシックは習わせても、ジャズを演奏させることは好まない。全く残念なことだ!」と、晩年は音楽教育に力を入れて各地の大学でセミナー活動を行っていました。11人兄妹での7番目として貧困家庭に生まれたCTは音楽の先生に就くことも、楽器を買ってもらうこともありませんでした。

 ’90年代から糖尿病の合併症で視力が低下して以降、公の音楽活動は減少していきましたが、世界中からトランペット奏者が教えを乞いに彼の自宅を訪れています。2010年、グラミーで生涯功労賞受賞、公の葬儀はNYハーレムのアビシニアン教会で行われた後、ニューオリンズ式の葬送行進がウィントン・マルサリス達後輩ミュージシャンによって盛大に行われました。かつてダン・モーガンスターンは、いみじくも彼をこんな風に評しています。「成功しても、人間的にダメにならなかった男」
 
この男、なんでそれほどハッピーなんだ? funeral11016823_983468061670963_7668005501549149957_n.jpg

彼は余り眠ることをしない。

彼はビッグ・バンドを持ってる。

小さなバンドも持っている。

彼はちびっ子どもに教える。

レコードも作る、

彼はスタジオ・マンだ。

ブツブツ歌う。

この男、なんでそれほどハッピーなんだ?

それは彼がクラーク・テリーだから!

ダン・モーガンスターン

参考資料

  • Downbeat magazine 1967 6/1号
  • Downbeat magazine 1996 6月号
  • I Walked with Giants : Jimmy Heath Autobiography
  • Miles, Autobiography of Miles Davis
  • Clark Terry Obituaries; NY Times, The Guardian, The Telegraph, et al.

ジーン・アモンズの肖像(2)

 <塀の中のボス>

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joliet7610578.jpg ジーン・アモンズは、違法薬物所持とそれに関連する罪状で、のべ10年間服役しています。最初は、多くのバッパーがお世話になったケンタッキー州レキシントンの麻薬更生施設、通称”NARCO”で2年間(1958-60)。タッド・ダメロンもほぼ同時期に、ここに収監されていましたが、ここから舞い戻ったものの、ジャズメンの多くが、再びヘロインに手を出し、さらに厳刑を課せられることになった。アモンズが典型的な例で、“NARCO”から帰ってきて間もなく、仮釈放中にクラブ出演をしたとして再び拘束され、その2年後には、7年間という長期間をシカゴのジョリエット刑務所で過ごすめになります。ジョリエットという名前にピンと来た映画ファンは我が同士!かの有名な『Blues Brothers』のファースト・シーン、兄のジェイクが入っていた刑務所として、今や観光スポットになっているそうです。

 アモンズの逮捕は、有名人を狙った違法な「おとり捜査」だったと言われていますが、本人は後年、麻薬に手を出したことについて、ボス・テナーにふさわしく、誰のせいにもすることなく、淡々と語っている。

「環境だ、生活状況だ、それに、逃避したくなるような苦悩があるから、ということが原因だという人もいる…だが、私が薬に手を出した理由として、自分で言えることは、『好奇心』だったってことくらいだ。一番肝心な時に、自制心が足りなかった。そして気がついた時には、どうすることも出来ないほど深入りしていたというわけだ。」

 アモンズが「どうすることも出来ないほど深入り」してしまったのは、エクスタイン楽団に居た’40年代ではなく、ウディ・ハーマン楽団からソニー・スティットとコンビを組んだ時期だったようだ。

gallery7.jpg ジュニア・マンス(p)の証言:「私が1951年~53年の軍隊生活を終えてシカゴに戻ってきた時、ジャグは完全な麻薬中毒になっていた。」

 アモンズのヒット作の大部分を制作したPrestigeのオーナー、ボブ・ワインストックは先見の明があったようで、レキシントンから帰ってきたスター奏者、アモンズが活動休止に追い込まれた時のため、シカゴやNYで、せっせと彼のセッションを録音、7年間の服役中に、それらの音源を新譜としてリリースする離れ業をやってのけた。 「親友アモンズのために一肌脱いだ」と言われているけれど、それほどアモンズは売れたのだ。

 アモンズはジョリエット刑務所からワインストックに何度か手紙を書き送っている。そこには、自分の名前が、塀の中に居る間に忘れられないよう、継続的に自分の新譜をリリースして欲しい、そのために録り貯めた音源が枯渇しなければいいのだがという願いが綴られていたそうです

 さて、刑務所の中のアモンズは、ずっと鎖に繋がれていたわけではなく、音楽の実力を買われ、受刑者バンドの音楽監督に任命されます。おかげで、更生教育の一環として団員に音楽を教え、編曲をする傍ら、テナーを持つことを許され、暇さえあればテナーを吹くことが出来た。

 出所前の18カ月間は、レコード・プレイヤーだけでなく、ラジオやTVも視聴することができたので、世相の変化や、音楽の流行、アヴァンギャルドへと向かうジャズの潮流をキャッチしながら、出所したあどんな音楽をするべきか?ということを冷静に見定めていました。

<プラグド・ニッケル>

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 1969年11月、出所後わずか12日目に、アモンズはシカゴの《プラグド・ニッケル》でカムバックを果たしました。満員の聴衆が総立ちになり拍手でアモンズを迎え、全くブランクを感じさせないアモンズ・サウンドに熱狂した!伝説のコンサートに立ち会った評論家ダン・モーガンスターンは、「完全にリラックスして、再びバンドスタンドに戻った幸福感に満ち溢れる演奏だった、」と書いていますモーガンスターンが、幕間にインタビューを行い、現在流行りの前衛ジャズについてどう思うか?と質問すると、「あれは自分の柄には合わない。自分はやっぱり、ジーン・アモンズのままでいたい。」と答えています。

  アモンズは、並のテナー奏者ならヴォリュームの点で食われてしまうハモンド・オルガンを、テナーのバンドで初めて使ったり、ソウル・ジャズという新ジャンルを容易く確立してきました。カムバック後は、一時期アンプを使ってサックスのサウンドをオーバーダブするという流行も取り入れてはみたけれど、すぐに元の自然な音色に戻している。

 カムバックしてから数年後は、がんに冒されながらも、死の3か月前までボス・テナーであり続けました。ラスト・レコーディングは亡くなる年、1974年の3月、プレスティッジには稀な一日のセッションでたった一曲だけの録音。曲目はいみじくも”グッバイ”でした。その2ヶ月後、1974年5月、オクラホマ・シティで、アモンズ・サウンドは、演奏中に腕を骨折するという形で終焉を迎えます。肺ガンの合併症で骨が弱くなっていたんでしょう・・・

 享年49歳。あの重厚さ、あの貫禄のサウンドからは信じられない若さでした。

 死後40年経った今も、アモンズの音色はやっぱり私達の心を掴んで離さない。ヘヴィー級チャンピオンであり続けています。

参考資料》: 米国公共放送 NPR Documentary: Gene Ammons ‘The Jug’

Living with Jazz / Dan Morgenstern

Jazz and Death: Medical Profiles of Jazz Greats / Frederick J. Spencer

Jazz Wax : Gene Ammons :  Up Tight