ビバップ・カウボーイ:ケニー・ド-ハムの肖像(2)

dorham_XL.jpg
ケニー・ド-ハム(1924-1972)

 

 1944年7月、20才を目前に、ケニー・ド-ハム(KD)はNYに辿り着いた。ビッグバンドでのツアー暮らしを辞めNYに落ち着いた理由は、理想の音楽=ビバップを極めるためだったとKDは語っている。同時に、戦時下のビッグバンド興行に対して、”キャバレー・タックス”と呼ばれる非常時特別税が新たに施行され、ダンスホール受難の時代が始まったこととも関係があるかもしれない。  

<ポスト・ファッツ・ナヴァロ>

 KDは、手始めにハーレムの”ミントンズ・プレイハウス”を訪れた。マンデイ・ナイトのジャム・セッションは新mintons_playhouse.jpg旧のミュージシャンが火花を散らしてしのぎを削る道場だ。そこにチャーリー・パーカーが現れると、バンドスタンドにひしめくホーン奏者達は敬意を表して退き、一心に聴く側に回った。バードとセッションができるホーンはディジー・ガレスピーかファッツ・ナヴァロ、マイルズ・デイヴィスくらいのものだった。やがてKDはプレイはそんなトップ・ミュージシャンに注目されるようになる。

 NYに来た翌年、ディジー・ガレスピー・ビッグバンドのオーディションに見事合格、ガレスピーの弟子という扱いでヴォーカルを兼任しながら修行した。ガレスピーはKDを第二のファッツ・ナヴァロしようと厳しく育て、KDもディジーに選ばれた弟子であることを誇りに精進した。『静かなるケニー』の悠然として隙のないプレイの源だ。

 当時のジャズ界には、徒弟制度が歴然と存在し、「バンド」という集団の中で、伝統や技量の継承が行われていたのは興味深いですね。

 翌年、KDは文字通りナヴァロの後任として、伝説のオールスター・ビバップ・ビッグバンド、ビリー・エクスタイン楽団に入団することになります。

 <ゴーストライター> 

DIZZY GLLESPIE GIL FULLER AND DICK BOCK.jpg左から:ディジー・ガレスピー、ギル・フラー、西海岸のレコード・プロデューサー、リチャード・ボック

  「ビバップでは食えない。」これは(私共を含め)古今東西のジレンマで、例えビバップの神様、ディジー・ガレスピーの弟子であっても、例外ではなかった。まして娯楽産業は肩身の狭い戦時中、歴史的ビッグバンドに在籍していても、ピッツバーグに妻子を持つKDは、実に色々なアルバイトで稼いだ。軍需産業や砂糖工場、ギグが空っぽの時期は、NYを離れて数ヶ月出稼ぎに行った。

 1970年に書いた自伝で彼はこう付け加えてる。 こんなこと言ったって、今の若い奴らは信じないだろうがね。」

 同時にKDは内職もやった。それはバンドの編曲、ディジー・ガレスピー楽団の番頭格、ギル・フラーは他の楽団のレパートリーもごっそり請負って数人のミュージシャンをゴーストライターとして抱えていたんです。KDが手がけたのは、ハリー・ジェームズ、ジミー・ドーシー、ジーン・クルーパー…錚々たる楽団の編曲でした。

 ギル・フラーはウォルター・フラーともクレジットされ、ビバップ時代のフィクサーとされる謎の多い人物。ジミー・ヒースもフラーから編曲のABCを習ったそうですが、とにかく沢山のクライアントを抱えて、時代の先端を行くモダンな編曲を提供するディレクターのような存在。昨今話題のゴースト・ライターも、ジャズ界では別に珍しいことではなかったんです。

 <栄光のビリー・エクスタイン楽団> 

Billy-Eckstine.jpg

  ビリー・エクスタイン楽団は、パーカー、ガレスピー、ソニー・スティット、ジーン・アモンズ、デクスター・ゴードン、ファッツ・ナヴァロ、アート・ブレイキーなどなど…キラ星のようなメンバーを揃えたビバップ・ビッグバンド!余りに時代の先を行ったモダンさゆえに短命に終わり、真の姿を捉えた録音も少ない伝説のバンドですが、このバンドのメンバーになることは黒人ミュージシャンの誇りだった。KDはお呼びがかかるとすぐさまNYから南部(!)の公演地まで長時間汽車に揺られて駆けつけます。

 ビリー・エクスタインやオスカー・ペティフォード、ディジー・ガレスピー、革新的なミュージシャンが組織した夢の楽団は、それに見合ったブッキングが叶わず解散の憂き目にあったんですね。

 KDは意気揚々とスーツを新調し、ベレー坊にサングラス、それにワニ皮のコンビの靴というバッパーの出で立ちで汽車に乗り込みます。目的地はルイジアナ州モンローという街、セントルイスを過ぎると車両に農夫たちが続々乗り込んできて、彼らの抱えた麻袋の中から、生きたニワトリや豚、リスやフクロネズミの鳴き声や臭いが旅のお供だった。どうにか目的地に到着したものの迎えが来ません。KDは入団初日の情景をこんな風に書いている。

artboo.jpg  本番ギリギリになってやっと迎えが来た。最初に挨拶したのがアート・ブレイキーだ。『おーい、ここだ!』と彼が叫び、初対面・・・というか、初めて間近で見るMr.B(ビリ-・エクスタイン)に紹介され、彼の楽屋に同行した。Mr.Bが着替えを始めると38口径のコルトが露わになった。楽屋を見回すと、武器が沢山あったが、テキサス出身の僕はそんなに気にはならなかった。

 舞台に上がると、僕の座席はブレイキーの隣だ。初日のこの夜、彼のドラムで僕の鼓膜は破れそうになった。だが、その晩まで、こんなに素晴らしいコントロールとドライブ感のあるドラムは聴いたことがない!それは生涯の思い出になる夜だった。”ラブ・ミー・オア・リーブ・ミー”では、4小節のブレイクが僕に回ってきた。ファースト・トランペットのレイモンド・オールから送られた合図で、僕の人生は物凄く大きな一歩を踏み出したんだ。その4小節を難なく吹き切った途端、メンバー達の歓声が湧き上がり、ブレイキ-得意のあのプレスロールが炸裂した。それはみんなが僕を仲間として受け入れてくれたしるしだった。殆ど23年経った今も耳に焼きついている。」

 エクスタインはKDを弟のように可愛がってくれました。ピッツバーグの自宅でごちそうしてくれたり、クリスマスには上等のレザーのジャケットをプレゼントしてくれた。ところがKDはその恩に背くことをやらかした。日米限らずバンドマンは「呑む、打つ、買う」、KDもギャンブル三昧で生活が荒れ、Mr.Bにもらった大切なジャケットも手放した。挙句の果てに、楽屋でバンドのメンバーと拳銃がらみの暴力沙汰を起こし解雇された。在籍期間丸一年。やれやれ…

<チャーリー・パーカーとパリへ>

 MaxRoachband.jpg

 ビリー・エクスタイン楽団の経歴でハクが付いたKDは、様々なバンドを渡り歩くようになります。そんななか、1948年12月、”ロイヤル・ルースト”でチャーリー・パーカーと共演していたハリー・ベラフォンテがやって来て「バードが君に会いたがってる。」と言付けをもらった。

 「マイルズが自己バンドを率いて独立することになった。もしよかったらうちで演らないか?」

 KDは次の日からチャーリー・パーカー5のレギュラーとして”ロイヤル・ルースト”に出演。1948年のクリスマス・イヴでした。KDは翌年の春、バードとフランスの国際ジャズ・フェスティヴァルに出演。一旦、レッド・ロドニーと交代するものの、断続的に共演を続け、バードの死の一週間前、最後の演奏でもバンドスタンドを分け合いました。

 ツアーを共にし、毎夜共演していてもバードはミステリアスな存在でありつづけました。とにかく性格的に暗いところは微塵にも見せない天才音楽家だったけれど、在籍中たった一度のリハーサルを除き、本番以外に顔を合わせたことがなかったというのです。プラベートな時間はどこで何をしているのか全くわからなかった・・・

(つづく)

 

ビバップ・カウボーイ:ケニー・ド-ハムの肖像(1)

COPE-QUIET-KENNY-J.jpg

6月「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に、ハードバップの味わいがぎゅっと詰まった永遠の愛聴盤『静かなるケニー』登場!濃密なのに、こんなに誰にも愛されるアルバムも珍しい。「完璧」ではありながら、やりすぎない「程のよさ」!粋だ!しかもレーベルは”New Jazz”=つまりプレスティッジですから、このきめ細かく行き届いた名盤はほとんどぶっつけ本番のワン・テイク録りで生まれたということになります。 Kenny Dorham 2.jpg 大都会の「粋」と「憂愁」が漂うKDのトランペットですが、意外にも彼が生まれたのは、NYから遠く離れた西部の大平原でした。彼の幼少時代に聴いた音が、彼のプレイに大きく反映しているといいます。  KDは音楽だけでなく、並外れた文才があり、ミュージシャンの視点から鋭いツッコミを入れるレコード評やエッセイもとてもおもしろい。彼が晩年、晩年(’70)にダウンビート誌に寄稿した自伝的エッセイ”Fragments of Autobiography in Music”には、ビバップやハードバップの中には、彼が幼いころに聴いた大自然の音が取り込まれていると書いてあります。 KDことケニー・ド-ハムの生い立ちをちょっと調べてみることにしました。 この自伝は、現在ではなかなか入手困難、ジャズ評論家の後藤誠氏にコピーを頂いて読むことができました。後藤氏に感謝!

 

<大いなる西部>

post_oak_texas__kwipfn24_24_.jpg

  ケニー・ド-ハムが生まれたのは大正13年=1924年、テキサス州のポスト・オークという土地。街でも村でもなく、土地だった。そこには大きな樫の木が群生し、オールトマンという一家の農場があったので便宜上そう呼ばれていただけ、地図にない地名だった。 『名前の無い場所に住むっていうのがどんなものか想像してみてくれ。』と彼は書いています。20kmほどいくとやっとフェアフィールド市という人里がありますが、その街ですら現在も人口2000人足らずという大西部!両親は農場の小作人で、KDも幼い頃から、白人の農場主の息子たちと一緒に仔馬を乗り回し、家畜の世話や農作業をして育った。そんな彼が最初に親しんだ音楽が自然の音、つまり鳥や動物の声だった。モッキンバード(!)を始め、カラスやキツツキ、夜鷹、ウグイスなどの鳥の声や虫の声、それにコヨーテやガラガラヘビ…それらの生き物の声と、テキサス東部を横断する鉄道の汽笛のハーモニーを楽しんだ。夜汽車の汽笛の哀愁はドーハムの記憶に大きく残っているといいます。そういえば「静かなるケニー」の”Alone Together”にも、そんな静けさと哀愁が漂っていますよね。

<ビバップとヨーデルの不思議な関係> 

 blackcowboys.jpgジャズと出会う前、KDが憧れた音楽家は、夜汽車やヒッチハイクで放浪し、民家に食べ物や一夜の寝床を恵んでもらってはブルーズを歌って聴かせる流れ者(Hobo)、それに農作業をしながら巧みなヨーデルを聴かせるカウボーイ達。 

ケニー・ド-ハムはヨーデルの歌声とビバップのフレーズの関係を、こんな風に語っています。

  「 ヨーデルというのは、カウボーイや農夫が、初期の西部のフォークソング・スタイルで即興演奏をする道具だった。これぞ西部の上流生活!綿摘み農夫がその日の最後の綿を袋に詰め終わったとき、彼がヨーデルを歌うのが聞こえるよ。後になって、チャーリー・パーカーやキャノンボール・アダレイが、ホーンでそんなヨーデルと同じメロディを吹くのを聴いたことがある。 

   カウボーイがひとりぼっちで牧場で作業していると、一日の終わりに歌うヨーデルが聞こえる。仕事を終えて、囲い檻で馬の鞍を外す間、カウボーイはヨーデルを歌うんだ。カウボーイっていうのは、見せたり聞かせたりする芸当を色々持っていて、それらはしっかり仕事と結びついていた。芸はどうやら彼らの生活の一部になっているようだった。」

  KDもそんなカウボーイに倣って、いろんな芸を身につけ、5才の頃には見よう見まねで、ピアノを両手で弾いてみせることが出来たそうです。

<ルイ・アームストロングは大天使に違いない> 

Louis-Armstrong1932_publicdomain.jpg

  人里離れた農場で育ったKDがジャズと出会ったのは12才と遅い。ジャズは、ポストオークから車で一時間ほどの街に住んでいた姉から伝わった。年の離れた姉さんは、やはり音楽の才能があり、ピアノと歌で学費を稼ぎ、結婚してパレスタインという街に住んでいた。その姉が実家に帰ってくると、街で流行する「ジャズ」という音楽のこと、そしてルイ・アームストロングの話をしてくれた。

 姉さんによると、ルイ・アームストロングは本当に素晴らしくて、聖書に出てくる「大天使ガブリエルに違いない。」というので興味が湧いた。 

archangel_gabriel_blowing_trumpet_relief_color_lg.jpg ガブリエルは、神の使いとしてマリアさまに受胎告知した天使で、ラッパを持っていて、神のお告げを伝えるのです。ラジオから流れるルイ・アームストロングのペットも歌も、ガブリエルそのままに神々しいものだと、街で評判だと言うのです。そして姉さんは、まだヨーデルとウエスタンと讃美歌以外に音楽を聴いたことのない弟の将来について予言した。 

 「この子が音楽を聴いて飛んだり跳ねたりするのを見たでしょう!この子は、きっと音楽家になるわ。ルイ・アームストロングみたいな偉大なミュージシャンにね!」 

 同年KDは、ハイスクールで教育を受けるため、親元を離れテキサス、オースティンの親戚の家に下宿し、姉さんが両親を説得してKDにトランペットを買い与え、正式なレッスンを受けることになります。

Clark_Terry_copy1.jpg テキサスはフットボールが盛んな州、アメフトの応援に欠かせないのがチアリーダーとブラスバンド!だからトランペット奏者の層は厚くレベルがとても高かった。全米各地のハイスクール・ブラスバンドの交流も盛んでした。才能のある学生トランペッターがいると、プロのスカウトマンやミュージシャンがゲームにやってきて、青田刈りするということが、フットボール選手だけでなく、応援するブラスバンドの団員にも行われていたのです。なかでも遠く離れたセント・ルイスに、恐ろしくうまい神童が2人いるという噂が鳴り響いてた。それがクラーク・テリーとマイルズ・デイヴィス!

 

  一方、KDのブラバン活動は神童と言えるほどのものではなかった。耳の良いKDは、ラジオで聴いたジャズのメロディーをすぐに吹けてしまうものだから、練習の合間に、ついつい聞き覚えのフレーズを吹いてみる。それが体育会系のバンマスの逆鱗に触れてあえなく登録抹消。KDはさっさとボクシング部に転向し、そこでもなかなかの成績を上げ、同時にジャズに対する興味は衰えず下宿先の納屋で一人練習、化学専攻でウィレイ・カレッジに進学しますが、大学では音楽理論の授業ばかり受け、その頃にはピアノもトランペットも相当な腕前になっていた。

 <ビバップ開拓時代の夜明け> 

Kenny_DorhamAG400.jpg

 KDは1942年に徴兵され、陸軍のボクシング・チームに入った。マイルズといい、KDといい、トランペットとボクシングにはなにか密接な関係があるのかもしれません。ボクシングの合間には、同じ隊にいたデューク・エリントン楽団のトロンボーン奏者、ブリット・ウッドマンとジャズ三昧!そんなときに出会ったの音楽がビバップで、KDはこの新しい音楽に夢中になりました。 

 1944年に除隊した後は、ジャズ修行に各地を転々とし、カリフォルニアまで行きますが、自分の求める音楽は西海岸にはなかった。そこで東に進路を変えNYに、翌年、ディジー・ガレスピーの弟子としてガレスピー楽団に入団。ここからKDのハードバップ開拓時代が始まります。(つづく)

 

 

NYアンダーグラウンド・レジェンド、東出(あずま いづる)さんの思い出

 OverSeas創立35周年、ここまで支えて来て下さった新旧のお客様、本当にありがとうございます。思い起こせば、数えきれない出会いと別れがありました。

azumaSCN_0050.jpg

旧店舗にて、東出(as)ピアノは寺井尚之(念のため)

 かつてインターネットもない時代、OverSeasに、東出(あずま いづる)さんというアルト奏者が出演していました。NYと日本を往来しながら活躍していたバッパーで、日米共通のあだ名は”Del /デル”さん。でも私たちは尊敬を込めて東さんと呼んでいた。目にも耳にも、正真正銘のバッパー!1958年頃の生まれだったと思います。現在OverSeasに出演しているアルト奏者、岩田江さんは一世代下の後輩で、20年以上前、OverSeasで東-岩田コンビを聴いたこともあります。岩田さんもすごいプレイヤーになったなあ!

 東さんは、いつもきれいに髪を撫で付け、細身の体にビシっと上等のスーツ姿でバンドスタンドに現れました。カットタイムで足カウントを取りながら、濃密で艶のある音色、疾走感いっぱいプレイは、バップの魔力が一杯で、Now’s the Time、Mama Duke、Donna Leeで激しくスイングするかと思えば、”アダルト・タイム~”なんて言ってからBody and Soulで泣かせた。スーツでプレイしていたのは、NYの長老ジャズマンに「バッパーはギグのときはネクタイしてきっちりした格好やないといかん!」と言われたからだそうです。

azumaSCN_0051.jpg 寺井尚之も東さんが大好き!だってバッパーだから!バップの言葉で音楽の会話ができるから。いつも共演するのを楽しみにしていました。その頃はバブル時代で東出(as)さんの出演日はいつも満員!

 日本でのホームグラウンドの京都では、市川修(p)さんと盛んに共演、数々の武勇伝が大阪まで聞こえてきて、とにかく伝説の多い人だった。

 高校中退でNYに飛び出したストリート・スマート、師匠は、”チャーリー・パーカーとオーネット・コールマンの接点”と言われたポスト・バップのアルト奏者、クラレンス”C”シャープ(Cシャープ)。その師匠は「セントラルパークに住んであるねん!」と言っていた。つまりホームレス。一流なのに、おそらくはクスリの問題もあって、アンダーグラウンドの伝説的ミュージシャンだった人。NYでは、フランク・ガント(ds)やフレディ・レッド(p)、ギル・コギンズ(p)、ジャズ通ならあっと驚くような渋いミュージシャンと共演してた。アート・ブレイキーの長女でヴォーカリストのイブリン・ブレイキーが来日公演中、わざわざ東さんを訪ねてOverSeasにやって来たこともあります。

 当然東さんはバイリンガルでしたが、「八百屋」を「野菜屋」と言ったり、日本語のほうが少したどたどしかった。でも噂によれば、お父さんは立派な学者さんらしい。とはいえ、気取ったところはなく、腰が低く、後輩に優しい。ちなみに、お兄さんは京都のTボーン・ウォーカーと言われる伝説のブルーズ・ギタリスト、ますます不思議な人だった。 7月にOverSeasにやって来る名ドラマー、田井中福司さんのNY仲間でもあります。

 どんなに貧乏していても良い音楽さえ出来れば幸せ!そんな彼にとって、日本のジャズ・シーンは少々窮屈なものだったのかも知れない。かぐや姫みたいに、長く日本にいると、元気がなくなるように見え、そうすつとNYに旅だった。そんな事が何度かあって、とうとう阪神淡路大震災の前日、東さんは家族を残しNYに・・・それっきり20年が経ちました。

 東さんのことを懐かしく思うのは私たちだけではなく、実際にNYまで探しに行った人がいた!

1619215_317237571734394_2314342218057315847_n.jpg左:東出さん、中央:写真提供感謝!DJ有田弘慶氏、右:unknown 

 
 関西でDJとして活躍している有田弘慶さんは何度か渡米して、二年越しで東さんを発見!東さんは、あれからずっとNYのディープな場所でセッションし、ストリートで演奏を続けていた!これまでの人生で、今が一番最高の音を出せるようになったと充実しているらしい。

その間に、私も東さんの近況をよく知る方と出会い、とても不思議なめぐり合わせを感じました。

 有田さんがFBにこの写真をアップした数日後、こんどは東さんの奥さんとお会いした!彼女はとても素敵なお顔で、素晴らしい人だった。なんかすごく懐かしく、親戚に出会えた気分になりました!あの頃幼子だった息子さんは、一流大学を卒業後、現在は大きな会社に勤務されていて、何度もNYで家族の再会をしていると伺い嬉しかった!

 この出会いをお膳立てしてくれたのが、東さんのお弟子さんのアルト奏者で時計修理のエキスパート。腕時計と心の時計を同時に修理してもらって感謝するのみです。

 東さんゆかりの方々は、彼がもうすぐ帰ってきそうな予感がすると言います。東さんがインターネットでこの記事を見ることはないでしょうが、もしも帰ってきたらまたOverSeasで寺井と一緒に共演してくれる日が来ますように!

*6/12 更新記録:東さんのご家族に頂いた情報を元に、フリガナ表記(あずま いずる いづる)など若干修正を加えました。東出さんのジャズライフについては、今後も書いていきたいと思います。

知っておきたいステファン・グラッペリ

grappelli.jpg

ステファン・グラッペリ(1908-1997)

 ジャズ・ヴァイオリンの神様、ステファン・グラッペリは、天才ギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトの音楽パートナーとしてとても有名ですが、グラッペリの音楽世界はそこに留まりません。クラシック音楽からロックまで、70年以上(!)の楽歴上、その自由闊達なフランス的音楽言語に魅了された共演者は、エリントン、シアリング、ピーターソン、ハナ+ムラーツ、メニューイン、ヨー・ヨー・マ、ピンク・フロイドまでボーダレス!
 フラナガン一筋の寺井尚之でさえもが、一時「グラッペリみたいに弾きたい!」と、真剣にヴァイオリンへの転向を考えたことがあったとか。土曜日は、グラッペリが音楽を担当した巨匠ルイ・マル監督映画「五月のミル」が公開された’89年の、衰えを知らないグラッペリの演奏映像が観れるのがお楽しみ!ということで、講座前に知っておきたい巨匠のあれこれを、書き留めておくことにしました。

<孤児院育ち>

51AYRGPELxL._SY300_.jpg

 グラッペリの生い立ちは、高貴な芳香を発する演奏からは想像できません。少なくとも天才には、品格と貧富は無関係なようです。父、エルネスト・グラッペリはイタリア人の哲学教師で、政治的理由からパリに移り住みました。母アンナはステファンが3才の時に他界、哲学者はバッパーと同じくらい貧乏ですから、お母さんは相当苦労して命を縮めてしまったのかも知れません。父は幼い息子の養育に困り、孤児院に預けました。その孤児院はカトリック系、恐ろしく厳格で質素な施設だった。初等教育は天才舞踊家イサドラ・ダンカンが主催する舞踊学校でしたが、入学直後に第一次世界大戦が勃発、あえなく入学後6ヶ月で閉校。一方、父はイタリア軍に徴兵されパリを離れることになり、ステファンは孤児院を転々とします。人格形成に大切な6才から10才までの時期、三度の食事はおろか、着るものもベッドもなく、床で寝起きする極貧生活を送り、栄養失調で死にかけるほどでした。舞踊は性に合わなかったけれど、路上のフィドラーや、学校で聴いたドビュッシーのコンサートで、ヴァイオリンに魅せられ、自分も弾いてみたいと強く思うようになります。

 1918年、終戦で復員した父は、やせ細った息子の姿に驚き、すぐさま孤児院から引き取って、親子はモンマルトルの小さなアパルトマンに落ち着きました。

 お父さんは、息子に好きなヴァイオリンをさせてやろうと、乏しい収入を工面してイタリア人の靴屋さんから中古のバイオリンを譲り受けてくれた。でもレッスンさせてやる余裕はない!お父さんは、哲学書を読むために利用する図書館から教則本を借りてきてくれた。学習の糧は家にあった足踏みオルガンと、無料のコンサート、それと図書館で借りた教則本、それらを駆使して独学でバイオリンを習得し、14才でプロデビューしました。仕事は無声映画のための映画館専属オーケストラ。グラッペリはプロになってから、正規の音楽教育として「パリ国立高等音楽学校」で学びましたが、ジョージ・ムラーツにとってのバークリー同様、、さして習うべきことはなかったようです。

 やがて父親は再婚しストラスブールへ転居することに。その時ステファンは迷わずひとり立ちして、パリでやって行こうと決意しました。折しも「狂乱のジャズエイジ」、パリのダンスホールや南仏のリゾートなど職業音楽家として仕事には困らず、ルイ・アームストロングやビックス・バイダーベックといった、新大陸の即興音楽に転向、1934年にジャンゴ・ラインハルトと組んだ”フランス・ホット・クラブ五重奏団”で世界的に大ブレイクすることになるのです。

<大恐慌にもらったピアノの腕>

 stephane_piano24.jpg

 ステファン・グラッペリで盛り上がると、必ず話題になるのがピアノの至芸!うまいのなんのって、ヴァイオリン同様、美しいタッチ、鮮やかなテクニックと並外れた想像力!そんじゅそこらのピアニストなんて相手にならない。ヴァイオリン持ってなかったら、今頃「フランスが生んだピアノの巨匠」としてジャズ史に残ってるかもしれません。彼があれほど弾けるのはジャズエイジの後の大恐慌でフィドラーとしての仕事が激減し、ピアニストとして2年間活動していたからです。ある時はソロで、またある時は楽団で、パリに集まる国内外の富豪や著名人が集うパーティの余興で稼ぎまくった。豪華パーティでは憧れのガーシュインに遭遇、握手してキスをした。ガーシュインはとても謙虚な人だったそうです。その時わずか19才。
 グラッペリ曰く、ピアノが好きな理由は二つ:

  1. 大きな宴会場でもソロで仕事ができるからお金が儲かる
  2. ハーモニーを演奏できるところが好きだ。

 「私は2年間ヴァイオリンを箱から取り出すことはなかった」とグラッペリは述懐しています。
 けどね、いくら不景気と言ったって、ピアノで稼ぐのは並大抵ではないはず。どうやってそこまでピアノがうまくなったんですか?
 「ヴァイオリンでも料理でもみんな一緒だよ。教本を読むことと、優れた人を見習っただけだ。」
 

 実のところ、グラッペリがプロとして演奏した楽器は他にもあって、様々なサックスや、アコーディオンなど、色々兼業していたらしい。丁度、同じ時期にアメリカが生んだ天才、ベニー・カーターと相通じるものを感じますね。

<ジャンゴへの愛憎>

django1.jpg

 Django Reinhardt(1910-1953)

 ジプシーの天才ギター奏者、ジャンゴ・ラインハルトとの出会いは1929年のこと。とあるクラブで演奏が終わるなり、色黒の大男に声をかけられた。

 「君みたいな人を探してたんだ!とうとうHotに演奏するヴァイオリニストにめぐり合えた!」それがジャンゴだった!でも、それっきりで2年が経ち、ある日、シャンゼリゼのカフェで対バンとして偶然再会。遊びで共演してみるとこれが大好評、ベルギー人の若きジャズ評論家、ヒューゴー・パナシエが熱狂し、瞬く間にコンサートをやろうというプロモーターも現れ、気がつけばパリ一番の人気バンドになっていた。諸国の王様や王女様、コール・ポーターもハリウッド女優も石油王も、皆こぞって”フランス・ホット・クラブ五重奏団”に熱狂したのでした。でも、ジャンゴとうまく付き合うのはほんとに大変だった。

 見た目からも判るようにグラッペリはとても清潔できっちりした身なりだし、ギグの時間には絶対遅れない。それは孤児院で厳しく躾けられたせいかも知れません。ところがジャンゴは正反対、ジャンゴの知性は並外れたものだったけれど、字を読むことのできない文盲でした。ジプシーはキャラヴァンで移動し、定住しない民族だからホテル生活は大の苦手、天才だけど大人気ない、飲む打つ買うの三拍子、遅れるどころか仕事をすっぽかすことさえ度々ありグラッペリをほとほと困らせた。

 例えばエリゼ宮殿の大きなパーティの余興で招かれた時には、演奏時間が近づくと雲隠れ、仕方なくグラッペリが宮殿のリムジンに乗り込み、街中探すと、ジャンゴは裏通りのビリヤード場でベロベロになっていた。それを起こして風呂に入れ、ギターを持たせて宮殿に連れ帰った。四つ星フォーシーズン・ホテルの仕事では、ジプシーのキャラバンに潜伏しているのを捕獲。グラッペリが問いただすと、「カーペットがフワフワで足が痛くなったからいやだ。」と言う。やれやれ・・・
 英国のコンサートでは、司会者がグラッペリの名前をジャンゴより先にコールしちゃった。するとプライドを傷つけられたとぶんむくれ、1音も発することなく途中で帰っちゃった…

  音楽家として敬愛しながらも、一度スネると一週間は口もきかない子供っぽさと、見え透いた嘘の言い訳、どうしようもない男だと、ほとほとうんざりしてしまったのだそうです。グラッペリがジャンゴについて語るときは、いつも愛憎こもごも、彼にとっては、現実的な生活力に欠けた哲学者であった父親に対する愛憎と、ろくでなしの天才ギタリスト、ラインハルトへの感情が、つねにオーバーラップしているように感じます。だからこそ、グラッペリ自身は、プロとしてきちんと稼ぎ、同時に、天才音楽家であり続けようと固く誓ったのかも知れませんね。

 george_shearing_trio._stephane_grappelli-the_reunion.jpg

 私にとって一番印象深いのは、1970年代にMPSからリリースされた一連のアルバムです。ジョージ・シアリングや、サー・ローランド・ハナ、オスカー・ピーターソン・・・当代一流のピアノ・トリオとフレンチ・アクセントで繰り広げる自由闊達なプレイには、今でも胸が躍ります。1980年代には大阪で一度だけグラッペリのコンサートを観ることが出来ました。

 レパートリーはさほど変わらなくても、聴くたびに新鮮で、底抜けの「自由」を感じることができるヴァイオリンの神様。グラッペリの崇拝者、寺井尚之の解説はどんなことを教えてくれるのかな?土曜日が楽しみです。

「幸せなときも、哀しいときも、恋をしていた若かりしときも、いつも私は最善のプレイをしてきたし、これからもそうする。常に悩みを抱えていたとしても、演奏すれば全てを忘れる。私の中に二人の人間が同居していて、片方は演奏だけしているんだ。」 ステファン・グラッペリ
  

 *ステファン・グラッペリの遺族に娘さんはいますが、結婚歴はありません。

 

参考資料

  • American Musicians 2 (Whitney Balliett 著) Oxford University Press刊
  • The Telegraph: Stephane Grappelli Obituary
  • http://www.answers.com/topic/stephane-grappelli

 

再掲:楽器演奏と歌詞の関係:Jimmy Heath

  米国議会図書館の音楽部門で上級図書館員としてジャズ史の資料保存に貢献し、ジャズ評論家として、ブロガーとして情報発信するLarry Appelbaumさん、先日ひょんなことからFBを通じて、有益な情報を色々教えていただきました。

 そのきっかけになったのがアッペルバウムさんのジミー・ヒース・インタビュー on Youtube、面白かったので再掲します。

 ジミーのトークは、いつでもこんな感じでスイングしてます。ラッパーよりもクールだし、話し方がビバップ・フレーズでしょ!

  冒頭、巨匠ベン・ウェブスターの「歌詞を知らないラブソングは演らない」主義はきわめて有名な話、デクスター・ゴードン主演のジャズ映画『ラウンド・ミッドナイト』でも、このエピソードが巧みに使われていた・・・

 たいへん判りやすい英語ですが、念のため和訳を作りました。ジミーの話し言葉みたいにヒップじゃないけどゴメンネ。


  

<Jimmy Heath: Why Ben Webster Learned the Lyrics>
(ジミー・ヒース:ベン・ウェブスターが歌詞を覚えた理由。)
2011年2月  Mid-Atlantic Jazz Festival(メリーランド州)にて。
司会:ラリー・アッペルバウム

「訳」ben_webster.jpg

 ベン・ウェブスターはテナーサックス史上、最高のバラード・プレイヤーだ!ほら今流れているプレイを聴いてくれ。Crying! 泣けるぜ!

  じゃあベン・ウェブスターの話をしよう。昔、ベンが住んでいた街、コペンハーゲンに行ったときのことだ。ベンは僕が歌詞を知ってると見込んで、「”For Heaven’s Sake”を演奏したいから教えてくれ」と言った。ビリー・ホリディで有名なあの歌だ。「ラブ・ソングは、かならず歌詞を覚えてから演る。」と彼は言った。つまりサックスで歌詞を歌うというわけだ。判るかい?

 だが僕の友達のジョニー・グリフィンは全く違う意見だ。「歌詞は要らない。俺はサックス奏者、サックスは歌詞でなく音符を吹くんだからな!」まあ、人それぞれだ。

Billie+Holiday.jpgのサムネール画像

  私の場合はどうするか?ビリー・ホリディの「Lover Man」というバラードで説明してみよう。(歌詞がなく)音符だけなら、こんな風に吹くだろう。(スキャットしてみせる)OK?

 じゃあ次は、歌詞をつけて歌ってみるよ♪ “I don’t know why but I’m feelin’ SO sad…(なぜだかとっても寂しい)・・・「ソー・サッド」じゃなく自然に「ソ~~・サア~ッド」となるじゃないか。大違いだろう!(次の節)“I long to try something I NE~EVER had. (決して知らなかったものに憧れる。)” 歌詞がつくと抑揚が出て、メロディに表情が生まれる!僕の求めるのはそこだよ!もともと楽器は「ヴォイス」を出すように作られている。どんな楽器も、人間の声の真似なんだ。

 ジョニー・ホッジス、ポール・ゴンザルベス、そしてベン・ウェブスター!彼らのバラードは格別で、聴く者の胸を打つ。だがサックスはこんなこともできる。(スキャット)ブラブラバリバリ○×△☆…こんなのはテクニックをひけらかしているだけなんだよ。見せびらかしから感動は生まれない。

Yusef+Lateef.jpg

マルチ・リード奏者、ユセフ・ラティーフ

 今日聴いたものとは少し毛色が違うけど、グローヴァー・ワシントンJrにも、ぐっとくる歌心があるよ。

 僕の親友、マルチ・リード奏者、ユセフ・ラティーフは、ソウルフルなブルースが得意だ。弟のTootie(ドラマー、アルバート・ヒース)から聞いたんだが、あるとき、彼がブルースを演奏すると、店のオーナーに苦情を言われたそうだ。

 「おいおい!そんな風にブルースを吹かないでくれ!お客が聴くことに専念して、ちっとも酒が進まねえじゃないか!売り上げが減るんだよ!」(爆笑)

 音楽は面白いね!時にはエクサイテンィグに演奏することもできる。どんな場合も、おおむね、心や頭から湧き出るものを演奏しているわけだ。

 僕は「Three Ears: 3つの耳」というシンフォニーを作曲した。音楽は耳で聴く、その耳はいろんな場所にあるという曲だ。心にも、ケツにも、脳にも耳があるんだ。だから音楽はこれほど好まれる。ごきげんなビートならどうだい?ビートは強力だ。身体が勝手に動く。(お尻を指差して)つまり身体で聴くわけさ。クラシック音楽なら?例えばこんな交響曲(スキャットする)いいねえ!心に響くねえ。沢山の音楽家が、こういうクラシック的なものをポップ・ソングに作り変えたんだ。

 それじゃ僕がずっと聴き続けるディジー・ガレスピーはどうか?例えば、『Woodyn’ You 』という曲、あのコード・チェンジ、メロディもまた格別だ。彼の音楽の何か特別なものが、僕の心を強く揺さぶるんだ!

billyx_sarah.JPG

サラ・ヴォーン&ビリー・エクスタイン

  歌手はどうだい?サラ・ヴォーン、いいなあ!僕は彼女に恋してる!いや、音楽的にということだが…。サラは僕の心を打つ。カーメン・マクレエ、いいなあ、ビリー・エクスタイン、いいなあ!僕はサックス奏者の代わりに歌手になりたかった!だけど、もしそうだったら、誰も僕が歌うのを聴いてなかったかも知れない・・・だって女の子達は大きくてハンサムな歌手が好きだから、背が高くてハンサムじゃないとなあ!(ジミーの身長は160センチ程度で、Little Giantと呼ばれている。)ビリー・エクスタインみたいにね!WOW!

 (あなたもジャイアントですよ!)(笑)

<了>


  アッペルバウムさんのジャズ・ブログ(英文)”Let’s Cool One : musings about music“はこちらに!

トミー・フラナガン・トリビュートの前に読みたいAmerican Musicians(最終回)

 TF84image.jpg

<演奏のこと、レパートリーのこと>

 「このあいだヴィレッジ・ヴァンガードで、ある人物に、私が影響を受けたピアニストは誰かとしつこく尋ねられた。実は(ピアニストではなくて)ホーン奏者のようなプレイを狙っているんだけどね…つまりピアノでブロウするわけだ。
 演奏で一番気を使うのは、一曲のサウンド、つまり全体のトーナリティだ。もしCのブルースを演るなら、全体が一つの円になるようにプレイしなければならない。頭にはCのサウンドをしっかりキープしながらも、心はそのサウンドに覆われて茫洋とするわけだ。(トーナリティに比べれば)曲のコード進行もメロディも、さほど重要ではない。でも弾いているときに迷ったときには、メロディとコードが道標になる。

 僕の取り上げる題材に、目新しいものは殆どないよ、僕にとっては新鮮だとしてもね。新曲をレパートリーに加えると、プレイが高揚する。特に好きなのは(ジェローム・)カーン、(ハロルド・)アーレン、ガーシュイン、それにデューク・エリントン―ビリー・ストレイホーン、タッド・ダメロンといった作曲家たちだ。まあ何を演ろうと、演奏するというのは大変な仕事だ。一週間続けてギグをやった後は、とにかく休みたい!癒されたい!」

tommy-flanagan_1_g2.jpg

 フラナガンは真剣に聴くことをリスナーに求める。シングルノートのメロディラインは上へ下へと動き続けるが 、彼はパーカッシブなプレイヤーでもあるから、思いがけない音にアクセントを付ける。絶え間なく変化するフレーズはリスナーに挑みかかると思えば、また遠ざかる。その結果生まれるダイナミクスは微妙で、しかも魅力に溢れている。縦横の双方向に流れるメロディに、聴く者は2本のラインが動いているような印象を受けるし、フラナガンはその両方をしっかり聴いて欲しいと思っているのだろう。このラインの内側が、また違う動きを見せる。―倍テン、倍ノリの動き、それにフラッテッド・ノートの塊、ダンスするように疾走感のあるパッセージ、そして休符-それは前のフレーズの余韻を響かせる空間だ。フラナガンはまさしく超一級である。

 時として、天気が良く、聴衆が熱意に溢れ、ピアノも良く、最高の雰囲気になると、彼の情熱はすさまじいものになる。一旦そうなると、もう手がつけられない。熱いインスピレーションを沸き立たせ、息を呑むソロ、ソロ、ソロ繰り出し、一夕を弾き通す。すると聴衆は、神々しい出来事に立ち会ったような気分にさせられる。

<ダイアナ・フラナガン再登場>

diana3915162301_630cf959e4_o.jpg

 ダイアナ・フラナガンが居間へ入ってきた。するとフラナガンは立ち上がり伸びをして、散歩の時間だからと言う。今日のコースはリンカーン・センターに向かって南下し、セントラルパークを通って帰宅する、そう言って日除け帽をかぶると部屋を出て行った。

 ダイアナ・フラナガンはクッキーをつまみソファに腰掛けた。
彼女曰く、今までの人生で、一番良かった行いは、NYに来たことと、フラナガンとの結婚だ。

  「私はアイオワ州エイムズからNYにやって来ました。父が転々として落ち着いたのがアイオワだったので。生まれた場所はケンタッキー州ラッセルビルで、そこから、テネシー州クラークスビル、ケンタッキー州ホプキンスビル、ノースキャロライナ州、ゴールズボロなど色んな場所に移り住んで育ちました。父はセールスマンで保険や紳士服、冷蔵庫、色んな営業マンをして、ナショナル・キャッシュレジスターにも務めてました。物静かで、洞察力があり優しく上品な人でした。父の名前はウイリアム・キルシュナー、スコットランド、アイルランド、ドイツの血を引いています。トミーも私も、父がテネシーに住んだことがあったので、テネシーの言葉使いが一緒だったんです。例えばテネシーでは「靴べら」のことを「スリッパのスプーン」と言うんです。父は1971年に亡くなりました。

B00000GWXL.01_SL75_.jpg 母は老人ホームで暮らしており、もうすぐ90才です。フィラデルフィア出身で名前はルース・ステットスンと言います。母方の祖父はイングランド人で、祖母はフランスとアイルランドの混血、母はいつも音楽や書物が趣味でした。ウイットがあり、感情の起伏の大きい人でした。私はアイオワ大学で奨学生として2年間音楽を学び、NYに出てきたのは1949年です。ずっと、自分の落ち着く場所はNYだと思っていました。9-10才頃、1939年のNY万博に連れていってもらってからずっとそう思っていました。NYに行ってからはコロンビア大の演劇科に進みました。それとは別にバイオリニストや歌手もやりました。芸名はダイアナ・ハンター…ああカッコ悪い! NY界隈で歌ったり、エリオット・ローレンスやクロード・ソーンヒルの楽団とツアーもしたわ。ソーンヒルは私にとても親切でした。今でも彼のプレイはビューティフルです!”スノウ・フォール”とか、夢見るようなシングルノートのサウンドがいいわね。

youngdianatommy.JPG

  1956年、私はエディ・ワッサーマンというテナー奏者と結婚しました。彼はジュリアード出身でチコ・オファレル、チャーリー・バーネット楽団で活動、ジーン・クルーパー・カルテットにも長いこと在籍していました。私は1962年にプロ歌手を引退し、エディとは1965年に離婚しました。それからシティ・カレッジで国語の学位を取得し、バンクストリートで教育学を学んで教師になり、最初はベドフォード・スタイブサント、そしてサウス・ブロンクスで10年間、音楽、英語、黒人学などの教鞭を取りました。教師の仕事は、トミーと結婚する直前の1976年まで続けていました。
 私とトミーは、本などを読み聞かせし合うんです。私が興味のあることはなんでも興味を持ってくれるし、彼が興味の持つことは、私も面白いんです。スポーツ以外ですけどね。

Rainbow_room.jpg 彼の優しさや物静かなところは見せかけです。本当は強い男性です。とても気骨があり、面白くて、一緒に暮らすには最高の伴侶です。彼の発言には、どれも表と裏の2重の意味があって、尖っているのよ。二人だけのゲームをしたり、一緒に笑ってばかりいます。彼はダンスもするんですよ。ちょっとしたタップダンスや、サイドシャッフルなんかをこの辺りで踊るの、人前では絶対にしませんが。昔デューク・エリントン楽団を聴きに”レインボー・グリル”(訳註:ロックフェラーセンターの高級展望レストラン 左写真)に行ったことがあって、彼は私をダンスフロアに誘ってくれたのだけど、同じ所に突っ立って左右に身体を揺すってるだけだったわ・・・

 夜が更けたら、彼の伴奏で、今も時々歌ってます。今じゃもう誰も知らないような曲を私たちは沢山知ってるんですもの。」

(抄訳)

原書 ”American Musicians II: Seventy-one Portraits in Jazz, POET (pp 455-pp 461)”  Whitney Balliett 著  Publisher: Oxford University Press,

 Jazz Club OverSeasでは、寺井尚之メインステムがトミー・フラナガンを偲ぶトリビュート・コンサートを誕生月3月と逝去月11月に、開催しています。ぜひ一度お越しください。

“トミー・フラナガン・トリビュートの前に読みたいAmerican Musicians(最終回)” の続きを読む

トミー・フラナガン・トリビュートの前に読みたいAmerican Musicians(2)

three1.JPG

<幼い頃、両親のことなど>

diana3915162301_630cf959e4_o.jpg

    玄関のベルが鳴り、フラナガンが妻を家に招き入れた。

 「トミー、ごめんなさい!荷物が一杯で鍵がどこにあるかわからなくて…ブドウとクッキーを買って来たから、荷物をほどいたらお出ししますね。」

   山のような食料品を抱え、よろよろしながら彼女は言った。ブルネットの美人だ。その黒髪が透き通るように色白の顔を引き立て、ビクトリア朝絵画を思わせるが、声は夫より大きく、動きも倍は早い。

 フラナガンは再び腰掛けて語りだした。

 「心臓発作に襲われたとき、たいしたことはないと言われながらも、17日間入院した。禁煙し、酒を控え、体操も始めた。もっぱらウォーキングするだけだが…とにかく街中を正しいペースで歩く。これは郵便配達だった父親の遺伝かもしれないな。子供の頃、兄弟で父が郵便を配達するルートを計算してみたら、少なくとも10マイル(16km)あった。父は郵便配達の前はパッカード自動車会社で働いていた。とにかく大恐慌時代の行政のほうがずっと手厚かった。

cob651.jpg 僕の父は1891年、ジョージア州のマリエッタの近くで生まれた。第一次大戦で、陸軍に入隊し、終戦後に北部へ移住した。その前はフロリダやテネシーを転々とした。父と僕は背丈も同じでそっくりなんだ。若いうちから禿げていたしね。父も音楽が好きで、カルテットを組みスパッツ姿で歌っていた。ギターを抱えた父の写真を見たことがあるが、実際に弾くのは聴いたことがない。6人兄弟、そのうち男が5人で、僕が末っ子だ。5人もいる男の子をちゃんと躾けるのは大変だから、父は規則をつくって、いつも僕達を厳しくチェックした。悪さをすると、地下室に入れて、特権を剥奪する決まりもきちんとあった。でも父は、まともな人間になるにはどうしたらいいかを完璧に教えてくれた人だった。それに父はある種のユーモアのセンスも持っていた。ジョークを言い始めると、自分でウケて大笑いするんだけど、絶対にオチがないんだ。

53373582.jpg   母の名はアイダ・メイ、小柄で美しい人だった。1895年、ジョージア州のレンズ生まれで、父と同時期に北部に移住してきた。母はインディアンとの混血だ。両親は20才になる直前に結婚し、母は教会の仕事を沢山していた。実際にデトロイトの僕達の地域(コナントガーデンズという黒人居住区域)に教会を開いたのは僕の両親だ。母のほうが父より音楽好きで、アート・テイタムやテディ・ウイルソンも知っていた。僕がそんな人たちのレコードをかけると、『それ、アート・テイタム?』『あら、これはテディ・ウイルソンでしょ?』なんて言うから、僕は嬉しくなったもんだよ。
 母は独学で譜面を読んだ。おっとりしたシャイな人で、料理や洋裁がすばらしくうまかった。僕らの洋服や、綺麗なパッチワークのキルトを縫ってくれた。1930年代の暮らしは決して楽ではなかったはずだが、母は生活苦をスイスイ乗り切って、僕たち家族に不自由を感じさせなかった。milkdoor.JPG母は1959年に亡くなり、父も1977年に86才で亡くなった。父の晩年には、長男のジョンスン・アレキサンダー・ジュニアが父の家で同居し最期を看取った。兄夫婦は今でもそこで暮らしている。姉のアイダは医院で働いていたが今は隠居している。姉には7人子供がいて、末っ子は双子だ。別の兄ジェイムズ・ハーベイは最近亡くなり、ダグラスはデトロイトの教育委員会で働いている。ルーサーはランシングに住み地域の社会福祉の仕事をしている。父の家は玄関と裏側に両方ポーチがあり今は柵で囲ってある。2階と1階に2部屋ずつ、合計4つベッドルームがある。台所口にはミルク・ドアといって、牛乳配達に空ビンを出しておく郵便受けのようなものがある。

 

TF84image.jpg

  僕が幼い頃、辺りは凄く田舎で、道は舗装されてなかったし両側に深い溝が掘ってあった。舗装されたのは1930年代の終わりだったし、地域に学校はなかった。だから、小学校は徒歩1マイル、ハイスクールはバスを2つ乗り継がねばならなかった。学校は人種混合だったが、当時のデトロイトには至るところで激しい人種差別があった。勿論、その結果が1943年の人種暴動だった。この家にはずっとピアノがあった。僕はピアノの椅子にハイハイしてよじのぼれるようになると、すぐピアノで遊び出した。6才のクリスマス・プレゼントに兄弟全員が楽器をもらった。僕はクラリネット、他の兄弟はバイオリンやドラム、サックスなどをもらったから、兄弟でちょっとしたバンドを作り、変てこな音楽を演っていた。だけど、クラリネットは余り気に入らなかった、音を出すのが凄く難しかったから。でもクラリネットのおかげで、譜面が読めるようになったのさ。ラジオのクラリネット教室の講師、マッティ先生にフィンガリングの譜面を申し込んでね。学校でも番組と同じ譜面を教材にしていたから、ラジオで勉強していて、中学に上がるまでにはちょっとは吹けるようになっていたよ。高校に上がったら、学校のバンドに入っても、へたに聞こえず溶け込めるくらいにはなっていた。

Bud_Powell_Jazz_Original.jpg 
 ピアノのレッスンを始めたのは10才か11才位でバッハやショパンを習った。地元で有名な先生、グラディス・ディラードに指示した。彼女の教室は凄く大きくなり、やがて学校を開設して講師を7-8人抱えていた。最近デトロイトでソロ・コンサートを演った時、彼女に会ったがとても元気そうだったよ。でもクラシックを習っていても、僕が聴いていたのはファッツ・ウォーラーやテディ・ウイルソン、アート・テイタム、それに色んなビッグバンドだった。高校時代になると、バド・パウエルが定着していたし、ナット・キング・コールも同じくらい基本になっていた。ナット・コールは、洒落ていてすっきりしたテクニックと、鮮やかなアタックがテディ・ウイルソンと共通していた。それに、すごくスイングしてどの音も弾けるようにバウンスしていた。

<朝鮮戦争>

korean-war-4.jpg

  僕は朝鮮戦争から逃げなかった。終戦間近に徴兵され陸軍で2年過ごした。基礎訓練を受けたのは韓国と同緯度にあるミズーリ州のレオナードウッド基地で、そこは地形まで似せてあった。訓練の終了前に、僕の訓練任務が短縮され戦地に派遣されることになっていた。まさに悪夢だったが、ちょうど、基地の余興のショウでオーデションがあることがわかった。そのショウにピアニストの出番があって、応募したらうまくパスしてミズーリに留まれた。だが1年ほどしてからやはり派遣された。僕はすでに映写技師として訓練されており港町、クンサン(群山)に着任した。戦時下だったから、深夜や早朝に、あの北朝鮮の戦闘機が我々のレーダーをかいくぐって空襲してきた。僕らは空襲に「ベッドチェック(就寝検査)・チャーリー」という名前を付けていた。軍隊のキャリアでただひとつ良かったことは、ぺッパー・アダムス(bs)としょっちゅう出会えたことくらいだな…

pepper-adams.jpg(Pepper Adams バリトンサックスの名手:デトロイト出身 1930-86)

 妻の ダイアナ・フラナガンがブドウとジンジャークッキーを盛った菓子盆を持って居間に入ってきた。フラナガンはクッキーを2枚取り礼を云うと、彼女は台所に戻った。フラナガンは2枚のクッキーを平らげ、ブドウも少しつまんだ。しばらくの沈黙をおいてから、彼はさらに語り続ける・・・ (続く)

 

ginger_cookies.jpg

ビリー・ホリディを彩る二人のアイリーン(2):Irene Higginbotham

 510f25a6.jpg  ジャズ史上に残るビリー・ホリディの名演目”グッドモーニング・ハートエイク”、失恋の苦しみを忘れることが出来ない。そんなら逃げるのはやめた!これからは「哀しみ」と手に手をとって歩いて行くんだ・・・捨てられた女の花道だ!涙の海の向こうの地平線のような歌の心は、70年経っても色褪せません。まるで普通に話しをしているような自然で胸を打つメロディーの作曲者が、もう一人のアイリーン(Irene Higginbotham: ヒギンボサム)です。 

 Only known Irene.jpg

 Irene Higginbotham (1918- 1988)

Jay_Higginbotham,_Jimmy_Ryan's_(Club),_New_York,,_between_1946_and_1948_(William_P._Gottlieb_04121).jpg 長らく”Some Other Spring”の作者、アイリーン・ウィルソンと混同されて、ルイ・アームストロングなどと共演したトロンボーン奏者、J.C.ヒギンボサムの姪であることくらいしかわからなかった謎の作曲家でしたが、一昨年末にChet Williamson(チェット・ウィリアムソン)がマサチューセッツ州ウースター出身の作曲家を語る自己ブログ「Worcester Songwriters of the Great American Songbook」に、これまでの決定版といえる情報を掲載してくれました。ウィリアムソンは”The New Yorker”や”Esquire”誌に寄稿する作家で、ミュージシャン、役者として舞台活動するマルチ・タレント。女優の岸田今日子さんに似た上の写真もこのブログから拝借しました。 

 彼のブログを読むと、ビリー・ホリディと私的に親しく、彼女に相応しいカスタム・メイドの歌を作曲したアイリーン・ウィルソンに対し、ヒギンボサムは職人的な作曲家だったようで、その存在が謎に包まれていたのは、様々なペンネームで作曲活動をしていたからでした。その理由としてあげられるのが、1940年代の「レコーディング禁止令」、ASCAPに所属していた彼女が、ラジオ放送可能なBMI著作権団体に帰属する作品を書くための苦肉の方策だったんでしょうね。

 ASCAPの資料によると、ヒギンボサムはウースターで生まれた後、ジョージア州アトランタに移り、5才でピアノを、13才で作曲を始め、クラシックのコンサート・ピアニストとしてもデビューした。クラシックの作曲家について作曲技法も学び、歌って弾けて作編曲の才もあったのに芸能界は難しい。なかなか職業音楽家としてブレイクできず、NYのビジネス・スクールで速記術を身につけ、事務の仕事に就きながら音楽を続けた。

<ブギ・ウギからロックン・ロールまで>

atamp_stanpy.jpg   彼女が所属していた芸能エージェントがジョー・ディビスという海千山千の策士で、著作料収益を稼ぐための一計を案じました。彼の抱える作曲家達でチームを編成し、彼らの作品の一部をグレン・ギブソンというペンネームで発表したんです。複数の作曲者に多額の印税収入を分割する体裁をとれば節税できるというわけです。グレン・ギブソンは1940年代から’50年代にかけてR&Bの人気グループ”スティーブギブソンレッドキャップス“などでヒット曲を連発しており、ヒギンボサムも相当数の作品をギブソン名義で書いていた。

 それ以外にも、ブギウギの名曲をピアノ用にアレンジした譜面集や、歌って踊る人気コメディ・コンビ、”スタンプ&スタンピー”の持ち歌、果てはCMソングまで、驚くほど広範囲の作曲を手がける本物の職人でした。

<Goodmorning Heartache>

holiday1956.jpg

51ALLDF25jL._SL500_AA280_.jpg ヒギンボサム名義の作品を探してみるとあるもので、古くはコールマン・ホーキンスが若いころ共演していたブルース歌手、マミー・スミスの”No Good Man”や、寺井尚之が大好きなナット・キング・コールの”This Will Make You Laugh”など、やっぱりいい歌が揃っています。 名曲”グッドモーニング・ハートエイク”は、”Perdido”や”Tico Tico”などのいわゆる「後付け」の作詞によってヒギンボサムと比較にならない名声を得たアーウィン・ドレイクとの共作。この二人と並んで作者としてクレジットされているダン・フィッシャーは音楽出版会社のプロデューサーですから名目上の作者だと思われます。

 今年95才になる作詞家ドレイク自身は、ちょうど失恋の矢先だった。結婚を決めていた美しいコーラス・ガールの恋人が彼を捨て、お金のある実業家の元に去ってしまった。絶望で眠れない夜が続いているとき、ヒギンボサムの曲が心に響き、自分の心を投影したのだといいます。「女の歌」にしか聞こえない歌詞は、男の心情だったんですねえ。

 出来上がった曲をビリー・ホリディに売り込んだのがダン・フィッシャー、ホリディはたいそうのこ歌が気に入って、「ぜひストリングスを入れて歌いたい!」と言った。 そしてこの歌が、彼女にとってストリングスとの初共演になりました。レコーディングは作詞家のドレイクがスタジオ入りして、ホリディの傍らで立ち会った。あのデッカ盤はワン・テイクのみで録音完了、さらに1956年、トニー・スコットOrch.と最録音、ホリディの歌唱は一層円熟していた・・・

 

  saul_bass1000w.png

 余談ですが、フランソワーズ・サガンの「悲しみよ、こんにちは」ってご存じですか?最近、オットー・プレミンジャー監督映画をまたまた観たのですが、ショートヘアにマリンルック、シックなドレス・・・、’50年代の映画なのにソール・バスのタイトル・デザイン(右)が象徴するように、不滅なおしゃれ感覚で目が離せませんでした。

 原題は”Bonjour Tristesse”、英語にすると、”Goodmorning Heartache”、ビリー・ホリディを愛したフランス文学ですから、何か関係があるのかな・・・とずっと疑問に思っていたのですが、このフランス語原題の元は、同じフランスの大詩人で、プーランクの歌曲の作詞も沢山手がけたポール・エリュアールの「直接の生」という詩の一節から取ったものだった。

 この詩は1938年に作られていて、「悲しみよ、さようなら、悲しみよ、こんにちは・・・」が冒頭のことばですから、ひょっとすると、ドレイクもサガン同様、言葉のトップ・アーティストだったエリュアールのポエムをヒントにしたのかも知れない。

 ホリディの”Goodmorning Heartache”は発売当初、ラジオのヒットチャートの上位にランキングされることはなく、1970年代にダイアナ・ロスが「ビリー・ホリディ物語」に主演してカバーしたレコードは、その何倍ものセールスを記録した。大ベストセラー、サガンの「悲しみよ、こんにちは」の印税は日本円にして340億円だったそうですが、私には関係ない。


<グッド・モーニング・ハートエイク>

おはよう、悲しみさん、
いつも鬱っとうしい様子だね。
おはよう、悲しみさん、
昨日の夜、さよならしたはず。
あんたの気配がなくなるまで
寝返りばかり打っていた。
それなのにまた
夜明けと共に戻ってきたのね。

忘れたいのに、
あんたはどっかり居座ってる。
最初に会ったのは
恋に破れた時だったっけ。
今じゃ毎日、
あんたへの挨拶で
一日が始まる
悲しみさん、おはよう、
調子はどう?・・・(後略)

原歌詞はこちら。

ビリー・ホリディを彩る二人のアイリーン(1):Irene Kitchings

Wishingonthemoon.jpg

左からドロシー・ドネガン(p)、ビリー・ホリディ、アイリーン・キッチングス、ケニー・クラーク(ds)

 ずいぶん昔、故ミムラさんに頂いたビリー・ホリディの伝記で初めて見たアイリーン・キッチングス(右から2人目)の写真、ハーレムのジェーン・バーキンみたいにシックな人!キッチングスは”Some Other Springs”や”Ghost Of Yesterday”といったホリディのヒット曲の作曲だけでなく、ホリデイのブレーンとして、姉貴分として、彼女の歌に大きな影響を与えた。彼女の写真は後にも先にもこれ一枚しか観たことない。今日改めてキッチングスの画像検索してみたら、かの女だけトリミングした私のブログ画像が海外のサイトに拡散していてネットの威力にびっくり!

 アイリーン・キッチングスは3回の結婚歴を持ちアームストロング→イーディ→ウィルソン→キッチングスと姓が変わった。ホリディの十八番、”Good Morning Heartache”を書いたもう一人のアイリーン(ヒギンボサム:”Irene Higginbotham)と長い間混同されていた。OverSeasのビリー・ホリディ解説本初版の記述が誤っているのはそのためです。申し訳ありません。
 二人のアイリーンは、どちらもビリー・ホリディの芸術に輝きを与えた。まずはアイリーン・キッチングスのことを書いてみます。

Jumpin_TeddyBillieHoliday.jpg アイリーン・キッチングスは1908年(明治40年)、オハイオ生まれ、若くしてプロのピアニストとなり、やがて禁酒法時代のシカゴで男達を率いる美人バンドリーダーとして大活躍した。マフィア王国シカゴ・ジャズ界のアイドルだ!彼女の最大のサポーターはアル・カポネ。その地で結婚したが、4才年下のピアニストの才能に惚れ込み一人前に育て上げ、挙句に深い仲になった。そのピアニストこそフラナガンが大好きなテディ・ウイルソン!やがて二人は結婚、アイリーンは山口百恵さんのようにスターの座を捨て、夫に付いてNYへ。一説にはウィルソンの母親が引退をごり押ししたとも言われています。

  

 

 

 

 

<女が惚れる女>

Jumpin_HamptonGoodmanWilson.jpg NYでテディ・ウイルソンのプレイに香る品格を気に入ったのが大プロデューサー、ジョン・ハモンド、春に来日するボブ・ディランをスターにしたのもこの人です。おかげでウィルソンには大きな仕事が沢山回ってきた。中でもベニー・グッドマン楽団への参加によって彼の名声は世界的になります。さらにハモンドが育てる大型新人ビリー・ホリディの音楽監督となり、かの有名な一連のブランズウィック盤を次々に吹き込んだ。レコーディング準備のため、レディ・ディ(ビリー・ホリディのニックネーム)は、ウイルソンのアパートに通い歌の稽古を付けてもらってた。ウィルソン宅でお世話になったのが奥さんのアイリーンです。20歳になるかならないスター予備軍とはいうものの、ホリディは元娼婦、譜面どころか読み書きだってロクにできないおねえちゃん、普通の奥さん連中には距離を置かれる存在だ。でもアイリーンは違ってた。だってシカゴでピストル振り回す荒くれ男たち相手に、音楽で一枚看板張ってた姐さんだもの、そこらの素人さんじゃない。彼女はホリディの歌手としての資質を正しく評価して、率直に接した。ホリディはアイリーンを姉のように慕い、歌詞の読み方や発音でわからないところがあったら、まっさきに頼った。アイリーンはホリディのレコーディングに立ち会い、次の録音のため「新しいネタ」を探しに二人で夜の街を徘徊する仲になります。ホリディが垢抜けたのは、恋のせいだけじゃない、アイリーンのおかげでもあった。  一方、テディ・ウイルソンはベニー・グッドマン楽団で大ブレイク。ところが彼を支えた妻に夫の感謝はなかった。人生って皮肉だな・・・ウィルソンはアイリーンを捨て、若い愛人と駆け落ちしてしまいます。アイリーンとも親しかった総司令官ハモンドは激怒、罰としてテディは仕事を干され、グッドマン楽団のレギュラー・ピアニストはジェス・ステイシーと入れ替わった。さらに皮肉なのは、ハモンドの制裁のおかげでテディがアイリーンの生活費を負担できなくなったこと。精神的にも経済的にも窮地に陥った彼女を助けたのは、ザ・キング=ベニー・カーターの一言だった。

 「昔から君のハーモニーのセンスは飛び抜けていた。ピアノも勿論うまいが、いっそ作曲の仕事をしてみたらどうだい?」

 「じゃあ私の歌を書いてよ!」とビリー・ホリディがと紹介してくれたのが作詞家アーサー・ヘルツォークJr. 二人の相性は抜群だった。”Ghost of Yesterday”(過ぎし日の亡霊)は惨めな女の未練を、”I’m Pulling Through(立ち直れて)”は、最悪の時期に手を差し伸べてくれた人への感謝を歌いヒットした。最もヒットしたのが、ボロボロになった自分の中にほんのわずかに芽吹く再生への希望を歌う”Some Other Spring (いつか来る春)”。アイリーンは惨めな自分の姿を曲の中にさらけ出すことによって、新しい人生を生きることができた。こういうのを「カタルシス」って言うんですね。  ホリディにとって最も親しい女性であったアイリーンの波乱に満ちた生き様を傍らで見つめることで、自分が歌う女性像に劇的な深みが加わったのではないかと私は思います。”God Bless the Child”や”Don’t Explain”・・・一本の映画を見る以上にドラマのある数々の十八番はアイリーンとのコラボ以降に生まれている。上質のワインのように熟していくビリー・ホリディの「女」のドラマは『Lady in Satin』で結実するんだ…

 

<アイリーンの春>

 アイリーンがジャズ界に遺した功績がもうひとつある。それは、ビリー・ホリディにカーメン・マクレエを引きあわせたこと。当時OLをしながら弾き語りをしていたマクレエの素質を見出したアイリーンが、譜面の読めないホリディに新曲を歌って聴かせる仕事をさせたのです。自分が歌った「素」を天才がどのようなプロセスで再構築するのかをマクレエは目の当たりにした。それがどれほど貴重な勉強になるのか?マクレエはホリディを死ぬほど敬愛して大歌手になれたんです。

 

billie-holiday-19581.jpg

 数年後、アイリーンは病に倒れ静養のためNYを去りクリーブランドの親戚の家に身を寄せた。彼女の作曲期間は僅か数年間でしたが、静養先で青少年保護委員を務めるカタギの男性エルデン・キッチングスと出会い一生添い遂げました。

  <Some Other Spring>

  Irene Kitchings 曲/ Arthur Herzog Jr.

いつの日か春に

もう一度恋しよう。

 今は朽ち行く花を

 嘆くだけでも・・・

 

 
アイリーンの「春」 は本当にやって来た。

サー・ローランド・ハナ:滅多に聞いてもらえぬ物語

 SRH.jpg

 1990年代初頭、NYの寒い春、当時隆盛を誇ったジャズ・クラブ、《Sweet Basil》に出演するトミー・フラナガン・トリオ(ジョージ・ムラーツ bass, ルイス・ナッシュ drums)を聴きに、ほぼ2週間毎晩通ったことがありました。
 たとえNYに住んでいても、フラナガン・トリオがクラブで演奏するのを聴けるのは1年にのべ数週間だけ。このときは2週間通しの出演で、フラナガンから「うちのアパートのすぐ近所のホテルを取るから聴きに来い!」というお達しがあり、店の都合をなんとかつけてNYに飛びました。寺井尚之は夜ごと五線紙と鉛筆を持って、有機的に変化するアレンジや演奏ヴァージョンを文字通り「かぶりつき」で凝視、そういうことを何度も繰り返しながら現在に至っております。

 《Sweet Basil》は当時NY観光の名所となっていて、フラナガンゆかりのジャズの巨人たちが現れる日もあれば、日本やヨーロッパ、オーストラリアなど、各国の団体客では賑わっていました。外国人のお客様は概ね静かで、1st Setだけ聴いて帰ってしまうのですが、私たち「聴きたい人」にとって厄介なのが、間違ってやってきたジャズファンではない米国人。自国の文化にリスペクトがないせいか、演奏中に大声で話すから・・・

 その夜は、トミー・フラナガンのソウル・ブラザー、サー・ローランド・ハナさんが「ヒサユキちゃん」(ハナさんはいつもこう呼んでいた。)に会いに来てくれた。ハナさんが同じテーブルにつけば鬼に金棒、勇気100倍!なにせ掛け声がプロ!前のパートナー、ジョージ・ムラーツがソロで、指板の上から下まで目にも止まらぬフレーズを繰り出した瞬間に「One mo!(もう一丁!)」の声を入れる。すかさずムラーツ兄さんが、そのフレーズを繰り返す。お客さんはもう大喜び!

 そんな楽しい演奏中に、水商売風のお姐さんを連れた酔っぱらいのグループ客が入ってきて、バラードの最中に大声でおしゃべりを始めた。ダイアナ・フラナガン夫人や周りの人が「シ~」と言っても聞く耳なし。店のマネージャーも知らん顔。怒り狂った獅子座の女、ダイアナが立ち上がったとき、止めたのがハナさんだった。
「ダイアナ、やめとけ。君が行ったら店に対して面倒なことになる。僕が替わりに言ってやるから・・・」

<天才児>

19870730_02RolandHanna.JPG

 トミー・フラナガンやサー・ローランド・ハナ、デトロイトを代表するピアノの巨匠達も、世界でどれほど敬愛されてるのか判ってない同国の人々には却ってこんな仕打ちに遭うんだな・・・

 ハナさんはフラナガン以上に過小評価されてきた。その理由は、NYジャズシーンで本格的に活躍を始めた時期が60年代であったことが原因であったかもしれません。

 クラシック音楽一筋だったハナさんが中学校時代に、フラナガンのプレイに感化されてジャズに転向したのは有名な話ですが、ローランド少年は小学生のときからデトロイトの天才児として英才教育プログラムを受けていた。同時期、中西部地区で他に同じ英才児として選ばれて、ショパンやリストをガンガン弾いていたのがカーティス・フラーのお姉さん、メアリー・エリザベス・フラー、それにシカゴの巨匠、アーマッド・ジャマルがいます。

 ところがRoland “Hack” Hannaという名前で、ジャズに転向すると、デトロイトにはハナさんに負けない若き天才がゴロゴロいた。ハナさんは、フラナガンの弟分、二番手的な存在として切磋琢磨されていきました。

 フラナガンとハナさんは、ともにアート・テイタムをピアノ演奏の理想型としつつ、バップの洗礼を受けたピアニスト。美しいソフトタッチと品格はまさに同じDNAでした。ただ二人の目指すところは微妙に違っていて、フラナガンが”ブラックな音楽”を標榜した一方で、ハナさんが目指したのは、クラシックだのジャズだのというカテゴリー通念を破る音楽だった。
 ハナさんにとって「ショパンもファッツ・ウォーラーも、同様に優れた即興演奏家」だし、ラフマニノフもルビンシュタインも、アート・テイタムと同一カテゴリーに属するピアノの巨匠だった。

  そんなハナさんの偏見のなさが、「クラシックかぶれ」とか「代表作がなくて地味(!?)」だとか、奇妙きてれつな偏見を生んだ。哀しいね。

<A Story Often Told Seldom Heard>
Hanna_Roland_0426432.jpg

  ”A Story Often Told Seldom Heard”(いつも話すのだけれど、滅多に聞いてもらえない物語)は、ハナさんのオリジナル曲。ハナさんが愛したモネの「睡蓮」のように、翳りと光に溢れた不思議な美しさに溢れた作品です。

 この曲は、恐らく’70年代の初めに書かれたものだと思いますが、クラブ演奏で、満員のお客さんが騒々しくて自分の演奏をちっとも聴いてくれない悲哀を曲にしたものなんだそうです。それは《Five Spot》でセロニアス・モンク・グループの対バン・ピアニストとして演奏していた頃の思い出なのか? NY大に近い《Knickerbocker Bar and Grill》でステーキを食べるのに忙しいお客さんの前で演奏していたときの気持ちだったのか?

 OverSeasで繰り広げられたハナさんの演奏は、イマジネーションが溢れ出るのが止まらないといったものでした。ソフトタッチで美しい雄叫びのようなフォルテッシモから胸の奥まで届く静謐なピアニッシモ、弾いてもらうピアノが「嬉しくて堪らない!」と言わんばかりに響きます。ハナさんがピアノで繰り出すストーリーに胸が張り裂けそうになって泣いてしまうお客さんも珍しくなかった。そんな音楽家が「聴いてもらえない」ときに、こんなに美しい曲が生まれたとは、皮肉だなあ!

 ”A Story Often Told Seldom Heard”、ハナさんに直接語ってもらうことはもうできません。

   トミー・フラナガン没後1年、後を追うように逝ってしまったサー・ローランド・ハナ(1932年2月10日ー2002年11月13日没)11月に偲ぶもう一人の巨匠です。

hanna_roland_ramona_hisayuki_terai.jpg 上の動画は、ジョージ・ムラーツ(b)とメル・ルイス(ds)とのトリオ。ハナさんが録音の出来に満足して、寺井にCDを送ってくださったアルバム『Round Midnight』にも収録されていて最高!でも、これはやっぱりハナさんの「物語」として、一曲ではなく、一枚通して向かい合って欲しいです。