第25回トリビュート・コンサートにありがとうございました。

1115mcP1080693.JPG 11/15(土)、第25回となるトミー・フラナガン追悼コンサート(Tribute to Tommy Flanagan)を無事開催することが出来ました。

25thflowers.jpg 生前のトミー・フラナガンとOverSeasで親交を重ねた長年の常連様から、フラナガンの音楽は初めてという若者まで沢山OverSeasに集まって、寺井尚之(p)、宮本在浩(b)、菅一平(ds)によるThe Mainstemの演奏でフラナガンの演目を一緒に楽しみました。

 常連様達が旧交を温めるのを眺めるのも楽しいし、トリビュートめがけてはるばる来てくださるお客様にご挨拶するのも、このコンサートならではの楽しみです。いつも多忙な中時間を繰り合わせて駆けつけてくださってありがとうございます。激励メッセージや色々お供えも!

演奏後も嬉しい感想のメール一杯、本当にありがとうございます。まだ全部にお返事できていないこと、どうぞお許し下さい。

1115P1080689.JPG寺井尚之The Mainstemは、今回もすごい熱演を聴かせてくれました。

 寺井は45日間毎日6時間練習したせいで、また歯が取れちゃった!と威張っているけど、全ては師匠への愛のため、何より自分が練習大好きなんだから当然。それより私はザイコウ、イッペイのリズムチームが、親子ほど年の違うピアニストを全身全霊で盛り立てる演奏ぶりに感動しました。

 そしてもうひとつ、寺井を盛り立てたのがピアノの鳴り!トリビュートのピアノの鳴りは調律師の川端さんが怖がるほど非現実的な美しい音色で、OverSeasの容れ物と一緒に鳴る感じがライブならではの快感です。ご参加くださった皆さんの体も一緒に共鳴していたのかもしれません。

 この夜聴いた曲目は、サド・ジョーンズの名作やビリー・ホリディゆかりの愛の曲、そしておなじみエリントニアなどなど、どれもこれも、私にとってはフラナガンの思い出が一杯で、胸が一杯になりました。このところ、色んな御縁があって、デトロイト以外のジャズシーンのリサーチをする機会を頂いたのですが、勉強していくうちに、サド・ジョーンズとフラナガンが切磋琢磨した《ブルーバード・イン》というジャズ・クラブは、黒人のトップ・ミュージシャンが、黒人居住区にある演奏場所で、地元の黒人のお客様の前で、最高に洗練されたブラックミュージックを聴かせていた。それは本当に稀有なことで、全米を探しまわっても本当に特別な場所だったということを改めて感じました。

 応援してくださる皆様への感謝の気持ちを込めて、今回の曲説をHPに書いたところです。ご興味があれば覗いてみてください。トリビュートで演る曲は数十曲に限られているのですが、回を重ねるたびに新しい発見があるのは、きっとトミー・フラナガンのお導きなのかも知れません。 http://jazzclub-overseas.com/tribute_tommy_flanagan/tunes2014nov.html

 ダイアナ・フラナガンもお越しくださった皆様に心より感謝しますとのことです。

  次回は来年3月、フラナガンの誕生月に再びトリビュート・コンサートを開催します。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

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トリビュート・コンサート前に読むT.フラナガン・インタビュー(2)

〔思慮深い会話の達人〕

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 (前回より続き)  フラナガンは整った顔立ちの威厳ある風貌だが、ここ数年前から体重が落ち、華奢な体躯を包む洋服がダブついている。無愛想だが、瞳は暖かで、優しい微笑みを見せる。フラナガンは大きく丸い眼鏡をかけている。若い時から禿げているけれど、耳の後ろに少し白髪が残り、白く豊かな口ひげはえくぼをほとんど覆い隠している。
 フラナガンは「急ぐ」という事をしない、話す時は特にそうだ。彼はヴァンガードのステージから筆者のインタビューを受けている。しかし答えが出てくるまで、彼の視線は質問者から遥か遠く宙を漂い、果てしない沈黙が流れる。だが一旦気が向くと、ドライマティーニの様なピリっとした辛口のウイットで素早く会話を進める。

 “トミーは余りおしゃべりではないけれど、本当のことしか言わない。”: ピアニスト、マイケル・ワイス

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 フラナガンは1950年代からマンハッタンのアッパーウエストサイドに住み、ここ25年程は82丁目で、妻ダイアナと暮らす。彼女とは1976年に結婚した。溌剌とした女性である。フラナガンはその前に1度結婚歴があり、前妻との間に3人の子供をもうけ6人の孫がいる。

 アパートは趣味の良い造作で、ダイアナの蔵書が無造作に置かれている。彼女は元歌手、大学では文学を専攻し、詩、小説、歴史、伝記、音楽に関する書物を読み漁る。ソファのある窓際と反対側になる居間の一角にはスタインウエイのグランド・ピアノが鎮座している。

 また居間にはチャーリー・パーカーやデューク・エリントンといったジャズ・ミュージシャンの写真や、絵画がそこら中に飾られている。絵画は、雑誌<ニューヨーカー>のジャズ評論家、ホイットニー・バリエットの妻、ナンシー・バリエットが書いた風景画の小品もあれば、ピアノを見下ろすように掲げられている額には、漫画家アル・ハーシュフィールドの書いたフラナガンの似顔絵 (上の写真のスタンドの上です。)が入っている。

 この日の午後、フラナガンとダイアナはソファでくつろぎながら、新刊”Before Motown”のページをむさぼるように繰っている。フラナガンは生涯の友人達で、20世紀半ばにデトロイトに出現したおびただしい数の才能あるジャズミュージシャン達の写真(バリー・ハリス、エルヴィン・ジョーンズ、今は亡きペッパー・アダムス等)を見つけては指差し、にこにこしている。

  ダイアナは当時デトロイトの街で活躍していた夫の10代の若き日の姿を見つけて高い声で叫んだ。”OH、スイートハート、あなたってすっごく可愛かったのねえ! この時代に会っててもきっと好きになっていたわ!”
 するとフラナガンは無表情にこう言った。”(フラナガンに夢中だった女の子たちの)列に並んで!

 彼は本を閉じテーブルに置いて、駆け出し時代を回想し始めた。1953年、彼は”ブルーバード・イン”の名高いハウスバンドに参加する。メンバーは、サックス奏者、ビリー・ミッチェル、トランペッター、サド・ジョーンズ、ドラマー、エルヴィン・ジョーンズであった。この”ブルーバード”で初共演したミュージシャン達の多くと、その後NYで共演することになる。

 ”あの修行時代がなかったら、今の自分はなかったろう。”フラナガンは言う。”ミュージシャンとして良い手本になるべき人が私の周りにいた。その頃はrole modelなんて言葉はなかったけれども、街に来たら私たちが必ず聴きに行くような一流ミュージシャンにひけをとらない、皆が尊敬するミュージシャン達が地元にいた。ミルト・ジャクソンや、ユセフ・ラティーフ、ラッキー・トンプソン、ワーデル・グレイといった人たちだ。”

〔デトロイトで音楽を始めた頃〕

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 フラナガンはデトロイト北東部、コナントガーデンズ地区で育った。6人兄弟の末っ子で、父は郵便配達夫だ。両親、特に母が音楽好きだった。6歳でクラリネットを始めるが、もうそれまでには、ピアノの椅子によじ登り兄のピアノレッスンの真似事をしていた。

 10歳の時、母の薦めでピアノのレッスンを受け、そのせいで現在もショパンやラヴェルを愛好している。ジャズに興味を覚えたきっかけは、兄がビリー・ホリディの新譜を家に持って帰って来たことだった。そこにはテディ・ウイルソンのピアノがフィーチュアされていた。

“ジャズとは6歳の時からの付き合いだ。”フラナガンは言う。

 そしてフラナガンはノーザン・ハイスクールに入学、ローランド・ハナとベス・ボニエ(p)がクラスメートであった。1949年、”フレイムズ・ショウ・バー”でハリー・ベラフォンテの伴奏を務めた後、ベラフォンテにNYの仕事を紹介された。しかし、母親がまだ若すぎると息子が街を離れるのを許さなかった。泣く泣くフラナガンは街に残ったのだ。

 やがて徴兵、2年間兵役に就いた。韓国駐留を言い渡された彼は一番新しい音楽を持っていこうと、スーツケースにセロニアス・モンクのSP盤(BLUENOTE)を詰め込み外地へと向かった。

 退役後の1956年初頭、とうとうフラナガンはNYに進出。音楽と家族を以外、デトロイトの思い出は楽しいことばかりではなかった。

 ”早く街を出たいとそればかり思っていた。デトロイトの単調さに嫌気がさしてきたんだ。町中を動き回る自由が制限されていた。当時の警官はひどいものだった。我々が住んでいる地区で難癖をつけてくる。私が12歳頃、ある夜印刷所の前を通った時のことだ。そこは反体制的な印刷物が見つかった場所で、私は警官に呼び止められた。警官は拳銃を抜いていた。

 私は言ってやったよ。『何をするんだ!?僕はほんの子供だぞ!』

 NYでは、とんとん拍子に素早く事が運んだ。出て来て一年経たぬうちに、《バードランド》でバド・パウエルの代役を務め、たちまちマイルス・デイヴィス、ソニー・ロリンズの両者のレコーディングに参加する。フラナガンはその頃を懐かしむ:

jack_kerouac9780141182674.jpg マイルス・デイヴィスとの初レコーディングで、このトランペッタ―はポケットから紙切れを取り出した。そこにはデイブ・ブルーベック作の<In Your Own Sweet Way>が殴り書きされていた。マイルスはフラナガンが演奏したあの有名なコード・ヴォイシングを指示したが、リズムはフラナガンのアイデアである。

 ほぼ同時期、J.Jジョンソン・クインテットで、《ヴィレッジ・ヴァンガード》にビートニック詩人ジャック・ケルロアックの朗読会とダブルビルで出演したことがあった。フラナガン、エルヴィン・ジョーンズと、大酒のみで有名なケルロアックがはしご酒をしたあげく、最後はフラナガンのアパートで飲み明かした事があったという。

 ”昼前になって、エルヴィンがケルロアックに向かって殺してやると脅かした。ケルロアックがとんでもなくひどい事をエルヴィンに言ったからだ。私も頭に来たが、エルヴィンは怒り狂っていた。”

〔気分を出してもう一度〕

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 フラナガンは話を終えて立ち上がり、ゆっくりとピアノに向かう。ピアノの脇の棚にはポピュラーソングの譜面集が積み上げられている。ピアノの上にはMJQの創設者ジョン・ルイスの作品を挟んだ紙ばさみが置いてある。3月に亡くなったジョン・ルイスは死の直前に、よかったらCDにしてほしいと自作楽譜をフラナガンに送ったのであった。

 フラナガンは謎めいたアルペジオを少し弾いてから、ジミー・マクヒューのバラード、”Where Are You?”に滑り込む。曲の裏側の鍵を開けるような、風変わりで一ひねりあるハーモニーをつけて演奏する。1コーラス目は囁くように、2コーラス目ではヴォリュームが大きくなり、対話が生まれ感情が高まる。演奏が余りに表情豊かで感動的なものだったので、私はフラナガンをピアノの前に留めておきたい一心で、すかさず”Last Night When We Were Young”をリクエストした。

 それは、ポップソングに似つかわしくない抽象的な感じの曲だ。ハロルド・アーレンのメロディとハーモニーが、風変わりなパターンに変化する。フラナガンは何年もこの曲を弾いた事がなかったので、自分の指の動きを、あたかも他のピアニストの指を見ているような不思議そうな目つきで凝視している。彼が音符に行き詰まると、彼と同じ位多くの曲を知っている妻ダイアナが、ソファーに座ったままでイップ・ハーバーグの円熟した歌詞をそっと歌って助け舟を出す。感情の高まりで音楽が震える。曲が終わった時ダイアナの目には涙が浮かび、フラナガンは夢見るように遠くを眺めていた。(了)

トリビュート・コンサート前に読むT.フラナガン・インタビュー(1)

11/16は我らがトミー・フラナガンの命日です。亡くなってから13年の月日が経ちましたが、敬愛の思いは高まるばかり。
命日前の15(土)はトミー・フラナガン・トリビュート・コンサート開催!
フラナガンの弟子、寺井尚之(p)が自己トリオ”The Mainstem”で在りし日の名演目をお聴かせします。

 それに先駆けて、フラナガンが亡くなる直前に遺したインタビューの邦訳を掲載。
 元々、<デトロイト・フリー・プレス>というサイトが、2001年9月のデトロイト・フォード・ジャズフェスティバルのPRとして、目玉となるフラナガンがNYヴィレッジヴァンガード出演した際、行われたインタビュー。

 体調を崩していた時期ですから、 このデトロイトのジャズフェスティバル実際に出演を敢行していたのかどうか・・・私も覚えていません。
  リーマンショック以降、フェスティバルのスポンサーが代り、このインタビューのオリジナル記事もネット上からは消滅していますが、フラナガンのプレイや、Jazz Club OverSeasでの寺井尚之を聴いて、よく話題にされるピアノのタッチについて語る希少なインタビューです。

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聴き手: マーク・ストライカー

伝説のタッチ:デトロイト出身トミー・フラナガン、
ジャズフェスティバルに出演、深みと艶、スイングするビバップを故郷へ!
NY発

 トミー・フラナガンがセヴンスアヴェニューのヴィレッジ・ヴァンガードへと通じる階段を降りていく。おぼつかない足取りで、まだガランとした店内を少し見回してピアノの方へ向かうと、まるで古い友だちと握手をするかのように、いとおしげに鍵盤に指を滑らせた…

 今回の【フォード・デトロイト・ジャズフェスティバル】の看板ミュージシャン、トミー・フラナガンはデトロイトが生んだ最高の音楽家の一人である。彼が始めてヴィレッジ・ヴァンガードに出演したのは50年代後半、トロンボーン奏者JJジョンソンのサイドマンとしてであった。近年、フラナガン率いる最高のトリオは、このジャズの神殿で演奏する機会が一層増えている。
 だが今日、静かな午後のひと時、フラナガンは自分自身や、セロニアス・モンク、ジョン・コルトレーン達、この世界一有名な地下室(ヴィレッジ・ヴァンガード)のすすけた壁に掛けられた今は亡きジャズの英雄たちの為にプレイしている。
 柔らかなコードがまた別のコードへと、川の流れの様に移り変わり、やがて茫洋とした霧の中からメロディが顔を出す…1937年作の佳曲”ゴーン・ウィズ・ザ・ウィンド”だ。これを聴くとフラナガンはあらゆる曲を知っているのではなく、良い曲しか知らないのだと改めて思う。次第に”公園を散歩しているような”ゆったりとしたテンポへと滑り込み、無邪気なスイング感、絶妙に入るカウンターメロディ、シングルノートのラインがクリスマスツリーの飾りの様に和音に絡まる、エレガントなビバップのフレーズで、円熟の即興演奏がどんどん繰り出される。
  
 フラナガンのリリカルなタッチは今や伝説だ。まるで一音一音が絹に包まれた真珠の様である。このタッチの事が曲が終わってからの最初の話題となった。
“頭の中でイメージしている音に注意深く耳を傾け、それを忠実に再生すると、こういうタッチになるのだ。”―優しい声がステージから静かに響く。

“強いイメージでハードに弾きすぎることは決してないね。自分で音が大きすぎるなと感じたらソフトペダルを使う事にしている。それが好きなんだ。ハードに弾いて、ソフトなサウンドを出す。――なにしろ家のピアノはおんぼろでひどい音だからね。(笑)”

  今年71歳になるフラナガンの演奏ぶりは、天国で一番ヒップな天使のようだ。気品と気合い、スイング感とクレバーさ、ウイットと温かみが、絶妙にミックスして、聴く者を魅了する。彼の故郷での演奏は2年ぶりのことである。病気で、昨年オーケストラホールで予定されていた71歳を祝うコンサートのキャンセルを余儀なくされたフラナガンにとって、今回のジャズフェスティバルが、ヴェテラン・ドラマー・アルバート・ヒース、ピーター・ワシントン(b)という彼の新編成のトリオの、故郷への初お目見えとなるのだ。

〔輝かしい経歴〕

 現在、フラナガンの持ち味である詩的モダニズムは世界的に高く評価されているが、いつの世も常にそうだったわけではない。彼のキャリアの第2章が始まる70年代後半までは、ミュージシャン仲間以外には知る人ぞ知るの存在で、ベテラン伴奏者というのが一般的な評価であった。それはフラナガンの控えめな性格と彼の経歴が災いしたのだった。1962―1965、及び1968―1978と通算14年間、エラ・フィッツジェラルドのピアニスト(このブランクに短期間トニー・ベネットのピアニストも務める。)として活動したフラナガンのリーダー作は少なく、1960―1975にかけて自己名義のレコーディングは皆無である。しかし一方ではサイドマンとして、数多くのレコーディングをしている。例えば<コレクターズ。アイテム/マイルス・デイヴィス>、<サクソフォン・コロッサス/ソニー・ロリンズ>、<ジャイアント・ステップ/ジョン・コルトレーン>といった’50年代の古典的名盤の数々である。

  転機は1978年に訪れた。心臓発作に襲われ、17日間の入院生活を余儀なくされたのである。彼は禁煙と節酒をし、エラに辞意を伝えた。まもなく自己トリオ結成、洗練されたスタンダード曲や、サド・ジョーンズ、モンク、タッド・ダメロン、ビリー・ストレイホーン、デューク・エリントンの、余り演奏されることのないオリジナル曲に独特の解釈を加え、見事なヴァージョンに仕上げる事を身上とする一連のピアノトリオ時代の幕開けである。

 フラナガンはNYの様々なクラブに常時出演するようになり、ヨーロッパの小さなレコードレーベルで一連の名作をレコーディングした。アメリカの大手レコード会社がフラナガンを支援するようになったのは、1998年になってからのことで、名門BLUENOTEが<サンセット&モッキンバード>を製作、この頃になってやっと、フラナガンの名声が確立したのである。

 批評家ゲイリー・ギディンスは、数年前フラナガンについて次のように述べた。

 ”フラナガンは、競争相手のいる場で一番を勝ち取るというよりも、競争とは無縁なところで、自分の最高の力を発揮するタイプだ。 彼は自分にぴったりの分野を確立し、完璧なものに磨き上げた。それはスタイルを超越したスタイルだ。その分野で比較対照できるものをいえば、彼自身の演奏の内、その場でとっさに触発を受け生まれたヴァージョンと、元々固有のヴァージョンの違いといったものが関の山である。”

 フラナガンのスタイルには、人を欺く要素がある。絹の様なタッチで有名な彼だが、ある時は鋭いアタックを巧みに駆使して、他のピアニストに負けぬほど深くスイングしてみせる。彼はバップの申し子であり、バップ的な目くるめくリズムの変化や、大胆なハーモニーの使い方―バド・パウエルが確立した奏法スタイル―の達人である。

 しかしフラナガンの音楽的ルーツを辿ると、同時に、テディ・ウイルソン、アート・テイタム、ファッツ・ウォーラー、といったバップ以前のピアニスト、またナット・キング・コールや、ポンティアック出身の初期のモダニストハンク・ジョーンズと言った過度的なスタイルのピアニスト達にも行き着く。

 フラナガンはこう語る。”最初に影響を受けたのはテディ・ウイルソンだ。力強い演奏でありながら、タッチが美しい。そんな彼の演奏に感動すれば、自分もそう言う風に弾きたいと必死に願うものだ。そんなわけでここ20年ほどの間に私の音量は大きくなってしまった。前に『ピアノの音がうるさすぎるから』と言われドラマーに辞められた事があった。” フラナガンはこの皮肉な話を笑い飛ばす。”ピアノ弾きに向かって音がうるさいと文句を言うドラムなんて考えられん。”

 フラナガンを敬愛する多くの若いピアニストの一人、マイケル・ワイスは、フラナガンのピアノの秘密は、ダイナミクス、アタック、ペダル使いとオーケストレーションに対するアプローチにあると指摘する。

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 “フラナガンの演奏は、単なるヴォイシングによるのではなく、一音一音、コードのそれぞれは、音の響きを綿密に計算した結果だ。例えばテーマをシングル・ノートだけでまず弾き始める、やがてそこに3度の音などが加わり、そこからいつのまにかオクターブやフルコードに発展して、彼のアドリブへと繋がっていく。アドリブのパートで、クライマックスへ上り詰める瞬間、豊かなオーケストレーションとなる。―メロディの基礎となるコードは、彼のプレイにアクセントや色合いを加える為のものだ。”

 フラナガンはクラシックの巨匠達と同様ペダル使いの名人である。ダンパーペダルを駆使し、一音一音を汚すことなく湧き出るアイデアを、滑らかなレガートで繋げていく。

“時々、私の足を観察するためだけに来る連中もいるよ(笑)ペダルを使う時には、その為の呼吸法が必要なんだ。フレージングと同じでね!” (続く)

アキラ・タナ Live at OverSeas!

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左から:David Flores(ds), Zaiko Miyamoto(b),Akira Tana(ds),Hisayuki Terai (p)

 この夏、日系米人オールスター・バンド”音の輪”を率い、東日本大震災被災地の応援ツアーを敢行、各地で感動の渦を巻き起こした巨匠ドラマー、アキラ・タナさん、そのときに「ぜひ今度はOverSeasで寺井尚之(p)と一緒に!」というお願いが叶い、10月27日(月)、寺井と宮本在浩(b)とのトリオでライブが実現!素晴らしいゲストの参加、素晴らしいお客様達のおかげで、忘れられない思い出になりました!
忙しい週明けにも関わらず、コンサートに駆けつけてくださった皆様に感謝あるのみ!

 寺井との共演、 「どんな曲を演ったの?」「どんなライブだった?」と興味を持ってメッセージを下さった皆様もありがとうございます。次回はぜひOverSeasに!

=演奏プログラム=

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 <1st>
1. Beats Up (Tommy Flanagan)
2. Out of the Past (Benny Golson)
3. Mean What You Say ( Thad Jones )
4. Pannonica (Thelonious Monk )
5. Our Delight ( Tadd Dameron )

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 <2nd>
1. Almost Like Being in Love (Frederick Loewe )
2. Smooth as the Wind  ( Tadd Dameron )
3. Elora ( J.J.Johnson )
4. Lament  ( J.J.Johnson )
5. Commutation  ( J.J.Johnson )

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 <3rd>
1. Bouncing with Bud ( Bud Powell )
2. With Malice Towards None ( Tom McIntosh )
3. For Minors Only ( Jimmy Heath )
4. Ellington’s Strayhorn  ( Jimmy Heath )
5. A Sassy Samba   ( Jimmy Heath )
(with Special Guest: drummer David Flores )

 Encore 

 どんぐりころころ (Dongri- Bebop)

 

   アキラさんは、ジャズの歴史的巨匠が魅了された「超一流」日系ミュージシャンのパイオニア的存在。名門ニュー・イングランド音楽大学在籍中すでに、レナード・バーンスタインからにソニー・スティットまで、あらゆる分野の音楽家との共演歴がありました。ジミー・ヒースやJ.J.ジョンソン、アート・ファーマーといった巨匠達が、こぞって彼をレギュラーに迎え入れた。そして、彼に音楽的、人間的に大きな信頼を寄せたことが、後進の日本人に大きな門戸を開く結果になりました。
 一方、旧友アキラさんとの共演を待ち望む寺井尚之(p)、久々の顔合わせだからといって、スタンダード曲で安全策を取るつもりは全くなし。お互いの持ち味を爆発させてOverSeasでしか聴けないプレイにしたる!と虎視眈々。寺井流「三本の矢」のプログラムを練っていました。結果は世界レベルの巨匠ドラマーのプレイ、それに心意気の良さが最高に堪能できるセッションに。

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 会場にはドラマー達もたくさん来ていて、この夜は、店内に5つのスネア・ドラムが鎮座。丁度休暇で京都旅行を楽しむ友人のドラマー、デヴィッド・フローレス夫妻がアキラさんに同行し、やっぱりスネア持参!皆がアキラさんに自分のドラムを叩いて欲しいんですよね。結局、スネアはフローレスさん持参の「Brooks」のものを、その他のセットは菅一平さんの所蔵品で演奏することになりました。メキシコ系アメリカ人のフローレスさんは小柄でボクサーみたいに精悍な人、西海岸ベイエリアを拠点に、ランディ・ブレッカーからドナ・サマー・・・、ジャズ、ソウル、R&B、ヒップ・ホップとあらゆる分野で活躍中です。サウンドチェックは、テーマとエンディングの打ち合わせで、僅か10分。この辺りが超一流!

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<やめられないとまらない♪>

 1セット目は寺井ならではのトミー・フラナガン愛奏曲集で、アキラさんにとって初めての曲も!オープニングは超速の”Beats UP”、ドラムはにこやかに悠然とスイング、お客様達が気持ちよさそうにカウントを取っていますが、どうやら一番気持ち良かったのはピアノの寺井尚之で、最初3コーラスと予定していたのに、アキラさんのドラムが余りにもスイングして、気持ちよくなってアドリブがどうにも止められない!結局倍の6コーラス弾いてしまったそうです。
 フラナガンの演目は、どれも仕掛けが沢山あるのですが、アキラさんは瞬時に合わせます。仕掛けをクリアするのがとても楽しそう!どんな凄技も笑顔でやってのけます。トリオのボリューム・バランスも最高、グルーヴもダイナミクスが三位一体!寺井が入れるちょっとしたフレーズにすぐ反応してピッタリ合わせるののは、音楽をよく知っていて、引き出しが多くて、全体の構成を読み取る力がすごいからですね!

<歌うドラムス>

 2セット目は、’90年代にはアキラさんがレギュラーを務めたトロンボーンの神様、J.J.ジョンソンのオリジナル中心。緻密で蟻の這い出る隙もないJ.J.のバンドの決め事は、アキラさんの頭にちゃんとメモリーされていた。ご存知のように、フラナガンは’50年代にJ.J.のバンド在籍しています。2-1はフラナガン時代からの演目で、寺井が同時代に他の曲で使われたセカンドリフを入れると、アキラさんはすぐさま答えます。ツーカーだ!その瞬間、寺井に満面の笑み、客席からは「ほうっ」っと歓声!やっぱりフラナガン通ですね!そして宮本在浩(b)さんのフィル・インが決まると今度はアキラさんがワ~オ!寺井尚之の軽妙なMCと共に、音楽の楽しさが増していきます。

 2-2″Smooth As the Wind”では、ベース・ソロでザイコウさんが”Gone with the Wind”を引用すると、ドラム・ソロからザイコウさんと同じメロディーが聞こえてきて、客席はさらに笑顔と歓声!美バップっていいな。
 一方、奥の席でフローレスさんが立ち上がって真剣にトリオの動きを凝視。皆のリズムの捉え方を観察しているみたい。これは何か起こりそうな雰囲気です。

 休憩中は、CDにサインしてもらおうとお客様が大行列。アキラさんと知り合った頃、彼は英語しか話さなかったけれど、それから勉強して今はバイリンガル、親切で温かい彼の人柄に皆が魅了されていくのがわかりました。

 <ゲスト登場~どんぐりビバップ>

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 3セット目は、アキラさんがブレイクするきっかけになったザ・ヒース・ブラザーズのリーダー、ジミー・ヒースの作品を中心に。ジミーさんはこのコンサートの2日前が88才の誕生日で、お祝いの気持ちもありました。 

sassyP1080640.JPG 3-3でのトリオの疾走感が素晴らしく、今も心に響いています。ラスト・ナンバーは、ジミーがサラ・ヴォーンに捧げたA Sassy Samba! アキラさんが参加したヒース・ブラザーズの名盤、『Live at the Public Theater』(’80)のオープニング・ナンバーです。アルバムでは、名優、テッド・ロスのごきげんなMCで導かれるこの曲、初めて聴いた時は、「世の中に、こんなかっこいい音楽あったんだ!」と度肝を抜かれました。アキラさんのコールでバンドスタンドに登場したデヴィッド・フローレスさん、2人で一台のドラム・セットをシェアするといいます。サッシー・サンバのヒップなテーマから、クライマクスはアキラ+デヴィッド・チームによるリズムの饗宴!立ち上がって歓声を上げるお客様たち!ジミー・ヒースの誕生祝いは2人のドラマーがおいしいところをごっそりと持って行きました。

 鳴り止まない歓声にアキラさんがご挨拶してからアンコールに!

 この夏、「音の輪」ツアーでは、日本のポップスや童謡をジャズっぽくアレンジした演目が東北で大好評でした。ツアー後OverSeasに立ち寄った彼が「ヒサユキさん、『どんぐりころころ』をリズムチェンジで演るとカッコイイよ~!」って何気なく言ったんだそうです。それを覚えていた寺井が打ち合わせなしにルバートで弾き始めた「どんぐりコロコロ」にアキラさんはにんまり!テーマが終わると”Rhythm Change!“と掛け声をかけアドリブに入ろうとしますが、その瞬間、寺井がポーカーフェイスでおもむろにストップ、再びマイクを握りました。
「どんぐりころころ、このメロディーは標準語ですわ。大阪人はこんなイントネーションで言いません。僕は大阪人やからこう歌います。“どんぐりころころどんぶりこ、お池にはまってエラいこっちゃ!…ぼん、一緒に遊びまひょ♪” 」って詠唱、そのまま、ピアノで大阪編「どんぐりコロコロ」を弾き始めたから、もう大笑い!テーマが終わるや否や、そのままビバップのリズム・チェンジに変身して強烈にスイング!みんな大喜び!沢山の「楽しい気持ち」が一つになりました。

 アキラ・タナ@OverSeas、「音楽は皆を幸せにする!」という一番大切なことを、身を持って教えてもらいました!

 アキラさん、デヴィッドさん、素晴らしい音楽をありがとうございました。また会える日を楽しみにしています。OverSeas

ジャズ批評「これがビバップだ」

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 隔月刊:ジャズ批評誌、最新号「これがビバップだ!」特集記事、アルバム100選のうち、5枚を紹介させてもらいました。「ジャズ批評」なんておこがましいですが、初めて雑誌用に書いた短文は、頂いた本を読み返すと、とってもゆるキャラになっていましたが、紹介したアルバム達は、長年聴いても飽きない人生の友ばかりです。

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「ジャズ批評」によれば、巷でビバップ・ブームが再燃しているとか。ビバップを聴くならぜひ当店OverSeasにお越しください!

 

ウエスとフラナガンをつなぐピアニスト

 10月の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」で聴いた『The Incredible Jazz Guitar』、寺井尚之ならではの音楽の道案内で、この大名盤が示すプレイヤー達の心のやりとりを、皆で楽しみました。

  エロール・ガーナー同様、「譜面の読めない」天才と謳われたウエス・モンゴメリー、でもこのアルバムの”Mr. Walker”はウェスのオリジナルで、しかも細かい仕掛けが細部に施されている。本当は読譜力があるのではないか?と、前々から寺井尚之は疑問を投げかけてていました。

 ところが、寺井への答えは意外にも、最近ネットで公開された1994年のラジオ・インタビューの中にありました。共演作についての談話でなく、「子供の時のお気に入りピアニスト」を語るうちに、ポロリと落ちた言葉の中に答えがあった!こういうところがフラナガンらしい・・・

<アール・ヴァン・ライパーというピアニスト>

graystone-earlvanriper-300x300.jpg Earl Van Riper (1922-2002)

 少年時代(12-13才)のフラナガンは、ラジオやレコードでアート・テイタム、ナット・キング・コール、テディ・ウイルソンを夢中になって聴いていた。時はビバップ以前、豊穣なデトロイトの街にも名ピアニストは多くいて、中でも感動した地元の2大ピアニスト、一人はウィリー・アンダーソン、キング・コールばりの洒落たテイストと完璧なテクニックで、ベニー・グッドマン楽団に誘われたほどの名手でしたが、文盲であることを恥じて、終生地元に留まった。そしてもう一人が上のアール・ヴァン・ライパーという人。

フラナガン:「もう一人、近所に住んでいたEarl Van Riperも素晴らしいピアニストだった。すっきりした芸風で、よりテディ・ウイルソン的で明快なスタイルだった。彼は、やがてクーティ・ウィリアムズやR & B系のクリーンヘッド・ヴィンソンの楽団に入り街を出て、インディアナポリスに落ち着いた。 ウエスの初期の演目は彼が譜面にしたんだろう。ウエスは譜面の読み書きをせず、他の誰かに採譜させて、共演者に渡していたんだ。だから彼が初めてNYにやって来た時も、ちゃんと譜面を持ってきた。あのレコーディング(『The Incredible Jazz Guitar』)に参加できたのは幸運だった。それにしても、この世界は狭いね。生まれて初めて生で真近に見たピアニスト、正真正銘のプロ、Earl Van Riperが譜面を書いていたんだから・・・」

 子供時代の憧れのピアニストが採譜した譜面を元にウエスと初共演したフラナガン、その感慨はどれほど深いものだったでしょう!

incredible20090917155711ca5.jpg このアルバムをプロデュースしたオリン・キープニュースの著書『The View from Within』の中には、このレコーディングの経緯が詳しく書かれています。キープニュースのアドヴァイザーだったキャノンボール・アダレイがインディアナポリスから帰ってくるなり、「どえらいギター弾きが居るから一刻も早く契約しなくちゃ!」と興奮して駆け込んできた。キープニュースは数日後、現地に趣き録音の契約を取り付け、大急ぎでアルバム制作のお膳立てしたそうです。一方NYでは、評判高いウエスがやって来たら、ジャムセッションでボカボカにしてやろうと、腕利き達が手くすね引いて待っていた。でも、ウエスは極端なほど自分の腕を過小評価していて、謙遜深く丁寧な人間だったので、皆の戦闘意欲が萎えてしまうほどだったとか…

 フラナガンとウエスをつなぐピアニスト、Earl Van Riperについて調べてみると、’89年代のヴィデオ・インタビューがYoutubeにありました。

 編集がされていないので、70才のライパーさんの話は、話が前後に飛んで何度も聞き直さなければなりませんでしたが、なんと「日本から帰ってきたばかり・・・」とおっしゃていました。1989年、日本のどこで演っていたんでしょう?ご存じの方、教えてください。

 50分近い彼の話によれば、音楽教師の母の元できっちりとした音楽教育を受けたライパー、最初は演奏よりも読譜力に優れ、ブルースからビバップまで、実に様々人たちと仕事をした。ダイナ・ワシントンの伴奏者を経て、インディアナポリスに9年ほど居住する間にウエス・モンゴメリーやその兄弟達と共演。ところが、デューク・エリントン楽団で歌いたいという歌手志望の白人美女に利用され、彼女の夫に脅されて、ウエスのバンドを辞めなければならなくなった。

 そしてウエスについては、やはりエロール・ガーナー同様、忘我の状態でただただ演奏するという神がかりなものだった。一緒に演っているうちに、そのやり方を自然に会得したように思う、と語っています。でも、彼がウエスのレパートリーを採譜したということははっきり名言していませんが、ウエスのために、バンド全体のコードを整えることに努力し、「バンドのアレンジを置いていくから私が辞めてもなんとかなるだろう。」と言い残して辞めたと発言しています。「ウエスの譜面を自分が書いた」と言わないのは、この時代のプロとしての礼節なのかも知れません。

 このEarl Van Riperの演奏は、最近Resonance Recordsが復刻したインディアナポリス時代の初期ウェスの未発表ライブ『Echoes of Indiana Avenue』に収録されています。このアルバム、夏に来店されたお友達のプロデューサー、Zev Feldmanさんが送ってきてくれたものだったので一層不思議なご縁を感じました。

 トミー・フラナガンの言ったとおり。それにしても、この世界は狭いね!

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Wes Montgomery/Echoes of Indiana Avenue

 

 

 

 誰も言わない名盤の本当の醍醐味、寺井尚之の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」は毎月第ニ土曜6:30pmより開催、どうぞOverSeasに来てください!

10/11(土)足跡講座のお楽しみ

あっと言う間に10月突入!エクリプスの赤い月はご覧になりましたか?その夜、OverSeasでは、メインステム・トリオがトミー・フラナガンの”Eclypso”を演奏して、最高の気分が味わえました。  OverSeasが長年開催している「トミー・フラナガンの足跡を辿る」は’60年に突入。30才になるかならないフラナガンが、長年ジャズの第一線で活躍する絶対的個性を持つ先人達のレコーディングに連日付き合いながら、個性を輝かせ、自分の進む道を見つけていくフラナガンの姿!寺井尚之のリアルな解説で、その時代にワープできるのが足跡講座の醍醐味です。  昨年ネット上に公開されたフラナガンのラジオ・インタビュー(’94)で、次々と大先輩たち録音に付き合う秘訣は「まず、自分の耳を彼らの音楽にチューニングしてから、両手を耳に連動させるようにすること」だとフラナガンは語っています。

<ウエスとフラナガンを結ぶ点と線>

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 今回の足跡講座は鉄板アルバム、ウエス・モンゴメリーの『Incredible Jazz Guitar』(後編)から!フラナガンは上のインタビューで、ウエスと共演できたことを「名誉だった」と語ってる。ウエスは譜面の読み書きができない、言わばギターのエロール・ガーナーのような天才で、レコーディングする以前から、「親指だけで演奏し、コーラス毎に次々とコードを変えていくギタリスト」として、まさにIncredibleな伝説的存在だったそうです。ところが、スタジオで一緒になったウエスはとてもシャイなミュージシャンだったらしい。

トミー・フラナガン「彼はおかしな奴だった。譜面が読めないから、自分のことを良いミュージシャンではないと思っていたんだなあ。彼はその分野の第一人者なのに!殆どの音楽家が一度は学ぶアカデミックな教義に縛られていないのだから。」(『Jazz Spoke Here/Waine Enstice & Paul Rubin著』より)

 レコーディングで初顔合わせしたウエスとフラナガン、この2人の間にはあっと驚く接点があったことを寺井尚之が発見!講座でじっくりとお伝えします。

<ハリー”スイーツ”エジソンの専売特許> 

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カウント・ベイシー楽団時代から、シンプルなのに誰にも真似の出来ないフレーズを専売特許としたハリー”スイーツ”エジソンがフリーランスとなって録音したリーダー作は、その名も『エジソン特許=Patented by Edison』 。“スイーツ”というニックネームは、レスター・ヤングから頂戴したらしい。エディソンさんは、’80年代に神戸のホテルでハンク・ジョーンズやジョージ・ムラーツとのコンサートがあった時に、お目にかかったことがあります。写真よりもずっと長身で分厚い胸板の逞しい方、子供の時に見た「ひょっこりひょうたん島」のブル元帥とそっくりでした。

harry sweets edison.jpg ジョージ・ムラーツが寺井尚之を「フラナガンの弟子です。」と紹介すると、「おお、トミーか!あいつが若い頃、ギグやレコーディングによく使ってやったもんだ。」とおっしゃったので、寺井は思わず「サンキュー!」って言ってました。何よりも印象的だったのが、いかにも上等そうな真っ赤なレザーのトランペット・ケース、そして真近で見せてもらった腕時計!images.jpg

 「スイス製だよ!本物だよ!」って、中にダイヤの粒が、文字通りスイーツな砂糖菓子みたいにコロコロと入っていて、そのお金持ちぶりにも驚いたものでした。

 簡潔な構成に輝く、スイーツの専売特許と、ダイヤの粒のようなフラナガンのプレイ!楽しみです。

<Hipster フランク・ミニヨンのジャイヴな歌詞>

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 さて、これが今回最大の問題作、ヴォーカリーズを得意としたフランク・ミニオンは、『バードランド』などNYのクラブの人気者だったらしい。声はさほど魅力的でなく、この後役者を志したといいますから、ジャマイカン・イングリッシュを売り物にしたヒップなトークが売り物だったのかもしれません。今ならラッパーとして大成功していたかも…  「黒アヘンの街」という叙事詩的な組曲は、NYのストリートの魅力を怪しい魔女にたとえたもの。ヒップな歌詞の面白さをお伝えするため、初版に更に修正を加えました。ヒップな歌詞の魅力が伝わるかな・・・?

 というわけで、足跡講座は10月11日(土) 18:30より開催。

講師: 寺井尚之

受講料:2,500円(税抜)

初めてのお客様も歓迎いたします。

トミー・フラナガン・トリビュート 11/15(土)開催

tf-84_2SCN_0051.jpg この写真は、1984年12月14日、OverSeasで行った初トミー・フラナガン・コンサートのものです。来日時は、大ホールかジャズフェスティバル、あるいは超豪華ディナー・ショウが公演場所だったフラナガン・トリオが初めて小さなジャズ・クラブに出演した歴史的な夜でした。寺井尚之にとっては、「自分の腕を磨くのに精一杯」と弟子入りを断られた時から10年、ようやく弟子入りを許された悲願達成の日でした。

 あれから30年(!) フラナガンが亡くなって13年、年は取っても「トミー・フラナガンの音楽を伝えたい!」寺井尚之の熱意は高まるばかり!

 トミー・フラナガン(1930 3/16- 2001 11/16)の亡くなった11月恒例のトリビュート・コンサート、今年は命日の前日11月15日(土)に開催いたします。

 生前のトミー・フラナガンの名演目をフラナガンから受け継ぐアレンジで!演奏は、もちろん寺井尚之のレギュラー・トリオ、宮本在浩(b)、菅一平(ds)を擁するメインステム!

 フラナガンが遺したデトロイト・ハードバップでジャズ・ピアノの醍醐味を!

皆様のお越しをぜひお待ちしています!

第25回Tribute to Tommy Flanagan

演奏:寺井尚之メインステム・トリオ:宮本在浩(b)、菅一平(ds)

【日時】11月15日(土)

【会場】Jazz Club OverSeas アクセス

(開場:18:00~) MUSIC: 1st set 19:00- /2nd set 20:30- (入替なし)
チケット制:前売り ¥3,000(税抜 座席指定)
当日 ¥3,500(税抜)

 

対訳ノート(43) クール・ジャパン-”Poor Butterfly”

at-ease-with-coleman-hawkins-cover.jpg  トミー・フラナガンはライブ命のアーティスト、だから、自分が参加した歴史的名盤には、レコードでフラナガンに親しむファンにとって、驚くほど無関心だった。「今の自分が最高なんだ!」という強烈な自負があったのだ。

 とはいえ、そんなフラナガンが終生誇りにしていたアルバムがある。それはコールマン・ホーキンスとの『At Ease』(Moodsville)で、LPのジャケットを居間に飾るほどのお気に入りだった。
  

mickey_mouse_10-834x1024.jpg だが、その録音セッションは、前もって入念な準備をしたわけでなく、スタジオで渡された市販の譜面で録音する日雇い仕事だった。スタジオでの限られた時間内で、凡人なら一生かけても到達不能の深い演奏解釈とアレンジを魔法のように作り上げ、1テイクで出来上がったトラックを集めたアルバムは、一生聴いても飽きない出来栄えだった。大魔法使い(ホーキンス)のリードで、それまで気付かなかった自分の魔力に目覚めるハリー・ポッターがフラナガンだ!

 ホーキンスの音楽的意図を瞬時に読み取り、そこしかないタイミングに、それしかないというフレーズを創造した瞬間の、フラナガンの鼓動が聴こえてくる。

 性を超越した師弟の大きな「愛」さえ感じる即興演奏-これがジャズの醍醐味だ!

「トミー・フラナガンの足跡を辿る」では、このアルバムを文字通り毎日愛聴する寺井尚之が、一瞬の合図さえも読み取って、最高の音楽解説をしてくれました。中でも皆で一番感動したのが日本女性の歌 “Poor Butterfly”

<歌のお里>

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 有名なプッチーニのオペラ『Madam Butterfly (蝶々夫人)』由来のポップソング- “Poor Butterfly”は、大正時代=1916年の古い歌。当時、NYで大盛況を博した’ヒッポドローム’という大劇場のドル箱レビュー-’ザ・ビッグ・ショウ’のために作られた作品だ。

 ’ザ・ビッグ・ショウ’はバレエやオペラなど様々なスターの出演が目玉で、伝説のバレリーナ、アンナ・パブロワが「眠れる森の美女」で登場したことさえあった。

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 その’ビッグ・ショウ’に、異国情緒溢れる日本のゲイシャ・ガールを出演させて歌わせたのが、この歌の初演。次に白人女性歌手が歌い大人気を博した。

 それでヴィクター軍楽隊がレコーディング(1916)、バイオリンのスター、フリッツ・クライスラー(1875-1962)もカヴァー(1917)するほどのヒット曲になりました。

  その後、朝鮮戦争が終わった’50年代後半、映画「サヨナラ」に象徴されるような日本ブームが起こり、それに便乗するかたちでリバイバル・ヒットした。フランク・シナトラ、そして決定版、サラ・ヴォーンの『Sarah Vaughan Sing Broadway』のおかげでジャズ・スタンダードになった。

 < 咲き続ける桜>

 a8a3d63806057a1c1cdab4b257a76f22.jpg   若い皆さんのために「蝶々夫人」のストーリーをちょっと説明しておきましょう。
 舞台は幕末の長崎、アメリカの軍艦に乗って入港したハンサムな海軍士官ピンカートンは、うら若き美貌の舞妓、「蝶々さん」に恋をする。二人は国際結婚し、長崎の地で家庭を持ち、子供にも恵まれた。
 
 やがて彼は「帰ってくる」と言い残し、再び船に乗って旅立った。貞淑な蝶々夫人は、桜の舞い散る屋敷で、来る日も来る日も、ひたすら夫を待ち続ける。

 3年後、長崎に戻ってきたピンカートンの傍らにはアメリカ人の妻が寄り添っていた!

 蝶々夫人は、息子を彼に託し、名誉の自害で果てる。「一巻の終わり」-という美しくも哀しいお話。

 ピンカートンという名前がユーモラスに響き、私の子供の頃は落語や漫才のギャグになっていた。

 この物語の原作は、アメリカ人の弁護士、John Luther Longが書いた短編。色々リアリティ・ギャップはあるものの、満開の桜の花が咲き続ける情景には、シュールな美しさが漂います。

 歌詞のツボは『The Moon and I』のくだりと、一瞬が何時間に何年にもなる時間の経過感、サラ・ヴォーンもコールマン・ホーキンスも、いつまで経っても欠けることのないスーパームーンと桜吹雪が舞い散り続ける夢のような情景がサウンドに溢れます。

 名唱、名演を聴きながら目に浮かぶのは、日本の八千草薫さんが演じた蝶々さん(日伊合作映画 ”Madama Butterfly” 1955)の美しい姿・・・映画もぜひ観てみてくださいね。

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<Poor Buttterfly

詞John Golden/曲Raymond Hubbell (原歌詞はここに

Verse

桜の木の下に楚々と座る
小さな可愛い日本人の物語、
その名はミス・バタフライ。
彼女は愛らしく、無邪気な少女、
立派なアメリカの若者が、海を越え、彼女の庭にやって来るまでは…
満開の桜の下、二人は毎日逢う瀬を重ね、
彼は、アメリカ流の恋の作法を教えました。

それは全身全霊愛する事。

教わるのは簡単でした。
やがて若者は、きっと戻ると約束し、船に乗って行きました。

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Chorus
哀そうな蝶々さんは、桜の下で待っている。
ああ、蝶々さんはこんなに深く愛しているのに・・・

時は過ぎ、ひとときが数時間に、
そして何年も・・・
涙の中に微笑みをたたえ、
彼女はかすかにつぶやく。
お月様と私はあの方の誠実を存じております。 
きっといつかお帰りになる!
もし、お帰りにならなくても、
ため息をついたり、泣いたりなどいたしません。
この命、断つのみでございます!」
なんと哀れな蝶々夫人・・

 

 誠実で貞淑な日本女性、伝統的クール・ジャパンな世界がここに!

 ところが、古来からヴァースを導くイントロには、サラ・ヴォーンのヴァージョンを含め、ステレオタイプな中国のメロディーがくっついていた。

 その譜面を渡されたコールマン・ホーキンスは、即座にヴァース部分をカット! 日本人の魂に響く素晴らしいアレンジを瞬時に施した

 雑味を排し曲本来の良さだけを活かす調理法は和食だ!まさしくクール・ジャパン!

 このホーキンスの魔法を真近で観て学んだトミー・フラナガンどうやら、後年のトミー・フラナガンの名演目の秘密はこの辺りにあるようですがザッツ・アナザー・ストーリー!

 「トミー・フラナガンの足跡を辿る」は毎月第2土曜日に開催中!是非一度覗いてみてくださいね。

CU

ジャズ大使たちの夏(2)プロデューサー、ゼヴ・フェルドマンのウルルン日本旅行

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 今年の夏、ゼヴ・フェルドマン(Zev Feldman)というレコード・プロデューサーが来日し大阪の下町と大都会、東京でジャズを愛する人達と交流を深めました。皆さんはゼヴ・フェルドマンさんをご存知ですか?彼の名前を知ったのは1年前、彼が共同プロデュースしたトミー・フラナガンとジャッキー・バイアードの痛快ピアノ・デュオ『The Magic of 2』がきっかけです。 制作は”Resonance レゾナンス”という非営利団体のレコード・レーベル、30年前に録音されたカセット・テープの音源を何年もの歳月をかけて丹念に修復したライブ1162.jpg盤は、当時の演奏写真や、大好きなジャズ評論家、ダン・モーガンスターンによる、知的で心のこもった解説文が付いていて、へえ、今どきこんな誠実なアルバム作りをするところがあるんだ! と驚きました。9月にレゾナンス・レコードが制作したジョン・コルトレーン最晩年のコンサート・ライブ『Offering : 魂の奉納』が、大阪の藤岡靖洋氏発掘の音源であったことから、私が日本語版ブックレットの翻訳をさせてもらうというご縁がありました。

ゼヴさんは、この夏、PRと市場調査を兼ねて来日、東京と大阪のレコード店やジャズ喫茶、ジャズ・クラブなどを訪問し、現場の皆さんと大いに交流を深めました。初めて訪れた国で、ジャズを愛する沢山の同志達と、一プロデューサーの立場を越えて交流したゼヴさんのウルルン日本ジャズ探訪記です。

 

<ジャズ・オタク、ゼヴ・フェルドマン> 

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 ゼヴ・フェルドマンさんは’70年代生まれのロック世代にですが、ご先祖さまにジャズやクラシック音楽家が沢山いて、赤ん坊の時からジャズを聴いて育った。なにしろ、叔父さんがAlvin ‘Abe ‘Aaronというサックス奏者で、レナード・フェザーの初版「エンサイクロペディア・オブ・ジャズ(ジャズ百科joe_sonny964077_10201501417881178_1395526792_o.jpg事典)」人名欄の最初の欄に載っていて、大叔父さんがミルウォーキーを代表するサックス奏者Jodeph Aaron(左:ソニー・ロリンズと)、大叔母さんが、ジャズ創世期に活躍したギタリストという家系。子供の頃から勤勉なゼヴさんも、自らトランペットをたしなむミュージシャン系プロデューサーです。ロック全盛の高校時代には完全なモダンジャズ・オタクとなり、女の子に見向きもせずジャズに浸り、ハリウッド青春映画でよく見る「プロム」にさえも行かなかったというから相当重症だわ。 

<ジャズ大国ニッポン>

  その頃、ゼヴさんは、音質、芸術性、カヴァー・デザインなどあらゆる面でクオリティの高いBlue Noteレーベルのコレクターとなりました。気がつけばBlue Noteコレクションの大半が日本からの輸入盤だった!日本盤には、他の国に見られない「帯」というものがついていて、今でも大切に保管しているそうで、すでにプロデューサー的な視点を持っていたみたいです。同時に、日本人トランペット奏者、日野皓正さんをラジオで聴いて感動、遠い日本への興味がますます湧きました。そんなゼヴさんがバイブルとして大切にしている本が「ジャズ批評」刊行の「The Complete Blue Note Book Tribute to Alfred Lion」と (image enclosed) 「The Prestige Book」の2冊ですから、私の周りにもいらっしゃるコレクター達と一緒! 

<メールボーイからプロデューサーへ!>

boyhood_zev1618284_10203301220115109_313561516_o.jpg  大学に進学して大学FM局のパーソナリティになり、インターンシップでポリグラム・レコードへ。レコード会社の郵便室が彼の出発点でした。ゼヴさんの働き方は、昭和のモーレツ社員とまったく同じで勤勉!どんな仕事も喜んでこなし、上司に「もう家に帰れ」と言われるまで働いた。モーレツ・ポリシーは現在に至るまで不変!だからUS時間の深夜、とんでもない時間にしょっちゅうメールが来ます。

  当然ながら正規採用されたゼヴさんは、営業畑の敏腕マネージャーとなり、ポリグラム、ユニバーサル・ミュージック、コンコード・レコードで手腕を発揮、タワー・レコードなどのメガストアを得意先に抱え、若くして営業部長の座に就きましたが、時代の波が大きく変わりレコード店に行かなくてもCDはネットで買えるように…そして2007年遂にタワー・レコード倒産。ゼヴさんはその影響でレイオフされますが、この挫折があったからこそ、プロデューサーという天職に就くことができた。サム&デイヴやバディ・ガイで名高いR&B系”FUEL 2000″レコードの営業部長と共に、レコーディング・エンジニア兼プロデューサーのジョージ・クラビン創設のNPO法人、レゾナンス・レコードで本格的にプロデューサーとして、ジャズの巨人たちの歴史的レコーディングを発掘しレコードとして保存する仕事に従事しています。最初に手がけた『Bill Evans Live at Art D’Lugoff’s Top of The Gate』、ウエス・モンゴメリーの『Echoes of Indiana Avenue』の2作が併せて6万枚のヒットになり、その後に作ってくれたのがトミー・フラナガン&ジャキー・バイアードの『The Magic of 2』で、今回の日本出張が楽しみで仕方なかった!もう今年の初めから興奮していました。

  彼の膨大な日本探訪日記の断片をここに掲載!

=大阪編=

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藤岡さん邸

 

大阪では、コンコード時代からお付き合いの藤岡靖洋氏のコルトレーン・ハウスに滞在。回転寿司や串かつを楽しんだ後、大阪の老舗ジャズ・クラブ、ロイヤル・ホースさんへ。

sawano20140826_203246-2.jpg澤野工房さん

 

 新世界のジャズの名所「澤野工房」さんでは、伝説の澤野由明、稔兄弟とご対面!履物屋さんで特大サイズの下駄もゲットして、CDともに大感激!

 夕方は下駄と作務衣でばっちりドレスアップしてOverSeasにご来店でした。

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ライトハウスさん

 日本橋、老舗レコード店「ライトハウス」さんを訪問、自分のプロデュースした作品が沢山店頭に並んでいるのを観て大感激!コレクター魂を刺激され CDを買い込むうちに、いつのまにかゼヴさんを囲んで大宴会に!杯を重ねるうちに沢山の友達ができたそうです。ジャズに乾杯!

 

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OverSeas

 作務衣と下駄でドレスアップしたZevさん、ホスト役の藤岡さんと共に、OverSeasにご来店! 寺井尚之と宮本在浩(b)によるトミー・フラナガンゆかりの音楽をゆっくり楽しんでくれました。フラナガンやサー・ローランド・ハナが今も生きるジャズ・スポット、当店の様子をフェイスブックを見て、ずっと来たかったらしい。音楽を真剣に聴いて下さってありがとうございました。初対面なのに、長年の友人みたいな人でした。

 

 =東京編=

 

koyama_kiyosi_zev.jpg Zevさんは、児山さんとこれからもぜひお付き合いしたい、とのことでしたので、児山さんと懇意な方がおられたら、どうぞ伝えてくださいね。

東京でのハイライトは、NHK-FMのジャズ番組「ジャズ・トゥナイト」にゲスト出演したこと!

 長年尊敬する児山紀芳さんの番組ですから歓びもひとしお!児山さんが制作したサラ・ヴォーンやローランド・カークなどのコンプリート・ボックス盤はゼヴさんがポリグラム時代に営業を担当した作品です。尊敬する児山さんと一緒にラジオ出演できて本当に光栄だと興奮気味。

 ON AIRは11/1(土)23時~です。NHKFM 『JAZZ Tonight』Check it!

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タワー・レコード

 東京でのもう一つの感動が日本のタワー・レコード!少年時代のゼヴさんには宝の山、業界で働くようになってからは、親しい上得意さまで、弟さんの職場でもありました。それだけに、2006年に米国のタワーが倒産した時のショックは計り知れないものがありました。あれから10年近く経った今でも、タワー新宿店の賑いぶりは、タイムスリップしたようだった。ゼヴさんは、タワーよ、米国に復活を!と強く願っております。

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東京が世界に誇るディスクユニオンJazz Tokyo、そしてタワー・レコードではCD大人買い!
 現場の方々とも親交を深めました。

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shopping20140829_220208-2.jpg 日本でのお買い物のごく一部!

 盟友、キングインターナショナルの関口滋子さんのご案内で念願の「ジャズ喫茶」デビュー!ジャズ通のゼヴさんも知らなかったアート・ペッパー&ソニー・スティットのアトラス盤に感動。ひたすら無言で鑑賞するという「日本流」もめちゃくちゃ馴染めたそうです。

 

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「足跡講座」でお馴染みの後藤誠氏の案内で、神保町のジャズ喫茶「The Adirondack Cafe」さんでは、ジャズ界の名士、滝沢理さんと親交を深め、名物のハンバーガーに舌鼓!

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 最終日はキングインターナショナルの仲間たちと東京ドームで千葉ロッテ+日ハムの野球観戦、日本野球の熱い応援にびっくり!

 疲れもみせず次の寄港地香港に旅立って行きました。

 

 MI0002075955.jpg目下、ゼヴさんは、レッド・ガーランドの未発表レコーディングと、名プロデューサー、ドン・シュリッテンが’70年代に主催したザナドゥ・レコード(Xanadu)の再発プロジェクトに東奔西走中です。私達が大好きなジミー・ヒースの名盤『Picture of Heath』が再発されるとは嬉しい限りです!

 「来年も日本に行けるよう、モーレツに仕事するから待っててね!」ビヴァリーヒルズに優雅な事務所を構えながらも、ゼヴ・フェルドマンはなぜか昭和の香りのするプロデューサーでした!

CU