Live at Cafe Bohemia / J.J. Johnson 5 (その2)

Bohemia Swings Again with Dick Katz / カッツさんとカフェ・ボヘミアに行こう!
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 J.J.ジョンソン・クインテット時代、トミー・フラナガンがバリバリ弾いていた“カフェ・ボヘミア”を探索する私は、ダイアナの助言どおり、翌晩、“NYの街でふと出会う不思議な紳士”、ディック・カッツ(p)さんに電話をすることにした。
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’89 NY リンカーンセンター・ライブラリーで行われた、NPRのラジオ番組“Piano Jazz”のパーティ、ご機嫌のトミーとカッツさん。トミーがゲスト出演した当番組のインタビューは、講座本Ⅲの付録になってます。ご一読を。
 前回も書いたように、NYの街の至る所でフラナガン夫妻と私達が連れ立って歩いていると、不思議なことにカッツさんと遭遇する。
 一度、リンカーン・センターの前でばったり会った時、トミーが「ダイアナと一緒に来た。」と言うと、カッツさんは眉ひとつ動かさず、トボけたジョークで切り返した。「ふーん、そうかい。私は一人でちゃんと来れたけどな。」その時のトミーの鼻を膨らませたポーカー・フェイスはグルーチョ・マルクスそっくり!カッツさんとトミーはとても仲良しだったのだ。
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古典的コメディー・スター、マルクス兄弟はトミーのお気に入り、グルーチョの物真似も上手だったし、映画音楽をアドリブに引用したりしていた。
 カッツさんは日本のジャズ・メディアにはほとんど登場しないけど、ジャズ界ではかなりすごい人なのです。
’24年生まれ、兵役後、ジュリアード音楽院で、トミーのアイドルでもあるテディ・ウイルソン(p)に師事、パリで活動後、’54年から’55年まで、ジャズ界を風靡したトロンボーン・コンビ“J&カイ”バンドのレギュラー・ピアニストとして活動する傍ら、オスカー・ペティフォード(b)やケニー・ド-ハム(tp)などバップの親分達や、大姉御カーメン・マクレエ(vo)に可愛がられ、キャリアを重ねました。60年代には、オリン・キープニュースとマイルストーン・レコードを設立し、プロデューサーとしても活躍、ライターとしては、深い音楽知識と文章力で、モザイク・レコードなど、名ライナーノートを著しグラミー賞にノミネートされ、ジャズの伝統を伝えるAJO(アメリカン・ジャズOrch.)の編曲などを手がける一方、本業のピアニストとして’96年に、レザヴォアから2枚のCDをリリース、特にピアノトリオの“3 Way Play”はカッツさんのテイストが良く判る名盤です。80歳を超えた今も、講演や執筆、作編曲に忙しいらしい…

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 午前2時、ミッドタウン・イーストにあるカッツさんの仕事場に電話をかけると、すぐに本人が出てきた。
「ごぶさたしています…カッツさん、あの…私、日本の大阪という土地のOverSeasのですね、タマエといいます。以前、テディ・ウイルソンのジャズ講座の時には、ヒサユキに本や資料を沢山送ってくださってありがとうござ…」
「ハーイ!タマエじゃないか!ヒサユキは元気かね?こっちは家内のジョーンも皆元気だよ。」
 カッツさんは、ちゃんと覚えていてくれた。それどころか、驚きもしない。私が電話して来る事をちゃんと知っていたみたいだ…。ダイアナが前もって彼に根回しなんてする筈はない。道でばったり会ったなら別だけど…。
 「カフェ・ボヘミアの事を知りたくて、カッツさんから現場の状況を聞きたい。」と言うと、カッツさんは、「どうかディックと呼んでくれ。」と言ってから、前もって原稿があったみたいに理路整然と、それに、店の匂いまで漂うほど活き活きと、当時の様子を語ってくれた。
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トミーが亡くなった後の寂しいNY、一緒に夕食をしてから埠頭までドライブした寒い夜。
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 トミーは、確か1956年にデトロイトからNYに出て来た、すぐに色んな店でバリバリ仕事をしていたよ。ボヘミアではもっぱらJ.J.ジョンソンと演っていた。あの頃からトミーは実にいいピアノを弾いたね… 彼のピアノ、私は大好きだったなあ…。
 私はカフェ・ボヘミアで、’56年から、ジョー・ジョーンズ(ds)オスカー・ペティフォード(b)とハウス・リズム・セクションを組んでいた。 文字通り、夢のようなリズム・チームだったよ。J.J.ジョンソンは、J&カイのコンビ時代(’54-’55)は私がレギュラーピアニストだったんだが、’55年に二人がコンビ解消をしてから、JJが、私をトミー・フラナガンと入れ替えたんだ。
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J&KAIは一世を風靡したトロンボーン・チーム。左がカイ・ウィンディング(ケヴィン・スペイシーというハリウッドの役者に似てるね。)右:J.J.ジョンソン 
 ボヘミアは多分55年ー58年頃まで営業していたのではないかな… イタリア系のイカツいギャングみたいな連中が経営していた。本物のマフィアかどうかは知らないがね。(マイルス・デイヴィス5がボヘミアから中継したエア・チェック盤で、『ボヘミアの店主、誰からも愛される男、ジミー・ジァロフォーロ』と司会者が紹介している。)ギャラの支払いが悪くてね、オスカーは連中と派手にもめていたよ。あの気性だからな。ハハハ。
 広さ? そんなに広い店ではなかったよ。店の奥に小さなステージがあり、バーが左手、テーブル席が少しあるようなところだった。場所がウエスト・ヴィレッジだし、決してゴージャスなクラブではないが、NYのトップクラスのライブを聴かせていた。雰囲気はアッパー・イーストサイドの“エンバース”と対照的な感じだったな。“エンバース”は客層がリッチで、どちらかと言えば、最高のステーキが音楽より売り物だったが、ボヘミアは飲み物しかなくて音楽主体だった。(トミー・フラナガンはトロンボーンのタイリー・グレンと“エンバース”に頻繁に出演していた。)
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“ボヘミア”があった場所で、現在営業中のバロウ・ストリート・エールハウス:ディックの言うとおり入って左手にバーがある。同じカウンターを使っているのかな?
 
 “バードランド”? あそこは、言わばメジャーリーグみたいなところさ。有名だから世界中、色んなところから客が集まった。一方、ボヘミアは地元NYのジャズファンが聴きに来る渋い店だった。(カッツさんは“バードランド”にはチャーリー・パーカーの対バンで出演していたことがある。)
 
 ピアノはね、開店当時は小さなスピネット(箱型ピアノ)しかなかったが、しばらくして改装しグランドピアノが入ったよ。(’57新年のことだ。)
 (珠)ディック、でもカヴァー・チャージはいくらかはご存知ないでしょ?
 チャージ? ハハハ、ミュージシャンでカバーチャージがいくらか知っている賢い奴なんで絶対にいないさ。アイラ・ギトラーかフィル・シャープ(どちらもジャズ評論家)の電話番号を教えてあげるから、彼らに聞くといいよ。え?個人的に知らないって?そんなの構わんさ。私がちゃんと電話をしておいてあげるから。ヒサユキと君がトミーに心酔し、クラブ経営をしてるって言ったら、喜んで何でも力になってくれるはずさ。彼らはそういう事の専門家だからね。
 だが、一度カーメン・マクレエの伴奏をしている時に彼女の友達が客席にいたので、一緒にテーブルに座ったら、『SAVE $1.50 COVER CHARGE』というカードがあったから、多分それ位かなあ…
 (珠)ディック、J.J.ジョンソンは、どんなリーダーだったの? 
 
 リーダーとしてはね、完璧な人だった。
 ベニー・カーター(as,tp,作編曲家)に会ったことはある? 私はね、ベニーのレギュラーだったことが何度もあるんだ!(ディックはちょっと自慢気に、咳払いしてから、後を続けた。)ベニーは正真正銘の完璧なリーダーだった。威厳があって堂々として、汚い言葉なんか決して使わない。サイドメンへの指示も丁寧で、「こうしてくれますか?:Will you please…?」と必ず敬語だった。絶対に「こうしろ!ああしろ!」なんて命令口調はなかった。
それだけでなく、彼は自分の音楽の隅から隅まで理解していて、自分のすべきこと、メンバーに要求すべきことを、ちゃんと把握し、適切な指示のできる人だった。J.J.ジョンソンは16才くらいの小僧の時にカーターの楽団で修行して、彼の帝王学をつぶさに学んだんだと私は推測している。ジョン・ルイス(p)も同様に、ベニー・カーターからリーダーシップの何たるかを学んだ人間の一人だよ。
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“ザ・キング”ベニー・カーターはクリントン大統領から勲章を授与された。
 そうだね、君の言うようにJJは完璧主義者だったよ。彼の自殺はショックだった。(J.J.ジョンソンは’01に銃で命を絶った。一説に癌の苦しみに耐えられなかったと言われている。)それを彼の完璧主義のせいだと言う人は多いが、私にはわからんな…
 私がボヘミアで仕えたもう一人のリーダー、パパ・ジョー・ジョーンズ(ds)は、JJと正反対、マッドでワイルドなバンドリーダーだった。彼は物凄くクレイジーでマッチョな天才だったよ。え?さぞ一緒に仕事するのが難しかったろうって? NO,N0!ワイルドな人に限って、自分の気に入った相手にはとことん良くしてくれるもんさ。私はあんなにやりやすい人はなかったぞ…
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風が吹くようにようにドラムを叩いた巨匠、パパ・ジョー、背後左はアート・ブレイキー、右はエルヴィン・ジョーンズ
(珠)OPとパパ・ジョーとディックが、毎晩色んなプレイヤーと演奏するなんて、さぞ凄かったでしょうね!私もボヘミアに通って聴いてみたかったなあ!本当にダイアナがうらやましい!!
ああ、まったくだ、私だって出来るならもう一度演りたいよ。…
 … 時計を見ると午前3時をとうに廻っていた。カッツさんは、これ以外にも、ここ数ヶ月のジャズ講座に登場するラッキー・トンプソンの面白い逸話など色々な話をしてくれたけど、それは次回の講座をお楽しみに!
 ダイアナは物凄く寂しがっているから、ぜひ近いうちにヒサユキとNYに来なさい。そう言ってカッツさんは電話を切った。
 あの頃、あの街で、J.J.ジョンソンやオスカー・ペティフォード、キャノンボール、マイルス、キラ星の様なスター達と同じバンドスタンドでプレイしたカッツさんは、瞬く間に、80過ぎのおじいさんから、意気揚々とした若きモダン・ジャズの王子に変身して、真夜中の日本から、50年代のグリニッジ・ヴィレッジへ、紫煙とジンの香りが漂うカフェ・ボヘミアへと、時空を超ええた旅に連れて行ってくれた。
 受話器の前で私は密かに確信する。
カッツさんは魔法でおじいさんに変えられた王子じゃない、魔法使いはカッツさん自身だったんだ。

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さて、来週はバップのサムライ、ATことアーサー・テイラーが主役、ハーレムやグリニッジ・ヴィレッジで、私が垣間見たATの素顔を紹介します。CU
 
 

Live at Cafe Bohemia / J.J. Johnson 5 (その1)

Bohemia Afterthought : カフェ・ボヘミアを探して
「私が初めてトミーと出会ったのは、“カフェ・ボヘミア”だったのよ。ちょうど’57頃よ、ええ、きっとOVERSEASを録音する前に、J.J.ジョンソンのクインテットでね。あの頃は、JJに言われたことを、ただただきっちりやっただけだってトミーは言ってたわ…
 もちよ!トミーはすごくキュートだったわ!でも、その頃、私は別の人と結婚していたから、何もロマンティックなことは起こらなかったのだけれど…」
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Live at Cafe Bohemia (’57 2/2録音)2種類のジャケット。
 トミー・フラナガン未亡人、ダイアナ・フラナガンは、寂しくて夜眠れないと電話をかけてくる。だって夜中にNYの友人達は皆寝ているけど、日本に電話すれば丁度午後だから。私が最も頻繁に長電話をする相手は、独り暮らしの母親に次いで、トミーが亡くなった2001年以降はダイアナだ。二人の共通点は昭和一ケタ生まれで、PCや携帯電話はなし、主に読書で暇をつぶしていること、そして二人とも亡き夫について語るのが好きなことだ。
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ダイアナ&トミーが出会うずっと以前の写真:フラナガン家のスタインウエイの横に飾られている。
 ジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る:第一巻」で、内容の素晴らしさという点から、受講された方々に一番大きな衝撃を与えたアルバムは、トロンボーンの神様、J.J.ジョンソンの作品群だ。特に実況放送形式になっているドイツの希少盤『ライブ アット カフェ・ボヘミア』は、名盤『ダイアル・J.J.5』の僅か2日後のステージだから、『ダイアル・J.J.5』と同一曲も収録されていて、ライブとスタジオでの演奏ぶりを比較しながら、示唆に富む解説が評判になった。CDを聴きながら、この本を読んでみると、更に色んな音が聴こえてくる。
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名盤!Dial J.J.5 (’57 1/31録音)
 完璧なアンサンブル、ひねりがあって無駄のない構成を土台にした縦横無尽なアドリブ、自由でありながら、水も漏らさぬ整然としたJ.J.のサウンドは、このアルバム名になっている”カフェ・ボヘミア”というクラブで培われたのだろうか?
 手元にあるNYの文芸総合週刊誌”The New Yorker”の完全データベースから、タウン情報”Goings On About Town”のページを繰ると、やはり、『ダイアル・JJ5』録音翌日の1957年2月1日(金)から、ライブ盤を録音した2日(土)を含め翌週の9日(土)まで、そして、OVERSEASを録音したスエーデンツアーの前の5月にもJ.J.ジョンソン5はボヘミアに出演している。
 ”ボヘミア”はJ.J.ジョンソンだけでなく、マイルス・デイヴィス(tp)ケニー・ド-ハム(tp)キャノンボール(sa)とナット(tp)のアダレイ兄弟たちの本拠地としても有名だ。
 “キャノンボール”アダレイ(as)のデビューにまつわる神話もある。
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ジュリアン”キャノンボール”アダレイ(as)
 ’55年、休暇を利用してフロリダからやって来た太めの高校教師がアルト・サックスを携え、”カフェ・ボヘミア”にやって来て一曲吹こうという話になった。その夜のバンドリーダーは、OPことあのオスカー・ペティフォード(b)!人のよさそうな青年に大都会の洗礼を与えてやろうと、I’ll Remember Aprilを、弾丸の様なテンポでを吹かせたのだけど、この田舎もんの兄ちゃん、いくら速いテンポで攻め立てても、いとも気持ちよさそうに、朗々とスイングし、ペティフォードを返り討ちにしたというのです。間もなく、その青年は教師を辞め、”キャノンボール(火の玉)”アダレイとして、名を馳せたという…
 “カフェ・ボヘミア”ってどんなクラブだったんだろう…
 「ボヘミア」というのは’50年代のビートニク世代のキーワード、既成概念を打ち破り、自由で束縛されないアーティスト達の心の故郷だ。そんなトレンディな名前のクラブ、”カフェ・ボヘミア”の住所はNY、ウエスト・ヴィレッジのバロウ・ストリート15番地となっている。
 ここは19世紀の終盤に、まず運送屋の馬車を引く4階建ての厩舎が出来た。禁酒法時代になると、辺鄙な地の利を生かし、近所にスピーク・イージーと言われる、もぐり酒場が出来、密かににぎわった。その後消防署などを経て、’55年にイタリア系のマッチョな連中が”ボヘミア”を開店、オスカー・ペティフォードのトリオがハウス・リズムセクションとなり、JJは勿論のこと、マイルス・デイヴィスや、キャノンボール&ナットのアダレイ兄弟、ドナルド・バード&ジジ・グライスの”ジャズ・ラブ”などNYの最先端のグループで活況を呈し’58年ごろまで営業した比較的短命なクラブだった。
 また、ここ数ヶ月間のジャズ講座で寺井が絶賛し、一番人気の博するラッキー・トンプソン(ts,ss)のホームグラウンドでもあったことも忘れてはいけない。
 現在も建物はそのままで、現在はバロウ・ストリート・エール・ハウスというアイリッシュな雰囲気の居酒屋になっている。
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“ボヘミア”の前で休憩するマイルス・デイヴィス(左)現在の姿(右)馬のマークは19世紀の厩舎の名残。
 一体”カフェ・ボヘミア”ってどんな雰囲気だったんだろう…
 Jazz Clubに生息する私は、夜中にそんな事を考え出すと眠れず、ダイアナに電話をする。だって夜中の3時は夏時間のNYなら午後2時だから全然大丈夫だもん。
 「タマエ、いきなりカフェ・ボヘミアなんてどうしたの? へーっ、ウェブログ? いやだ…携帯電話もないあんたみたいな時代遅れの頑固者(ラダイト)までブログをやってるの?!でも、トミーの周辺の歴史を書くっていうのは、とってもいいことだわ。
 “ボヘミア“はね、綺麗だの、豪華だの、と言うには程遠いけど、とにかく良い音楽を聴かせるクラブだったの。当時のウエスト・ヴィレッジは、おしゃれでも何でもない荒涼とした街だったわ。
 席数? よく覚えてないわ…ヴィレッジ・ヴァンガードよりは広かったんじゃない?もっとテーブルも大きくてゆったりした感じだった。チャージ?あはは…そんなもの知らないわよ…だって払ったことないもん。NY中どこ探しても店の料金を知ってるミュージシャンなんていないわよ。(ダイアナはかつてクロード・ソーンヒルOrch.などで活躍した歌手だった。)
 …料理はなくてドリンクだけの店だった、お客は皆ジャズを聴くためだけに集まってたから、客席はすごく静かだったわ。
 お客の人種?そんなの何でもありよ。純粋なジャズクラブに、人種の区別なんてものはなかったの!うちのあの納戸にそういうことを全部書いてある本があるんだけどねえ…探すのが大変なのはあなたも知ってるでしょ。掃除をして出てきたら必ず知らせるから、私に任せなさい!(ああ…ダイアナが納戸の掃除なんてするわけない…絶対無理やわ。)
 そうだっ、タマエ、いいアイデアがあるわ! ディックは”ボヘミア”に出ていたから、私よりずっと良く知ってるはずよ。ディックに電話なさい! え? 何言ってるの、彼はピンピンしてるわ!ヒサユキとあなたのことを大好きだって言っていたから忘れっこないわよ。おとといも道でばったり会ったのよ。電話番号知ってるでしょ。じゃあね!ヒサユキに私からのキッスを忘れないで!!」
 ディック・カッツ(p)は、寺井尚之と不思議な縁のあるピアニストだ。寺井はJ&カイのアルバムを通じて、学生時代から特別な興味を抱いていた。それは、彼が腕のあるピアニストだっただけでなく、トミー・フラナガンの得意フレーズをそのまま、自分のソロに取り込んでいたからだ。
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2006年NY、YAS竹田(b)の母校でもあるニュー・スクールで。
やがて、私たちがNYを訪れるようになり、フラナガン夫妻と街を歩いていると、まるで天から私達のことを見ていて、ふわっとマンハッタンに舞い降りてきたみたいに、不意に出会う不思議な人なのだ。彼のアイドルもテディ・ウイルソン(p)やアート・テイタム(p)、若き日の共演者はJ.J.ジョンソン(tb)タイリー・グレン(tb)オスカー・ペティフォード(b)ベニー・カーター(as,tp,etc…)ラッキー・トンプソン(ts,ss)であったこと、うお座生まれであることなど、トミーと共通点が多いから、大都会を歩く道すじも自ずと似ているのだろうか…。1924年生れ、スーツ以外の姿が想像できない上品な老紳士で、東海岸の先生然としていて、蝶ネクタイが似合う。声もしわがれているのだけど、一緒に話をしてみると、20歳の青年のように若々しい。聡明でユーモアがあって洞察力が深い。80年以上生きているのに、浮世の垢が全くついていない感じがする。
このおじいさんは、本当は王子様で、悪い魔女に老人の姿に変えられたのじゃないかしら、と思えるほど爽やかな人だ。
 今夜はもう遅い。よし!明日の晩はカッツさんに電話してみよう!(つづく)
 

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“CAPTAIN BILLY”後日談

 INTERLUDE 増刊号
 8月に、私に英語特訓してくれたビリー・ルーニーと美人妻ジュリーのことを書き、チック・コリアのHPを覗いてみたら、写真を配信するプレス担当のメルアドがジュリーになっていた。それで、本ブログに書いたことをメールしたら、自分と娘さんの写真を送ってきてくれました。
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左が長女エミー、右がママのジュリーです:念のため
 化粧っ気のない美貌もスリムな肢体もぜんぜん変わってません。美人は得だネ!
 このメールが来たのは数週間前だけど、奇しくも12日に皮膚ガンの為、故国オーストリアで他界したジョー・ザヴィヌルとのスリー・ショットも送られて来た。
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左からビリー、チック・コリア、故ジョー・ザヴィヌル
 ザヴィヌルは、フュージョンの旗手として有名だけど、彼のルーツはBeBopだったことを知っていて欲しい。キャノンボール・アダレイ(as)5でデビューしアレサ・フランクリンの初期の作品などにも、ファンキーなバックを聴かせている。
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テナーサックスの父:コールマン・ホーキンス
 忘れてならないのは、フラナガンやハナさん同様、コールマン・ホーキンスを尊敬する若手ミュージシャンの一人であったこと。
 ウィーン音楽院を卒業しNYに来たサヴィヌルはホークのアパートに集い、彼のヨーロッパ仕込みの手料理をごちそうになった後は、ホークに乞われるまま、ショパンやブラームスを弾いて食後のひとときを過ごしていたのだった。
合掌
次回は、ジャズ講座名場面集、トロンボーンの神様J.J.ジョンソンの『ダイアルJJ5』『ライブ・アット・カフェ・ボヘミア』を聴きながら、’57当時、グリニッジ・ヴィレッジで盛況を極めたカフェ・ボヘミアをInterlude的に探索してみます。
CU
 

オーヴァーシーズ/ トミー・フラナガン・トリオ (2)

名盤と男はジャケットより中身
 トミー・フラナガンは来日中、大阪ステイの機会があると、ブランチから仕事に出る夕方まで、OverSeasでゆっくり寺井尚之と過ごすことがありました。そんな時はレコードを一緒に聴きながら、今ジャズ講座で話している原型のようなことを、演奏していた本人に講釈するので、トミーは、たいそう面白がって聞いていたものです。
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 例えば、フランク・ウエス(ts.fl)と録音した『Moodsville-8』(写真①)のBut Beautufulがかかっていると、こんな具合…
寺井:「このBut Beautifulのこのイントロは、もうジャズ史上最高のイントロですわ!」
師匠:「なんでや?こんなん普通のイントロやないか? ハンク・ジョーンズでも誰でも出来るやろう。」
寺井:「いいえ、出来ません!綺麗なゆったりした流れるようなルバートから、最後の瞬間にさりげなくきちっとイン・テンポにしてフランク・ウエスに渡すでしょう?こんな自然で美しいイントロを、他に誰ができますか?Huh?・・・」
師匠:「…ふーん…そうかな? まあ、そりゃよかった・・ザッツ・グッド」
そして、”あー、こんな奴の話に付き合ってられんなー”みたいに、斜め30゜を見上げ、どこ吹く風の素振りです。でも、この会話の直後、フラナガンはジャズパー賞(デンマークで’90年から始まったジャズのノーベル賞みたいな賞)受賞記念CD、 『Flanagan’s Shenanigans』(“フラナガンズ・シェナニガンズ”写真②)で、この曲を録音し、寺井や私をあっと驚かせました。
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①                     ②
 ある午後、『Overseas』の“Willow Weep for Me”が流れて来ると、トミーは寺井にこう言いました。
「アート・テイタムのこれは、本当に凄かったぞ。お前もアート・テイタムを聴いて勉強せにゃならんな。」
 
 「何言うてはりますのん?このトミーのWillow Weep for Meの方がずっといいじゃないですか!」
 「何言うとんねん、お前、テイタム聴いたことあるんか?」
 「もちろん、レコードは持ってます。でも…」
 「アート・テイタム以上のピアニストはおらん!もっと聴いてみろ! 第一、お前は生のテイタムを聴いたことあんのか? Huh!? (あるわけない…)
わしは若い時はずーっとテイタムを一生懸命聴いて来たんや!
もっとちゃんと勉強せい!
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アート・テイタム(1909-56)はフラナガンだけでなくサー・ローランド・ハナ、ウォルター・ノリスなど、OverSeasゆかりの全てのピアニスト達の崇拝の的。
 最初は柔らかな語調が、最後にはフォルテッシモ、トミーは議論になると、ピアノ同様にダイナミクスが物凄かった。そして、あの大きな瞳の迫力…でもこの一言が、後に、寺井尚之のプレイを大きくしたと言えます。現在、寺井は演奏前には必ずと言ってよいほどアート・テイタムを聴いています。
 
 このレコードは未発表テイクの入ったコンプリート盤だったので、次に、“Dalarna”のtake2が流れて来ると、トミーが眉をひそめました。
「これはなんや?」
「オルタネイトが入ってるコンプリートCDです。」
「どこのレコード会社や? わしには何の断りもなかったぞ。こんなもんくっつけて出して何が面白い?何の意味もないわい!Nonsence!ナーンセンス!
 フラナガンが怒ったのも無理はありません。Overseasは、決してツアー中のバイトとして場当たりに録音したアルバムではなく、入念にレパートリーを選び、キーや構成を考え抜いて丹精込めて作ったものなんですから。
 
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 ジャズ講座では、名コメンテイター、G先生との対話を通して、これまでEP、LP、CDと、様々な形でリリースされて来た様々な『Overseas』を検証しました。その過程で、現在市販されているCDで「別テイク」としておまけについている全トラックが、マスター・テイクと同一であるという、驚愕の事実が明らかになります。今のジャズファンが入手できる唯一の『Overseas』がこれでは困ったものです。
 さらに、現在廃盤のDIW盤の「真正」別テイクを聴き、マスター・テイクとの違いや、そこに潜む深い意味などを勉強できました。講座なら別テイクも有益です。
 当店の常連様でもある、ヨコハマ・ピープル(フラナガン夫妻はこう呼ぶ)「トミー・フラナガン愛好会」のHPに、『OverSeas』の詳細な聴き比べデータが掲載されているので、どうぞご一読を!
 
 OVERSEASは有名盤だけあり、WEB上でも数え切れないほどのサイトやブログで言及されていますね。
 何故か、色々あるジャケットについての論議が多い。現在市販されている、オヤジギャグっぽいC並びのジャケットはおおむね好評みたい。でも上に書いたような、別テイクのエラーは、ジャケットに免じてなのか、殆んど見過ごされている。
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 肝心の内容については、『普段“サイドマン”のトミー・フラナガンが、思わず、エルヴィン・ジョーンズのパワーに煽られて…』とか『主役の器でないフラナガンが、エルヴィンに主役をバトンタッチして成功したアルバム』という意見があるようですが、それは全くあり得ません。先ず第一に、フラナガンは終生、自分を『サイドマン専門』とは思っていなかった。繰り返して言いますが、決して思っていません。それどころか、「私は良い伴奏者じゃなかった。伴奏の専門家には普通のピアニストととは全く違う技術が必要なんだ。良い伴奏者というのは、エリス・ラーキンスやジミー・ジョーンズの事を言う。あるいは、ホーンのバッキングならバド・パウエルが誰よりもすごい。」とよく言ってました。
(寺井が「エラの伴奏をしているトミーの方がずっと上や。」と言い返すと、「お前生でジミー・ジョーンズが伴奏するサラ・ヴォーンを聴いたことあるんか?」と突っ込み返されていました。)
 このあたりは、今後のジャズ講座でどんどん明らかになるでしょう。
 
 ドラムのエルヴィン・ジョーンズとは、二人の高校時代からずっと共演している間柄で、親友同士でもあります。高校時代、ポンティアックのジョーンズ家の自宅では、しょっちゅうジャムセッションをわいわいとやっていて、フラナガンやケニー・バレル達はデトロイトから車を飛ばして参戦していました。フラナガンによれば、その頃から彼のドラムスタイルは全く同じであったそうです。『OVERSEAS』録音以前’57年には、グリニッジ・ヴィレッジのカフェ・ボヘミアだけでも、2月と5月に、J.J.ジョンソン5で、のべ2週間共演しています。ですから、“あのパワー、あのスピード”は、トミーにとって最も耳慣れた演り易いものであったはず。トミー・フラナガンがエルヴィンの迫力に圧倒されるなんて、絶対ありえないことなのです。
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1956年、トミー・フラナガンがNYに出てきて僅か数週間で名店バードランドにバド・パウエルの代役として出演できたのは、一足早くこちらでパウエルの共演者として活躍していたエルヴィンの推薦だった。
 フラナガン弱冠27歳の名演『OVERSEAS』は、確かに当時のトミー・フラナガン音楽の集大成、文句なしの名盤だけど、お楽しみはこれからだよ
 
 

オーヴァーシーズ/トミー・フラナガン・トリオ(1)

わが心のOVERSEAS
前回まで、昔話が続きましたから、今回は皆の知っている名盤<OVERSEAS>の話をしましょうね。
講座の本「トミー・フラナガンの足跡を辿る」では第一巻の最終章に載っています。
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1957年、トミー・フラナガン(p)がウィルバー・リトル(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)と組んだピアノ・トリオ作品。
 私が『OVERSEAS』を買ったのは、関西大学軽音楽部に入学した翌日です。(あら、また昔話になっちゃった…)入部の際、面接とオーディションをした幹部の4回生は、プロのピアニストで、ちょっとカタギでないような感じの人でした。(入学した時に、私の身長目当てに熱心に勧誘して来た社交ダンス部の人たちに、『「軽音」の連中は、僕達とは違って不良ばっかりでクスリをやってるかもしれませんよ。』と脅かされていたのです。)ヒゲをたくわえ、譜面帳の入った大きな皮のトランクを持っており、夜になると、毎晩演奏に行くため、スーツを着てます。昨日まで高校生だった私から見れば、ものすごい大人のオジサンという感じでした。
 
 その先輩に「入部したかったら、これは買わんといかんで!」と言われ、即レコード屋さんに走って行きました。(聴くところによれば、この人は、同様の手口で何百枚ものOVERSEASを販売促進したらしい。)貧乏学生の私にとって、2000円以上するLPはものすごい高級品でした。私の買ったのはテイチク盤で、「第一期スイング・ジャーナル・ゴールドディスク」、チョコレートやクッキーの箱についている○○賞受賞!みたいな金色のリボンが印刷してあります。
 家に帰ってA面の針を降ろすと、部屋の空気が澄み渡るような気分になりました。なんだかよく判らないけど、力強く華やぎのあるイントロから“Relaxin’ at Camarillo”のテーマになだれ込む瞬間に、ジェット機で離陸するような浮揚感を体験した。B面はCamarilloと同じブルースだけど、対照的に重厚なベースのビートから始まる“Little Rock”からスタートし、ビリー・ホリディの歌ですでに知っていた“柳よ泣いておくれ”で針が止まります。Camarilloが難易度最高のパーカー・ブルースと知らなくても、ラストの曲がテイタムの十八番と知らなくても、大学の教室で勉強していたマティスやピカソと互角の、スカっとしたモダンな音楽やなあ…といっぺんで好きになり、以来、毎日日課のように聴きました。
 だから、CD時代も終焉に近いと言われる現在になっても、LPの印象が強いんです。
 
 以来何十年も、毎日聴いていますが、聴くたびに感動します。それを思うと安い買い物ですね。80年代に、人間としてのトミー・フラナガンに出会い、彼が歳とともに円熟を増し、病に苦しんでも、守りの姿勢に入らず進化した様子を生で聴いてきましたから、この27歳の時のアルバムを「フラナガン最高の名演」とは決して思いませんが、寺井尚之の言うように「初期の傑作」であることに間違いはありません。
  私にこのLPを買わせた寺井尚之にとっては、若い時、徹底的にコピーした音楽のルーツ、彼の人生を決定付けた一枚です。 余りに思い入れがあり、却ってジャズ講座で解説するのが、とっても難しかったのではないかと推測します。
 でも講座は文句なしに面白かった!これぞ寺井尚之!という醍醐味を堪能させてくれました。「ひいきの引き倒し」的な解説ではなく、理解を優先させたのは正解でした。なぜOVERSEASが何度聴いても飽きない名盤なのかを、色んな角度から分析して、スパっと教えてくれたからです。
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当時のボス、完璧主義者、J.J.ジョンソン(tb)
 寺井は音楽家の視点から、楽曲と演奏の構成を提示しながら、デトロイト・バップ・スタイルや、当時のこのトリオのボス、J.J.ジョンソン(tb)からの影響など、客観的な所見をわかり易く語ります。
 そして、録音前のフラナガンとビリー・ストレイホーンとの邂逅のエピソード、選曲についてのフラナガンの思い入れ、ストックホルムを襲った水害で水浸しになった直後の録音スタジオの状況など、<OVERSEAS>という名盤を創り上げる過程での様々なファクターが、トランプのカードをめくるように浮き彫りにされて行きます。物事は「それを好き」な人に訊くのが一番良いという見本の様な講座で、とってもわかり易かった。もっと知りたい人はジャズ講座の本第一巻を読んでみてください。
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 “OVERSEAS”(=海外)というのは、このトリオとボビー・ジャスパー(ts.fl)を擁するJ.J.ジョンソン(tb)・クインテットがスエーデンにツアーした際、当地ストックホルムで録音したことから命名されたタイトルです。そう言うとノリのよいジャズメンが、ツアー中の空き時間に、ひょいとスタジオに入り、“Yeah! Man”と場当たりに録音したやっつけ仕事と思われるかも知れませんが、講座の解説を聞くと、実際は全くそうでなかったことが、良く判りました。
 1957年当時、J.J.ジョンソン・クインテットはグリニッジ・ヴィレッジにあったジャズクラブ、<カフェ・ボヘミア>の常連コンボだったことを考えても、フラナガンが、録音レパートリーの構成や意図を共演者に伝える余裕は充分にあったはずです。
  フラナガンは、インタビューで、大昔に録音した『OVERSEAS』を「代表作」と呼ばれることに不快感を示したことがありますが、それは『OVERSEAS』以降のフラナガンの音楽に対する無知に対して怒っているのであって、決してこの作品を嫌っていた訳ではありません。
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 大阪滞在中、トミー・フラナガンがOverSeasでくつろぐ時も、しょっちゅう一緒に聴きました。そんな時、寺井はこの講座で話したようなことを、口角泡を飛ばし、とうとうと解説したものです。フラナガンは、ポーカーフェイスで、時々突っ込みを入れたり、洒落を入れたりしていたけど、鼻先から、嬉しそうに「フンッ」と息を出していたなあ… (つづく)

初めてのトミー・フラナガンDAY(3)

God Is in the House!トミー・フラナガン弟子を取る!
 初めてのトミー・フラナガン・トリオ、当日券をあてにして来られた方々をどれほどお断りしたことか…今思っても申し訳ない気持ちで一杯です。ライブ・レコーディングしていれば、フラナガンのマグマが爆発する瞬間を捉えた名盤となったことしょう。
 長細い店内の最後尾まで、バー・カウンターの中さえ、立ち見のお客さまで一杯、私はてんてこまい。その間に寺井尚之は、フラナガンのオリジナル曲を含め、レコードから長年採譜してきた譜面の束を巨匠に見せていました。
 その夜の壮絶なコンサートは、遠く離れた日本の地で、一心にフラナガンを研究してきた寺井尚之に対する「お答え」とも言うべき内容でした。
 私は信心深い人間ではないけれど、あの夜、生まれて初めて”神の御業”を目の当たりにしたと確信しています。それまで私がレコードでよく知っている(と思い込んでいた)名演の数々は、トミー・フラナガンという壮大な音の宮殿にそびえる大きな城門のちっぽけな鍵穴から覗いた断片でしかなかっのです。
 セット・リストは”初めてのトミー・フラナガンDAY(2)“をご参照ください。
 やはりサウンドチェックの曲は本番では演奏しなかった…フラナガン一流のヒップなコンサートの序章だっんですね…コンサートの全貌は、いつかジャズ講座で寺井尚之が解説する日が来るでしょう。
 
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一部はダーク・スーツ姿のトミー・フラナガン
 一部の幕開けComfirmationからフル・スロットル、BeBopの権化の様なアーサー・テイラー、彼のベース・ドラムのアクセントと、ジョージ・ムラーツ(b)の完璧にレガートの効いたランニング、それを自分のエネルギーに取りこんで「ヒサユキよ、おまえさんの神が来たんだぞ!」とばかりに疾走するトミー・フラナガン! フラナガンの尊敬する巨匠アート・テイタム(p)と同じ、「God Is in the House (神はこの館におられる)」でした!
 1部のレパートリー1~6は、すでに寺井尚之が愛奏していた曲ばかりです。超速のMinor Mishap(マイナー・ミスハップ)を聴きながら、ダイアナに、「ヒサユキのプレイでしょっちゅう聴いている大好きなナンバーです。」と言うと、彼女はびっくり仰天していました。

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左:アーサー・テイラー、中央:ジョージ・ムラーツ、右:トミー・フラナガン
 このセットのハイライトは、“セロニアス・モンク・メドレー”(このコンサートの2年前、同じメンバーでモンク集の名盤、『セロニカ』を録音しています。)この夜は、アルバムよりも情熱的で、記したリスト以外にも、”Epistrophy(エピストロフィー)”など数え切れないモンク・チューンがちりばめられたモンクの小宇宙、でも、「いかにもモンク」的なフレーズはなし、モンク特有の「アク」を抜きつつ、モンクらしさを損なわず、フラナガン独特の品格と大スケールで息もつかせず聴かせます。だけど、これはまだ序の口だった。
 二部開演までの休憩時間、フラナガンは疲れも見せず、赤ペン片手に、寺井尚之の譜面の分厚い束をチェックするのに一生懸命。とうとうジョージ・ムラーツまで座りこみ、一緒に採譜の違った箇所があれば訂正を入れてやろうというのです。フラナガンのオリジナル曲は、絶対音感さえあれば譜面に起こせるといった単純なものではありません。巨匠のアイデアを理解していないと、ちゃんとしたコピーなど出来ません。チェックしてもらった束の中から、“Dalarna(ダラーナ)”と”Minor Mishap”は、OverSeasの壁に飾ってあります。良く見ると、フラナガンのサイン入りのMinor Mishapに一箇所だけ、赤ペンでコードが加筆されているのがご覧になれますよ。
 譜面のチェックが一段落すると、フラナガンは、スーツでキメたムラーツにOverSeasのブルーのトレーナーを着るように指示、自分は燃えるように赤いトレーナーに着替え、2部が始まりました。当店のバンドスタンドに掲げるムラーツの肖像は、その時のものです。
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ムラーツはお気に入りの肖像の前で10月にコンサート開催予定
 二部開演の際、客席に向かってフラナガンは、こう言いました。
「今夜演奏できて、我々は本当に幸せです。月日が経ち、ヒサユキは音楽の良き理解者として立派に成長した事が今日判りました。皆さんは、良いジャズクラブがあっていいですね。今からここに来て2回目の演奏を始めます。我々はこれからもずっと、ここで演奏をしていくつもりです。今日招いてくれたヒサユキに心から感謝しています。
 …フラナガンは何も口に出さなかったけれど、ピアノの上に飾られた’75年の雪の京都の出会いのシーンから、ちゃんとヒサユキの事を覚えていたのです。そして“これからもずっと…”と言ったフラナガンの予言は現実になりました。
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 それからのフラナガンのプレイの凄かったこと…寺井が書き貯めた譜面の束が、天才の心の鍵を開け、とてつもない霊感を吹き込んだとしか言いようがありません。
 フラナガンが心の門を全開にして、ヒサユキと聴衆全員を、自分の壮大な音楽の宮殿に招きいれてくれたような気がします。庭園や建築、豪華な調度類から、先祖の肖像画に至るまで、60分の演奏時間で、全てをくまなく見せようとする物凄いものだった! たとえば、コルトレーンの曲(1)にチャーリー・パーカーを引用し、二人のスタイルが相反するものでない事を解き明かしてみせたり、バド・パウエル(5)には、モンクやマイルスの曲を重ね合わせ、BeBopへの想いを熱く語り、”リーツ・ニート”では、デトロイトの先輩サド・ジョーンズの”ライク・オールド・タイムズ”(数年後、フラナガン3のオハコとなる曲です。)をリフに入れてみせます。
 クライマックスには再びメドレーを持ってきました!ソロやトリオで奏でる、数え切れないエリントン&ストレイホーンの曲、あの名フレーズ、このリフ、「知っているのはいくつある?」と言わんばかり…ジャングルの様々な植物が百花繚乱するフラナガン宮殿の芳香溢れるボール・ルームに案内されたように豪華な夢の世界でした。
 燃えるように赤いフラナガンの大きな背中、鍵盤を滑るグローブのように大きな手、ハイ・ポジションを弾くムラーツの額に落ちる輝く前髪、腰の据わったATの姿勢、苦みばしった顔つき…私がどんなにしわくちゃのおばあさんになったって一生忘れません。
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どこから撮っても絵になるバッパー、アーサー・テイラー、この一連の写真を撮影してくれた桑島紳二氏(現在 神戸学院大学教授)は、ATを撮影した一連の作品で、国際写真コンペで賞を受賞しました。
 ジョージ・ムラーツは、フラナガンにぴったりと併走し、要所で鮮やかなベース・ソロを聴かせます。フラナガンより一つ年上のアーサー・テイラーは、「よっしゃ、トミー、とことん行け!」と言わんばかりにエネルギーを供給し、ドラムソロになると、BeBopの千両役者の貫禄を見せ付けます。息もつかせぬ長尺のメドレーの後のアンコールは、店名のOverseasから2曲。燃えさかる興奮を鎮めるどころか、一層火花の散るハードバップ…何億ドルもかけて作る大作映画だってこのコンサートのスケールにはかなわない!胸を張って言いますよ。
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この夜のフラナガンのアドヴァイスで新たな調律のコンセプトが開けたという、名調律師川端氏と
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 終演後、ディナーを楽しんでからも、フラナガンはまだ譜面の束を仔細に眺め、ヒサユキに色々質問しています。すると突然ダイアナ夫人がワっと泣き出しました。まるで最近の夕立のように激しい慟哭でした。それは、愛する夫の音楽を、自分に負けないほど敬愛していた人間がいた事への嬉し涙だったのです。彼女はヒサユキを固く抱きしめ、ぐしゃぐしゃの涙の中から決然と言いました。
 「トミー、ヒサユキを弟子にしてあげて。」フラナガンは頷き、何度もYeah、と言います。そこには、私が夕方見た「どこ吹く風」のとぼけた様子は微塵にもありませんでした。
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 夜中の1時になっても、OverSeasはお祭り騒ぎ、皆は一向に帰る素振りも見せません。狐につままれたような迎えの事務所の人たちにうながされ、しぶしぶ皆が帰ったのは午前3時近くなっていました。
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この夜からMr.フラナガンは自分をトミーと呼ぶように言った。
 翌日は大阪のメインの仕事、ホテル・プラザでのディナー・ショウがありました。弟子入りを許された寺井尚之は、仕事のハネる時間に師匠を迎えに行き、ギグ後外出自粛主義のムラーツに誘われて、ホテルのバーで義兄弟の契りを結んだ後、師匠とATを連れて帰ってきました、当時隣にあった老舗ホテル、「ひし富」の板長さんが大のジャズファンで、深夜にもかかわらず懐石料理を仕出しして下さって、盛大なパーティをしました。二人ともすっかりくつろいで、昨日、怒涛のように激しいプレイをしていたジャズの巨人と思えない気さくな紳士でした。
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 私が英語を話すのを面白がったATは、帰国後、自著のインタビュー集、『Notes & Tones』(ジャズの巨人達の生の語り口がスイングしていて凄く面白い!)を送ってくれました。それがきっかけで、「英語を読む」楽しみも授かりました。
 だけど…そうなんです。皆さんはもうお気づきでしょうけど、結局、私が英会話など勉強しなくとも、寺井尚之の弟子入りは彼自身の力で果たされたということだったんです。

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 ★この初コンサートは’84年12月14日(金)、契約が決まったのは半年近く前の初夏、契約直後から、当日に風邪など絶対引かないようにと決意したわしは、以後全く風邪をひかんようになったのです。これが「バッパーは風邪をひかん」という格言(?)の由来です。(特別出演:寺井尚之)
さて、次週は、ジャズ講座、名盤名場面集:いよいよ”Overseas”へ!CU