寺井珠重の対訳ノート(5)

淑女の一分(いちぶん):Miss Otis Regrets (Cole Porter)

 最近のOverSeasのライブは、とっても充実していて、一昨日は、各方面で引っ張りだこ、長年OverSeasで根強い人気を持つベーシスト、鷲見和広さんの41歳のバースデイ・ライブで、大変充実した演奏が聴けました。(彼は20代初めからOverSeasで寺井とプレイして、フラナガンやムラーツにも注目されていたし、ピアノの巨匠ウォルター・ノリスとも共演した。)
 OverSeaでは、3月末に寺井尚之フラナガニアトリオにより、トミー・フラナガンへのトリビュート・コンサートも控えているし、のんびりできない日々です。
 店を開けてお客様をお迎えするまでは、仕込みや掃除に加え、来週、3月8日のジャズ講座のために、エラ・フィッツジェラルド屈指のライブ盤、『Newport Jazz Festival: Live at Carnegie Hall』の対訳作りで、楽しい悲鳴をあげています。
 でも、自分が作った日本語を読みながら、エラの天才を楽しんでもらえるってスゴい!すごく光栄です。
 
 日曜になると、対訳を使う寺井尚之と近所の喫茶店で進捗状況の報告会。「(私)あの歌、エラはなぜチョイスしたんやろ?」「(私)この歌、この間のサンタモニカ・シヴィックのヴァージョンと歌詞全部変わってるねん、よういわんわ…(私)」「(寺井)この曲は、えらい変則小節や… あのナンバーでドジ踏んどる奴がおるねん…(寺井尚之)」などと、詳細なミーティング(?)を行うのが又楽しい。
 
 今回のテーマ、コール・ポーターが作った、ちょっと風変わりな歌、Miss Otis Regrets も、勿論このコンサートの収録曲。かつてElla Fitzgerald Sings The Cole Porter Songbook(’56)でもピアノとデュオで歌っているのだけれど、言うまでもなく17年後のエラの歌作りは、トミー・フラナガンの力も手伝って、何倍もスケールアップしている。
 
 昔から、なんか気になる歌だった。
 ミス・オーティスと昼食を共にするために訪問した貴婦人に、屋敷の執事が”マダム”と何度も呼びかけながら、女主人を襲った悲劇を徐々に伝えるドラマ仕立て。ビリー・ワイルダーの傑作古典映画「サンセット大通り」を想起させるコワさがあります。
porter-cole21.jpg コール・ポーター(1891~1964)
 
 下の歌詞は、講座用に製作中のものを一部出しました。完成版は来週のジャズ講座でゆっくりご覧ください!
Miss Otis Regrets 詞曲 コール・ポーター


Miss Otis regrets,

  she’s unable to lunch today, madam,

Miss Otis regrets, she’s unable to lunch today.

She is sorry to be delayed,

But last evening down in Lover’s Lane

     she strayed, madam,

Miss Otis regrets, she’s unable to lunch today.



When she woke up and found that her dream

 of love was gone, madam,

She ran to the man who had led her so far astray,

And from under her velvet gown,

She drew a gun and shot her lover down, madam,

Miss Otis regrets, she’s unable to lunch today.



When the mob came and got her

and dragged her from the jail, madam,

They strung her upon the old willow

across the way, far away

And the moment before she died,

She lifted up her lovely head and cried, madam

"Miss Otis regrets, she’s unable to lunch today."

残念なことに、ミス・オーティスは、

本日のお昼をご一緒できません、奥様、

お約束を延期にし、申し訳わけないと

申しております、奥様、

実は、あの方は、昨日の夕方、

恋人の小道で道に迷いました、奥様、

残念ですが、ミス・オーティスは、本日、お昼をご一緒できません。



あの方は、うたかたの夢から目覚め、

恋の終わりに気づかれました、奥様、

そして、自分を絶望させた相手に駆け寄り、

ベルヴットのドレスの下に隠した拳銃で、

恋人を撃ったのです。

ミス・オーティスは、残念なことに

本日のお昼をご一緒できなくなりました。



荒れ狂った群集が

あの方を留置場から引きずり出し、

道のずっと向こうの

あの柳の木に吊るしました、

息絶えるその時、あの方は美しいお顔を上げ、

泣きながらおっしゃいました。

「残念ながら、ミス・オーティスは、

今日のお昼をご一緒できない。」と…



 平明な言葉ばかりで、和訳がなくとも、なんとなく判るでしょう? 瀟洒なお屋敷のロビーで、使用人が穏やかな口調でマダムに語りかけます。ラストの断末魔で、昼食が出来ないことを詫びる顛末は、演劇的に過ぎて…色々揶揄する向きもあるけれど、エラが歌うと、ストーリーを損なわずに、全く自然に聴こえてしまう。
 恋に破れた淑女、ミス・オーティスは恋人を撃ち殺す。純潔を汚された淑女の一分(いちぶん)だ。寺井尚之の大好きな曲、Poor Butterflyで、帰らぬ男性を待ち続け最後に自害する蝶々夫人の悲劇が日本の淑女の一分なら、ミス・オーティスは西洋のカウンターパートだ。女性が男性を殺すと、その逆よりも、ずっと大罪だったその昔、それを知った土地の民衆が暴徒と化し、留置場のミス・オーティスを引きずり出し、町外れの柳の木に吊るして処刑しようとする。ミス・オーティスは息絶える前に、凛と顔を上げてこう言う。「残念だけど、今日の昼食は出来ないの。」
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 この歌は「西部」の感じがすると言う書物もあるけれど、「風と共に去りぬ」のスカーレット・オハラが着るグリーンのベルベット・ガウンや、「奇妙な果実」のリンチの歌で育った私には、どうもウエスタンの『ハイヨー・シルヴァー!」の世界と言うよりは、「南部」の感じがする。
 
『コール・ポーター・ソングブック』のライナー・ノートによれば、ポーターがレストランで食事をしているとき、他のテーブルから聞えて来たウエイターの応対にピンと来て書いた曲だと言われている。
 「恐れ入りますが、ミス○○はランチにお越しになれないそうです、マダム。」の一言から、こんな刃傷沙汰(にんじょうざた)を連想するコール・ポーターは、第一次大戦中に徴兵を逃れ、パリでジャズエイジに享楽の日々を送った。 自分の生活態度は、アメリカの地方に行けば処刑に値するのではないかという、潜在的な自覚があったのだろうか?
 また、この曲は、ポーターのパリ時代に親交深かったエンタテイナー、ダンサー、シンガー、クラブ・ママでパリ社交界の華と呼ばれたアダ・ブリックトップがショウで歌う為に書かれた。
 
 昨年の秋、英国のTVドラマ、<ミス・マープル:アガサ・クリスティー>の「バートラム・ホテルにて」というエピソードの冒頭シーンに、この歌詞が使われて少し話題になった。1960年代のロンドンで、30年代のエドワード朝時代の懐古的な雰囲気で人気のホテルを舞台にした、おなじみのミステリーなのだけど、ホテルのフロント係りが、電話口で「恐れ入りますが、ミス・オーティスは本日、昼食にお越しになれません。」と話すことで、そんな時代がかったムードを表現したのだった。イギリス人らしいウィットですね!
 この曲本来の姿を探し、「最高のコール・ポーターの歌い手」と賞賛されるボビー・ショートのヴァージョンを聴くととても参考になりました。
 カーネギー・ホールでのエラの歌唱は、おそらくコール・ポーター自身も想像しなかったほど高潔だ。
 「ちょっとソフトな歌を…」と前置きしてから”Miss Otis regrets…” と歌い出すと大拍手が沸く。それほど有名スタンダードではないはずなのだけど、通の多いNYの土地柄を表しているのだろうか?
 エラは、高貴で堂々としていて、決して執事にも女中頭のようにも聴こえない。彼女がベルベットのガウン…と歌うとき、そのドレスの色は、「風と共に去りぬ」のグリーンではなく、深いブルー以外にはないと思えてしまう。私にはMiss Otisの悲劇を語るエラ・フィッツジェラルドは、女中の姿に身を変えたミス・オーティス自身の幻のように聴こえてならないのです。
 寺井尚之のジャズ講座:『Newport Jazz Festival: Live at Carnegie Hall』は3月8日、来週土曜日、お近くの方はぜひどうぞ! 遠くの方はジャズ講座の本で!
 
 CU

寺井珠重の対訳ノート(4)

 My Funny Valentineとシェイクスピアの粋な関係
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ウィリアム・シェイクスピア(1564-1616) ロジャーズ・ハート・コンビ、右のバーコードの人がロレンツ・ハートです。
 
  寺井尚之のジャズ講座が始まってから足掛け11年、毎月第二土曜は、相変わらず楽しい集い!ビリー・ホリディから始まった私の対訳歴も10年を超えてしまったのですが、今だに名歌手の歌唱解釈、名歌詞に学ぶことが一杯です。
 
  英語の歌詞を日本語に置き換える際には、ごくシンプルな一節でも、その出所や、時代、歌手の歌い方…色んなことを想う。原典の映画や原作、作者の人となりなど、とにかく調べてみる。『スタンダード』と呼ばれる歌は、殆どがジャズ用に書かれたわけでなく、芝居や映画で流行ったもの、俗にティン・パン・アレイと呼ばれるNYの音楽出版の街角が出生地だ。当時の歴史やファッションなど色々調べ回し、全てを一旦ご破算にした上で、歌手の歌唱解釈をもう一度考えてみる。出典とは全く無関係な音楽世界になっているものもあるから、歌の出身ににドップリ浸るのも問題です…
  なーんて言うと大げさですね。ガキの頃から映画好き小説好き。”Sleepin’ Bee”の訳詩の為に、カポーティ短編集一冊読むのも全く苦にならないおっちょこちょいなだけ。
  寄り道好きの私が、このところ気になってしかたないのが、歌詞の後ろに見え隠れするむシェイクスピアの影なんです。クリーム・シチューに白味噌をちょっぴり隠し味として入れるように、バッパーたちがスタンダードを土台にヒップなバップ・チューンを作ったように、フラナガンがアドリブの中にスルっと引用フレーズを織り込むように、シェイクスピアは、幾多のスタンダード・ソングの中にかくれんぼしながらウィンクしているから、発見すると嬉しくてたまらない。
 古典シェイクスピアの戯曲や詩は、著作権がないからか、大部分がネット上で読めるんです。
 
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  シェイクスピアの香り、一番判りやすい例なら、寺井尚之が騒々しい夜に愛奏し、フラナガン3が、『Magnificent』で聴かせてくれる“Speak Low スピーク・ロウ”の歌詞の冒頭部分、

Speak Low
When you speak love,
愛を語るなら小声で囁いて、

  これはシェイクスピアの有名な喜劇「空騒ぎ」第二幕の仮面舞踏会でのくどき文句と同じ。作詞のオグデン・ナッシュが、作曲のクルト・ワイルの口にした名台詞から、一編の歌詞に仕立て上げたと言われている。それ以外にも色々あるのだけど、2月にぴったりのスタンダード曲にも、シェイクスピアの影法師が見えます。
 それはMy Funny Valentine、この歌詞に16世紀の劇作家の影が、もっと巧妙に隠れてました。以前、Interludeで取り上げたThe Lady Is a Tramp同様、”Babes in Arms”の劇中歌、名コンビ、リチャード・ロジャーズ(曲)=ロレンツ・ハート(詞)の作品です。
 ”マイ・ファニー・ヴァレンタイン”は、大スタンダードなのに、とっても誤解されている。
 昔、何かの雑誌で読んだことがあります。「この歌はヴァレンタインという名の恋人へのラブ・ソングで、ヴァレンタイン・デーとは無関係な曲だ。日本人がバレンタインデーにこれを演るのはアホで的外れだ。」と…現在もそういう通念があるみたいです。どうやら”Babes in Arms”の劇中で歌うシチュエーションが、誤解の元になっているのでしょう。
 だけどね、ロバート・キンボール&ゴットリーブ・コンビが編纂したオリジナル歌詞(ランダムハウス社刊:Reading Lyricsより)を見ると、下記のようになってます。訳詩は、以前寺井尚之の生徒達が主催してくれたエラ・フィッツジェラルド講座で使ったものを元にしました。
 エラ・フィッツジェラルドとトミー・フラナガン3が’75の2月14日、東京中野サンプラザでの名唱です。エラもバレンタインデーに歌っていたのです。

My Funny Valentine 曲:リチャード・ロジャーズ、詞:ロレンツ・ハート


My funny valentine,

Sweet comic valentine,

You make me smile with my heart.

Your looks are laughable,

Unphotographable,

Yet, you’re my fav’rite work of art.

Is your figure less than Greek?

Is your mouth a little weak?

When you open it to speak

Are you smart?

But don’t change a hair for me.

Not if you care for me,

Stay, little valentine, stay!

Each day is Valentine’s Day.
私のおかしな恋人さん、

可愛い、楽しい恋人さん、

私を心から微笑ませてくれる人。

あなたのルックスは笑っちゃう、

写真向きじゃない。

それでも、私が一番好きな芸術品。

スタイルはギリシャ彫刻に負けてるかな?

口元が弱い?

その口を開けて話したら、

あなたは野暮ったいんだもの。

でも、私を想ってくれるなら、

どんな些細な所も変えないで。

今のあなたでいて欲しい。

あなたとの毎日が私のヴァレンタインデイ。

 
 
 ほらね、個人の名前なら大文字のValentineだけど、歌詞は小文字のvalentine なんです。「a valentine」というのは、ヴァレンタイン・デーににチョコでなくともカードを送る相手、つまり恋人のこと。決して千葉ロッテ・マリーンズの監督の応援歌ではない。
  この歌は、正真正銘のラヴソングなのに、月も星も、”Love”という言葉すら出てこない。それどころか、「写真向きじゃない」とか「野暮ったい」とか、ネチネチ皮肉っぽいことばかり言う。でも、完璧でない恋人が、却って愛しくてたまらない。どうか、不完全なままでいて欲しい。野暮なままでいい!へんてこなところが好きで堪らないの!と、憎まれ口を言ってから、最後にはとっても切ない気持ちが堰を切ったように溢れる。サラ・ヴォーンが歌うと一層セクシーになって…相手へ官能的な情愛がひしひし伝わるでしょう!
  メロディも”都会的”と言うのかな… 例えば夜更けに、セントラルパークを見下ろす瀟洒なアパートの窓からカーテン越しに見える向かいの部屋の風景。薄暗いNYの照明の下で語らう年齢の離れた男女の姿…『プラダを着た悪魔』に出てくる、最新ファッションでキメたメリル・ストリープみたいな人が年下の恋人に、初老のケーリー・グラントがブラック・ドレスと真珠でキメた太眉のオードリー・ヘップバーンに歌うと、ぴったりする感じ。だって、最後の切なさは、青春を通り過ぎたことを知ってる大人が、なりふり構わず愛を告白する構図が表現されてこそ味がある。
   その反面、聴く者に、完璧な人間でもなく見た目もイマイチなこの私でも、こんな風に想ってくれる人がいるかも知れない!という希望を与えてくれる。本当に粋な詞だ!…と、私はずっと思ってた…
 ところが、この間、シェイクスピアのソネット集を読んでいると、こんなのに出会いました。『ソネット』とは、一定のアクセントを持つ14行の詩です。シェイクスピアのソネットには、愛する少年に宛てて書いた詩と、「ダークレイディ」と呼ばれる謎の黒髪の女性の恋人に宛てたものと大まかに2種類あって、この詩は、明らかに後者ですね。
 

新潮社刊:「シェイクスピアのソネット」小田島雄志訳:<ソネット130番>より抜粋
「私の恋人は輝く太陽にはくらぶべくもない。(中略)
 髪が絹糸なら、彼女の頭にあるのは黒糸にすぎない。(中略)
 香水ならかぐわしい香りを放つものがある、
 彼女の息の匂いなど、とうていそれにかなわない。
(中略)・・・・
 だが誓って言おう、私の恋人は、そのような
 おおげさな比喩で飾られたどの女より美しいと。」

 
  ほらねっ!!アイデアが一緒でしょう!日本なら安土桃山時代か、江戸時代初期、エリザベス朝の英国人、ウイリアム・シェイクスピアの発想を、ロレンツ・ハートが取り込んでいた!大発見やー!と、愚かなる私は得意になったのですが、調べてみたら、「詞」ではなくて「詩」関連の英文サイトに同じことを書いていた人がいました。…ネイティブはエラいな…。
   “シャッキーおばさん”なる人の投稿記事を読むと、My Funny Valentineの歌詞には、『この歌はシェイクスピアのこのソネットを読んで書いたんだ』という、ロレンツ・ハートの犯行声明が潜んでいる、というのです。
   ほんまや!そのとおり、My Funny Valentineの歌詞のヴァース以降の「リフレイン」と呼ばれるコーラス部分はシェイクスピアのソネットと同じの14行詩にしつらえられていたのだった。
  ロレンツ・ハートさん、いえラリー(と呼ばせてもらいたい) ニクいね!!
  モダンでウィットに富む作風を身上にしたハートは、第二次大戦中のアメリカのムードにそぐわず、締め切りを守れない生活態度も災いし、学生時代からの相棒、ロジャーズとコンビを解消後は一層アルコールに溺れ、不遇で孤独な最期を遂げた。
  ナチ台頭時代にユダヤ民族としての悩を抱え、さして見目麗しいゲイでなく、抑圧された気持ちを酒で紛らわしていたラリー・ハートの作った、My Funny Valentineは、ひょっとしたら自分宛てのラブソングだったのかも知れない。
 
 来年のヴァレンタイン・デーには、そんなことを思いながら、この曲を聴いてみようかな。Interludeが奨めたいのは、マット・デニスのMy Funny Valentine、都会的で、シナトラほどカッコよくないけど、とっても粋で、ほんとにファニーな芸術作品なんですから。マット・デニスを聴きながらチョコレートを食べよう!(体重注意)
次回のInterludeは、多分カーネギー・ホールのエラ・フィッツジェラルドにヒーヒー言っているはずなので、エラの歌った曲から紹介する予定です。
CU

コンサート・レポート:ショーン・スミス+寺井尚之デュオ 2/8 ’08

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<目にも耳にも楽しいコンサートだった!>
  NYで地道な活動を続けるベーシスト、ショーン・スミス=寺井尚之の顔合わせは、私にとってすごく楽しみな企画でした。
 当夜、遠くから近くから、大勢来て下さったお客様、どうもありがとうございました!
 日常、新レパートリーを開拓しつつ、一生モノの愛奏曲を熟成発酵させることに余念のない寺井尚之(p)が迎えるゲスト、ショーン・スミス(b)は、作曲家としてグラミー賞にノミネートされるほど、オリジナル曲を書き貯めるベーシスト。彼の持ち込む新ネタの土俵で、真っ向勝負で四つに組む相撲を取るのか?変則技で逃げを打つのか?音楽を良く知るお客様の前で、一夜のステージをどうしつらえるのか…?
 結果は、見た目も絵になる二人のミュージシャンの音楽的な会話が聴く者にちゃんと伝わる、とってもリッチな一夜だった。
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<当夜のレパートリー>
1st
1. Bitty Ditty (サド・ジョーンズ)
2. Lawn Ornament(ショーン・スミス)
3. Japanese Maple(ショーン・スミス)

4. Minor Mishap(トミー・フラナガン
2nd
1. Mean What You Say (サド・ジョーンズ)
2. Strasbourg (ショーン・スミス)
3. Lament(J.J.ジョンソン)
4. Scrapple from the Apple(チャーリー・パーカー)

3rd
1. That Tired Routine Called Love(マット・デニス)
2. Smooth As the Wind(タッド・ダメロン)

3. Poise(ショーン・スミス)
4. Hitting Home (ショーン・スミス)

Encore: Elusive (サド・ジョーンズ)
<段取りはプロの証>
   上の演奏曲目、青字はショーン・スミスのネタで、茶色は寺井尚之のネタ、因縁のアンコール曲=イルーシブ以外は、事前にメールや郵便でちゃんと譜面を交換していたのです。加えて寺井ネタは、何曲かのオファーの中から、ショーンに選んでもらって決めました。ネットって便利ですね!
 かつてトミー・フラナガンにOverSeasで演奏をお願いする時は、午前3時や4時に、何度も国際電話をかけて、回らない頭を英語モードにしてお願いしなくてはならなくて、完全に睡眠不足になってました。
 ショーンが送って来た5曲は、全て彼のオリジナル、それも結構難しい。ショーンの譜面は、いまどきのPCソフトで作ったものでなく手書きでした。寺井は、それらを自分できちっと清書し、毎日稽古して備えました。
 一方、ショーンにとって、寺井サイドの曲は、どれも、彼が20~30代にトミー・フラナガン3で聴き込んだレパートリーばかり、来日時にもテープやCDで予習している様子だった。
 ショーン・スミス&宮本在浩ss-zaiko.JPG当日1時間足らずのリハーサルを予定していた二人、ショーンは、宮本在浩(b)が快く貸してくれたイタリアの名器、コルシーニをかなり気に入った様子だったけど、弦高をできるだけ高めにしました。以前はもっと低かったのに、いつ替わったんだろう?ザイコウさんがOverSeasの掲示板に書いていたように、いつもより張りのある音色、アンプ臭がなくて非常にアコースティック、おかげで寺井の個性ある潤いのあるピアノ・サウンドが、一層引き立ち、よりカラフルな印象を与える。でも、この弦高でElusiveのテーマをユニゾンするというのは、かなりキツいんじゃないかしら…
★宮本在浩(b)とショーンです。
 ジャズが、室内で演奏されるようになり、ウッドベースを使い出したその昔は、ベースアンプなどないし、大きな生音を出す必要から、弦高は高かった。でも、アンプが発達し、無理に音量にこだわらなくてもよくなってからは、ベースの役割がビートだけでなく、メロディへと広がり、弦高は自ずと低くなって行きました。ニールス・ペデルセンやジョージ・ムラーツのような目くるめくような速いパッセージは昔のような高い弦高では難しい。だからといって、弦高を低くしアンプに頼ってばかりいると、ベタベタした頼りない音になってしまうので、ベーシスト達は皆、それぞれ秘密の工夫をしているみたい。寺井尚之と私が、今まで生で観た内で一番弦高の高かったベーシストは、ジョージ・モロウとチャールズ・ミンガス!バキバキとビートが空気を振動させて、男性的な魅力が一杯だったなあ…
 打ち合わせ風景1-duo-1.JPG 寺井尚之とショーン・スミスは、6年ぶりの再会なのに、まるで、毎週会っている友人同士のように挨拶をし、新婚の可愛い奥様を紹介してもらってから、ベースの弦高を調節して、コーヒーを片手に打ち合わせがテキパキ進みます。曲順はどうしよう?各曲のテーマ取りはピアノかベースか?ライブのアウトラインが瞬く間に決まった。この間わずか15分(!)。 
 その後、二人が楽器に向かうリハーサルでは、テンポ、イントロ、エンディング、決めの箇所を、ピンポイント的にチェックして全13曲、あれよあれよと言う間に、格好が付いていく様子を皆様にもお見せしたかったです。万一、言葉の問題があった時の為に、通訳で横に付いていた私もスカっとするリハーサルに、一昨年のジョージ・ムラーツ・トリオのリハを思い出しました。
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<聴き合う心が通う本番!>
 真っ赤なニットから渋いジャケットに着替えて来たショーン・スミス、ネクタイを締めてキメようと思っていたらしいけど、「わしはこのままやで。」と言う普段着の寺井に合わせ、ノータイ姿です。オープニングの“ビッティ・デッティ”から長年一緒にやって来たデュオ・チームのように、こなれたインタープレイで魅せました。“紅葉”(Japanese Maple)というショーンの作品は、色彩を音色で表すのが得意な寺井好みの曲、自分のレパートリーとしてしまうようです。
 セカンド・セットのオリジナル曲、“ストラスブール”は哀愁に溢れる日本人好みのメロディ、寺井門下の“つーちゃん”は、ストラスブールにも3日間滞在したことがあるそうですが、この曲を聴きながら、川面に映し出される夕焼けの心象風景が衝撃的に蘇ったと、印象的なコメントをくれた。ストラスブール ストラスブールは世界遺産のこんな街。
ショーンのアルバム・タイトルになっている、ラストセットのバラード、“ポイズ”も、一筋縄で行かぬ曲だし、軽快なミディアム・バウンスの“ヒッティング・ホーム”は転調だらけで、指使いに工夫をしないと弾けない難曲だったらしいけど、そんな事を微塵にも感じさせぬプレイでしたね。
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 アンコールのお楽しみ、例の“イルーシブ”は、ユニゾンのテーマが、朝飯前のように行ったリハーサルに比べれば、6割位の出来で、ショーンの悔しそうな表情と、狸寝入りみたいな寺井のポーカーフェイスが対照的で、却って印象的だった。近い将来、また二人で演奏して欲しいです。
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 タッド・ダメロンやサド・ジョーンズの難曲でも、ショーンはしっかりしたビートと、自然で洗練されたボトムラインをしっかり受け持ち、ピアノが「ピアノ」として音楽できるようにお膳立てをして行く。ベーシストとしての仕事をきっちりする。寺井はショーンのビートとラインの動きを感じながら、鍵盤のパレットで色んなカラーを作り、ショーンのソロが最もスムーズに流れるように、最高のバッキングで応える。そんな二人のハーモニーがとってもいい感じ。
 普段の生活でも、自分の言いたいことだけ言う人がいますよね。相手が話しているときは、合槌も打たず、時には、話している途中に割り込んだり、自分の話すタイミングだけを待っている人とは、その人の話がどんなに有益でも、ちょっとシラけてしまうけど、今夜の二人は正反対。
   お互いの話に耳を傾け、うまく相槌を打ちながら、話がどんどん盛り上がる、聞き上手、話し上手、楽しい対談を、傍らでふんふんと聴いているような心地よさに浸りました。
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 レギュラー・コンビではないけれど、全編、逃げを打たず、ソリッドなレパートリーで、真摯に聴かせたショーン・スミス=寺井尚之デュオ、ショーンはバンドスタンドに行くと男っぷりが数段上がるミュージシャン、ハイポジションを繰り出すと顔が高潮し、一段と男前!ぜひともまた近いうちに聴きたいものですね!
 帰り際も、何度も丁寧にお礼を言うショーン、昔と変わらない真面目なベーシストだったけど、それ以上に、自分が何をすべきか知っている極上のベーシストだった!皆様、どうもありがとうございました!
 さあ、来月、3月29日(土)はいよいよ、第12回トリビュート・コンサート、このコンサートで調子を上げている寺井尚之と宮本在浩(b)河原達人(ds)の大舞台!
 最後になりましたが、このレポートに掲載した写真は、当夜東京から来てくださったジャズ評論家、後藤誠氏の提供です。G先生、二人の音が聴こえてくるような写真をどうもありがとうございました。
CU
 

サー・ローランド・ハナ伝記(2) 真実一路

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<ハナさん・リターンズ>
 苦労して奨学金を得て合格した名門校、イーストマン・スクール・オブ・ミュージック、しかしローランド・ハナに突きつけられたのは「ジャズ禁止」の校則だった。
 

「クラシックとジャズの間に区別なし。」
「アドリブとは瞬間的作曲法だ。」

確固たる信念を持つハナさんは、名門校に何の未練も残さずさっさとデトロイトに帰郷、翌年、ジュリアード音楽院に合格し、再びNYで仕切りなおしをする。ジュリアードは、テディ・ウイルソン(p)達ジャズの巨匠を講師に迎えるリベラルな校風だから、ジャズ禁止の校則もなかった。以前ブログに書いた、ディック・カッツ(p)さんは、’56年にジュリアードでテディ・ウイルソン(p)に個人レッスンを受けた。マイルス・デイヴィスやニーナ・シモン(vo)も、ジュリアード、後年、ハナさんとNYJQで共演したヒューバート・ロウズ(fl)も同校出身だった。
<ベニー・グッドマンからファイブ・スポットまで>
 ローランドは水を得た魚のように、クラシックとジャズ・シーンを併走しながら、学生生活を送る。ジョージ・タッカー(b)、ボビー・トーマス(ds)とトリオを結成、クラブやTVのジャズ番組に出演するうち、ベニー・グッドマン(cl)に認められ、学校を一時休学し、ベルギー、ブリュッセル万博やヨーロッパ各地を楽旅した。
 後に、ハナさんの来日時、パスポートが期限切れだったのに、「グッドマンと共演した人だったらOK」と、審査官が一発でハンコを押して通してくれたという話は語り草だ。
benny_goodman.jpgベニー・グッドマン(cl)
 ジャズの仕事に流されず、きっちり4年で卒業したというのもハナさんらしい。卒業後は歌手の伴奏者として、サラ・ヴォーンと2年半、エリントンとの共演で有名な盲目の男性歌手、アル・ヒブラーの伴奏者として2年活動し「伴奏者」時代を卒業、グリニッジ・ヴィレッジの有名ジャズクラブ、<ファイブ・スポット>で、チャーリー・ミンガス(b)のバンドに参加、自己トリオでセロニアス・モンク・グループの対バンを務める間に、モンク音楽への理解を深め、後年の名盤、Plays for Monkに結実した。(対バン:クラブなどで、メインの演目の休憩中に演奏するバンド、60年代まで、NYの殆どのジャズクラブには、対バンが入っており、2バンド聴けたのです。)
 
five_spot.jpg ’50年代、Five Spotのモンク・カルテット
  同時期、コールマン・ホーキンス(ts)と出会い、大きな影響を受ける。ヨーロッパ生活の長かったホークはクラシック音楽に対して大きく心を開く巨匠だった。コールマン・ホーキンス親分が声をかけるピアニストはトミーが一番、二番手がハンク・ジョーンズ、三番手がハナさんだったという。ハナさんは後年、コールマン・ホーキンスに捧げた名曲、After Parisを上辞している(Prelude Book 1)。
<初来日>
 ’64年、大映の「アスファルト・ジャングル」という映画音楽の仕事で、カルテットで初来日。同行メンバーは行サド・ジョーンズ(cor)、アル・ヒース(ds)、アーニー・ファーロー(b)、日本で、「自分のビッグ・バンドを持ったらどうか」とサドに助言し、2年後、サド・メルOrch.が生まれた。
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 気がつけば、もう60年代中盤、NYの町に響いていたジャズはビートルズにとって代わっていた。ベトナム戦争が始まり、街の大人達はナイト・クラブに行かずに、夜は自宅の居間でTVを観る生活スタイルになっていく。ジャズメンにとって、クラブ・ギグだけで、食べていけない冬の時代がやって来たのだ。腕のあるミュージシャンの多くは、生活の糧を放送メディアに求めた。トミー・フラナガンは、スタジオの仕事より、エラ・フィッツジェラルド伴奏の道を選び、しばしNYから離れることになる。
 ハンクやサドのジョーンズ兄弟、クラーク・テリー(tp)と言った人たちは、三大ネットワークTVの人気番組の専属バンドのメンバーとなり、メル・ルイス(ds)やリチャード・デイヴィス(b)、ペッパー・アダムス(bs)たちは、スタジオ・ミュージシャンとして安定した収入を確保した。ツアーがないから、ずっと家族と過ごすことが出来る反面、ジャズの喜びは得られない。
 そこで、彼らはジャズ・メン本来のの芸術的欲求、あるいは快楽のため、ストレート・アヘッドな音楽を損得なしでやろうとした。実力派が、ノーギャラのリハーサルを惜しまず、本番で熱く燃える姿は、結果として、お客さん達を狂喜させることになった。’70年代の新しいジャズのかたちだ。
 この典型が伝説のビッグ・バンド「サド・ジョーンズ&メル・ルイスOrch.」だった。デビューまでに、レパートリーを用意し、週一回、スタジオを借りて、リハーサルに3ヶ月を費やした。このバンドの本拠地となった<ヴィレッジ・ヴァンガード>のマンデイ・ナイト、当初のライブ・チャージは、僅か2.5$、バンド・ギャラは一人、たった17$だったという。それでも、毎週演奏場所があるから、バンドのクオリティを何年も保つことが出来たのだ。月曜のジャズクラブは、スローと決まっていたのだけど、サド・メル時代のヴァンガードの月曜は大盛況となったのだ。
 下は、TV番組“ジャズ・カジュアル”でのサド&メルOrch.ビッグ・バンドの醍醐味とハナさん節が堪能できます。

 <サド・メル時代>
  ’67以降、ハナさんは、ダブル・ブッキングを常とする超多忙なハンク・ジョーンズ(p)の後釜として、レギュラーの座に8年間就くことになる。サド・ジョーンズとクレジットされている名曲、A Child Is Bornは、実はこの時期のハナさんの作品だ。
 当時のメンバーは、ジョージ・ムラーツ(b)、ペッパー・アダムス(bs)、スヌーキー・ヤング(tp)、ボブ・ブルックマイヤー(vtb)、などなど、様々なバックグラウンドを持った腕利きがサド・ジョーンズという天才の元に結集している。まさにNY・Jazzのドリーム・チームだ。ハナさんの後ろでレギュラーを狙い二軍ピアニストは、チック・コリア、ハービー・ハンコックたちスター予備軍だ。
 楽団の掟もハナさんにぴったり!

「常にストレート・アヘッドで行く!コマーシャルなことをしない。」

 ハナさんは楽団のピックアップ・メンバーを集め、’69年から、ニューヨーク・ジャズ・カルテット(NYJQ)を結成、ソリッドなコンボ活動を始める。また、当時のハナさんは、ヘヴィースモーカーで、大酒豪だったそうだ。
 しかし、’74年に、ハナさんは突然サド・メルを降板。楽団維持のために、スティービー・ワンダーのヒット曲のレコーディングが決定されたのが、引き金となった。
 
 <ハナさん、騎士になる>
 ’70年に、ハナさんはアフリカをツアーした。当地の青少年の教育資金のために、無料でコンサートをしたのだ。
 その功労で、リベリア共和国タブマン大統領から、騎士の称号を与えられ、以後サー・ローランド・ハナと名乗ることになる。ハナさんは、サーの称号を終生誇りにしていた。
 William_Tubman2.jpgウィリアム・タブマン大統領の両親はアメリカで黒人奴隷だった。
 ’70年代半ば、NYJQにジョージ・ムラーツ(b)が加入するのと同時期に、コンビを結成し、日本で10枚近いアルバムを製作、デュオやNYJQでも数え切れないほど来日を果たし、私も何度もコンサート・ホールで聴かせてもらいました。
 ’80年代になると、教育者として教鞭にウエイトを置くハナさんのレコーディングは極端に少なくなるけれど、デンマークの巨匠、ジェスパー・シロ(ts)との共演盤や、ソロ・ピアノの白眉、Round Midnightなど高質名盤が並んでいく。
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 ’90年にやっと、ハナさんはOverSeasに来てくれるのですが、その出会いや、’90年代以降のプレイについては、また機会を改めてゆっくり書こうと思います。
 ハナさんは、寺井尚之がジャズ黄金期と呼んだ’70年代以降、大きく花開いたジャズピアノの大巨匠です。
 サー・ローランド・ハナがリリースした名盤の数々は、華麗さと潔さが同居していて、聴くたびに心が洗われる。これらを廃盤として埋もれさせてしまっていいのでしょうか?
 ジャズ・レコード界の心ある人たちは、ぜひ、ハナさんのレコードを再発させて欲しいものです。宜しくお願いします。
 CU

サー・ローランド・ハナ伝記 (1) ビバップ・ハイスクール

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  サー・ローランド・ハナのバイオグラフィーは、英文のものは色々ありますが短く、日本語のものは余り見かけません。
&nbsp以下にまとめたものは、ハナさんの’70,’75年のダウンビート誌のインタビュー、ハナさんのHPのバイオ、ミシガン大から発行されているデトロイト・ジャズ史:“Before Motown”、寺井尚之と私が、生前のハナさんから直接伺った話を短くまとめてみました。
“BeFore Motown”:デトロイト・バップ・ファン垂涎の貴重な写真や情報満載!
<雪の降る街に…>
&nbspピアノの巨匠サー・ローランド・ハナは、ローランド・ペンブローク・ハナとして、1932年2月10日、デトロイトに生まれた。ハナさんの父はキリスト教バプティスト派の伝道師、ハナさんが2才で読み書きが出来たのは、お父さんの教育の賜物だそうだ。、後年のハナさんの、訴えかけるようなMCは、お父さんから受け継いだものかもしれない。
 
&nbspハナさんは5才の時、音楽と不思議な出会いをする。それは雪積もる寒い日のことだった。ローランド少年が路地で遊んでいると、雪の中に何かが埋もれているのが目に入った。雪をどけると音楽書が出てきたのだと言う。グリム童話“野いちご”か?落語“金の大黒”か? いや、音楽書は、天からの授かりものだったに違いない。
 初めに言葉ありき。少年は、拾った本を手がかりにピアノの独習を続け、8才でバッハ、ショパン、ベートーヴェンを弾いた。天才ですね! 11才で、ようやく正式なピアノ・レッスンを受ける。教師はジョセフィン・ラヴという黒人女性で、オーストリアに音楽留学の経験があり、医師の夫君と共に地域の医療、文化に貢献した名士だった。
love.jpg 右は、ローランド少年の才能を看破した最初の教師、ジョセフィン・ラヴ氏、後年は医学の道に進んだ。
 
 ローランド少年は、レッスンを受ける前の10才からプロ活動をしており、後年、バリー・ハリス(b)やレッド・ガーランド(p)達とレコーディングのあるベーシスト、ジーン・テイラーの証言によれば、彼の初ギグは、’42年、13才の時で、バンドのピアノは当時10歳のローランド・ハナであったという。日本が戦時中で音楽どころでなかった頃、デトロイトでは、庶民の生活に、ジャズが溢れていたのだ!
 
<ビバップ・ハイスクール>
&nbsp’45年、ノーザン・ハイスクールに入学。ハナ夫人、ラモナさんは、ノーザン高校時代の同級生だ。当時、デトロイトの公立高校は、職能訓練を優先し、音楽技能の習得に専念したい生徒は、他の教科の単位取得を免除されたと言う。故にローランド少年は、毎日稽古三昧、どれほど稽古をしたかと言うと、高校の音楽堂のグランドピアノで練習したいから、7時に登校し、深夜11時まで、音楽の授業以外はパスして稽古をする。早く来て遅く帰るから、用務員さんと顔なじみになり、校門の鍵を預けてもらったそうだ。しかし、うっかりすると、もっと早く登校して、ピアノを占有する先輩がいるので、かなり気をつけなくてはならなかった。
NORTHERN%20HIGH98.JPGノーザン高校’98撮影
 
「いつも、ローランドは僕の弾きたいピアノを独り占めしていたんだよ…」と言った先輩は、勿論、トミー・フラナガンだ。すでにフランク・ロソリーノ(tb)のバンドでプロ・デビューしていたトミー少年は、アート・テイタムやバド・パウエルそのままに、講堂のピアノをスイングさせていた。ショパンやバッハ一辺倒だったローランド君に、トミー先輩のかっこよさは衝撃的で、あっという間にジャズの虜となる。そしてトミーの真似をして、未成年ながら、アート・テイタムが出入りしたアフターアワーの店にせっせとライブ通いする。ローランドは、ピアノ以外にアルトサックスをたしなみ、音楽の名門校、カス・テクニカル・ハイスクールに編入後は、チェロをたしなんだ。
280px-CassTechHighSchool.jpg カス・テック高
 当時ハナさんが一番影響を受けたピアニストとして、まずトミー・フラナガン、そして、アート・テイタムや、ルービンシュタイン、それにデトロイトのフリーメイスン教会で観たラフマニノフに感銘を受けたと言う。それだけでなく、当時のデトロイトには、ウィリー・アンダーソン(p)など、地元に留まり世界的には無名で終わった名手が数多くいた。
youngKB.jpg&nbsp PepAda.gif 左:ペッパー・アダムス(bs) 右:バレル&フラナガン 若い!
 同時に、デトロイトには、ハナさんやフラナガン以外に、未来のスター達が、花開くのを待っていた。ケニー・バレル(g)、ミルト・ジャクソン(vib)、フランク・フォスター(ts)、ビリー・ミッチェル(ts)、バリー・ハリス(p)、ペッパー・アダムス(bs)と言った人たちだ。デトロイトの音楽的豊穣は、決して神のいたずらではなく、必然性があったのだ、と、サー・ローランド・ハナは言う。自動車産業の隆盛で各地から黒人達が集まり、音楽を愛する環境があっただけでなく、ナチの迫害を受け、米国に逃げ延びたヨーロッパの一流音楽家達が、多数、デトロイトの地に音楽教師として赴任していて、若い才能を大きく育んだからだと言うのです。
<カス・テック高へ>
 ハナさんはノーザン高からカス・テックニカル・ハイスクールという、音楽の名門校に編入後、ピアノと同時にチェロもたしなみます。同校は、ルーマニア人やポーランド系ユダヤ人の音楽家達が教鞭を取り、ローランド少年の才能を見抜き、コンテストに出るように薦めました。
 ローランド少年は、フラナガン、バリー・ハリス(p)、ドナルド・バード(tp)、ペッパー・アダムス(bs)、フランク・フォスター(ts)達、ジャズ・ジャイアンツ予備軍である仲間たちと切磋琢磨を続けます。週一度、放課後に皆で自動車を駆り、近郊のポンティアックにあるジョーンズさんというお宅へと走った。そこにはグランドピアノがあり、ジョーンズ家のお母さんが、皆のためにフライドチキンなどのご馳走を用意してくれ、ジャム・セッションをやっていた。そのお家の兄弟は恐ろしい名手ばっかり、長兄のハンク(p)は、もうプロとしてツアーしていたので、殆ど家にはいなかった。後はサド(cor)とエルヴィン(ds)楽器もそれぞれですが、並外れた力量を持っていた。ピアノの椅子は一つだけですから、トミーやバリーが先、ローランドに出番が回ってくることはなかなかなかったけれど、サド・ジョーンズがコードを自在に変えていく様子や、先輩達の演奏に学び、自らは“ハック”・ハナという名前で、ラッキー・トンプソン(ts,ss)や、同世代バンドでギグを重ねました。
 1949年9月7日付のミシガン・クロニクル誌には、「ローランド・ハナによるバップとクラシック音楽」というコンサート広告が載っています。(Before Motownより)
<NYへ行ったけど…>
 カス・テック卒業後、ローランド少年は2年間の兵役に就き、奨学金資格を取り、ジャズとクラシックの中心地NYの名門“イーストマン・スクール・オブ・ミュージック”に入学、昼間は学業、夜はクラブ演奏と、念願のクラシック-ジャズの二足のわらじで精進しようとしたのも束の間、当時のイーストマンには「ジャズ禁止」の校則があり、教官にジャズを演奏しているのがバレてしまう。その教官はジャズ・ファンだったのだろうか?
 若きローランド・ハナは、どうしたか? クラシックか?ジャズか?とハムレットのように人知れず苦悩したのか? NO! ハナさんは、了見の狭い名門校をスパっと辞め、サッサとデトロイトに帰ってしまう。この話をした時ハナさんは、“I Quit.”とひとこと、眉を上げてきっぱり言った。筋の通らないことは絶対に受け容れない!ここがハナさんらしいところ。ハナさんは再度NYに赴くのですが、続きは次週。
CU