トミー・フラナガンの音楽観:Blindfold Test

tommy_bfolded.jpg   オリンピックも終わりました…鶴橋や桃谷商店街で買い物しながら、ラジオから流れる星野ジャパンの試合に、街の人達と一喜一憂、二憂三憂…でも楽しかったなあ… 
   さて、月末には恒例寺井尚之ジャズピアノ教室の発表会があり、OverSeasはヒートアップ!
 発表会と同じ日に、いつもご一家で関東からトリビュート・コンサートにきてくださる常連KD氏が、現地スタッフに信望厚い名オーガナイザーとして、北京へ単身赴任されます。発表会には、「生徒の皆さんが「いま(一期一会)を大切にして素晴らしい演奏ができますよう」と熱いエールを頂戴しました。KDさま、再見!
  寺井尚之ジャズピアノ教室は、演奏の質もさることながら、寺井尚之が一音も聴き漏らさず、真摯に講評をするのが出色。
 これは、かつて寺井自身の演奏を、フラナガンやハナさんが、怖いほど真剣に聴いてくれた経験が下地になっているようです。
  今日は「寺井尚之ジャズピアノ教室」のルーツであるトミー・フラナガンの音楽観を覗き見てみよう!
 アメリカ人は、概ねリップサービスが上手な人、誉め上手な人が多いですが、フラナガンはそういう意味では、全くアメリカ人らしくなかった。「ええかげん」なことは決して言わない人でした。だからインタビュー嫌いだったのかも知れないし、無口を装うことが多かった。本当は議論好きで、一旦火がつくと、徹底的に相手をやりこめるシーンを何度か目にした事があります。
    公の場では「温厚な人」だったフラナガンの厳しさが垣間見えるインタビュー記事は数少なく、ブログで紹介するには長すぎるので、米ダウンビート誌の、「ブラインド・フォールド・テスト」を紹介しようと思います。
「ブラインド・フォールド(目かくし)テスト」は、ゲストに、何の情報もなく、いくつかのレコードを聴いてもらった感想から、ゲストの人となりや音楽観を浮き彫りにするという趣向、レナード・フェザーという評論家の先生が始めた人気企画で、以前、スイングジャーナルでも同様の連載がありましたよね。
  フラナガンは、今回紹介する’89年と’96年の2回だけゲストになっています。ちょっと読んでみましょうね。星5つが最高点です。
 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
ダウンビート誌 1989 3月号より : 聞き手: Fred Bouchard (ジャズ評論家 本業は航空工学など技術系のライターのようです。)
 

ビバップの温和な巨匠、トミー・フラナガンは、長年の名伴奏、エラ・フィッツジェラルド、ジョン・コルトレーンなどの最高の演奏を引き出してきた。
今回が初のブラインドフォールド・テスト、“カジモド”など彼のトリオでのレガッタバーでのレパートリーに因んだレコードを主体に聴いてもらったが、事前にフラナガンには何の情報も提供されていない。

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1. 演奏者:Sonny Clark Memorial Quartet Wayne Horvitz(p), John Zorn(as)…
 曲名 “Nicely” ソニー・クラークのオリジナル
 アルバム名:Voodoo/ Black Saint

 TF:誰の演奏なのかわからない。曲はソニー・ロリンズの“ポールズ・パル”を思い出させる。テーマはいいと思うが、私が気に入ったのはテーマだけだ。演奏はテーマに見合ったレベルではない。彼らのプレイを以前聴いたことがあるようにも思うが、プレイの抑揚が訛っているので、誰なのか判断することが出来ない。ひょっとしたら、ジャッキー・マクリーンかな? テーマには★★★★。
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2. 演奏者:ハービー・ハンコック(p)
曲名:”Round Midnight”
アルバム名:The Other Side of Round Midnight/ BlueNote

 数ヶ月前にフィニアス・ニューボーンJr.を聴いたのだが、この演奏は、フィニアスがじっくり考えてから演奏したような感じだ。
 フレーズや解釈はフィニアスを思い出させて、僕は大好きだね。もしも、本当のフィニアスなら★★★★★。しかし、もしフィニアス以外の誰かなら、5つ星の値打ちはない!
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3.演奏者:ナット・キング・コール(p)3:
曲名: “Bop Kick”
アルバム名:Instrumental Classics/Capitol
パーソネルは推察どおり。

   多分、ナット・キング・コール・トリオだね。ボンゴはジャック・コンスタンツォだろう。ピアノのサウンドも、このオスカー・ムーアのギターも明らかにそうだ。この曲はいいねえ!進行がいいなあ…
 だが、ひょっとしたら、ナットの影響を受けた他のピアニストかもしれない。例えば初期のオスカー・ピーターソンとか…でも、ピーターソンはボンゴを使っていないはずだから。
Sheila_Jordan_Old_Time_Feeling.jpg4.演奏者:シーラ・ジョーダン(vo)+ハーヴィー・シュワルツ(b)
曲名:“Tribute”(“Quasimodo”)
アルバム名:Old Time Feeling
パーソネルは推察どおり。

 これはかなり確信がある!シーラだよ!となればベースは、ハーヴィー・シュワルツ(b)に決まってる。シーラと僕はデトロイト、ノーザン高校時代の同窓だ。彼女は高校時代から歌詞を書いていた。同じ授業をサボって、街のジュークボックスでチャーリー・パーカーの“Now’s The Time”を聴いていた間柄だもの。あれは、’40年代中ごろだったかなあ。(おっと…年齢をバラしちゃった、シーラ、ごめんよ!)僕が初めて聴いた、歌詞付きのラウンド・ミッドナイトは、シーラの作詞だった。
 でも、チャーリー・パーカーの“カジモド”に歌詞を付けていたとはね…彼女はすごく音楽的だ!高得点!!★★★★1/2!
A_Celebration_of_Hoagy_Carmichael.jpg5. 演奏者 デイブ・マッケンナ(p)ソロ 
曲名“Moon Country”
アルバム名:A Celebration of Hoagy Carmichael/ Concord

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 デイブ・マッケンナだ!まるでリズムセクションがいるようなプレイ…これこそデイブのスタイルだ。ハハハ…彼はリズム・セクション内蔵型ピアニストだよ!タイトルは“The Old Country”じゃなかったかな?ホーギー・カーマイケルかウィラード・ロビンソンだったっけ?僕は昔の歌が好きだ。デイブの弾き方も大好きだよ。★★★★1/2!
 満点じゃないのは、デイブにが常に、より以上のプレイをする余力を持っているからだ。
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6.チャーリー・パーカー(as)
曲名:“Thriving on a Riff:(アルバム記載によれば)
アルバム名:Original Bird/ Savoy” 
パーソネル: チャーリー・パーカー(as),マイルス・デイヴィス(tp),ディジー・ガレスピー(p):(アルバム記載よれば)
 
 色々聴かせてくれたけど、初の五つ星だね。ピアニストはサディック・ハキムだ。(フラナガンはピアノソロを滑らかにハミングしながら聴く。)曲は“アンソロポロジー”、僕は、まさにこの曲から、ビバップに親しんだんだ。多分トランペットはディジー・ガレスピー、ドラムはマックス・ローチかケニー・クラークだな。プレイからあふれ出るグルーヴが最高だ!
【聴き終わってパーソネルを知らせると、フラナガンはこう言った。】
 アルバム・ジャケットに書いてあるデータなんぞ、気にしなさんな!演奏者名なんて、契約の問題でコロコロ変わるんだから。ディズ(ガレスピー)には、ミュージシャン・ユニオンの組合員証があり、サディック(本名:アーゴン・ソーントン)にはなかった、それだけのことだよ。
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
   どうですか? 2の寸評は、明らかに誰が演っているのか知っていながら知らんプリで、手厳しいことを言っていますね。6のチャーリー・パーカーには、特に深い知識と愛情を持つフラナガンならではのコメントが聴けました。レコードのクレジットには未だに、史実が反映されないところも、気をつけなければ…
 トミーは本当に「音楽的」な人だったから、普段でもよく流れてくる音楽を聴きながら歌ってました。それどころか、フル・オーケストラを聴くと、頭の中に何十ピースものスコアがダウンロード→保存されてしまう天才です。どんな歌の歌詞もよく知っていたし、知識の宝庫。嫌いな音楽を聴くと、大きな苦痛を感じ、それを隠す為に、聴こえないフリをしてた。
 また次回続きをご紹介します!今度はハナさんやセロニアス・モンクのアルバムからフラナガンの名コメントが引き出されます。
 CU
 

My Ship:フロイト的「女心の歌」 

寺井珠重の対訳ノート(13)
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  先週のメインステムのライブは楽しかったですね! フィンガー・シンバルや、オーラ・チャイムという棒状のパーカッションがツボにはまり、OverSeasにミントの香りが溢れ、涼しくなりました。MJQ(モダン・ジャズ・カルテット)を聴いて寺井がヒントを得たらしいけど、両方ともチベット由来のもので、あの涼しいサウンドで悪いオーラが一掃されるらしい!
 因みに、あの可愛いフィンガー・シンバルは、ヨガ教師である宮本在浩(b)夫人の愛用の品です。
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 ケニー・ド-ハム(tp)の“Lotus Blossom”(睡蓮)や、ホレス・シルヴァー(p)の“Summer in Central Park”など、この季節ならではの筋の通ったハードバップもよかったけれど、私の大好きな唄、“My Ship”が聴けました。
『私のお船』
  寺井尚之のアルバム『Yours truly,』のヴァージョンも大好きですが、今はもっと肩の力が抜け、大海原を表現するグリスもずっとしなやかです。
 
 作詞はアイラ・ガーシュイン、作曲はドイツ生まれのクルト・ワイル、アイラが、弟のジョージ・ガーシュインの死後、2年のブランク後、ブロードウェイにカムバックした最初の大ヒットです。
 歌詞は確かに、幼い女の子のファンタジーのようでありながら、曲想は洗練された大人、まるでベビー・フェイスのグラマー女優みたいに不思議な魅力をかもしだしている。
 だから、歌い手は小娘じゃダメ! サラ・ヴォーンや、アニタ・オデイといった「大人」の歌手がサマになる。アニタ・オデイは、ステージで歌っているのも聴いた事があるし、何度もレコーディングして愛唱している。
何でなんやろう?
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『歌のお里』
 そこで、歌のお里を辿ることにしました。ジャズ・ミュージシャンが演奏するスタンダードのお里は、映画やブロードウェイが多く、街で流行っているものを、どんどん料理してジャズにしたので、お里を辿ると、「えーっ!こんな陳腐な唄だったの!?」とがっかりすることもあります。
  さて、マイ・シップが船出した港を調べたら、1940年、ブロードウェイのアルヴィン劇場で大ヒットした“Lady in the Dark”というミュージカルでした。原作は”ブロードウェイのプリンス”と呼ばれた当代一の劇作家モス・ハート、主演は英国出身の名コメディー女優ガートルード・ローレンス、まだ無名だったダニー・ケイがゲイのフォトグラファー役でブレイクしました。3年後に、ジンジャー・ロジャーズ主演で映画化された。
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『Lady in the Dark』
 ストーリーは、ファッションの世界や、キャリア・ウーマンに、サイコセラピーが絡む都会派トレンディ・ドラマ。
   主人公リサは、一流モード雑誌の美人編集長で、妻のいる雑誌社の社長と同棲中。仕事は出来るし、崇拝者も多い。恋人の社長は、妻と離婚の段取りをして、ポロポーズしてくれたのに、何故かリサはうつ状態になる。
   そこで彼女は、精神分析医にカウンセリングを受ける。医者は、彼女の深層心理を探るべく、子供の時によく歌った童謡をもう一度歌わせようとするのですが、どうしても途中までしか思い出せない歌がある。実は、リサのノイローゼの原因はそこにあった。「思い出せない歌」の中に彼女の心の秘密が隠されていたのだ…
   そうなんです!その歌こそ「マイ・シップ」! サブテーマとして、劇中、何度も断片的に登場します。それはリサが、潜在意識の元で思い出すのをためらっている夢、抑圧されたリサの恋心の象徴だったというのがオチ。
   結局、リサは、自分が本当に愛する男性は、社長ではなく、いつもケンカしていた社内のPRディレクターだったことに気がついたとき、その歌は心の中に完全に蘇って、リザが大らかに歌う「マイ・シップ」がフィナーレとなります。
Gertrude_Lawrence_mw70797.jpg  ブロードウェイで主演したガートルード・ローレンスは英国出身の名女優で、映画、演劇を通じて大スターだった。ミュージカル「王様と私」が亡くなる直前の最後の主演作で、当時全く無名だったユル・ブリナーを主役に推したのも彼女だったんです。
○ ○ ○ ○ ○ ○
なるほどね!どうりで、イノセントな詞に、洗練された品格のあるメロディがついていたのだ! 
  「マイ・シップ」の海は、海深層心理の象徴で、船は「本当の自分」だったのですね。
 心待ちにする「私のお船」、宝船の財宝も、「唯一人の恋人」が一緒に船で来なければ、船なんていらないという歌詞は、劇のストーリーが集約されていて、しかも、ストーリーの俗っぽさは消えている。これこそ、アイラ・ガーシュイン!改めてアイラならではの作詞の力を思い知りました。

マイ・シップ
私のお船は絹の帆で、
デッキは金の縁飾り、
船倉は
ジャムにスパイス、パラダイス。

私のお船はたくさんの、
真珠でキラキラ光ってる、
宝の箱には、
ルビーがぎっしり詰まってる。
船が港に入る頃、
サファイヤの空に、
陽は沈む。

何年でも待ちましょう
いつかお船がやって来る
うららかな春の、その日まで
でも、もしも一番大事なものが
お船に積まれていなければ
真珠も何もどうでもいい

私の唄うのその船に
もし本当の恋人が
一緒に乗って来ないなら、
船のことなど心配しない、
そんな夢など要らないの。

私の唄うその船が
私のほんとの恋人を、
一緒に乗せて来なければ。

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My ship has sails that are made of silk-
The decks are trimmed with gold-
And of jam and spice
There’s a paradise
In the hold.
My ships’s aglow with a million pearls,
The rubies fill each bin;
The sun sits high
In a sapphire sky
When my ship comes in.
I can wait the years
Till it appears-
One fine day one Spring.
But the pearls and such,
They won’t mean much
If there’s missing just one thing:
I do not care if that day arrives-
That dream need never be-
If the ship I sing doesn’t also bring
My own true love for me –

If the ship I sing
Doesn’t also bring
My own true love for me.


 歌詞を読んで、ぜひ寺井尚之の演奏するMy Shipを聴いてみてください。ピアノなのに歌詞が聴こえて、無垢な心と、大人の洒落っ気が聴こえます。
 CDでも!OverSeasのライブでも!
CU
 
 

8月のメモワール

お盆休みはゆっくりとお過ごしですか?
 こちらは、寺井尚之ジャズピアノ教室の発表会が月末にあるので、それまでは休日返上、ピアニスト達は、初出場から余裕のベテラン達まで、皆とっても頑張って、良いプレイをしています!
  それでお盆のお参りだけしてきました。この時期、昭和3年生まれの実家の母親は、大阪大空襲や、軍需工場からの帰り道、十三で玉音放送を聴いた話をする。誰かに話さずにはいられないのかも知れない。私がチャランポランな学生生活を謳歌した年頃に、家を焼かれ、身内を戦争に取られ、青春どころか、工場で長時間働いていたのだ。
  私という人間は、大戦がなければこの世に存在していない。母の実家が焼け、郊外に転居しなければ、父と出会って、親の反対を押し切り嫁入りすることもなかったろうから、私も生まれなかったのです…
  トミー・フラナガンや、サー・ローランド・ハナは、第二次大戦中は中学生だったけれど、朝鮮戦争の際はキャリアを中断し戦地に送られた。トミーにもハナさんにも、「君の家族は大戦でどんな目にあったのか?」と訊かれたことがあります・・・
<ビバップと第二次大戦>
 寺井尚之とJazz Club OverSeasがこよなく愛するビバップも、第二次大戦の社会状況が大きな役割を果たしている。それまでのジャズはビッグバンド、ダンスバンドが主流だったのですが、戦時中は、ダンス・ホールに莫大な遊興税が課され、ツアーの交通手段であるバスやガソリンを調達することが困難になっていった。その上、若くて元気な楽団員はごっそり徴兵されるから人手不足。
 その為に、ダンスをせず“鑑賞する為”の“シリアスな”小編成のコンボのジャズ、つまりビバップの隆盛を促進したのだと、ビバップの創始者のひとり、マックス・ローチ(ds)は語っています。
  
   
左:グレン・ミラー、右:ジャック・ティーガーデン
 インディアンの血を引くトロンボーンの巨匠、ジャック・ティーガーデン(tb)は4ヶ月の間になんと17名の楽団員を徴兵されたそうです。一方、アーティ・ショウやグレン・ミラーなど白人バンドリーダーは、精力的に外地に慰問のツアーをし、海軍バンドを率いたショウは南方で日本軍から17回爆撃され、空軍バンドを率いたグレン・ミラーはご存知のように、英国海峡で消息を絶ちました。
<従軍ジャズメンとビバップ>
zoot sims photo:by pail slaughter     テナーの勇者、ズート・シムズは、戦時中テキサス、サン・アントニオで従軍中、黒人クラブでNYから演奏に来ていたビリー・テイラー(p)トリオの面々と知り合い、ビバップの虜になります。テキサスの名産品(?)マリワナと交換に、チャーリー・パーカーやディジー・ガレスピーの新譜をNYから送ってもらいながら、新しい音楽をなんとか聴くことが出来たらしい。
Art_Pepper_by_Ray_Avery_medium.jpg    アート・ペッパーは、ビバップの興隆期、ヨーロッパに駐屯し、捕虜の移送をしていた。その頃、レコードで初めて聴いたディジー・ガレスピーの“Oop Bop Sh’Bam”の余りの革新性と速さに、“ビバップ”という言葉すら知らなかったけれど「胃痛と吐き気がした。」と告白しています。

<日本人の知らない戦時中のブラック・ミュージシャン達>
 大戦中の米国には、まだ人種差別が歴然としてありました。当時、徴兵された黒人達はおよそ100万人、内半数が外地の前線に派兵された。黒人は一番危険な前線に送られ、割り当てられる任務は過酷なのに、アメリカ国民として当然の権利は認められない。彼らが軍隊で受けた人種差別の過酷さが、黒人の人種意識を目覚めさせ、ジャズだけでなく、後の公民権運動を加速したと言われています。だってドイツ人捕虜が食事する出来る食堂に、有色人種のアメリカ兵は入れないのですから、どちらが味方なのかわけが判りません。
 ディジー・ガレスピー(tp)は、はっきりこう言っている。
「大戦中の黒人の敵は、ドイツ人ではなかった。我々の尊厳を無視し、体力的にも倫理的にも、ダメージを与える白人達が本当の敵だった。アメリカが自国の憲法を守らず、我々を人間として扱わないのなら、アメリカの国策などくそ食らえだ!」
  大都会NYで活躍する黒人ミュージシャン達も、一旦徴兵されれば、人種差別のきつい南部のキャンプ地に送られるかもしれない。その後は前線に送られ、腕や足の一本や二本なくなるかも…そんなことはまっぴらだ!
  若いジャズメンたちは徴兵を免れる為に、住所変更を繰り返したり、それでもダメな時は、ホモセクシュアルや精神異常を装ったり、なんとか徴兵を免れるため、あの手この手を使った。
 
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ジョー・ニューマンと、ビリー・ホリディ

  カウント・ベイシーOrch.の花形トランペット奏者で、トミー・フラナガンがプレスティッジ時代によく共演したジョー・ニューマンは、覚醒剤と睡眠薬を両方飲んで徴兵検査で不合格になろうと試みて、副作用で死にそうになり、友人のビリー・ホリディが彼女の自宅で3日間看護してくれたおかげで一命を取り留めたそうです。
 バップ・トランペット奏者、ハワード・マギーは、入隊検査で、誇大妄想の演技をして、まんまと不適格の審査を勝ち取った。
  徴兵を回避し、洒落たファッションに身を包み、白人女性と交際し、ヒップな言葉を話す、そしてポケットにはお金が一杯・・・黒人ミュージシャンは、一部の白人の憎悪の対象となり、その結果バド・パウエルやセロニアス・モンクが、白人警官にこん棒で殴打されるような事件を招く遠因になったと言われています。
  もちろん、全員が徴兵から逃げられるはずもなく、戦時下、米軍のフットボール選手とジャズメンは、ドリーム・チームだった。
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アル・グレイ&クラーク・テリー
  イリノイ州の海軍訓練センターには、フラナガンと同じデトロイト出身のアル・グレイ(tb)や、どんなややこしい譜面も即座に暗譜する達人ドラマー、オシー・ジョンソンが二段ベッドの上と下、その他、クラーク・テリー(tp)や、カウント・ベイシー楽団のメンバーがごっそり集まっていた。このセンターには、一線級のミュージシャンばかりでいくつも楽団があり、その内のひとつはグアムに送られた。
 al%20grey%20in%20navy.jpg  Ira Gitler著:「Swing to Bop」より: マサチューセッツで、当時の海軍バンド:アル・グレイの姿は他のトランペット奏者に隠れています。
アル・グレイ(tb)はそんな状況下、内地に留まるために、軍のバンド競技会で、何度も賞を獲得し、ボストンやミシガンのダンスバンドや軍楽隊に所属、除隊したその日にベニー・カーター楽団に入団するという離れ業をやっています。
 ジミー・ヒース(ts)のお兄さんであり、モダン・ジャズ・カルテット(MJQ)の一員であったベーシスト、パーシー・ヒース(b)は、タスカジー飛行訓練学校という、黒人エリート学校出身の空軍パイロットでしたが、戦地に出るまでに戦争が終わり除隊したので、「一人も殺さずにすんだ。」そうです。
  戦勝国アメリカとはいえ、ジャズ講座に登場する黒人ミュージシャン達は、色々苦労をしていたんですね。
 戦後、米軍の占領下で、日本人のジャズメンたちは驚くほどの富を得たそうですが、ザッツ・アナザー・ストーリー。
 ご先祖様の苦労のおかげで今在る自分に感謝しつつ… 
今月もOverSeasは休みなく平常営業です!
CU

『”King”たるもの徳ありて』 ベニー・カーターの誕生日に…(1907-2003)

  先月のジャズ講座に、ベニー・カーター(as)の名盤、『The King』が登場してから、沢山の人たちがベニー・カーターに魅了されている。
8月8日はベニー・カーターの誕生日だ!

   今週末には、ジャズ講座で、再びディジー・ガレスピー(tp)との大物共演盤『Carter-Gillespie Inc』が聴けます。”

 『King』というニックネームは、その昔、一世代上の大王様、ルイ・アームストロングの発言に由来していますが、’70年代、何度かコンサートで観たベニー・カーターの姿は、正に『King』に相応しいものでした!

   スティックを空中高く放リ投げてフィニッシュするソニー・ペイン(ds)や、ハイノートをヒットすると、顔が台形になるキャット・アンダーソン(tp)、昭和天皇を想起させるジョージ・デュヴィヴィエ(b)…空前絶後的な名手を揃えたベニー・カーター・オールスターズを従え、すくっと立つベニー・カーター、上等そうなグレンチェックのブレザーにブルーのワイシャツが褐色の肌に映える。
 
 黄金色のアルトの先には、象牙色に輝くマウスピース!カーターが吹くと、最高のコニャックを使ったカクテルのように甘い芳香が満ちた。スイング感、ソロの長さ、フィル・イン、音量、テンポ…何もかもちょうどいい! 聴衆の心が躍り、足がダンスする!ベニー・カーターから発する光はスポットライト?それとも後光だったのか…
 
 ’20年代に、King of Jazzとして一世を風靡した白人バンドリーダー、ポール・ホワイトマン…豪華絢爛なステージ!でもどちらかといえば「王」というより、むしろ、小太りでチョビひげの「社長」というイメージだ。

  昨年、ディック・カッツさんのベニー・カーターについての談話を書きましたが、巨匠達が、ベニー・カーターと共演したことを、ちょっと自慢げに話す様子は、「かわいい」とさえ感じます。
 ’80年代に、トミー・フラナガンが、カーネギー・ホールでベニー・カーターのスペシャル・プログラムへの出演を依頼された時も、ダイアナと二人で「名誉なことだ!」と喜んでました。他のどんなスターと共演したって、トミーが名誉(honor)と言ったのは、後にも先にもこれだけです。。

 
 ベニー・カーター、80年間に渡る『King』の長い航路を、ちょっと観て見よう!

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<王様は下町っ子だった>

 ベニー・カーターこと、ベネット・レスター・カーターは、1907年(明治40年)8月8日、NYのサン・フアン・ヒルという地域に生まれた。丁度、現在のリンカーンセンターのある辺りで、昔は黒人の住宅街でした。リンカーンセンターなどのリンカーン・スクエア建設に伴い、消滅した幻の町です。(懐かしい当時の街の様子は、NYタイムズのヴィデオで見ることが出来ます。英語がよく判らなくても映像だけで楽しい!)  
 
 ババ・マイリーはプランジャー・ミュートの神様だった。(1903-32)

  ベニー少年は幼い頃、サックスではなくトランペットに憧れた。20世紀初頭にクリフォード・ブラウンの様なプレイをしていたという伝説的トランペット奏者キューバン・ベネットが従兄弟だし、デューク・エリントン楽団の花形トランペッター、ババ・マイリーは、近所のお兄ちゃんだったのだ。それで、ベニー少年も、何ヶ月か小遣いを貯めて質屋でトランペットを買ったものの、3日経っても、モノにならず、あっさり、C-メロディのサックスと交換してしまう。こっちは3日で習得できたのか、殆ど独学のまま、15歳にはプロとして稼いでいた。
 ベニー・カーターは、サックスも、後に習得したペットも作編曲も全て独学、色んな人の演奏に耳を傾け、腕を磨いたのだ言いますが、人のプレイをコピーしたのは、13歳の時で、ただ一曲しかないそうです…

<若くして王になる>

 
  1928年に初レコーディング、同年、フレッチャー・ヘンダーソン楽団に移籍して、メジャーになります。新加入のカーターが手がけたアレンジは、時代を先取りした斬新さがあった。楽団がバンドリーダー不在となった期間、ベテラン揃いの団員からリーダーに選出されたのはカーターだった。若干21歳のことです。

   1931年には、デトロイトを本拠に活躍した名楽団マッキニー・コットン・ピッカーズ(トミー・フラナガンの子供時代に大好きだった楽団です。)の音楽監督に就任。トランペットでも録音しており、アルトに勝るとも劣らない名演を残す。ベニー・カーターのペットはアルトサックスと同じで、メロウな甘い音色です。また、アレンジャーとしては、一曲あたり25$が相場だった編曲料の4倍の金額を取っていました。
 
   ベニー・カーターの公式サイトで、カーターの研究者、エド・バーガーはベニー・カーターの特質は、常に全体を考える編曲者でありながら、ソロイストとして即興演奏の醍醐味を失わない点にあると述べています。

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ベン・ウェブスター と  翌’32年、自己の楽団を設立、テディ・ウイルソン(p)、シド・カトレット(ds)など、後のスイング時代のスターを多く起用したものの、時代を先行する芸術の例に漏れず、経済的な理由から、楽団は1934年に解散の憂き目に会います。  <王様ヨーロッパへ>  自己楽団に失敗したカーターは、レナード・フェザーの勧めもあり、1935年、BBC放送の音楽監督として渡欧、フランス、オランダ、北欧などヨーロッパ各国を楽旅し絶賛される。    人種差別がなく、アーティストとして厚遇を受けますがが、音楽的な欲求不満を感じ、3年後に帰国する。すると、ビッグバンドのトレンドは、ちょうど渡米前の自己楽団のスタイルだった。自己バンドを率いて演奏する傍ら、エリントン、ベニー・グッドマン、グレン・ミラー、トミー・ドーシーなど多くの楽団にアレンジを提供し、人気ラジオ番組の編曲など、どんどん仕事を続ける。

   ビバップ革命前夜の1941年頃、カーターが率いたスモール・コンボのフロントは、ディジー・ガレスピー(tp)、ジミー・ハミルトン(cl)で、ガレスピーの代表作、当店でも大人気の演目“チュニジアの夜”は実はこの時期に書かれた曲です。当時はInterludeというタイトルでした。カーターは、その頃、J.J.ジョンソン、マックス・ローチなど、後のビバップ創設者達を盛んに起用していて、すでに次の時代を予見していたんですね。

 <王様ハリウッドへ>

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 戦争中、楽団でダンスホールを巡業するという、これまでのビジネス形態が行き詰った時代、ベニー・カーターは単身ハリウッドへ。映画音楽の世界に飛び込みます。後にJ.J.ジョンソンも同じような転身をしましたが、カーターを見習ったのかも知れません。

 ”Stormy Weather”(’43)を手始めに、ありとあらゆる映画、TV音楽を手がけました。ベニー・カーターとクレジットされていない映画にも、作編曲、演奏、多岐に渡って関わっている作品が沢山あるようです。同時に、音楽スタジオでは、ビリー・ホリディ、エラ・フィッツジェラルド、サラ・ヴォーン、レイ・チャールズ、ルー・レヴィーなど、彼がアレンジを手がけた人気歌手を挙げればキリがない。
 ハリウッドの映画音楽の世界で人種の壁を初めて破ったのがベニー・カーターです。だから、黒人映画関係者の「名声の殿堂」入りもしているんです。代表作には、『キリマンジャロの雪』、『キー・ラーゴ』、TVなら『シカゴ特捜隊M』などが有名です。

 映画人となったカーターですが、JATPなど様々なコンサート活動は継続、ベニー・カーター・オールスターズを率い、何度も来日公演を行った。おかげで、私達も何度か素晴らしいコンサートを拝めたんです。

<王様、教授になる>

 ’70年代に入ると、ベニー・カーターが現場で培った深い教養と品格ゆえに、大学へと引っ張り出されます。歴史の生き証人、カーターの人間性にすっかり心酔した名門プリンストン大のエド・バーガーの要請で、カーターはエリート学生を前に講演やキャンパス・コンサートを頻繁に行い、プリンストン大名誉博士号取得、ハーバード大でも各員講演を行いました。国務省の依頼で’75年には国務省の親善使節として中東諸国を歴訪。ジャズ講座で現在聴いているベニー・カーターのアルバム群は、映画のキャリアが一段落し、好きなジャズの仕事を選んで行っていた時期のものです。

   1997年の90歳の誕生日には、LAのハリウッド・ボウルと、オスロで相次いでベニー・カーターの誕生日イベントが開催。
 2000年には、クリントン大統領から、米国の文化勲章と言える、The National Medal of Artsを受賞しています。

 <王妃様たち>

   NYタイムスによれば、カーターは5度結婚しているそうです。18歳で最初の結婚をしましたが、三年後に奥さんが肺炎で亡くなりました。その後三度結婚し、最後の奥さんはヒルマ・カーターさんと言う白人の上品な女性です。最初の出会いは’40年で、お互いに惹かれあったそうですが、当時の人種の状況から結婚に踏み切れず、40年の間、社会情勢の変化を待ち、72歳、’79年に結婚し添い遂げたということです。なんとも王様らしい、壮大な物語ですね。
歴代プレズとベニー&ヒルマ・カーター夫妻
 

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 というわけで、殆ど1世紀のベニー・カーターの伝記を駆け足で辿りました。長くてゴメンネ。というのも、情報溢れるネットの世界なのに、日本語でベニー・カーターの生涯について克明にかかれたものがなかったからです。もっと興味のある方は、ラトガース大学からディスコグラフィーや参考文献が、また色んな出版社からカーターの楽譜が出ています。 
 ベニー・カーターの肉声も聞ける公式サイト。

  80年間の長い間、ベニー・カーターは一貫してベニー・カーターであり続けました。王様は、「トレンド」というはかない波に汚されたことは一度もなかったんです。「邪悪」な所が全く見当たらないのに人間味に溢るベニー・カーターの音楽を聴くたび、私は人間の「品格」にというものについて考える。世間ではベニー・カーターを「王」でなく「翁」と呼ぶ人もいるけど、私には、最晩年の姿も、おじいさんには見えなません…
 
 王様、お誕生日おめでとうございます!

CU

寺井珠重の対訳ノート(12)/Moon & Sand :変幻する時空のラブ・シーン

<寺井珠重の対訳ノート(12)>
Full-Moon-and_sand.jpg 前回のテーマ、“Star Crossed Lovers”では、ご感想や、ストレイホーン作品にまつわる体験談など、いろいろありがとうございました!名曲は、国や時代を超え、聴く者の心を捉えるものなんですね。
 「夏の夜空」と言えば、もうひとつ絶対はずせない曲があります。先日、寺井尚之がThe Mainstemで演奏した“Moon and Sand” の事を書かずにはいられない。決して有名スタンダードではないけれど、たった一度聴いただけで、映画の名シーンのように心に余韻が残る。
sugar_roy.JPG  これは、ロイ・ヘインズ(ds)、ロン・カーター(b)とトミー・フラナガン(p)の組み合わせ『Suger Roy』。フラナガンは、録音直前に手をタクシーのドアで挟んで怪我したフィニアス・ニューボーンJr.の代役ですから、この曲も自分のレパートリーではないのでしょうが、砂に打ち寄せる波の様にうねりのあるピアノのダイナミズム、疾風のようなロイ・ヘインズのドラミング、ロン・カーターらしい個性あるビートで、鮮烈なヴァージョンに仕上げています。
 フラナガンと同じデトロイト出身のギターの巨匠、ケニー・バレルにも、これををタイトルにした名盤があって、ロイ・マッカーディ(ds)のブラッシュ・ワークが最高です。
『Moon and Sand/ Kenny Burrell』
ジャケットはすごくお洒落だけど、海でなく「月と砂漠」のイラスト。

  Moon and Sandは、’41年の作品で、クラシック、ポップスのジャンル関係なく、自分自身に正直な創作活動を行った作曲家、アレック・ワイルダーと、40年間に渡ってコンビを組んだ作詞家、ウィリアム・エングヴィックの作品です。ワイルダーは、ボストンの銀行家の御曹司でありながら、ビジネスでなく、音楽の道に進みました。変人だらけのNY文化人の中でも、傑出した変人として知られ、一生独身、ごく少数の友人とだけ付き合い、ミッドタウンの文人宿アルゴンキン・ホテルに住み、気ままな汽車の旅や、マリアン・マクパートランド(p)達ジャズ・プレイヤーの『瞬間的作曲』を愛した。

 変人に魅かれる私は、Aワイルダーに関する色んな本を読んだ…面白いエピソードがいっぱいあるのだけど、ザッツ・アナザー・ストーリー…
   Aワイルダー存命中は、殆ど彼のためだけに作詞をしたエングヴィックですから、彼の付けた歌詞を読むと、この曲の一体どこに魅力があるのかが納得できます。倒置法を使って判りやすく作った詞はこんなにシンプルで神秘的…ゴシック!エドガー・アラン・ポーのアナベル・リーか?こんな詞です。
 

“Moon and Sand” — William Engvick詞
Deep is the midnight sea,
Warm is the fragrant night,
Sweet are you lips to me,
Soft as the moon and sand.
Oh, when shall we meet again
When the night has left us ?
Will the spell remain?
The waves invade the shore
Though we may kiss no more
Night is at our command
Moon and sand
And the magic of love.

真夜中の海深く、
薫る砂浜温かく、
重なる君の唇は甘い、
その柔らかさは、
まるで今宵の月と砂。
いつまた逢えるだろう?
夜が去っても、
この夢の恋は残っているのか?
浜辺に打ち寄せる満ち潮、
最後の口づけでも、
夜は僕達のもの、
月も砂も
この恋の魔法も。

 魔力に満ちた満月の下、砂浜で愛を交わす恋人達は幻か? 柔らかな肌のぬくもりと、潮の香り…、静寂の中、大潮は無情にも、愛の砂浜を刻一刻と波の下に沈めていく…東の空が白み月が消える時、幻想の恋人達も海の底に沈んでいるのだろうか…
 terai_moon_sand.JPG  この曲の本当のよさは、夜の情景が、潮の満干と共に変化する”うねり”のマジックにあります。寺井尚之は、”ヴァンプ(Vamp)”と呼ばれる間奏フレーズを巧みに使い、コーラス毎に情景を変えていく。ラストテーマのターンバックで、いかにも切ない音色を出して、一夜の終わりを予感させます。
  腕の覚えのあるプレイヤーから、単にボサノバとして歌いたいだけの歌手に至るまで、色々聴いてみたけど、The Mainstemのヴァージョンは出色! ぜひOverSeasで聴いてみて欲しい。
 ’50、バリトンの貴公子として人気を博したアラン・デイルのヴァージョンは、エド・ウッドのホラー映画を思わせるレトロな出来栄えだけど、ちょっとなあ… やはり、Moon and Sandは、デトロイト・バップ・ロマン派の寺井尚之で聴きたい!こういう愛の題材は、光源氏の昔から日本人の得意なのだ!

夏の夜は まだ宵ながらあけぬるを 雲のいづこに 月やどるらむ
 (清原深養父 :きよはらのふかやぶ  小倉百人一首)

(夏の夜は、まだ宵のうちと思っている間にもう明けてしまった。
月はまだ、西の山の端まで行きつくことは出来ぬだろうに、
一体雲のどのあたりに宿っているのだろう…)

CU
(このエントリーは、2010 8/16 歌詞について加筆修正しました。 Interlude)