ホイットニー・バリエット著 『アメリカン・ミュージシャンズⅡ』より
《プレズ PRES》 (3)
<独立独歩>
ヤングの才能はカウント・ベイシーの元で開花した。比類なき軽やかさと陰影のある歴史的名演を数え切れぬほど録音し、ビリー・ホリデイの伴奏で名盤を作った。ビリー・ホリディとレスター・ヤングのサウンドは、一つの声から派生した双子だ。コールマン・ホーキンスが独立してから数年経った1940年代後半、ヤングも自己グループで活動を決意、NY52丁目で短期間スモールグループで活動した後、西海岸で弟のリー・ヤング(ds)とバンドを結成した。
ティーン・エイジャーの頃、52丁目でヤングと交友のあったシルビア・シムズ(vo)は語る。
シルビア・シムズ:「ヤングはとても快活な人で、髪が素敵だった。40~50年代に皆がつけていたポマードは絶対使わなかった。服の着こなしも素晴らしくて、頭の後ろにちょんとかぶったポークパイハットが、彼のファッションのアクセントだった。いつもコロンのいい匂いをさせていた。一度、お客が騒いでちっとも演奏を聴かないと彼にグチをこぼすと、彼はこう言ったわ。
『レディ・シムズ、店の中で誰かたった一人だけでも聴いてくれる人がいるとしたらどうする? その人はトイレに行ってるかもしれないが、それでも君にはお客さんがいるってことだろう?』
彼の話は’レスター語’だらけで理解するのが大変だったけれど、音楽は判りやすかった!レスター独特のあの言葉でフレージングしていたんだわ。私の歌は彼に大きな影響を受けている。私だけじゃなくて多くの歌手がずっと彼の演奏から学んでいるんだもの。」
ジミー・ロウルズ(p)はヤングの西海岸時代に共演した。
「ビリー・ホリデイが一体いつ頃、”大統領(プレジデント)”を略したプレズというあだ名を付けたのが知らないが、彼と最初に知り合いになった頃、楽団の連中は彼のことを”アンクル・バッバ(Bubbaはブラザーの意)”と呼んでいたよ。
私もこの業界で色んな人間に会ったが、レスターは極めてユニークだ。一人ぼっちで物静かな人でね。本当に腰が低くて、怒るという事がまずなかった。もし気を悪くしたら、ジャケットの一番上のポケットにいつも入ってる洋服ブラシを取り出し、左の肩をサッと一掃きしたもんさ。
あの人と知り合いになりたけりゃ、一緒に仕事をするしかない。それ以外は、カードをやるか、チビチビ酒を飲むだけだ。万一何かしゃべったりしたら、皆びっくり仰天して交通がストップする位珍しいことだったよ。
スーツ以外の姿を見た事がない。お気に入りはダブルのピン・ストライプだった。かっちりしたタブカラーのワイシャツで、ズボンの折り返しは小さく、つま先が尖り細い踵のキューバンヒールを履いていた。
1941年頃、まだまだ年上のうるさ型たちは、彼の真価を認めていなかった。自分たちより格下と思っていたんだよ。ちゃんとキャリアを積んでいたのに、新参者と思われていたんだ。彼のプレイには変な特徴があった。彼のお父さんもサックスを上下に揺すって吹いたんだよ。一種ヴォードヴィル的な演り方だな、多分レスターのあの構えはそんなところから来たのかも知れない。いずれにせよ、レスターがノッて来るれば来るほどサックスの構えは上になり、殆ど水平になっちゃうのさ。」
<兵役の闇>
1942年、ヤングは弟のリー・ヤングと共にNYの有名なクラブ<カフェソサエティ・ダウンタウン>に出演、その後ディジー・ガレスピー(tp)やテナー奏者のアル・シアーズと共演後、ベイシー楽団に再加入した。
1944年の徴兵は、彼が生涯決して克服できなかった第二の苦難となった。
いったい軍隊で彼に何が起こったのか?真相は諸説あるが、重要なことは、彼は生まれて初めて現実と衝突し、現実が彼を打ちのめしたという事実だ。彼は軍隊で過ごしたのは15ヶ月間だが、兵役期間中の大部分、営倉に拘留されていた。罪状はマリファナと睡眠薬の所持、言い換えれば不当な扱いに対し無垢な黒人が、たまたま不適当な時と場所に居合わせたという罪だ。極めて不名誉な除隊を強いられてからというもの、彼の演奏と生活は、ゆっくりとすさんで行ったのである。
ジョン・ルイス(p)は1951年にヤングの下で演奏した。
「バンドは大体ジョー・ジョーンズがドラム、ジョー・シュルマンがベース、トニー・フルセラかジェシー・ドレイクスがトランペットだった。私達はNYの<バップ・シティ>の様なクラブで演奏してから、シカゴへ巡業した。
レスターは各セット同じ曲を演奏するという日が時にあった。そして次の週も同じ曲を繰り返す。先週の火曜に<Sometimes I’m Happy >を演奏し、今週の火曜も演るんだが、今週は一曲目にを演ってみる。そして前の週に彼が演ったソロの変奏を吹き、次の週はそのまた変奏を吹くというようなことが続き、彼のソロは巨大な有機体に変わっていくんだ、
その頃から彼の演奏が荒れたと世間じゃ言うが、私が彼と一緒の時、劣悪な演奏など聴いた事がない。彼の演奏が変わったと感じたのは最後の数年間だけだ。その変化について明確な証拠や、いやな体験などしていない。ただね、そこはかとない絶望感が漂っていた。
彼は私の目の前に実在する本物の詩人だったよ。物凄く無口だったから、一旦彼が口を開くと、一つ一つの言葉が、小さな爆発物のように強く感じた。私は彼が意識的に特別な言葉を発明したとは思わない。アルバカーキに居た従兄弟の話し方と少し似た所があったし、20年代後半から30年代前半には、オクラホマシティ、カンザスシティやシカゴで彼の言葉に似たようなものがあった。その地方の人々もやっぱりお洒落で、レスターのようにポークパイハットなんかをかぶっていた。だから彼の話し方や服装は自然と身に付いたのじゃないかな。扮装とか、本当の姿を隠す術ではなかったと思う。ただ彼はヒップであろうとしただけさ、何もかもがスイングしているという意識の表現だろうね。
勿論、彼は役立たずの連中の為にわざわざかっこよさを浪費したり、下手くそと共演し、せっかくの良い演奏を台無しするような愚かな事はしなかったさ。もしも彼が不当な扱いを受けたとすれば、心の傷は決して癒ることはなかったろうな。
昔、52丁目の<バップ・シティ>に出演した時のことだ。レスターは、彼の音がか細いと世間に非難され、どれほど深く悩み続けているか話してくれたんだ。
楽屋で話の途中に、レスターはサックスを取り上げ、素晴らしく大きな音でソロを吹いて見せてくれたよ。コールマン・ホーキンスとはまた違い、分厚く滑らかで濃密な音色で、最高に美しいサウンドだった。」
(明日につづく)
月: 2009年5月
GW にバリエットはいかが? 連載”PRES” (第ニ回)
ホイットニー・バリエット著 『アメリカン・ミュージシャンズⅡ』より
《プレズ PRES》 (2)
<キング・オリヴァーとの出会い>
(右)Joe “King” Oliver (1885-1938) コルネット&バンドリーダー。深いブルース・フィーリングを持ち、ニューオリンズからシカゴで花開いた。キング・オリヴァーはルイ・アームストロング(左)以前のKing of Jazzだ。写真は’28年、Frank Driggs Cllectionより
ヤングが家族の楽団、ヤング・ファミリーを辞めたのは18歳の時で、それ以降6~7年の間に、しばらくファミリーに戻った後”アート・ブロンソンのボストニアンズ”に参加、ミネアポリスの『ネストクラブ』でフランク・ハインズやエディ・ベアフィールド(saxes)と共演した。また「オリジナル・ブルーデビルズ」、ベニー・モートン(p)、クラレンス・ラブ、キング・オリヴァー(cor)と活動、そして1934年、カウント・べイシーの最初の楽団に入団した。
ヤングは、ジャズ評論家ナット・ヘントフのインタビューで、50代でなお意気盛んだったキング・オリヴァーとの共演やオリヴァーの晩年について語っている。
「ボストニアンズの後、キング・オリヴァーと一緒に演った。すごく良い楽団だったよ。僕はレギュラーとして、主にカンザスやミズーリ方面で1~2年共演した。
キング・オリヴァーの楽団は金管3本、木管3本とリズム隊4人の編成だった。彼のプレイに衰えはなかったが、なにしろ年だから一晩中出ずっぱりではなかった。だが一旦吹けば、非常に豊かな音色だったよ。オリヴァーはショウのスターとして各セットに1曲か2曲だけ吹いた。
ブルース?無論ごきげんなブルースを吹いたとも!人柄も良くて、明るいおっちゃんだった。若いメンバー全員を凄く可愛がってくれたよ。一緒に演って退屈なんてことは全くなかった。」
<第一のトラウマ:フレッチャー・ヘンダーソン楽団>
Lヤング入団前のFヘンダーソン楽団、前列の囲みが若き日のホーキンス、右端:ヘンダーソン
ベイシー楽団入団後間もなく、ヤングはコールマン・ホーキンスの後釜としてフレッチャー・ヘンダーソン楽団への移籍を要請された。気のすすまない事ではあったが、結局承諾する。それはレスター・ヤングの人生で、克服しがたい最初の苦難であった。ホーキンスはヘンダーソン楽団に10年在籍し、大海を思わせるようなホークの芳醇なトーンと、分厚い和声のアドリブが楽団の核となっていたのだ。通常ジャズ・ミュージシャンというものは、注意深く寛容な聴き手だが、テナーに転向したばかりで、まだアルト臭かったヤングの音色やふわふわした水平方向のソロは、同僚の楽団員達にとっては異端と受け止められた。やがて彼等はレスターの陰口を叩く様になり、フレッチャー・ヘンダーソンの妻は「こういう風に吹いてくれたら」と、彼にホーキンスのレコードを聴かせた。それでもヤングは3~4ヶ月持ちこたえたが、遂に 「自分は解雇されたのではない」という旨の手紙を書いてくれるようリーダーのヘンダーソンに頼んで退団。カンザスシティへと向かう。2年後にベイシー楽団に再加入、彼のキャリアはそこから始まった。
<カウント・ベイシー楽団>
ピアニスト、ジョン・ルイスは当時のヤングを知っている。
John Lewis(1920-2001) ニューメキシコ州アルバカーキ育ち、40年代NYでBeBop時代の頭角を表す。
ジョン・ルイス:「私がまだアルバカーキに居て、まだ非常に若かった時、ヤング・ファミリーが町に逗留していると噂に聞いた。
野外のテント・ショウで巡業に来たものの、金がもらえず立ち往生していたらしい。地元にセント・セシリアズ”という名のなかなか良い楽団があり、レスターはそこで演奏していた。街にはチェリーと言うスペイン人がいてね、ペンキ屋だったが、素晴らしいテナー奏者で、レスターは彼ととサックスで勝負したりした。当時のレスターのプレイ自体は殆ど覚えていないが、軽めの良い音色だったよ。しばらくしてヤング・ファミリーは街を離れミネアポリスに移った。
次に会ったのは1934年頃で、彼が西海岸へ楽旅中にベイシー楽団のコーフィー・ロバーツというアルト奏者を迎えに町に戻ってきた時だ。その時代の彼はすでに1936年の初レコーデイングと同じサウンドだったよ。この地方は真鍮製のベッドが多くてね、レスターはいつもベッドの足元にテナーを吊るして寝ていた。夜中に何かアイデアが浮かぶと、サックスを手に取りすぐ音を確かめられるからだ。」
ヤングの初レコーデイングは、ベイシー楽団選抜のスモールグループだ。メロディの浮揚感は、フランキー・トランバウワーやジミー・ドーシーを想起させる。
ヤングが以後15年間使用する上向きのグリスや急上昇するフレージングはコルネット奏者ビックス・バイダーベックの影響を暗示している。ヤングには深いブルース・フィーリングがあった。それはキング・オリヴァーのセンスを自分の一部として取り込んだのに違いない。淡い音色と最小限に抑制するヴィブラート、「間」のセンス、息の長いフレージング、そして容易くリズムを操る柔軟性を併せ持っていた。
彼の登場まで、大部分のソロイスト達はオン・ビートでリズムに乗り、垂直的で短いフレージングに終始するため、リズムの波は途切れがちになった。ヤングはこのようなバウンスするアタックを滑らかにして、バーラインを越える長いフレーズとレガートを駆使した。(フレッチャー・ヘンダーソン楽団時代、同僚だったトランペット奏者レッド・アレンと同じ手法である。)さらに彼は、しばしばコードからアウトする音を使った。奇妙な音符こそが、彼のソロで耳を惹きつけるものであり、沈黙は強調の為に使われた。
カウント・ベイシー楽団のベーシスト、ジーン・ラミーはこう回想する。
「ヤングは33年の終わりには、非常に間のあるサウンドを手中にしていた。あるフレーズから次の新しいフレーズを始めるのに最低三拍の間を置いた。」
真正面から胸倉をわし掴みにするようなコールマン・ホーキンスと反対に、ヤングのソロはわざとそっぽを向いて人をはぐらかすようにさえ聴こえる。ヤングのアドリブは非常に論理的に動き、滑らかで耳に優しい。彼は装飾音符の達人であり完璧な即興演奏家であった。
“Willow Weep for Me”や”The Man I Love”といったおなじみの曲を、一瞬そうと判らないほど鮮烈に仕立てた。頭の中に原曲のメロディをしっかり持ちながら繰り出すサウンドは、曲に対して抱く「夢」であり、彼の紡ぐソロは「幻想」だ。-叙情性がありソフトで滑らか―それは演奏だけでなく、恐らくは彼の人生もそうだったのではないだろうか?
ハミングにさえ思える気楽なソロ、だがそれは見せかけだ。音の動きは急速で、不意にホールドしたと思えばガクっとビートを落とす。リズムのギアチェンジで大胆に変化を付け、ソロは絶え間なく変化を続ける。繰り出すメロディは時に非常に美しい。スロウな演奏は優しい子守唄のようだが、テンポが速まるにつれ、彼のトーンは荒々しくなった。同時にヤングは随一無比のクラリネット奏者でもあった。30年代後半に、メタル・クラリネットを吹き、心に訴えかけるような澄み切った音色を手中にしていた。(しかし、クラリネットが盗まれたので、ヤングはいとも簡単に楽器を諦めてしまった。)
(明日につづく)
GW にバリエットはいかが? 連載 ”PRES” (第一回)
ホイットニー・バリエット著 『アメリカン・ミュージシャンズⅡ』より
《プレズ PRES》 (1)
サックス奏者レスター・ヤングが独創性に欠ける点はほぼ皆無だ。腫れぼったい瞼と飛び出し気味の目、少し東洋的で角ばった顔、飛び切り小さな口髭、歯の隙間が見える笑顔。彼は内股で軽やかに歩き、話し声はソフト、何かしらダンディなところがあった。スーツとニット・タイにカラー・ピン、踝(くるぶし)丈のレインコート、それにトレードマークのポークパイ・ハットを、若い時には後頭部に軽くのせ、年を取ると目深にかぶった。性格は内気、話し掛けられた場合に限り、しばしば自分も話す。演奏中は前方斜め45°にサックスを構え、まるで水中に櫂(かい)を漕ぎ入れるカヌー乗りの様に見えた。その音色は空気の様に軽くしなやか、それまで耳にした事もないようなフレーズは、何とも言えず抒情的で捉えどころのないものだった。
サックス奏者がこぞってコールマン・ホーキンスに追従した時代、ヤングは二人の白人奏者を模範とした:Cメロディのサックス奏者フランキー・トランバウアーとアルトサックスのジミー・ドーシー、両者とも一流ジャズ・プレイヤーではない。だが1959年にレスター・ヤングが没した時、彼は白人黒人両方の無数のサックス奏者の模範となっていた。優しく親切な男で、人をけなした事はない。
左から:Frankie Trumbauer(1901-56), Jimmy Dorsey (1904-57)
そして彼は暗号のような言葉を使った。
<レスター・ヤング的言語について>
レスター・ヤングの暗号化された言語についてジミー・ロウルズ(p)はこう語る。
「彼の言う事を理解するためには、暗号の解読が必要だった。それは辞書を暗記するようなもので、私の場合は判るようになるまで約3ヶ月はかかったと思う。」
ヤングの言語は大部分が消滅してしまったが以下はその一例である。
- ビング(クロスビー)とボブ(ホープ)= 警察
- 帽子(Hat)= 女性 中折れ帽 orソンブレロ= 女性のタイプを表す。
- パウンドケーキ = 若く魅力的な女性
- グレーの男の子 = 白人男性
- オクスフォードグレイ= 肌の白い黒人、つまりレスター自身も意味する。
- 「目玉が飛び出る」=「賛成する。」
- カタリナの目orワッツの目 =どちらも非常に感嘆した時の表現
- 「左の人たち」 =ピアニストの左手の指
- 「召集令状が来る気分だ。」= 人種偏見を持った奴が間近にいる。
- 「お代わりを召し上がれ。」=(バンドスタンドでメンバーに対して)「もう1コーラス演れ。」
- One long, Two long = 1コーラス、2コーラス
- 「耳元がざわざわする」=人が彼の陰口を言っている。
- 「ちょいパチをもらう。」= 喝采を受ける。
- ブンブンちゃん = たかり屋
- ニードル・ダンサー = へロイン中毒者
- アザを作る =失敗する。
- 種族=楽団
- トロリー・バス =リハーサル
- マダムは燃やせるかい? =お前の奥さんは料理が上手か?
- あの人たちは12月に来る。=2人目の子供が12月に出来る。(因みに彼は3回結婚し2人の子供を持った。)
- あっと驚くメスが2時。 =美女が客席右手”2時”の方角に座っている。
<旅芸人>
奇人変人は往々にして、混雑しつつ秩序ある場所に棲息する。ヤングが人生の大半を過ごしたのは、バスや鉄道の中、ホテル、楽屋、車の中やバンドスタンドであった。
彼は1909年ミシシッピー州ウッドヴィルに生まれ、生後すぐに家族でニュ―オリンズの川向こうの街、アルジャーズに移った。10歳の時に両親が離別、レスターは、弟のリー、妹のイルマと共に父に引き取られ、メンフィスからミネアポリスへと移り住む。父親はどんな楽器でも演奏することが出来、家族で楽団を結成し、中西部や南西部をテント・ショウの一座として巡業した。ヤングは最初ドラムを演奏し、後にアルトサックスに転向した。初期の写真を見ると、彼のサックスの構えは後年と同様非常にヴォードヴィル的なものだ。
「自分は譜面を読める様になるのが人より遅かった。…」かつて彼は語った。
レスター・ヤング : 「ある日、父がバンドのメンバー全員に各自のパートを吹くよう言った。父は僕が出来ない事を百も承知で、わざとそう言ったんだ。僕の小さなハートは張り裂け、オイオイ泣きながら思った。家出して腕を磨こう!あいつらを追い抜かして帰ってきてやる…帰って欲しけりゃな。覚えてろ!そして僕は家を出て、たった一人で音楽を学んだ。」
(明日につづく)
フランス的贅沢な大人の時間、鉄人Duo
OverSeas第一金曜日のお楽しみは、寺井尚之+中嶋明彦(b)の鉄人デュオ!(写真提供:後藤誠氏)
鉄人コンビを組んでから何年になるのか判らない・・・(25年くらいかな?:寺井尚之)
中嶋明彦(b)さんは、北海道生まれで、立命館大学時代から京都を中心に活動。プロ入りした動機が、’75年のエラ・フィッツジェラルド+トミー・フラナガン3の伝説的来日コンサートだったことが、寺井尚之と一緒。(あのときはプロになったら、いつでもエラ+フラナガンみたいな超満員のお客さんの前で演奏できると思てたんや・・・寺井尚之)
フリー・ジャズから歌伴まで何でもこなすヴァーサタイルな中嶋さんですが、OverSeasではベテラン同士、肩の力を抜いたプレイで主にスタンダード曲を聴かせてくれます。
日頃は滅多に聴けない寺井尚之のMistyや即興演奏の醍醐味一杯で、どこまで転調していくのかわからないブルース、それに中嶋さんの十八番、Hush Abyeや「朝日の如く爽やかに」など、聴きなれた曲での大人の会話を楽しみました。
山口マダムが来られていたので、鉄人は敬意を表して弾丸スピードのJust One of Those Thingsを披露。わざと、ハアハア言いながら手をブルブル運動させて見せる中嶋さんのお茶目な表情が素敵だった。GWにも関わらず、音楽をよく知っている素敵なお客様たちが、大きな拍手や歓声を送ってくださったので、二人併せて(?)才の鉄人たちも燃えました!
昨夜は、昔よく聴きに来てくれていた寺井ファンが、殆ど10年ぶりにご両親と一緒に来てくれて嬉しかった~!その頃は小麦色の肌が綺麗で、無口だけどいつもニコニコしている神秘的な美少女、とても印象に残っていました。
エキゾチックな美女訪問に鉄人もフニャフニャ
寺井尚之やトミー・フラナガンのピアノを愛する園田由子さんはクラシック・ピアニスト、姿を見せなくなったと思っていたら、ピアノ修業で渡欧し、現在はパリでコンサート・ピアニストとして活動しています。
運命は不思議だ!由子さんがパリで知り合った年上のお友達夫妻のお宅を訪問したら、そこにはトミー・フラナガンの写真が一杯!驚いたことに、トミー・フラナガンの大ファンで友人だったんです。奥さんがルイ・ヴィトン本店のディレクターをしていたとき、フラナガンのライブを盛んに企画していたのでした。フラナガンの思い出話を色々聞いた由子さんは、パリから飛んできて報告しに来てくれたのでした。ヴィトンの熱烈なフラナガン・ファンの噂は聞いていたけど、まさか、彼女がその人たちと現在仲良しだとは・・・絶句です。
お話を伺っている途中に、昔トミーがまだ元気だった頃、梅田のリッツ・カールトンに迎えにいったら、黒の丸いBeBopサングラスで、全身ヴィトンに身を包み、私に腕をさし出して「どや、わしってカッコイイやろう! タマエにも今度バッグをあげるよ。」と鼻高々だった姿が懐かしく甦って来ました。(バッグはもらってないけど・・・)
美少女から、シックで洗練された美女に成長していた由子さんは明日パリに帰国するそうです。
コンサート活動頑張って!帰国したらOverSeasに来て下さいね!
Bon Voyage!