Relaxin’ at Camarillo、西の情景

 Jimmy-Heath.jpg先週末、バードの生誕を記念する,恒例” チャーリー・パーカー・ジャズフェスティバル”がNYハーレムで開催されました。金曜日には、我らがジミー・ヒース(ts)がビッグ・バンドで書き下ろし演目のコンサートを!
 NY特派員、Yas竹田によればジミー・ヒースのプレイは素晴らしく、最高のコンサートだったとのこと!10代でリトル・バードと呼ばれたジミー・ヒースは現在86才!万歳!

 というわけで、先日の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」<Overseas特別講座>で改めて感動した”Relaxin’ at Camarillo”のことを調べてみました。日本で語られる逸話は、主に、パーカーゆかりの”Dial Records”の創始者でプロデューサー、パルプ・フィクション作家でもあったロス・ラッセルの著書“Bird Lives”からの出典が主のようですから、ここでは、パーカーと同じ世界に生きたミュージシャンの証言集、アイラ・ギトラーの”Swing to Bop”や、バードを神と崇めるミュージシャンたちのインタビューを色々紐解いてみました。

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(Charlie Parker August 29, 1920 – March 12, 1955),

 
カマリロでリラックス

 ・・・と言っても、カマリロは熱海みたいなリゾートではなく、ロスアンジェルスから車で一時間ほどの場所にある精神病院、バードはそこに6ヶ月入院していました。かなり自虐的タイイトルです。

 1946年、パーカーは、ディジー・ガレスピーとのコンボでハリウッドにある”Billy Berg’s”というクラブで演奏、NYに帰る交通費はクスリ代になったのか、コンビを解消し、単身ロスアンジェルスのガレージを改装したアパートで暮らした。LAとNYは、同じ米国でも西と東で、文化も違う。NYでは飛ぶ鳥落とす勢いのパーカー・ガレスピー・バンドも、西海岸ではマニアック。狂喜するのは、ビート族か若手ミュージシャンで、売上げに貢献してくれない客層。一般的な人気はまだまだだった。なにしろ、この当時、西の一番人気がキッド・オーリーのシカゴ・ジャズ、ビバップと銘打つなら、スリム・ゲイラードみたいに歌の入ってなくては喜んでもらえない。私たちがタイムマシンに飛び乗って聴きたいビバップ・バンドへの客足は日に日に遠のいたといいます。

 LAで、バードの一番の仲良しはトランペット奏者、ハワード・マギー、バードはマギーにしょっちゅうお金を無心して、彼の自宅にある酒やマリワナをごっそり拝借して行ったらしい。

 それは、LAの麻薬事情と関係がある。LAではヘロインの流通が少なく、入手困難の上に価格はNYの3倍(!)。曲の名前になるほどバードが世話になった(?)売人”Moose the Mooch”は既に服役していたから四面楚歌。

 

<リトル・トーキョー>

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 ディジーと袂を分かったバードの新しい本拠地は、「クラブ・フィナーレ」という店で、共演者はマイルズ・デイヴィスと、地元のジョー・オーバニー(p)、アディソン・ファーマー(b)、チャック・トンプソン(ds)というメンバーでした。

 その店は意外にも日系人の街、リトル・トーキョーにありました。住所は230 1/2 East First Street、元はオフィスビルの会議室だった場所ですが当時は空き家。大戦が連合軍の勝利に終わった後も、日系人は強制収容されていたから空いていた。皮肉だな・・・日系人がやっとリトル・トーキョーに戻り、死に物狂いで復興を始めるのは、1949年になってからです。
 
 さてParkerFinale-1.jpg、「クラブ・フィナーレ」は会員制、アルコール販売免許がなく、お客が自分で酒を持ち込み、入場料を払いライブを楽しむシステム、夜中から朝まで営業するアフターアワーズのクラブとして、知る人ぞ知る店となります半分非合法な業態ですから、閉店、開店を繰り返し、結局ハワード・マギー(tp)がマネージメントを担当、チャーリー・パーカーがレギュラー出演するので、パーカーを信奉する多くの若手ミュージシャンで大盛況、一時はラジオ中継されるほど賑わいます。ところが、繁盛ぶりを観た警察に「みかじめ料」を要求され、あえなく閉店。バードはたちまち生活に困窮。ガレージの家賃が払えず、安ホテルに引っ越した。

 

 当時のバードの状態をハワード・マギーはこう証言しています。「朝の5時でも、正午でも、夜中でも、バードはガレージで、常に起きていた。ベンゼドリンを大量に飲んでいたからだ。」

[Portrait of Howard McGhee and Miles Davis, Ne...

[Portrait of Howard McGhee and Miles Davis, New York, N.Y., ca. Sept. 1947] (LOC) (Photo credit: The Library of Congress) 

ベンゼドリンは覚せい剤、通称bennyと言われ、ヘロインはhorseと呼ばれてた。

 「起きている間、彼は常に読書をし、勉強していた。クスリでおかしくなっている時以外は、彼はものすごく教養にあふれた深い人間だった。女性には殆ど興味を示さなかった。

 バンドと編曲にしか注意を払わなかった私に、ストラヴィンスキーやバルトーク、ワグナーたちを教えてくれたのもバードだ。よく一緒に”火の鳥”や”春の祭典”を聴いた。」

  尊敬するバードがクスリをやるならと、真似をしたアルト奏者が死亡するという事故も起きた。バードは致死量のクスリを飲み、酒を浴びるほど飲み、何日も寝ない。

1946年7月29日、歴史的に有名な”Lover Man” セッションの夜、、ついに錯乱状態になり、ホテルのロビーに全裸で表れて注意され、その間には部屋で消し忘れた煙草でベッドが燃えてボヤ騒ぎ。10日間の勾留後、カマリロ精神病院に送られた。

<ようこそカマリロ精神病院に>

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 後記:上と左の写真は、ジョン・コルトレーンのエキスパート、藤岡靖洋氏が膨大なフォト・コレクションの中から探して送って下さったものです。上は現カリフォリニア州立大チャンネル・アイランド校となっているカマリロ病院。左は”ベル・タワー”、元男性患者の病棟で、バードが滞在していたと推測される建物です。Fuji先生ありがとうございました!)


 バードが6ヶ月過ごしたカマリロ州立精神病院は、1997年に閉院し、今はカリフォリニア州立大学の一部になっている。彼が入院していた頃は4000人を超える患者であふれていた。

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 彼はなかなか手ごわい患者、なにせ頭がいい。おかげで、彼を担当した精神分析医は、彼の精神状態を全く理解することが出来ずに、自殺未遂をします。ウィーン出身の研修医、ミイラ取りがミイラになってしまった。

 その間、マギーは何度も見舞いに行き、共演ピアニストだったジョー・オーバニーも治療の為に入院。病棟でであったバードが余りにも太っていたので、最初誰かわからないほどだった。仲間の殆どが再起不能と危惧していたバードは2月に退院し、復活を果たします。

<バスタブで生まれたオフ・ビートのブルース>

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 1947年2月、再びダイアルでセッションが決まりました。メンバーは、マギー、ワーデル・グレイ(ts),ドド・マーマローサ(p)、バーニー・ケッセル(g),レッド・カレンダー(b)、そして何故かドン・ラモンド(ds)、ラモンドは、バードとの共演を大喜びし、ジミー・ロウルズ(p)に大自慢していたといいます。

 録音の一週間前に、リハーサルがあり、マギーはバードを迎えに行きました。するとバードはお風呂に浸かって、譜面を書いている最中だった。LAのその地域で車を止めておくのが心配で、マギーはせかした。

「譜面は僕がバンド用に仕上げるから、もう服を着て行こう!」
 

 それじゃあ頼むわ、とバードが手渡した12小節の譜面。裏から入るオフ・ビートの意表をつくリズムは、これまで観たこともないようなものだった。それが「Relaxin’ at Camarillo」だ。マギーは懸命にパート譜を書き上げて、録音当日にメンバーに配って、バードがテンポを出した。

 ありゃりゃ、バード以外の全員があえなく撃沈。譜面を仕上げたマギーまでわからなくなったといいます。

 それから、格好がつくまで、バード以外の全員が、ゆっくりと譜面を見て練習しなくてはならなかった。

 それを観たバードはうんざりした様子で言った。

「君たちができるようになったら、呼びに来てくれ。」

 バードは酒を買って、車の中で飲みながら待った。マギー達が、一応プレイできるようになった頃、ボトルは空になり、彼は酔いつぶれていた。

 翌日、仕切りなおしの録音で、バードは絶好調!マギーは、彼が本当にカムバックできたことを実感して、嬉しかったといいます。

 <西からの福音書>

 この録音の直後、やはりバードを信奉しアルトを吹いていたジョン・コルトレーンが、キング・コラックスOrch.の一員としてLAにたどり着き、ジャムセッションでバードに遭遇、「Relaxin’ at Camarillo」の譜面をいただき、フィラデルフィアに持ち帰りベニー・ゴルソンと必死で練習したと言います。西海岸からもたらされたバードの新曲の譜面は、西方浄土の経典か、聖なる「福音書」として、うやうやしく取り扱われたんだろうな!

 

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 それから10年、やはりバードを尊敬し、ビバップのエッセンスを中学時代から吸収したトミー・フラナガンが、エルヴィン・ジョーンズとウィルバー・リトルで録音した「Relaxin’ at Camarillo」、フラナガンはドド・マーマローサのイントロをピカピカに磨き上げていとも自然に弾いている。オフ・ビートのユニークなリズムがエルヴィン・ジョーンズの鮮烈なブラシで一層際立ち、曲の解像度が大幅にアップしている。

 このときチャーリー・パーカー没後3年、もしもバードがジミー・ヒースのように長生きしてくれていたら、どこかのセッションで、このトリオと演ってくれたかも知れないですね。

 フラナガンは、それから40年後、『Sea Changes』で再録音し、ライブでも何度か演奏したのを聴きました。47年に、ミュージシャン達が度肝を抜かれた意表をつくリズムは、すっかりトミー・フラナガン達の血となり肉となって行ったんですね。

 

 

閑話休題: Summertime

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 夏のひととき、大好物のマンゴのデザートに、幸せ一杯の寺井尚之です。17日(土)は自己トリオ、メインステム!お客様をこんな顔にしたいですね!7pm開演 Live Charge 2,625yen 入れ替えはありません。

 OverSeasはお通常営業、夏休みがありませんが、私は「夏の友」(古いなあ・・・)のような課題で、別ジャンルの偉大なる「曲説」の勉強中。というわけで、今週のInterludeは休符です。

 

Summertime
Dubose Heyward / George Gershwin

サマータイム、
暮らしは楽だ、
魚は飛び跳ね、
綿花は豊作。

父さん金持ち、
母さん美人、
だから、赤ちゃん、
泣くのはおやめ。

そのうち、おまえも大きくなって、
立ち上がって歌う朝が来る、
翼を拡げて、
大空に羽ばたくよ。

その朝が来るまで、
誰にも悪さはさせないよ。
父さん、母さんが、
見守っていてあげるから。

対訳ノート(38) 「夫婦善哉」の味 She (He)’s Funny That Way

残暑お見舞い!

 ここ最近、パノニカ男爵夫人やドリス・デュークといったリッチ・ガールズの話題が続きました。今日は、今回は身の丈に合ったテーマ、貧乏っぽくてやるせない歌の話を。

 

 もうすぐTVドラマで始まるのがうれしい、上方を代表する文学者、織田作之助原作「夫婦善哉」の主人公、柳吉のテーマソングみたいな歌。

<ビター・スイートなラブ・ソング>

 ”She’s Funny That Way”という味わい深い古い歌曲(1928)を御存知ですか?大恐慌勃発の年(1929)に、ジーン・オースティンという歌手で大ヒット、エロール・ガーナー(p)、コールマン・ホーキンス(ts)など多くのジャズ・ミュージシャンが取り上げました。が、なんといってもビリー・ホリディの十八番として有名な歌。ホリディは1937年、レスター・ヤングを擁するOrch.とVocalionに初録音して以来、度々歌詞を変更しながら何度もレコーディングしています。

 ビリー・ホリディの忠実なフォロワーといえるアート・ファーマー(flh)が1979年にトミー・フラナガン3と来日公演したときに大阪サンケイ・ホールで演奏していたのを思い出します。もちろん、ビリー・ホリディが歌うときは、”He’s Funny That Way”となり、歌詞もそれなりに変わります。オースティンのノスタルジックなヴァージョンはここに。

 

 この歌は風変わりなラブ・ソングで、実らぬ恋のトーチ・ソングでも、燃えるような情熱の歌でもない。この”That Way”は「そんな風に」と「大好きで」のダブル・ミーニング、力づくで日本語にすると「おかしなほど私に惚れている」という感じ。自慢話のようなのですが、歌が進むに連れ、だんだん哀しく切なくなってくる。

 自分は愛される値打ちのない人間、相手がダメになっていくのは、”私”が足を引っ張っているせいなんだ。だけどもう身を引くことなんて出来るもんか!歌の主人公は、まるで”Sex and the City”で流行語になった”フレネミー”(friend +enemy)だ。でもこの歌はTVドラマより、ずっとずっと甘くて苦い。その稀有な味わいゆえに、映画の挿入歌として効果的に使われています。例えば、ウディ・アレンの『地球は女で回ってる』とか、エド・ハリスが精神を病んでいくアーティスト、ジャクソン・ポロックを演じた『ポロック 2人だけのアトリエ』とか・・・・

<唯一の作詞に隠された愛の物語>

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 作詞 リチャード・ホワイティング(1891 – 1938)、作曲 ニール・モレット(1878 – 1943)、作詞のホワイティングは作曲家として”Too Marvelous for Words”や”Miss Brown to You”などのヒット曲を作った。ヴォーカル通ならマーガレット・ホワイティングの父としてお馴染みかもしれません。かれが生涯で作詞したのはこの一曲だけ!こんなに味わい深い歌詞が書けるのなら、もっと書けばよかったのにと思ったら、それには理由があったんです。

 マーガレット・ホワイティングが父の書いた歌詞について面白い逸話を語ってる。(”They’re Playing Our Song” Max Wilk著) 
 イリノイ州出身のホワイティングは元々デトロイトを拠点に充実した作曲活動をしていた。ところが彼の所属する音楽出版社から、ハリウッドで映画音楽の仕事をするよう要請されます。仕事も順調で、住み慣れたデトロイトから遠く離れた西海岸に移るのは外国に挑戦しに行くようなもの。当たらなければお終いだ。きっと妻のエレノアは反対するだろうな・・・そこでホワイティングは、この歌詞に、「着いてきて!」という願いを込めた。だから、三コーラス目の歌詞にこんな言葉がある。 

“僕は凡人、せいぜい臆病者がいいところ、
だけど僕が西部に行くなら
きっと彼女は着いてくる”

Margaret+Whiting+59308898.jpg 聡明な娘、マーガレットは本の中でこう語ってる。
「父は、母が西海岸に着いてこないと、本気で心配をしていたわけではなかったでしょう。ただ、父は母のことをとても愛していたんだと思います。その気持が、父に唯一の歌詞を書かせた理由です。」 

 

 


SHE’S FUNNY THAT WAY
(I GOT A WOMAN, CRAZY FOR ME)

原歌詞はこちら(Verseなし)

作詞:Richard A.Whiting / 作曲: Neil Moret

<Verse>

昔はたいそうめかし込み、
ロールスロイスまで持っていた。

それが今じゃ落ちぶれて

堕ちる風情は流れ星。

いったなんで惚れてくれたのか?

じっくり考えてみなくては。

 

<Chorus①>

見栄えも悪く、深みもない

生きてるだけがとりえの男、

なのに幸運なのは、

恋人がいる、

おまけに私に夢中、

それがあの女のおかしなところ。

1セントの貯金もできぬ、

価値の無い男、それが私、

でも、彼女は嘆きもせず

テント暮らしも厭わない。

この女、
私に首ったけ、
そんなおかしな女。

彼女は私の為に、
毎日進んで働く。
もし私が身を引けば
ずっとましな暮らしができるだろうに。

だけどわざわざ自分から、
何でこの身を引かねばならぬ?

きっと私がいなければ、

不幸せになるにきまってる。

私の女、 私に夢中、
そんなおかしな女。

(②中略)

<Chorus③>

財産もなく、身内もない、

私にしては身に余る、

私の彼女、私に夢中、

それほど変な女、

 

ときおり彼女の心を傷つける、

それでも笑顔で答える女、

私の彼女、私に夢中、

それほど変な女。

 

思うに最善の方法は

別れて自由にしてやって、

ましな男に添わせること、

だけど私は凡人、

いいとこ ただの臆病者、

これだけは言える、

私が西に行くならば

彼女は私についてくる!

私の彼女、私に夢中、

それほど変な女。

 

<夫婦愛から曽根崎心中まで>

 この作詞が功を奏したのか、翌1929年、一家はロスアンジェルスに移住し、alecwildermages.jpeg映画界で成功した。ホワイティング家には、音楽サロンとして、アート・テイタム始めさまざまなミュージシャンが出入りしました。美しき哉、夫婦善哉!

 でも、ビリー・ホリディの歌唱を聴くと、そんなアット・ホームな歌の世界をはるかに超越してしまってる。ホリディが歌うのは、「夫婦善哉」どころじゃない!同じ上方ものでも、近松門左衛門の曽根崎心中だ!レディ・ディって和事だなあ!その「解釈」の力、卓抜な演出力に感服です。

 ポピュラー・ソングを隅々までメティキュラスな批評してみせたうるさ型系音楽家アレック・ワイルダーでさえ、歌詞を絶賛し、サビへの移り変わりを「革新的」とまで評しています。

 “He(She)’s Funny That Way”、あなたは近松派?それとも夫婦愛系ヒューマン派?どちらがお好きですか?

アメリカン・パトロネス: ドリス・デューク

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Doris Duke (1912-1993) 

 先日、パノニカ男爵夫人のことを書きました。多くのミュージシャンに援助の手をさしのべ、沢山の曲を献上されたパトロン、彼女は英国人。ミュージシャンは、パトロン自慢が好き!モナコ国王レーニエ大公やタイのプミポン国王が大のジャズ・ファンだとか、ヨーロッパの貴族がフィリー・ジョー・ジョーンズに多額の遺産を残したとか、いろんな人から、いろんな話を聞いた事があります。それじゃ、ジャズの母国アメリカ国民でパノニカに匹敵するようなパトロンはいなかったのでしょうか?

oscarpettiford-orchestra.jpg トミー・フラナガン初期のレコーディング、”Oscar Pettiford in Hi-Fi”は私の大のお気に入り、アルバムのオープニングはオスカー・ペティフォード作、 “The Pendulum at Falcon’s Lair”(はやぶさ邸の振り子)という一風変わったタイトルが付いている。丁度、時計の振り子に併せたようなテンポのバップ・チューンで、ハープが効果的に使われています。(足跡講座に出席されている方なら、この題名について色々論議があったのを覚えていらっしゃるかも)、“Falcon’s Lair”の女主人、ドリス・デュークは、アメリカ人として最も著名なジャズのパトロンだった。



<Falcon’s Lairとヴァレンティノの幽霊>

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rudolph+valentino+in+turban+and+pearls.jpg ”Falcon’s Lair”は「刑事コロンボ」の担当区域、ビヴァリー・ヒルズ有数の大邸宅で、本館と召使の館、広大な車庫や馬屋からなるV字型のカリフォルニア式建築。1925年、サイレント映画の伝説的スター、ルドルフ・ヴァレンティノが何億というお金で購入し、”Falcon’s Lair”と名付けた。アラブの王子様が当たり役だったヴァレンティノが収集したイスラム美術品など、贅を尽くした調度品で埋め尽くされた豪邸でしたが、この屋敷に住んで僅か1年後にヴァレンチノは亡くなった。邸にはヴァレンチノの幽霊が出ると言われ、主が転々とし、1950年代始め、やはりサイレント時代の伝説的女優、後年「サンセット大通り」で再ブレイクしたグロリア・スワンソンから邸を買ったのがドリス・デューク。でも”Falcon’s Lair”は、ドリスが全米各地に所有する5つの大邸宅のうちの一軒に過ぎなかった。季節に応じて住み分けたそうで、ハワイの豪邸”シャングリ・ラ”は今も名だたる観光名所。
 


<The Richest Girl>
 

Cecil-Barton.jpg ドリスは、タバコ産業で巨万の富を築いた億万長者の一人娘。全米屈指の名門校、デューク大学は、彼女の祖父と父が財政支援して設立された。ところが父のジェームズ・デュークは、ドリスがたった12才の時に病死。なんでも、ドリスの母親が、窓を開け放った寝室に、風邪をこじらせた夫を監禁したため肺炎が治らなかったと噂されるキナ臭い死でした。

 おまけに、父の遺言状は、「遺産の大部分を(妻でなく)娘に遺す」という内容であったために、実の母娘ながら、二人の間には大きな確執があったと言われている。以来、ドリスは「全米一のリッチな女の子」として、マスコミに追っかけまわされることになります。

 そのためなのか、母親はドリスに高等教育を施さず、ヨーロッパの社交界に無理やりデビューさせるという教育法をとりました。ヨーロッパの上流社会では成金娘と陰口をたたかれ、故国ではセレブとしてスポイルされ・・・ドリスの少女時代は、さぞかし窮屈なものだったでしょう。

 <Something to Live For>
 

doris_joe0111013195.jpg 成人後、7000万ドルという途方も無い財産を手にしたドリスが一番欲しかったのは、お金で買えるものではなく、”自由”と”生き甲斐”だったのかも。大戦中は週給1ドルで水兵の食事係、戦後はヨーロッパ各地の状況を米国に発信する特派員活動、でも、どれも長続きはしなかった。歴史に残るのは、ハワイ暮らしのおかげで、史上初の女性サーファーになったこと。パノニカが、レジスタンスで活動し、英国初の女性A級パイロットになったのと似ていますが、多くの親戚がガス室に送られ、自分や家族もアウシュビッツに連行されるかも知れないという修羅場をくぐってきたパノニカとは、必然性が少し違うのかもしれません。 

<ジャズに惚れ込み>

joe_castro4y80x.jpg ドリス・デュークは2度結婚している。最初は米国人の政治家、2度めの夫はドミニカの外交官だった。どちらも、世界一周や、B29爆撃機の購入などなど、ふたりとも彼女の財産を相当派手に使った。

 それ以来結婚せず、ハリウッドスターやスポーツ選手と浮名を流す。セレブな彼女がジャズに惚れ込んだのは、ジョー・カストロという西海岸で活動するピアニストと恋をしたのがきっかけのようです。

 億万長者のお相手、ジョー・カストロは1958年から西海岸で活動したバップ・ピアニスト、テディ・エドワーズ(ts)、ルロイ・ヴィネガー(b)、ビリー・ヒギンス(ds)とカルテットでの活動が有名です。二人は”Falcon’s Lair “で同棲し、カストロはお城のような家からギグに出かけた。何十もの部屋がある大邸宅には、カストロを訪ねてルイ・アームストロング始め多くのジャズ・ミュージシャンが入れ替わり立ち代り逗留していました。

 マイルズ・デイヴィスのバンドが西海岸に演奏旅行すると、メンバーのキャノンボール・アダレイはホテルを取らず”Falcon’s Lair “を定宿にしていた。屋敷に遊びに行ったジミー・ヒースは「あんな豪邸を訪問したのは生まれて初めて」とびっくり仰天!

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resize.jpg はやぶさ邸”には、各部屋に豪華な録音機器が設置され、ミュージシャン達のセッションが録音できるようになっていた。オスカー・ペティフォードは言うまでもなく、ジェリー・マリガン(bs)、スタン・ゲッツ(ts),ラッキー・トンプソン(ts,ss)などのセッションを含む150本のオープン・リールが現存しているそうで、そのうち、ズート・シムスがアルト・サックスを吹いているプライベート・セッションがリリースされています。ジャケット写真は、屋敷内のセッションの模様で、しどけないTシャツ姿で。

 

 

 

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 1960年、カストロとドリスは、共通の友人、デューク・エリントンともに”Clover”というレコード会社と音楽出版の子会社を設立しましたが、結局はカストロのレコードを一枚リリースしただけで頓挫、二人の愛人関係も1966年に終わりました。その後は、最新の録音機材の数々もガレージに山積みで使われることはなかった。

 二人の長い愛人関係は、ジャズが結ぶ「大人の関係」とは行かなかったようで、カストロに「妻」呼ばわりされるのをやめてもらうため、ドリスはわざわざ裁判を起こさなくてはならなかった。まあ、色々あったけれど、ドリスのジャズに対する支援は続き、現在もドリス・デューク基金から、ニューポート・ジャズ・フェスティバルや、ミュージシャンへの活動支援として、高額のお金が拠出されているようです。

 ドリスは、エイズ研究や自然保護、恵まれない子供達の支援など、ありとあらゆる慈善活動に貢献した。”Falcon’s Lair”が数ある邸宅の一つに過ぎなかったのと同じように、ジャズへの愛も彼女の人生に彩りを与えるOne of Those Thingsだったのかもしれない。

 パノニカの名前を冠したジャズ作品は多いけれど、ドリスにまつわる作品は、彼女の名前でなく、屋敷だったというのは、何故なんだろう? この屋敷でドリス・デュークは亡くなった。享年80才、沢山豪邸があっても、寝たきりで動くことが出来ず、看取ったのは執事だった。

 ”Falcon’s Lair”は、道路建設用地として大部分が取り壊され、現在はエントランスの一部が残るのみ。

 

人がうらやむ贅沢も、  殆ど私は手に入れた。

 車や家や別荘も、

 熱い暖炉のその脇の、熊の毛皮の敷物も…

 なのに何かが欠けている・・・

(ビリー・ストレイホーン:Something to Live For)

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