ビリー・ホリディを彩る二人のアイリーン(2):Irene Higginbotham

 510f25a6.jpg  ジャズ史上に残るビリー・ホリディの名演目”グッドモーニング・ハートエイク”、失恋の苦しみを忘れることが出来ない。そんなら逃げるのはやめた!これからは「哀しみ」と手に手をとって歩いて行くんだ・・・捨てられた女の花道だ!涙の海の向こうの地平線のような歌の心は、70年経っても色褪せません。まるで普通に話しをしているような自然で胸を打つメロディーの作曲者が、もう一人のアイリーン(Irene Higginbotham: ヒギンボサム)です。 

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 Irene Higginbotham (1918- 1988)

Jay_Higginbotham,_Jimmy_Ryan's_(Club),_New_York,,_between_1946_and_1948_(William_P._Gottlieb_04121).jpg 長らく”Some Other Spring”の作者、アイリーン・ウィルソンと混同されて、ルイ・アームストロングなどと共演したトロンボーン奏者、J.C.ヒギンボサムの姪であることくらいしかわからなかった謎の作曲家でしたが、一昨年末にChet Williamson(チェット・ウィリアムソン)がマサチューセッツ州ウースター出身の作曲家を語る自己ブログ「Worcester Songwriters of the Great American Songbook」に、これまでの決定版といえる情報を掲載してくれました。ウィリアムソンは”The New Yorker”や”Esquire”誌に寄稿する作家で、ミュージシャン、役者として舞台活動するマルチ・タレント。女優の岸田今日子さんに似た上の写真もこのブログから拝借しました。 

 彼のブログを読むと、ビリー・ホリディと私的に親しく、彼女に相応しいカスタム・メイドの歌を作曲したアイリーン・ウィルソンに対し、ヒギンボサムは職人的な作曲家だったようで、その存在が謎に包まれていたのは、様々なペンネームで作曲活動をしていたからでした。その理由としてあげられるのが、1940年代の「レコーディング禁止令」、ASCAPに所属していた彼女が、ラジオ放送可能なBMI著作権団体に帰属する作品を書くための苦肉の方策だったんでしょうね。

 ASCAPの資料によると、ヒギンボサムはウースターで生まれた後、ジョージア州アトランタに移り、5才でピアノを、13才で作曲を始め、クラシックのコンサート・ピアニストとしてもデビューした。クラシックの作曲家について作曲技法も学び、歌って弾けて作編曲の才もあったのに芸能界は難しい。なかなか職業音楽家としてブレイクできず、NYのビジネス・スクールで速記術を身につけ、事務の仕事に就きながら音楽を続けた。

<ブギ・ウギからロックン・ロールまで>

atamp_stanpy.jpg   彼女が所属していた芸能エージェントがジョー・ディビスという海千山千の策士で、著作料収益を稼ぐための一計を案じました。彼の抱える作曲家達でチームを編成し、彼らの作品の一部をグレン・ギブソンというペンネームで発表したんです。複数の作曲者に多額の印税収入を分割する体裁をとれば節税できるというわけです。グレン・ギブソンは1940年代から’50年代にかけてR&Bの人気グループ”スティーブギブソンレッドキャップス“などでヒット曲を連発しており、ヒギンボサムも相当数の作品をギブソン名義で書いていた。

 それ以外にも、ブギウギの名曲をピアノ用にアレンジした譜面集や、歌って踊る人気コメディ・コンビ、”スタンプ&スタンピー”の持ち歌、果てはCMソングまで、驚くほど広範囲の作曲を手がける本物の職人でした。

<Goodmorning Heartache>

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51ALLDF25jL._SL500_AA280_.jpg ヒギンボサム名義の作品を探してみるとあるもので、古くはコールマン・ホーキンスが若いころ共演していたブルース歌手、マミー・スミスの”No Good Man”や、寺井尚之が大好きなナット・キング・コールの”This Will Make You Laugh”など、やっぱりいい歌が揃っています。 名曲”グッドモーニング・ハートエイク”は、”Perdido”や”Tico Tico”などのいわゆる「後付け」の作詞によってヒギンボサムと比較にならない名声を得たアーウィン・ドレイクとの共作。この二人と並んで作者としてクレジットされているダン・フィッシャーは音楽出版会社のプロデューサーですから名目上の作者だと思われます。

 今年95才になる作詞家ドレイク自身は、ちょうど失恋の矢先だった。結婚を決めていた美しいコーラス・ガールの恋人が彼を捨て、お金のある実業家の元に去ってしまった。絶望で眠れない夜が続いているとき、ヒギンボサムの曲が心に響き、自分の心を投影したのだといいます。「女の歌」にしか聞こえない歌詞は、男の心情だったんですねえ。

 出来上がった曲をビリー・ホリディに売り込んだのがダン・フィッシャー、ホリディはたいそうのこ歌が気に入って、「ぜひストリングスを入れて歌いたい!」と言った。 そしてこの歌が、彼女にとってストリングスとの初共演になりました。レコーディングは作詞家のドレイクがスタジオ入りして、ホリディの傍らで立ち会った。あのデッカ盤はワン・テイクのみで録音完了、さらに1956年、トニー・スコットOrch.と最録音、ホリディの歌唱は一層円熟していた・・・

 

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 余談ですが、フランソワーズ・サガンの「悲しみよ、こんにちは」ってご存じですか?最近、オットー・プレミンジャー監督映画をまたまた観たのですが、ショートヘアにマリンルック、シックなドレス・・・、’50年代の映画なのにソール・バスのタイトル・デザイン(右)が象徴するように、不滅なおしゃれ感覚で目が離せませんでした。

 原題は”Bonjour Tristesse”、英語にすると、”Goodmorning Heartache”、ビリー・ホリディを愛したフランス文学ですから、何か関係があるのかな・・・とずっと疑問に思っていたのですが、このフランス語原題の元は、同じフランスの大詩人で、プーランクの歌曲の作詞も沢山手がけたポール・エリュアールの「直接の生」という詩の一節から取ったものだった。

 この詩は1938年に作られていて、「悲しみよ、さようなら、悲しみよ、こんにちは・・・」が冒頭のことばですから、ひょっとすると、ドレイクもサガン同様、言葉のトップ・アーティストだったエリュアールのポエムをヒントにしたのかも知れない。

 ホリディの”Goodmorning Heartache”は発売当初、ラジオのヒットチャートの上位にランキングされることはなく、1970年代にダイアナ・ロスが「ビリー・ホリディ物語」に主演してカバーしたレコードは、その何倍ものセールスを記録した。大ベストセラー、サガンの「悲しみよ、こんにちは」の印税は日本円にして340億円だったそうですが、私には関係ない。


<グッド・モーニング・ハートエイク>

おはよう、悲しみさん、
いつも鬱っとうしい様子だね。
おはよう、悲しみさん、
昨日の夜、さよならしたはず。
あんたの気配がなくなるまで
寝返りばかり打っていた。
それなのにまた
夜明けと共に戻ってきたのね。

忘れたいのに、
あんたはどっかり居座ってる。
最初に会ったのは
恋に破れた時だったっけ。
今じゃ毎日、
あんたへの挨拶で
一日が始まる
悲しみさん、おはよう、
調子はどう?・・・(後略)

原歌詞はこちら。

ビリー・ホリディを彩る二人のアイリーン(1):Irene Kitchings

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左からドロシー・ドネガン(p)、ビリー・ホリディ、アイリーン・キッチングス、ケニー・クラーク(ds)

 ずいぶん昔、故ミムラさんに頂いたビリー・ホリディの伝記で初めて見たアイリーン・キッチングス(右から2人目)の写真、ハーレムのジェーン・バーキンみたいにシックな人!キッチングスは”Some Other Springs”や”Ghost Of Yesterday”といったホリディのヒット曲の作曲だけでなく、ホリデイのブレーンとして、姉貴分として、彼女の歌に大きな影響を与えた。彼女の写真は後にも先にもこれ一枚しか観たことない。今日改めてキッチングスの画像検索してみたら、かの女だけトリミングした私のブログ画像が海外のサイトに拡散していてネットの威力にびっくり!

 アイリーン・キッチングスは3回の結婚歴を持ちアームストロング→イーディ→ウィルソン→キッチングスと姓が変わった。ホリディの十八番、”Good Morning Heartache”を書いたもう一人のアイリーン(ヒギンボサム:”Irene Higginbotham)と長い間混同されていた。OverSeasのビリー・ホリディ解説本初版の記述が誤っているのはそのためです。申し訳ありません。
 二人のアイリーンは、どちらもビリー・ホリディの芸術に輝きを与えた。まずはアイリーン・キッチングスのことを書いてみます。

Jumpin_TeddyBillieHoliday.jpg アイリーン・キッチングスは1908年(明治40年)、オハイオ生まれ、若くしてプロのピアニストとなり、やがて禁酒法時代のシカゴで男達を率いる美人バンドリーダーとして大活躍した。マフィア王国シカゴ・ジャズ界のアイドルだ!彼女の最大のサポーターはアル・カポネ。その地で結婚したが、4才年下のピアニストの才能に惚れ込み一人前に育て上げ、挙句に深い仲になった。そのピアニストこそフラナガンが大好きなテディ・ウイルソン!やがて二人は結婚、アイリーンは山口百恵さんのようにスターの座を捨て、夫に付いてNYへ。一説にはウィルソンの母親が引退をごり押ししたとも言われています。

  

 

 

 

 

<女が惚れる女>

Jumpin_HamptonGoodmanWilson.jpg NYでテディ・ウイルソンのプレイに香る品格を気に入ったのが大プロデューサー、ジョン・ハモンド、春に来日するボブ・ディランをスターにしたのもこの人です。おかげでウィルソンには大きな仕事が沢山回ってきた。中でもベニー・グッドマン楽団への参加によって彼の名声は世界的になります。さらにハモンドが育てる大型新人ビリー・ホリディの音楽監督となり、かの有名な一連のブランズウィック盤を次々に吹き込んだ。レコーディング準備のため、レディ・ディ(ビリー・ホリディのニックネーム)は、ウイルソンのアパートに通い歌の稽古を付けてもらってた。ウィルソン宅でお世話になったのが奥さんのアイリーンです。20歳になるかならないスター予備軍とはいうものの、ホリディは元娼婦、譜面どころか読み書きだってロクにできないおねえちゃん、普通の奥さん連中には距離を置かれる存在だ。でもアイリーンは違ってた。だってシカゴでピストル振り回す荒くれ男たち相手に、音楽で一枚看板張ってた姐さんだもの、そこらの素人さんじゃない。彼女はホリディの歌手としての資質を正しく評価して、率直に接した。ホリディはアイリーンを姉のように慕い、歌詞の読み方や発音でわからないところがあったら、まっさきに頼った。アイリーンはホリディのレコーディングに立ち会い、次の録音のため「新しいネタ」を探しに二人で夜の街を徘徊する仲になります。ホリディが垢抜けたのは、恋のせいだけじゃない、アイリーンのおかげでもあった。  一方、テディ・ウイルソンはベニー・グッドマン楽団で大ブレイク。ところが彼を支えた妻に夫の感謝はなかった。人生って皮肉だな・・・ウィルソンはアイリーンを捨て、若い愛人と駆け落ちしてしまいます。アイリーンとも親しかった総司令官ハモンドは激怒、罰としてテディは仕事を干され、グッドマン楽団のレギュラー・ピアニストはジェス・ステイシーと入れ替わった。さらに皮肉なのは、ハモンドの制裁のおかげでテディがアイリーンの生活費を負担できなくなったこと。精神的にも経済的にも窮地に陥った彼女を助けたのは、ザ・キング=ベニー・カーターの一言だった。

 「昔から君のハーモニーのセンスは飛び抜けていた。ピアノも勿論うまいが、いっそ作曲の仕事をしてみたらどうだい?」

 「じゃあ私の歌を書いてよ!」とビリー・ホリディがと紹介してくれたのが作詞家アーサー・ヘルツォークJr. 二人の相性は抜群だった。”Ghost of Yesterday”(過ぎし日の亡霊)は惨めな女の未練を、”I’m Pulling Through(立ち直れて)”は、最悪の時期に手を差し伸べてくれた人への感謝を歌いヒットした。最もヒットしたのが、ボロボロになった自分の中にほんのわずかに芽吹く再生への希望を歌う”Some Other Spring (いつか来る春)”。アイリーンは惨めな自分の姿を曲の中にさらけ出すことによって、新しい人生を生きることができた。こういうのを「カタルシス」って言うんですね。  ホリディにとって最も親しい女性であったアイリーンの波乱に満ちた生き様を傍らで見つめることで、自分が歌う女性像に劇的な深みが加わったのではないかと私は思います。”God Bless the Child”や”Don’t Explain”・・・一本の映画を見る以上にドラマのある数々の十八番はアイリーンとのコラボ以降に生まれている。上質のワインのように熟していくビリー・ホリディの「女」のドラマは『Lady in Satin』で結実するんだ…

 

<アイリーンの春>

 アイリーンがジャズ界に遺した功績がもうひとつある。それは、ビリー・ホリディにカーメン・マクレエを引きあわせたこと。当時OLをしながら弾き語りをしていたマクレエの素質を見出したアイリーンが、譜面の読めないホリディに新曲を歌って聴かせる仕事をさせたのです。自分が歌った「素」を天才がどのようなプロセスで再構築するのかをマクレエは目の当たりにした。それがどれほど貴重な勉強になるのか?マクレエはホリディを死ぬほど敬愛して大歌手になれたんです。

 

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 数年後、アイリーンは病に倒れ静養のためNYを去りクリーブランドの親戚の家に身を寄せた。彼女の作曲期間は僅か数年間でしたが、静養先で青少年保護委員を務めるカタギの男性エルデン・キッチングスと出会い一生添い遂げました。

  <Some Other Spring>

  Irene Kitchings 曲/ Arthur Herzog Jr.

いつの日か春に

もう一度恋しよう。

 今は朽ち行く花を

 嘆くだけでも・・・

 

 
アイリーンの「春」 は本当にやって来た。

対訳ノート(42) Blues for Dracula

先週の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」、チャラ男系の巨匠ドラマー、フィリー・ジョー・ジョーンズの『Blues for Dracula』(Riverside)で、大いに楽しみました。フィリー・ジョー自らブラッシュでパタパタパタとコウモリの羽音でイントロを奏でてから繰り出すドラキュラ伯爵のモノローグ。
 
 ジョニー・グリフィン(ts)、ナット・アダレイ(cor)、ジュリアン・プリースター(tb)、ジミー・ギャリソン(b)、トミー・フラナガン(p)という申し分のないフィリー・ジョーのセクステット(訳詞にある「夜の子どもたち」)が奏でるこのブルーズはグリフィン作、本録音の4ヶ月前には”Purple Shades“というタイトルで、『Art Blakey’s Jazz Messengers and Thelonious Monk』(Atlantic ’58)に収録されています。
 足跡講座では、まず構成表でプレイの組み立てを頭に入れておいて、レコードを聴きながら、下の対訳表をモノローグに沿って映写しました。
 お時間があれば、下の音源と対訳表で、OverSeasの足跡講座の気分を、私と一緒に味わってみませんか?

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  フィリー・ジョー・ジョーンズはこのレコーディング以前、2年間”Prestige”でハウス・ドラマーのような役割をしていました。オーナーのボブ・ワインストックに、「もういい加減自分のリーダー・アルバムを作ってくれ」と掛け合ったが、ワインストックは首を縦に振らなかった。「そんなら、うちで演らないか?」と声をかけたのが”Riverside”のオリン・キープニュース、初リーダー作録音の休憩中に、ふざけてやってたチャラ男のドラキュラ・ネタがあまりにも面白かったので、ブルーズに乗せて録音、『Blues for Dracula』がそのままアルバム・タイトルになったと言われています。
 でも、このモノローグはとてもその場でやったとは思えないほど、しっかりした作りになっている。『ビバップ・ヴァンパイア』や『夜の子供たち』は、ヘロインの禁断症状に悩むバッパーだとすぐにわかるけど、そんなジャズメンを脅して生き血を吸うクラブ・オーナーこそが、「ほんとはコワいんだぞお~」というオチが最高です。
 
view_from_within_the.jpg ”Riverside”のプロデューサー、オリン・キープニュースはフィリー・ジョーや、このモノローグの本家、レニー・ブルースとベラ・ルゴシのドラキュラについて、面白いことを書いていました。 
 「レニー・ブルースのスタンダップ・コメディが、とりわけジャズ・メンに愛されたのは、彼らを取り巻く環境がよく似ていたからだ。5時に終わる仕事なら、それからカクテルでもすすりながらほっと一息つく場所はどこにでもある。だが、午前2時や4時に仕事が終わる人間にとって、仕事帰りにくつろげる場所は非常に限定されてしまうんだ。
 彼らはオールナイトの映画館で朝まで過ごし、TVの深夜映画を観て、否が応でもB級映画に詳しくなってしまった。ベラ・ルゴシへの愛と理解は、正にレニーとフィリー・ジョーが共有するものだった。」
(”The View from Within:Jazz Writings 1948-1987″ Orrin Keepnews著/ Oxford University Press刊)

ニュー・イヤー講座、フィリー・ジョー・ジョーンズ:対訳覚書

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Philly Joe Jones (1923-85)

 
 新年明けましておめでとうございます。暦の関係で、何年ぶりかの正月休みでした。ただし、夜なべに講座用の対訳を作りながら・・・それも、スタンダード・ソングではなく、ハチャメチャに早口な約10コーラスのヴォーカリーズや、フィリー・ジョー・ジョーンズの”吸血鬼ブルーズ”のモノローグ・・・前回の講座で使った資料は、プロジェクターの仕様が替わったのを機に、一から洗い直しです。

 新年講座の番外編として、カウント・ベイシー楽団、ジョー・ウィリアムズが、”Lambert Hendrick and Ross”とコラボした一大傑作、『Sing Along with Basie』の代表的な2トラック・・・どれも歌詞が多すぎて、OHPを閲覧した後は忘れ去られる虚しい内職と、指揮官を恨んだものの、結構奥が深くて、やっぱり対訳は楽しいです!
 

 昔、トミー・フラナガン、モンティ・アレキサンダーの2大ピアニストと御飯を食べている時、楽器別ミュージシャンに共通する性格の談義になり、「一番のチャラ男はドラマーだ。」という結論になった。フラナガンがジェスチャー付きで言うには、ドラマーというものは、バンドスタンドで叩きながら、「可愛い女の子がいないか、会場内をくまなくスキャンしている。」らしい… 

 チャラ男なら、私が一番最初に思い浮かべる巨匠こそフィリー・ジョー・ジョーンズ!
 本名、ジョセフ・ルドルフ・ジョーンズ: 地元では普通にジョー・ジョーンズであった彼に、「そのままでは、本家の(パパ)ジョー・ジョーンズに仁義が悪い」と、出身地フィラデルフィア(フィリー)の冠を付けてくれたのは他ならぬタッド・ダメロンだった。
 

 コージー・コール直伝の正統派テクニックと、軍警察やトロリーバスのカタギ社会、ドラッグ密売の闇社会で培ったヤクザなストリート系の魅力を併せ持つミュージシャン!昔OverSeasの調理場にいた海千山千の凄腕バーテンダーを思い出します。

 フリー・ジャズ全盛の70年代、フィリー・ジョーは、「楽器ケースを持ち歩くだけの連中や、ノイズは音楽とちゃう!まともなことやって売れんのんかい!」と、アヴァン・ギャルドの看板を掲げるミュージシャンをバッサリ斬り捨てた。
 

lenny_bruce__the_jazz_stars.jpg  そのフィリー・ジョーが愛したのが「お笑い」、中でも人種的なギャグや下ネタで、警察から睨まれたユダヤ系のスタンダップ・コメディアン(日本なら漫談家orピン芸人)、レニー・ブルースが一番のご贔屓!

 二人はドラッグという共通の楽しみもあり、大親友でした。
 スタンダップ・コメディというのは、座布団なしの落語、いわゆる漫談、ヴィレッジ・ヴァンガードのようなジャズクラブでも’50年代にはジャズ・バンドと演芸の二枚看板でライブがあったんです。レニー・ブルースの得意ネタが、ドラキュラ役者 ベラ・ルゴシの物真似、彼にかかると、ドラキュラの嫁さんは口うるさいユダヤ系の女性で、ドラキュラ伯爵が、東欧訛りで一言文句を言おうものなら、10倍返しで突っ込まれる。街に出れば、バーで酔っぱらいと喧嘩したり、ドラキュラ伯爵は、東欧訛で血を吸うこと以外は、どこにでもいる一市民、「訛りすぎるベラちゃんです。」って感じ。

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 ハードバップにそのまんま話芸を乗っけたのが、フラナガンも参加するハードバップの名盤のタイトル曲、”Blues for Dracula”、当初、レニー・ブルース本人がトークの部分をやる企画もあったそうですが、色々あってフィリー・ジョー本人がベラ・ルゴシのドラキュラ伯爵に扮して、一席やってます。これが凄い、真打ち級の話芸が堪能できます。

 なにしろバッパー、噺の内容も物まねではなくジャズ仕様、話し振りもスイングしています。  belle-dee-dracula.jpg 

 お話は 嫁も子供も居るドラキュラ伯爵の家に、ジャズ・バンドが余興に呼ばれ、そこでブルースを演奏するというもの。
 

 訛りすぎのドラキュラ伯爵は、ジャンキーのバッパーように禁断症状に苦しんだり、ジャズ評論家の真似をしたり、ドケチのクラブ・オーナーになったりする。ジャズメンの自虐と、ジャズ界への痛烈な皮肉が共存してて、最高です。

 今回は、ワイドサイズになった対訳の映写で、「語り」の楽しさがさらにお伝えできればいいのですが・・・

 

 フィリー・ジョーの生き様や音楽については、またじっくり調べて書きたいと思いますが、このエントリーの結びとして、心臓発作と報じられたフィリー・ジョーの死の真相について、大阪の巨匠ベーシスト、西山満さんが親交厚いNYのジャズ・ミュージシャンたちから口伝えに伝わったお話を書いておきます。

 フィリーは60年代、一時英国に住んでいたことがあります。亡くなる前、わざわざイギリスから一人の弁護士が彼の元に訪ねてきました。フィリーの大ファンであり、友人でもあった英国貴族が亡くなり、遺書にフィリー・ジョーに多額の遺産を遺すと記されており、その遺産譲渡の法的手続きのためでした。降って沸いた大金!フィリー・ジョーは高級車やデザイナー・ブランドのスーツを買い込んだ!マイケル・ジャクソンも顔負けの伊達男、滅多に味わえない極上のコカインをどっさり手に入れた。それを一気に服用してオーヴァードーズ、心臓麻痺を起こして天に召されたというのです。西山さんは言った。「幸せな奴や。大往生や・・・」

 このお話の裏づけはまだ取れていないのですが、いかにもフィリー・ジョーらしい最期!ビバップ・ヴァンパイアはまた甦る!

と、いうわけで続きは講座で! CU