対訳ノート(39) Old Devil Moon

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石川賢治氏撮影写真集「京都月光浴」より:銀閣寺にて石川賢治「月光浴」HPより転載しました。

 中秋の名月です!上の写真は「月光写真」の第一人者、石川賢治氏が撮影した京都、銀閣寺の月。美しいですね!(写真集「京都月光浴」より)   9月はOverSeasでも、「月」に因んだたくさんの名曲を寺井尚之(p)がお聴かせします。28日(土)のメインステム・トリオ(piano 寺井尚之、bass 宮本在浩、drums 菅一平)のライブ、きっと素晴らしい「月光浴」ができそうです!今日は、メインステムが演奏を予定しているジャズ・スタンダード、”Old Devil Moon”のお話を!

 <フィニアンの虹>

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 バートン・レイン作曲、E.Y.ハーバーグ作詞、この作品は、1947年から725回というロングラン記録を打ち立てたブロードウェイ・ミュージカル、『フィニアンの虹』の中のラブ・ソング。OverSeasにとっては、名盤、『Dial J.J.5』(J.J.ジョンソン5)のヴァージョンが決定版。

 ABC1, ABC2 48小節と変わった構成で、ブロードウェイの曲なのに、Verseもないユニークな曲。J.J.ジョンソンはラテンと4ビートを絶妙に組み合わせて、アウト・コーラスはCから始まる意表をついた演奏構成!これが、歌詞と曲想にぴったり!

 フランシス・フォード・コッポラの初期督作品『フィニアンの虹』の”Old Devil Moon”は夜空とボサノバのラブ・シーンですが、それよりずっと歌詞にぴったり来る感じがします。

 『フィニアンの虹』は古典的ミュージカルの名作だから、映画をご覧になった方も多いと思います。百万長者を目指し、金の壺をかかえてアイルランドからアメリカの小さな村にやってきた変なオジサン(フレッド・アステア)と美しい娘(ペトゥラ・クラーク)を中心に、壺の妖精の魔法が、村にドタバタ騒ぎを引き起こす。結局、人間の幸せってお金じゃないんだ、愛なんだ!というファンタジー系のお話、でもそのウラには拝金主義や、人種差別に対する強烈な風刺のあり、脚本には作詞のE.Y.ハーバーグが関わっていました。

 <E.Y.Harburg ファンタジーと反骨精神>

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E.Y.Harburg(1896-1981)

 エドガー・イップ・ハーバーグは開拓時代の移民の町、ロウワー・イーストサイド育ちのNYっ子。子供の頃は、夕方に街灯を点灯して回るアルバイトで小遣いを稼ぎ、シティ・カレッジ時代ではアイラ・ガーシュインと同級生でした。ジャーナリストとして活動したり、電気器具の会社を設立してみたり、色々やって、作詞家になったのは30代の後半です。

 作詞家としての最初のブレイクは1939年、ハロルド・アーレンと組んで音楽を担当した『オズの魔法使い』で”Over the Rainbow”はアメリカ準国歌と言えるほどの「みんなの歌」になりました。

 『フィニアンの虹』も『オズの魔法使い』も、子供から大人まで楽しめるファンタジーですが、どちらも、社会に対する強烈な風刺と皮肉を感じます。

 

<オールド・デヴィル・ムーンって何?>

 この”Old Devil Moon”という言葉、とてもひとことの日本語にはしにくいです。私の翻訳パートナー、ジョーイさんに伺ったらこんなアドバイスをいただきました。

「例えば“harvest moon”(中秋の名月)の夜は、魔法のようにロマンチックなムードになるでしょう。この歌の場合、主人公の女性の瞳の中に輝くロマンチックな月が、相手の男性に魔法をかけて虜にする。基本的に「月」というものは良い意味で恋の悪魔のような役割をするんです。」

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 なるほど、Max Wilk著 “They’re Playing Our Song”というインタビュー集にはこんな逸話がありました。

 E.Y..ハーバーグが『フィニアンの虹』に取り組んでいるとき、「オズの魔法使い」で一緒に仕事をした友人の作曲家ハロルド・アーレンが家に遊びに来た。イップがバートン・レインと一緒に取り組んでいる「フィニアンの虹」の楽譜を弾いて聴かせると、或る曲についてアーレンが、「これはイマイチだ」とダメを出した。それで、「じゃあこんなのは?」 と、バートン・レインに、彼がいじくっている曲を弾いてもらった。これが”Old Devil Moon”の原型だ。

 他の映画のために、別の歌詞を付けたんだが結局オクラになったものだった。するとアーレンはこの曲を絶賛してくれて、ハーバーグはこれまでの歌詞をボツにして新しいアイデアを探した。

「魔法っぽい感じの歌詞がいい、何となく気味が悪くて、ヴードゥー魔術を暗示するような詞にしよう!」そうして出来たのが”Old Devil Moon”。通常の32小節パターンと違う変わった構成でヴァースもない。でもこの曲は大ヒットした。オリジナルであること。それが名曲の秘密だ。

 

<オールド・デヴィル・ムーン>原歌詞はこんな感じE.Y.Hurburg / Barton Lane

わたしが…

あなたを一目見た途端、

その瞳の奥の何かの、

虜になった。

それは魔法のお月様

あなたが空から盗んできて、

瞳の中にキラキラさせてる

魔法の月。

あなたは、輝く月をチラリとさせて、

私の恋を熱くする。

夜空の星は

ピカピカ光を放つけど

あなたの魅力には

これぽっちも及ばない。

あなたは

魔法の絨毯に私を乗せて

恋の冒険に誘う、

私の心はドッキドキ!

泣きたいよ!歌いたいよ!

バカみたいにヘラヘラ笑いたい!

これはきっと

瞳の月の魔法のせいだ。

私の心が鳩のように

自由、

あなたの瞳の奥に輝く

魔法の月が

恋で私を

盲目にしたから。

 

  ハーバーグがファンタジー系の歌曲を得意としていたのは、現実のアメリカ社会にある格差や人種差別など、資本主義が生む不正に強く憤懣を思えていたからかも。

 1950年には社会主義者としてブラックリストに載せられ、電話だって盗聴されていたかも知れないけれど、うまく世渡りをして、ギリギリの「風刺」で社会の世相を判し続けました。 
 「私がグっと来るのは、本当に危険で根深い問題を、笑いによって突き崩すことが出来た時なんだ。」:E.Y.ハーバーグ。
  泣いて、歌って、笑いたい!今月今夜の中秋の名月を観て、OverSeasで聴きに来てくださいね!
オールド・デヴィル・ムーンを!
CU

対訳ノート(38) 「夫婦善哉」の味 She (He)’s Funny That Way

残暑お見舞い!

 ここ最近、パノニカ男爵夫人やドリス・デュークといったリッチ・ガールズの話題が続きました。今日は、今回は身の丈に合ったテーマ、貧乏っぽくてやるせない歌の話を。

 

 もうすぐTVドラマで始まるのがうれしい、上方を代表する文学者、織田作之助原作「夫婦善哉」の主人公、柳吉のテーマソングみたいな歌。

<ビター・スイートなラブ・ソング>

 ”She’s Funny That Way”という味わい深い古い歌曲(1928)を御存知ですか?大恐慌勃発の年(1929)に、ジーン・オースティンという歌手で大ヒット、エロール・ガーナー(p)、コールマン・ホーキンス(ts)など多くのジャズ・ミュージシャンが取り上げました。が、なんといってもビリー・ホリディの十八番として有名な歌。ホリディは1937年、レスター・ヤングを擁するOrch.とVocalionに初録音して以来、度々歌詞を変更しながら何度もレコーディングしています。

 ビリー・ホリディの忠実なフォロワーといえるアート・ファーマー(flh)が1979年にトミー・フラナガン3と来日公演したときに大阪サンケイ・ホールで演奏していたのを思い出します。もちろん、ビリー・ホリディが歌うときは、”He’s Funny That Way”となり、歌詞もそれなりに変わります。オースティンのノスタルジックなヴァージョンはここに。

 

 この歌は風変わりなラブ・ソングで、実らぬ恋のトーチ・ソングでも、燃えるような情熱の歌でもない。この”That Way”は「そんな風に」と「大好きで」のダブル・ミーニング、力づくで日本語にすると「おかしなほど私に惚れている」という感じ。自慢話のようなのですが、歌が進むに連れ、だんだん哀しく切なくなってくる。

 自分は愛される値打ちのない人間、相手がダメになっていくのは、”私”が足を引っ張っているせいなんだ。だけどもう身を引くことなんて出来るもんか!歌の主人公は、まるで”Sex and the City”で流行語になった”フレネミー”(friend +enemy)だ。でもこの歌はTVドラマより、ずっとずっと甘くて苦い。その稀有な味わいゆえに、映画の挿入歌として効果的に使われています。例えば、ウディ・アレンの『地球は女で回ってる』とか、エド・ハリスが精神を病んでいくアーティスト、ジャクソン・ポロックを演じた『ポロック 2人だけのアトリエ』とか・・・・

<唯一の作詞に隠された愛の物語>

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 作詞 リチャード・ホワイティング(1891 – 1938)、作曲 ニール・モレット(1878 – 1943)、作詞のホワイティングは作曲家として”Too Marvelous for Words”や”Miss Brown to You”などのヒット曲を作った。ヴォーカル通ならマーガレット・ホワイティングの父としてお馴染みかもしれません。かれが生涯で作詞したのはこの一曲だけ!こんなに味わい深い歌詞が書けるのなら、もっと書けばよかったのにと思ったら、それには理由があったんです。

 マーガレット・ホワイティングが父の書いた歌詞について面白い逸話を語ってる。(”They’re Playing Our Song” Max Wilk著) 
 イリノイ州出身のホワイティングは元々デトロイトを拠点に充実した作曲活動をしていた。ところが彼の所属する音楽出版社から、ハリウッドで映画音楽の仕事をするよう要請されます。仕事も順調で、住み慣れたデトロイトから遠く離れた西海岸に移るのは外国に挑戦しに行くようなもの。当たらなければお終いだ。きっと妻のエレノアは反対するだろうな・・・そこでホワイティングは、この歌詞に、「着いてきて!」という願いを込めた。だから、三コーラス目の歌詞にこんな言葉がある。 

“僕は凡人、せいぜい臆病者がいいところ、
だけど僕が西部に行くなら
きっと彼女は着いてくる”

Margaret+Whiting+59308898.jpg 聡明な娘、マーガレットは本の中でこう語ってる。
「父は、母が西海岸に着いてこないと、本気で心配をしていたわけではなかったでしょう。ただ、父は母のことをとても愛していたんだと思います。その気持が、父に唯一の歌詞を書かせた理由です。」 

 

 


SHE’S FUNNY THAT WAY
(I GOT A WOMAN, CRAZY FOR ME)

原歌詞はこちら(Verseなし)

作詞:Richard A.Whiting / 作曲: Neil Moret

<Verse>

昔はたいそうめかし込み、
ロールスロイスまで持っていた。

それが今じゃ落ちぶれて

堕ちる風情は流れ星。

いったなんで惚れてくれたのか?

じっくり考えてみなくては。

 

<Chorus①>

見栄えも悪く、深みもない

生きてるだけがとりえの男、

なのに幸運なのは、

恋人がいる、

おまけに私に夢中、

それがあの女のおかしなところ。

1セントの貯金もできぬ、

価値の無い男、それが私、

でも、彼女は嘆きもせず

テント暮らしも厭わない。

この女、
私に首ったけ、
そんなおかしな女。

彼女は私の為に、
毎日進んで働く。
もし私が身を引けば
ずっとましな暮らしができるだろうに。

だけどわざわざ自分から、
何でこの身を引かねばならぬ?

きっと私がいなければ、

不幸せになるにきまってる。

私の女、 私に夢中、
そんなおかしな女。

(②中略)

<Chorus③>

財産もなく、身内もない、

私にしては身に余る、

私の彼女、私に夢中、

それほど変な女、

 

ときおり彼女の心を傷つける、

それでも笑顔で答える女、

私の彼女、私に夢中、

それほど変な女。

 

思うに最善の方法は

別れて自由にしてやって、

ましな男に添わせること、

だけど私は凡人、

いいとこ ただの臆病者、

これだけは言える、

私が西に行くならば

彼女は私についてくる!

私の彼女、私に夢中、

それほど変な女。

 

<夫婦愛から曽根崎心中まで>

 この作詞が功を奏したのか、翌1929年、一家はロスアンジェルスに移住し、alecwildermages.jpeg映画界で成功した。ホワイティング家には、音楽サロンとして、アート・テイタム始めさまざまなミュージシャンが出入りしました。美しき哉、夫婦善哉!

 でも、ビリー・ホリディの歌唱を聴くと、そんなアット・ホームな歌の世界をはるかに超越してしまってる。ホリディが歌うのは、「夫婦善哉」どころじゃない!同じ上方ものでも、近松門左衛門の曽根崎心中だ!レディ・ディって和事だなあ!その「解釈」の力、卓抜な演出力に感服です。

 ポピュラー・ソングを隅々までメティキュラスな批評してみせたうるさ型系音楽家アレック・ワイルダーでさえ、歌詞を絶賛し、サビへの移り変わりを「革新的」とまで評しています。

 “He(She)’s Funny That Way”、あなたは近松派?それとも夫婦愛系ヒューマン派?どちらがお好きですか?

対訳ノート(37) Violets for Your Furs

  イルミネーションが灯る師走の大阪です。皆さまいかがお過ごしですか? 今日は、OverSeasで聴いていただきたい12月の曲“コートにスミレを”の歌詞について書こうと思います。

<魔法のラブソング>

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  ”コートにスミレを”曲は、弾き語りの名手マット・デニス作曲、トム・アデール作詞、歌詞は極めてシンプルで“ぼく”から”きみ”に、歌手が女性なら“わたし”から”あなた”への独白形式。

  “雪のマンハッタン、”ぼく”は街頭の花屋でスミレを“きみ”に買ってあげた。”きみ”がスミレを毛皮に留めた途端、魔法が起きて、街は春になった。”要するに、たったこれだけの話。…でもその歌詞は、冒頭8小節目の”Remember? (覚えてる?)”の一語以外、全てが過去形。(”Remember? “は、Did you remember? なのかDo You…?なのか不明)英語の時制の意識は、日本語より随分はっきりしているので、これが歌詞のキーポイントになっている。

 その12月の魔法が起こった「過去」が具体的に去年なのか、それとも何年も前のことなのか? 二人はそれからどうなったのか?そのヒントは歌詞にはありません。だから、シナリオは歌い手次第なんです。

  クリスマス・ツリーが煌めき、子供たちがはしゃぐ暖かな家庭で夫が妻に語るマット・デニスの名唱にも、思い出の美しさが人生の哀切を照らし出すビリー・ホリディの圧倒的な表現の素材ともなるんです。世の中にラブ・ソングは星の数ほどあるけれど、「歌詞解釈」に、これほどの幅を持たせる歌も珍しい。そして暗い冬空が青空に一変するディズニー映画のような「魔法」のシーンも聴きどころであり、見せ所です。

<作詞家、放送作家 トム・アデール(1913-1988)>

TomAdair.jpg デニス―アデールのコンビが創作活動をしたのは、デニスが陸軍航空隊に出征するまでの僅か2年間、”Everything Happens to Me””Will You Still Be Mine?””The Night We Called It a Day”といったフランク・シナトラの名演目を沢山作りました。ほとんどが大ヒットとなり、多くはジャズ・スタンダードとして今も演奏されています。

  冬のNYの情景がロマンチックに描かれた歌、作詞のアデールはカンザス州の洋服屋の息子で西海岸LA育ち。電力会社で苦情処理係として8年間働きながら詩を書いていた。ハリウッドのクラブでアデールと出会ったデニスは、その才能に仰天し共作を開始、作品を見た歌手ジョー・スタッフォードがトミー・ドーシーに強く推薦して楽団の専属スタッフになりました。二人の作品は、そのタイトルからも判るように、ギラギラと濃くなくて、しみじみとした作風、ウィットが効いて洒落ている。日本の中村八大、英六輔のコンビを連想します。

 

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  デニス以外の作曲家との仕事で、最も有名なアデール作品は、トミー・フラナガンが『Moodsville 9』に収録している”In the Blue of the Evening”ですが、1944年以降は主にラジオやTVの連続ドラマの放送作家として大活躍、そして、’50年代からは、この曲で見せた「魔法」があまりに鮮やかだったせいなのか、本物のウォルト・ディズニー・プロダクションの一員となり、ディズニーランドをはじめ、様々なプロジェクトに関わっています。日本で公開されているアデール関連のディズニー作品は、’60年代にプロレス番組と交替で隔週放映されていた『ディズニーランド』や、アニメ作品『眠れる森の美女』、連続活劇『快傑ゾロ』など、世代によっては懐かしい名前のものがあるでしょ!
歌詞のバイブル本『Reading Lyrics』には、「ディズニーがアデールを得たことは、音楽界にとって大きな損失となった。」と結論付けています。
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       <ビリー・ホリディの毛皮に>

billie-holiday-6YT7_o_tn.jpg さて、ビリー・ホリディの名唱が収録されている『Lady in Satin』(’58)は、カーメン・マクレエが「LPがすり減るまで繰り返し聴くのでを、常に予備のレコードを2枚所蔵している」というほどの名盤ですが、”コートにスミレを”が生まれたきっかけも、実はビリー・ホリディ毛皮の姿だったんですって。雪の降る真冬のシカゴ、デニス&アデールが、土地の有名ジャズ・クラブ、”Mister Kelly’s”にビリー・ホリディを聴きに行ったんです。 アデールが自分の恋人のためにスミレの花束を持ってきていて、会場に入って来たホリデイは毛皮のコートを着ていた。そのとき1941年、レディ・デイ芳紀26才、この写真よりもずっと若くて毛皮がさぞ似合っていたのでしょう。
 「今夜は何を唄うんだろう?」あれこれおしゃべりしているうちに、アデールがふと思いついたのが『Violets for Your Furs』というタイトル、歌詞、メロディ、ハーモニーが、Kelly’sのテーブルクロスに殴り書きされて、あっという間に一丁あがり!フランク・シナトラがすぐにレコーディングしたのだそうです。

 歌詞対訳は、マット・デニスの歌うオリジナルなものを掲載しておきます。ビリー・ホリディの詳しい歌詞解釈は、寺井尚之ジャズピアノ教室の解説本をご参照ください。

Violets for Your Furs コートにスミレを>

 Lyrics by Tom Adair / Music by Matt Dennis 原詞はこちら

<ヴァース>

それは雪の舞い散る真冬のマンハッタン、
街路も凍てついていたっけ。
でも、いつか聞いたことのある、ちょっとした魔法で
一瞬のうちに天気が変わったんだ…

<コーラス>

 
君の毛皮に、スミレの花を買った。
そうすると、しばらく真冬が春になった、
覚えているかい?
君の毛皮に、スミレの花を買ってあげた。
すると12月がしばらく4月になった!

花束に吹き積もった雪は溶け、
夏の陽射しにきらめく花の露に見えた。

君の毛皮に、スミレの花を買った。
すると灰色の雪空が青くなった!
君はスミレを得意そうに毛皮に留めると、
道行く人も楽しそうだったね。

あのとき僕に微笑みかけた君はほんとに可愛いくて、
その時、思ったんだ。
僕達は完璧に恋に陥ちたんだなって。
君のコ-トにスミレを贈ったあの日に。 

 12月の名曲、<Violets for Your Furs>は、12月22日(土)、寺井尚之The Mainstemで!

ぜひ聴いてみてくださいね!

対訳ノート(36)Autumn in New York 「NYの秋」

autumnny4047517899_6b2c555a90.jpg  秋深し!急に寒くなって風邪などお召しになっていませんか?ジャズ講座新開講で、ミシガン州を始めとする米国のブラック・コミュニティに、どっぷり浸っていました。Interludeは気分を変えて、27日(土)に寺井尚之The Mainstem(宮本在浩 bass 菅一平 drums)が演奏を予定している”旬”なバラ―ド、”Autumn in New York”を。

<ロシア貴族のNY観>

duke3.jpg  そこで生まれて育ったわけでなくたって、大都会NYは傷心のあなたを受け容れてくれる…嫌な街だけどほっとする・・・やっぱり大好き!“Autumn in New York”はコスモポリタンなほろ苦い歌詞と、A-B-A-Cのメロディがドラマチックで胸にしみます。作詞作曲はヴァーノン・デューク(1903 – 1969)。カウント・ベイシー楽団でサド・ジョーンズのオハコだった「パリの四月」やアイラ・ガーシュインと組んだ「言い出しかねて」など、ガーシュインやポーターと一味違って、大人っぽいというのか、洒落たムードが漂っています。

  ヴァーノン・デュークの本名は、ヴラジーミル・アレクサンドロヴィチ・ドゥケーリスキー(Владимир Александрович Дукельский)と超ややこしい…祖母がロシア帝国の王女という貴族の御曹司!キエフ音楽院でクラシックを学び、同級生にヴラジーミル・ホロウィッツがいました。ところが、ロシア革命を逃れ、イスタンブールから合衆国に家族で亡命、ガーシュインの勧めでポピュラー音楽の世界に入ってからはヴァーノン・デュークというペン・ネームでブロードウェイの曲を書き、クラシック界では本名を英語読みにして、ウラディミール・デュケルスキーとして活躍、パリで大ブームを巻き起こしたディアギレフのロシア・バレエ団のために作曲しています。

ellalouis00.jpg 祖国ロシアを追われたデュークは、ロンドン、パリ、NYを股にかけた文字通りの国際人!芸術やファッションの先端を行くセレブと親交を結びました。友達の中には、ピカソやジャン・コクトー、それにココ・シャネル!音楽ではプロコフィエフにクラシックを決して辞めないよう激励されたとか…この曲にも、コスモポリタンならではの、リッチなニューヨーク観が反映されていますよね。

 「NYの秋」は、デュークが、コネチカットで休暇を過ごしていたときに書いた曲といわれています。1934年にブロードウェイで初演されたレビュー”Thumbs Up!”のラスト・チューンになりましたが、時代を先取りし過ぎだったのかも・・・ショウは5か月間続いたというから、まあまあの成績、フランク・シナトラが歌って大ヒットしたのは、13年も後のことでした。

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「NYの秋」、私が一番親しみを感じるのは『Ella and Louis』、そしてディアギレフの天才ダンサー、ニジンスキーにも決して負けない舞踏性と芸術性、どれを取っても最高と思えるのは『Charlie Parker with Strings』、どんな歌手よりも、はっきり歌詞が聞えてきます。

Autumn in New York

written by Vernon Duke

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<Verse>
It’s time to end my lonely holiday
And bid the country a hasty farewell.
So on this gray and melancholy day
I’ll move to a Manhattan hotel.
I’ll dispose of my rose-colored chattels
And prepare for my share of adventures and battles.
Here on the twenty-seventh floor,
Looking down on the city I hate
And adore!
寂しい休暇はもうお終い
この国に急いでお別れを。
曇り空の陰気な日、
マンハッタンのホテルに移る。
バラ色の家財道具は処分して、
冒険の戦場へ!
ここは摩天楼の27階
見下ろす街は大嫌いだけど、
だ・い・す・き!
 <Refrain 1>
Autumn in New York,
Why does it seem so inviting?
Autumn in NewYork,
It spells the thrill of first-nighting.

Glittering crowds and shimmering clouds
In canyons of steel,
They’re making me feel
I’m home.

It’s Autumn in New York
That brings the promise of new love;
Autumn in New York
Is often mingled with pain.

Dreamers with empty hands
may sigh for exotic lands;
It’s Autumn in NewYork,
it’s good to live it again.

NYの秋、
この魅力は何故?
NYの秋、
舞台の初日のときめき。

 ビルの谷底を動く
着飾った人々や、
頭上の光る雲を眺めると、
「ただいま」って気分。

NYの秋は
新しい恋の予感。
NYの秋は
心の痛みが混じる。

実りのない夢想家が
遠い異国に憧れても、
NYの秋は格別、
またここに住むのが嬉しい

<Refrain 2>
Autumn in New York,
The gleaming rooftops at sundown.
Autumn in New York,
It lifts you up when you’re rundown.
Jaded rues and gay divorcees
Who lunch at the Ritz,
Will tell that “it’s
Divine!”

This Autumn in New York
Transforms the slums into Mayfair;
Autumn in New York,
You’ll need no castle in Spain

Lovers that bless the dark
On benches in Central Park
Greet Autumn in New York,
It’s good to live it again.

NYの秋、

夕焼けが屋根を染める、
NYの秋、
くたくたでも元気回復!
リッツホテルでランチを楽しむ人たち、
人生に疲れた人も、陽気なバツイチも、
口をそろえて言うでしょう

 「最高!」

ってね。

今年のNYの秋は
スラム街も、5月の祭りに変身!
NYの秋はロマンティック、
スペインの古城なんて要らない。

恋人達は夕暮れを祝う、

セントラル・パークのベンチで、

NYの秋よ、こんにちは!

また住めて嬉しい!

  デューケリスキーさんのように貴族の末裔でもなく、大阪でドブ板踏んでるだけの私でもOK!NYの秋の香りを満喫させてくれる名歌です。NYの街は、知らない人でも声をかけて来るので大阪と似ています!  ぜひともライブで聴きたいですね。寺井尚之なら、ベニー・カーターの名曲、”オータム・セレナーデ”をヴァースの代わりにするのかも?みなさんも一緒に聴きませんか?

CU

対訳ノート(35) 虹色 Misty

 九州は未曾有の大雨、いつもは穏やかで美しい白川が氾濫、熊本市でトミー・フラナガン特集ライブの快挙を行ったベーシスト、古荘昇龍さんのご近所も水害に見舞われていると伺いました。心よりお見舞い申し上げます。
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 大阪のJazz Club OverSeas、土曜日は「トミー・フラナガンの足跡を辿る」開催!『Ella in Japan』佳境に入ってきました。
 解説用の構成表や対訳もやっと一揃い出来上がって、ほっと一息… 今回作った対訳は全15曲。『パーディド』や『A列車で行こう』など、有名スタンダード曲でも、全く違う歌詞を歌ってから、スキャット(エラは”Bop”と呼びます。)で聴かせたりするので、全て一から聞き取りです。
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 東京オリンピック・イヤー、1964年お正月の来日公演、一番大きな拍手があったのは”ミスティ”でした。”ミスティ”は、OverSeasでもリクエストが多く、プログラムの都合でお応えできない時の為に、寺井尚之とThe Mainstemがダウンロード用CD、『Evergreen 2』に収録しているので、ぜひ一度聴いてみてくださいね!
 皆さんご存知のように、“Misty”は、天才ピアニスト、エロール・ガーナーの1954年の作品。2年後に”ポルカドッツ&ムーンビームズ”や”バット・ビューティフル”などでおなじみの作詞家、ジョニー・バークが歌詞を後付けし、人気歌手ジョニー・マチスのレコードで大ヒット、ジャズの世界ではサラ・ヴォーンの十八番として世界的に有名になりました。”Misty”は、日本語では、よく「霧の中」的に訳されるけれど、「霧」は”Fog”で、”Mist”は「靄(もや」。”Mist”の語感の方が、潤いと透明感があります。米国の国語辞典サイトを読むと「甘美で感傷的な気分に満たされる」という語意があるのが判ります。エイゴはムズカシイ!
 ★左の公演ポスターは、ジャズ評論家で「Ella In Japan」のリリースに尽力された後藤誠氏の提供です。
<飛行機から観た虹の曲>
 ただし、エロール・ガーナー自身は、もっとシンプルな理由から、『Misty』と名付けたのでした。作曲の経緯については諸説あるけど、アーサー・テイラー(ds)のインタビュー集、”Notes and Tones“には、ガーナ―自身の決定的な証言が載ってます。ガーナ―の言う『Misty』は、水滴で潤む飛行機の窓ごしに観た虹のことだったんです。ガーナ―はこんな風に語ってます。
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 「”Misty”は、サンフランシスコーシカゴを飛行中、美しい虹に出会って作った曲なんだ。まだジェット機がない時代で、フライトはデンバー経由だった。デンバー空港に向かって高度を下げて行くと、きれいな虹が出た。それは見事な虹だった。長さは短めく幅広だったので、あらゆる色彩が見えた。飛行機の窓は雨で濡れていたので、虹は潤んで(misty)いた。それで、”Misty”と名付けたのさ。僕は自分の膝をピアノに見立てて、必死で思い浮かんだ曲を弾いていた。目を閉じてハミングしながらね。すると隣に座っていたおばあさんが、てっきり僕の具合が悪くなったと思い込み、客室乗務員を呼んでくれた。シカゴに着くころには、曲は出来上がっていた。うまいことに、目前にレコーディングが控えていたので、そこで録音したんだ。つまり、その飛行機で僕の隣に座っていたおばあさんが、”Misty”の初演を聴いた人なんだ!」
 譜面が読めないことで有名なガーナーですが、作った曲は、写真のような形で脳内に記憶することが出来たのでしょう。
 ジャズの世界では、クインシ―・ジョーンズのアレンジで壮大に歌い上げるサラ・ヴォーンの名唱が有名ですが、『Ella in Japan』のヴァージョンも素晴らしい!
 たたき上げのバンドシンガーであったエラ・フィッツジェラルドは、全然関係のないレパートリーで、何かのトラブルがあったとき、で、この“Misty”の冒頭フレーズを、秘密の暗号コードとして時々使ってました。アドリブで、いろんなフレーズを挿入しすぎて、コーラス中のどこに居るのか判らなくなってしまった時、冒頭のフレーズを歌詞のないメロディ・スキャットで繰り返すんです。“Look at me! look at me!” つまり「私を見て!首振りするから、ちゃんと見て、コーラスの頭に戻ってね!」そうすると、ビシっとうまく収まります。あの有名な『Ella in Berlin』でも聴けますよ。
Misty
Eroll Garner/ Johnny Burk
ねえ、私ったら、
木の上で途方に暮れてる子猫みたい、
雲につかまるように頼りな気。
何が何だかわからない、
うっとり、ぼんやり、
あなたと手をつなぐだけで。
ねえ、私のところに歩いて来て、
すると、沢山のヴァイオリンが音楽を奏でる、
それは、あなたのハローの声かも。
うっとり、恋の気分、
あなたといっしょにいるだけで。
だまされていてもいいの、
あなたになら、だまされたい。
私はおろおろするだけで、
あなたについて行くだけ。
一人では、
この不思議な世界は歩けない。
右も左も、
何がどうだか判らない、
あんまり、うっとり、
恋の気分に浸りすぎ。

 「足跡講座」今回のおすすめ料理は「賀茂なすスペシャル」
 「トミー・フラナガンの足跡を辿る」Ella in Japanは、今週土曜日6:30pm開講!(チャージ 2,625yen) 学割チャージ半額です。
 「足跡講座」 ぜひぜひ Look At Me!

CU

対訳ノート(34) 「追憶」

 金環日食や雷雨もあった奇妙な5月よ、さようなら!
 明日から6月、OverSeasでは、寺井尚之プロ活動40周年を記念して色んなイベントを開催いたします。ぜひこの機会にご来店お待ちしています。
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<1975年 エラ&トミー in Kyoto >
  6月2日(土)は、寺井尚之がプロ入りを決意するきっかけとなったエラ・フィッツジェラルド+トミー・フラナガン3の伝説的コンサートの模様をご一緒に聴きながら、寺井尚之が解説いたします。トミー・フラナガンは、この来日時に名リーダー作『トーキョー・リサイタル』( A Day in Tokyo )を録音しました。このコンサートも”チェルシーの橋””キャラヴァン”などの収録予定曲を演奏し、会場からすさまじい拍手と声援をもらっています。前半がトミー・フラナガン、キーター・ベッツ(b)、ボビー・ダーハム(ds)とのトリオで、前座とは到底思えぬ演奏を7曲、休憩をはさまず、そのままエラが登場して、ボサノヴァ・メドレーや、十八番の”ハウ・ハイ・ザ・ムーン”など、3つのメドレーを1曲と数えて、一気に全11曲!あっと言う間の怒涛のコンサートです!
 ジャズに限らず、現在もこのような構成のショーで魅せる歌手はいるのでしょうか?
  このコンサートが行われたのは1975年(昭和50年)、寺井尚之はすでに新地でプロ活動、世の中では、ベトナム戦争終結、マイクロソフト社が設立された年、広島カープが優勝し、日本の街に流れるポップスは「シクラメンの香り」や「昭和枯れすすき」だった・・・その頃は、街にヒット曲は流れていて、好きでなくても共有できたんです。
 私はテキトーな受験生で、いくらエラ・フィッツジェラルドが好きでも、5000円のチケットを買うというのはあり得ないことでした。
 さて、音源とともに、皆さんにお見せする対訳を作るため、久しぶりにエラを聴きこむことになりました。エラの歌唱は、アドリブあり、他曲の引用あり、メドレーあり、時々歌詞も間違えるから、ぼうっと聴いていると書き取りが出来ません。
 今回は、エラとフラナガンが、聴衆のリアクションや喝采を想定し、余人では考えられない箇所での転調はもちろんのこと、小節数まで変更しながら、プログラムを練り上げているのを聴いて鳥肌が立ちました。そのあたりは寺井尚之の、心の籠った解説をじっくり楽しんでくださいね。
<Some of the Now Sounds 

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  音楽監督としてのフラナガンは、歌手エラ・フィッツジェラルドを「喝采こそ命」と評しました。お客さんが喜んでくれるなら、ヒット・チャートに入っているコマーシャルな歌も、どんどん歌っちゃうエラに対するビタースイートな表現です。
 ストレートアヘッドな題材は当日の解説に委ね、ここでは、エラ流で魅せるバーブラのヒット曲「追憶」(The Way We Were)について書きましょう。
 ミドル・エイジの方なら、バーブラ・ストライザンドもロバート・レッドフォードもご存知ですよね!「追憶」は日本でも大ヒットした同名恋愛映画の主題歌。映画のロードショウは、コンサートの8か月前ですから、まさに「旬」な歌だったわけ。
 作曲はバーブラのリハーサル・ピアニストから出発して、オスカーやエミー賞など、英米のあらゆる賞を総なめにしたマーヴィン・ハムリッシュ、作詞はアラン&マリリン・バーグマン夫妻。バーグマン夫妻は、ミシェル・ルグランの英語詞を一手に引き受けており、スティーブ・マックイーン主演「華麗なる賭け」の主題歌、”The Windmills of Your Mind / 風のささやき”や、カトリーヌ・ドヌーヴ主演「ロシュフォールの恋人たち」の主題歌”You Must Believe in Spring “など、アメリカのポップソングと一線を画す、陰影のある歌詞で、ルグランの米国制覇に一役かっています。
 「追憶」は典型的メロドラマ、反共マッカーシズムの風が吹き荒れる戦後の米国で、ノンポリな劇作家に扮するレッドフォードと、政治活動家バーブラが、激しく愛し合いながらも、反発し合い、悲恋に終わるという筋書きで、この物語の背景にあるWASPとユダヤ人の人種的軋轢とは無関係に、日本でも大ヒットしました。
 エラがバーブラのヒットソングを、オリジナル通りに歌ったのは「足跡シリーズ」上皆無で、ここでも、若干の変更を加えて歌ってる。ネット上の「追憶」の訳詞を拝見すると、冒頭節“Mem’ries- light the corners of my mind”を「思い出は心の片隅に光を灯す」とし、次の節”Misty water-color mem’ries”を「ぼやけた水彩画のような・・・」と解釈しているサイトが多かった。実際は、「(思い出したくない)心の隅々を照らし出し」「涙にぼやけて水色になってる思い出」という意味で、このギャップは英米人と日本人の「追憶」に対するイメージの相違なのかもしれません。
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 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 
The Way We Were – 『追憶』

Alam and Marilyn Bergman / Marvin Hamlisch
追憶は
心の隅々まで照らし出す、
涙色の思い出、
私たちのあの頃。
散らばった写真に、
置き去りにした笑顔。
微笑み合ってる、
あの頃の私たち。
愛することが簡単だったあの頃、
時間が二人の物語を書き換えたの?
もう一度やり直していたら、
うまく行った?
うまくできた?

思い出は、
とても美しいのに、
思い出すのは余りに辛い、
忘れることも難しい、
だから、
楽しいことだけ思い出す、
いつまでも忘れない
私たちのあの頃。
 ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 
 日本語はエラさんのヴァージョンです。原歌詞はスペルが少し違うけど、ここ。
 バーグマン夫妻の歌詞は、”M”という音は持つ魅力を最大限に引き出しています。ひねりの効いた語りかけ、レトリックの巧みさは、阿久悠や安井かずみといった、同時代の日本の作詞家に共通していて、私は大好き。でも下手な歌手には、手ごわすぎるかもしれませんね。Yutubeで 夫妻のインタビューを聞くと、映画での作詞ポリシーは「映画の邪魔をしないこと」で、この「追憶」では、2通りの歌を作り、シドニー・ポラック監督やバーブラと相談の上、最初のバージョンを使ったというようなことが語られていました。同じ会社のアーティストの場違いな歌を、堂々と主題歌にする昨今のハリウッド映画とは違いますね。
 では、プロ入りを決意したあの頃、寺井尚之が”The Way He Was”を語る、土曜日の秘蔵音源講座をお楽しみに!
CU!

対訳ノート(33) Easy Living  あなたの中のビリー・ホリディ(2)

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 トミー・フラナガン・トリビュートで盛り上がった3月も終盤、締めくくりのFlanagania Reunion (3/31土)は残席僅か、必ずご予約ください。
 最近、「トミー・フラナガンの足跡を辿る」のエラの出番が一段落して、久しく「対訳ノート」を書かなくなったら、対訳リクエストのメッセージをいくつかいただきました。ありがたいことです。久しぶりにビリー・ホリディの十八番、同時に、トミー・フラナガンが亡くなった夜、寺井尚之がフラナガニアトリオで、号泣しながら演奏したのが忘れられない名曲、”イージー・リヴィング”について書いてみます。
<歌のお里>
 “Easy Living”の歌のお里は、ジーン・アーサー主演の同じタイトルの映画だったそうです。普通の女の子が富豪の御曹司と結婚するという、シンデレラ的ロマンチック・コメディーで、そのときはオーケストラ演奏のみで、注目されることはありませんでした。
 歌詞のついた「唄」として初演したのは、ビリー・ホリディで、白人優先の当時のレコード業界を考えると、余りもの的な新曲であったのかも知れませんが、テディ・ウイルソンOrch.と録音したBrunswick盤(1937)は大ヒット!それ以降、ビリー・ホリディの十八番として親しまれ、多くのハード・バッパー達の愛奏曲となりました。バッパーは、ビリー・ホリディのフレージングを愛しましたが、この歌には特別な共感を持っていたのかもしれません。
<バッパーに愛された理由>
 <Easy Living>は、そのまま日本語にすれば「安易な生活」、「気楽な暮らし」、唄の主人公にとって「気楽な暮らし」とは、三食昼寝付のマダム主婦でも、独身を謳歌するキャリア・ガールでもない。惚れた男に尽くしても、愛されず、骨の髄まで絞り取られる暮らしこそが、Easyだと歌います。
 世間から、バカとあざ笑われても、構うもんか!貢ぐことが「気楽な暮らし」と開き直るのです。
 なんとアホウな可愛い女!初演のBrunswick盤のビリー・ホリディは、脚韻の踏み方もスパっとしていて、ネチネチぜず潔い。後期のこなれたヴァージョンになるほど、「悲しさ、はかなさ」が、強調されて、媚びたところがないのに、一層深くて愛らしい。
 でも、ビリー・ホリディが歌の中で呼びかける「あなた」は、ほんとうに男性なのか?と聴くものは思う。ビリー・ホリディが歌う“Easy Living”には、普通のラブ・ソングとは少し違った味わいを感じるのです。
 ひょっとしたらホリディが歌いかける「あなた」とは、人間ではなく、自らが深く依存していた「ドラッグ」や「アルコール」ではなかったのかしら・・・ヘロインに溺れ行く人生に悔いがなかったと宣言する壮絶なメッセージのようにも響きます。同時に「あなたは、どんな毒にすがって生きてるの?」と、ホリデイは優しく問いかける。つらいね。
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“Easy Living”
<お気楽暮らし>
改行が誤っていますが、原詞はこちら
詞:Leo Robin 曲:Ralph Rainger

あなたのために生きる、それは気楽な暮らし、
恋をすると、生きているのが楽になる、
だから私の人生はあなただけ、
それほどどっぷり浸ってる。

あなたに捧げた年月を、
後悔なんかするもんか。
惚れているなら、
貢ぐ事など何でもない。
好きなあなたのためならば、
どんな苦労も厭わない。

あなたのおかげで、
正気を失くしているのかも。
あなたは私を意のままに、
操っていると人は言う。
ねえ、あなた、
そこが一番いいのにねえ、
世間は判っていないんだ。

あなたのために生きる、それは気楽な暮らし。
恋をすると、生きているのが楽になる、
私は惚れて、惚れ抜くの、
私の人生はあなただけ、
それが生きがい。

 デクスター・ゴードン、ジミー・ヒース、キャノンボール・アダレイ、フランク・モーガン、チェット・ベイカー・・・ビリー・ホリディと同じものに溺れたハードバッパーたちが残す”Easy Living”の名演の数々を聴くと、ハードバップの高揚感と背中合わせになる、壮絶な”Easy Living”が聞えてきます。
ビリー・ホリディ解説本には、後期ビリー・ホリディの歌詞対訳を掲載しています。機会があればどうぞご一読を!

White Christmasが愛される理由:対訳ノート(33)

激動の2011年も残り僅か、皆様いかがお過ごしですか?イルミネーションが灯りクリスマスのムードが漂う大阪の街を歩くと、O.ヘンリーのクリスマス物語「賢者の贈り物」を読みたくなります。

今回は、どなたもご存知の歌、「ホワイト・クリスマス」のことを書いてみます。この季節になると、高級ホテルのロビーから下町の商店街まで席巻する定番ソング!ビング・クロスビーのシングル盤は、全世界で少なくとも5000万枚売れたとギネスブックが認定。エルトン・ジョンが故ダイアナ妃に捧げた「Candle in the Wind」を抑え、歴史上最も売れたシングル盤に認定されているそうです。
クロスビーが最初に録音した原盤(’42)は、度重なる再プレスの為に損傷し、5年後に再録音をしたというからスゴイ!
当初、作詞作曲のアービング・バーリンは、こんなにヒットするとは思ってもみなかったとか…

<歌のお里>

holiday-inn-bing-crosby.jpg “White Christmas”は元々映画の歌、と言えばダニー・ケイ&ビング・クロスビー&ローズマリー・クルーニーの映画「ホワイトクリスマス」(’54)がまず思い浮かびますが、実はもっと前、第二次大戦中、’42年の作品「ホリデイ・イン」の為に書かれた歌です。フレッド・アステアのダンスとクロスビーの甘い歌声で繰り広げるラブ・コメディ、クロスビーが最初1コーラス歌い、クリスマス・ツリーのベルや口笛と共に、恋人役のマージョリー・レイノルズと転調してデュエットする名場面はyoutubeで観ることができます。
このクリスマスのシーンは、大戦中、離れ離れでクリスマスを過ごさなければならない人々の家族愛や望郷の念を強く掻き立て、映画も歌も大ヒット!その余韻を引き継ぐ形で生まれた映画が「ホワイト・クリスマス」です。
「ホワイト・クリスマス」は、戦後のアメリカを描く映画。戦地から帰り民間人に戻った元上官は風光明媚なヴァーモントにある小さなロッジの経営者、ところがお客さんが来ず、倒産寸前。それを知ったクロスビー&ケイのボードビル・コンビが、閑散としたロッジにかつての戦友たちを呼び集め、飛び切り楽しいクリスマス・ショウを催して危機を救うという涙と笑いの人情話。

<アービング・バーリンとクリスマス>
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アービング・バーリン(1888-1989)は第二のアメリカ国歌と呼ばれる「God Bless America」「Alexander Rugtime Band」など、作詞作曲した作品は約五千!ジェローム・カーンは「彼こそアメリカン・ミュージック」と賛美しました。
chanukah_large.jpg バーリンは貧しいロシア系移民の2世としてNYのロウワー・イーストサイドに生まれ、チャイナタウンにあるカフェのウエイター兼歌手から超一流へ上り詰めたアメリカン・ドリームの見本のような作家。その本名はイスラエル・バリン、ロシア系ユダヤ人です。ユダヤ教徒の人たちは、キリスト教のクリスマスを祝う習慣はありません。その代りに12月の25日から8日の間、古代ユダヤ人の独立の日を祝うロウソクのお祭りハヌカという行事をします。
欧米のグリーティング・カードのサイトを観ると、クリスマス・カードと共に、必ず”Happy Hanukah”カードが併載されていますよ。
町中にクリスマスのイルミネーションが灯っても、人種のるつぼ、米国は文化も宗教も多様です。ユダヤ人ミュージシャンも勿論クリスマス・イベントに出演しますし、非キリスト教徒がクリスマスを否定することはないにせよ、結婚式はキリスト教、お葬式は仏教という日本の寛容さとは別の感があります。

<非宗教のクリスマス>
さて、映画”Holiday Inn”の仕事の依頼は、新年や独立記念日の花火など、年間の大きな祝日に因んだ曲を書くことでした。その中で、バーリンが一番困ったのが「クリスマス」!何しろ、子供の時から祝ってないし、とにかく家が貧乏だったので、それどころじゃなかった…さっぱりイメージが湧きません。
そこでバーリンは、NYやLAで近所の人が飾るクリスマス・ツリーや、雪の情景を思い浮かべて、四苦八苦しながら作詞作曲。やっと出来てはみたものの、リアリティに乏しい…作者は全く満足のいくものじゃなかった。ところが、歌い手のビング・クロスビーは「これはイケルぞ!」と太鼓判を押し、それ以上のヒットになったんです。
それは何故か?
バーリンの思い描いたファンタジーが思いがけず、人々の心を打ったのです。

<心を打つ歌詞>
人々の心を掴んだのは、まず冒頭ライン、
I’m dreaming of a white Christmas, Just like the ones I used to know.(私は白銀のクリスマスを夢に見る、前によく知っていた、懐かしいクリスマス。)家を離れ従軍する兵士たち、愛する家族や恋人を戦地に送った人たち、双方にとって、宗教も民族も関係なく、”皆が前に知っていた”ホワイトクリスマスは「平和」の象徴だった!“と気づかされたんです。
クロスビーは述懐しています。「戦時中、内外の基地に慰問に行くと、真夏でも、必ずこの曲がリクエストされ、どんなラブ・ソングよりも兵士たちに受けたのがホワイト・クリスマスだった。」
同時に、「別に自分でなくとも、どんなひどい歌手が歌っても必ずヒットしただろう」と、冗談ぽく述べています。
キリスト教を超えた愛のお祭りとしてのクリスマス・ソング、そこにあるのは、白銀のイメージと、トナカイのソリの音を待ち焦がれる子供たちの生き生きした情景、そして、結びの言葉は、平和な日が来るようにという一般市民すべての願いでした。
“May your days be merry and bright,And may all your Christmases be white.”(明るく楽しい日々が来ますように。皆さんに白銀のクリスマスが訪れますように。)

White Christmas by Irving Berlin
私は白銀のクリスマスを夢に見る、
昔懐かしいクリスマス。
木々の頂きは雪にきらめき、
子供達はトナカイのベルに耳を澄ます。
白銀のクリスマスを想いながら、
クリスマスカード全てに添え書きしよう。
「あなたに明るく楽しい日々と、
白銀のクリスマスが来ますように。」

だから、「ホワイト・クリスマス」は、宗教も文化も関係なく、世界中で愛され、今夜の報道ステーションでもBGMで流れていました。
災害、原発、不況、色々大変だった私たち、今年聴く「ホワイト・クリスマス」は、より一層、深く胸に響きますね。
Evergreen_cover.JPG  チャーリー・パーカーは「ホワイト・クリスマス」をBebopで演奏し、トミー・フラナガンはそれを更に洗練させたヒップなハードバップ・ヴァージョンを創りました。フラナガン・トリオの演奏はレコードとして残っていませんが、寺井尚之とThe MainstemのEvergreenにフラナガン・ヴァージョンが収録されています。iTuneでもダウンロードできますので、ぜひ聴いてみてください!そして「明るく楽しい日々と、スイングするハードバップなクリスマス」を!
CU

対訳ノート(32) Street of Dreams

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 先日のフラナガニアトリオ・リユニオンに、喝采ありがとうございました!
 あの昼下がりのプログラムはジャズミュージシャンのオリジナルが中心で、歌詞のないナンバーばかりでしたね。そのせいか久しぶりに歌詞のことを書きたくなりました。歌は“Street of Dreams”「夢の街角」っていったいどんな所なんでしょう?
 土曜日の寺井尚之The Mainstemトリオに来てくだされば、この素敵な歌詞が聴こえてきます。
<A Song of Great Depression(恐慌時代の歌)
 “Street of Dreams”は、先日のジャズ講座に登場したドイツのサックス奏者、クラウス・ドルディンガーのリーダー・アルバムのタイトル曲にもなっていましたね。4beatと6/8beatを組み合わせた斬新な90年代サウンドでした。でも“Street of Dreams”はとても古いポップソングで、大恐慌時代に生まれました。当時の社会情勢は今と似ています。この歌が生まれたのは、ウォール街の株価が大暴落したブラック・マンデーの3年後、1932年。ダウ平均は暴落以前から89%下落し、アメリカ中、世界中に失業者が溢れていました。同年、日本では5.15事件が勃発、歴史は第二次大戦へと突き進みます。
2_great_depression.jpg 職がなく食糧もない、まっとうな人達が食べて行けずスープキッチンと呼ばれる配給食に長い行列をしなければならなかった時代の歌は、アメリカのポップ・ソング史に於いてGreat Depression Songsと呼ばれています。”On the Sunny Side of the Street”や、寺井尚之が『Evergreen』に収録している”I’m Thru with Love”は今もスタンダードとして親しまれるDepression Songだし、Bebop通なら、ビリー・エクスタインとウディ・ハーマンがデュエットしている”Life Is Just a Bowl of Cherries”もお馴染みかも知れません。
 “Street of Dreams”は、Depression Songsの中でも、リアルでありながらロマンティック、なんとなく山田洋二監督の映画を観たような気分になります。’32年当時は、ドリーミーな歌声のビング・クロスビーが歌ってヒットしました。”Stella by Starlight”の作者、映画音楽家としても有名なヴィクター・ヤング作曲、作詞は”Just Friends”や”My Foolish Heart “の詞を書いたニューヨーカー、サム・M・ルイスです。
 クロスビーの音源はyoutubeにありました。
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<Street of Dreams 夢の街角>
(Sam M. Lewis/ Victor Young)


<ヴァース>
午前零時、
いろいろ大変だね、もう夜中だよ、
さあ、古い夢を下取りに出し、
新しい夢を手に入れよう!
新しい夢と
昔の夢と取り換えるてもいいね。

僕は知ってる、
どこで夢が売れるのか、
どこで夢が買えるのか。
午前零時、
真夜中にそこに行かなくちゃ、
そうすれば君みたいな人たちに会える、
君と同じようにブルーな仲間にね。
<コーラス>

愛は王様でも笑い飛ばしてしまうもの。
この夢の街角じゃ、
王様なんてどうってことない。

引き裂かれた夢、
夢の街角なら、
新品同様元通り。

金や銀、
月明かりの下で、
取り放題。

貧乏人、
そんな者はいない、
愛が確かである限り。
この夢の街角では。

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
Verse
Midnight,
You heavy laden, it’s midnight.
Come on and trade in your old dreams for new.
Your new dreams for old.
I know where they’re bought,
I know where they’re sold.
Midnight,
You’ve got to get there at midnight,
And you’ll be met there by others like you,
Brothers as blue,
Chorus

Love laughs at a king,
Kings don’t mean a thing
On the street of dreams.
Dreams broken in two
Can be made like new
On the street of dreams.

Gold, silver and gold,
All you can hold
Is in the moonbeams;
Poor, no one poor
Long as love is sure
On the street of dreams.

 『夢の街角』というのは、愛の世界のことだったんですね。愛する人と一緒なら、どんなに苦しくても、新しい夢に向かって頑張ることができるんだ!よ~し、めげずにがんばろう!森ノ宮の駅の階段でずっこけそうになってもヘコたれないぞ!
 ’29-’33の「Great Depression」に対し、現状は「Great Recession」(大不況)と呼ぶらしい。不況の悲哀は、Interludeもご同様。でも、OverSeasに溢れるお客様の楽しい笑顔や拍手は私にとってSilver and Gold! それに思いがけないジャズ界の大先輩がこのブログを愛読してくださっていると教えてもらったりすると、路地裏も一瞬にして『夢の街角』に変わります!
 それでは土曜日の寺井尚之The MainstemでCU!

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トミー・フラナガン・インタビューを読もう!(3)

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  フラナガンは、ホーン奏者と同様のアプローチをピアノでしていると語る。彼にとって、曲のテーマは、聴きなれた曲を作り変える為の出発点である。コンサートやクラブで真夜中が近づくと、モンク作のジャズ聖歌、“ラウンド・ミッドナイト”をよく演奏するが、同じ演り方で弾くことは二度とない。
  ある秋の夜、ノルウェイの豪華客船上で開催される『フローティング・ジャズフェスティバル』で西カリブ海を航海中、ピアノに向かうフラナガンは出だしの5分間テーマを弾かずにじらした挙句、おもむろに”ラウンド・ミッドナイト”のメロディに戻った。翌晩、フラナガンはまた違ったアプローチでこの曲を弾くのである。
<テイタム、パウエル、パーカーたち>
tatum444.jpg 「アート・テイタムには私の演りたいことの原型がある。アートの様に弾く事は誰にもできないが、ミュージシャンはどうあるべきか、その目標として、向上心を与えてくれる。彼のメロディ、テクニック、タッチ、ハーモニー・センス、全てが時代や流行を超越している。」
  「テイタムのように、いつまでも時代遅れにならないソロ・プレイを目指すのは、常に正しい!充分に長い間演奏し、あらゆる要素が合致すれば、うまく流れに乗ることが出来て、前よりは良い演奏になっていると感じるだろう。」
  「NYに出てくる以前に私が聴きこんだ人々のうち、バド・パウエルはテイタムの次に影響を受けた名手達の一人だ。テディ・ウイルソンとファッツ・ウォーラーはテイタムと同じくらい大きな影響を受けた。この三人は初めて私が熱心に聴いたピアニストたちだ。彼らこそ、”ピアノの世界:The World of Piano“だった!」
bird71520.jpg 「テディ・ウイルソンは他の巨匠よりも判りやすく、初心者の私にはとっつきやすかった。ウイルソンを理解する事はアート・テイタムに進む布石となった。
 バド・パウエルはチャーリー・パーカーと切っても切れない存在だ。彼の音楽は一生懸命取り組むのに相応しい完璧なものだった。10代の高校生だった私にとって、パーカーの音楽は、まさに進むべき道を示すメッセージのようなものだった。バドとの共演盤を聴く迄は、私が聴く器楽奏者はバードだけというという時期もあった。だがバドとバードが一緒にやっているのを聴き、これだ!と思った。二人のコラボの中に全ての要素が凝縮されていた。ビバップのピアニスティックな要素とホーンの要素が融合し、ここから全てが始ったのだ。」

  
  フラナガンは時にオリジナルを作曲し録音している。だが彼は、他の作曲家作品への嗜好が強いと明言する。
 「私は、作曲家がどのようにその曲を演奏して欲しいのかを突き止めることに没頭する傾向が、どうもあるようだ。自分で作曲する能力より、作曲家が私に説明してくれる能力の方が優れているんだろうな。デューク・エリントンの音楽を例にするなら、演奏すれば演奏するほど、私には一つ一つの音によって彼が何を言おうとしているか、彼が何故その曲を何度も演奏し、繰り返しても飽きなかったのかが、よく判るようになるんだ。
 ラッセル・プロコープ(cl)は毎晩”ムード・インディゴ”でフィーチュアされることが判っていたが、それでも26年間、毎晩、ムード・インディゴを演奏することを心待ちにしていた。そうでなくてはならないんだ!その曲が好きならば、何度演奏しようと、お客さんも自分自身も退屈なんてすることはない。」
<楽曲の真髄に到達するには>
  大いなる音楽の冒険家であるフラナガンが、一旦スタンダード作品を弾き始めると、疑問が湧く。『一体彼は、この曲を始める時に、はっきりした構想があるのだろうか?それとも、曲に誘われるまま、音楽的冒険を楽しんでいるのだろうか?』
 「どんな感じになるのか確かめているんだ。」フラナガンはこう答える。「演ってみて、流れがよくなければ、曲を乗りこなすための正しい方法を探す。つまり、自分にとって最高の流れを探すんだ。そしてうまく構成して演奏しようとする。」
 「私のレパートリーは、あちこちからとりとめなくかき集めたものだ。アメリカ・ポピュラー音楽の有名作曲家の作品もあるし、知人の作品にもこだわっている。要するに演りたいものなら何でも演る。何もガーシュインばかり演ることもない、他の人間がプレイしようと思うのであればね。私はジェローム・カーンやハロルド・アーレンの曲が好きだ。ジャズ以外の分野ではこの二人が最も好きな作曲家だ。自分の知っている古い曲をプレイしたいし、プレイのためにはより深く理解しなければと感じる。
  新しい曲には、何となく束縛されるように感じるときがある。うまく演奏する方法は一つしかなくて、良くしようとしても変更の余地がない。逆にみたいな曲であれば、20人の演奏家がいまだに20通りの方法で演奏するだろう。もう変えようがないと思った途端、モンクが全く違うヴァージョンでやっているのを聴いたりするわけだ。」
jazzpoet.jpg   現在フラナガンは新作アルバム、『ジャズポエット』を製作中。タイムレス・レーベル制作でジョージ・ムラーツ(b)、ケニー・ワシントン(ds)とのピアノトリオ作品である。その他チェスキー・レーベルからのフィル・ウッズの新作『ヒアーズ・トゥ・マイ・レイディ』に参加している。
let's.jpg フラナガンは近い将来、サド・ジョーンズ作品集を録音したいと言う。(名盤『Let’s』として結実)
 「私は他の人の音楽を自分なりに解釈して演奏したい。曲を作った人間を良く知っていると、より良い演奏をする事が私にとって容易になる。私は30年前に、サドの音楽をデトロイトで演奏していた。今やっと、楽曲のあるべき姿、最高の形態が見えてきた。曲の真髄に達すると言う事は、それほど長い年月と道のりを要するものなのだ。」
(了)
 いかがでしたか?フラナガンの発言には、彼自身の姿勢だけでなく、ジャズ・ミュージシャンの進むべき道が色々暗示されているように思いました。「楽曲を愛する」意味もよくよく判ります。
 翻訳にあたり、「ジャズタイムズ」のバックナンバーを提供いただき、上の同誌カラー写真もお送りいただいたジャズ評論家、後藤誠先生に心より感謝いたします。
CU!