冬季オリンピックも終盤、2月は瞬きする間に終わりそう・・・皆さま、お元気ですか?トミー・フラナガンが得意としたスプリング・ソングの季節も間近ですね。トミー・フラナガンを誕生を記念して3月27日(土)にトリビュート・コンサートを開催いたします。チケットはお早めに!
日頃、夜遊びするチャンスは全くありませんが、NYの夜遊びの楽しさを教えてくれたのはトミー・フラナガンです。生まれて初めてNYに旅行した2日目のことでした。寺井尚之とフラナガン家にディナーに招待してもらって、ダイアナ夫人の手料理や、日本で見たこともない位大きなオリーブ、ヨーロッパから持って帰って来たリキュール類をしこたまごちそうになった夜です。ダイアナにお料理を作ってもらったのは後にも先にもこの時だけ。レーズンが一杯入ったミート・ローフで、結構おいしかった。私はとても緊張していたので、いくらお酒を飲んでも全然酔えなかった・・・
ずっと前に書いたことがありますが、食後、バッパーの意義についてトミーとダイアナの間で、ヘヴィー級の大論争勃発、その結果、ダイアナはしくしく泣きながら、寝室に退場してしまいました。ジャズの巨匠がジャズの歴史について激しく論争するのを目の当たりにして呆然としていました。
やがて、「さあ、ヒサユキ、NYに来たんだからジャズを聴きに行こうか。」トミーは、いつも通りの物静かなポーカーフェイスに戻り、さきほどの興奮を抑えている様子もありません。まるで超人ハルクかスーパーマンみたいで、すごく不思議だった。
ダイアナを気遣った寺井が「いいえ、もう遅いから帰りますよ。」と言うと、トミーは「いい子ちゃんだな。」とクスクス笑い。おまけに鼻声のダイアナが寝室から「いいえ!行ってらっしゃい、行かなくちゃ!!」と大声で言うので、結局11時前にダイアナを残し、トミー、寺井尚之、私の三人だけで出かけることになりました。トミーはまるで一般人みたいに、寺井尚之と一緒に雑誌『New Yorker』のイベント情報欄、”Goings On About Town”を詳細にチェックしてから、「一番の老舗で、今夜の出演者が一番良い」と、数々の歴史的ライブ録音されたヴィレッジ・ヴァンガードに連れて行ってもらうことになりました。
ヴィレッジ・ヴァンガードはグリニッジ・ヴィレッジにあるジャズクラブ、ホワイトハウスにも招待された名物オーナー、マックス・ゴードンが1935年に創業、ゴードンの他界後、奥さんのロレイン・ゴードンが後を引き継ぎ現在も盛業中。
ダウンタウンに向かうイエローキャブの中でトミーは言います。「汚い店だから、きっとびっくりするよ。」
到着すると、アーチ型の扉の横に、マジックで手書きした丸文字で今夜の出演者が掲示してありました。”George Adams, Don Pullen・・・”。
ジョージ・アダムス(ts)=ドン・ピューレン(p)双頭カルテットは、同じチャールズ・ミンガス(b)バンドで共演したダニー・リッチモンド(ds)と、骨太のプレイで聴かせるキャメロン・ブラウン(b)のレギュラー・コンボ、ミンガス・ミュージックを継承していて、バップを基本にしながらフリー・ジャズの要素もあり、ブラックでパワフルな野武士みたいにワイルドなバンド、エレガントなトミー・フラナガンがこのバンドを選んだのは、始めは少し意外でした。
お店の入口はもうひとつ地下にあります。階段を降りて行くと、物凄い迫力の演奏が聴こえてきます。でも、ここで立ち聞きしているとオーナーのマックス・ゴードンがチャージを集金に来るんだとトミーが言ってた。ゲスト扱いで、ミュージシャンの写真が所狭しと張ってある壁際のベンチシートに案内されました。テーブルクロスも絨毯もないし、床はむき出しのコンクリート、簡素な内装だけど、そんなことはどうでもいいや。歴史を感じる趣、なによりもバンドの迫力がすごい!エスニックな帽子のアダムスは白目が真っ赤、真っ黒な肌から汗がしたたり落ち、テナーが雄叫びを上げて泣いている。ランニング姿のピューレン(p)は鍵盤上に拳をローリングさせる独特の奏法で有名ですが、生で見ると、池に小石を放り投げて何度もジャンプさせるのと似ています。腕と背中の筋肉が引っ越し屋さんみたいに盛り上がってます。二人のソロがキャメロン・ブラウン(b)のビートと、ダニー・リッチモンド(ds)に替わって、当時はまだ駆け出しのルイス・ナッシュ(ds)が繰り出すリズムに強力にプッシュされ、4人のサウンドが炸裂するのを感じました。隣のトミーはピューレンの拳ソロを聴きながら「Oh, Pretty! 曲もきれいだな!」なんて言いながらニコニコしてます。「すごくパワフルですね!ハード・ロックみたいに電気使ってないけど、もっとエネルギーを感じます。」って言うと、「Yeah! they are rockin’!」って喜んでいたけど、寺井尚之にはお客さんの魂を掴む音楽の迫力を教えようとしていたのかな?
セットが終わると、バンドのメンバーや客席にいたナマズ髭のスティーブ・トゥーレ(tb)など沢山のミュージシャン達がどこからか集まってきて、順番にトミーに挨拶をします。その一人一人にトミーがヒサユキを紹介するので、寺井尚之はその度に立ちあがって握手をしなくてはなりませんでした。
結局その夜は、真夜中まで、三人並んでジョージ・アダムス=ドン・ピューレン・カルテットを堪能しました。演奏中、ふとトミーの方を見ると、ポケットからお札を出して、こっそり数えてた。ピアノの神様がお札を数えているのが何とも不思議な感じでしたが、次のお店に連れていくための軍資金を数えていたんですね・・・トミー、ありがとう!
ヴィレッジ・ヴァンガードだけでなく、ダウンタウンではブラッドリーズ、スイート・ベイジルやブルーノート、アップタウンでは、中華レストランで極上のピアノジャズを聴かせたフォーチュン・ガーデン・パヴィリオン、セントラルパークのタヴァーン・オン・ザ・グリーン・・・ジャズ・クラブ以外のちょっとおいしいレストランなど、本当に色んなところに連れていってもらいました。トミーが心臓の為に食事制限するまでは、ほんとにグルメだったから・・・
というわけで、明日のThe Mainstemトリオにはメキシコ料理にちょっとクレオールが混じった、おいしいエンチラーダを作ってお待ちしています。
CU
カテゴリー: ジャズのサムライ達、聖人達
新春ジョージ・ムラーツ情報
新年明けましておめでとうございます!今日の大阪は寒いです!大晦日、K-1の絶叫が響く中でおせちを作ったのも今は昔のTenpus Fugit・・・今週の土曜日はジャズ講座ですよ!もうご予約はされましたか?講座名物、寺井尚之の年頭挨拶も新春初笑いの予感。
昨日の”エコーズ”はジョージ・ムラーツのお弟子さん、しょうたんこと石川翔太(b)君が遊びに来て2曲ほど演奏してくれました。22歳であの実力はすごいね!・・・今の大学ジャズ研にあそこまで弾けるコがいれば、名声響き渡り、女子部員の憧れの的になるでしょうね。しょうたんは、今年のお盆頃にパスポート更新で帰国予定なので、今度は寺井尚之との本格的なセッションが聴ける予感です。今から楽しみにしましょう!
ベース三人衆、左から坂田慶治、鷲見和広、石川翔太
さてお待たせしました、今日はジョージ・ムラーツの新作と噂の新ベースの話題をお伝えします。すでにアニキからはトリビュート・コンサートの時期にお知らせが来ていたのですが、なかなかゆっくりお伝えする暇がなくてごめんね。現在はムラーツ公式HPにも英文で詳細が載っています。
<Coming Soon! ジョージ・ムラーツ 新作リーダー・アルバム >
ジョージ・ムラーツの新作リーダーアルバムは年末にNJのベネット・スタジオでライブ・レコーディングされました。フォーマットはピアノレスのベース・トリオ!メンバーはかつてOverSeasで共演したこともあるリッチ・ペリー(ts)に加え、ジョン・ゾーンやビル・フリゼールといった”あっち側”の人たちから、ディジー・ガレスピー、メル・ルイスなどこっち側”の人たちまで幅広い守備範囲で活動するジョーイ・バロン(ds)という異色の顔合わせのピアノレス・トリオ!かつてムラーツがジョー・ヘンダースン(ts)3で聴かせた強烈なプレイを思い出しますね!
もちろん、しょうたんは付き人としてレコーディングに付き合い、物凄い演奏を目の当たりにしたそうです。このライブはアルバムだけでなくDVDとしてもリリース予定なので、最前列で見守るしょうたんもばっちり映っているらしい・・・
ピアノレス・トリオでジョージ・ムラーツが目論む音楽的指針がどんなものなのか・・・きっとどえらいことを考えているはずです。そしてもうひとつ興味津々なのが、このレコーディングで使用しているムラーツの新しいベースです。
<ジョージ・ムラーツのNew Baby, B21>
ムラーツ兄さんが、フランスの名匠パトリック・シャルトンに依頼して、特別なツアー用のコンパクト・ベースをこしらえたことは11月に紹介しましたが、ムラーツ兄さんの楽器は、このB21の進化ヴァージョンというより、ムラーツ+シャルトン・コラボ・モデルと言った方が正しいようですね。
「デカい」「傷つきやすい」「安定感がない」と運搬のリスクが三拍子そろったコントラバスという楽器を、世界中を駆け回るベーシスト達のために、21世紀ヴァージョン改良したというB21、僅か12秒でネックの着脱ができて、指板の高さも自由自在、弦楽器の要となる魂柱は1ミリでもずれると鳴りが変わってしまうそうですが、B21ならレンチ一本で簡単に調節可。
本体で一番傷つきやすい個所には、ゴムを埋め込み、f字孔という、あの印象的な二つのホールの形を改良して、楽器が最高に振動するように考えられているらしい・・・・。
ムラーツのHPに写真が載っていますが、特別ハードケースも非常にコンパクトで通常の海外空路では特別料金がかからないサイズにしつらえてある。さっすがフランス人は細かいね!Très Bien!
<ジョージ・ムラーツの注文とは?>
ムラーツ兄さんは、こんなB21に更に注文をつけました。それまでにジャズ・ベーシストの為に15台のB21を制作してきたシャルトンも「目からウロコ」の改良版が出来たんです。
1)魂柱:楽器の中心にあり、不安定な魂柱はツアーの多いベーシストにとって悩みの種、ジョージ・ムラーツは前後から魂柱を固定するという斬新なアイデアを出して、シャルトンがそれを現実化しました。
2)形状:ムラーツ兄さんの次なる注文は、ベースの不安定な形について。B21はベースが直立している時にネックの着脱を行うので、「それなら独り立ちさせてよ。」ということになり、ボトムの形状がより安定化しました。
3)サウンド:ジョージ・ムラーツの一番のこだわりが音質であるのは当然!カラフルな色合いとニュアンス、レガートの付き具合など、シャルトンへの要望は数え切れないほどありましたが、結果出来上がったベースのサウンドは世界のジョージ・ムラーツもにんまりするものだったようです。年末のレコーディングに立ち会ったしょうたんも太鼓判でした。
4)ベースのエッジが「絶対に」痛まないようにしたい! そこでシャルトンはベースのふち飾りとラバー製のプロテクションを組み合わせて、見た目も美しく傷つきにくいデザインを完成!
そのほか、エンドピンがネジなしで、あっという間に調節できる機能や、使用する弦によって変えられる数種類のペグボックス(ベースのてっぺんになるカタツムリみたいな形の糸倉のこと)を開発したり、まさに21世紀型のベースになっているみたい。早く生で聴いてみたいな!
その結果、ジョージ・ムラーツはシャルトンを「天才」と呼び、弾くのが「楽しい!」「インクレディブル!」と絶賛!シャルトンの工房では、G. Mraz モデルというコラボ版を売り出すことになったそうです。(ご希望の方にはジョージ・ムラーツのサイン入りで出荷できるそうですよ!) *パトリック・シャルトンHP
9日(土)のジャズ講座では、おせちに飽きた皆さまの為にビーフストロガノフを仕込んでおきます!
CU
Eddie Locke Memorial Service ’09 11.22:もうひとつのトリビュート
雨の師走、皆さんいかがお過ごしですか?
先週のトミー・フラナガン・トリビュートの録音を聴きながら、このエントリーを書いています。繰り返し聴く価値のあるプレイですね。CDにいたしますので、ご希望の方はOverSeasまでお申し込みください。
ところで、先週のトリビュートの当日に、ショーン・スミス(b)さんから、先日Interludeで告知したエディ・ロックさん(ds)のお別れ会の資料がどっさり届いていました。もちろん故人をしのぶ厳粛な会ですから、当日の写真などは残念ながらありません。
Eddie Locke Memorial Service は、去る11月22日に行われました。場所は、ジャズ牧師としてNY市民に敬愛されたゲンぜル神父在籍中のジャズ礼拝にエディさんが頻繁に出演し、特にゆかりの深いSt.ピーターズ教会。トミー・フラナガンはもちろん、ジャズメンの音楽葬は、宗教に関係なく、ほとんどがこの会場で行われています。
NYから帰ってきているベーシスト、銀太こと田中祐太くんが参列してきたので、会場の雰囲気も伺うことができました。
式次第は、故人を偲ぶスピーチとライブが交互に行われる形式。銀太君の話では、会場は超満員で、ミュージシャン達のスピーチは、湿っぽくなりすぎず、何度か会場が爆笑するようなエピソードが織り込まれていたそうです。「坊やからたたき上げ」のドラマー人生で得た知識を、懸命に後輩たちに伝えたエディさんの人柄に沿う集まりになったようです。
この会のオーガナイザーは同郷デトロイト出身のバリー・ハリス(p)とビル・シャーラップ&リニー・ロスネス(p)夫妻とクレジットされていますが、実質的には、エディさんを父親のように慕っていたショーン・スミス(b)、ビル・シャーラップ(p)、ジョン・ゴードン(ts)の三人が尽力したようです。
彼らのおかげで、当日の会場にはオリヴァー・ジャクソン(ds)とボードビル・チームや、亡くなるまで仕えたボス、コールマン・ホーキンス(ts)や、ロイ・エルドリッジ(tp)との貴重な写真が多数展示され、プログラムは、エディさんの十八番”Caravan”を詠った詩(セバスチャン・マシューズ作)や、名トランペット奏者、ウォーレン・ヴァシェによる心のこもった追悼文が掲載されていて、大変充実したものでした。
ボードビル時代のエディさんとオリバー・ジャクソン(ds)は、「やすきよ」みたい!こういうキャリアが後のCaravanのソロにもジャイブ音楽のアルバムにも活きてるんだ!
コールマン・ホーキンス(ts)と。親分とイチの子分か?かっこいい!こういう貴重な写真は全てコロンビア大の図書館に収蔵されているらしい。
コールマン・ホーキンス組か、デトロイト組か?サー・ローランド・ハナ(p)と!
追悼演奏は、ショーン、ビル・シャーラップ(p)、ジョン・ゴードン(ts)のトリオが”For All We Know”を演奏したほか、今や大御所ピアニストになったリチャード・ワイアンズ(p)が”I Remember You”、マイク・ルドン(p)が、ポール・ウエスト(b)、ルイス・ヘイズ(ds)のトリオで”There Will Never Be Another You”、そのほかにもタルド・ハマー(p)、リロイ・ウィリアムズ(ds)、ジョン・バンチ(p)など、有名ミュージシャンの心の籠ったライブがあり、葬儀委員長バリー・ハリス(p)と彼のクワイヤーがトリを取ったそうです。
<Goodbye Eddie Locke (抄訳)> by ウォーレン・ヴァシェ(tp, cor,flh)
エディ・ロック、やることがなんでも派手で、実際よりも、ずっと大きくぶっきらぼうに見えるタイプの男。演奏、笑い方、教えぶり、叱り方、何をするにしても手加減なし、人間性を100%ぶつけた。・・・
我々はよく一緒に仕事をしたが、彼は、初対面の人に話しかける名人で、誰とでもすぐに友達になる名人だったので、私は彼を、「外務省高官」と呼んだ。世界中どんな場所にツアーしても、新しい友人を見つけ、愛され慕われながら、長く付き合った。・・・
エディは私の子供たちを愛してくれた。子供らはエディを「じいちゃん」と呼び、彼のあの話し方をそっくり真似したもんだ。
また私の世界にぽっかり大きな穴が空いちゃったよ。エディ・ロックのような人間がいなくなった穴を埋めることなんて無理だ。できることは、ぽっかり空いた穴を意識するたびに、そこに長らくあった友情と、エディがくれた霊感を思い出すことだけさ。
さよなら、じいちゃん。寂しいよ。だけど、ちくしょう!絶対あんたを忘れるもんか!
Warren Vache( ウォーレン・ヴァシェは自分のHPのトップにもエディさんへの追悼文を掲載していました。)
ショーン・スミスさん、お疲れ様!良いトリビュートが出来てよかったですね!
では、私はこれからトリビュート・コンサートの曲説を書こう!
明日のライブ、鉄人デュオでお会いしましょう。
CU
トミー・フラナガンの思い出:「七つの子」
土曜日はいよいよ15回目のトリビュート・コンサート!
寺井尚之はトリビュート・コンサートに向けてAll Day Longの稽古・・・指先の筋肉が膨れ上がってます。
The Mainstem、ベースのザイコウさんは、今週はOverSeasにフル出場!万全のコンディションを期します。
ドラムの一平さんは、火曜日に、元トミー・フラナガン3のメンバー、ピーター・ワシントン(b)、ケニー・ワシントン(ds)のコンサート(ベニー・グリーン4)に行き、トリビュートのチラシを見せて二人に「おひかえなすって!」と仁義を切って来ました。
ケニーとピーターは、現在ジャズ界最高のリズム・チーム、二人とも若い時から物凄い勉強家でした。今は押しも押されもしない巨匠ですね!
トリビュート・コンサートは、大変込み合っていますが、現在少しだけ残席があります。来ようかなと思って下さったらまずお電話で残席をお確かめください。(OverSeas TEL 06-6262-3940)
お薦めメニューは、「黒毛和牛の赤ワイン煮」と、冬の限定メニュー、「ポーク・ビーンズ」、黒豚と北海道の大きくておいしい白花豆を柔らかく煮込んだアメリカの家庭料理です。演奏を聴きながら、ぜひご賞味ください。
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<私が観たフラナガンの稽古>
トミー・フラナガンは、インタビューで「私はもう稽古(practice)はしていない。」と語っていました。でもそれは、「指を動かす」プラクティスなのでは?例えば、「指慣らしに、バルトークのミクロコスモスを弾く。」と言ったりするのは「粋じゃない」と思っていたからでしょう。
自宅の居間にあるスタインウエイと、その周りにも「稽古三昧」の状況証拠が一杯あった。寺井尚之には、「稽古は『頭』でするもんや。」と常々言ってましたし、先輩のハンク・ジョーンズさえ、ツアーに折りたたみ式のキーボードを携行し、ホテルの部屋で稽古していると言っていたのを覚えています。
フラナガンが「頭」でやるという稽古がどういうものなのか?今日は、滅多に見れないその姿についてお話したいと思います。
それは ’97年、10人のピアニストが集まる楽しいコンサート「100Gold Fingers」のツアー中、ラッキーなことに、オフ日を大阪公演の前日に設定してもらい、OverSeasでトミーのソロ・コンサートをした夜のことでした。
その日、トミーは寺井にこんな相談をしました。
“今回の「Gold Fingers」では、出演者が順番で、何か日本の曲を一曲演奏する企画になっていて、明日が私の番なんだ。「五木の子守唄」を演ったらどうかと言われているんだが、日本の曲はよく知らない。ヒサユキ、譜面を書いてくれないか・・・”
寺井は即座に言いました。
“師匠、五木の子守唄もええけど、ヘレン・メリルがもう歌ってるし、マイナー・チューンやし、大阪の土地柄に合わんのちゃいますか?師匠が演るならジャズで先例がなく、しかも、皆が知ってる曲がええわ。そうや!”七つの子”はどやろ?絶対、お客さんは大喜びですわ!」
OverSeasコンサートの終演後、トミーは晩御飯を食べながら、ヒサユキの書いた「七つの子」の譜面を見て、山に残した可愛い子供を想って鳴くカラスの歌詞の意味を頭に入れています。元グリークラブのG先生がボーイソプラノ(?)で「カ~ラ~ス、なぜ鳴くの~♪」歌うと、目を丸くしてたっけ・・・
そしてデザートを楽しんで一段落してから、トミーは譜面と共に、ピアノに向いました。初めて弾く「七つの子」に寺井尚之も興味津々!
フラナガンはまずイントロから弾き始めました。子供がいる山に戻ろうとするカラスの大きな羽ばたきを思わせるオーケストラ的な前奏です。テーマに入ると、何人ものストリングスに負けない左手の分厚いパターン、初めて弾いてみる曲なんて信じられません。トミー・フラナガンの頭の中には、画家のデッサンのようなものが、すでに何パターンも出来ていたんです!虹色に変幻するヴォイシングは、ブルージーになったり、印象派的になったり、・・・色んなヴァージョンの「七つの子」が、あっという間に出来上がっていきました。途中で、”バイバイ・ブラックバード”を入れてみたりして、「七つの子」と遊ぶトミーの顔つきは「芸術家の産みの苦しみ」なんてどこ吹く風のポーカーフェイス。ただ、たくさんのヴァージョンを作るだけでなく、どの演奏解釈にも、大きな夕空や、鳥の羽ばたき、家族や故郷への憧憬が色んな形で表現されているのが、何よりすごいことでした。
深夜、ホテルまでの車中、ゴキゲンで鼻歌を歌ってる巨匠に、私は思わず言いました。「トミー、さっき私は『神の御業(The works of God)』を観ました。あなたは天才です!」
トミーは少し鼻を膨らませてから、いつもと変わらない淡々とした口調でつぶやいたのを覚えてます。「わたしは常にそうあるよう努力してる。」って。
さて、翌日の大阪公演はシンフォニー・ホール、寺井が楽屋見舞に行くと、トミーはピアノ付きの一番大きい楽屋で「七つの子」を練習中、傍らにはジュニア・マンスがいました。ピアノの上に何があったと思います?森永のチョコボールが、譜面の上に、ちょこんと置いてあったんですって!
では、トリビュート・コンサートでCU!
トリビュートの前にトミー・フラナガン・インタビューを読もう!
大阪も寒くなりました!来週末はいよいよトリビュート・コンサート、日々稽古、寺井尚之の指先はパンパンに弾け、ピアノにも気合が入ってきたのか、音色もさらに研ぎ澄まされてきました。
トリビュート・コンサートの回数を重ねるにつれ、トミー・フラナガンを「生」で聴いたことのないお客様の割合が増えてきて、演奏する寺井尚之The Mainstemの責任も大きくなってます。
トミー・フラナガンってどんな人なんやろう?と興味を持つ皆さんのために、米ジャズ月刊誌、「Jazz Times」のサイトに掲載されているトミー・フラナガン・インタビューを日本語にしてみました。
聴き手はジャズライター、ジャック・ロウ、NYの自宅を訪問して話を聞いています。スター・インタビューみたいに一般的な話題が多くて、質問によっては、えー!?っていう答えをしているのが却って面白い。(たとえば趣味がカメラとか・・・フイルムの入れ方も知らなかったのに・・・)
2001年1~2月掲載、最後にOverSeasを訪問する半年ほど前のインタビューです。どうぞ!
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JazzTimes
January/February 2001
Tommy Flanagan Interview
聴き手Jacques Lowe
トミー・フラナガンとダイアナ夫人は、マンハッタンのアッパー・イーストサイド(本当はアッパー・ウエストサイド)にある、居心地の良いアパートメントに住んでいる。そこは、訪問する者を迎える温かい心づくしと、長年の幸せな結婚生活の香りに満ちた住まいだ。アパートの壁一面にある本棚に本があふれ、棚やテーブルには、世界中の楽旅の思い出の品々といくつかのフラワーアレンジが、そして、居間にはグランドピアノがでんと鎮座している。
70歳で未だにスリムな体型を保つトミーは、自分を吹聴することを好まない控え目な人柄だ。それに対してダイアナ夫人は、夫の寡黙さを、熱っぽくに讃美することを厭わない。エラ・フィッツジェラルドとの長年に渡る忘れ難い名演の数々や、ジャズ・ピアノのパイオニアとしての業績は、過去の膨大な書籍や譜面を含め、語り尽くすことはできない。
私が彼に、コンピューターや最新のオーディオ機器について尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「私は昔風の人間でね、シンプルが一番という信念を持っているんだ。いまだにダイヤル式電話機を使っているくらいだから。」
トミーは車も持っていないし、運転すらしない。だがダイアナは運転好きだ。海外にツアーしたときには、レンタカーで地方をドライブすることもあるという。
「私たちは二人ともフランスが大好きで、何度かドライブ旅行したことがある。シャトーに泊まって、ワインのテイスティングをしながら、土地のおいしい料理を楽しんだり、歴史を辿ったりするのが好きでね。ヨーロッパ・ツアーの時は、フランスを旅行できるよう日程を調整するんだ。アイルランドも好きで、楽旅のついでに観光したことがある。」
NYの街をこよなく愛するトミーは、NYという大都市の機能を満喫している。美術館通いをして、芸術を楽しむ。メトロポリタン美術館では古典芸術に、MOMA(NY近代美術館)では、印象派の作品に心奪われる。観劇も大好きで、一番最近観た”For Colored Girls Who Have Considered Suicide/When the Rainbow Is Enuf.”を今も絶賛している。 それに、セントラル・パークの散歩は欠かさない。
“For Colored Girls・・・”(虹にうんざりしたとき/自殺を考えたことのある有色人種の女の子たちの為に/)は、オール黒人キャスト、7人の有色人種の女性たちが21篇の詩の朗誦し音楽やダンスをコラボさせたミュージカルでトニー賞を受賞した。来年、ハル・ベリーやアンジェラ・バセット主演の映画が公開されるらしいから、私も観ようっと!
海外ツアー中も、暇を見つけては美術館めぐりをする。なかでもゴッホの名作を多数所蔵するオランダ・アムステルダム国立美術館がお気に入りだという。
さて、本業の音楽では、’50年代のジャズの巨人たちがトミー・フラナガンのヒーローだ。コールマン・ホーキンス(ts)、デューク・エリントン、ディジー・ガレスピー(tp)、アート・テイタム(p)、ベン・ウェブスター(ts)、チャーリー・パーカー(as)、テディ・ウイルソン(p)と言った人たちである。ごく最近、ルイ・アームストロング(tp,vo)の良さがやっと判ってきたと言う。ジャズだけでなく、ショパン、ラヴェル、バッハ、ベートーベンなども好む。
滅多にない休暇は、ニューイングランドのリゾート、ケープ・コッドや、カリフォルニアでは孫たちと過ごす。「やんちゃで、ヘトヘトになる」と言いながら、孫たちをレドンド・ビーチや野球観戦に連れていくことにしている。野球も好きで、贔屓チームはオークランド・アスレチックス。ありとあらゆるスポーツをTV観戦し、しばしば生でも楽しんでいる。「ひょっとしたら、陸上の長距離選手になればいい線行っていたかも知れないが、今はもっぱら長距離散歩だ。」と、彼は言う。(訳注:トミーは、スポーツのことは全然詳しくなかったです。私がアトランティック・シティのバスケチームのキャップをかぶってたら、「どこの野球チームのんや?」と訊いてはりました。)
トミーの生活は多忙だ。もうすぐ日本やミラノのブルーノートでの公演を控えているし、ビリー・ストレイホーン集アルバムを準備中だ。行ってみたい場所はギリシャの古代神殿やキューバ、それに、ローマを再訪して、古代美術への尽きせぬ興味を満たしたいとも思っている。
そんなトミー・フラナガンの思い出の品は、ロレックスのゴールド・オイスターと純金のIDブレスレット、どちらもエラ・フィッツジェラルドからの贈り物だ。(トミーは、いつも左手にロレックス、右手にブレスをはめていました。因みにジョージ・ムラーツはホワイト・ゴールドのオイスターを愛用しています。)
<トミー・フラナガン・パーソナル・ファイル>
Q:服装のポリシーは?
A: ずっと上品なものが好きで、今はツアー中に服を買うことにしている。フランスで上着、イタリアでセーター、といった具合にね。
Q:好きな食べ物?
A: フレンチとイタリアン。
Q:好きな飲み物?
A:ライム入りのウォッカ・ソーダだが、今はフランス・ワイン、赤でも白でも飲んでいる。(訳注:この頃からほとんどお酒は飲まなくなっていました。でも体調が悪いことは話したくなかったのでしょう。)
Q:一番最近読んだ本は?
A: ビリー・ストレイホーンの伝記、「Lush Life」(デヴィッド・ハジュ著)(訳注:伝記を読んでいたのなら、本当にストレイホーン集を録音するつもりだったんでしょうね!「Tokyo Ricital」から20数年ぶりの演奏解釈をレコードにしておいてほしかったのに!)
Q:好きな本?
A:聖書
Q:一番最近観た映画?
A:エリン・ブロコビッチ (2000年 ジュリア・ロバーツ主演、スティーブン・ソダーバーグ監督作品: 実在した社会活動家の痛快映画)
Q: 趣味は?
A: 写真が好きで、ライカのカメラを持っている。
Q: ペットは?
A: 犬が好きだ。昔、アイリッシュ・セッターを飼っていたが、NYでペットを飼うと面倒がいっぱいなのでね。
Q: 都会で暮らすのと、田舎暮らしではどちらが好きですか?
A: このNYと、街にある色々なものが大好きだよ。(訳注:トミーは、「本当は田舎で暮らしたい。植物を育てる天性の才能があるので、庭いじりをして暮らしたい。」と、よく言っていた。でもジャズクラブは田舎にはないし、ダイアナはNY至上主義でした。トミーは引退したら、子どもたちがいるカリフォルニアに住みたかったようです。)
(了)
さよなら、ディック・カッツさん (1924-2009)
11月はトリビュートの月、トミー・フラナガンは2001年11月16日に亡くなった。これまで11月には沢山の別れがあったから、もう悲しいニュースは聞きたくない。
そう思っていた矢先、昨日、G先生からディック・カッツ(p)さんの訃報が届きました。
数か月前から、入退院を繰り返されている噂を聞いていて、先週ダイアナにお見舞いメッセージを託した直後のことでした。85歳という高齢で天寿をまっとうされたわけですが、やっぱりとても寂しい・・・さっきダイアナに電話したのですが、お亡くなりになったのが8日だったのか10日だったのかも、告別式がいつなのかも、まだよく分からないと言っていました。ダイアナとは歌手時代に伴奏してもらっていた20代からの友人で、夫のトミーよりもずっと長いお付き合いだったんです。
若き日のカッツさんは左から二人目。左隣はジョー・ニューマン(tp)、右端はカウント・ベイシー(p)
ピアノの巨匠、批評界屈指のジャズ・ライター、プロデューサー、教育者、作編曲家、ディック・カッツの本名は、Richard Aaron Katz、メリーランド州ボルチモア生、トミーや私と同じうお座で、誕生日は1924年3月13日。いくつかの大学を卒業しているけれど、ジュリアード音楽院ではテディ・ウイルソン(p)に師事し、美しいタッチ、趣味の良いプレイと、既成価値に捉われない広い見識を受け継いだ。ジャズ界へのメジャー・デビューは24歳、ベン・ウェブスター(ts)のバンドで、マンハッタン・スクール・オブ・ミュージック在籍中’48年の大晦日のことだったらしい。
J.J.ジョンソン(tb)がカイ・ウィンディング(tb)とコンビを組んでいた時代のレギュラー・ピアニストで、トミー・フラナガンはカッツさんの後任としてJJのバンドに参加した。パパ・ジョー・ジョーンズ(ds)、ケニー・ド-ハム(tp)、オスカー・ペティフォード(b)など多くの巨匠たちのバンドで活動しているけど、カッツさんが一番誇りにしていたのは、ベニー・カーター(as, tp, etc)のレギュラー・ピアニストだったこと。歌伴の名手として、カーメン・マクレエやヘレン・メリルと何枚もレコーディングしている。
’70年代に一度だけ、リー・コニッツと来日したことがあり、大阪の宿泊先リーガ・ロイヤルホテルのラウンジで、和服の女性にお抹茶のサービスをしてもらったのがいい思い出になったそうです。
ヘレン・メリルは昔から伴奏陣のセレクションがすごい!左からロン・カーター(b)、ジム・ホール(g)、ディック・カッツ、ヘレン・メリル、サド・ジョーンズ(cor)
レコード業界では、オリン・キープニュースと共に「Milestone Records」を設立、良心的なプロデューサーとしても知られているし、ミュージシャンならではの切り口と音楽への愛情にあふれる卓越した文章でも、グラミー賞にノミネートされた。
ダイアナはディックを「ジャズ界で最も過小評価されているピアニスト」と言う。一説によれば、富裕な一族の人なので、ガツガツ仕事をするより、フリーランスでいることを選んだとも噂されている。なるほど、演奏も人柄もほんとに品がいい。だからと言って偉ぶらず、都会的だけど、ガサガサしたところや社交辞令がなく、話していてほんとに気持のよい楽しい人だった。ああいうのをHipって言うのかな?WNYCの追悼文には彼のことを「根っからのヒップスター」と書いてあった。
“Sweet”という言葉がぴったりなカッツさんの人生も、辛いことは沢山あったらしい。ジャズ界で、”White Boy”と揶揄され、白人ミュージシャンの悲哀を味わったことも問わず語りに聞いたことがあるけれど、だからといってカッツさんのフェアな視点がゆがむことはなかった。
カッツさんは、ジャズの色んな知識を分け与えてくれたけど、中でも印象的なのは、こんなセリフだ。「今でも上手いミュージシャンは沢山いるが、一番売れている何某の20コーラスのソロを聴いても、終われば何も残らない。だがね、何十年も前に聴いたレスター・ヤングのたった2小節のフレーズは、ずーっと私の心の中で響き続けているんだ。」その言葉には「いまどきの人」に対する意地悪な感情は微塵も感じられない。ただ、カッツさんがすごく大切にしている宝物を見せてもらったような気持ちになったのだった。
今日はカッツさんが昔プレゼントしてくれたブルーのマフラーを巻いてきました。カッツ夫妻は、ことあるごとに、本や人形や、ゼリービーンズやキャンディーや、息子さんのロックCDや、ヨガ瞑想用のテープまで、あるとあらゆるものを贈ってくれたけど、一番大切なものは、心の中に宝物としてしまってあります。
Ev’ry time we say goodbye
I die a little
Ev’ry time we say goodbye
I wonder why a little…
Goodbye Dick Katz
ジョージ・ムラーツ ニュース (その2:Maestro and B21)
こんにちは!休日はゆっくりお過ごしですか?私は「文化の日」ではなく「雑務の日」でおわりそうです。
今回は、我らのジョージ・ムラーツ(b)が最近購入した新しい愛器についてご紹介したいと思います。
ジョージ・ムラーツのように世界中を飛び回るベーシストの頭痛のタネは図体の大きな「楽器」!ピアニストなら余程の大物でないかぎり、演奏会場のピアノを使わなければならないので楽器不要だし、ドラマーならシンバルとスティック以外は現地手配が普通。でも、ベースは現地に任せると、どんなひどい楽器が待っているかわかりません。だから、飛行機に積む時はツタンカーメンの棺桶のようなハードケースに格納して運びますが、それでも、クレーンで搬出された時、ネックがポキっと折れちゃって、保険に入っていてもヨーロッパのマエストロにしか治せないので、修理代に全然足りなかったりします。到着地の気温や湿度も心配だし、タキシードやスーツが入った大きな旅行バッグとベースを抱えバスや列車を乗り継ぐのは本当に大変そう。ヨーロッパ諸国の大ホールをワンナイターで駆け抜ける楽旅が多いので、OverSeasみたいに、ムラーツを神と崇める若い衆が、各国どこにでもしっかり待機しているとは限りません。
そんなムラーツ兄さんにぴったりのベースが見つかったらしいです。
<21世紀のコントラバス>
それはフランスの絃楽器製作者、パトリック・シャルトンという名匠が開発した『21世紀のベース』と呼ばれる作品で、『B21』という名前です。B29爆撃機みたいで、日本人には余り気持の良い名前じゃないけど、21世紀のBassということなんですね。ネックが着脱可能になっていて、小さなケースに収納出来てしまう画期的なベースで、鳴りも良く音色も弾き心地も素晴らしいらしい。
ベーシスト系の掲示板サイトで何年か前から話題になっていてとても評判がいいみたい。
シャルトンは、ジョージ・ムラーツのために、ベースアンプとの相性もよくて、多分彼の愛器で「カナリア」と呼ばれるオールドのイタリアン・ベースを模倣した特別仕様のB21を製作してくれて、その音色は正に「Incredible!」「シャルトンは天才や!」と、珍しく兄さんは口をきわめて誉めちぎっています。
ベースの運搬に苦労しているベーシストの方、一台いかがですか?因みにスタンダード仕様のB21は、日本円にして430万円位、シャルトンのアトリエは注文が殺到しているらしく、ウエイティング・リストに登録してから出来上がるまで3年くらいはかかるらしいです。
ネックと本体の着脱は簡単で、着装すると非常にしっかり固定され、ジョージ・ムラーツのようなハイポジションでもノーブロブレム、持ち運びの時はあっと驚くコンパクトパッキングです。シャルトンのサイトにはハードケースも掲載されていましたが、これがまたおしゃれなケースでした。ジョージが持ち歩けば、数年前に起こったOverSeasのiPhoneブームのような現象が世界で頻発するかも・・・(私は携帯もベースも今のところ使ってないけど。)
9月のNYでは、久々に「カナリア」を携えて明るい音色のベースサウンドを聴かせたそうですが、今週末からベルリンを皮切りに始まるハンク・ジョーンズ(p)3とのツアーでは、きっとこのB21の音色が聴けることでしょう!近いうちにOverSeasでも聴けるといいな!
CU
追伸:着流しのジョージ・ムラーツ
深夜にジョージ・ムラーツの叙勲ニュースを探索していたら、下のエントリーで紹介した、在外(在米)チェコ人のポータルサイト、Krajane.orgのトップに、昨年OverSeasで、寺井尚之と一緒に撮影したキモノ姿のジョージ・ムラーツの写真が出ていてびっくり!
実は、昨日このサイトをチェックしたときに、「ジョージ・ムラーツさんは、日本で最も愛されるジャズ・ベーシストです。」と、この写真を添えてお祝いメッセージを送信したのです。Mr.Tamae Teraiになっているのがご愛嬌。
まさか、トップに載るとは思いませんでした。アニキに叱られたらどうしよう・・・どうか見つかりませんように・・・
すぐに他のニュースに変わると思いますので、今のうちに紹介しておきます!
http://www.krajane.org/en/
CU
ジョージ・ムラーツ ニュース (その1:大統領栄誉賞)
お元気ですか?11月のトリビュート・コンサートが近づくと、ダイアナから頻繁に激励電話がかかってくるので、慌ただしい一週間でした。ダイアナの生活リズムは、「一日24時間」のバーラインを無視したBeBop的「謎」なので、日本が真夜中でも、調理場で必死に仕込みをしている時もお構いなし。なのに、こっちが時差を考えて常識的な時刻に電話すると、だいたい寝ぼけ声なので困ります。
そんな中、我らのアニキ、ジョージ・ムラーツからは、近況報告と、東欧の報道通信社、メデイアファクスからのニュースが送られてきました。
<ムラーツ兄さん、受勲おめでとう!>
というのも、先日Interludeでお伝えしていた勲章を、10月6日に大統領から直接渡してもらったそうです。アニキ、おめでとう!!
兄さんは親切にも、ニュースページをグーグル和訳したファイルを送ってきてくれたのですがチンプンカンプン、英訳してみてもも同程度のものでした。サルカちゃんが、まともな英語に翻訳中だそうですが、とりあえず、在外チェコ人の為のサイトのニュースではこんな風に報道されています。
[10月6日付文化ニュース/ クラウス大統領、ジャズマン、ジョージ・ムラーツに栄誉賞を授与。]
 ヴァーツラフ・クラウスチェコ共和国大統領は、ジャズ・ベーシスト:ジョージ・ムラーツ氏に対し、彼の65歳の誕生日を記念して、「共和国大統領ゴールド・プラック栄誉賞」を授与した。
ムラーツ氏は米国在住、世界最高のジャズ・ベーシストとして内外で活躍しており、何百というレコーディングを行ってきた。この大統領栄誉賞は、世界的に活躍し、チェコ共和国に貢献する各界の著名人に授与されている。
今回の受賞にあたり、ムラーツ氏は大統領への深い感謝と名誉を受けた感動を表明している。叙勲決定の際には、「ジャズ・ミュージシャンとして受賞したことは、私だけでなく、ジャズ界のためにも素晴らしいこと」と述べていた。
プラハ音楽院出身、ソ連軍のチェコ侵攻で、国外移住を決意、ボストンの名門音楽校バークリー音楽院への奨学金を取得し渡米、40年以上米国在住。クラーク・テリー、ハービー・ハンコック、ジョー・ウィリアムズ達と共演を重ねた。1968年、NYでディジー・ガレスピー・クインテットに参加後、オスカー・ピーターソン・トリオやエラ・フィッツジェラルドのトリオに加入、それ以外にも、チャーリー・ミンガス、トミー・フラナガン、スタン・ゲッツなど、超一流のミュージシャンと活動を続けている。
祖国を離れ、米国市民として、アメリカ生まれの芸術であるジャズを演奏する音楽家が初叙勲したことが、大きな話題になっているようですね。
チェコ国営TV局のニュース専門チャンネル「CT24」では、スタジオのニュースキャスターがプラハ城大統領執務室前のジョージ・ムラーツに独占インタビューしている映像を見ることができます。楽器を持ってなくて、チェコ語を話す兄さんは、ブルガリア国営TVに出ている琴欧州よりかっこいい!
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動画は上の矢印をクリックすると観れます。(プラグインが特殊ですが、FirefoxやIEなら観れるはずです。)ムラーツ兄さんによれば、チェコ語で上品に話している内容は以下のとおり。
「大統領は非常にお忙しいのに、予定より長くお話させていただきました。賞を頂けるとは夢にも思っていなかったし、非常に光栄です。」
「私がジャズを始めたのは、高校時代のキャンプにあったジャズバンドがきっかけです。それ以来学校の始業時間前に練習していました。元々の楽器はサックスだったのですが、休憩時間にちょっとベースを弾いてみたら、音色が気に入ってしまって、そのまま音楽学校で勉強しました。
最後の質問は、「なぜ海外でJiriでなくGeorgeと名乗っているのか?」やはり本名を使って欲しいと思うのは、チェコ国民の自然な感想でしょうね。
それに対してムラーツは自然体で答えています。
「アメリカの人たちが、Jiriという名前を聴き取ることも発音することもできないので、ジョージならよくわかると、アメリカ流の名前をつけたのです。公式の書類などで色々ややこしいことがあったので、それに従ったんです。」
ジョージ・ムラーツは、来週から再びヨーロッパに渡り、ハンク・ジョーンズ(p)とトルコやポルトガルをツアーする予定。次回のジョージ・ムラーツ・ニュースでは、彼が今とても気に入っている新しい楽器についてご紹介します!
お兄ちゃん、おめでとう!これからも、体に十分気をつけて演奏活動を続けてください!日本にもたくさんファンが待ってるからね~!
さて明日は寺井尚之ピアノトリオ:The Mainstem、十三夜の秋の宵、一緒に聴きましょうね!お勧め料理はビーフストロガノフを作っておきます。
CU
Red Mitchell (その3) 考えて闘ったベーシスト
台風一過で秋本番の大阪です。今朝はJRのダイヤも大混乱でしたが、いかがお過ごしですか?皆さんの町やご家族の誰にも被害がなければいいのですが・・・
<私が故国を去った理由>
レッド・ミッチェルが住みなれたLAを離れストックホルムに転居したのは1968年ですが、初めてスエーデンを訪れたのは’54のツアーで、ビリー・ホリディも一緒だったと言います。リムジンで街を案内された時、ビリー・ホリディはてっきり景観の良い場所だけをドライブしているのだと思いこんで、「スラム街に連れて行ってよ。」と言いだしました。すると、現地の人たちはこう言って、レディ・デイを驚かせたそうです。
「この町にスラム街はありませんよ。」
「そのかわり、この国にはビヴァリー・ヒルズもありませんがね。」
アメリカン・ドリームの裏側にある、構造的格差社会の米国に失望したミッチェルは、第二の人生の舞台に、平等社会スエーデンを躊躇なく選んだのかも知れません。
ジーン・リース著、「Cats of Any Color」の中で、レッド・ミッチェルはスエーデン移住の動機について語っています。
レッド・ミッチェル:「二度目の妻と暮らしていた時のLAの自宅はシャロン・テートを惨殺したマンソン・ファミリーの活動場所の近所でね、近所の老夫婦が殺害され、私の家のガレージが荒らされた。彼らの仕業だと思うよ。当時、ショウビジネスの人間は戦々恐々としてしていて、スティーブ・マックイーンですら拳銃を携帯していたほどだ。だが、あの事件は米国全土に蔓延する暴力主義の氷山の一角に過ぎない。
私がアメリカを去ったのは、ホワイトハウスから地下鉄に至るまで、全米を覆い尽くす暴力と人種差別が原因だ。具体的には、ごく短期間に続けて起こった6つの事件が、移住の理由だ。ひとつは二度目の結婚の破たん。ふたつめは、ヴェトナム戦争から街で起こる事件など様々な暴力の悪循環に加担したくなかったから。そして、僕たちが演奏する音楽にも、社会の暴力的な要素が反映されていくのに耐えられなかった・・・」
レッド・ミッチェルの最後の妻、ダイアンはスエーデンを含め3つの大学で社会学を修め、反戦運動に関わった社会活動家ですから、実存主義的でリベラルな思想は、ひょっとしたら彼女の影響なのかも知れません。
<スエーデン時代>
ペデルセンと、二大巨匠の2ショット。
スエーデンに渡ったレッド・ミッチェルはアーティストとして大歓迎を受け、フリーランスで活動します。その頃レギュラーで共演していたのが、12月のジャズ講座に登場するテナー奏者ニセ・サンドストローム(ts)です。
’77年から’90年までは、毎年必ずNYに3か月間滞在し、「ブラッドリーズ/ Bradley’s」を拠点にして、トミー・フラナガン、ジム・ホール(g)、ハーブ・エリス (g)と共演。辛口コメントで知られる評論家レナード・フェザーに「ジャズ・ベース最高のソロイスト」と賛辞を献上させています。
ベースだけでなくヴォーカルやピアノも演奏、そればかりか詩人としても活躍しました。91年にはスエーデンのグラミー賞を受賞、同年ソ連にホレス・パーラン(p)とツアーしています。演奏の傍ら、欧米をまたにかけ”Communication”, “ベース・ワークショップ” “五度チューニング・ベース” などのテーマで講義、講演し、教育者としても実績を挙げました。チャーリー・ヘイデン(b)や、モンティ・アレキサンダー(p)のレギュラー・ベーシストであるハッサン・シャカール(Hassan A. Shakur aka.J.J. Wiggins)もレッド・ミッチェルの愛弟子なんです。
<ズート、サラ、マイルス・・・レッド・ミッチェルのアイドルたち>
音楽や社会問題、何でも徹底的に論じ尽くすレッド・ミッチェルの発言を読んでいると、もし彼が日本人なら、TVコメンテイターに成れたのに・・・と思うほどです。そんな彼の音楽的アイドルは、ベーシストでない人ばかりでした。
レッド・ミッチェル:私のアイドルは、ベーシストとは限らない。たとえばズート・シムス(ts)、それにサラ・ヴォーン(vo)だ。彼女の数え切れない美点の中でも、あのイントネーションが最高だ。彼女の音程は完璧だ。ど真ん中に命中した音程が、次にはさらにその中心に、その次には、さらにその針の穴のど真ん中にヒットしていくのが堪らない。それだけで鳥肌が立って泣いちゃうよ。
自分の生徒には、ベースでなくホーン奏者を見習えと常に言っている。特に心から薦めたいのが’50~’60年代のマイルス・デイヴィスだ。
なぜなら、マイルス・デイヴィスにはトランペッターとしての天賦の才はないからだ。マイルスはトランペットを演奏する為には、ありとあらゆる問題を克服しなければならなかった。そのため、マイルスは考えに考え抜いた。問題と闘いながら考え抜いたんだ。だから彼のプレイは実にシンプルで深みがあり、ベース奏者でも演奏できるし、オクターブ低く引けば一層深みが増すフレーズが多い。だから、ホーンならマイルスを聴けと言っている。
マイルス・デイヴィスは自分の欠点を、最高の長所に変えた。彼の吹く音は、様々な問題と格闘した結果だ。彼が考えることなく出した音などただ一つとしてないよ!
私にもベーシストとして致命的な欠陥がある。一番の欠陥は、極端な「右利き」であること:普通ベースの演奏は8~9割までが左手の仕事なんだよ。左手と右脳を柔軟に活用して、右手はとれとれの魚みたいなもんでいいんだ。左手を自由に使えるよう努力してみたが、どうにも無理だった。それで、「右利き」を最高に活かせるようフィンガリングを工夫して、自分の奏法を編み出した。マイルスのように欠点を長所にしようと格闘したわけだ。
<晩年>
G先生のお話によれば、’92年にレッド・ミッチェルが故国に戻り、オレゴン州のサレムに転居したのは、ダイアン夫人のお父さんがそこに住居を持っていたのと、ストックホルムのアパートで近隣から演奏による「騒音」の苦情が来たためであるそうです。
この頃からミッチェルはしばしば狭心症の発作が激しくなり、痛みをこらえて生活していたそうで、ひょっとすると、アメリカに帰ったのは、自分の死期が近いのを予感していたせいかも知れません。トミー・フラナガンやレッド・ミッチェル、サー・ローランド・ハナ・・皆心臓疾患を抱えていたんですね。
帰国後、大統領選挙戦たけなわの’92年10月、ミッチェルは軽度の心臓発作で入院、リベラルでジャズ・ファンであったビル・クリントンに不在者投票しています。11月3日、心臓検査の結果は良好、またビル・クリントンが大統領に選出され、レッド・ミッチェルは最高の上機嫌でLAにいる弟のゴードン・ミッチェルと、長距離電話で互いに祝い合いました。
その夜遅く、レッド・ミッチェルは脳卒中の発作に見舞われ5日間昏睡状態となり、1992年11月8日、帰らぬ人となりました。
先月から、三回に分けて、レッド・ミッチェル(b)について書いてきましたが、ちょうど、この時期にレッド・ミッチェルのメモリアルサイトがオープンしていました!ダイアン未亡人が作成しているサイトで、まだ工事中の箇所もありますけれど、写真やヴィデオも沢山Upされていて、とても嬉しく思いました。「トミー・フラナガンの足跡を辿る」のレッド・ミッチェル時代にこのサイトが出来たのは、ミッチェルの言葉を借りるなら、神様ではなく”母なる自然”の思し召しかも知れません。
今回のレッド・ミッチェルの写真はすべてhttp://www.redmitchell.com/からのものです。
土曜日のジャズ講座では、レッド・ミッチェルの饒舌な語り口そのままのベースを楽しもう!
お勧め料理は、レッド・ミッチェルと同じくらい饒舌なペッパー・アダムスの名盤「The Master」の中のオリジナル曲に因んで、メキシコ料理「エンチラーダ」を作ることにしました。中身はピリ辛のお肉と、あっさりマイルドなマッシュルーム&ホウレン草、ソースもホットチリ味とサワークリームの2色作って待っています。
CU