ゴールデン・ウィークはケニー・ド-ハムを読もう!(3) ほんのり甘口編

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 ゴールデン・ウィーク特集、KDことケニー・ド-ハムが書いたレコード評の最終回は、私も大好きな歌手、カーメン・マクレエのアルバム。これはNYのヴィレッジ・ゲイトでのカーメンのライブ盤。私がピックアップした彼のレビューは、偶然にも、全てライブ・レコーディングでした。
 
ダウンビート誌 ’66 5/19号より。
womantalk1.jpgCarmen McRae『Woman Talk』(Mainstream 6065)
評点:★★★★★
=パーソネル=
Carmen McRae(vo), Ray Beckenstein(fl), Norman Simmons(p), Joe Puma(g), Paul Breslin(b), Frank Severino(ds), Jose Mangual(bongos)
=曲目=
1. Sometimes I’m Happy
2. Don’t Explain
3. Woman Talk
4. Kick off Your Shoes
5. The Shadow of Your Smile
6. The Sweetest Sounds
7. Where Would You Be Without Me?
8. Feelin’ Good
9. Run, Run, Run
10. No More
11. Look At That Face
12. I Wish Were In Love Again 

<1>は、ゆったりスイングするベースから始まり、客席は、手拍子や指を鳴らして呼応する。2コーラス目にドラムとピアノ、そしてフルートが加わり、ミス・マックレーがひそやかに唄い出す。3コーラス目は、いつもの彼女のスタイルにちょっとエラ・フィッツジェラルドの雰囲気を加味したスキャットを聴かせて終わる。
 <2>冒頭の8小節の最後の部分は、中東の名歌手、イーマ・スーマックを思い起こす。サビの部分でのカーメンの歌唱は、余りに素晴らしく、言葉で説明できない(Don’t Explain)ほどだ。…全てが彼女自身の人生経験から滲み出る歌唱だ。1コーラス目の最後までクライマックスは持続し、ラストの8小節で、陰影、ドラマ性、そして感情、全てが溢れ出す。ラスト・コーラスはアドリブ、あの最後の8小節は僕に素晴らしい心理療法を施してくれた。
 僕は<3>で歌われているような女性たちの座り方や話し方について、詳しくないけど、マックレーの歌は本物だ!…皆さん、よく聴きなさい!
続く<4>では、実際に、楽しいことにさよならする女の子たちの姿を見ることができる。ひょっとしたら、これを聴いてがっかりする夫たちも何人か居るかも知れないな。
 <5>になると、カーメンは、より力強く活気に溢れた歌い方で、巧みにクライマックスまで持っていく。
 <6>で、一層ステージは盛り上がる。緊張感とドライブ感、説得力で、クライマックスは一層高まる…なんとも奥の深い歌唱だ。
 <7>は、定石通りの手法と力強いフィニッシュを合体させたヴァージョン。
 <8>はアドリブで始まり、そのうちイン・テンポとなる。そして、濃いラテン・リズムとフルートで色合いをガラリと変える。ゴキゲンなグルーヴを感じる。
 <9>では、歌、フルート、ギターの心躍るスイング感が聴きもの。
独特のムード溢れる<10>には、彼女の想像力と、語り口の深さに心奪われる。“あなたのことで苦しんだりしない、もうこれからは…”いいねえ。
 <11> この素晴らしさ…僕には適当なほめ言葉も見つからない。彼女の歌は、真にパーソナルで、他の誰にもないものだ。皆、聴け!よく聴くのだ!(Listen, listen!)
<12> では、彼らが舞台のずっと前方に出て行きライトを浴びる感じ。彼らが退場する時も、音楽は背を伸ばして行進を続ける。伴奏陣も素晴らしい。リチャード・ロジャーズ&ロレンツ・ハート・コンビが、命を与えられ、最高に活き活きしている。(KD)

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
KDのレビューに割り当てられたレコードは、大物の作品はどちらかというと少なくて、レコードは廃盤でも、良く知られているアーティストのものを三篇選んでみました。KDはミュージシャンなのに、テクニック面の言及はしない。譜面の読めない一般のリスナーの視点から、非常に判りやすく書いている。これはすごいね!
 今回のレビューみたいに、好きなものを語る時の嬉しそうな様子は、寺井尚之と合通じるものがあって、特に親近感を覚えます。
 このカーメン・マクレエのアルバムで、KDが一番注目しているのは、歌詞解釈。これまでの三篇に共通するKD批評の指針は、歌、曲、そして一枚のアルバムに起承転結をもたらす構成の力だ。それは、同時に『寺井尚之のジャズ講座』の指針と非常に共通している。
  
 評論集は今回で一段落。今週のジャズ講座には、トミー・フラナガン・トリオの名作、エリントン~ストレイホーン集『A Day in Tokyo』(Tokyo Recital)が登場します。OHPには譜面も多数登場予定。

 皆、聴け!よく聴くのだ!(Listen, listen!)
CU

ゴールデン・ウィークはケニー・ド-ハムを読もう!(2) 激辛編

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 名トランペッター、ケニー・ド-ハムが書いたレコード評は、好評、酷評の区別なく、演奏描写がしっかりしていて、やっつけ仕事がない。また、お公家さんみたいに、奥歯に物の挟まった言い方や、類語辞典片手にひねくりだした美辞麗句もない。ただ、真剣に聴き、KDのプレイと同じく、簡潔でストレート・アヘッドだ。
 今回、紹介するレコード評は、当時、日本でも非常に人気があったトランペットのスター、フレディ・ハバード(tp)のライブ盤、LPが片面一曲ずつの演奏です。メンバーはリー・モーガン(tp)を迎えた豪華版、演奏場所はブルックリンにあった『クラブ・ラ・マーシャル』。KDの評文は激辛!
ダウンビート誌 ’66 8/25 号より
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 Freddie Hubbard(tp)/ The Night Of The Cookers- Vol.2 (Blue Note 4208)
評点 ★★★
曲名
1.Jodo
2.Breaking Point
パーソネル
Freddie Hubbard(tp),
  Lee Morgan(tp)
  James Spaulding(as fl),
  Harold Mabern(p)
  Larry Ridley(b)
  Pete LaRoca(ds)
  Big Black(conga)

  16小節のシンバル・ワークに、疑問の残るアルト+トランペットのアンサンブルからフレディ・ハバードのソロ。しょっぱなから、彼お得意の『現在奮闘中』の看板を見せびらかす。
安定したペースで聴かせる他の殆どのソロイスト達(あるいは少なくとも数名の)から自分をより目立たせようとして、最初はペースを定めることをしない。
 
 ハバードは、まるでスポーツカーがくねくねしたカーブをターンするが如く、見え隠れしながら、退場するそぶりを見せ、一方で、ハイ・オクターブのエネルギーと多彩なアイデアの爆弾を投下し続ける。そのプレイは、有り余る肉体的パワー、攻撃性と、知的なハーモニーを併せ持つ20世紀的即興音楽らしい、炸裂するような流動感を作り出している。
 続くスポールディングのアルトはルーズでありながら、シャープで抑制が効いている。オープンなサウンドのメイバーンのピアノから、リズムセクションで、チーフ・ナビゲイター役のピート・ラロッカの激しいドラムが取って代わる。その後に来るのは、コンガの新人で、最も傑出した存在、今、ジャズ界で最もクリエイテイブな、ビッグ・ブラックだ。彼のプレイ自体に、先輩コンガ奏者ーチャノ・ポゾ、モンゴ.サンタマリア、、トゥオノ・オブ・ハイチやポテト・バルデス達のような深い音楽性は感じられないが、ビッグブラックには何か特別なものがある。ラロッカは最終コーラスでバンドをまとめ、<Jodo>は激しい幕切れとなる。
<Breaking Point>はカリプソの曲。ハバードが先発ソロ、、次にスポールディング、そして、“サイドワインダー”で有名なMr.リー・モーガンからメイバーン‥この曲を聴くのに延々費やした時間のおかげで、僕もついに我慢の限界(Breaking Point)に達する。
 ハバードは素晴らしい。しかし、このアルバムは退屈だ。(KD)

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フレディー・ハバード(1938-)
’92にトランペット奏者にとって一番大切な唇を損傷してから活動は少ない。

○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ 
 ハバードは、’70年代以降、頻繁に来日していて、私もよく観ました。大学のクラブのビッグバンドのメンバー達は、皆、ハバードに熱狂していた。超うまい!パワーも凄い!へヴィー級チャンプみたいだった!だけどなあ… 
 私がずーっと感じていた、「だけどなあ…」という漠然とした感じを、ちゃんと言葉にしてくれたのは、私の知る限りケニー・ド-ハムだけだ。
(続く)

ゴールデン・ウィークはケニー・ド-ハムを読もう!(1)

kenny_dorham.jpgKDことケニー・ド-ハム(1924-72)はテキサス男。ビリー・エクスタイン楽団、チャーリー・パーカー、ディジー・ガレスピー、BeBopの名バンドで活躍し、トミー・フラナガンとは名盤『静かなるケニー』を遺した名トランペット奏者、作編曲家。腎臓を患い僅か48歳で死去。
 寺井尚之は、懐石料理の如く、季節に因む旬の曲を聴かすのを得意にしている。先週、フラナガニアトリオはケニー・ド-ハムのハードバップ作品、”Passion Spring”を演った。春野菜には強いアクがあるけれど、それを抜いて上手に料理すると、この季節ならではの力強い味わいになる。”Passion Spring”も丁度そんな曲だった。私はケニー・ド-ハムが大好きなんです。職人というか、昔気質というか、会ったことないけど、非常に親近感を覚える。テナーの聖人、ジミー・ヒースとKDは非常に親しかったらしい。

 『Quiet Kenny』(静かなるケニー)にしても、「この音、このタイムしかない!」と言う位、どこを取っても完璧なのに、ジャズ特有の“カタギじゃない”かっこ良さに溢れていて、窮屈なところがない。だから、毎日聴いても飽きない。
 ケニー・ド-ハムを、ジャズ評論家、ゲイリー・ギディンスは『過小評価の代名詞』と呼んだ。
 ド-ハムは決して世渡りのうまい人でなく、腕の良い大工や板前さんみたいに気難しい名手だったという。大阪弁でいうと、“へんこなおっさん”だったのだ。名盤『Quiet Kenny』が録音された’59年当時、ド-ハムは、NYのマニーズという大きな楽器屋で、音楽インストラクターでなく、トランペット売り場の販売員として働いていた。いわゆるDay Gigで家族を養っていた。その気になればTV局やスタジオ・ミュージシャンの仕事がいくらでもあったろうに、けったいな人です。
 
 ケニー・ド-ハムはトランペットだけでなく、作編曲も一流で、ビッグバンド全盛時代は、ギル・フラーなど色んな編曲家のゴースト・ライターとして働いた。五線紙だけでなく、文才もあった。彼の書いた短い自叙伝は大変面白いので、いずれInterludeに載せたいな。
 さらに’66年には、ダウンビート誌でジャズ評論家としてレコード・レビューを担当している。これがまた、“へんこ”なド-ハムならではの名文です。とにかく、アルバムを真剣に聴いて書いている。ミュージシャンだから、音楽の描写力がダントツに優れていて、愛と厳しさがある。ミュージシャンの視点で、良いものは良い、ダメな物はダメとはっきり言う。
 そんなドーハムがセロニアス・モンク・カルテットのアルバム、『ミステリオーソ』について書いた異色のレコード・レビューを紹介してみましょう。(DownBeatの貴重なバックナンバーはG先生の膨大な蔵書から拝借して、日本語にしてみました。)
 この文章が書かれた’66年のジャズ界の潮流が、コルトレーン、マイルス以降のアヴァンギャルドで、“New Thing”という流行語が使われていた頃であることを心に留めて読むと一層興味深い。
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THELONIOUS MONK / MISTERIOSO(RECORDED ON TOUR)セロニアス・モンク/『ミステリオーソ』 (COLUMBIA)

 評点 ★★★1/2

ダウンビート・マガジン ’66 1/27号より

1. Well, You Needn’t
2. Misterioso
3. Light Blue
4. I’m Gettin’ Sentimental Over You
5. All the Things You Are
6. Honeysuckle Rose
7. Bemsha Swing
8. Evidence
パーソネル: Charlie Rouse(ts) Monk(p) Larry Gales or Butch Warren (b) Ben Riley or Frankie Dunlop (ds)

1. ライブ・レコーディングで、オープニングの1.では、モンクが<ウェル、ユー・ニードント>のメロディをイントロとして8小節を弾き終わる前に拍手が来る。ファーストテーマの後にラウズが先発ソロ、テーマから一貫性のある良いアドリブだ。その後モンクがソロ。続くベースのゲイルズ(b)もきっちり仕事をする。ライリー(ds)はバーラインを越えたハードなドラムソロだ。
再びアンサンブルに戻り、これぞモンクという決め技で終わる。
2.<ミステリオーソ>は風変わりなブルースだ。カット・タイムで進むが、ラウズのソロになると普通のタイムの普通のブルースになるので、全編これミステリアスということもなし。
3.<ライト・ブルー>には殆どコードがない。これは “NEW THING”のコンセプトか?いや違う。実はモンクの“OLD THING”な古いネタなのであった。だが古いと言えどあなどってはいけない。モンクのプレイする音楽の地平は“NEW THING”の、煙幕を張ったようにぼけたサウンドではない。モンクはどこまでもクリアだ。
4.は古いスタンダードだが、コンセプトは非常に斬新。テーマはモンクのストライド入りのソロで聴かせる。ラウズのリラックスした堂々たるソロは爽やかな風を呼び起こす。全く嬉しくなる(Delightな)演奏だ!
5.モンクの8小節のイントロから、グループ全体でスイングしながら<All the Things You Are>のテーマにどっとなだれ込む。部隊の先頭に立つのはラウズ。その激しさをそのまま読み取ったコード、自己主張するモンク、それをバックにするラウズ。テーマからそのままラウズがアドリブ・ソロを取る。ラウズに続くモンクは、大変に美しく、アヴァンギャルドな(というか、風変わりな)なシングルラインのシンコペーションをを弾いて見せる、秀逸なユーモアだ! モンクのソロの後、再びラウズが戻ってくるが、戻ってきても別に大したことは起こらず、モンク流のクライマックスは降下を始める。
6.モンクは自分流のコード解釈で<ハニーサックル・ローズ>を演奏。市販の譜面からはおよそかけ離れている。しかし、それでこそモンクだ。アドリブ・ソロでは、高音の慌ただしい右手の動きに入り込んでいく。本トラックにラウズは不参加。
7.各4小節で成り立つAABA形式の曲、短いフォーマットでアドリブのしやすい素材。まずラウズのソロから、モンクが続き終わる。
8.B面の<エビデンス>はオリジナリティとドラマ性では極めつけだ。-つまりメロデイとタイトルの関係において、である。
 本作品は、全体的に、’40年代のいわゆる「ハード・ジャズ」、つまり各人のソロ主体のフォーマットだが、ハーモニーとラインのコンセプトは非常に新鮮なものだ。しかし、現在流行中の“アヴァンギャルド” を特急列車に例えるなら、特急の線路上を各駅停車のが走っているような感は否めない。故に、まるで昔のレコードのように聴こえてしまう。列車の内容が余りに多いため、却って活気がなく、ハッスルが十分でない。(KD)
○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○ ○
どうですか?非常に具体的な描写で、このアルバムを聴いたことがなくても、楽器を演奏できなくとも、なんとなくイメージ出来る親切な書き方でしょう?一度聴いてみたくなりますね。だけど、当たり障りのない書き方でなく、あくまで鋭くモンク音楽を見据えている。
 
 ゴールデン・ウィークなので、土曜日も休日だから、土曜にでも、更に激辛と甘口のKDの評論2種を紹介します。
 CU

トリビュート・コンサートの前に、スプリング・ソングスの話をしよう!(1)

 恒例、「トミー・フラナガンに捧ぐ」=春のトリビュート・コンサートがいよいよ来週に迫りました。
 寺井尚之は、他の仕事を極端にセーブし、フラナガンの演目を磨くために一日中ピアノの前。私は本番はハードだから、なるべくスタミナが付くように、香辛料たっぷりのジューシーなスペアリブやカツレツを作ってます。春の野菜と一緒に供すると、日頃あっさり和食が好きなピアニストも、この時期はおいしいと言って食べてくれる。
  何故、春にトリビュートをするかというと、トミー・フラナガンの誕生日が3月16日だから。年2回のトリビュートは、ダイアナ未亡人の要望でもあります。仏教では命日から数えて法事をするけど、西洋では「生誕○年」と誕生日から数えるんですね。先週の誕生日には、ダイアナ未亡人から電話がかかってきて、「ヒサユキに私からハグを!しっかり演奏するように!」と激を飛ばされました。
scrap_from_the_apple.JPG  私の<ヴィレッジ・ヴォイス>スクラップブックは、新聞紙の色が風化してます。
  この時期に欠かせないのが『スプリング・ソングス』とトミーが呼んだ春にちなむ一連の曲。’80年代後半から、フラナガンは、毎年春になると、地元NYのジャズ・クラブにトリオで出演するローテーションを組んでいた。この時期のギグは世界中から出演交渉にやって来るプロデューサー達と、夏期のジャズフェスティバル・シーズンの仕事について交渉するショーケースであったのです。出演場所は、移り変わりの激しいクラブ・シーンで、その時期、最も隆盛でソリッドなプレイを聴かすクラブ、<ヴィレッジ・ヴァンガード>、<ファット・チューズデイズ>、<スイート・ベイジル>、<イリディアム>など、店は年によって色々でした。私達は’91年の4月、<スイート・ベイジル>で、2週間の出演中、ほぼ全セットを聴き、スプリングソングを味わえて幸せだった。
sweetbasil-1.JPGスイート・ベイジルにて。
   NYの春、昼間はポカポカ陽気で、レストランやカフェはどこも屋外にテーブルを出して、街の人々は半袖姿、でも日没後は4月でも毛皮のコートが要るほど寒かった。
    ダイアナは、自分達のアパートから少し南に降りたリンカーン・センターの向かいにある、こじんまりした『エンパイア・ホテル』(左の写真)を予約してくれ、近所の行きつけのレストランも何軒か教えてくれた。車社会のアメリカで、トミーとダイアナにはマイカーがなかったから(それどころか、アパートには食器洗い機も、携帯電話のない頃にミュージシャンが仕事を取るのに必携のファックスすらなかった。)ハイヤーで店に出勤する途中で、私たちをピックアップしてくれた。ミッドタウンからダウンタウンまで、ずーっと皆で歌を歌いながら行くこともあったなあ。
   トリオの中で、毎晩、若手のルイス・ナッシュ(ds)が一番先に店に入って、きちっとセッティングを終えている。当時のジョージ・ムラーツ(b)はクイーンズの自宅から、釣竿やバケツと一緒にイタリア製のベースを積んだスズキのセルボでマイカー通勤していた。
   フラナガン3は、通常1週間で出し物が変わるジャズ・クラブで、異例の2週間の連続出演と決まっていた。トップ・ピアノ・トリオの出演に、他店もビッグスターをぶつける。この時期、<ヴィレッジ・ヴァンガード>はマッコイ・タイナー3、<コンドンズ>ではテイラーズ・ウエイラーズと、最高のラインナップだったけど、他店に行く余裕はありませんでした。
   2週間の間に、フラナガンのレパートリーは、一定することなく、毎晩目まぐるしく変わった。バド・パウエル、エリントニア、モンク・チューン、サド・ジョーンズ…そして、さまざまなメドレー、2週間で、のべ100曲は演ったように記憶してます。ある晩演奏したビリー・ストレイホーンの晩年の名曲、<ブラッドカウント>が余りに素晴らしく、滞在中、街中のピアニストの間でずっと話題になっていた。殆ど固定の演目で通す期間もあるのだけど、毎晩、五線紙を鉛筆を持ちながら必死で聴きこむ寺井尚之に、トミーはありったけのレパートリーを聴かしてやろうと思ったのではないかと思う。
 
   そんな中で、毎夜、一曲か二曲必ず演奏するのが、スプリング・ソングだったのです。フラナガンは必ず、「では、スプリング・ソングを一曲」と言ってからおもむろに演る。軽やかなプレイは、新緑のように爽やかで、春野菜のように精気に溢れていながら、アクが抜けていた。決して、ラスト・チューンにするような大ネタではないのだけど、忘れられないNYの思い出だ。
 この時期にフラナガンが演ったスプリング・ソングは、ビリー・ホリディのおハコ、<Some Other Spring>そして<Spring Is Here>、そして、フラナガン・ファンなら、名盤『Ballads & Blues』での名演が忘れられない<They Say It’s Spring>だ。
最初の2曲は、ふきのとうみたいに、ほろ苦い春の歌。
 
<サム・アザー・スプリング>は、テディ・ウイルソンの妻であったアイリーン・ウイルソン、後のアイリーン・キッチングスが作曲した。もう一つのホリデーのおハコ、<グッドモーニング・ハートエイク>を作曲したアイリーン・ヒギンボサムと同じ人だとずっと思っていたのですが、アイラ・ギトラー達が別人であると証言しているいます。知らなかった…
 ピアニスト、作編曲家のアイリーンはテディより年上で、先に名声を獲得していて、夫の出世に大いに貢献した。ところがテディは自分が有名になると、妻を捨て他の女性と駆け落ちしてしまう。傷心のアイリーンは、ある日、レストランで、離婚の嘆きを親友達に聞いて貰っていた。奇しくも、悩みの聞き役は、フラナガンの崇拝するビリー・ホリディ(vo)とコールマン・ホーキンス(ts)だった。その時、テーブル脇のエアコンがブンブン言う音にインスピレーションを得て、この歌が出来あがったと言われている。まあ、天才というのは、凡人にとって非音楽的極まりないものも、名曲の元にしてしまうものなんですね。真っ暗な絶望の中で、小さな小さな希望がほのかに光る、稀有な名歌はテディ・ウイルソンの裏切りのおかげ(?)で生まれたのだった。

<サム・アザー・スプリング>

Irene Kitchings(写真):曲 / Arthur Herzog Jr.:詞
いつか春が来たら、
また恋でもしてみよう、
今は終わりと知りながら、
枯れそうな花に惨めたらしく
しがみつく。
咲き誇ったその途端、
踏みつけにされた花は、
私の恋と同じ。
いつか春が来て、
黄昏が夜に変るとき
新しい恋人に出会えるかしら?
もしもそうなら、
あなたのような人でないように、
「恋は盲目」と言うけれど、
もう私には通用しない。
暖かい日光が降り注いでも、
氷のように凍てつくこの心、
恋よ、お前は一度、
私を救ってくれたけど、
新しい物語は
始まるのかしら?
いつか春が来たなら、
私の心も目覚めるの?
そして、恋の魔法の音楽を
熱く歌えるようになるかしら?
昔のデュエットを忘れ、
新しい恋人と出会うかしら?
いつか、春が来たら。

 <Spring Is Here>は、私のお気に入り、リチャード・ロジャーズ=ロレンツ・ハート作品で、春というのに、失恋に沈む気持ちを、浮揚感のあるメロディに託すバラードです。エヴァンス派が好んで演奏するスタンダードで、リッチー・バイラーク(p)を擁するジョージ・ムラーツ・カルテットがOverSeasで演奏してくれたことがある。
 上の2曲と違って、NYの洒落っ気溢れる春らしい歌が、<They Say It’s Spring>、ブロッサム・ディアリーのキュートな歌唱を聴いてレパートリーにしたとトミーが言っていました。
 ああ…また長くなっちゃった。極めつけのスプリング・ソング、<They Say It’s Spring>のことは来週の前半にお話しましょう。
CU
 

氏より育ちか?:トミー・フラナガンの幼年時代

 我らのトミー・フラナガンの幼年時代はどうだったのだろう?

 旧ページで体裁が読みにくいので、別ページに改定しました。ぜひどうぞ!

http://jazzclub-overseas.com/blog/tamae/2015/10/post-220.html

コンサート・レポート:ショーン・スミス+寺井尚之デュオ 2/8 ’08

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<目にも耳にも楽しいコンサートだった!>
  NYで地道な活動を続けるベーシスト、ショーン・スミス=寺井尚之の顔合わせは、私にとってすごく楽しみな企画でした。
 当夜、遠くから近くから、大勢来て下さったお客様、どうもありがとうございました!
 日常、新レパートリーを開拓しつつ、一生モノの愛奏曲を熟成発酵させることに余念のない寺井尚之(p)が迎えるゲスト、ショーン・スミス(b)は、作曲家としてグラミー賞にノミネートされるほど、オリジナル曲を書き貯めるベーシスト。彼の持ち込む新ネタの土俵で、真っ向勝負で四つに組む相撲を取るのか?変則技で逃げを打つのか?音楽を良く知るお客様の前で、一夜のステージをどうしつらえるのか…?
 結果は、見た目も絵になる二人のミュージシャンの音楽的な会話が聴く者にちゃんと伝わる、とってもリッチな一夜だった。
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<当夜のレパートリー>
1st
1. Bitty Ditty (サド・ジョーンズ)
2. Lawn Ornament(ショーン・スミス)
3. Japanese Maple(ショーン・スミス)

4. Minor Mishap(トミー・フラナガン
2nd
1. Mean What You Say (サド・ジョーンズ)
2. Strasbourg (ショーン・スミス)
3. Lament(J.J.ジョンソン)
4. Scrapple from the Apple(チャーリー・パーカー)

3rd
1. That Tired Routine Called Love(マット・デニス)
2. Smooth As the Wind(タッド・ダメロン)

3. Poise(ショーン・スミス)
4. Hitting Home (ショーン・スミス)

Encore: Elusive (サド・ジョーンズ)
<段取りはプロの証>
   上の演奏曲目、青字はショーン・スミスのネタで、茶色は寺井尚之のネタ、因縁のアンコール曲=イルーシブ以外は、事前にメールや郵便でちゃんと譜面を交換していたのです。加えて寺井ネタは、何曲かのオファーの中から、ショーンに選んでもらって決めました。ネットって便利ですね!
 かつてトミー・フラナガンにOverSeasで演奏をお願いする時は、午前3時や4時に、何度も国際電話をかけて、回らない頭を英語モードにしてお願いしなくてはならなくて、完全に睡眠不足になってました。
 ショーンが送って来た5曲は、全て彼のオリジナル、それも結構難しい。ショーンの譜面は、いまどきのPCソフトで作ったものでなく手書きでした。寺井は、それらを自分できちっと清書し、毎日稽古して備えました。
 一方、ショーンにとって、寺井サイドの曲は、どれも、彼が20~30代にトミー・フラナガン3で聴き込んだレパートリーばかり、来日時にもテープやCDで予習している様子だった。
 ショーン・スミス&宮本在浩ss-zaiko.JPG当日1時間足らずのリハーサルを予定していた二人、ショーンは、宮本在浩(b)が快く貸してくれたイタリアの名器、コルシーニをかなり気に入った様子だったけど、弦高をできるだけ高めにしました。以前はもっと低かったのに、いつ替わったんだろう?ザイコウさんがOverSeasの掲示板に書いていたように、いつもより張りのある音色、アンプ臭がなくて非常にアコースティック、おかげで寺井の個性ある潤いのあるピアノ・サウンドが、一層引き立ち、よりカラフルな印象を与える。でも、この弦高でElusiveのテーマをユニゾンするというのは、かなりキツいんじゃないかしら…
★宮本在浩(b)とショーンです。
 ジャズが、室内で演奏されるようになり、ウッドベースを使い出したその昔は、ベースアンプなどないし、大きな生音を出す必要から、弦高は高かった。でも、アンプが発達し、無理に音量にこだわらなくてもよくなってからは、ベースの役割がビートだけでなく、メロディへと広がり、弦高は自ずと低くなって行きました。ニールス・ペデルセンやジョージ・ムラーツのような目くるめくような速いパッセージは昔のような高い弦高では難しい。だからといって、弦高を低くしアンプに頼ってばかりいると、ベタベタした頼りない音になってしまうので、ベーシスト達は皆、それぞれ秘密の工夫をしているみたい。寺井尚之と私が、今まで生で観た内で一番弦高の高かったベーシストは、ジョージ・モロウとチャールズ・ミンガス!バキバキとビートが空気を振動させて、男性的な魅力が一杯だったなあ…
 打ち合わせ風景1-duo-1.JPG 寺井尚之とショーン・スミスは、6年ぶりの再会なのに、まるで、毎週会っている友人同士のように挨拶をし、新婚の可愛い奥様を紹介してもらってから、ベースの弦高を調節して、コーヒーを片手に打ち合わせがテキパキ進みます。曲順はどうしよう?各曲のテーマ取りはピアノかベースか?ライブのアウトラインが瞬く間に決まった。この間わずか15分(!)。 
 その後、二人が楽器に向かうリハーサルでは、テンポ、イントロ、エンディング、決めの箇所を、ピンポイント的にチェックして全13曲、あれよあれよと言う間に、格好が付いていく様子を皆様にもお見せしたかったです。万一、言葉の問題があった時の為に、通訳で横に付いていた私もスカっとするリハーサルに、一昨年のジョージ・ムラーツ・トリオのリハを思い出しました。
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<聴き合う心が通う本番!>
 真っ赤なニットから渋いジャケットに着替えて来たショーン・スミス、ネクタイを締めてキメようと思っていたらしいけど、「わしはこのままやで。」と言う普段着の寺井に合わせ、ノータイ姿です。オープニングの“ビッティ・デッティ”から長年一緒にやって来たデュオ・チームのように、こなれたインタープレイで魅せました。“紅葉”(Japanese Maple)というショーンの作品は、色彩を音色で表すのが得意な寺井好みの曲、自分のレパートリーとしてしまうようです。
 セカンド・セットのオリジナル曲、“ストラスブール”は哀愁に溢れる日本人好みのメロディ、寺井門下の“つーちゃん”は、ストラスブールにも3日間滞在したことがあるそうですが、この曲を聴きながら、川面に映し出される夕焼けの心象風景が衝撃的に蘇ったと、印象的なコメントをくれた。ストラスブール ストラスブールは世界遺産のこんな街。
ショーンのアルバム・タイトルになっている、ラストセットのバラード、“ポイズ”も、一筋縄で行かぬ曲だし、軽快なミディアム・バウンスの“ヒッティング・ホーム”は転調だらけで、指使いに工夫をしないと弾けない難曲だったらしいけど、そんな事を微塵にも感じさせぬプレイでしたね。
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 アンコールのお楽しみ、例の“イルーシブ”は、ユニゾンのテーマが、朝飯前のように行ったリハーサルに比べれば、6割位の出来で、ショーンの悔しそうな表情と、狸寝入りみたいな寺井のポーカーフェイスが対照的で、却って印象的だった。近い将来、また二人で演奏して欲しいです。
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 タッド・ダメロンやサド・ジョーンズの難曲でも、ショーンはしっかりしたビートと、自然で洗練されたボトムラインをしっかり受け持ち、ピアノが「ピアノ」として音楽できるようにお膳立てをして行く。ベーシストとしての仕事をきっちりする。寺井はショーンのビートとラインの動きを感じながら、鍵盤のパレットで色んなカラーを作り、ショーンのソロが最もスムーズに流れるように、最高のバッキングで応える。そんな二人のハーモニーがとってもいい感じ。
 普段の生活でも、自分の言いたいことだけ言う人がいますよね。相手が話しているときは、合槌も打たず、時には、話している途中に割り込んだり、自分の話すタイミングだけを待っている人とは、その人の話がどんなに有益でも、ちょっとシラけてしまうけど、今夜の二人は正反対。
   お互いの話に耳を傾け、うまく相槌を打ちながら、話がどんどん盛り上がる、聞き上手、話し上手、楽しい対談を、傍らでふんふんと聴いているような心地よさに浸りました。
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 レギュラー・コンビではないけれど、全編、逃げを打たず、ソリッドなレパートリーで、真摯に聴かせたショーン・スミス=寺井尚之デュオ、ショーンはバンドスタンドに行くと男っぷりが数段上がるミュージシャン、ハイポジションを繰り出すと顔が高潮し、一段と男前!ぜひともまた近いうちに聴きたいものですね!
 帰り際も、何度も丁寧にお礼を言うショーン、昔と変わらない真面目なベーシストだったけど、それ以上に、自分が何をすべきか知っている極上のベーシストだった!皆様、どうもありがとうございました!
 さあ、来月、3月29日(土)はいよいよ、第12回トリビュート・コンサート、このコンサートで調子を上げている寺井尚之と宮本在浩(b)河原達人(ds)の大舞台!
 最後になりましたが、このレポートに掲載した写真は、当夜東京から来てくださったジャズ評論家、後藤誠氏の提供です。G先生、二人の音が聴こえてくるような写真をどうもありがとうございました。
CU
 

サー・ローランド・ハナ伝記(2) 真実一路

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<ハナさん・リターンズ>
 苦労して奨学金を得て合格した名門校、イーストマン・スクール・オブ・ミュージック、しかしローランド・ハナに突きつけられたのは「ジャズ禁止」の校則だった。
 

「クラシックとジャズの間に区別なし。」
「アドリブとは瞬間的作曲法だ。」

確固たる信念を持つハナさんは、名門校に何の未練も残さずさっさとデトロイトに帰郷、翌年、ジュリアード音楽院に合格し、再びNYで仕切りなおしをする。ジュリアードは、テディ・ウイルソン(p)達ジャズの巨匠を講師に迎えるリベラルな校風だから、ジャズ禁止の校則もなかった。以前ブログに書いた、ディック・カッツ(p)さんは、’56年にジュリアードでテディ・ウイルソン(p)に個人レッスンを受けた。マイルス・デイヴィスやニーナ・シモン(vo)も、ジュリアード、後年、ハナさんとNYJQで共演したヒューバート・ロウズ(fl)も同校出身だった。
<ベニー・グッドマンからファイブ・スポットまで>
 ローランドは水を得た魚のように、クラシックとジャズ・シーンを併走しながら、学生生活を送る。ジョージ・タッカー(b)、ボビー・トーマス(ds)とトリオを結成、クラブやTVのジャズ番組に出演するうち、ベニー・グッドマン(cl)に認められ、学校を一時休学し、ベルギー、ブリュッセル万博やヨーロッパ各地を楽旅した。
 後に、ハナさんの来日時、パスポートが期限切れだったのに、「グッドマンと共演した人だったらOK」と、審査官が一発でハンコを押して通してくれたという話は語り草だ。
benny_goodman.jpgベニー・グッドマン(cl)
 ジャズの仕事に流されず、きっちり4年で卒業したというのもハナさんらしい。卒業後は歌手の伴奏者として、サラ・ヴォーンと2年半、エリントンとの共演で有名な盲目の男性歌手、アル・ヒブラーの伴奏者として2年活動し「伴奏者」時代を卒業、グリニッジ・ヴィレッジの有名ジャズクラブ、<ファイブ・スポット>で、チャーリー・ミンガス(b)のバンドに参加、自己トリオでセロニアス・モンク・グループの対バンを務める間に、モンク音楽への理解を深め、後年の名盤、Plays for Monkに結実した。(対バン:クラブなどで、メインの演目の休憩中に演奏するバンド、60年代まで、NYの殆どのジャズクラブには、対バンが入っており、2バンド聴けたのです。)
 
five_spot.jpg ’50年代、Five Spotのモンク・カルテット
  同時期、コールマン・ホーキンス(ts)と出会い、大きな影響を受ける。ヨーロッパ生活の長かったホークはクラシック音楽に対して大きく心を開く巨匠だった。コールマン・ホーキンス親分が声をかけるピアニストはトミーが一番、二番手がハンク・ジョーンズ、三番手がハナさんだったという。ハナさんは後年、コールマン・ホーキンスに捧げた名曲、After Parisを上辞している(Prelude Book 1)。
<初来日>
 ’64年、大映の「アスファルト・ジャングル」という映画音楽の仕事で、カルテットで初来日。同行メンバーは行サド・ジョーンズ(cor)、アル・ヒース(ds)、アーニー・ファーロー(b)、日本で、「自分のビッグ・バンドを持ったらどうか」とサドに助言し、2年後、サド・メルOrch.が生まれた。
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 気がつけば、もう60年代中盤、NYの町に響いていたジャズはビートルズにとって代わっていた。ベトナム戦争が始まり、街の大人達はナイト・クラブに行かずに、夜は自宅の居間でTVを観る生活スタイルになっていく。ジャズメンにとって、クラブ・ギグだけで、食べていけない冬の時代がやって来たのだ。腕のあるミュージシャンの多くは、生活の糧を放送メディアに求めた。トミー・フラナガンは、スタジオの仕事より、エラ・フィッツジェラルド伴奏の道を選び、しばしNYから離れることになる。
 ハンクやサドのジョーンズ兄弟、クラーク・テリー(tp)と言った人たちは、三大ネットワークTVの人気番組の専属バンドのメンバーとなり、メル・ルイス(ds)やリチャード・デイヴィス(b)、ペッパー・アダムス(bs)たちは、スタジオ・ミュージシャンとして安定した収入を確保した。ツアーがないから、ずっと家族と過ごすことが出来る反面、ジャズの喜びは得られない。
 そこで、彼らはジャズ・メン本来のの芸術的欲求、あるいは快楽のため、ストレート・アヘッドな音楽を損得なしでやろうとした。実力派が、ノーギャラのリハーサルを惜しまず、本番で熱く燃える姿は、結果として、お客さん達を狂喜させることになった。’70年代の新しいジャズのかたちだ。
 この典型が伝説のビッグ・バンド「サド・ジョーンズ&メル・ルイスOrch.」だった。デビューまでに、レパートリーを用意し、週一回、スタジオを借りて、リハーサルに3ヶ月を費やした。このバンドの本拠地となった<ヴィレッジ・ヴァンガード>のマンデイ・ナイト、当初のライブ・チャージは、僅か2.5$、バンド・ギャラは一人、たった17$だったという。それでも、毎週演奏場所があるから、バンドのクオリティを何年も保つことが出来たのだ。月曜のジャズクラブは、スローと決まっていたのだけど、サド・メル時代のヴァンガードの月曜は大盛況となったのだ。
 下は、TV番組“ジャズ・カジュアル”でのサド&メルOrch.ビッグ・バンドの醍醐味とハナさん節が堪能できます。

 <サド・メル時代>
  ’67以降、ハナさんは、ダブル・ブッキングを常とする超多忙なハンク・ジョーンズ(p)の後釜として、レギュラーの座に8年間就くことになる。サド・ジョーンズとクレジットされている名曲、A Child Is Bornは、実はこの時期のハナさんの作品だ。
 当時のメンバーは、ジョージ・ムラーツ(b)、ペッパー・アダムス(bs)、スヌーキー・ヤング(tp)、ボブ・ブルックマイヤー(vtb)、などなど、様々なバックグラウンドを持った腕利きがサド・ジョーンズという天才の元に結集している。まさにNY・Jazzのドリーム・チームだ。ハナさんの後ろでレギュラーを狙い二軍ピアニストは、チック・コリア、ハービー・ハンコックたちスター予備軍だ。
 楽団の掟もハナさんにぴったり!

「常にストレート・アヘッドで行く!コマーシャルなことをしない。」

 ハナさんは楽団のピックアップ・メンバーを集め、’69年から、ニューヨーク・ジャズ・カルテット(NYJQ)を結成、ソリッドなコンボ活動を始める。また、当時のハナさんは、ヘヴィースモーカーで、大酒豪だったそうだ。
 しかし、’74年に、ハナさんは突然サド・メルを降板。楽団維持のために、スティービー・ワンダーのヒット曲のレコーディングが決定されたのが、引き金となった。
 
 <ハナさん、騎士になる>
 ’70年に、ハナさんはアフリカをツアーした。当地の青少年の教育資金のために、無料でコンサートをしたのだ。
 その功労で、リベリア共和国タブマン大統領から、騎士の称号を与えられ、以後サー・ローランド・ハナと名乗ることになる。ハナさんは、サーの称号を終生誇りにしていた。
 William_Tubman2.jpgウィリアム・タブマン大統領の両親はアメリカで黒人奴隷だった。
 ’70年代半ば、NYJQにジョージ・ムラーツ(b)が加入するのと同時期に、コンビを結成し、日本で10枚近いアルバムを製作、デュオやNYJQでも数え切れないほど来日を果たし、私も何度もコンサート・ホールで聴かせてもらいました。
 ’80年代になると、教育者として教鞭にウエイトを置くハナさんのレコーディングは極端に少なくなるけれど、デンマークの巨匠、ジェスパー・シロ(ts)との共演盤や、ソロ・ピアノの白眉、Round Midnightなど高質名盤が並んでいく。
 Round%20Midnight.jpg
 
 ’90年にやっと、ハナさんはOverSeasに来てくれるのですが、その出会いや、’90年代以降のプレイについては、また機会を改めてゆっくり書こうと思います。
 ハナさんは、寺井尚之がジャズ黄金期と呼んだ’70年代以降、大きく花開いたジャズピアノの大巨匠です。
 サー・ローランド・ハナがリリースした名盤の数々は、華麗さと潔さが同居していて、聴くたびに心が洗われる。これらを廃盤として埋もれさせてしまっていいのでしょうか?
 ジャズ・レコード界の心ある人たちは、ぜひ、ハナさんのレコードを再発させて欲しいものです。宜しくお願いします。
 CU

サー・ローランド・ハナ伝記 (1) ビバップ・ハイスクール

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  サー・ローランド・ハナのバイオグラフィーは、英文のものは色々ありますが短く、日本語のものは余り見かけません。
&nbsp以下にまとめたものは、ハナさんの’70,’75年のダウンビート誌のインタビュー、ハナさんのHPのバイオ、ミシガン大から発行されているデトロイト・ジャズ史:“Before Motown”、寺井尚之と私が、生前のハナさんから直接伺った話を短くまとめてみました。
“BeFore Motown”:デトロイト・バップ・ファン垂涎の貴重な写真や情報満載!
<雪の降る街に…>
&nbspピアノの巨匠サー・ローランド・ハナは、ローランド・ペンブローク・ハナとして、1932年2月10日、デトロイトに生まれた。ハナさんの父はキリスト教バプティスト派の伝道師、ハナさんが2才で読み書きが出来たのは、お父さんの教育の賜物だそうだ。、後年のハナさんの、訴えかけるようなMCは、お父さんから受け継いだものかもしれない。
 
&nbspハナさんは5才の時、音楽と不思議な出会いをする。それは雪積もる寒い日のことだった。ローランド少年が路地で遊んでいると、雪の中に何かが埋もれているのが目に入った。雪をどけると音楽書が出てきたのだと言う。グリム童話“野いちご”か?落語“金の大黒”か? いや、音楽書は、天からの授かりものだったに違いない。
 初めに言葉ありき。少年は、拾った本を手がかりにピアノの独習を続け、8才でバッハ、ショパン、ベートーヴェンを弾いた。天才ですね! 11才で、ようやく正式なピアノ・レッスンを受ける。教師はジョセフィン・ラヴという黒人女性で、オーストリアに音楽留学の経験があり、医師の夫君と共に地域の医療、文化に貢献した名士だった。
love.jpg 右は、ローランド少年の才能を看破した最初の教師、ジョセフィン・ラヴ氏、後年は医学の道に進んだ。
 
 ローランド少年は、レッスンを受ける前の10才からプロ活動をしており、後年、バリー・ハリス(b)やレッド・ガーランド(p)達とレコーディングのあるベーシスト、ジーン・テイラーの証言によれば、彼の初ギグは、’42年、13才の時で、バンドのピアノは当時10歳のローランド・ハナであったという。日本が戦時中で音楽どころでなかった頃、デトロイトでは、庶民の生活に、ジャズが溢れていたのだ!
 
<ビバップ・ハイスクール>
&nbsp’45年、ノーザン・ハイスクールに入学。ハナ夫人、ラモナさんは、ノーザン高校時代の同級生だ。当時、デトロイトの公立高校は、職能訓練を優先し、音楽技能の習得に専念したい生徒は、他の教科の単位取得を免除されたと言う。故にローランド少年は、毎日稽古三昧、どれほど稽古をしたかと言うと、高校の音楽堂のグランドピアノで練習したいから、7時に登校し、深夜11時まで、音楽の授業以外はパスして稽古をする。早く来て遅く帰るから、用務員さんと顔なじみになり、校門の鍵を預けてもらったそうだ。しかし、うっかりすると、もっと早く登校して、ピアノを占有する先輩がいるので、かなり気をつけなくてはならなかった。
NORTHERN%20HIGH98.JPGノーザン高校’98撮影
 
「いつも、ローランドは僕の弾きたいピアノを独り占めしていたんだよ…」と言った先輩は、勿論、トミー・フラナガンだ。すでにフランク・ロソリーノ(tb)のバンドでプロ・デビューしていたトミー少年は、アート・テイタムやバド・パウエルそのままに、講堂のピアノをスイングさせていた。ショパンやバッハ一辺倒だったローランド君に、トミー先輩のかっこよさは衝撃的で、あっという間にジャズの虜となる。そしてトミーの真似をして、未成年ながら、アート・テイタムが出入りしたアフターアワーの店にせっせとライブ通いする。ローランドは、ピアノ以外にアルトサックスをたしなみ、音楽の名門校、カス・テクニカル・ハイスクールに編入後は、チェロをたしなんだ。
280px-CassTechHighSchool.jpg カス・テック高
 当時ハナさんが一番影響を受けたピアニストとして、まずトミー・フラナガン、そして、アート・テイタムや、ルービンシュタイン、それにデトロイトのフリーメイスン教会で観たラフマニノフに感銘を受けたと言う。それだけでなく、当時のデトロイトには、ウィリー・アンダーソン(p)など、地元に留まり世界的には無名で終わった名手が数多くいた。
youngKB.jpg&nbsp PepAda.gif 左:ペッパー・アダムス(bs) 右:バレル&フラナガン 若い!
 同時に、デトロイトには、ハナさんやフラナガン以外に、未来のスター達が、花開くのを待っていた。ケニー・バレル(g)、ミルト・ジャクソン(vib)、フランク・フォスター(ts)、ビリー・ミッチェル(ts)、バリー・ハリス(p)、ペッパー・アダムス(bs)と言った人たちだ。デトロイトの音楽的豊穣は、決して神のいたずらではなく、必然性があったのだ、と、サー・ローランド・ハナは言う。自動車産業の隆盛で各地から黒人達が集まり、音楽を愛する環境があっただけでなく、ナチの迫害を受け、米国に逃げ延びたヨーロッパの一流音楽家達が、多数、デトロイトの地に音楽教師として赴任していて、若い才能を大きく育んだからだと言うのです。
<カス・テック高へ>
 ハナさんはノーザン高からカス・テックニカル・ハイスクールという、音楽の名門校に編入後、ピアノと同時にチェロもたしなみます。同校は、ルーマニア人やポーランド系ユダヤ人の音楽家達が教鞭を取り、ローランド少年の才能を見抜き、コンテストに出るように薦めました。
 ローランド少年は、フラナガン、バリー・ハリス(p)、ドナルド・バード(tp)、ペッパー・アダムス(bs)、フランク・フォスター(ts)達、ジャズ・ジャイアンツ予備軍である仲間たちと切磋琢磨を続けます。週一度、放課後に皆で自動車を駆り、近郊のポンティアックにあるジョーンズさんというお宅へと走った。そこにはグランドピアノがあり、ジョーンズ家のお母さんが、皆のためにフライドチキンなどのご馳走を用意してくれ、ジャム・セッションをやっていた。そのお家の兄弟は恐ろしい名手ばっかり、長兄のハンク(p)は、もうプロとしてツアーしていたので、殆ど家にはいなかった。後はサド(cor)とエルヴィン(ds)楽器もそれぞれですが、並外れた力量を持っていた。ピアノの椅子は一つだけですから、トミーやバリーが先、ローランドに出番が回ってくることはなかなかなかったけれど、サド・ジョーンズがコードを自在に変えていく様子や、先輩達の演奏に学び、自らは“ハック”・ハナという名前で、ラッキー・トンプソン(ts,ss)や、同世代バンドでギグを重ねました。
 1949年9月7日付のミシガン・クロニクル誌には、「ローランド・ハナによるバップとクラシック音楽」というコンサート広告が載っています。(Before Motownより)
<NYへ行ったけど…>
 カス・テック卒業後、ローランド少年は2年間の兵役に就き、奨学金資格を取り、ジャズとクラシックの中心地NYの名門“イーストマン・スクール・オブ・ミュージック”に入学、昼間は学業、夜はクラブ演奏と、念願のクラシック-ジャズの二足のわらじで精進しようとしたのも束の間、当時のイーストマンには「ジャズ禁止」の校則があり、教官にジャズを演奏しているのがバレてしまう。その教官はジャズ・ファンだったのだろうか?
 若きローランド・ハナは、どうしたか? クラシックか?ジャズか?とハムレットのように人知れず苦悩したのか? NO! ハナさんは、了見の狭い名門校をスパっと辞め、サッサとデトロイトに帰ってしまう。この話をした時ハナさんは、“I Quit.”とひとこと、眉を上げてきっぱり言った。筋の通らないことは絶対に受け容れない!ここがハナさんらしいところ。ハナさんは再度NYに赴くのですが、続きは次週。
CU

サー・ローランド・ハナ (その1)

ぼくの叔父さん:Sir Roland Hanna (1932 2.10- 2002 11.13)
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OverSeasの壁に飾ってあるサイン入り譜面&写真
《ハナさん》
 寺井尚之ジャズピアノ教室の発表会が目前に迫り、色々準備に追われているうちに、むしょうにハナさんのことを書きたくなってしまいました。ハナさんというのは、デトロイトが生んだ屈指のピアニスト、サー・ローランド・ハナのことです。
 ちなみに、寺井尚之はいつも「ハナさん」と呼び、ハナさんは「ヒサユキちゃん」と呼んだ。私は「Sir Roland」と呼び、Sir Rolandは「タマエ」に「ちゃん」はつけてくれなかった…
  生前のハナさんは、ジャズを懸命に学ぼうとする寺井の生徒達に、強いシンパシーを感じてくれていた。
 「来年ここに来る時には、ヒサユキちゃんの生徒たちのために、絶対に講演会をする!私はピアノ奏法でなく、音楽の精神について語りたい。ちゃんとセッティングをするように!」と申し渡されましたのですが、同じ年の秋、中山英二(b)さんとの日本ツアー中、体調を崩し、そのまま帰らぬ人となった。だから発表会の時期になるとハナさんのことを一層強く想う。
《プロフェッサー》 
  ハナさんは壮年期にNYクイーンズ・カレッジで精力的に教鞭を取り多くの音楽家を育成した。ジェブ・パットン(p)、YAS竹田(b)もクイーンズ大出身だ。
教室のハナさん大学教室でのハナさん。
 ハナさんは中山英二(b)さんや青森義雄(b)さんと言った日本人ベーシスト達を深く愛した。お二人にとって、サー・ローランド・ハナは”父”のような存在だったろう。一方、トミー・フラナガンを”父”とする寺井尚之にとって、ハナさんは、文字通り”叔父さん”で、ハナさんも”甥っ子のヒサユキちゃん”として寺井尚之を見守ってくれた。トミーの身辺に何か事件が起こった時、ニュースはしばしばハナさんからもたらされた。トミーの心の秘密を教えてくれたのもハナさんだった。ただし、寺井がピアノを教えてくださいと頼んでも、「私から君に教えることはもうない。」と言ってレッスンをしてくれることはなかった。その代わりに、音楽家としてあるべき姿勢、人間として人生に立ち向かう姿勢というものを、身をもって示した巨匠だと思う。
  サー・ローランド・ハナ=ハナさんは、デトロイトの公立高校、ノーザン・ハイスクールでトミー・フラナガンの2年後輩だ。クラシック一辺倒からジャズの道に入ったきっかけは、学校の講堂にあるグランド・ピアノで、アート・テイタムやバド・パウエルそのまま(!)に弾くトミー・フラナガンだった。卒業後、フラナガンがジャズの現場で”ミーン・ストリート”として名を成した”叩き上げ”派であったのに対し、ハナさんはノーザン高からカス・テックと呼ばれる専門学校に編入、2年の兵役の後、NYの名門ジュリアード音楽院でクラシックを勉強しながら、夜はクラブでジャズをプレイした”学究派”だった。
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《いらち》
  ハナさんの性格を関西弁で言うなら“いらち=苛ち”の一言。標準語なら”せっかち”です。何でもさっさとする。ごちゃごちゃ言わない。時間に正確で、規律を重んじる。来日ツアーにラモナ夫人を同行した時、夫人が送迎車を待たせ、少女のように周りの風景を見回っていると、ハナさんは、あの特徴のある眉を曇らせ、俳優の志村喬のように低い声で、送迎スタッフ全員に丁寧に詫びた。
 「皆さん、どうかラモナを許してやって下さい。あれは一般人で、団体行動というものを知らんのです。」ラモナさんは、ただ2-3分そこら辺を見回っていただけなのに…。
  トミーは対照的に、常に些細な問題には超然としていた。ダイアナが誰にケンカを吹っかけようと、何を落として割ろうとも、「良きにはからえ」と知らん顔。
  だけど、二人とも、一旦「No!」と言ったらテコでも動かない頑固なところはそっくり!
  音楽について何か質問すると、トミーは、ボソッと一言答える。こっちはずーっとその意味を考えて、数年後に「ああ!こう言うことやったんか!」と膝を打つ。ハナさんは即答!徹底的に詳しく回答してくれたので、私はハナさんに何か尋ねる際はノートとペンを横に置いておく習慣を身に着けたほどです。だけど、二人の答えはどちらも、当たり障りのないものでなく、奥が深かった。
《ピアノ・タッチ》
  ピアノのアプローチも然り、ハナさんはフラナガンに比べて、胸がキュンとなるようなエモーショナルな表出をした。寺井尚之はこれを、“デトロイト・バップ・ロマン派”と呼ぶのだけど、タッチの美しさとほとばしるパッセージには、圧倒的な美しさがある。
  ハナさんとトミーがOverSeasのピアノを弾いた後は、異様にピアノの鳴りがよくなって、川端名調律師と寺井尚之が愕然とする。私には、ピアノがハナさんやトミーが鳴らしてくれた音色の快感を覚えていて、自分で、その歌をもう一度歌おうとしているようで、いじらしい。
 寺井+川端さんチームの科学的な分析によれば、二人ともタッチが研ぎ澄まされていて、常に鍵盤上で一番良くサウンドするツボに指がヒットする。おまけに、88鍵をフルに使う為、ピアノの弦を叩くフェルトの全ての溝が非常にクリアになっている為なのだそうです。
《クラシカル》
  デトロイトの豊穣な音楽的環境を背景に、フラナガンの音楽のキーワードが”Black”であったのに対し、ハナさんはジョン・ルイス(p)のようにクラシックとジャズの境界線取り払うアプローチをした。ハナさんにとって、アート・テイタムとアルトゥール・ルービンシュタインは、同一線上のアイドルだ。日本の大プロデューサー、石塚孝夫氏の製作した”24のプレリュード集”(bass:George Mraz ’76/ CTI)は、その意味で歴史的名盤なのに、今は廃盤になっているらしい。信じられません。

《Soul Brothers》
   大きな共通点と対照的な面を併せ持っていた二人は、終生、兄弟のように付き合った。勿論トミーが兄で、ハナさんが兄想いの弟だ。フラナガンの出演するジャズクラブで、騒々しい酔っ払いに激怒するダイアナをなだめるのも、最高の掛け声でプレイを盛り上げるのもハナさんだ。
 「ジョージ・ムラーツ(b)やルイス・ナッシュ(ds)、私が良い若手を見出して育てたら、トミーがいつも横から持っていっちゃうんだよ。」ハナさんはボヤいていた。まるで、お気に入りの野球のグラブを兄に横取りされた弟みたいに。
Reflections On Tommy Flanaganハナさんがトミーの死後作ったトリビュート盤、Reflections On Tommy Flanagan “Cup Bearers”で寺井尚之が使うリフを入れてくれている。
 トミーの未亡人、ダイアナ・フラナガンはハナさんが亡くなった時に、ふとこんな風につぶやいたのが忘れられない。
 「あの二人には、何か尋常でない深いつながりがあったのよねえ。生まれ月も命日も近いし。おまけに、直接の死因も心臓疾患だったってラモナ(ハナさんの奥さん)が言ってたのよ。私には、それがどうしても偶然だとは思えないの…」(トミーは’30 3.16-’01 11.16)
  ハナさんが亡くなって早6年、仏教なら今年が七回忌。うちの教室もハナさんを知らない生徒達が大半となっている。ダイアナの希望で、3月と11月の年2回、トミー・フラナガン・トリビュート・コンサートを開催しているために、現実的にハナさんへのトリビュート・コンサートが出来ないことや、ハナさんが遺した名盤の殆ど廃盤になっていることも一因だろう。ハナさんのことを覚えておいてほしい!忘れて欲しくない!!
  次回のハナさんの章では、ハナさんに馴染みのない皆さんに、私が書き留めたハナさん語録も交えつつ、どんな人生を歩んだ人だったかを紹介しようと思ってます。
CU

ザ・コン・マン:ジャズ界の偉大なるサギ師(1)

セロニアス・モンク
 お正月休みは実家で母親と共に、TVやヴィデオで歌舞伎三昧、花道を進む役者のあでやかな姿を見ると、トミー・フラナガンや寺井尚之が愛奏するブルース、“ザ・コン・マン The Con Man”の威勢の良いテーマを思い出す。名盤、Beyond The Bluebird(’90)で、この曲が聴けます。
   この曲を初めて聴いたのは’80年代後半、NYの<スイート・ベイジル>というクラブ、トミー・フラナガンがMCしたけれど“The Con Man”の意味が判らず、後で「“カンメン(乾麺?)”って何ですか?」と尋ねたら、トミーは「コン・アーティストのことや。??わからんかなあ(ため息)…コンフィデンシャル・マン、信用サギ師のことや。」と教えてくれたのです。

   ふーん、サギ師=The Con Manか…ヘンなタイトル…
 最近になってやっとCon Man であることが、ジャズや“芸術”を“判った”気持ちにさせてくれる重要なテクニックであるとじわじわ気が付いてきました。
 
   昨年の秋、お店から帰ってきて、夜更けにセロニアス・モンク・カルテット(チャーリー・ラウズ ts、ラリー・ゲールズ b. ベン・ライリー ds)のヴィデオを観ながら、寺井尚之と晩酌していた時のことです。WOWOWで放映されていたものですが、『Jazz Icons』というDVDシリーズをそのまま流していたようです。’66年、オスロと、コペンハーゲンでの2本のTV用の映像とありました。
 オスロでの映像のモンクはソフト帽とダークスーツ姿、右手の小指には、宝石か?ガラス玉か?重たそうなピンキーリングが!寺井尚之なら弾きにくいと言って腕時計すらはめないのに、すごく大きな指輪です。それが鍵盤上をゴロゴロと転がりながら、モノクロ画面に怪しい光をビカビカ放つ。さすがはBeBop界のベスト・ドレッサー!音楽とファッションがトータルなものになっている。

 Youtubeに同じ映像の一部を発見。かっこいい足の動きはここでは見れないけど、ダンパーの動きが見れます。
  ピアノから長い足がはみ出る大男モンク!大きな右足で強烈にカウントを取りながら、ガンガンスイングしている。
 かつてトミー・フラナガンはモンクのプレイについてこう語った。

「地下のクラブへと階段を降りると、ベースソロが聴こえてくるとする。ピアノの音は全く漏れ聴こえていない。それでも、今夜はモンクだな!と判る。それがモンク・ミュージックというものなんだ。」


 そのとおりにメンバー全員がモンクのカリスマに取り込まれ、完全にモンクのパーツ化している。モンクはレコードより絶対映像ですね!もう一杯!思わず酒量も上がるというものです。
  ところが、寺井尚之がこの映像を観ながら「おおーっ!?」とびっくりして座布団を投げそうになった場面が…。 オスロのTV映像は、バンドの全景やモンク自身を横から捉えた映像と、正面からモンクの表情を捉えたものと、二つのアングルで構成されているのですが、サイドからモンクを撮影している間は、モンクの足はせわしなくステップを踏み、絶対にペダルを踏まない。つまり既成のピアノ奏法を無視したワイルドなプレイに徹してます。
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   ちなみにトミー・フラナガンやハンク・ジョーンズはペダル使いの名手で、ピアノの響きを自由自在に操ります。ピアニストは指使いだけでなく、ペダルの使い方も技量が必要で、色々個性が出るものです。
 モンクの足を撮影するサイドからのカメラアングルでは、ペダルなんて、まるで関係ないようにプレイしていたモンク…しかし…なんてこった!カメラ・アングルが正面からになると、ダンパーがせわになく上下してるやんか!ピアノは、右のペダルを踏むと、このダンパーが上下してピアノの響きを調節する仕組みになってるのです。つまりモンクは足が映らない時だけペダルを使っていたというわけ。TVの画面に向かって、酔っ払いの私は野次った。ヘイ、コン・マン!
赤い矢印の黒いかまぼこの列みたいなのがダンパー。
  モンクといえば、以前病気療養中に、セロニアス・モンクの伝記『セロニアス・モンク―生涯と作品』(トマス・フィッタリング著・勁草書房)の翻訳を、少しお手伝いしたことがあります。
 モンクはエラ・フィッツジェラルドと同じく1917年生まれ、NYハーレムに育ちました。ハーレム・ストライドという超絶技巧のピアノ・スタイルが隆盛の時代、ハーレムにはウィリー“ザ・ライオン”スミス、ジェームス・P・ジョンソンと言った名手がワンサカいたといいます。
 「必要は発明の母」:ピアノで名を成すにしても、到底テクニックでは勝負できない、どないしょう…というところからあのユニークな奏法を編み出したのか…
 でもセロニアス・モンクの頭は並ではなかった。ケニー・クラーク(ds)、パーカー=ガレスピー、メアリー・ルー・ウィリアムズ(p)達と切磋琢磨して新しい和声を編み出し、ジャズにBeBop革命を起こした。いつの世も、時代の先を行くアートは世間になかなか受け容れられない。おまけに黒人ミュージシャンは、いくら優れていても白人社会にはなかなか認められない。
  モンクは、高度な理論を持つBeBopを、お客さんたちがリディアン・セブンスとかオルタードなんて言葉を知らなくても、この音楽のかっこよさを感じてもらえるように、特注のサングラスやスーツ、ベレー帽やチャイナ・キャップでかっこよく身を飾り、目で見ても判るようにしてくれた人でもあります。
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  オスロでの映像も、明らかにそんなモンクのタヌキっぽい策略が感じられてすごく楽しい。オレオレ詐欺や上方のランドマークであった高級料亭の偽装はまっぴらですが、こんなサギなら喜んで騙されたいね!
 
  モンクは、ファッションやプレイばかりか、禅問答まがいの不可解な言葉や深遠なる曲名で、マスコミや共演者までも煙に巻いた。反面、素顔のモンクは、特に尊敬するデューク・エリントンやコールマン・ホーキンスなど先輩ミュージシャンに対しては、全く普通の人であったという証言が多い。でも、やがて、音楽的に行き詰るにつれ、モンクは本当に精神を病み、音楽活動も喋ることも止めてしまう。モンクが頭に描くBeBopの理想を、そのままピアノで表現してくれたモンクの弟子、というか分身であったバド・パウエルと同じように。
 バド・パウエルが脳を病んだのは、警官に警棒で殴打されそうになったモンクをかばい、身代わりになった為と一説には言われている。モンクは、パウエルのことが生涯心に付きまとっていたのだろうか?
monk_bud.jpg 左:モンク、右:バド・パウエル ’64
  かつて“ファイブ・スポット”で半年間セロニアス・モンク・カルテットの幕間ピアニストを務めたサー・ローランド・ハナ(p)は「モンクの曲は大好きだが、プレイは余り好きではない。」と言って、わざとアクの強いケレンで武装するプレイを決してよしとしなかった。

 モンクはプレイだけでなく、その作品も、筍やうどの春野菜のように精気と共にアクが一杯だ。他のミュージシャンが演奏する時も、わざとモンクっぽいフレーズを使ってアクの強いプレイをすることが多い。でも、トミー・フラナガンのアルバム、“Thelonica”で聴くモンクの作品群は、どれも、不要なアクや渋皮が取り去られて、モンク作品が本来持つみずみずしくピュアな、本当の味わいを出している。フラナガンという人は、音楽や人間の本質を鋭く見極める稀有な才能の持ち主だったのだ、といつも思う。
 フラナガン自身は、NYに出てきた当時モンク家の近所だったので、パウエルよりモンクの方がずっと親しみの持てる人だったと言っていた。 
 カーメン・マクレエは名盤“Carmen Sings Monk”のMonk’s Dreamでこんな風に歌っています。
私が夢見た人生は
純粋で真実ひとすじ。
私が夢見た職業は、
私だけが出来る仕事。
ひとりの男とチームを組み、
求める道へ突き進む。
だけどそれは夢。
真実一路、
そうすればひと財産。
闘い抜いて前進し、
決して嘘はつかぬこと。
そうすれば名声は
この手に入ると思っていた。

だけど夢で終わったよ。

 (了)