<アニキの肖像>
ジョージ・ムラーツが初めてトミー・フラナガンと共演したのは、彼がチェコから渡米した直後の’68で、エラ・フィッツジェラルドのバックであったそうだ。’78年にフラナガンがエラの許から独立後、’92年までコンビを組み世界中を回った。ムラーツはバークリーの卒業生だけど、入学直後から、一流どころから仕事に引っ張りだこだったから、果たして、教室でゆっくりと学ぶ時間があったのか、学ぶべきことがあったのかは判らない。
これは懐かしい!初めてOverSeasに二人が来たときのプレス用写真です。
ジョージ・ムラーツとトミー・フラナガン、この二人の天才は、育った土地も環境も全く違うのに、よく似たところがある。私が近くで眺めていて「芸術家」だなあ…とつくづく思い知るのがこの二人の天才だ。大阪弁なら「けったいな人々」というのがぴったりだ。「けったい」というのは単に“変な”とか“strange”というのとは全然違うよ!もっともっとスケールが大きくて、圧倒的な個性の人、英語で言えば、“Exstraordinary Genius”か…やることなすこと全てドラマチック!
誤解を恐れずに言えば、芸術家というものは、ある種の超能力者だ。オスカー・ペティフォード(b)が自分を「神に選ばれた者」と言ったのも当然だ。人の心を読み取ったり、言葉を使わなくても、心にダイレクトにメッセージを訴える力がある。芸術家の心の内には、途方もなく熱いマグマのようなものがある。余りに大きく熱いので、噴出を押さえるのに凡人には計り知れない苦労をしているのかなと思う。一旦それが溢れ出すと、誰にも止めることは出来ないからだ。それが芸術家のインスピレーションと呼ばれているものなのかもしれない。
嬉しい時には太陽がさんさんと輝きそこら中に花が咲く、そうでない時には、部屋の中まで黒い雲で覆われ、嵐が吹き荒れる。まるで古代ギリシャの神々みたいな人たちなのだ。
だからあれほど世界中の人達を感動させる音を創り出せるのに違いない。そんな時は、私はただ口をあんぐり開けて言葉もなく見とれているだけだ。
天才音楽家同士が15年間も一緒にやってきたのは正に奇跡だ。お互いに、特別の深い共感がなければ絶対に不可能な年月だったのではないだろうか。
’89の暮れに大阪のキリンプラザで一週間フラナガン3が来たとき、一行はOverSeasをリビングルームにしていた。
寺井尚之はジョージ・ムラーツと一緒にプレイする時のエクスタシーについてこう言う。「演る前に言葉で説明しなくても、わしがどんな風に弾きたいのか、どこでコードを変えるのか、同時に同じところに来るんや。ジョージにはテレパシーがある。一緒に演ると、倍音がいっぱいサウンドして、ピアノごとフワっと浮き上がったような気持ちになるねん。」
ひとりっこの寺井尚之にとって、ジョージ・ムラーツは一番大切なアニキだ。彼がOverSeasにやって来るずっと前から、理想のベーシストであり初恋の人。だからこそ、今まで非公式に何度も共演しているのに、尊敬の思いが強すぎて、未だ一緒にレコーディングをしようとはしない。私はもうそろそろやってもいいのではないかなと思うのだけど。
最近、ジョージ・ムラーツのHPがやっと出来た。
スケジュールの頁もあり、「おにいちゃん、今頃どこでどうしているのかしらねえ…」なんて、柴又の『とらや』の人々みたいに心配しなくて良くなったのが助かります。
フラナガンとの懐かしい写真が楽しいフォトギャラリーや、詳細な経歴、日本で新譜を買えるサイトへのリンクもあるのだけど、残念ながらサイトは英文。
バイオグラフィーの頁は、字が小さくて物凄く長いのですが、ムラーツ自身のコメントや、エピソードも挿入されて、非常に良くまとまっています。そう言えば、これほど詳しく書かれたジョージ・ムラーツ伝は今までになかったのではないかしら…
敬遠するには余りに勿体無い内容なので、次の項にバイオグラフィーの全訳を載せることにしました。コンサート直前の参考文献としてどうぞ!
Arthur Taylor / アーサー・テイラー(ds) その2
Baby Baby All The Time
A.T.ことアーサー・テイラー(ds)1929-1995
アーサー・テイラーが初めてハーレムの自宅に招待してくれたのは1988年、まだNYが犯罪都市と呼ばれ、ハーレムにビル・クリントンの事務所もスターバックスもなかった頃だ。
だが、ハーレムは、デューク・エリントンを大スターに育て、BeBop革命を生んだ街、そう、ハーレムは世界遺産だ。恐がってなどいられるもんか!ハーレムに行かなくちゃ!
(でも、ジャズメンやその奥さん達は口をそろえて「絶対にAトレインに乗らないでタクシーを使いなさいよ。地下道が危ないんだからね。」と口を揃えて言うのだった。)
まあハーレムでもクイーンズでも、とにかくA.T.の自宅に招待されるのは、もの凄く名誉なことなのだ。私たちよりずっと先輩の一流ミュージシャンでも、おいそれと口などきけない人らしい。故に、寺井尚之はスーツとネクタイの正装でA.T.のアパートを訪問することにした。
48丁目の安ホテルからタクシーで30分足らず、ブロードウエイからリヴァーサイド・ドライブを北上すると、そこはもうブラック・ハーレムのど真ん中。道幅は広く、大きな古めかしいビルが並ぶ。午後のハーレムはひっそりして、東洋人の姿は私達以外なかった。A.T.の住むアパートは古めかしい6階建てのビルだった。
ここはセント・ニコラス・アヴェニュー940番地、後で知った事だが、このアパートはハーレム・ルネサンスのランドマーク的な建築で、当時を象徴する詩人、カウンティ・カレンも同じアパートに住んでいたのだった。
ブザーを鳴らし、ロビーに入るとバニラの匂いが漂う。高い天井と大理石の床には’20年代の栄華が、ロビーのコーナーにあるテーブルの上に積まれた、近所のスーパーのチラシには、現在の生活感が漂っている。
大きなエレベーターの扉が開き、私達は2頭の大きなドーベルマンを連れたおばさん達と同乗した。それでも中は広々している。黒光りする大きな犬は行儀が良く、琥珀色のマダム達は、スーツとネクタイで正装したヒサユキと私に、“Enjoy!”と、にこやかに声をかけてくれた。
5階に上がると、Eの扉のところに笑顔のA.T.が出迎えてくれた。「そこはマックス・ローチ(ds)、向こうはアビー・リンカーン(vo)の住居だよ。」と、隣近所のドアを指差した。
私たちは、玄関から居間に通じる廊下の壁一面を飾る、畳半分位の綺麗に額装されたモノクロ写真に目も心も奪われてしまった。それは、チャーリー・パーカー(as)を擁するビリー・エクスタイン楽団の演奏写真だ。ドラムはA.T.が尊敬するアート・ブレイキー、BeBopの絶頂期の一瞬を捉えたこの写真に「絵になる男;A.T.」のルーツがあった。写真から発散する強烈なBeBopの芳香、白く輝くチャーリー・パーカー(as)のマウスピースが、不思議な光を放ち、画面の中のミュージシャン達も、この写真の前に立つ者も、パーカーの元に引き寄せられてしまう。まるで至福に満ちたルネサンスの宗教画だ。
「どうだい!いい写真だろう!」A.T.は写真に吸い込まれそうになっている私達を現実に引き戻すように、ニコニコしながら声をかけた。
この写真はATの家のものではないですが、チャーリー・パーカーはこんな人です。セロニアス・モンク(p)、チャーリー・ミンガス(b)、ロイ・ヘインズ(ds)
最初の部屋は音楽室で、スピネット・ピアノの傍らにソナーのドラムセットがすぐ演奏できるようセットしてある。楽器類は手入れが行き届き、スティック・ケースの中も整然としている。その奥が書斎兼居間になっていて、タイプライターを置いた机と、各国のジャズ雑誌の他に、詩集や哲学書などが並ぶ書棚。バスルームの大きな浴槽には書見台が渡してあった。
A.T.の自宅です。
A.T.はこの広々としたアパートに一人で住んでいた。薬剤師として病院勤めをしている自慢の娘さんは、ここにはいないようだ。白い壁と高い天井、どの部屋も清潔で、家族の写真や、巨匠ぶりを誇示するような賞状類など、俗世間への愛着を示す品々が不思議と見当たらない。孤独を味方に出来るよう、居住まいが整えられていた。
晴れ渡るハーレムを一望する大きな窓からA.T.が指差す方角を見る。「そっちはセロニアス・モンク、あっちはジャッキー・マクリーン、そこがソニー・ロリンズの家だったんだよ。ベイビー、うまいこと言うね、確かにここはハーレムのオリンポス山だな。」A.T.はトミーと演奏する時も、こんな風に高いところからアドリブの行く手を俯瞰していたのだろうか?
蔵書のハーマン・レオナールの初版写真集を見ながら…
A.Tが作ってくれたブランデー・アレキザンダーをすすり、フランス仕込みのクロークムッシュを頬張りながら、彼が参加するデューク・エリントン楽団の貴重なヴィデオを観るのは、夢のようなひとときだった。
チャーリー・パーカーは映画(’88作品;クリント・イーストウッド監督の伝記映画“バード”)のような汚い言葉使いは決してしなかったこと、バド・パウエルは脳の病気だったので、(あんな名盤で数多く共演しながら)一度も口をきいた事がなかったこと。セロニアス・モンクの家を訪ねても、彼はピアノから片時も離れないので、奥さんのネリーとばかりおしゃべりしていたから、今でも大の仲良しである事など、色々楽しい話を聴いているうちに、気が付けば日没が近くなっていた。私たちは竜宮城を後にするように、大慌てでミッドタウンに戻ったのを覚えている。
A.T.の歴史的名演が聴ける。左はリーダー作“A.T.’sデライト”右はバド・パウエルの名盤“シーン・チェンジズ”
A.T.は、寺井を、きちんとヒサユキと呼んだけど、私はいつも“ベイビー”だった。多分、世界中の女性を沢山知りすぎて、名前が覚えきれなかったからかも知れない。ベイビーと呼ばれても、A.T.なら不思議にちっとも蹴飛ばしたくならない。
数日後、深夜のブラッドリーズで、私はA.T.に不躾な質問をした。「ねえ、A.T.モナが心配してたわよ。あなたのガールフレンドはもう一緒にいないのかしらって。」 (サックスの大巨匠、ジミー・ヒース(ts)夫人のモナさんはハードバップ界きっての良妻賢母、美しく優しい女性で、夫妻はA.T.と親戚付き合いだったのだ。)
A.T.は眉を少し上げてこう答えた。「ああ、この間彼女はスイスに帰った。ベイビー、人生は短いんだ。千日の恋なんて、僕には長すぎるんだよ。」こんなセリフもA.T.なら、とてもよく似合った。
それから数年後、再びNYを訪れた時、A.T.の“テイラーズ・ウエイラーズ”はNYのライブシーンで最も注目を集めるハードバップ・コンボとなっていた。<コンドンズ>というクラブに今週出ているからぜひおいでとヒサユキと私を誘ってくれたけれど、別のクラブ、スイート・ベイジルにはトミー・フラナガン3が出演しているので、どうしても行くことが出来ない。泣く泣く謝りの電話をかけた。「A.T.せっかく誘ってくれたのに、本当にごめんなさい。ヒサユキも私も行きたいのだけど、予定があってどうしても行けないの。」
A.T.は、きっと私達の事情を察していて、優しくこう言ってくれた。
「ベイビー、気にするなよ。またこの次に来ればいいじゃないか。人生は長いんだから。」
「人生は長い」皮肉にもその言葉が、A.T.との最後の会話になってしまった。
「50歳で引退したかった。」と言っていたA.T. 物事をちょっと離れて冷静に見つめていたA.T. タイトなハイハット、トップシンバルの完璧なレガート、無限の色彩を持つリムの技…レコードを聴くと、あの絵になる姿が蘇る。
私はジャズ講座にA.T.が登場すると、OHPで映写する構成表の余白に、彼の写真を出来るだけ入れておく。
「A.T.は絵になるねえ」 そう皆に言って欲しいから。
(’84 OverSeasにて)
(この章了)
Arthur Taylor / アーサー・テイラー(ds) その1
マンハッタンの水戸黄門
アーサー・テイラー(ds)1929-1995
ドラムの前でスティックを持つ姿が一番絵になる男、それはA.T.ことアーサー・テイラーだ。
絵になる姿を作るのに、アルマーニもブルックス・ブラザーズも、ダイヤのピアスも、大量の汗の輝きすら要らない。ごくありふれたワイシャツやクルーネックのセーターで、自然に構えるだけ。そうすれば、時代劇の剣豪みたいに、一部の隙もないシックな姿になった。
A.T.自身によれば、彼はカジュアルな服装が身上なので、宇宙的なコスチュームで幻惑しながら本格的なジャズを聴かすサン・ラから「あんただけは私服でいいから頼む。」と出演を頼まれたそうだ。
サン・ラのOrch.は全員がこんないでたちです。ヴィレッジ・ヴァンガードにトミーを聴きに来たサン・ラを見たけど、やはり地味目のこんな服装でした。
一旦ドラムから離れると、A.T.は自分のオーラを全てしまいこみ、とても目立たない風貌の人になった。その広い額が示すように、頭の中には高度な知性があり、音楽に留まらない膨大な知識が内蔵される脳の中は、ハーレムにある彼のアパートの書棚のように完璧に整理整頓されていた。プレイと同様に、A.T.が教養をひけらかすのを見たことは一度もない。
A.T.以降、ケニー・ワシントン(ds)とルイス・ナッシュ(ds)がフラナガン3で何度もOverSeasで名演を披露してくれた。A.T.より20歳以上若い二人は、巨匠の縦横無尽なプレイがどこに行くのかを全身全霊で感知し、神に付き添える幸福感を虹の光に変えてぴったり併走する天使のようにプレイしていたのに対して、A.T.の方は、フラナガンの即興演奏の道を見守り、フィル・インの疾風と、ベースドラムの雷鳴で、行く手を照らし、速度無制限に走るフラナガンのアドリブ・ハイウエイにレッドカーペットを敷き詰めて行くような感じがした。ロールス・ロイスのエンジンが内蔵されているようなドラムソロの間も、決して「トミーを喰ってやろう」的な“あざとさ”は微塵にもなかった。
A.T.が、若手の無名ミュージシャンばかりを使って、Taylor’s Wailersという、凄いバンドを結成した頃のことだ。ヒサユキが来たからと、ハーレムからミッドタウンまで出て来てくれて、食事をした後、「昔、ジョン・コルトレーンと録音したレコードで、タッド・ダメロンの曲を調べたいので付き合ってくれ。」と言うので、ブロードウエイにあったタワー・レコードに一緒に行った事がある。
“ジャズタイムズ”のフォーラムに揃う、ソニー・ロリンズ、AT、トミー・フラナガン
NYの街を歩くA.T.は、全然目立たない細身のおじさんだ。こんな地味な人が、バド・パウエルやチャーリー・パーカーのバッテリー役として、歴史に残る名演を繰り広げているアーティストだとは信じられないほど、雑踏に埋もれながら歩く。
リンカーン・センターに近いブロードウエイ、タワレコのジャズ・コーナーを三人がかりで探したけれど、Soultrane/ John Coltraneという探し物は見つからない。まだLPが幅を利かせていた頃の話です。カウンターにいる20歳になるかならない白人のお兄ちゃんに、在庫がないかどうか尋ねると、「店頭に並べているもの以外ないッス。」と万国共通のツレない態度。他にダメロン楽団のLPはないかと聴いても、(うるさいおっさんやな…)「そこに出ているだけです。」の一点張り。
A.T.ほどのお方にこんな無礼な態度を取るとはけしからん!
真っ先にキレたのは寺井尚之、そのお兄ちゃんに向かって大阪弁でまくしたてた。
「こらっ、おまえ、ジャズ売っとってその態度何や!?この方は、Soultraneでドラム叩いてはるアーサー・テイラーさんや!判ってて、そんな事言うとんのか!?」
大阪弁は特にNYではよく通じるみたいで、通訳する前に、すでにその店員の顔が真っ赤になっていた。
「あなたは、あの有名な“アート・テイラーさん”…ですか?」
「アートと違うっ!アーサー・テーラーさんや」(寺井尚之)
A.T.は“アート”と呼ばれるのをすごく嫌がっていたけど、この時は笑みを浮かべて静かにヒサユキをさえぎった。まるで黄門様が角さんを押さえるように…
「ス・スンマセンッ!すぐ探してきます!!ちょっとお待ちくださいっ。」フロアで変な顔をしている別のバイト君に小声で何か言って裏へ走っていった。
…10分ほど経つと、その店員さんは汗だくになって、ニコニコしながら件のLPを持ってダッシュして来た。
「テイラーさん、ありました!ほんとにラッキーですよ!あの…僕ジェフと言います。ニュー・スクールで、(ジャッキー)マクリーン先生にアルトサックスを習ってるんです。あなたにお会い出来て良かったです。」
「僕も君みたいな親切な人に会えてよかった。ジャッキーに会ったら君の事、宜しく伝えておくよ、ジェフ」
A.T.は、彼の名札を確認してから最敬礼するジェフとタワレコを後にした。ラッキーだったのはA.T.でなく、ジェフの方だったみたい。
A.T.のお母さんはジャマイカからNYにやって来た。今でも親戚がジャマイカにいるから、いつか一緒に行こうよと言っていた。A.T.はハーレム生まれのハーレム育ち、タワレコのおにいちゃんの先生であるジャッキー・マクリーン(as)や、ソニー・ロリンズ(ts)は近所の幼馴染で、10代から一緒にバンドを組んで演奏していた。
正式なプロ・デビューは19歳位、それ以降、セロニアス・モンク、チャーリー・パーカー、バド・パウエル、オスカー・ペティフォード達BeBopの創始者と共演を重ねた叩き上げだ。’63年から17年間パリ時代を含め、数え切れないレコーディングに参加、晩年は若手を擁するハードバップ・コンボ“テイラーズ・ウエイラーズ”を率いて活躍した。
左から:(講座本Ⅰ)All Day Long/Kenny Burrell, Jazz Lab/Donald Byrd&Gigi Grice,(講座本Ⅱ)Jazz Eyes/John Jenkins, Giant Steps/John Coltrane (講座本Ⅲ)Gettin’ with It/Benny Golson,Quiet Kenny/Kenny Dorham,(近日発売:講座本Ⅳ)Boss Tenor/Gene Ammons
講座本ではATのドラミングの妙味がたっぷり解説されています。
ジャズ講座に登場した名演、名盤も書ききれないほどあるので、ぜひ講座本を読んでみて下さい。11月には第4巻も刊行します。
仕事柄、英語が役立つ私にとってA.T.は大恩人だ。初めて会った後、自分の著書を送って英語を読めと励ましてくれた。日本語訳がない本に、めちゃくちゃ面白いものがあるのに味をしめた私は、手当たり次第に本を読み、読書の暇がない寺井尚之を捕まえては、無理やり話して聞かせ、ホイホイ喜んでいい気になっていたら、今度は再びA.T.にガツンとやられた。
湾岸戦争の最中にNYで会った時、「何故、日本は米国に安全保障されているのに、湾岸に派兵しないのか?」とボロカスに毒づかれたのだ。日本憲法第9条には戦争放棄の規定があり、その条項は第二次大戦に負けたとき、米国など戦勝国の肝いりで作られたとどうにかこうにか英語で言っても、そんなことでA.T.は納得しない。「何故日本人は改憲しないのか?」「日本人は何でも金さえ出せば解決できると思ってるのか?」「アメリカ兵に血を流させるだけで、日本人は平気なのか?」と猛然と詰め寄られ、自分の平和ボケと日本人意識の希薄さ、英語力の欠如と議論下手を強烈に自覚させられたのだ。
叩き上げのプロとしてのわきまえと、多岐に渡る教養を併せ持った絵になるドラマー、A.T.はどんな心の人だったのだろう?
来週は、A.T.の素顔を探るため、ハーレムの聖ニコラス通りにあるA.T.のアパートに行ってみませんか?当時のハーレムは治安の悪い事で有名だったから、貴重品は持たないようにしてね、一緒に行きましょう!
CU
Live at Cafe Bohemia / J.J. Johnson 5 (その2)
Bohemia Swings Again with Dick Katz / カッツさんとカフェ・ボヘミアに行こう!
J.J.ジョンソン・クインテット時代、トミー・フラナガンがバリバリ弾いていた“カフェ・ボヘミア”を探索する私は、ダイアナの助言どおり、翌晩、“NYの街でふと出会う不思議な紳士”、ディック・カッツ(p)さんに電話をすることにした。
’89 NY リンカーンセンター・ライブラリーで行われた、NPRのラジオ番組“Piano Jazz”のパーティ、ご機嫌のトミーとカッツさん。トミーがゲスト出演した当番組のインタビューは、講座本Ⅲの付録になってます。ご一読を。
前回も書いたように、NYの街の至る所でフラナガン夫妻と私達が連れ立って歩いていると、不思議なことにカッツさんと遭遇する。
一度、リンカーン・センターの前でばったり会った時、トミーが「ダイアナと一緒に来た。」と言うと、カッツさんは眉ひとつ動かさず、トボけたジョークで切り返した。「ふーん、そうかい。私は一人でちゃんと来れたけどな。」その時のトミーの鼻を膨らませたポーカー・フェイスはグルーチョ・マルクスそっくり!カッツさんとトミーはとても仲良しだったのだ。
古典的コメディー・スター、マルクス兄弟はトミーのお気に入り、グルーチョの物真似も上手だったし、映画音楽をアドリブに引用したりしていた。
カッツさんは日本のジャズ・メディアにはほとんど登場しないけど、ジャズ界ではかなりすごい人なのです。
’24年生まれ、兵役後、ジュリアード音楽院で、トミーのアイドルでもあるテディ・ウイルソン(p)に師事、パリで活動後、’54年から’55年まで、ジャズ界を風靡したトロンボーン・コンビ“J&カイ”バンドのレギュラー・ピアニストとして活動する傍ら、オスカー・ペティフォード(b)やケニー・ド-ハム(tp)などバップの親分達や、大姉御カーメン・マクレエ(vo)に可愛がられ、キャリアを重ねました。60年代には、オリン・キープニュースとマイルストーン・レコードを設立し、プロデューサーとしても活躍、ライターとしては、深い音楽知識と文章力で、モザイク・レコードなど、名ライナーノートを著しグラミー賞にノミネートされ、ジャズの伝統を伝えるAJO(アメリカン・ジャズOrch.)の編曲などを手がける一方、本業のピアニストとして’96年に、レザヴォアから2枚のCDをリリース、特にピアノトリオの“3 Way Play”はカッツさんのテイストが良く判る名盤です。80歳を超えた今も、講演や執筆、作編曲に忙しいらしい…
午前2時、ミッドタウン・イーストにあるカッツさんの仕事場に電話をかけると、すぐに本人が出てきた。
「ごぶさたしています…カッツさん、あの…私、日本の大阪という土地のOverSeasのですね、タマエといいます。以前、テディ・ウイルソンのジャズ講座の時には、ヒサユキに本や資料を沢山送ってくださってありがとうござ…」
「ハーイ!タマエじゃないか!ヒサユキは元気かね?こっちは家内のジョーンも皆元気だよ。」
カッツさんは、ちゃんと覚えていてくれた。それどころか、驚きもしない。私が電話して来る事をちゃんと知っていたみたいだ…。ダイアナが前もって彼に根回しなんてする筈はない。道でばったり会ったなら別だけど…。
「カフェ・ボヘミアの事を知りたくて、カッツさんから現場の状況を聞きたい。」と言うと、カッツさんは、「どうかディックと呼んでくれ。」と言ってから、前もって原稿があったみたいに理路整然と、それに、店の匂いまで漂うほど活き活きと、当時の様子を語ってくれた。
トミーが亡くなった後の寂しいNY、一緒に夕食をしてから埠頭までドライブした寒い夜。
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トミーは、確か1956年にデトロイトからNYに出て来た、すぐに色んな店でバリバリ仕事をしていたよ。ボヘミアではもっぱらJ.J.ジョンソンと演っていた。あの頃からトミーは実にいいピアノを弾いたね… 彼のピアノ、私は大好きだったなあ…。
私はカフェ・ボヘミアで、’56年から、ジョー・ジョーンズ(ds)オスカー・ペティフォード(b)とハウス・リズム・セクションを組んでいた。 文字通り、夢のようなリズム・チームだったよ。J.J.ジョンソンは、J&カイのコンビ時代(’54-’55)は私がレギュラーピアニストだったんだが、’55年に二人がコンビ解消をしてから、JJが、私をトミー・フラナガンと入れ替えたんだ。
J&KAIは一世を風靡したトロンボーン・チーム。左がカイ・ウィンディング(ケヴィン・スペイシーというハリウッドの役者に似てるね。)右:J.J.ジョンソン
ボヘミアは多分55年ー58年頃まで営業していたのではないかな… イタリア系のイカツいギャングみたいな連中が経営していた。本物のマフィアかどうかは知らないがね。(マイルス・デイヴィス5がボヘミアから中継したエア・チェック盤で、『ボヘミアの店主、誰からも愛される男、ジミー・ジァロフォーロ』と司会者が紹介している。)ギャラの支払いが悪くてね、オスカーは連中と派手にもめていたよ。あの気性だからな。ハハハ。
広さ? そんなに広い店ではなかったよ。店の奥に小さなステージがあり、バーが左手、テーブル席が少しあるようなところだった。場所がウエスト・ヴィレッジだし、決してゴージャスなクラブではないが、NYのトップクラスのライブを聴かせていた。雰囲気はアッパー・イーストサイドの“エンバース”と対照的な感じだったな。“エンバース”は客層がリッチで、どちらかと言えば、最高のステーキが音楽より売り物だったが、ボヘミアは飲み物しかなくて音楽主体だった。(トミー・フラナガンはトロンボーンのタイリー・グレンと“エンバース”に頻繁に出演していた。)
“ボヘミア”があった場所で、現在営業中のバロウ・ストリート・エールハウス:ディックの言うとおり入って左手にバーがある。同じカウンターを使っているのかな?
“バードランド”? あそこは、言わばメジャーリーグみたいなところさ。有名だから世界中、色んなところから客が集まった。一方、ボヘミアは地元NYのジャズファンが聴きに来る渋い店だった。(カッツさんは“バードランド”にはチャーリー・パーカーの対バンで出演していたことがある。)
ピアノはね、開店当時は小さなスピネット(箱型ピアノ)しかなかったが、しばらくして改装しグランドピアノが入ったよ。(’57新年のことだ。)
(珠)ディック、でもカヴァー・チャージはいくらかはご存知ないでしょ?
チャージ? ハハハ、ミュージシャンでカバーチャージがいくらか知っている賢い奴なんで絶対にいないさ。アイラ・ギトラーかフィル・シャープ(どちらもジャズ評論家)の電話番号を教えてあげるから、彼らに聞くといいよ。え?個人的に知らないって?そんなの構わんさ。私がちゃんと電話をしておいてあげるから。ヒサユキと君がトミーに心酔し、クラブ経営をしてるって言ったら、喜んで何でも力になってくれるはずさ。彼らはそういう事の専門家だからね。
だが、一度カーメン・マクレエの伴奏をしている時に彼女の友達が客席にいたので、一緒にテーブルに座ったら、『SAVE $1.50 COVER CHARGE』というカードがあったから、多分それ位かなあ…
(珠)ディック、J.J.ジョンソンは、どんなリーダーだったの?
リーダーとしてはね、完璧な人だった。
ベニー・カーター(as,tp,作編曲家)に会ったことはある? 私はね、ベニーのレギュラーだったことが何度もあるんだ!(ディックはちょっと自慢気に、咳払いしてから、後を続けた。)ベニーは正真正銘の完璧なリーダーだった。威厳があって堂々として、汚い言葉なんか決して使わない。サイドメンへの指示も丁寧で、「こうしてくれますか?:Will you please…?」と必ず敬語だった。絶対に「こうしろ!ああしろ!」なんて命令口調はなかった。
それだけでなく、彼は自分の音楽の隅から隅まで理解していて、自分のすべきこと、メンバーに要求すべきことを、ちゃんと把握し、適切な指示のできる人だった。J.J.ジョンソンは16才くらいの小僧の時にカーターの楽団で修行して、彼の帝王学をつぶさに学んだんだと私は推測している。ジョン・ルイス(p)も同様に、ベニー・カーターからリーダーシップの何たるかを学んだ人間の一人だよ。
“ザ・キング”ベニー・カーターはクリントン大統領から勲章を授与された。
そうだね、君の言うようにJJは完璧主義者だったよ。彼の自殺はショックだった。(J.J.ジョンソンは’01に銃で命を絶った。一説に癌の苦しみに耐えられなかったと言われている。)それを彼の完璧主義のせいだと言う人は多いが、私にはわからんな…
私がボヘミアで仕えたもう一人のリーダー、パパ・ジョー・ジョーンズ(ds)は、JJと正反対、マッドでワイルドなバンドリーダーだった。彼は物凄くクレイジーでマッチョな天才だったよ。え?さぞ一緒に仕事するのが難しかったろうって? NO,N0!ワイルドな人に限って、自分の気に入った相手にはとことん良くしてくれるもんさ。私はあんなにやりやすい人はなかったぞ…
風が吹くようにようにドラムを叩いた巨匠、パパ・ジョー、背後左はアート・ブレイキー、右はエルヴィン・ジョーンズ
(珠)OPとパパ・ジョーとディックが、毎晩色んなプレイヤーと演奏するなんて、さぞ凄かったでしょうね!私もボヘミアに通って聴いてみたかったなあ!本当にダイアナがうらやましい!!
ああ、まったくだ、私だって出来るならもう一度演りたいよ。…
… 時計を見ると午前3時をとうに廻っていた。カッツさんは、これ以外にも、ここ数ヶ月のジャズ講座に登場するラッキー・トンプソンの面白い逸話など色々な話をしてくれたけど、それは次回の講座をお楽しみに!
ダイアナは物凄く寂しがっているから、ぜひ近いうちにヒサユキとNYに来なさい。そう言ってカッツさんは電話を切った。
あの頃、あの街で、J.J.ジョンソンやオスカー・ペティフォード、キャノンボール、マイルス、キラ星の様なスター達と同じバンドスタンドでプレイしたカッツさんは、瞬く間に、80過ぎのおじいさんから、意気揚々とした若きモダン・ジャズの王子に変身して、真夜中の日本から、50年代のグリニッジ・ヴィレッジへ、紫煙とジンの香りが漂うカフェ・ボヘミアへと、時空を超ええた旅に連れて行ってくれた。
受話器の前で私は密かに確信する。
カッツさんは魔法でおじいさんに変えられた王子じゃない、魔法使いはカッツさん自身だったんだ。
さて、来週はバップのサムライ、ATことアーサー・テイラーが主役、ハーレムやグリニッジ・ヴィレッジで、私が垣間見たATの素顔を紹介します。CU
Live at Cafe Bohemia / J.J. Johnson 5 (その1)
Bohemia Afterthought : カフェ・ボヘミアを探して
「私が初めてトミーと出会ったのは、“カフェ・ボヘミア”だったのよ。ちょうど’57頃よ、ええ、きっとOVERSEASを録音する前に、J.J.ジョンソンのクインテットでね。あの頃は、JJに言われたことを、ただただきっちりやっただけだってトミーは言ってたわ…
もちよ!トミーはすごくキュートだったわ!でも、その頃、私は別の人と結婚していたから、何もロマンティックなことは起こらなかったのだけれど…」
Live at Cafe Bohemia (’57 2/2録音)2種類のジャケット。
トミー・フラナガン未亡人、ダイアナ・フラナガンは、寂しくて夜眠れないと電話をかけてくる。だって夜中にNYの友人達は皆寝ているけど、日本に電話すれば丁度午後だから。私が最も頻繁に長電話をする相手は、独り暮らしの母親に次いで、トミーが亡くなった2001年以降はダイアナだ。二人の共通点は昭和一ケタ生まれで、PCや携帯電話はなし、主に読書で暇をつぶしていること、そして二人とも亡き夫について語るのが好きなことだ。
ダイアナ&トミーが出会うずっと以前の写真:フラナガン家のスタインウエイの横に飾られている。
ジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る:第一巻」で、内容の素晴らしさという点から、受講された方々に一番大きな衝撃を与えたアルバムは、トロンボーンの神様、J.J.ジョンソンの作品群だ。特に実況放送形式になっているドイツの希少盤『ライブ アット カフェ・ボヘミア』は、名盤『ダイアル・J.J.5』の僅か2日後のステージだから、『ダイアル・J.J.5』と同一曲も収録されていて、ライブとスタジオでの演奏ぶりを比較しながら、示唆に富む解説が評判になった。CDを聴きながら、この本を読んでみると、更に色んな音が聴こえてくる。
名盤!Dial J.J.5 (’57 1/31録音)
完璧なアンサンブル、ひねりがあって無駄のない構成を土台にした縦横無尽なアドリブ、自由でありながら、水も漏らさぬ整然としたJ.J.のサウンドは、このアルバム名になっている”カフェ・ボヘミア”というクラブで培われたのだろうか?
手元にあるNYの文芸総合週刊誌”The New Yorker”の完全データベースから、タウン情報”Goings On About Town”のページを繰ると、やはり、『ダイアル・JJ5』録音翌日の1957年2月1日(金)から、ライブ盤を録音した2日(土)を含め翌週の9日(土)まで、そして、OVERSEASを録音したスエーデンツアーの前の5月にもJ.J.ジョンソン5はボヘミアに出演している。
”ボヘミア”はJ.J.ジョンソンだけでなく、マイルス・デイヴィス(tp)やケニー・ド-ハム(tp)、キャノンボール(sa)とナット(tp)のアダレイ兄弟たちの本拠地としても有名だ。
“キャノンボール”アダレイ(as)のデビューにまつわる神話もある。
ジュリアン”キャノンボール”アダレイ(as)
’55年、休暇を利用してフロリダからやって来た太めの高校教師がアルト・サックスを携え、”カフェ・ボヘミア”にやって来て一曲吹こうという話になった。その夜のバンドリーダーは、OPことあのオスカー・ペティフォード(b)!人のよさそうな青年に大都会の洗礼を与えてやろうと、I’ll Remember Aprilを、弾丸の様なテンポでを吹かせたのだけど、この田舎もんの兄ちゃん、いくら速いテンポで攻め立てても、いとも気持ちよさそうに、朗々とスイングし、ペティフォードを返り討ちにしたというのです。間もなく、その青年は教師を辞め、”キャノンボール(火の玉)”アダレイとして、名を馳せたという…
“カフェ・ボヘミア”ってどんなクラブだったんだろう…
「ボヘミア」というのは’50年代のビートニク世代のキーワード、既成概念を打ち破り、自由で束縛されないアーティスト達の心の故郷だ。そんなトレンディな名前のクラブ、”カフェ・ボヘミア”の住所はNY、ウエスト・ヴィレッジのバロウ・ストリート15番地となっている。
ここは19世紀の終盤に、まず運送屋の馬車を引く4階建ての厩舎が出来た。禁酒法時代になると、辺鄙な地の利を生かし、近所にスピーク・イージーと言われる、もぐり酒場が出来、密かににぎわった。その後消防署などを経て、’55年にイタリア系のマッチョな連中が”ボヘミア”を開店、オスカー・ペティフォードのトリオがハウス・リズムセクションとなり、JJは勿論のこと、マイルス・デイヴィスや、キャノンボール&ナットのアダレイ兄弟、ドナルド・バード&ジジ・グライスの”ジャズ・ラブ”などNYの最先端のグループで活況を呈し’58年ごろまで営業した比較的短命なクラブだった。
また、ここ数ヶ月間のジャズ講座で寺井が絶賛し、一番人気の博するラッキー・トンプソン(ts,ss)のホームグラウンドでもあったことも忘れてはいけない。
現在も建物はそのままで、現在はバロウ・ストリート・エール・ハウスというアイリッシュな雰囲気の居酒屋になっている。
“ボヘミア”の前で休憩するマイルス・デイヴィス(左)現在の姿(右)馬のマークは19世紀の厩舎の名残。
一体”カフェ・ボヘミア”ってどんな雰囲気だったんだろう…
Jazz Clubに生息する私は、夜中にそんな事を考え出すと眠れず、ダイアナに電話をする。だって夜中の3時は夏時間のNYなら午後2時だから全然大丈夫だもん。
「タマエ、いきなりカフェ・ボヘミアなんてどうしたの? へーっ、ウェブログ? いやだ…携帯電話もないあんたみたいな時代遅れの頑固者(ラダイト)までブログをやってるの?!でも、トミーの周辺の歴史を書くっていうのは、とってもいいことだわ。
“ボヘミア“はね、綺麗だの、豪華だの、と言うには程遠いけど、とにかく良い音楽を聴かせるクラブだったの。当時のウエスト・ヴィレッジは、おしゃれでも何でもない荒涼とした街だったわ。
席数? よく覚えてないわ…ヴィレッジ・ヴァンガードよりは広かったんじゃない?もっとテーブルも大きくてゆったりした感じだった。チャージ?あはは…そんなもの知らないわよ…だって払ったことないもん。NY中どこ探しても店の料金を知ってるミュージシャンなんていないわよ。(ダイアナはかつてクロード・ソーンヒルOrch.などで活躍した歌手だった。)
…料理はなくてドリンクだけの店だった、お客は皆ジャズを聴くためだけに集まってたから、客席はすごく静かだったわ。
お客の人種?そんなの何でもありよ。純粋なジャズクラブに、人種の区別なんてものはなかったの!うちのあの納戸にそういうことを全部書いてある本があるんだけどねえ…探すのが大変なのはあなたも知ってるでしょ。掃除をして出てきたら必ず知らせるから、私に任せなさい!(ああ…ダイアナが納戸の掃除なんてするわけない…絶対無理やわ。)
そうだっ、タマエ、いいアイデアがあるわ! ディックは”ボヘミア”に出ていたから、私よりずっと良く知ってるはずよ。ディックに電話なさい! え? 何言ってるの、彼はピンピンしてるわ!ヒサユキとあなたのことを大好きだって言っていたから忘れっこないわよ。おとといも道でばったり会ったのよ。電話番号知ってるでしょ。じゃあね!ヒサユキに私からのキッスを忘れないで!!」
ディック・カッツ(p)は、寺井尚之と不思議な縁のあるピアニストだ。寺井はJ&カイのアルバムを通じて、学生時代から特別な興味を抱いていた。それは、彼が腕のあるピアニストだっただけでなく、トミー・フラナガンの得意フレーズをそのまま、自分のソロに取り込んでいたからだ。
2006年NY、YAS竹田(b)の母校でもあるニュー・スクールで。
やがて、私たちがNYを訪れるようになり、フラナガン夫妻と街を歩いていると、まるで天から私達のことを見ていて、ふわっとマンハッタンに舞い降りてきたみたいに、不意に出会う不思議な人なのだ。彼のアイドルもテディ・ウイルソン(p)やアート・テイタム(p)、若き日の共演者はJ.J.ジョンソン(tb)、タイリー・グレン(tb)、オスカー・ペティフォード(b)、ベニー・カーター(as,tp,etc…)、ラッキー・トンプソン(ts,ss)であったこと、うお座生まれであることなど、トミーと共通点が多いから、大都会を歩く道すじも自ずと似ているのだろうか…。1924年生れ、スーツ以外の姿が想像できない上品な老紳士で、東海岸の先生然としていて、蝶ネクタイが似合う。声もしわがれているのだけど、一緒に話をしてみると、20歳の青年のように若々しい。聡明でユーモアがあって洞察力が深い。80年以上生きているのに、浮世の垢が全くついていない感じがする。
このおじいさんは、本当は王子様で、悪い魔女に老人の姿に変えられたのじゃないかしら、と思えるほど爽やかな人だ。
今夜はもう遅い。よし!明日の晩はカッツさんに電話してみよう!(つづく)
“CAPTAIN BILLY”後日談
INTERLUDE 増刊号
8月に、私に英語特訓してくれたビリー・ルーニーと美人妻ジュリーのことを書き、チック・コリアのHPを覗いてみたら、写真を配信するプレス担当のメルアドがジュリーになっていた。それで、本ブログに書いたことをメールしたら、自分と娘さんの写真を送ってきてくれました。
左が長女エミー、右がママのジュリーです:念のため
化粧っ気のない美貌もスリムな肢体もぜんぜん変わってません。美人は得だネ!
このメールが来たのは数週間前だけど、奇しくも12日に皮膚ガンの為、故国オーストリアで他界したジョー・ザヴィヌルとのスリー・ショットも送られて来た。
左からビリー、チック・コリア、故ジョー・ザヴィヌル
ザヴィヌルは、フュージョンの旗手として有名だけど、彼のルーツはBeBopだったことを知っていて欲しい。キャノンボール・アダレイ(as)5でデビューしアレサ・フランクリンの初期の作品などにも、ファンキーなバックを聴かせている。
テナーサックスの父:コールマン・ホーキンス
忘れてならないのは、フラナガンやハナさん同様、コールマン・ホーキンスを尊敬する若手ミュージシャンの一人であったこと。
ウィーン音楽院を卒業しNYに来たサヴィヌルはホークのアパートに集い、彼のヨーロッパ仕込みの手料理をごちそうになった後は、ホークに乞われるまま、ショパンやブラームスを弾いて食後のひとときを過ごしていたのだった。
合掌
次回は、ジャズ講座名場面集、トロンボーンの神様J.J.ジョンソンの『ダイアルJJ5』『ライブ・アット・カフェ・ボヘミア』を聴きながら、’57当時、グリニッジ・ヴィレッジで盛況を極めたカフェ・ボヘミアをInterlude的に探索してみます。
CU
オーヴァーシーズ/ トミー・フラナガン・トリオ (2)
名盤と男はジャケットより中身
トミー・フラナガンは来日中、大阪ステイの機会があると、ブランチから仕事に出る夕方まで、OverSeasでゆっくり寺井尚之と過ごすことがありました。そんな時はレコードを一緒に聴きながら、今ジャズ講座で話している原型のようなことを、演奏していた本人に講釈するので、トミーは、たいそう面白がって聞いていたものです。
例えば、フランク・ウエス(ts.fl)と録音した『Moodsville-8』(写真①)のBut Beautufulがかかっていると、こんな具合…
寺井:「このBut Beautifulのこのイントロは、もうジャズ史上最高のイントロですわ!」
師匠:「なんでや?こんなん普通のイントロやないか? ハンク・ジョーンズでも誰でも出来るやろう。」
寺井:「いいえ、出来ません!綺麗なゆったりした流れるようなルバートから、最後の瞬間にさりげなくきちっとイン・テンポにしてフランク・ウエスに渡すでしょう?こんな自然で美しいイントロを、他に誰ができますか?Huh?・・・」
師匠:「…ふーん…そうかな? まあ、そりゃよかった・・ザッツ・グッド」
そして、”あー、こんな奴の話に付き合ってられんなー”みたいに、斜め30゜を見上げ、どこ吹く風の素振りです。でも、この会話の直後、フラナガンはジャズパー賞(デンマークで’90年から始まったジャズのノーベル賞みたいな賞)受賞記念CD、 『Flanagan’s Shenanigans』(“フラナガンズ・シェナニガンズ”写真②)で、この曲を録音し、寺井や私をあっと驚かせました。
→
① ②
ある午後、『Overseas』の“Willow Weep for Me”が流れて来ると、トミーは寺井にこう言いました。
「アート・テイタムのこれは、本当に凄かったぞ。お前もアート・テイタムを聴いて勉強せにゃならんな。」
「何言うてはりますのん?このトミーのWillow Weep for Meの方がずっといいじゃないですか!」
「何言うとんねん、お前、テイタム聴いたことあるんか?」
「もちろん、レコードは持ってます。でも…」
「アート・テイタム以上のピアニストはおらん!もっと聴いてみろ! 第一、お前は生のテイタムを聴いたことあんのか? Huh!? (あるわけない…)
わしは若い時はずーっとテイタムを一生懸命聴いて来たんや!
もっとちゃんと勉強せい!」
アート・テイタム(1909-56)はフラナガンだけでなくサー・ローランド・ハナ、ウォルター・ノリスなど、OverSeasゆかりの全てのピアニスト達の崇拝の的。
最初は柔らかな語調が、最後にはフォルテッシモ、トミーは議論になると、ピアノ同様にダイナミクスが物凄かった。そして、あの大きな瞳の迫力…でもこの一言が、後に、寺井尚之のプレイを大きくしたと言えます。現在、寺井は演奏前には必ずと言ってよいほどアート・テイタムを聴いています。
このレコードは未発表テイクの入ったコンプリート盤だったので、次に、“Dalarna”のtake2が流れて来ると、トミーが眉をひそめました。
「これはなんや?」
「オルタネイトが入ってるコンプリートCDです。」
「どこのレコード会社や? わしには何の断りもなかったぞ。こんなもんくっつけて出して何が面白い?何の意味もないわい!Nonsence!ナーンセンス!」
フラナガンが怒ったのも無理はありません。Overseasは、決してツアー中のバイトとして場当たりに録音したアルバムではなく、入念にレパートリーを選び、キーや構成を考え抜いて丹精込めて作ったものなんですから。
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ジャズ講座では、名コメンテイター、G先生との対話を通して、これまでEP、LP、CDと、様々な形でリリースされて来た様々な『Overseas』を検証しました。その過程で、現在市販されているCDで「別テイク」としておまけについている全トラックが、マスター・テイクと同一であるという、驚愕の事実が明らかになります。今のジャズファンが入手できる唯一の『Overseas』がこれでは困ったものです。
さらに、現在廃盤のDIW盤の「真正」別テイクを聴き、マスター・テイクとの違いや、そこに潜む深い意味などを勉強できました。講座なら別テイクも有益です。
当店の常連様でもある、ヨコハマ・ピープル(フラナガン夫妻はこう呼ぶ)「トミー・フラナガン愛好会」のHPに、『OverSeas』の詳細な聴き比べデータが掲載されているので、どうぞご一読を!
OVERSEASは有名盤だけあり、WEB上でも数え切れないほどのサイトやブログで言及されていますね。
何故か、色々あるジャケットについての論議が多い。現在市販されている、オヤジギャグっぽいC並びのジャケットはおおむね好評みたい。でも上に書いたような、別テイクのエラーは、ジャケットに免じてなのか、殆んど見過ごされている。
肝心の内容については、『普段“サイドマン”のトミー・フラナガンが、思わず、エルヴィン・ジョーンズのパワーに煽られて…』とか『主役の器でないフラナガンが、エルヴィンに主役をバトンタッチして成功したアルバム』という意見があるようですが、それは全くあり得ません。先ず第一に、フラナガンは終生、自分を『サイドマン専門』とは思っていなかった。繰り返して言いますが、決して思っていません。それどころか、「私は良い伴奏者じゃなかった。伴奏の専門家には普通のピアニストととは全く違う技術が必要なんだ。良い伴奏者というのは、エリス・ラーキンスやジミー・ジョーンズの事を言う。あるいは、ホーンのバッキングならバド・パウエルが誰よりもすごい。」とよく言ってました。
(寺井が「エラの伴奏をしているトミーの方がずっと上や。」と言い返すと、「お前生でジミー・ジョーンズが伴奏するサラ・ヴォーンを聴いたことあるんか?」と突っ込み返されていました。)
このあたりは、今後のジャズ講座でどんどん明らかになるでしょう。
ドラムのエルヴィン・ジョーンズとは、二人の高校時代からずっと共演している間柄で、親友同士でもあります。高校時代、ポンティアックのジョーンズ家の自宅では、しょっちゅうジャムセッションをわいわいとやっていて、フラナガンやケニー・バレル達はデトロイトから車を飛ばして参戦していました。フラナガンによれば、その頃から彼のドラムスタイルは全く同じであったそうです。『OVERSEAS』録音以前’57年には、グリニッジ・ヴィレッジのカフェ・ボヘミアだけでも、2月と5月に、J.J.ジョンソン5で、のべ2週間共演しています。ですから、“あのパワー、あのスピード”は、トミーにとって最も耳慣れた演り易いものであったはず。トミー・フラナガンがエルヴィンの迫力に圧倒されるなんて、絶対ありえないことなのです。
1956年、トミー・フラナガンがNYに出てきて僅か数週間で名店バードランドにバド・パウエルの代役として出演できたのは、一足早くこちらでパウエルの共演者として活躍していたエルヴィンの推薦だった。
フラナガン弱冠27歳の名演『OVERSEAS』は、確かに当時のトミー・フラナガン音楽の集大成、文句なしの名盤だけど、お楽しみはこれからだよ。
オーヴァーシーズ/トミー・フラナガン・トリオ(1)
わが心のOVERSEAS
前回まで、昔話が続きましたから、今回は皆の知っている名盤<OVERSEAS>の話をしましょうね。
講座の本「トミー・フラナガンの足跡を辿る」では第一巻の最終章に載っています。
1957年、トミー・フラナガン(p)がウィルバー・リトル(b)、エルヴィン・ジョーンズ(ds)と組んだピアノ・トリオ作品。
私が『OVERSEAS』を買ったのは、関西大学軽音楽部に入学した翌日です。(あら、また昔話になっちゃった…)入部の際、面接とオーディションをした幹部の4回生は、プロのピアニストで、ちょっとカタギでないような感じの人でした。(入学した時に、私の身長目当てに熱心に勧誘して来た社交ダンス部の人たちに、『「軽音」の連中は、僕達とは違って不良ばっかりでクスリをやってるかもしれませんよ。』と脅かされていたのです。)ヒゲをたくわえ、譜面帳の入った大きな皮のトランクを持っており、夜になると、毎晩演奏に行くため、スーツを着てます。昨日まで高校生だった私から見れば、ものすごい大人のオジサンという感じでした。
その先輩に「入部したかったら、これは買わんといかんで!」と言われ、即レコード屋さんに走って行きました。(聴くところによれば、この人は、同様の手口で何百枚ものOVERSEASを販売促進したらしい。)貧乏学生の私にとって、2000円以上するLPはものすごい高級品でした。私の買ったのはテイチク盤で、「第一期スイング・ジャーナル・ゴールドディスク」、チョコレートやクッキーの箱についている○○賞受賞!みたいな金色のリボンが印刷してあります。
家に帰ってA面の針を降ろすと、部屋の空気が澄み渡るような気分になりました。なんだかよく判らないけど、力強く華やぎのあるイントロから“Relaxin’ at Camarillo”のテーマになだれ込む瞬間に、ジェット機で離陸するような浮揚感を体験した。B面はCamarilloと同じブルースだけど、対照的に重厚なベースのビートから始まる“Little Rock”からスタートし、ビリー・ホリディの歌ですでに知っていた“柳よ泣いておくれ”で針が止まります。Camarilloが難易度最高のパーカー・ブルースと知らなくても、ラストの曲がテイタムの十八番と知らなくても、大学の教室で勉強していたマティスやピカソと互角の、スカっとしたモダンな音楽やなあ…といっぺんで好きになり、以来、毎日日課のように聴きました。
だから、CD時代も終焉に近いと言われる現在になっても、LPの印象が強いんです。
以来何十年も、毎日聴いていますが、聴くたびに感動します。それを思うと安い買い物ですね。80年代に、人間としてのトミー・フラナガンに出会い、彼が歳とともに円熟を増し、病に苦しんでも、守りの姿勢に入らず進化した様子を生で聴いてきましたから、この27歳の時のアルバムを「フラナガン最高の名演」とは決して思いませんが、寺井尚之の言うように「初期の傑作」であることに間違いはありません。
私にこのLPを買わせた寺井尚之にとっては、若い時、徹底的にコピーした音楽のルーツ、彼の人生を決定付けた一枚です。 余りに思い入れがあり、却ってジャズ講座で解説するのが、とっても難しかったのではないかと推測します。
でも講座は文句なしに面白かった!これぞ寺井尚之!という醍醐味を堪能させてくれました。「ひいきの引き倒し」的な解説ではなく、理解を優先させたのは正解でした。なぜOVERSEASが何度聴いても飽きない名盤なのかを、色んな角度から分析して、スパっと教えてくれたからです。
当時のボス、完璧主義者、J.J.ジョンソン(tb)
寺井は音楽家の視点から、楽曲と演奏の構成を提示しながら、デトロイト・バップ・スタイルや、当時のこのトリオのボス、J.J.ジョンソン(tb)からの影響など、客観的な所見をわかり易く語ります。
そして、録音前のフラナガンとビリー・ストレイホーンとの邂逅のエピソード、選曲についてのフラナガンの思い入れ、ストックホルムを襲った水害で水浸しになった直後の録音スタジオの状況など、<OVERSEAS>という名盤を創り上げる過程での様々なファクターが、トランプのカードをめくるように浮き彫りにされて行きます。物事は「それを好き」な人に訊くのが一番良いという見本の様な講座で、とってもわかり易かった。もっと知りたい人はジャズ講座の本第一巻を読んでみてください。
“OVERSEAS”(=海外)というのは、このトリオとボビー・ジャスパー(ts.fl)を擁するJ.J.ジョンソン(tb)・クインテットがスエーデンにツアーした際、当地ストックホルムで録音したことから命名されたタイトルです。そう言うとノリのよいジャズメンが、ツアー中の空き時間に、ひょいとスタジオに入り、“Yeah! Man”と場当たりに録音したやっつけ仕事と思われるかも知れませんが、講座の解説を聞くと、実際は全くそうでなかったことが、良く判りました。
1957年当時、J.J.ジョンソン・クインテットはグリニッジ・ヴィレッジにあったジャズクラブ、<カフェ・ボヘミア>の常連コンボだったことを考えても、フラナガンが、録音レパートリーの構成や意図を共演者に伝える余裕は充分にあったはずです。
フラナガンは、インタビューで、大昔に録音した『OVERSEAS』を「代表作」と呼ばれることに不快感を示したことがありますが、それは『OVERSEAS』以降のフラナガンの音楽に対する無知に対して怒っているのであって、決してこの作品を嫌っていた訳ではありません。
大阪滞在中、トミー・フラナガンがOverSeasでくつろぐ時も、しょっちゅう一緒に聴きました。そんな時、寺井はこの講座で話したようなことを、口角泡を飛ばし、とうとうと解説したものです。フラナガンは、ポーカーフェイスで、時々突っ込みを入れたり、洒落を入れたりしていたけど、鼻先から、嬉しそうに「フンッ」と息を出していたなあ… (つづく)
初めてのトミー・フラナガンDAY(3)
God Is in the House!トミー・フラナガン弟子を取る!
初めてのトミー・フラナガン・トリオ、当日券をあてにして来られた方々をどれほどお断りしたことか…今思っても申し訳ない気持ちで一杯です。ライブ・レコーディングしていれば、フラナガンのマグマが爆発する瞬間を捉えた名盤となったことしょう。
長細い店内の最後尾まで、バー・カウンターの中さえ、立ち見のお客さまで一杯、私はてんてこまい。その間に寺井尚之は、フラナガンのオリジナル曲を含め、レコードから長年採譜してきた譜面の束を巨匠に見せていました。
その夜の壮絶なコンサートは、遠く離れた日本の地で、一心にフラナガンを研究してきた寺井尚之に対する「お答え」とも言うべき内容でした。
私は信心深い人間ではないけれど、あの夜、生まれて初めて”神の御業”を目の当たりにしたと確信しています。それまで私がレコードでよく知っている(と思い込んでいた)名演の数々は、トミー・フラナガンという壮大な音の宮殿にそびえる大きな城門のちっぽけな鍵穴から覗いた断片でしかなかっのです。
セット・リストは”初めてのトミー・フラナガンDAY(2)“をご参照ください。
やはりサウンドチェックの曲は本番では演奏しなかった…フラナガン一流のヒップなコンサートの序章だっんですね…コンサートの全貌は、いつかジャズ講座で寺井尚之が解説する日が来るでしょう。
一部はダーク・スーツ姿のトミー・フラナガン
一部の幕開けComfirmationからフル・スロットル、BeBopの権化の様なアーサー・テイラー、彼のベース・ドラムのアクセントと、ジョージ・ムラーツ(b)の完璧にレガートの効いたランニング、それを自分のエネルギーに取りこんで「ヒサユキよ、おまえさんの神が来たんだぞ!」とばかりに疾走するトミー・フラナガン! フラナガンの尊敬する巨匠アート・テイタム(p)と同じ、「God Is in the House (神はこの館におられる)」でした!
1部のレパートリー1~6は、すでに寺井尚之が愛奏していた曲ばかりです。超速のMinor Mishap(マイナー・ミスハップ)を聴きながら、ダイアナに、「ヒサユキのプレイでしょっちゅう聴いている大好きなナンバーです。」と言うと、彼女はびっくり仰天していました。
左:アーサー・テイラー、中央:ジョージ・ムラーツ、右:トミー・フラナガン
このセットのハイライトは、“セロニアス・モンク・メドレー”(このコンサートの2年前、同じメンバーでモンク集の名盤、『セロニカ』を録音しています。)この夜は、アルバムよりも情熱的で、記したリスト以外にも、”Epistrophy(エピストロフィー)”など数え切れないモンク・チューンがちりばめられたモンクの小宇宙、でも、「いかにもモンク」的なフレーズはなし、モンク特有の「アク」を抜きつつ、モンクらしさを損なわず、フラナガン独特の品格と大スケールで息もつかせず聴かせます。だけど、これはまだ序の口だった。
二部開演までの休憩時間、フラナガンは疲れも見せず、赤ペン片手に、寺井尚之の譜面の分厚い束をチェックするのに一生懸命。とうとうジョージ・ムラーツまで座りこみ、一緒に採譜の違った箇所があれば訂正を入れてやろうというのです。フラナガンのオリジナル曲は、絶対音感さえあれば譜面に起こせるといった単純なものではありません。巨匠のアイデアを理解していないと、ちゃんとしたコピーなど出来ません。チェックしてもらった束の中から、“Dalarna(ダラーナ)”と”Minor Mishap”は、OverSeasの壁に飾ってあります。良く見ると、フラナガンのサイン入りのMinor Mishapに一箇所だけ、赤ペンでコードが加筆されているのがご覧になれますよ。
譜面のチェックが一段落すると、フラナガンは、スーツでキメたムラーツにOverSeasのブルーのトレーナーを着るように指示、自分は燃えるように赤いトレーナーに着替え、2部が始まりました。当店のバンドスタンドに掲げるムラーツの肖像は、その時のものです。
ムラーツはお気に入りの肖像の前で10月にコンサート開催予定
二部開演の際、客席に向かってフラナガンは、こう言いました。
「今夜演奏できて、我々は本当に幸せです。月日が経ち、ヒサユキは音楽の良き理解者として立派に成長した事が今日判りました。皆さんは、良いジャズクラブがあっていいですね。今からここに来て2回目の演奏を始めます。我々はこれからもずっと、ここで演奏をしていくつもりです。今日招いてくれたヒサユキに心から感謝しています。」
…フラナガンは何も口に出さなかったけれど、ピアノの上に飾られた’75年の雪の京都の出会いのシーンから、ちゃんとヒサユキの事を覚えていたのです。そして“これからもずっと…”と言ったフラナガンの予言は現実になりました。
それからのフラナガンのプレイの凄かったこと…寺井が書き貯めた譜面の束が、天才の心の鍵を開け、とてつもない霊感を吹き込んだとしか言いようがありません。
フラナガンが心の門を全開にして、ヒサユキと聴衆全員を、自分の壮大な音楽の宮殿に招きいれてくれたような気がします。庭園や建築、豪華な調度類から、先祖の肖像画に至るまで、60分の演奏時間で、全てをくまなく見せようとする物凄いものだった! たとえば、コルトレーンの曲(1)にチャーリー・パーカーを引用し、二人のスタイルが相反するものでない事を解き明かしてみせたり、バド・パウエル(5)には、モンクやマイルスの曲を重ね合わせ、BeBopへの想いを熱く語り、”リーツ・ニート”では、デトロイトの先輩サド・ジョーンズの”ライク・オールド・タイムズ”(数年後、フラナガン3のオハコとなる曲です。)をリフに入れてみせます。
クライマックスには再びメドレーを持ってきました!ソロやトリオで奏でる、数え切れないエリントン&ストレイホーンの曲、あの名フレーズ、このリフ、「知っているのはいくつある?」と言わんばかり…ジャングルの様々な植物が百花繚乱するフラナガン宮殿の芳香溢れるボール・ルームに案内されたように豪華な夢の世界でした。
燃えるように赤いフラナガンの大きな背中、鍵盤を滑るグローブのように大きな手、ハイ・ポジションを弾くムラーツの額に落ちる輝く前髪、腰の据わったATの姿勢、苦みばしった顔つき…私がどんなにしわくちゃのおばあさんになったって一生忘れません。
どこから撮っても絵になるバッパー、アーサー・テイラー、この一連の写真を撮影してくれた桑島紳二氏(現在 神戸学院大学教授)は、ATを撮影した一連の作品で、国際写真コンペで賞を受賞しました。
ジョージ・ムラーツは、フラナガンにぴったりと併走し、要所で鮮やかなベース・ソロを聴かせます。フラナガンより一つ年上のアーサー・テイラーは、「よっしゃ、トミー、とことん行け!」と言わんばかりにエネルギーを供給し、ドラムソロになると、BeBopの千両役者の貫禄を見せ付けます。息もつかせぬ長尺のメドレーの後のアンコールは、店名のOverseasから2曲。燃えさかる興奮を鎮めるどころか、一層火花の散るハードバップ…何億ドルもかけて作る大作映画だってこのコンサートのスケールにはかなわない!胸を張って言いますよ。
この夜のフラナガンのアドヴァイスで新たな調律のコンセプトが開けたという、名調律師川端氏と
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終演後、ディナーを楽しんでからも、フラナガンはまだ譜面の束を仔細に眺め、ヒサユキに色々質問しています。すると突然ダイアナ夫人がワっと泣き出しました。まるで最近の夕立のように激しい慟哭でした。それは、愛する夫の音楽を、自分に負けないほど敬愛していた人間がいた事への嬉し涙だったのです。彼女はヒサユキを固く抱きしめ、ぐしゃぐしゃの涙の中から決然と言いました。
「トミー、ヒサユキを弟子にしてあげて。」フラナガンは頷き、何度もYeah、と言います。そこには、私が夕方見た「どこ吹く風」のとぼけた様子は微塵にもありませんでした。
夜中の1時になっても、OverSeasはお祭り騒ぎ、皆は一向に帰る素振りも見せません。狐につままれたような迎えの事務所の人たちにうながされ、しぶしぶ皆が帰ったのは午前3時近くなっていました。
この夜からMr.フラナガンは自分をトミーと呼ぶように言った。
翌日は大阪のメインの仕事、ホテル・プラザでのディナー・ショウがありました。弟子入りを許された寺井尚之は、仕事のハネる時間に師匠を迎えに行き、ギグ後外出自粛主義のムラーツに誘われて、ホテルのバーで義兄弟の契りを結んだ後、師匠とATを連れて帰ってきました、当時隣にあった老舗ホテル、「ひし富」の板長さんが大のジャズファンで、深夜にもかかわらず懐石料理を仕出しして下さって、盛大なパーティをしました。二人ともすっかりくつろいで、昨日、怒涛のように激しいプレイをしていたジャズの巨人と思えない気さくな紳士でした。
私が英語を話すのを面白がったATは、帰国後、自著のインタビュー集、『Notes & Tones』(ジャズの巨人達の生の語り口がスイングしていて凄く面白い!)を送ってくれました。それがきっかけで、「英語を読む」楽しみも授かりました。
だけど…そうなんです。皆さんはもうお気づきでしょうけど、結局、私が英会話など勉強しなくとも、寺井尚之の弟子入りは彼自身の力で果たされたということだったんです。
★この初コンサートは’84年12月14日(金)、契約が決まったのは半年近く前の初夏、契約直後から、当日に風邪など絶対引かないようにと決意したわしは、以後全く風邪をひかんようになったのです。これが「バッパーは風邪をひかん」という格言(?)の由来です。(特別出演:寺井尚之)
さて、次週は、ジャズ講座、名盤名場面集:いよいよ”Overseas”へ!CU
初めてのトミー・フラナガンDAY(2)
★トミー・フラナガンや寺井尚之の音楽に親しんでいらっしゃる方は、このセット・リストで、充分楽しいでしょ?
明日は、コンサートの前後に、寺井尚之に起こった色んな事件を写真とともにレポートします!
CU