テイタムを知らずして
トミー・フラナガンを語るなかれ。
トミー・フラナガンは、ビバップの洗礼を受けた人であり、ピアノという楽器から最もピアノらしいサウンドを弾きだす巨匠だった。(寺井尚之が自分のピアノ教室で、まず最初に、音楽理論を概説し、ピアノの倍音を鳴らすトレーニングを行うのはそのためです。)
ビバップの革命的なハーモニーの土壌を作り、ピアノを一番ピアノらしく弾いたといわれるのがアート・テイタム、何年も、何年も、演奏前の寺井尚之は毎日テイタムを聴いている。
テイタムはテディ・ウイルソンから新主流派スタンリー・カウエルに至るまで、OverSeasが愛する全ピアニストの神様だ。
ぞっとするほど神秘的
アート・テイタムはオハイオ州トレド生れ、全盲ではないが、殆ど盲目のピアニストだ。
何世代も前の天才で、実際に観た人がほとんど生き残っていないせいか、内外のジャズ評論では、テイタムの超絶技巧を迫真的に表現するものには、あまりお目にかかったことがない。
オスカー・ピーターソンとのリンク付けや、ファッツ・ウォーラーの名台詞『神はこの家におられる』、クラシック・ピアノの皇帝、ホロウィッツやストコフスキー、ラフマニノフが夢中になったというエピソードが繰り返し語られる。
だけど私たちが大好きだったピアニスト達は違う!生演奏を聴いて育った彼らにテイタムの話をさせたら止まらなかった。フラナガンや、サー・ローランド・ハナ、ウォルター・ノリス、そして、父親がテイタムの友人だった新主流派のスタンリー・カウエル、もうみんな亡くなってしまったけれど、オーラを放つ巨匠たちが、少年のように瞳を輝かせ、片手でグリスとランを一度に弾くのを真似しながら、声をかけてもらった喜び、なによりもテイタムにまつわる怪談話を、声をひそめて語る様子は、おとぎ話のようにわくわくするものでした。
彼らに共通するテイタムのイメージは、『ぞっとするほどの神秘。』 話をする本人たちも天才なのだから、リアリティがすごかった!
典型的な怪談話は、ウォルター・ノリス(p)さんだ。(左写真)ノリスさんは、フラナガンと同世代、サド・メルOrch.で活躍し、後にベルリンを拠点として活動した名手だ。
このエピソードは書物にもあるが、やっぱり本人から伺うと一層怖い。
「昔、LAにあったクラブにテイタムを聴きに行ったら、ピアノはアップライトだった。なのに、それはスタインウェイのコンサート・グランドのような響きだったから、私はびっくり仰天した!一体どんなピアノなのか確かめたいと思い、数日後、同じ店に行って私自身が弾いてみた。そしたらどうだい。正真正銘のオンボロのピアノでアクションも最低、おまけに鍵盤が数本欠け落ちていた!なのに、次に同じ店でテイタムを聴きに行くと、やはり調律直後のグランドにしか聴こえない。そして、ないはずの鍵盤の音がちゃーんと聴こえていたんだ。」と言うのです。鬼気迫る表情と小声で語る迫力…ノリスさんは、どちらかというと普段はシャイな人で、ホラ話なんて絶対しない。ピアノの調律には非常にウルサく、とことん響きにこだわる巨匠が、こんなことを言うのです。
カッティング・コンテストと呼ばれる名手達の壮絶な果し合いが、アメリカ各地で行われていたジャズ西部劇のような時代、テイタムはトレドの街で、NYやシカゴ、色んな土地から来た腕自慢をばったばったとなぎ倒してから、NYに進出した。
ナイトクラブやキャバレーでの仕事を終えたミュージシャンが集まるアフターアワーズ・クラブ、ジャズシーンの裏側でテイタムが少年時代のフラナガンやアーマッド・ジャマルに聴かせた至高のピアノ・プレイ…ミュージシャン達が語るテイタム伝説には、それぞれ衝撃のドラマがあります。
神か天使か怪物か?
=ジョー・ターナーの証言=
Joe Turner(1907-90) ボルチモア出身、ルイ・アームストロングなどの名楽団で活躍した華麗なるストライド・ピアニスト、第二次大戦後はパリのクラブで人気を博した。パリ没。
西部をツアーしたとき、ベニー・カーター(as.tp.comp.arr.)は私に警告をした。-「オハイオ州のトレドに着いたら、決して土地のクラブでピアノに触ってはいけない。街にいる盲目の若造はやり手だ。お前が逆立ちしても太刀打ちできない。」
一体どんな奴だろう?私はトレドの街に着くとすぐ、そのピアノ弾きの居所を尋ねた。なんでも、そいつは夜中の2時きっかりに、決まってある軽食屋に現れると言う.
午前零時、劇場の仕事がハネると、私はその店に行って例のピアノ弾きが来るのを待った。しばらく私がピアノを弾いていると、ピアノの傍らで、2人の若い女が言い合いを始めた。「この人ならアートをやっつけちゃうわね。」と一人が言うと、もう一人が言い返した。「そのうちアートが来るから、どっちが勝つか、じっくり見物しましょうよ。」
噂どおり、2時きっかりにアート・テイタムが現れた。私が挨拶をすると、「ああ、お前さんが、”Liza“を素晴らしいアレンジで演っている、あの有名なジョー・ターナーかい?」と言うじゃないか!私が演奏してほしいと頼むと、『まずあんたのピアノを聴かせてもらってからだ。』と言って聞かない。アート相手に言い合いをしても勝ち目はなかった。私は、ベニー・カーターの忠告を無視し、“Dinah”で指慣らしをしてから、十八番の”Liza”を演った。
弾き終わると、アートが『なかなかいいね。』と言ったので、私は少しムっとした。私の”Liza”を聴いた者は、余りの凄さにびっくりするのが常だったからだ。なのに、ただ『なかなかいいね』とは何事だ!
それからアートはピアノの前に座り、“Three Little Words”を弾いた。その凄かったこと! 三つの短い言葉どころか、三千語でも足りない、もの凄い演奏だった!あれほどの音の洪水を生まれてから聴いたことはない。
それ以来、私達は無二の親友となった。次の朝早く、私がベッドから出る前に、彼は、もう私のところに遊びに来て、昨日私が弾いた”Liza”を一音違わず、全く同じように弾いてみせた。
(出典:Hear Me Talkin’ to Ya / Nat Shapiro and Nat Hentoff)
=ジーン・ロジャーズの証言=
Gene Rodgers (1910-87) ピアニスト、NY生まれNY育ち、キング・オリヴァーやチック・ウエッブ等の名楽団で活躍。’39に大ヒットしたコールマン・ホーキンスのBody & Soulの名イントロはロジャーズだ。
’30年代の後半、私はクリーブランドで彼に出会った。…我々が出演した劇場の上の階のナイトクラブに、偶然テイタムが出演していた。共通の友人の紹介で、彼と一緒にビールを飲んだ。
よせばいいのに、私は「あんたのプレイを聴かせてくれよ。」と切り出したのさ。「それなら、君がお先に。」と向こうが言った。なにせ、私はその頃、やる気満々の若造さ、ほいほいと言われるままに弾いたよ。演奏し終わったら、彼は誉めてくれた。「ヘイ!君のスタイルはいいなあ。凄く気に入ったよ!」私はすっかりいい気になって、「今度はあんたの番だ」と言ってしまったんだ。
目の不自由なアートが2人の男に付き添われ、ピアノに向かうだけで、皆の注意がひきつけられた。ピアノはアップライトだ。アートは右手にビールのグラスを持ち、ピアノの椅子に座りながら、左手だけで弾き始める。おもむろにグラスを置くと、右手も鍵盤に向かった。それからは、自分の耳が信じられなかった。…彼が3曲弾き終わる頃には、耐えられなくなってホテルに逃げ帰り、さめざめと泣いたよ。人生であれほど凄い演奏を聴いた事はなかった・・・
(出典:American Musicians/ Whitney Balliett)
しかし、ミュージシャン達をKOしたのは、単に超絶技巧だけでなく音楽の中身だった。
=ビリー・テイラーの証言=
Billy Taylor (1921-2010) ビバップから現代まで、激動のジャズ史を生き抜いたピアノの巨匠、全米ネットワークのジャズ番組のホストとして有名。知名度を生かし、音楽教育や文化プログラムの資金集めを含めジャズ界に貢献した。ネット上でフラナガンとのものすごいデュオが観れる。
テイタムのピアノ、ホーキンスのテナー、そしてエリントン楽団、この三つがビバップ語法の基礎を作った。
テイタムが繰り広げたジャム・セッションの中で忘れがたいものがある。相手はクラレンス・プロフィットというピアニスト兼作曲家だった。私を含め、皆、彼のことを単なるファッツ・ウォーラーの亜流と思い込んでいたが、この二人のジャム・セッションは何ともすさまじかった。
二人がピアノの前に座り、同じメロディを延々弾き続ける。メロディは変えずにハーモニーを次から次へと変えていくのだ。フレーズを考えるのでなく、色んなハーモニーをどんどん考え出すという凄いジャムだった。
特に”Body & Soul”を演った時が面白かった!あの曲にはすでに決まったコードが付いているからね。彼らのセッションは信じられないような内容だった。だが、あの時やったようなことは、私の知る限り全く録音されていない。
(出典:Swing to Bop/Ira Gitler著)
=カーメン・マクレエ(vo)の証言=
Carmen McRae (1920-94)
ビバップの誕生に立ち会い、ビリー・ホリディの生き様を見て育った大歌手。
ハーレムのセント・ニコラス通りを少し入ったところにアフターアワーズの店があってね、一流ミュージシャンは仕事が終わると、皆そこに集まった。レスター・ヤング達カウント・ベイシー楽団の面々、ベニー・グッドマン、アーティ・ショウ、そしてアート・テイタム、アートはアフター・アワーズの店が大好きだった。彼が正規の出演場所よりも、アフターアワーズの方が良い演奏したっていうのは本当よ。多分、その場の雰囲気のせいかもね。違った空気があれば、それに即して違った弾き方、歌い方をする人は多いの。ある種のお客やクラブには、ミュージシャンが、普通は出来ないことをしたいと思わせる何かがあるのよね。まあアート・テイタムは余りに素晴らしくて、いつの演奏が良かったと選ぶのも無理なんだけど…
(出典:Hear Me Talkin’ to Ya / Nat Shapiro and Nat Hentoff著)
=フラナガンのもう一人のルーツ、巨匠テディ・ウイルソンの証言=
私はアール・ハインズとファッツ・ウォーラーが好きだ。しかし、アート・テイタムは、全く別物だという気がする。彼は生まれながらに、類い稀な天才だった。野球に例えれば、全打席ホームランを打つ程の天才だ。アートは神秘と言ってよい。アートが他のどのピアニストよりも私に感動を与えたことに間違いはない。
(ダウンビート誌 1959年1月22日号)
=トミー・フラナガンが語るテイタム伝説=
私は子供の頃に一度、彼のプレイを間近で観察した。それは(デトロイトの)アフターアワーズの店だった。テイタムが現れたのは朝の4時、演奏を始めたのは5時頃だ。それから2-3時間弾くというのが彼の日課だった。まだそんないかがわしい場所に出入りしてはいけない年齢だったが、テイタムを観たさにこっそり家を抜け出したのだ。悪いことだったが、今でも、そこで彼を生で見れて良かったとつくづく思う。
そこで彼の弾いていたのは、おんぼろアップライトで、粗大ゴミと言ってよい代物だった。テイタムが弾く前に、彼の友人のピアニストが弾くと、どれほどひどいピアノかが、つくづくよくわかった。だが、一旦テイタムがピアノの前に座ると、粗大ごみの音が、瞬く間にグランドピアノのサウンドになった。彼はまさにピアノを変身させる事ができたのだ。本当に凄かった。しかも、彼は大変音楽的だった。実にひどい楽器でも、そこから音楽を引き出して見せた。
楽々と弾くテイタムの姿をひたすら傍で見つめるのは、素晴らしいことだった。片手にドリンクを持ち、片手だけで、僕の今迄に弾いたどれよりも凄い演奏をして見せた。そんな事が起こるのがデトロイトのアフターアワーズだった。
強烈なテイタムの洗礼を受けたフラナガンが18才になった頃、今度は自分のプレイをテイタムが間近で聴くことになる。
フラナガン-ある夜、私はボビー・キャストン(Bobbe Caston)という歌手の伴奏をしていた。テイタムは彼女の歌が好きで伴奏をしていたこともあった。歌の前座のピアノ演奏では、いつもテイタム・スタイルで”Sweer Lorraine“等を演っていた。
ある夜、いつものようにテイタム流に奮闘している最中に、ボビーが私に近付いてこう耳打ちした。
『ほら、アート・テイタム があそこに座っているわよ。』×☆○! !
ボビーの示した 方をそーっと観ると、本当に彼がいるじゃないか!それからは、逆の壁の方を向き、やっとの思いで弾き終えた。
私は彼と話すのが恐かった。彼には6回程会ったことがあるが、いつもどんな話をすればよいかもわからなかった。私は彼をミスター・テイタムと呼んだ。でも彼は私にとても優しかった。私達若い者のプレイを、とても忍耐強く、じっと立ったままで聴いてくれて、「今夜は珍しくうまい子達がいるね。」なんて言ってくれた。
テイタムがピアノの前にひとたび座れば、僕らはひとたまりもないことはわかりきっているのに。
テイタムが、あれほど凄いピアノ・テクニックをどのようにして編み出したのかわからない。しかし彼の演奏におけるハーモニー構造には稽古の跡がうかがえる。彼こそ正真正銘のヴァーチュオーゾだ。そしてヴァーチュオーゾの至芸は基礎的なトレーニングなしには決して有り得ない。
若い頃、アート・テイタムに感動し、彼こそパーフェクトなピアニストだと思った。今でも私はそう思っている。
テイタムの演奏には、なにもかも、全てのものが詰まっている。-Tommy Flanagan
(出典:Jazz lives: Portraits in words and pictures/ Michael Ullman著)
ジャズの巨匠達が好んで語ったテイタム伝説には、畏怖とともに、敬愛の心が溢れる。フラナガンがあれほど寺井によくしてくれたのは、テイタムからもらった優しさがフラナガンの心に根付いていたからかもしれない。
やっぱりテイタムは神様だった。
News:そんなアート・テイタムの歴史的未発表版が4/26のレコード・ストア・デイにLP&CDでリリースされることになりました。
プロデュースはジャズのインディ・ジョーンズと呼ばれるZev Feldman!
タイトルは『Jewels in the Treasure Box/ジュエルズ・イン・ザ・トレジャー・ボックス』テイタム1953年、シカゴのクラブにおける円熟のトリオ・ライブです。充実した内容の分厚いブックレットは、不肖私が翻訳しています。巨匠たちが愛した名人芸をぜひ聞いてみてください!