ピアノで奏でるジャズ・ヴォーカリスト達!
皆様、大型連休いかがお過ごしですか?行楽地からのお便りや、E-mailの結びが《Happy Golden Week!》だったり、How Nice! OverSeasは5日まで毎日ライブ営業しますので、ぜひ遊びに来てください。
連休中のライブ・スケジュールはこちらです。
5月3日(土)は”The Mainstem Plays Standards”、昨日リハーサルを何気なく聞いていたら、寺井尚之(p)がどえらい事を演っていた!
映画『カサブランカ』の主題歌、“As Time Goes By”で、名歌手達の声帯模写をピアノでやっちゃうんです。どうやら、先日TVで懐かしい大エンタテイナー、サミー・ディヴィスJr.が、伝家の宝刀、ジェリー・ルイスやキングコールの物真似やってるのが気に入って、密かに稽古したみたい・・・
寺井のアイドルたち、ビリー・エクスタイン、ナット・キング・コール、トニー・ベネット、メル・トーメ、女性歌手ではカーメン・マクレエ、アニタ・オディ、ビリー・ホリディ、それにエラ・フィッツジェラルド・・・強烈なキャラクターをピアノで再現!繊細なタッチと「息」や「間」の取り方、フレージングで「あ~っ、似てる~!!」と爆笑!そんな芸を、私の知らないうちにいつの間にか会得していた・・・
以前、桂南光師匠が「ジャズ講座」を「文化漫談」と評してくださったことがありましたが、これも立派な「ピアノ演芸」だ!
寺井尚之The Mainstem究極の声帯模写、乞うご期待!
5/3(土) 寺井尚之メインステム Plays Standard 7pm-/ 8pm- / 9pm- : Live Charge 2,500yen
Moanin’ と軍師ベニー・ゴルソン
みなさんご存知のように、”Moanin'”はメッセンジャーズの名ピアニスト、ボビー・ティモンズ作曲。でもテナー奏者、ベニー・ゴルソンの周到なプロジェクトなしに、名曲の誕生はなかった。ゴルソンがメッセンジャーズに入団したのは、レギュラー・メンバーのジャッキー・マクリーンがキャバレー・カードを剥奪され登録抹消になった事がきっかけでした。急遽代役に駆りだされ、なし崩し的にレギュラー登録されたんです。
ゴルソンがアート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズに在籍したのは、1958年5月頃から半年余りの短期間でしたが、メッセンジャーズへの貢献は計り知れないものがあります。
その時、ゴルソン29才、浮き沈みの激しい演奏家の生活を捨て、作編曲に専業しようと真剣に考えていた。若い時から憧れていたバップのメジャー・リーグ、ディジー・ガレスピー楽団に入団を果たし、理想的な音楽の場で充実したジャズライフを送っていたのもつかの間、ローマ楽旅のトラブルで楽団は破産し解散。最高の音楽を提供しても、儲かるどころか、むしろ逆なんだ…夢破れ、興行の世界に幻滅し、比較的安定した道を選ぼうとしていた矢先、ガレスピーの推薦でブレイキーに駆り出された。場所はイースト・ヴィレッジのクラブ《カフェ・ボヘミア》、ゴルソンは一晩だけトラのつもりでメッセンジャーズのギグに参加したのですが、アート・ブレイキーのドラムは余りにも素晴らしかった!一緒に演っていてシビれました。それじゃ、もう一週間やりましょう…そしてツアーに数週間、すっかりブレイキーのビートに魅入られ、気付いた時にはレギュラーになっていた。
ホレス・シルバー(p)や、ケニー・ド-ハム(tp)で有名だったメッセンジャーズもメンバーが入れ替わり、この頃も確かに人気はありましたが、演奏もステージ・マナ―もガレスピー楽団で躾けられたゴルソンにすればB級もいいところ、本番中にピアニストが居眠りする、演奏時間になってもブレイキーは帰って来ない、当然仕事はジリ貧という体たらく。その惨状を見たゴルソンのやる気にスイッチが入った!ガレスピー楽団の敗北を繰り返してはならないという気持ちだったのかも知れません。この瞬間、ゴルソンは軍師になった!バンド再生プロジェクトを推進します。
<再生プロジェクト企画書>
当時のゴルソンはNYでは無名もいいところ、そのNobodyがトップ・ドラマー、アート・ブレイキーに意見した。
「あなたは凄いドラマーです!現状のギャラはあなたの価値を考えるとタダ同然じゃないか!あなたのような才能の持ち主は大金持ちにならなくちゃいけません。新しいバンドを作りましょう!」etc.etc…いわばプレゼン、もう止まらない!自分でも呆れるほど色々アイデアを出した。最初は乗り気でなかったブレイキーも、ゴルソンの舌鋒になんとなくその気になり、メッセンジャーズ再生プロジェクトが始まったのは1958年5月のことです。ゴルソンのアイデアは次のとおり。
1. 人事:必須事項:メンバー総入れ替えだ!
旧メンバーに対する解雇通告は、ブレイキーが「クビなんて言えない」というのでゴルソンが首切り役、同時に新メンバーの提案もした。
新登録候補は、ゴルソンが実力をよく知る同郷フィラデルフィア出身者ばかり、ピッツバーグ出身のブレイキーは当初「ピッツバーグは俺だけかい(怒)」と難色を示しましたが、「大丈夫、大丈夫!ピッツバーグもフィラデルフィアも同じペンシルヴァニア州じゃないですか。」と丸め込まれちゃった。
フィラデルフィア出身で固めた新レギュラーはフロントに19才の新人トランペット奏者、リー・モーガン、チェット・ベイカーのピアニストだったボビー・ティモンズ、そしてベーシストはB.B.キングと演っていたジミー・メリットに決定!フィラデルフィア出身者で固めることは、規律を守るためにもゴルソンの音楽プロジェクトにも必要な案件だった。最初は殆どの項目に難色を示したブレイキーを、ゴルソンは理詰めでどんどん説得して行きました。
2. 経理は一流バンドらしく。
ゴルソンは、エージェントに掛け合い、これまで日銭勘定だったツアーの経費やメンバーへのギャラを、月極の一括精算とし、帳簿を自ら管理することにした。それによって明細がはっきりし、仕事の計画を立てやすくしたのだ。
3. 就業規定:メッセンジャーたる者、紳士であれ。
ゴルソンはメッセンジャーズのメンバーに就業規則を作った。遅れない、休まない、ステージで眠らない…などなど、これによって、ステージマナーも驚異的に改善されたことは言うまでもなく、当時のDVD映像でも、メンバーの立ち位置までしっかり配慮が行き届いていたのが判ります。ただし親分ブレイキーの遅刻癖は、ゴルソンがいつも見張っていなければならなかったとか。
4. ユニフォーム着用
ゴルソンはブレイキーに新ユニフォームの着用を提案。お客は演奏を聴く前に見た目で判断する。ビシっとクールに決めようぜと、難色を示すブレイキーを説得。恐らくホレス・シルヴァー時代と同様に、経費はパノニカが援助してくれたのではと推測されます。
5 .コンテンツ・リニューアル:オール新曲でレコーディングが目標。
ゴルソンの作編曲者としての叡智がここで最も発揮されます。新バンドの為に書き下ろしたのが” Along Came Betty”と “Are You Real”今もジャズ・スタンダードとして演奏されている名曲。それに加えてブレイキーの魅力が最大限に爆発する”Blues March”を一晩で書き上げた。例によってブレイキーは「俺はバッパー!ニューオリンズの葬式じゃあるまいし、マーチなんて恥ずかしくて出来るかよ。ウケるわけない!」の一点張り。
「ダメ元で一度だけ演ってみて。」と小さなクラブで演奏したら、店が地響するほどお客さんが熱狂し、その夜から半世紀に渡りブレイキーの十八番は”ブルース・マーチ”になった。
軍師ゴルソンは、ずらりと揃った新レパートリーを眺め、次の一手を案じる。もうひとつの決め球を…
<Moanin’登場>
その年の夏、ボビー・ティモンズがアドリブの中でよく使う、いわゆる「仕込み」フレーズ、ファンキーな8小節がゴルソンの心を捉えた。ある日、リハーサルの合間にゴルソンはティモンズに頼んだ。
「ボビー、いつものフレーズを弾いてみてくれない?それそれ!そこにサビを付けて曲にしてくれよ。」
「ベニー、これはただのフレーズで、曲にするほど大したものじゃないし、サビなんて思いつかないよ…」
「ステージなら、アドリブでこのフレーズから、サビへ行ってるじゃないかよ。それなのに、ここじゃできないっちゅうの!?」
ボビーはしばらくしてサビを作って弾いてみせた。
「これはどう?」
「アカン!だめ、だめ、元のフレーズみたいにファンキーでないと…」
「そんならベニーが作曲すりゃいいじゃん。」
「アカン!お前の曲だ、サビも創らなアカン!ただし最初の8小節みたいにファンキーなブリッジにしてくれ。」
しばらくして、ボビーは黒っぽくでかっこいいブリッジを作りあげた。よし!新生メッセンジャーズの決め球だ!ゴルソンは迷わずこの曲に”Moanin'”と名づけた。「嘆き」や「ぼやき」それに「うめき」、ときには「喘ぎ」だったり、なんとも日本語にしにくいけれど、曲を聞けば意味カテゴリーが理解できるほどぴったりした名前ですよね!
<彼を知り己を知れば…>
さて、新曲が揃った。お次はレコーディングだ。「ブレイキーはもう十分録音したから…」と渋るブルーノート・レコードのアルフレッド・ライオンに、半ば強引にライブを聴かせて「OK」を取り付けた。10月30日、ルディ・ヴァン・ゲルダー・スタジオで録音。選曲も、ブレイキーの顔が強烈なインパクトのあるジャケットも、『Moanin’』というアルバム・タイトルも、全部がゴルソンのアイデアだった。その結果、『Moanin’』(BLUE NOTE 4003)は世界中で大ヒット!たった一晩の代役として演奏してから5ヶ月後のことでした。
軍師ゴルソンは、全身全霊でバンドを立て直し、作編曲全てお膳立てしておきながら、新作アルバムのタイトル・チューンは自作にしなかった!なんてクールなんでしょう!並の人間なら、まして自己主張の強いミュージシャンなら尚更、『Blues March』や『Along Came Betty』と自作をタイトルに持ってきたはず。ところが彼はバンドが売れることを第一義とし、どの曲にすべきかを冷静に見極め、ティモンズ名義の『Moanin’』をアルバム名にしたのだった。
正に孫子の兵法=「敵を知り己を知れば百戦殆うからず」を実践できる稀有なミュージシャン!翌月、録音と平行してゴルソンがエージェントにお膳立てさせた1ヶ月に渡るヨーロッパ公演も大成功を収めた。
でも戦を終えた軍師に安住はない。 帰国して3ヶ月後、ウェイン・ショーターを後任に決めて円満退団、潔く自らの道を進んだ。
後年、ゴルソンはアート・ブレイキー70才のバースデー・コンサートで共演、その時ブレイキーは、ゴルソンをこう紹介しました。
「メッセンジャーズを始動させたベニー・ゴルソンに拍手を!」
その頃には ”Moanin'”の作者ボビー・ティモンズも、リー・モーガンも生き急ぎ、とうにこの世を去っていました。
《参考文献》
Smithsonian Jazz Oral History Program NEA Jazz Master interview:Benny Golson
Cats of Any Color: Jazz Black and White Gene Lees 著/ Oxford University Press刊
日系Lee Morgan夫人のこと
Edward Lee Morgan (1938- 1972)
Kiko Yamamotoという名の日系アメリカ人女性がいる。1960年代、雑誌「プレイボーイ」のバニー・ガール特集の他にも彼女は何度か日米のメディアに紹介されている。若手トップ・ジャズ・ミュージシャン、リー・モーガンの妻となった日系人女性としてだった。
Kiko Yamamotoは1940年頃、カリフォルニアの農場で生まれた。日系移民の両親は農業に従事していたが、第二次大戦中、敵性移民として財産を没収され強制収容所に送られた。山本家は差別の強い西海岸に懲りて、解放後は人種混合の文化を持つ大都会、シカゴに移っている。
Kikoは美人の誉れ高く、10代でモデルにスカウトされ、着物(或いは着物っぽい)姿のダンス・ショーで人気を博したThe Keigo Imperial Dancersの踊り子や、プレイボーイ・クラブのバニー・ガールとして、オリエンタルな魅力な発散した。
ジャズ・ファンであったKikoのお気に入りはシカゴ界隈のジャズ・スポットで、ジャズメンが黒髪の美女を見過ごすはずはなかった。
左の写真はスイング・ジャーナル(’61, 2月号)から(ブログ[雨の日にはジャズを聴きながら]より拝借しました。)。名前も「山本テイコ」と誤記されているし、その魅力が捉えられていないのが残念なのですが、女優の小池栄子さんのような人だったのかも知れません。
モーガンとKikoの運命的な出会いは1959年の大晦日の夜、シカゴのサザランド・ホテルのロビーだった。モーガンはジャズ・メッセンジャーズとヨーロッパ・ツアーから凱旋直後、リーガル・シアターでマイルズ・デイヴィスのバンドとダブル・ビル(!)で公演中。ホテルのパーティに来ていたKikoとすれ違いざまに、モーガンは「綺麗な娘だね!」とフランス語で声をかけた。数日後、同じホテルのラウンジで、モーガンとマイルズは、Kikoや仲間の女の子を誘って合コン、二人はたちまち恋に落ちた。年が明けて1月の中旬、再びメッセンジャーズでシカゴを訪れたモーガンとKikoは、何度かデートしただけで、お互いを伴侶と認め合い電撃婚約、まもなくイースト・ヴィレッジのモーガン宅で同居を始めことが、米国のアフリカ系女性誌、”Tan”に掲載されている。(’60, 8月号)
婚約時代にレコーディングされた『Here’s Lee Morgan』( VeeJay) では、哀しいはずの”I’m Fool to Want You”でさえも希望の星が輝くような演奏ぶりだ。結婚式を挙げたくても、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズのスケジュールはびっしり詰まっていて、5月末まで結婚式はたびたび延期された。NY市庁舎でようやく式を挙げたときには、ボビー・ティモンズ(p)が新郎の介添人を努め、出演中の”Birdland”で披露宴が行われた。ただしアフリカ系と日系の異なる人種の結婚式に、2人の両親は誰も立ち会っていない。
(その頃は)亭主関白の国、日本文化をルーツを持つ新妻、Kikoの献身ぶりはジャズ界で前例のないことだった。
「お風呂の湯加減はいかがですか?」「肩を揉みましょうか?」「お食事は?」・・・甲斐甲斐しく尽くすKikoの姿にブラック・コミュニティの友人はみんなぶっ飛んだといいます。
同年8月に録音された『A Night in Tunisia』(BlueNote)には、Kikoの旧姓”Yama”、そして2人が飼っていたプードルの名前”Kozo’s Waltz”(子犬→小僧のワルツ)をつけたオリジナル曲が収録されている。“Yama”の翳りある曲調は、この幸せは続かないかもしれないという不安の表れだったのかもしれない。
<ドリアン・グレイの肖像>
「私が白人だったら、リーは私と結婚しなかったでしょう。白人は彼をジャズと引き離そうとするでしょうから。彼は一流ジャズ・ミュージシャン!ジャズが彼の生きがいなんです。」 Tan誌のインタビューで新婦は語っている。ステージ上のモーガンには、パリのマダムもNYの女達も、みんな恋をした。22才の若い夫はユーモアと知性に溢れ、ちょっぴり尊大であっても、仕方ない。なんて素晴らしい夫だろう!オスカー・ワイルドの創った悪魔、ドリアン・グレイに恋をした貴婦人たちのように、愛する夫に秘密があるなんて夢にも思わなかったに違いない。
誰だって結婚すれば「こんなはずじゃなかった・・・」というのはあるだろうが、彼らの場合はギャップが大きすぎたのだ。
結婚してしばらくすると、Kikoは夫の収入が余りにも少ないのに驚いた。ほとんど休みなくツアーやクラブ・ギグがあって、財布にはお金がうなるほどあるはずなのに、彼のくれる生活費は余りに少ない。そうかと思えば、フィラデルフィア出身ミュージシャンの例に漏れず、高級車を買ったりするのに・・・
そして夫はときどき姿を消すようになった。どこで何をしているかわからない。やがてモーガンがヘロインにどっぷりつかり、収入の大部分が闇社会へと蒸発していたことに気がつくが後の祭り。Kikoの貯金も吸い取られ、気がつけばその日暮らしも同然の状態で、モーガンは人前で彼女に暴力を振るうほど変わり果てていた。
麻薬厳禁のディジー・ガレスピー楽団に在籍していたモーガンが、クスリをやるようになったのは、次のボス、アート・ブレイキーの影響と言われている。ブレイキーが歴代のメッセンジャーの中で最も気に入っていたのはモーガンがブレイキーを見習い、彼以上にドラッグに溺れたのはとても皮肉だ。やがて、モーガンのステージ・マナーは悪くなり、ボビー・ティモンズ(p)と共に、ギグをすっぽかし始める。
2人が結婚した翌年、1961年8月、遂にブレイキーはモーガンを解雇しフレディ・ハバートと入れ替える。表向きは「独立のため」と退団と報じられたものの、当時のモーガンは長らく親しんだイースト・ヴィレッジのアパートの家賃を滞納し、なによりも大切なトランペットすら質入れしていた。
<ホームレス>
二人はイースト・ヴィレッジのアパートを追い出され、モーガンの故郷、フィラデルフィアの姉の家に身を寄せた。アーネスティン・モーガンはリーが子供の頃にトランペットを買い与えたお姉さん、可愛い弟の窮状を見かねて手を差し伸べたのだった。アーネスティンの幼い子どもたちは、黒髪が美しい東洋人の叔母になつき、しばらくは安住できると思った矢先のある日、モーガンは姉の家でヘロインを注射しているのを家族に見つかってしまう。幼い子どもたちの居る家庭で、モーガンは恩を仇で返すことになった。
姉の家を退去した最後の手段として、モーガン夫妻は母を頼る。再起への援助を請うKikoに、姑は厳しかった。ネッティ・B・モーガンは、子供たちのために、リーの父親、オットーと長らく別居しながら重労働に耐えた苦労人だ。やっと出世した大事な息子がジャンキーに落ちぶれたとは、到底受け容れられないことだった。母の目には、全ての災いは、モデルかダンサーかしらないが、チャラチャラした東洋人の嫁のせいだと思ったのだろう。
「Kiko、息子がこんなになったのはあんたの責任よ。嫁のあんたがしっかりしないからよ。息子がえらい目に合ってるときこそ助けるのが妻でしょう。なんでも職を見つけて働きなさい!」
まだ21才のKikoには、ヘロイン中毒で暴力をふるう夫に仕える術も、姑に状況はそれほど生易しくないのだと説得する術もなく、シカゴの実家に帰る他はなかったのだった。
リー・モーガンはKikoとの別れ話が出た頃に”Alimony”(別居手当)というタイトルの曲を作曲しているが録音はされていない。
2人は正式に離婚せず、現在もモーガンの著作料は遺族であるKiko Morganに支払われているという。
<嫁にするなら日本人?>
この不幸な事件の後、ジャズメンの間で「結婚するなら日本人女性に限る。」という風潮があったと、よく耳にします。日本人妻はジャズ界ではCoolだったらしい。その理由はどうやら美貌ではなくて、”Patience(忍耐力)”。NYに居ると、この私ですら、「○○の奥さんがあんたみたいな人ならねえ・・・」と、的はずれな意見を何度か言われた。それは、Kikoさんの態度に感動したジャズメンが作り上げた幻想だったのかも・・・
実際、メッセンジャーズのアート・ブレイキーやウェイン・ショーターが次々と、日系、あるいは日本人女性を娶り、ホレス・シルヴァーは、出光一族の出光真子さんの美しい着物姿を『Tokyo Blues』のジャケットに使い、伝記で彼女との淡いロマンスを嬉々として語っています。
ディジー・ガレスピーやデューク・エリントンにも可愛がられた日系女性Kiko Morgan、日本女性と結婚することがCOOL! と思われたのは、Kikoさんが、リー・モーガンに尽くした証拠ではないだろうか?
Kikoが去った後、廃人になりかけたモーガンは母親の希望どおり、しっかりものの年上の女性、ヘレンの支援でカムバックを遂げるが、彼女の銃弾に倒れ、34年間の人生を終えた。刑期を終えたヘレンの語るリー・モーガン像は、母と妻をごちゃまぜにしがちな日本人男性みたい。モーガン姓を終生名乗ったヘレン・モアのことも、いずれここに書いてみたいと思います。
トミー・フラナガン・ソロにまつわるミステリー
楽しい4月はダンスしながら去っていく、講座前の準備時間はもっとシビアに走り去る・・・.
今月の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」は12日(土)に開催!
今回は、ハードバップで数あるアルバムの内でも名盤中の名盤『Blues-Ette』、そしてデンマークの名門レーベル”Storyville”からリリースされ、わずか数ヶ月で廃盤となった『Tommy Flanagan Solo』、この2枚を寺井尚之が徹底的に音楽解説します。
『Blues-Ette』は、皆さんご存知のようにフラナガンと同郷デトロイト出身のトロンボーン奏者カーティス・フラー(tb)が、ジャズ界の黒田官兵衛というべき名参謀ベニー・ゴルソン(ts)とタッグを組んで録音したアルバム。大昔にラジオのジャズ番組のテーマ曲として毎週親しんだ『Five Spot After Dark』始め、テーマは勿論、アドリブまで一緒にくちづさめる。これほど親しみやすいモダンジャズ・アルバムも珍しいですよね。
寺井尚之はピアノの生徒さんたちのスイング感増強のために、このアルバムを使った自宅練習方法を強く薦めています。
『Blues-Ette』と対照的に、もう一方の『Tommy Flanagan Solo』は「幻の名盤」、発売後わずか数ヶ月で市場から撤収されてしまったからです。騒動のきっかけは、サンプル盤を聴いた寺井尚之が、CDに収録された20トラックの一部が、「フラナガンの演奏ではない。」ことに気づいたためでした。
追って、アルバムを試聴したダイアナ未亡人も寺井と同一の意見で、NYからジャズ評論家のダン・モーガンスターン氏が北欧に飛び事の真相を調査する騒動になり、結果、アルバムは市場から撤収され、現在に至るまで、再び陽の目を観ることのないという不本意な結果になってしまったんです。
Storyville レーベルは、トミー・フラナガンが1993年にデンマークの「ジャズパー賞」の授賞式のライブ・レコーディング『Flanagan’s Shenanigans』でお世話になったレコード会社で、カール・エミール・クヌセンが1952年に創設したヨーロッパ最古のジャズ・レーベルです。晩年、クヌセンは聴覚を失い、2003年に他界、問題のソロ・アルバムがリリースされた時には、代替わりしていました。
問題の音源は、カール・エミールが、’70年代に存在した”Hi-Fly”という独立系レーベルが、1974年にフラナガンを録音したテープを発掘し譲り受けたということになっています。
<謎の人物:ポール・メイヤー>
”Hi-Fly”のオーナーはポール・メイヤー氏というスイス人で、1932年生まれ、スイスでプロモーター、ジャズ・レコード・ショップのオーナーとして業界では有名であったそうです。彼は一時、アパルトヘイト体制下の南アフリカに住んでいたことがあり、南アのピアニスト、アブドゥラ・イブラヒム(ダラー・ブランド)をヨーロッパに導き、デューク・エリントンの支援を仰いで表舞台に出した立役者でもありますが、1988年に自分のレコード店で殺害されるという不幸な最期を遂げました。
”Hi-Fly”というレーベル名はメイヤーが一番好きだったピアニスト、ランディ・ウエストンの代表曲に因んで命名されており、レーベルのカタログは4枚、1947年のディジー・ガレスピー楽団の音源をアルバム化したものと、後は”Informal Solo”と銘打ったソロ・アルバムが3枚、演奏者はランディ・ウエストン、サー・ローランド・ハナそしてトミー・フラナガンで、ハナさんのLPは寺井尚之も所有しています。ところが、寺井が当時血眼になって探してもフラナガンによる”Informal Solo”は見つかりませんでした。このフラナガンのアルバムが市場に出た、或いは誰かが所有しているという事実は現在も見当たりません。そして3枚のソロ・アルバムの録音場所は、フランス人、コレット・ジャコモッティという女性の邸宅で、スイスとの国境に近い風光明媚な山村、アヌシーのスキー・ロッジであったということになっています。
ジャコモッティは、スキー・ロッジの経営者で、熱烈なジャズファンでもあり、当時メイヤー氏と懇意にしていたことから、メイヤーがジャズメンを同行すると、料理の腕をふるって温かく接待してくれた。左の写真しかネットには見当たりませんでしたが、とてもチャーミングですよね。
ランディ・ウェストンは自伝『African Rhythms』の中で、この”Informal Solo”の事を詳しく語っています。メイヤーとともにコレットのロッジを訪問すると、自宅に友人であるメルバ・リストン(tb)の大きな写真が飾られており驚いた。彼女の写真を飾っている家を初めてみたからだ。彼女は素晴らしく料理が上手で、ごちそうを頂いていると、メイヤーがここでぜひレコーディングして欲しいと、色々お世辞を使って頼み始めた。私を説得するためにフランス人ドラマー、ダニエル・ユメールも同席していた。説得されている間中、コレットは甲斐甲斐しく飲み物や食べ物を持ってきてくれ、彼女の厚意に根負けした形で、格安のギャラで録音することに同意した。すると彼らはその夜のうちにさっさと録音機材を整え、一時間のレコーディングを行った。
自伝中、ウェストンはこうも書いています。
「後になって分かったのだが、ポールはサギ師(Con Man)で、せこい男だった。私を録音するためにコレットを利用したのだ。」
ジャコモッティは、この後、ウェストンとさらに親密になり、、自らマネージャーをかって出て、フランス文化省にウェストンのコンサートを各地で開催するように取り計らい、それがきっかけでウェストンの評価は高まりました。もしアルバム騒動のときに、彼女の居所を知っていれば、フラナガンがそこで録音したのかはっきりしたのでしょうが、関係者は黙して語らず。彼女の事を私がインターネットで知ったのは、2013年の追悼記事でした。元音源の録音の関係者が、彼女の情報をくれなかったのは、フラナガンのレコーディングが実際にあったかどうかについて、確認されると具合が悪かったのでしょうか?
ダイアナはヨーロッパでジャコモッティと会ったことはあるそうですが、彼女がどんな人かはよく知らず、トミーがここで録音したかどうかも知りません。ここでソロ録音を行ったハナさんも、すでに亡くなっていたし、真相は五里霧中。
もう10年以上も前の騒動ですが、ダイアナに頼まれて、スイスから日本まで、各方面にコンタクトをとって色々な方にお話を伺ったのが昨日のことのようです。
ただし、この音源からフラナガンが語りかけてくることはたくさんあって、講座で、寺井尚之が明瞭に謎を解き明かしてくれるはずです。
経緯はどうあれ、フラナガンのソロ・ピアノ、そしてフラナガンでない演奏も、どれもこれも素晴らしい演奏ばかり! 一緒に聴くのが楽しみです。
CU
知っておきたいステファン・グラッペリ
ステファン・グラッペリ(1908-1997)
ジャズ・ヴァイオリンの神様、ステファン・グラッペリは、天才ギタリスト、ジャンゴ・ラインハルトの音楽パートナーとしてとても有名ですが、グラッペリの音楽世界はそこに留まりません。クラシック音楽からロックまで、70年以上(!)の楽歴上、その自由闊達なフランス的音楽言語に魅了された共演者は、エリントン、シアリング、ピーターソン、ハナ+ムラーツ、メニューイン、ヨー・ヨー・マ、ピンク・フロイドまでボーダレス!
フラナガン一筋の寺井尚之でさえもが、一時「グラッペリみたいに弾きたい!」と、真剣にヴァイオリンへの転向を考えたことがあったとか。土曜日は、グラッペリが音楽を担当した巨匠ルイ・マル監督映画「五月のミル」が公開された’89年の、衰えを知らないグラッペリの演奏映像が観れるのがお楽しみ!ということで、講座前に知っておきたい巨匠のあれこれを、書き留めておくことにしました。
<孤児院育ち>
グラッペリの生い立ちは、高貴な芳香を発する演奏からは想像できません。少なくとも天才には、品格と貧富は無関係なようです。父、エルネスト・グラッペリはイタリア人の哲学教師で、政治的理由からパリに移り住みました。母アンナはステファンが3才の時に他界、哲学者はバッパーと同じくらい貧乏ですから、お母さんは相当苦労して命を縮めてしまったのかも知れません。父は幼い息子の養育に困り、孤児院に預けました。その孤児院はカトリック系、恐ろしく厳格で質素な施設だった。初等教育は天才舞踊家イサドラ・ダンカンが主催する舞踊学校でしたが、入学直後に第一次世界大戦が勃発、あえなく入学後6ヶ月で閉校。一方、父はイタリア軍に徴兵されパリを離れることになり、ステファンは孤児院を転々とします。人格形成に大切な6才から10才までの時期、三度の食事はおろか、着るものもベッドもなく、床で寝起きする極貧生活を送り、栄養失調で死にかけるほどでした。舞踊は性に合わなかったけれど、路上のフィドラーや、学校で聴いたドビュッシーのコンサートで、ヴァイオリンに魅せられ、自分も弾いてみたいと強く思うようになります。
1918年、終戦で復員した父は、やせ細った息子の姿に驚き、すぐさま孤児院から引き取って、親子はモンマルトルの小さなアパルトマンに落ち着きました。
お父さんは、息子に好きなヴァイオリンをさせてやろうと、乏しい収入を工面してイタリア人の靴屋さんから中古のバイオリンを譲り受けてくれた。でもレッスンさせてやる余裕はない!お父さんは、哲学書を読むために利用する図書館から教則本を借りてきてくれた。学習の糧は家にあった足踏みオルガンと、無料のコンサート、それと図書館で借りた教則本、それらを駆使して独学でバイオリンを習得し、14才でプロデビューしました。仕事は無声映画のための映画館専属オーケストラ。グラッペリはプロになってから、正規の音楽教育として「パリ国立高等音楽学校」で学びましたが、ジョージ・ムラーツにとってのバークリー同様、、さして習うべきことはなかったようです。
やがて父親は再婚しストラスブールへ転居することに。その時ステファンは迷わずひとり立ちして、パリでやって行こうと決意しました。折しも「狂乱のジャズエイジ」、パリのダンスホールや南仏のリゾートなど職業音楽家として仕事には困らず、ルイ・アームストロングやビックス・バイダーベックといった、新大陸の即興音楽に転向、1934年にジャンゴ・ラインハルトと組んだ”フランス・ホット・クラブ五重奏団”で世界的に大ブレイクすることになるのです。
<大恐慌にもらったピアノの腕>
ステファン・グラッペリで盛り上がると、必ず話題になるのがピアノの至芸!うまいのなんのって、ヴァイオリン同様、美しいタッチ、鮮やかなテクニックと並外れた想像力!そんじゅそこらのピアニストなんて相手にならない。ヴァイオリン持ってなかったら、今頃「フランスが生んだピアノの巨匠」としてジャズ史に残ってるかもしれません。彼があれほど弾けるのはジャズエイジの後の大恐慌でフィドラーとしての仕事が激減し、ピアニストとして2年間活動していたからです。ある時はソロで、またある時は楽団で、パリに集まる国内外の富豪や著名人が集うパーティの余興で稼ぎまくった。豪華パーティでは憧れのガーシュインに遭遇、握手してキスをした。ガーシュインはとても謙虚な人だったそうです。その時わずか19才。
グラッペリ曰く、ピアノが好きな理由は二つ:
- 大きな宴会場でもソロで仕事ができるからお金が儲かる
- ハーモニーを演奏できるところが好きだ。
「私は2年間ヴァイオリンを箱から取り出すことはなかった」とグラッペリは述懐しています。
けどね、いくら不景気と言ったって、ピアノで稼ぐのは並大抵ではないはず。どうやってそこまでピアノがうまくなったんですか?
「ヴァイオリンでも料理でもみんな一緒だよ。教本を読むことと、優れた人を見習っただけだ。」
実のところ、グラッペリがプロとして演奏した楽器は他にもあって、様々なサックスや、アコーディオンなど、色々兼業していたらしい。丁度、同じ時期にアメリカが生んだ天才、ベニー・カーターと相通じるものを感じますね。
<ジャンゴへの愛憎>
Django Reinhardt(1910-1953)
ジプシーの天才ギター奏者、ジャンゴ・ラインハルトとの出会いは1929年のこと。とあるクラブで演奏が終わるなり、色黒の大男に声をかけられた。
「君みたいな人を探してたんだ!とうとうHotに演奏するヴァイオリニストにめぐり合えた!」それがジャンゴだった!でも、それっきりで2年が経ち、ある日、シャンゼリゼのカフェで対バンとして偶然再会。遊びで共演してみるとこれが大好評、ベルギー人の若きジャズ評論家、ヒューゴー・パナシエが熱狂し、瞬く間にコンサートをやろうというプロモーターも現れ、気がつけばパリ一番の人気バンドになっていた。諸国の王様や王女様、コール・ポーターもハリウッド女優も石油王も、皆こぞって”フランス・ホット・クラブ五重奏団”に熱狂したのでした。でも、ジャンゴとうまく付き合うのはほんとに大変だった。
見た目からも判るようにグラッペリはとても清潔できっちりした身なりだし、ギグの時間には絶対遅れない。それは孤児院で厳しく躾けられたせいかも知れません。ところがジャンゴは正反対、ジャンゴの知性は並外れたものだったけれど、字を読むことのできない文盲でした。ジプシーはキャラヴァンで移動し、定住しない民族だからホテル生活は大の苦手、天才だけど大人気ない、飲む打つ買うの三拍子、遅れるどころか仕事をすっぽかすことさえ度々ありグラッペリをほとほと困らせた。
例えばエリゼ宮殿の大きなパーティの余興で招かれた時には、演奏時間が近づくと雲隠れ、仕方なくグラッペリが宮殿のリムジンに乗り込み、街中探すと、ジャンゴは裏通りのビリヤード場でベロベロになっていた。それを起こして風呂に入れ、ギターを持たせて宮殿に連れ帰った。四つ星フォーシーズン・ホテルの仕事では、ジプシーのキャラバンに潜伏しているのを捕獲。グラッペリが問いただすと、「カーペットがフワフワで足が痛くなったからいやだ。」と言う。やれやれ・・・
英国のコンサートでは、司会者がグラッペリの名前をジャンゴより先にコールしちゃった。するとプライドを傷つけられたとぶんむくれ、1音も発することなく途中で帰っちゃった…
音楽家として敬愛しながらも、一度スネると一週間は口もきかない子供っぽさと、見え透いた嘘の言い訳、どうしようもない男だと、ほとほとうんざりしてしまったのだそうです。グラッペリがジャンゴについて語るときは、いつも愛憎こもごも、彼にとっては、現実的な生活力に欠けた哲学者であった父親に対する愛憎と、ろくでなしの天才ギタリスト、ラインハルトへの感情が、つねにオーバーラップしているように感じます。だからこそ、グラッペリ自身は、プロとしてきちんと稼ぎ、同時に、天才音楽家であり続けようと固く誓ったのかも知れませんね。
私にとって一番印象深いのは、1970年代にMPSからリリースされた一連のアルバムです。ジョージ・シアリングや、サー・ローランド・ハナ、オスカー・ピーターソン・・・当代一流のピアノ・トリオとフレンチ・アクセントで繰り広げる自由闊達なプレイには、今でも胸が躍ります。1980年代には大阪で一度だけグラッペリのコンサートを観ることが出来ました。
レパートリーはさほど変わらなくても、聴くたびに新鮮で、底抜けの「自由」を感じることができるヴァイオリンの神様。グラッペリの崇拝者、寺井尚之の解説はどんなことを教えてくれるのかな?土曜日が楽しみです。
「幸せなときも、哀しいときも、恋をしていた若かりしときも、いつも私は最善のプレイをしてきたし、これからもそうする。常に悩みを抱えていたとしても、演奏すれば全てを忘れる。私の中に二人の人間が同居していて、片方は演奏だけしているんだ。」 ステファン・グラッペリ
*ステファン・グラッペリの遺族に娘さんはいますが、結婚歴はありません。
参考資料
- American Musicians 2 (Whitney Balliett 著) Oxford University Press刊
- The Telegraph: Stephane Grappelli Obituary
- http://www.answers.com/topic/stephane-grappelli
再掲:楽器演奏と歌詞の関係:Jimmy Heath
米国議会図書館の音楽部門で上級図書館員としてジャズ史の資料保存に貢献し、ジャズ評論家として、ブロガーとして情報発信するLarry Appelbaumさん、先日ひょんなことからFBを通じて、有益な情報を色々教えていただきました。
そのきっかけになったのがアッペルバウムさんのジミー・ヒース・インタビュー on Youtube、面白かったので再掲します。
ジミーのトークは、いつでもこんな感じでスイングしてます。ラッパーよりもクールだし、話し方がビバップ・フレーズでしょ!
冒頭、巨匠ベン・ウェブスターの「歌詞を知らないラブソングは演らない」主義はきわめて有名な話、デクスター・ゴードン主演のジャズ映画『ラウンド・ミッドナイト』でも、このエピソードが巧みに使われていた・・・
たいへん判りやすい英語ですが、念のため和訳を作りました。ジミーの話し言葉みたいにヒップじゃないけどゴメンネ。
<Jimmy Heath: Why Ben Webster Learned the Lyrics>
(ジミー・ヒース:ベン・ウェブスターが歌詞を覚えた理由。)
2011年2月 Mid-Atlantic Jazz Festival(メリーランド州)にて。
司会:ラリー・アッペルバウム
ベン・ウェブスターはテナーサックス史上、最高のバラード・プレイヤーだ!ほら今流れているプレイを聴いてくれ。Crying! 泣けるぜ!
じゃあベン・ウェブスターの話をしよう。昔、ベンが住んでいた街、コペンハーゲンに行ったときのことだ。ベンは僕が歌詞を知ってると見込んで、「”For Heaven’s Sake”を演奏したいから教えてくれ」と言った。ビリー・ホリディで有名なあの歌だ。「ラブ・ソングは、かならず歌詞を覚えてから演る。」と彼は言った。つまりサックスで歌詞を歌うというわけだ。判るかい?
だが僕の友達のジョニー・グリフィンは全く違う意見だ。「歌詞は要らない。俺はサックス奏者、サックスは歌詞でなく音符を吹くんだからな!」まあ、人それぞれだ。
私の場合はどうするか?ビリー・ホリディの「Lover Man」というバラードで説明してみよう。(歌詞がなく)音符だけなら、こんな風に吹くだろう。(スキャットしてみせる)OK?
じゃあ次は、歌詞をつけて歌ってみるよ♪ “I don’t know why but I’m feelin’ SO sad…(なぜだかとっても寂しい)“・・・「ソー・サッド」じゃなく自然に「ソ~~・サア~ッド」となるじゃないか。大違いだろう!(次の節)“I long to try something I NE~EVER had. (決して知らなかったものに憧れる。)” 歌詞がつくと抑揚が出て、メロディに表情が生まれる!僕の求めるのはそこだよ!もともと楽器は「ヴォイス」を出すように作られている。どんな楽器も、人間の声の真似なんだ。
ジョニー・ホッジス、ポール・ゴンザルベス、そしてベン・ウェブスター!彼らのバラードは格別で、聴く者の胸を打つ。だがサックスはこんなこともできる。(スキャット)ブラブラバリバリ○×△☆…こんなのはテクニックをひけらかしているだけなんだよ。見せびらかしから感動は生まれない。
マルチ・リード奏者、ユセフ・ラティーフ
今日聴いたものとは少し毛色が違うけど、グローヴァー・ワシントンJrにも、ぐっとくる歌心があるよ。
僕の親友、マルチ・リード奏者、ユセフ・ラティーフは、ソウルフルなブルースが得意だ。弟のTootie(ドラマー、アルバート・ヒース)から聞いたんだが、あるとき、彼がブルースを演奏すると、店のオーナーに苦情を言われたそうだ。
「おいおい!そんな風にブルースを吹かないでくれ!お客が聴くことに専念して、ちっとも酒が進まねえじゃないか!売り上げが減るんだよ!」(爆笑)
音楽は面白いね!時にはエクサイテンィグに演奏することもできる。どんな場合も、おおむね、心や頭から湧き出るものを演奏しているわけだ。
僕は「Three Ears: 3つの耳」というシンフォニーを作曲した。音楽は耳で聴く、その耳はいろんな場所にあるという曲だ。心にも、ケツにも、脳にも耳があるんだ。だから音楽はこれほど好まれる。ごきげんなビートならどうだい?ビートは強力だ。身体が勝手に動く。(お尻を指差して)つまり身体で聴くわけさ。クラシック音楽なら?例えばこんな交響曲(スキャットする)いいねえ!心に響くねえ。沢山の音楽家が、こういうクラシック的なものをポップ・ソングに作り変えたんだ。
それじゃ僕がずっと聴き続けるディジー・ガレスピーはどうか?例えば、『Woodyn’ You 』という曲、あのコード・チェンジ、メロディもまた格別だ。彼の音楽の何か特別なものが、僕の心を強く揺さぶるんだ!
サラ・ヴォーン&ビリー・エクスタイン
歌手はどうだい?サラ・ヴォーン、いいなあ!僕は彼女に恋してる!いや、音楽的にということだが…。サラは僕の心を打つ。カーメン・マクレエ、いいなあ、ビリー・エクスタイン、いいなあ!僕はサックス奏者の代わりに歌手になりたかった!だけど、もしそうだったら、誰も僕が歌うのを聴いてなかったかも知れない・・・だって女の子達は大きくてハンサムな歌手が好きだから、背が高くてハンサムじゃないとなあ!(ジミーの身長は160センチ程度で、Little Giantと呼ばれている。)ビリー・エクスタインみたいにね!WOW!
(あなたもジャイアントですよ!)(笑)
<了>
アッペルバウムさんのジャズ・ブログ(英文)”Let’s Cool One : musings about music“はこちらに!
第24回トミー・フラナガン・トリビュート応援ありがとうございました。
トミー・フラナガン・バースディの前日、3月15日(土)、24回目となるトリビュート・コンサートを皆様のおかげで盛況で終えることができました。
お越しくださった皆様、録音やCD作成、色々サポート下さった皆様にこの場を借りてお礼申し上げます。
=第24回トリビュート・コンサート 曲目=
<1st set>
1. Beats Up ビーツアップ (Tommy Flanagan)
2. Out of the Past アウト・オブ・ザ・パスト (Benny Golson)
3. Minor Mishap マイナー・ミスハップ (Tommy Flanagan)
4. メドレー: Embraceable You エンブレイサブル・ユー~ Quasimodo カジモド (George Gershwin- Charlie Parker)
5. Sunset and the Mocking Bird サンセット&ザ・モッキンバード (Duke Ellington)
6. Rachel’s Rondo レイチェルズ・ロンド (Tommy Flanagan) 7. Dalarna ダラーナ (Tommy Flanagan)
8. Tin Tin Deo ティン・ティン・デオ (Chano Pozo, Dizzy Gillespie, Gill Fuller)
<2nd set>
1. That Tired Routine Called Love ザット・タイヤード・ルーティーン・コールド・ラブ (Matt Dennis)
2. They Say It’s Spring ゼイ・セイ・イッツ・スプリング (Bob Haymes)
3. Celia シリア (Bud Powell)
4. Eclypso エクリプソ (Tommy Flanagan)
5. A Sleepin’ Bee スリーピン・ビー (Harold Arlen)
6. Passion Flower パッション・フワラー (Billy Strayhorn)
7. Mean Streets ミーンストリーツ (Tommy Flanagan)
8. Easy Living イージー・リヴィング (Ralph Rainger)
9. Our Delight アワー・デライト (Tadd Dameron)
<Encore>
With Malice Towards None ウィズ・マリス・トワード・ノン (Tom McIntosh)
メドレー: Beyond the Bluebird ビヨンド・ザ・ブルーバード ~ Like Old Times ライク・オールド・タイムズ (Tommy Flanagan – Thad Jones)
トミー・フラナガン・トリビュートの前に読みたいAmerican Musicians(最終回)
<演奏のこと、レパートリーのこと>
「このあいだヴィレッジ・ヴァンガードで、ある人物に、私が影響を受けたピアニストは誰かとしつこく尋ねられた。実は(ピアニストではなくて)ホーン奏者のようなプレイを狙っているんだけどね…つまりピアノでブロウするわけだ。
演奏で一番気を使うのは、一曲のサウンド、つまり全体のトーナリティだ。もしCのブルースを演るなら、全体が一つの円になるようにプレイしなければならない。頭にはCのサウンドをしっかりキープしながらも、心はそのサウンドに覆われて茫洋とするわけだ。(トーナリティに比べれば)曲のコード進行もメロディも、さほど重要ではない。でも弾いているときに迷ったときには、メロディとコードが道標になる。
僕の取り上げる題材に、目新しいものは殆どないよ、僕にとっては新鮮だとしてもね。新曲をレパートリーに加えると、プレイが高揚する。特に好きなのは(ジェローム・)カーン、(ハロルド・)アーレン、ガーシュイン、それにデューク・エリントン―ビリー・ストレイホーン、タッド・ダメロンといった作曲家たちだ。まあ何を演ろうと、演奏するというのは大変な仕事だ。一週間続けてギグをやった後は、とにかく休みたい!癒されたい!」
フラナガンは真剣に聴くことをリスナーに求める。シングルノートのメロディラインは上へ下へと動き続けるが 、彼はパーカッシブなプレイヤーでもあるから、思いがけない音にアクセントを付ける。絶え間なく変化するフレーズはリスナーに挑みかかると思えば、また遠ざかる。その結果生まれるダイナミクスは微妙で、しかも魅力に溢れている。縦横の双方向に流れるメロディに、聴く者は2本のラインが動いているような印象を受けるし、フラナガンはその両方をしっかり聴いて欲しいと思っているのだろう。このラインの内側が、また違う動きを見せる。―倍テン、倍ノリの動き、それにフラッテッド・ノートの塊、ダンスするように疾走感のあるパッセージ、そして休符-それは前のフレーズの余韻を響かせる空間だ。フラナガンはまさしく超一級である。
時として、天気が良く、聴衆が熱意に溢れ、ピアノも良く、最高の雰囲気になると、彼の情熱はすさまじいものになる。一旦そうなると、もう手がつけられない。熱いインスピレーションを沸き立たせ、息を呑むソロ、ソロ、ソロ繰り出し、一夕を弾き通す。すると聴衆は、神々しい出来事に立ち会ったような気分にさせられる。
<ダイアナ・フラナガン再登場>
ダイアナ・フラナガンが居間へ入ってきた。するとフラナガンは立ち上がり伸びをして、散歩の時間だからと言う。今日のコースはリンカーン・センターに向かって南下し、セントラルパークを通って帰宅する、そう言って日除け帽をかぶると部屋を出て行った。
ダイアナ・フラナガンはクッキーをつまみソファに腰掛けた。
彼女曰く、今までの人生で、一番良かった行いは、NYに来たことと、フラナガンとの結婚だ。
「私はアイオワ州エイムズからNYにやって来ました。父が転々として落ち着いたのがアイオワだったので。生まれた場所はケンタッキー州ラッセルビルで、そこから、テネシー州クラークスビル、ケンタッキー州ホプキンスビル、ノースキャロライナ州、ゴールズボロなど色んな場所に移り住んで育ちました。父はセールスマンで保険や紳士服、冷蔵庫、色んな営業マンをして、ナショナル・キャッシュレジスターにも務めてました。物静かで、洞察力があり優しく上品な人でした。父の名前はウイリアム・キルシュナー、スコットランド、アイルランド、ドイツの血を引いています。トミーも私も、父がテネシーに住んだことがあったので、テネシーの言葉使いが一緒だったんです。例えばテネシーでは「靴べら」のことを「スリッパのスプーン」と言うんです。父は1971年に亡くなりました。
母は老人ホームで暮らしており、もうすぐ90才です。フィラデルフィア出身で名前はルース・ステットスンと言います。母方の祖父はイングランド人で、祖母はフランスとアイルランドの混血、母はいつも音楽や書物が趣味でした。ウイットがあり、感情の起伏の大きい人でした。私はアイオワ大学で奨学生として2年間音楽を学び、NYに出てきたのは1949年です。ずっと、自分の落ち着く場所はNYだと思っていました。9-10才頃、1939年のNY万博に連れていってもらってからずっとそう思っていました。NYに行ってからはコロンビア大の演劇科に進みました。それとは別にバイオリニストや歌手もやりました。芸名はダイアナ・ハンター…ああカッコ悪い! NY界隈で歌ったり、エリオット・ローレンスやクロード・ソーンヒルの楽団とツアーもしたわ。ソーンヒルは私にとても親切でした。今でも彼のプレイはビューティフルです!”スノウ・フォール”とか、夢見るようなシングルノートのサウンドがいいわね。
1956年、私はエディ・ワッサーマンというテナー奏者と結婚しました。彼はジュリアード出身でチコ・オファレル、チャーリー・バーネット楽団で活動、ジーン・クルーパー・カルテットにも長いこと在籍していました。私は1962年にプロ歌手を引退し、エディとは1965年に離婚しました。それからシティ・カレッジで国語の学位を取得し、バンクストリートで教育学を学んで教師になり、最初はベドフォード・スタイブサント、そしてサウス・ブロンクスで10年間、音楽、英語、黒人学などの教鞭を取りました。教師の仕事は、トミーと結婚する直前の1976年まで続けていました。
私とトミーは、本などを読み聞かせし合うんです。私が興味のあることはなんでも興味を持ってくれるし、彼が興味の持つことは、私も面白いんです。スポーツ以外ですけどね。
彼の優しさや物静かなところは見せかけです。本当は強い男性です。とても気骨があり、面白くて、一緒に暮らすには最高の伴侶です。彼の発言には、どれも表と裏の2重の意味があって、尖っているのよ。二人だけのゲームをしたり、一緒に笑ってばかりいます。彼はダンスもするんですよ。ちょっとしたタップダンスや、サイドシャッフルなんかをこの辺りで踊るの、人前では絶対にしませんが。昔デューク・エリントン楽団を聴きに”レインボー・グリル”(訳註:ロックフェラーセンターの高級展望レストラン 左写真)に行ったことがあって、彼は私をダンスフロアに誘ってくれたのだけど、同じ所に突っ立って左右に身体を揺すってるだけだったわ・・・
夜が更けたら、彼の伴奏で、今も時々歌ってます。今じゃもう誰も知らないような曲を私たちは沢山知ってるんですもの。」
(抄訳)
原書 ”American Musicians II: Seventy-one Portraits in Jazz, POET (pp 455-pp 461)” Publisher: Oxford University Press,
Jazz Club OverSeasでは、寺井尚之メインステムがトミー・フラナガンを偲ぶトリビュート・コンサートを誕生月3月と逝去月11月に、開催しています。ぜひ一度お越しください。
トミー・フラナガン・トリビュートの前に読みたいAmerican Musicians(2)
<幼い頃、両親のことなど>
玄関のベルが鳴り、フラナガンが妻を家に招き入れた。
「トミー、ごめんなさい!荷物が一杯で鍵がどこにあるかわからなくて…ブドウとクッキーを買って来たから、荷物をほどいたらお出ししますね。」
山のような食料品を抱え、よろよろしながら彼女は言った。ブルネットの美人だ。その黒髪が透き通るように色白の顔を引き立て、ビクトリア朝絵画を思わせるが、声は夫より大きく、動きも倍は早い。
フラナガンは再び腰掛けて語りだした。
「心臓発作に襲われたとき、たいしたことはないと言われながらも、17日間入院した。禁煙し、酒を控え、体操も始めた。もっぱらウォーキングするだけだが…とにかく街中を正しいペースで歩く。これは郵便配達だった父親の遺伝かもしれないな。子供の頃、兄弟で父が郵便を配達するルートを計算してみたら、少なくとも10マイル(16km)あった。父は郵便配達の前はパッカード自動車会社で働いていた。とにかく大恐慌時代の行政のほうがずっと手厚かった。
僕の父は1891年、ジョージア州のマリエッタの近くで生まれた。第一次大戦で、陸軍に入隊し、終戦後に北部へ移住した。その前はフロリダやテネシーを転々とした。父と僕は背丈も同じでそっくりなんだ。若いうちから禿げていたしね。父も音楽が好きで、カルテットを組みスパッツ姿で歌っていた。ギターを抱えた父の写真を見たことがあるが、実際に弾くのは聴いたことがない。6人兄弟、そのうち男が5人で、僕が末っ子だ。5人もいる男の子をちゃんと躾けるのは大変だから、父は規則をつくって、いつも僕達を厳しくチェックした。悪さをすると、地下室に入れて、特権を剥奪する決まりもきちんとあった。でも父は、まともな人間になるにはどうしたらいいかを完璧に教えてくれた人だった。それに父はある種のユーモアのセンスも持っていた。ジョークを言い始めると、自分でウケて大笑いするんだけど、絶対にオチがないんだ。
母の名はアイダ・メイ、小柄で美しい人だった。1895年、ジョージア州のレンズ生まれで、父と同時期に北部に移住してきた。母はインディアンとの混血だ。両親は20才になる直前に結婚し、母は教会の仕事を沢山していた。実際にデトロイトの僕達の地域(コナントガーデンズという黒人居住区域)に教会を開いたのは僕の両親だ。母のほうが父より音楽好きで、アート・テイタムやテディ・ウイルソンも知っていた。僕がそんな人たちのレコードをかけると、『それ、アート・テイタム?』『あら、これはテディ・ウイルソンでしょ?』なんて言うから、僕は嬉しくなったもんだよ。
母は独学で譜面を読んだ。おっとりしたシャイな人で、料理や洋裁がすばらしくうまかった。僕らの洋服や、綺麗なパッチワークのキルトを縫ってくれた。1930年代の暮らしは決して楽ではなかったはずだが、母は生活苦をスイスイ乗り切って、僕たち家族に不自由を感じさせなかった。
母は1959年に亡くなり、父も1977年に86才で亡くなった。父の晩年には、長男のジョンスン・アレキサンダー・ジュニアが父の家で同居し最期を看取った。兄夫婦は今でもそこで暮らしている。姉のアイダは医院で働いていたが今は隠居している。姉には7人子供がいて、末っ子は双子だ。別の兄ジェイムズ・ハーベイは最近亡くなり、ダグラスはデトロイトの教育委員会で働いている。ルーサーはランシングに住み地域の社会福祉の仕事をしている。父の家は玄関と裏側に両方ポーチがあり今は柵で囲ってある。2階と1階に2部屋ずつ、合計4つベッドルームがある。台所口にはミルク・ドアといって、牛乳配達に空ビンを出しておく郵便受けのようなものがある。
僕が幼い頃、辺りは凄く田舎で、道は舗装されてなかったし両側に深い溝が掘ってあった。舗装されたのは1930年代の終わりだったし、地域に学校はなかった。だから、小学校は徒歩1マイル、ハイスクールはバスを2つ乗り継がねばならなかった。学校は人種混合だったが、当時のデトロイトには至るところで激しい人種差別があった。勿論、その結果が1943年の人種暴動だった。この家にはずっとピアノがあった。僕はピアノの椅子にハイハイしてよじのぼれるようになると、すぐピアノで遊び出した。6才のクリスマス・プレゼントに兄弟全員が楽器をもらった。僕はクラリネット、他の兄弟はバイオリンやドラム、サックスなどをもらったから、兄弟でちょっとしたバンドを作り、変てこな音楽を演っていた。だけど、クラリネットは余り気に入らなかった、音を出すのが凄く難しかったから。でもクラリネットのおかげで、譜面が読めるようになったのさ。ラジオのクラリネット教室の講師、マッティ先生にフィンガリングの譜面を申し込んでね。学校でも番組と同じ譜面を教材にしていたから、ラジオで勉強していて、中学に上がるまでにはちょっとは吹けるようになっていたよ。高校に上がったら、学校のバンドに入っても、へたに聞こえず溶け込めるくらいにはなっていた。
ピアノのレッスンを始めたのは10才か11才位でバッハやショパンを習った。地元で有名な先生、グラディス・ディラードに指示した。彼女の教室は凄く大きくなり、やがて学校を開設して講師を7-8人抱えていた。最近デトロイトでソロ・コンサートを演った時、彼女に会ったがとても元気そうだったよ。でもクラシックを習っていても、僕が聴いていたのはファッツ・ウォーラーやテディ・ウイルソン、アート・テイタム、それに色んなビッグバンドだった。高校時代になると、バド・パウエルが定着していたし、ナット・キング・コールも同じくらい基本になっていた。ナット・コールは、洒落ていてすっきりしたテクニックと、鮮やかなアタックがテディ・ウイルソンと共通していた。それに、すごくスイングしてどの音も弾けるようにバウンスしていた。
<朝鮮戦争>
僕は朝鮮戦争から逃げなかった。終戦間近に徴兵され陸軍で2年過ごした。基礎訓練を受けたのは韓国と同緯度にあるミズーリ州のレオナードウッド基地で、そこは地形まで似せてあった。訓練の終了前に、僕の訓練任務が短縮され戦地に派遣されることになっていた。まさに悪夢だったが、ちょうど、基地の余興のショウでオーデションがあることがわかった。そのショウにピアニストの出番があって、応募したらうまくパスしてミズーリに留まれた。だが1年ほどしてからやはり派遣された。僕はすでに映写技師として訓練されており港町、クンサン(群山)に着任した。戦時下だったから、深夜や早朝に、あの北朝鮮の戦闘機が我々のレーダーをかいくぐって空襲してきた。僕らは空襲に「ベッドチェック(就寝検査)・チャーリー」という名前を付けていた。軍隊のキャリアでただひとつ良かったことは、ぺッパー・アダムス(bs)としょっちゅう出会えたことくらいだな…
(Pepper Adams バリトンサックスの名手:デトロイト出身 1930-86)
妻の ダイアナ・フラナガンがブドウとジンジャークッキーを盛った菓子盆を持って居間に入ってきた。フラナガンはクッキーを2枚取り礼を云うと、彼女は台所に戻った。フラナガンは2枚のクッキーを平らげ、ブドウも少しつまんだ。しばらくの沈黙をおいてから、彼はさらに語り続ける・・・ (続く)