トミー・フラナガン・トリビュートの前に読みたいAmerican Musicians(2)

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<幼い頃、両親のことなど>

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    玄関のベルが鳴り、フラナガンが妻を家に招き入れた。

 「トミー、ごめんなさい!荷物が一杯で鍵がどこにあるかわからなくて…ブドウとクッキーを買って来たから、荷物をほどいたらお出ししますね。」

   山のような食料品を抱え、よろよろしながら彼女は言った。ブルネットの美人だ。その黒髪が透き通るように色白の顔を引き立て、ビクトリア朝絵画を思わせるが、声は夫より大きく、動きも倍は早い。

 フラナガンは再び腰掛けて語りだした。

 「心臓発作に襲われたとき、たいしたことはないと言われながらも、17日間入院した。禁煙し、酒を控え、体操も始めた。もっぱらウォーキングするだけだが…とにかく街中を正しいペースで歩く。これは郵便配達だった父親の遺伝かもしれないな。子供の頃、兄弟で父が郵便を配達するルートを計算してみたら、少なくとも10マイル(16km)あった。父は郵便配達の前はパッカード自動車会社で働いていた。とにかく大恐慌時代の行政のほうがずっと手厚かった。

cob651.jpg 僕の父は1891年、ジョージア州のマリエッタの近くで生まれた。第一次大戦で、陸軍に入隊し、終戦後に北部へ移住した。その前はフロリダやテネシーを転々とした。父と僕は背丈も同じでそっくりなんだ。若いうちから禿げていたしね。父も音楽が好きで、カルテットを組みスパッツ姿で歌っていた。ギターを抱えた父の写真を見たことがあるが、実際に弾くのは聴いたことがない。6人兄弟、そのうち男が5人で、僕が末っ子だ。5人もいる男の子をちゃんと躾けるのは大変だから、父は規則をつくって、いつも僕達を厳しくチェックした。悪さをすると、地下室に入れて、特権を剥奪する決まりもきちんとあった。でも父は、まともな人間になるにはどうしたらいいかを完璧に教えてくれた人だった。それに父はある種のユーモアのセンスも持っていた。ジョークを言い始めると、自分でウケて大笑いするんだけど、絶対にオチがないんだ。

53373582.jpg   母の名はアイダ・メイ、小柄で美しい人だった。1895年、ジョージア州のレンズ生まれで、父と同時期に北部に移住してきた。母はインディアンとの混血だ。両親は20才になる直前に結婚し、母は教会の仕事を沢山していた。実際にデトロイトの僕達の地域(コナントガーデンズという黒人居住区域)に教会を開いたのは僕の両親だ。母のほうが父より音楽好きで、アート・テイタムやテディ・ウイルソンも知っていた。僕がそんな人たちのレコードをかけると、『それ、アート・テイタム?』『あら、これはテディ・ウイルソンでしょ?』なんて言うから、僕は嬉しくなったもんだよ。
 母は独学で譜面を読んだ。おっとりしたシャイな人で、料理や洋裁がすばらしくうまかった。僕らの洋服や、綺麗なパッチワークのキルトを縫ってくれた。1930年代の暮らしは決して楽ではなかったはずだが、母は生活苦をスイスイ乗り切って、僕たち家族に不自由を感じさせなかった。milkdoor.JPG母は1959年に亡くなり、父も1977年に86才で亡くなった。父の晩年には、長男のジョンスン・アレキサンダー・ジュニアが父の家で同居し最期を看取った。兄夫婦は今でもそこで暮らしている。姉のアイダは医院で働いていたが今は隠居している。姉には7人子供がいて、末っ子は双子だ。別の兄ジェイムズ・ハーベイは最近亡くなり、ダグラスはデトロイトの教育委員会で働いている。ルーサーはランシングに住み地域の社会福祉の仕事をしている。父の家は玄関と裏側に両方ポーチがあり今は柵で囲ってある。2階と1階に2部屋ずつ、合計4つベッドルームがある。台所口にはミルク・ドアといって、牛乳配達に空ビンを出しておく郵便受けのようなものがある。

 

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  僕が幼い頃、辺りは凄く田舎で、道は舗装されてなかったし両側に深い溝が掘ってあった。舗装されたのは1930年代の終わりだったし、地域に学校はなかった。だから、小学校は徒歩1マイル、ハイスクールはバスを2つ乗り継がねばならなかった。学校は人種混合だったが、当時のデトロイトには至るところで激しい人種差別があった。勿論、その結果が1943年の人種暴動だった。この家にはずっとピアノがあった。僕はピアノの椅子にハイハイしてよじのぼれるようになると、すぐピアノで遊び出した。6才のクリスマス・プレゼントに兄弟全員が楽器をもらった。僕はクラリネット、他の兄弟はバイオリンやドラム、サックスなどをもらったから、兄弟でちょっとしたバンドを作り、変てこな音楽を演っていた。だけど、クラリネットは余り気に入らなかった、音を出すのが凄く難しかったから。でもクラリネットのおかげで、譜面が読めるようになったのさ。ラジオのクラリネット教室の講師、マッティ先生にフィンガリングの譜面を申し込んでね。学校でも番組と同じ譜面を教材にしていたから、ラジオで勉強していて、中学に上がるまでにはちょっとは吹けるようになっていたよ。高校に上がったら、学校のバンドに入っても、へたに聞こえず溶け込めるくらいにはなっていた。

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 ピアノのレッスンを始めたのは10才か11才位でバッハやショパンを習った。地元で有名な先生、グラディス・ディラードに指示した。彼女の教室は凄く大きくなり、やがて学校を開設して講師を7-8人抱えていた。最近デトロイトでソロ・コンサートを演った時、彼女に会ったがとても元気そうだったよ。でもクラシックを習っていても、僕が聴いていたのはファッツ・ウォーラーやテディ・ウイルソン、アート・テイタム、それに色んなビッグバンドだった。高校時代になると、バド・パウエルが定着していたし、ナット・キング・コールも同じくらい基本になっていた。ナット・コールは、洒落ていてすっきりしたテクニックと、鮮やかなアタックがテディ・ウイルソンと共通していた。それに、すごくスイングしてどの音も弾けるようにバウンスしていた。

<朝鮮戦争>

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  僕は朝鮮戦争から逃げなかった。終戦間近に徴兵され陸軍で2年過ごした。基礎訓練を受けたのは韓国と同緯度にあるミズーリ州のレオナードウッド基地で、そこは地形まで似せてあった。訓練の終了前に、僕の訓練任務が短縮され戦地に派遣されることになっていた。まさに悪夢だったが、ちょうど、基地の余興のショウでオーデションがあることがわかった。そのショウにピアニストの出番があって、応募したらうまくパスしてミズーリに留まれた。だが1年ほどしてからやはり派遣された。僕はすでに映写技師として訓練されており港町、クンサン(群山)に着任した。戦時下だったから、深夜や早朝に、あの北朝鮮の戦闘機が我々のレーダーをかいくぐって空襲してきた。僕らは空襲に「ベッドチェック(就寝検査)・チャーリー」という名前を付けていた。軍隊のキャリアでただひとつ良かったことは、ぺッパー・アダムス(bs)としょっちゅう出会えたことくらいだな…

pepper-adams.jpg(Pepper Adams バリトンサックスの名手:デトロイト出身 1930-86)

 妻の ダイアナ・フラナガンがブドウとジンジャークッキーを盛った菓子盆を持って居間に入ってきた。フラナガンはクッキーを2枚取り礼を云うと、彼女は台所に戻った。フラナガンは2枚のクッキーを平らげ、ブドウも少しつまんだ。しばらくの沈黙をおいてから、彼はさらに語り続ける・・・ (続く)

 

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トミー・フラナガン・トリビュートの前に読みたいAmerican Musicians(1)

Jazz-Poet.jpg トミー・フラナガン(1930-2001)の誕生月、3/15(土)に、寺井尚之(p)メインステムが名演目をお聴かせするコンサートを開催します。その華麗な楽歴の中でも最高レベルのアルバム『Jazz Poet』(’82)から、”ジャズ・ポエット”はフラナガンの代名詞になりましたが、この名付け親は”The New Yorker”のコラムニスト、ホイットニー・バリエットという人で、1950年代からフラナガンのことを”Poet :詩人”と呼んでいた。

03Balliett.jpg ご存知のように、”The New Yorker”は、音楽雑誌でもタウン誌でもなく、世界的な影響力を持つ文芸誌、歴史的カリスマ編集長、ウィリアム・ショーンの厳格な統括時代は、ゴシップ記事皆無、格調高い編集ポリシーで(にもかかわらず?)週刊誌として広く愛読されてた一流誌。「これさえ読んでりゃあんたもインテリ!」みたいなブランド力がありました。バリエットは40年間、ここでジャズや書評のコラムを書き、長文、短文、署名、無署名併せて550篇の記事があります。だからジャズの記事でも、文学的な比喩が多いし、少々難しいかもしれないけれど、いわゆる「ジャズ評論家」とは少し違った文章が味わえます。もとより音楽誌ではないので、村上春樹が「意味がなければスイングはない」で、当代一番評価の高いジャズ・アーティストを「うさんくさい」と書いたのと同じように、業界の通例に従う必要のない自由闊達さがいい感じ!これから紹介するのは『Poet』というタイトル、フラナガンがエラの許から独立した1970年代の終盤に書かれたフラナガンのポートレート。勿論インタビューもあります。バリエットは、テープを一切回さず素早くメモしながら取材する伝統的職人芸。フラナガンとバリエットが個人的に親しかったのは、そういうアナログなところが好きだったのかも・・・

 原書は、彼が自分のコラムを一冊の本にまとめた『American Musicians Ⅱ』、ジェリー・ロール・モートンからセシル・テイラーまで、アメリカの音楽、すなわちジャズに関わる実に71人の一味違ったポートレート集。ずっと以前に、レスター・ヤングの章も紹介しています。英語がお得意で、ジャズと文学がお好きなら、ぜひ原書で読んでみてください。

<POET 詩人>

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 <シングル・ノートの系譜>

EarlHines.jpg 叙情的でホーンライクなシングルノートを身上とするピアニストの系譜、その源流はアール・ハインズである。カウント・ベイシーの言葉を借りるなら、かれらは『ピアノの詩人』だ。その先駆者はメアリー・ルー・ウイリアムスかもしれない。ジェリー・ロール・モートン、ファッツ・ウォーラー、ハインズ、アート・テイタムから色々吸収した後に、バップ・ピアニストとなり、同時にビバップを教える師となって、セロニアス・モンクやパウエルと共に、ピアノ奏法の若き革命家として活動した。次に現れたのがテディ・ウイルソンである。(テイタムはそれより数年早く登場しているが、もっとオーケストラ的なピアニストだ。)

teddy_wilson_2.jpg ウイルスンの静かではあるが、殆ど数学的な無敵の右手パターンはピアノ・スタイルの一大ジェネレーションを形成することになる。この世代に属するのはビリー・カイル、ナット・キング・コール、ハンク・ジョーンズ、ジミー・ロウルズ、レニー・トリスターノたちだ。カイルの右手は断続的な破線を表現し、肝心かなめのフレイズの最初の音符に強烈なアクセントを付けるというところが特徴だ。一方、ナット・キング・コールは’40年代には、ジャズ界で最もビューティフルなピアニストであった。そのタッチ、いともやすやす繰り出される驚異的なラインの数々、心憎い独特のリリシズム、そのプレイがキラキラと輝いていた。透明感のあるタッチということでは、ハンク・ジョーンズも同じだが、彼の場合はテディ・ウイルソンの右手のタッチを、一層モダンに、そしてソフトにしたスタイルだ、ジミー・ロウルズは、ウイルソンとテイタムを併せ、そこに独特のウイットと鋭いハーモニー・センスをブレンドして、ルイス・キャロル(訳注:不思議の国のアリスの作者)やエドワード・リアー(ルイス・キャロルに影響を与えたと言われているナンセンス詩人&画家)を彷彿とさせるようなシングルノートを得意とする。トリスターノは、ウイルスンやテイタムとは、異なった奏法を追求し、悪魔的な力で、息継ぎも、一部の隙も無いメロディクなラインを創造した。ジョン・ルイスとエロール・ガーナーは「ハインズ-ウイルソン世代」の最後を飾る、最も風変わりなピアニスト達だ。言わばジョン・ルイスは点描派であり、エロール・ガーナーは野獣派であった。ピアニスト達は、ハインズの豊かな音楽性に、ありとあらゆるものを見出したわけである。

Bud_powell81.jpg ‘40年代半ば、ビリー・カイルとアート・テイタムから生まれたバド・パウエルは、ピアノの新世代を魅了した。彼のシングルノートは緊張感に満ち、硬質で、スイングする。特にアップテンポでは、荒々しく、超速の閃きを見せた。このバド・パウエルの信奉者は2つのグループに分けられる。一つは初期のビバップのピアニストたち、ドド・マーマローサ、アル・ヘイグ、デューク・ジョーダン、ジョー・オーバニー、ジョージ・ウォーリントンなどのグループだ。もう一つは、彼らよりもっと若く、もっとオリジナリティのあるピアニスト集団で、ホレス・シルバー、トミー・フラナガン、バリー・ハリス、そしてビル・エヴァンスたちがいる。(50年代に登場し、パウエルに追従しなかった例外的ピアニストは2人いる。デイブ・マッケンナとエディ・コスタだ。)

Bill_Evans-Portrait_In_Jazz.jpg ビル・エヴァンスは、シルバー、トリスターノ、ナット・キング・コールといった人たちの要素に、独特の内向性を結び付けた。彼はやがて、バド・パウエル以降、最も影響力のあるピアニストとなったのである。’60年代以降に登場したピアニストで彼の影響から逃れられた者はほとんどいない。

<トミー・フラナガン登場>

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 そして、二つの全く無関係な事件が相次いで起こった。ひとつめは、1978年にトミー・フラナガンが10年来携わったエラ・フィッツジェラルドとの仕事を辞めたこと。ふたつめは、1980年、エヴァンスが死去したことの二つだ。フラナガンはソロ・ピアニストとして、時にはトリオやデュオで再出発、ゆっくりではあるが順調な道を歩んだ。今では、影響力という点で、この非常に内気な男がエヴァンスの後継者となっている。

Jimmy-Rowles-Isfahan-550106.jpg   シングル・ノートの長老ピアニスト、ジミー・ロウルズはフラナガンについてこう語る。

 「トミーは凄いピアニストだよ。賞賛の言葉以外思いつかないな・・・伴奏者としてもソロイストとしてもね。よく一緒に”ブラッドレイズ” (訳注:NY大学の近くにあったジャズ・クラブでフラナガンが出演していた。朝までやっていて、仕事がハネたミュージシャンのたまり場だった。)で、うだうだ飲んだもんだよ。色んな曲をおさらいしたり、仕事のぐちや噂話をしたりしてね。彼のレパートリーの広さには舌を巻くよ!今どき『鈴掛の木の下で』を知ってるピアニストが何人いると思う?!

 トミーはね、 ちょっと水くさいところもある、何でもあけっぴろげにするのが嫌な性格なんだ。だけど面白い奴だよ。会ったら「近頃どうだい?」って挨拶するだろ?すると、『ああ、僕の持ち物(訳注:tools: ピアノや仕事、そして男性のシンボルも併せて…)で、最善の効果を挙げようと鋭意奮闘中だ。』 なんてね!」

 03_bradleys-sm.gif  “ブラッドレイズ”のオーナー、ブラッドレイ・カニングハムはこう語る。

 「トミーは礼儀正しいし、それでいてめっぽう面白い人だ。一緒に居て楽しいし、プレイはそれ以上に大好きだよ。10年ほど前の、ニューポート・ジャズフェスティバル期間中、エラの仕事にしばらく空き日があり、トミーをうちの店に雇ったことがあった。ジョージ・ムラーツとデュオでね。ところが初日に一人の客も来なかった。うちの客も知り合いも、誰も来なかった。この業界で長くやってると、そんなこともあるから、私だって承知の上さ。成す術なし!せいぜい、”お手上げ”のジェスチュアをするのが関の山だ。トミーとジョージは周りを見回してから、顔を見合わせているばかりだったよ。しかし、この二人は音楽的に一体だった。その夜、閉店後、二人がちょっと演奏したんだが、それは、今までに聴いたこともないほど独創的でスイングする音楽だった。ピアノ弾きというものは、まず聴く者を笑わせ、それからおもむろに、笑ってた同じ心が感動で張り裂るようなプレイをしなければならない。トミーの演奏は、まさにその手本だ。」

 

 <アパートにて>

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  フラナガンは中肉中背だ。禿げ頭の裾野に白髪が残っていて、その頭に釣り合いのとれた濃い口髭を蓄え、シャイな目元に眼鏡をかけている。話す時には、首を右にかしげ、部屋の左側に目をやる、あるいは左に首をかしげ、部屋の右側に目をやる。彼の握手は柔らかく、声も同じく柔らかで、その言葉は人をはぐらかせる。しかし、そういう態度の大部分はかりそめの姿だ。彼は端正でえくぼの入る微笑みを見せ、よく笑う。フラナガンは妻ダイアナとアッパーウエストサイドに住んでいる。アパートは南向きで昼間は太陽がさんさんと差し込む。窓辺にはレースのカーテンが掛かり、ロイヤルブルーのベルベットのソファが置かれ、ダイアナ・フラナガンの蔵書が壁の一方を埋めている。そこにはアンドレ・マルロー、ジューン・ジョーダン、アレック・ワイルダー、ポール・ロブスン、ジャイムズ・アギー、デューク・エリントン、メイ・サートンなどの著作が並んでいる。 

 或る午後のひと時、フラナガンは、その居間に座り自分自身について語った。その話振りはとても遠慮がちで、まるで今初めて会った人間について語っているかのようだった。

 フラナガンは1930年、デトロイトに昔からある黒人居住区、コナントガーデンズに生まれた。’40~’50年代にデトロイトで音楽的才能が大量に噴出したのは、当時デトロイトの過酷な人種差別状況に対する、婉曲な代償であったのかも知れない。

 <回想>

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 その時代のジャズ・シーンは、フラナガンの思い出として心の中で今も輝き続けている。

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<NYへ>

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  その当時は、まだアップタウン(ハーレム)でジャムセッションが行われていた。月曜は<125クラブ>、火曜は<カウント・ベイシーズ>水曜は<スモールズ>だった。ジャムが自分の実力を世間に披露するのに最適な場所だ。もちろん新入りは、出番が回ってくるまで長いこと待たなくてはならない。時には午前3時、4時までバンドスタンドに上がれないときもあった。だが、NYにきてたった数週間で初レコーディングの仕事をした。レーベルは”ブルーノート”、アルバム・タイトルは<デトロイト-NYジャンクション>で、ビリー・ミッチェル、サド・ジョーンズ、ケニー・バレル、オスカー・ペティフォード、シャドウ・ウイルスン(ds)の共演だった。その後すぐに、マイルズ・デイビスやソニー・ロリンズとも録音した。コールマン・ホーキンスとの出会いはマイルズの紹介で、彼ともレコーディングした。初めてのナイトクラブの仕事は”バードランド”だ。バド・パウエルの代役を頼まれたんだ。同じ年の7月、ニューポート・ジャズフェスでエラ・フィッツジェラルドと初めて共演した。それからJJジョンスンのバンドで1年間やって、ヨーロッパ全土を楽旅した。その後はNYに留まり、色々なところで演奏したりレコーディングした。

  1960年に最初の妻、アンと結婚したが、70年代の初めに離婚した。私達の間には3人の子供がいる。トミーJr.はアリゾナ在住、レイチェルとジェニファーは二人とも子供をもうけて、カリフォルニアに住んでいる。アンは1980年に自動車事故で亡くなった。

<エラ・フィッツジェラルドと>

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  1962年、エラと2度に渡る長期の仕事の一回目が始まり、’65年まで続けた。その後1年間はトニー・ベネットと共演した。その頃には西海岸に移住していた。その後は「カジュアル」-いわゆるクラブギグを専ら演っていた。西海岸の仕事は手堅い。というか、派閥が強くて排他的だった。エラもカリフォルニアに住んでいて、1968年に、再びエラから声がかかった。以来10年間彼女のミュージカル・ディレクターとして落ち着いた。彼女のことをよく知ってしまえば、これほど一緒に仕事をやりやすい相手はいない。だけど最初のうちはきつかったよ。とにかくいつクビになるか不安で危なっかしい。例えば僕が少しでもミスしようものなら、「もしこれからもこんなブサイクなことになるんだったら、仕事がなくなっちゃうじゃないっ!」と言われるんだ。だから、しっかり演奏しなければと肝に銘じた。何しろ僕はエラのミュージカル・ディレクターなんだし、彼女の引退が僕の責任だなんてまっぴらだったからね。

 でも彼女は僕たちの誕生日だって絶対に忘れることはない。エラの為に働くというのは、他の歌手の伴奏とは全く違っていた。求めるレベルがずっと高度だ。彼女のイントネーションは完璧だった。ジム・ホールが以前、彼女の声はチューニングできるとまで言ってたよ。僕は楽旅することがキツくなり、1978年に心臓発作にやられたこともあって、とうとう辞めたんだ。」 (続く)

春のトリビュート・コンサートは3月15日(土)に!

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 暴風雪!先週は大阪にも雪が積もりました。トミー・フラナガン愛好会の石井夫妻の経営される、トミー・フラナガンや寺井尚之の音楽が流れる「森の中の絵本館」(山梨県山中湖村)が、先日来の大雪で2月20日現在も孤立状態です。コンビニの商品が枯渇していても、食料の備蓄は充分だそうですが、一刻も早い復旧をみんなでお祈りしています。

 さて、3月、トミー・フラナガンの誕生月に毎年OverSeasで開催するコンサート、”Tribute to Tommy Flanagan”、第24回は誕生日の前日、3月15日(土)に行います。

 毎年春にはトミー・フラナガンが愛奏していた春の名曲(Spring Songs)が聴けます!例えば”They Say It’s Spring “には、在りし日のフラナガンが居た頃のNYの風情が感じられます。さらに、圧倒的なフラナガンの十八番を、寺井尚之(てらい ひさゆき)のレギュラー・トリオ”メインステム”(宮本在浩-bass、菅一平- drums)がお聴かせします。

terai_hisayuki_practice75.JPG 寺井尚之はトリビュートのために、毎日が練習中心の生活。トミー・フラナガンが好き、練習が好き、その点では誰にも負けません。ピアノのコンディションは早々と出来上がっていて、乾燥気味の気候に拘らず、恐ろしいくらい冴え冴え響きわたっています。

共演の宮本在浩(b)、菅一平(ds)も負けじとプレイをしっかり磨いております。メインステムにとって、トリビュートの演目は決して「ネタ」ではなくて「宝物」!皆様に心から楽しんでいただける演奏をお聴かせいたします。

zaiko_miyamoto_0219P1070620.jpgsuga_ippei_IMG_3026.jpg 皆様のお越しをぜひお待ちしています!

第24回Tribute to Tommy Flanagan>

日時:2014年 3月15日(土) 7pm-/8:30pm-(入替なし)

前売チケット3,000円(税抜価格) 

当日3,500円(税抜価格)

演奏:寺井尚之The Mainstem Trio :宮本在浩(b)、菅一平(ds)

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その男、凶暴につき(2):ルーレット・レコードCEO、モリス・レヴィー

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Morris Levy (1927-1990)

 禁酒法時代、ジャズは密造酒に洗われ、ずいぶん垢抜けた。カポネは大恐慌の後脱税容疑で投獄。1947年、梅毒で脳を侵されて見る陰もない最期だった。財布に入りきらないお札を、弱い黒人ミュージシャン達に多少なりとも分け与えたアル・カポネに比べて、音楽界のドンとして君臨したギャング、モリス・レヴィーのやり方は、ミュージシャンの著作権を奪い、クスリやギャンブルで二重三重に絞り上げるという卑劣極まりないものだった。
 だからといって、カポネが音楽を愛する善人で、レヴィーが真正のワルだったというわけではないのだろう。カポネの時代、音楽は美しいダンサー達のショウの添え物的な存在でしかなかったし、莫大な利益をむさぼる対象からはずれていただけなのかも知れません。

 第二次大戦中、マフィアは「暗黒街工作員」として連合軍勝利のために命を張って手を汚した。戦争に勝った後、ルーズベルト大統領はその見返りとして、ヘロインの密輸を黙認、麻薬の売買は密造酒に変わる主要産業になった。また砂漠のど真ん中にモルモン教徒が開拓したネバダ州に、カジノと娯楽の聖地ラスベガスを建設したのもマフィアの功績(?)だ。

<ビバップのフィクサー>

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 L1.jpg 先日の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に登場したプランジャー・ミュートの達人、タイリー・グレンのアルバム『Let’s Have a Ball』や、1月同講座で聴いたカウント・ベイシー楽団とジョー・ウィリアムス&LH&Rのコラボ盤『Sing Along with Basie』をリリースしたレコード会社は“Roulette Records”。このレーベルのオーナーはラジオのDJ、シンフォニー・シドと組みビバップ・ブームを大いに盛り上げた流行の陰の立役者で、音楽業界のドンとなったモリス・レヴィーです。

 その男、実は、NYのマフィアのうちでも五本の指に入るジェノヴェーゼ一・ファミリーの一員、 一家を束ねた親分は、泣く子も黙るヴィトー・ジェノベーゼ、映画”ゴッドファーザー”のモデルのひとりだった。映画でマーロン・ブランド扮するヴィトー・ドン・コルレオーネは地域の争い事を収め、麻薬売買には断固反対した侠客でしたが、そんなこと言ってちゃ食べて行けない。現実のジェノヴェーゼ一家は博打、クスリ、売春、ボクシングその他の興行、金融業など、手広く事業展開する大実業家、その中の音楽エンタメ部門を仕切った幹部がモリス・レヴィーだった。本名モーセ・レヴィー、シチリアではなくてユダヤ系。NYブロンクス出身で、13才のとき、御年75才の担任教師に暴行を働き放校処分、それ以来ヤクザ稼業一筋、ほんとはこういう人を「Mean Streets」と呼ぶのでしょうね。

 

 

Letshaveaball.jpg 若いころはフロリダの高級クラブで丁稚奉公した。カワイコちゃんが店内のお客様の記念写真を撮影すると、お客さまが帰るまでに現像してお渡しするサービス係を務め、暗室の現像技術を取得した。きっと隠し撮りされて恐喝されたお金持ちもいたんでしょうね… モリスはこの土地でクラブ経営のノウハウを学んだ後、NYに舞い戻り、Topsy’s Chicken Roostという店の経営に関わります。折しも到来したビバップ・ブームに便乗して、店は”Royal Roost””Bop City”と屋号を変え有名ジャズクラブとなりました。人気ディスク・ジョッキー、シンフォニー・シドと組んで、チャーリー・パーカーやデクスター・ゴードンといったスターをブッキング、ラジオとの相乗効果でビバップ・ブームを盛り上げた。ここからモリスは、ラジオでPRしてくれるDJを味方につけることがいかに大事を身をもって学んだ。それと平行して”Roulette Records”を設立、ビバップのレコード・レーベル”Roost”を買収、”Birdland”レーベルではPrestigeのボブ・ワインストックと組んだり、ジャズにかぎらずR&Bやスタンダップ・コメディのレコーディングなど多方面で、どんどん事業展開、ビバップ、ハードバップ期の象徴的クラブ、”Birdland”を設立した。前述のタイリー・グレンがフラナガンやハンク・ジョーンズと常時出演していたアッパー・イーストサイドの高級レストラン”The Roundtable”は、”Roulette”で得た利益を投資して開店したからラウンドテーブルという屋号になったのです。

 『Let’s Have a Ball』(’58)は、この店のオープンと前後にリリースされたアルバム、レコードが売れれば店が繁盛し、店で生演奏を聴けばレコードが売れるという仕組みです。

<カウント・ベイシーとルーレット>

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 カウント・ベイシー楽団は、前述の『Sing Along with Basie』を含め20枚以上ものアルバムを”Roulette Records”に録音してる。名門コロンビア・レコードの司令官ジョン・ハモンドが面倒をみたベイシーが何故多く録音をしたのか?これが私にとって長年の「謎」だったのですが、トニー・ベネットの自伝(The Good Life: The Autobiography Of Tony Bennett)を読んで疑問が溶けた。そこにはベイシーが知る人ぞ知る無類のギャンブル好きであったことが書かれていた。カウント・ベイシーは、博打で負けてレヴィーに莫大な借金があったのです。ベネットとベイシーのゴキゲンにスイングする共演盤『Basie Swings, Bennett Sings 』さえも、借金のカタとして録音されたものだった。ベネットはこんな風に書いている。
basie43.jpg 「レヴィーはミュージシャンの骨の髄までしゃぶる古典的悪党だった。噂によれば、カウント・ベイシー楽団員全員がレヴィーの会社の従業員として強制的に演奏奉仕させられた挙句、1セントの著作権料も支払われなかったらしい・・・」
 名門ジャズクラブ、”バードランド”にベイシー楽団は何度も出演しているけれど、最高に楽しい演奏のギャラは雀の涙(peanuts)だった・・・
 ミュージシャンを徹底的に搾取するレヴィーの商法、20才そこそこの若きジャズ・ミュージシャン達が創造するビバップ・ムーヴメント、その演奏の場所を経営する団体がヘロインの売買を主たる産業にしていたのですから、彼らがドラッグ浸りになったって何も不思議ではないですよね。
 

<版権ほど素敵な商売はない>

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 モリスの手がけた店で最も有名なのがチャーリー・パーカーの名前を拝借した“バードランド”、実質的な経営者は弁護士の肩書を持つオスカー・グッドスタイン、モリスは6人の共同経営者のひとりとして財務を担当していました。彼が音楽業界のドンにのし上がったきっかけがここにあります。或る日、ASCAPの職員が音楽家や出版社の代理人として、バードランドに対し演奏著作料を請求しにきた。顧問弁護士(恐らくグッドスタイン)は、その請求は完璧に合法的だから払いなさいと言う。そうか!「著作権」があれば、寝ててもお金が入ってくるんだ!目の前に「宝の山」があったことに気づいたレヴィーは、この著作権法を逆手に取って一儲けしようと決意。最初の妻の名を取って「パトリシア・ミュージック」という音楽出版社を設立し、バードランドで初演される楽曲の著作権をせっせと取得した。その中で最も有名なのものが、バードランドから発信されるラジオ番組のテーマソングとして大ヒットした”Lullaby of birdlande5f.jpgBirdland”(1952)。作曲家であるシアリングは、店のレギュラー・ピアニストで、わずか10分でこの曲を創ったと言います。いったい彼がどのような手段を使ったのかはわからないのですが、後になって、出版権をレヴィー、作曲著作権をシアリングに、ということで折り合いがつき、シアリングにも莫大な印税が毎月転がり込んできた。レヴィーが、この著作権事業を更に拡大するため、1956年に設立したのが「ルーレット・レコード」で、それからは作曲著作権も独り占めしようと、新人の契約書を工夫した。とにかくミュージシャンに対しては、おこぼれをあげるどころか、ぼったくる主義を貫徹。恐らくモリスにとって音楽家は単なる消耗品にすぎず、いくらでも代りがあるものだった。ヒットは楽曲ではなくPRによってのみ作られる、という信念があったんでしょう。

 モリスを良い人間だと褒めているのはディジー・ガレスピーくらいで、自伝には「未払のギャラを請求しに行ったら靴箱一杯の札をくれた。自宅の敷金を無利息で肩代わりしてくれる親切な男」と書いてある。しかし、この伝記が書かれた時期を考えると、全くの本心かどうかはわからない。

  

<ロックンロール!>

 

Alan_Freed_1957.JPG  レヴィーは、ロックンロールの創成にも大きく貢献した。その時代、レヴィーが最も重要視したのは音楽の作り手ではなく流行の作り手、つまりラジオのディスク・ジョッキーたち。 レヴィーはラジオの番組のヒット・チャートに自分の楽曲を優先的に流すために、ミスター・ロックンロールと言われた伝説のDJ、アラン・フリードはじめ数々のディスクジョッキーを接待漬けにした。DJの給料はとても安いから接待にはイチコロだった。レストランもホテルも沢山持ってるギャングだから、お・も・て・な・しは得意です。豪華ディナーやただ酒をたらふくごちそうしてから、自分の高級車を提供して乗り回させる。助手席には高級娼婦がもれなくついて… 勿論、現金だってたんまり包んで渡すものだから、レヴィー傘下の曲はラジオでガンガン流れた。レヴィーは、その代わりにフリードの造った”rock & roll”という流行語の所有権を独占し、使用権を徴収していたというからたいしたもんだ。やがて、DJが賄賂と接待にまみれながらヒット曲を操作していることが大きな社会問題となりますが、糾弾されたのはDJで黒幕はお咎め無しだった。内田裕也さんもレヴィーがいなくなってよかったですよね!

 大実業家として、「音楽業界の蛸」「ゴッドファーザー」と雑誌で賞賛されたモリス・レヴィーは、マンハッタンの超豪華アパート暮らし、セレブが憧れる日本人のハウスボーイがお仕えし、傘下企業の利益は7500万ドルと言われていました。
 
6a00d83451c29169e20168e852dc3c970c.png 一方、その裏では、暗黒街の抗争は絶えず、ジャズのメッカ、”バードランド”では立て続けに殺人事件が起こった。最初に殺されたのはギャングの一味、その直後に刺殺されたのはモリスの兄だった。レヴィーと間違えて兄が代わりに殺された。”バードランド”はここから凋落しますが、モリスにとっては痛くも痒くもないことだった。

 

<ジョン・レノンを告訴>

ori-roots09.JPG 1973年、レヴィーは、ビートルスのヒット曲『Come Together』の冒頭歌詞が、チャック・ベリー(レノンのアイドル)の作品”You Can’t Catch Me”(1956)の盗作として、レノンを告訴。示談の結果、レノンがレヴィーが版権を持つロックンロール曲3曲をレコーディングすることで落ち着いた。すったもんだの末、レビーは1セントも出費することなくレノンのアルバム”Roots”を通信販売することで大儲けします。 レヴィーは少しやり過ぎたのかも・・・
 その頃から、競合する音楽企業は、どんどん健全化(?)してギャング以外のビジネスマンが参入し始めて、レヴィーの手がけるポップ・ミュージックに翳りが出てきます。

 <ヤクザ商法の終焉>

6a00d8341c4fe353ef0134880b8394970c-800wi.jpg 時とともに、レヴィーのビジネス感覚や流行を嗅ぎつける嗅覚が鈍り、膨らみ上がった音楽企業の収益が複合的に減少して行きました。財力が引き潮になったとき、それまで金と権力のおかげで隠れていた悪行が徐々に露見し始めた。

 1984年から、FBIがレヴィーの企業について潜入捜査を開始、レコード卸売業者に対して125万ドル相当のレコード売買契約を結ぼながら、高額商品を故意にカタログから削除して販売するという詐欺行為を行ったことを突き止めます。それに気づいて満額の支払いを拒否した業者は暴行を受け重症を負うという事件が表沙汰になり、レヴィーは1986年に逮捕、一流ホテルでの捕物シーンが派手にTVで報道されることに。

 FBIは捜査の手を緩めることなく、「ルーレット・レコード」が、実はマフィアの隠れ蓑として、マネー・ロンダリングの役割を受け持つ会社であることも明るみに出ました。

 1988年、レヴィーは「ルーレット・レコード」と複数の音楽出版社を5,500万ドルで売り抜けますが、マフィアとしての裏の顔はかつてレヴィーが大いに利用したマスコミによって大々的に報道され、TV特番まで組まれた。結局レヴィーは「ルーレット」の管理職2名(うち一名はジェノベーゼ・ファミリー)と共に、強要罪で10年の懲役刑を宣告されることになりました。控訴は棄却され、服役前の1990年、レヴィーは癌で死亡。享年63才、バッパーを食い物にしたバップの立役者の最期でした。

 彼のヤクザ商法は、映画「ゴッドファーザー」でたびたび登場するマフィアらしい台詞 ”I made an offer he can’t refuse” (奴がいやとはいえない提案をしてやった。)を思い出します。ミュージシャンに対するレヴィーの脅しは、レヴィーの死後、60年代に売れっ子だっロック・バンド、「ションドレルズ」のトミー・ジェイムズの手記” Me, The Mob, and The Music (僕とヤクザと音楽)“に赤裸々に書かれています。


 今回、モリス・レヴィーや、彼の著作権商法を調べていると見えてきました。黒人ミュージシャンで初めて著作権会社を設立したジジ・グライスが被害妄想に陥り、ラッキー・トンプソンがホームレスにまで落ちぶれた理由が・・・彼らは後進のためにトラの尾っぽを踏んだ殉教者と言えるのかもしれません。ブームの立役者はミュージシャンの生き血を吸いながら大きくなった。フィリー・ジョー・ジョーンズのビバップ・ヴァンパイアは現実にいたんだね!

その男、凶暴につき (1) アル・カポネとジャズ

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(Al Capone 1899 – 1947)

 毎日寒いですね!今週は「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」の下準備で必死のパッチ。今回はミルト・ジャクソン(vib)の名盤『Bags’ Opus』を中心に、コールマン・ホーキンスのレギュラー時代前夜のフラナガン参加盤を楽しみます。

  さきほど寺井尚之とコーヒー飲みながら、ちょっと講座の内容を聴いたのですが、ミュージシャン耳が捉えた名盤の切り口は、ディスク・レビューではなかなかお目にかかれない興味深いもの。前回の講義よりずっと深く楽しく楽しめそうです。ミルト・ジャクソンやベニー・ゴルソン・・・バッパー、ハードバッパーと言われる一流の人たちの音楽に対する「姿勢」は、ルイ・アームストロングはじめ、偉大なる先人から脈々と受け継がれてきたものだということを、サウンドと共に実感していただけますよ!

 講座のラストに紹介する『Let’s Have a Ball』のトロンボーン奏者、タイリー・グレンはルイ・アームストロングと長らく共演したプランジャー・ミュートの達人、前々回のアイリーン・ウィルソン同様、ジャズエイジの栄華を知る名手です。禁酒法のおかげで富と権力を得たマフィア、1920年代のジャズの発展は禁酒法とギャングなしには語れません。

 teddy_wilson_talks_jazz.JPG テディ・ウイルソンは自伝『Teddy Wilson Talks Jazz』で、その時代の体験をヴィヴィッドに語っています。要約するとこんな感じ。
 
カポネが秘密裏に経営する会員制高級クラブ””ゴールド・コースト”の会員証は18金でできていた。深夜、カポネが現れると、貸し切りになる。カポネもマシンガンを持つ子分たちもジャズが大好きだ!カポネが贔屓にするアール・ハインズ楽団の演目はずべて知ってる。彼らのお気に入りミュージシャンは、サックスならジョニー・ホッジスかベニー・カーター、トランペットならルイ・アームストロングかジャボ・スミスだった。(趣味がいいですね!)
 バンド演奏が始まると、王様カポネは始終バンドスタンドに上がってくる。(それはリクエストをするためではなく)ミュージシャンのポケットにチップの100ドル札を入れてやるためだ。時には一晩のチップが一ヶ月分のサラリーより上回ることもあった。大恐慌が始まった頃だったが、おかげで私はクライスラー・インペリアルに乗っていた。
 カポネが飲んでいる間、店の外には防弾ガラス仕様のキャディラック3台と15人の屈強な用心棒が待機していた。
 私は演奏以外に、彼らの仕事をしたこともあるよ。バイオリンのケースにマシンガンを入れて運んだんだ。
 カポネはギャングだし人も殺す。その資金源は密造酒、売春、麻薬…ろくなもんではないが、彼らの潤沢な富みの一部はミュージシャン達に流れ、我々の懐は大いに潤った。
 もうひとつ、カポネのいいところは、シカゴの密造酒販売の利権を黒人のマフィアに任せたことだ。カポネは白人のファミリーは全滅させたが、この黒人一家には手厚かった。おかげでそのファミリーは米国黒人史上第二の億万長者となった。

 <ファッツ・ウォーラー拉致事件>

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 ギャングがジャズ通なんて今じゃ到底考えられませんが、私の学生時代、組事務所が並ぶミナミの街に『デューク』というジャズ・クラブがありました。そこに田村翼(p)さんのライブを聴きに行ったら、最前列に着流しの親分さんみたいな人が子分を連れて真剣に演奏に聴き入っていたのを観たことがあります。

 カポネのジャズ・ファンぶりについて、とてもおもしろいエピソードがあります。1926年1月17日、寒い夜のこと、シカゴの繁華街にあるシャーマン・ホテルにファッツ・ウォーラー(p)がに出演し大当たりをとっていた。ファッツ・ウォーラーは道化の仮面をかぶった天才音楽家、ピアニスト、歌手、作詞作曲家、ファッツはトミー・フラナガンの子供時代のアイドルで、晩年には彼のレパートリーを再発掘していました。その夜の演奏がハネてファッツがホテルから出てくると、屈強なその筋の兄さんたち4人に取り囲まれた。ぽっこりしたお腹にピストルの銃身がめり込む。ファッツは否応なしに、脇に停めてある黒塗りのリムジンに押し込まれた。

hawthorne_500.jpg 「もうこれで俺もお陀仏だ・・・神様・・・」ファッツは生きた心地がしなかったそうです。降ろされた場所はシカゴ郊外のハートホーン・インというホテルだった。そこは、アル・カポネ一家の根城。ホテルに入り、ファッツが強引に連行された場所は、処刑場ではなく、宴会場、ステージ上のピアノの椅子だった!

   主賓席に座る男の頬の傷を見てファッツは、その男こそシカゴの帝王、カポネだとわかった。1月17日、その日はカポネ親分の27才の誕生日だったんです!  ファッツを拉致した屈強な男たちは、敬愛する親分に喜んでもらえるプレゼントをあれこれ考えた結果、極上のジャズを選んだというわけ!手段は怖いが、ケーキいから登場する裸の美女ではなく、ファッツ・ウォーラーをサプライズにしたとは、なんとも粋な兄さんたちです。

 多分生きた心地がしなかったファッツは、気合を入れ直し歌って弾いた。最高の技量とユーモア・センス!美しいピアノ・タッチ!満員のお客は大喜び、中でもいちばんウケていたのが主賓のカポネ。人種差別の時代、黒人ミュージシャンは一流クラブで演奏しても、お客と同じ席で食事もできない。正面玄関から出入りもできない。でもジャズを愛するカポネは野暮なことは言わない。食いしん坊のウォーラーに極上シャンパンやキャビア、最高の食事をたんまりふるまって、演奏を続けさせた。拉致されたって、自分の音楽を喜んでくれるなら、それにごちそうも一緒にあるのでから、きっとノリにのった演奏になったんでしょう。

 一曲終わると、「最高だ!」と喜ぶカポネや、他の客が100ドル札のご祝儀を次々とウォーラーのポケットに突っ込む、そしてまた演奏、という繰り返し・・・そのパーティは3日3晩続いたといいます。演奏が終わると、男たちは来た時と同じリムジンにファッツを乗せて、シャーマン・ホテルまで安全に送リ届けた。ポケットに入りきらないチップ、お札の山、その合計3,000ドル、今の貨幣価値でざっと300万円だった。

 

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 そんなわけで、ジャズはニューオリンズのコンゴ広場で芽吹き、娼館をゆりかごにして、禁酒法とギャングの潤沢な経済援助を受けながら発展した歴史があるのです。禁酒法が終わりを告げて、ギャングの資金源が変貌するとともに、ミュージシャンとギャングの関係も大きく様変わりしていきます。

   次回はタイリー・グレンの『Let’s Have a Ball』をリリースしたルーレット・レコード、フラナガンとグレンが出演していたジャズ・レストラン『ラウンドテーブル』そして『バードランド』の経営者、果てはジョン・レノンまでゆすったマフィア、モリス・レヴィーについて。

ビリー・ホリディを彩る二人のアイリーン(2):Irene Higginbotham

 510f25a6.jpg  ジャズ史上に残るビリー・ホリディの名演目”グッドモーニング・ハートエイク”、失恋の苦しみを忘れることが出来ない。そんなら逃げるのはやめた!これからは「哀しみ」と手に手をとって歩いて行くんだ・・・捨てられた女の花道だ!涙の海の向こうの地平線のような歌の心は、70年経っても色褪せません。まるで普通に話しをしているような自然で胸を打つメロディーの作曲者が、もう一人のアイリーン(Irene Higginbotham: ヒギンボサム)です。 

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 Irene Higginbotham (1918- 1988)

Jay_Higginbotham,_Jimmy_Ryan's_(Club),_New_York,,_between_1946_and_1948_(William_P._Gottlieb_04121).jpg 長らく”Some Other Spring”の作者、アイリーン・ウィルソンと混同されて、ルイ・アームストロングなどと共演したトロンボーン奏者、J.C.ヒギンボサムの姪であることくらいしかわからなかった謎の作曲家でしたが、一昨年末にChet Williamson(チェット・ウィリアムソン)がマサチューセッツ州ウースター出身の作曲家を語る自己ブログ「Worcester Songwriters of the Great American Songbook」に、これまでの決定版といえる情報を掲載してくれました。ウィリアムソンは”The New Yorker”や”Esquire”誌に寄稿する作家で、ミュージシャン、役者として舞台活動するマルチ・タレント。女優の岸田今日子さんに似た上の写真もこのブログから拝借しました。 

 彼のブログを読むと、ビリー・ホリディと私的に親しく、彼女に相応しいカスタム・メイドの歌を作曲したアイリーン・ウィルソンに対し、ヒギンボサムは職人的な作曲家だったようで、その存在が謎に包まれていたのは、様々なペンネームで作曲活動をしていたからでした。その理由としてあげられるのが、1940年代の「レコーディング禁止令」、ASCAPに所属していた彼女が、ラジオ放送可能なBMI著作権団体に帰属する作品を書くための苦肉の方策だったんでしょうね。

 ASCAPの資料によると、ヒギンボサムはウースターで生まれた後、ジョージア州アトランタに移り、5才でピアノを、13才で作曲を始め、クラシックのコンサート・ピアニストとしてもデビューした。クラシックの作曲家について作曲技法も学び、歌って弾けて作編曲の才もあったのに芸能界は難しい。なかなか職業音楽家としてブレイクできず、NYのビジネス・スクールで速記術を身につけ、事務の仕事に就きながら音楽を続けた。

<ブギ・ウギからロックン・ロールまで>

atamp_stanpy.jpg   彼女が所属していた芸能エージェントがジョー・ディビスという海千山千の策士で、著作料収益を稼ぐための一計を案じました。彼の抱える作曲家達でチームを編成し、彼らの作品の一部をグレン・ギブソンというペンネームで発表したんです。複数の作曲者に多額の印税収入を分割する体裁をとれば節税できるというわけです。グレン・ギブソンは1940年代から’50年代にかけてR&Bの人気グループ”スティーブギブソンレッドキャップス“などでヒット曲を連発しており、ヒギンボサムも相当数の作品をギブソン名義で書いていた。

 それ以外にも、ブギウギの名曲をピアノ用にアレンジした譜面集や、歌って踊る人気コメディ・コンビ、”スタンプ&スタンピー”の持ち歌、果てはCMソングまで、驚くほど広範囲の作曲を手がける本物の職人でした。

<Goodmorning Heartache>

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51ALLDF25jL._SL500_AA280_.jpg ヒギンボサム名義の作品を探してみるとあるもので、古くはコールマン・ホーキンスが若いころ共演していたブルース歌手、マミー・スミスの”No Good Man”や、寺井尚之が大好きなナット・キング・コールの”This Will Make You Laugh”など、やっぱりいい歌が揃っています。 名曲”グッドモーニング・ハートエイク”は、”Perdido”や”Tico Tico”などのいわゆる「後付け」の作詞によってヒギンボサムと比較にならない名声を得たアーウィン・ドレイクとの共作。この二人と並んで作者としてクレジットされているダン・フィッシャーは音楽出版会社のプロデューサーですから名目上の作者だと思われます。

 今年95才になる作詞家ドレイク自身は、ちょうど失恋の矢先だった。結婚を決めていた美しいコーラス・ガールの恋人が彼を捨て、お金のある実業家の元に去ってしまった。絶望で眠れない夜が続いているとき、ヒギンボサムの曲が心に響き、自分の心を投影したのだといいます。「女の歌」にしか聞こえない歌詞は、男の心情だったんですねえ。

 出来上がった曲をビリー・ホリディに売り込んだのがダン・フィッシャー、ホリディはたいそうのこ歌が気に入って、「ぜひストリングスを入れて歌いたい!」と言った。 そしてこの歌が、彼女にとってストリングスとの初共演になりました。レコーディングは作詞家のドレイクがスタジオ入りして、ホリディの傍らで立ち会った。あのデッカ盤はワン・テイクのみで録音完了、さらに1956年、トニー・スコットOrch.と最録音、ホリディの歌唱は一層円熟していた・・・

 

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 余談ですが、フランソワーズ・サガンの「悲しみよ、こんにちは」ってご存じですか?最近、オットー・プレミンジャー監督映画をまたまた観たのですが、ショートヘアにマリンルック、シックなドレス・・・、’50年代の映画なのにソール・バスのタイトル・デザイン(右)が象徴するように、不滅なおしゃれ感覚で目が離せませんでした。

 原題は”Bonjour Tristesse”、英語にすると、”Goodmorning Heartache”、ビリー・ホリディを愛したフランス文学ですから、何か関係があるのかな・・・とずっと疑問に思っていたのですが、このフランス語原題の元は、同じフランスの大詩人で、プーランクの歌曲の作詞も沢山手がけたポール・エリュアールの「直接の生」という詩の一節から取ったものだった。

 この詩は1938年に作られていて、「悲しみよ、さようなら、悲しみよ、こんにちは・・・」が冒頭のことばですから、ひょっとすると、ドレイクもサガン同様、言葉のトップ・アーティストだったエリュアールのポエムをヒントにしたのかも知れない。

 ホリディの”Goodmorning Heartache”は発売当初、ラジオのヒットチャートの上位にランキングされることはなく、1970年代にダイアナ・ロスが「ビリー・ホリディ物語」に主演してカバーしたレコードは、その何倍ものセールスを記録した。大ベストセラー、サガンの「悲しみよ、こんにちは」の印税は日本円にして340億円だったそうですが、私には関係ない。


<グッド・モーニング・ハートエイク>

おはよう、悲しみさん、
いつも鬱っとうしい様子だね。
おはよう、悲しみさん、
昨日の夜、さよならしたはず。
あんたの気配がなくなるまで
寝返りばかり打っていた。
それなのにまた
夜明けと共に戻ってきたのね。

忘れたいのに、
あんたはどっかり居座ってる。
最初に会ったのは
恋に破れた時だったっけ。
今じゃ毎日、
あんたへの挨拶で
一日が始まる
悲しみさん、おはよう、
調子はどう?・・・(後略)

原歌詞はこちら。

ビリー・ホリディを彩る二人のアイリーン(1):Irene Kitchings

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左からドロシー・ドネガン(p)、ビリー・ホリディ、アイリーン・キッチングス、ケニー・クラーク(ds)

 ずいぶん昔、故ミムラさんに頂いたビリー・ホリディの伝記で初めて見たアイリーン・キッチングス(右から2人目)の写真、ハーレムのジェーン・バーキンみたいにシックな人!キッチングスは”Some Other Springs”や”Ghost Of Yesterday”といったホリディのヒット曲の作曲だけでなく、ホリデイのブレーンとして、姉貴分として、彼女の歌に大きな影響を与えた。彼女の写真は後にも先にもこれ一枚しか観たことない。今日改めてキッチングスの画像検索してみたら、かの女だけトリミングした私のブログ画像が海外のサイトに拡散していてネットの威力にびっくり!

 アイリーン・キッチングスは3回の結婚歴を持ちアームストロング→イーディ→ウィルソン→キッチングスと姓が変わった。ホリディの十八番、”Good Morning Heartache”を書いたもう一人のアイリーン(ヒギンボサム:”Irene Higginbotham)と長い間混同されていた。OverSeasのビリー・ホリディ解説本初版の記述が誤っているのはそのためです。申し訳ありません。
 二人のアイリーンは、どちらもビリー・ホリディの芸術に輝きを与えた。まずはアイリーン・キッチングスのことを書いてみます。

Jumpin_TeddyBillieHoliday.jpg アイリーン・キッチングスは1908年(明治40年)、オハイオ生まれ、若くしてプロのピアニストとなり、やがて禁酒法時代のシカゴで男達を率いる美人バンドリーダーとして大活躍した。マフィア王国シカゴ・ジャズ界のアイドルだ!彼女の最大のサポーターはアル・カポネ。その地で結婚したが、4才年下のピアニストの才能に惚れ込み一人前に育て上げ、挙句に深い仲になった。そのピアニストこそフラナガンが大好きなテディ・ウイルソン!やがて二人は結婚、アイリーンは山口百恵さんのようにスターの座を捨て、夫に付いてNYへ。一説にはウィルソンの母親が引退をごり押ししたとも言われています。

  

 

 

 

 

<女が惚れる女>

Jumpin_HamptonGoodmanWilson.jpg NYでテディ・ウイルソンのプレイに香る品格を気に入ったのが大プロデューサー、ジョン・ハモンド、春に来日するボブ・ディランをスターにしたのもこの人です。おかげでウィルソンには大きな仕事が沢山回ってきた。中でもベニー・グッドマン楽団への参加によって彼の名声は世界的になります。さらにハモンドが育てる大型新人ビリー・ホリディの音楽監督となり、かの有名な一連のブランズウィック盤を次々に吹き込んだ。レコーディング準備のため、レディ・ディ(ビリー・ホリディのニックネーム)は、ウイルソンのアパートに通い歌の稽古を付けてもらってた。ウィルソン宅でお世話になったのが奥さんのアイリーンです。20歳になるかならないスター予備軍とはいうものの、ホリディは元娼婦、譜面どころか読み書きだってロクにできないおねえちゃん、普通の奥さん連中には距離を置かれる存在だ。でもアイリーンは違ってた。だってシカゴでピストル振り回す荒くれ男たち相手に、音楽で一枚看板張ってた姐さんだもの、そこらの素人さんじゃない。彼女はホリディの歌手としての資質を正しく評価して、率直に接した。ホリディはアイリーンを姉のように慕い、歌詞の読み方や発音でわからないところがあったら、まっさきに頼った。アイリーンはホリディのレコーディングに立ち会い、次の録音のため「新しいネタ」を探しに二人で夜の街を徘徊する仲になります。ホリディが垢抜けたのは、恋のせいだけじゃない、アイリーンのおかげでもあった。  一方、テディ・ウイルソンはベニー・グッドマン楽団で大ブレイク。ところが彼を支えた妻に夫の感謝はなかった。人生って皮肉だな・・・ウィルソンはアイリーンを捨て、若い愛人と駆け落ちしてしまいます。アイリーンとも親しかった総司令官ハモンドは激怒、罰としてテディは仕事を干され、グッドマン楽団のレギュラー・ピアニストはジェス・ステイシーと入れ替わった。さらに皮肉なのは、ハモンドの制裁のおかげでテディがアイリーンの生活費を負担できなくなったこと。精神的にも経済的にも窮地に陥った彼女を助けたのは、ザ・キング=ベニー・カーターの一言だった。

 「昔から君のハーモニーのセンスは飛び抜けていた。ピアノも勿論うまいが、いっそ作曲の仕事をしてみたらどうだい?」

 「じゃあ私の歌を書いてよ!」とビリー・ホリディがと紹介してくれたのが作詞家アーサー・ヘルツォークJr. 二人の相性は抜群だった。”Ghost of Yesterday”(過ぎし日の亡霊)は惨めな女の未練を、”I’m Pulling Through(立ち直れて)”は、最悪の時期に手を差し伸べてくれた人への感謝を歌いヒットした。最もヒットしたのが、ボロボロになった自分の中にほんのわずかに芽吹く再生への希望を歌う”Some Other Spring (いつか来る春)”。アイリーンは惨めな自分の姿を曲の中にさらけ出すことによって、新しい人生を生きることができた。こういうのを「カタルシス」って言うんですね。  ホリディにとって最も親しい女性であったアイリーンの波乱に満ちた生き様を傍らで見つめることで、自分が歌う女性像に劇的な深みが加わったのではないかと私は思います。”God Bless the Child”や”Don’t Explain”・・・一本の映画を見る以上にドラマのある数々の十八番はアイリーンとのコラボ以降に生まれている。上質のワインのように熟していくビリー・ホリディの「女」のドラマは『Lady in Satin』で結実するんだ…

 

<アイリーンの春>

 アイリーンがジャズ界に遺した功績がもうひとつある。それは、ビリー・ホリディにカーメン・マクレエを引きあわせたこと。当時OLをしながら弾き語りをしていたマクレエの素質を見出したアイリーンが、譜面の読めないホリディに新曲を歌って聴かせる仕事をさせたのです。自分が歌った「素」を天才がどのようなプロセスで再構築するのかをマクレエは目の当たりにした。それがどれほど貴重な勉強になるのか?マクレエはホリディを死ぬほど敬愛して大歌手になれたんです。

 

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 数年後、アイリーンは病に倒れ静養のためNYを去りクリーブランドの親戚の家に身を寄せた。彼女の作曲期間は僅か数年間でしたが、静養先で青少年保護委員を務めるカタギの男性エルデン・キッチングスと出会い一生添い遂げました。

  <Some Other Spring>

  Irene Kitchings 曲/ Arthur Herzog Jr.

いつの日か春に

もう一度恋しよう。

 今は朽ち行く花を

 嘆くだけでも・・・

 

 
アイリーンの「春」 は本当にやって来た。

対訳ノート(42) Blues for Dracula

先週の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」、チャラ男系の巨匠ドラマー、フィリー・ジョー・ジョーンズの『Blues for Dracula』(Riverside)で、大いに楽しみました。フィリー・ジョー自らブラッシュでパタパタパタとコウモリの羽音でイントロを奏でてから繰り出すドラキュラ伯爵のモノローグ。
 
 ジョニー・グリフィン(ts)、ナット・アダレイ(cor)、ジュリアン・プリースター(tb)、ジミー・ギャリソン(b)、トミー・フラナガン(p)という申し分のないフィリー・ジョーのセクステット(訳詞にある「夜の子どもたち」)が奏でるこのブルーズはグリフィン作、本録音の4ヶ月前には”Purple Shades“というタイトルで、『Art Blakey’s Jazz Messengers and Thelonious Monk』(Atlantic ’58)に収録されています。
 足跡講座では、まず構成表でプレイの組み立てを頭に入れておいて、レコードを聴きながら、下の対訳表をモノローグに沿って映写しました。
 お時間があれば、下の音源と対訳表で、OverSeasの足跡講座の気分を、私と一緒に味わってみませんか?

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  フィリー・ジョー・ジョーンズはこのレコーディング以前、2年間”Prestige”でハウス・ドラマーのような役割をしていました。オーナーのボブ・ワインストックに、「もういい加減自分のリーダー・アルバムを作ってくれ」と掛け合ったが、ワインストックは首を縦に振らなかった。「そんなら、うちで演らないか?」と声をかけたのが”Riverside”のオリン・キープニュース、初リーダー作録音の休憩中に、ふざけてやってたチャラ男のドラキュラ・ネタがあまりにも面白かったので、ブルーズに乗せて録音、『Blues for Dracula』がそのままアルバム・タイトルになったと言われています。
 でも、このモノローグはとてもその場でやったとは思えないほど、しっかりした作りになっている。『ビバップ・ヴァンパイア』や『夜の子供たち』は、ヘロインの禁断症状に悩むバッパーだとすぐにわかるけど、そんなジャズメンを脅して生き血を吸うクラブ・オーナーこそが、「ほんとはコワいんだぞお~」というオチが最高です。
 
view_from_within_the.jpg ”Riverside”のプロデューサー、オリン・キープニュースはフィリー・ジョーや、このモノローグの本家、レニー・ブルースとベラ・ルゴシのドラキュラについて、面白いことを書いていました。 
 「レニー・ブルースのスタンダップ・コメディが、とりわけジャズ・メンに愛されたのは、彼らを取り巻く環境がよく似ていたからだ。5時に終わる仕事なら、それからカクテルでもすすりながらほっと一息つく場所はどこにでもある。だが、午前2時や4時に仕事が終わる人間にとって、仕事帰りにくつろげる場所は非常に限定されてしまうんだ。
 彼らはオールナイトの映画館で朝まで過ごし、TVの深夜映画を観て、否が応でもB級映画に詳しくなってしまった。ベラ・ルゴシへの愛と理解は、正にレニーとフィリー・ジョーが共有するものだった。」
(”The View from Within:Jazz Writings 1948-1987″ Orrin Keepnews著/ Oxford University Press刊)

ニュー・イヤー講座、フィリー・ジョー・ジョーンズ:対訳覚書

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Philly Joe Jones (1923-85)

 
 新年明けましておめでとうございます。暦の関係で、何年ぶりかの正月休みでした。ただし、夜なべに講座用の対訳を作りながら・・・それも、スタンダード・ソングではなく、ハチャメチャに早口な約10コーラスのヴォーカリーズや、フィリー・ジョー・ジョーンズの”吸血鬼ブルーズ”のモノローグ・・・前回の講座で使った資料は、プロジェクターの仕様が替わったのを機に、一から洗い直しです。

 新年講座の番外編として、カウント・ベイシー楽団、ジョー・ウィリアムズが、”Lambert Hendrick and Ross”とコラボした一大傑作、『Sing Along with Basie』の代表的な2トラック・・・どれも歌詞が多すぎて、OHPを閲覧した後は忘れ去られる虚しい内職と、指揮官を恨んだものの、結構奥が深くて、やっぱり対訳は楽しいです!
 

 昔、トミー・フラナガン、モンティ・アレキサンダーの2大ピアニストと御飯を食べている時、楽器別ミュージシャンに共通する性格の談義になり、「一番のチャラ男はドラマーだ。」という結論になった。フラナガンがジェスチャー付きで言うには、ドラマーというものは、バンドスタンドで叩きながら、「可愛い女の子がいないか、会場内をくまなくスキャンしている。」らしい… 

 チャラ男なら、私が一番最初に思い浮かべる巨匠こそフィリー・ジョー・ジョーンズ!
 本名、ジョセフ・ルドルフ・ジョーンズ: 地元では普通にジョー・ジョーンズであった彼に、「そのままでは、本家の(パパ)ジョー・ジョーンズに仁義が悪い」と、出身地フィラデルフィア(フィリー)の冠を付けてくれたのは他ならぬタッド・ダメロンだった。
 

 コージー・コール直伝の正統派テクニックと、軍警察やトロリーバスのカタギ社会、ドラッグ密売の闇社会で培ったヤクザなストリート系の魅力を併せ持つミュージシャン!昔OverSeasの調理場にいた海千山千の凄腕バーテンダーを思い出します。

 フリー・ジャズ全盛の70年代、フィリー・ジョーは、「楽器ケースを持ち歩くだけの連中や、ノイズは音楽とちゃう!まともなことやって売れんのんかい!」と、アヴァン・ギャルドの看板を掲げるミュージシャンをバッサリ斬り捨てた。
 

lenny_bruce__the_jazz_stars.jpg  そのフィリー・ジョーが愛したのが「お笑い」、中でも人種的なギャグや下ネタで、警察から睨まれたユダヤ系のスタンダップ・コメディアン(日本なら漫談家orピン芸人)、レニー・ブルースが一番のご贔屓!

 二人はドラッグという共通の楽しみもあり、大親友でした。
 スタンダップ・コメディというのは、座布団なしの落語、いわゆる漫談、ヴィレッジ・ヴァンガードのようなジャズクラブでも’50年代にはジャズ・バンドと演芸の二枚看板でライブがあったんです。レニー・ブルースの得意ネタが、ドラキュラ役者 ベラ・ルゴシの物真似、彼にかかると、ドラキュラの嫁さんは口うるさいユダヤ系の女性で、ドラキュラ伯爵が、東欧訛りで一言文句を言おうものなら、10倍返しで突っ込まれる。街に出れば、バーで酔っぱらいと喧嘩したり、ドラキュラ伯爵は、東欧訛で血を吸うこと以外は、どこにでもいる一市民、「訛りすぎるベラちゃんです。」って感じ。

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 ハードバップにそのまんま話芸を乗っけたのが、フラナガンも参加するハードバップの名盤のタイトル曲、”Blues for Dracula”、当初、レニー・ブルース本人がトークの部分をやる企画もあったそうですが、色々あってフィリー・ジョー本人がベラ・ルゴシのドラキュラ伯爵に扮して、一席やってます。これが凄い、真打ち級の話芸が堪能できます。

 なにしろバッパー、噺の内容も物まねではなくジャズ仕様、話し振りもスイングしています。  belle-dee-dracula.jpg 

 お話は 嫁も子供も居るドラキュラ伯爵の家に、ジャズ・バンドが余興に呼ばれ、そこでブルースを演奏するというもの。
 

 訛りすぎのドラキュラ伯爵は、ジャンキーのバッパーように禁断症状に苦しんだり、ジャズ評論家の真似をしたり、ドケチのクラブ・オーナーになったりする。ジャズメンの自虐と、ジャズ界への痛烈な皮肉が共存してて、最高です。

 今回は、ワイドサイズになった対訳の映写で、「語り」の楽しさがさらにお伝えできればいいのですが・・・

 

 フィリー・ジョーの生き様や音楽については、またじっくり調べて書きたいと思いますが、このエントリーの結びとして、心臓発作と報じられたフィリー・ジョーの死の真相について、大阪の巨匠ベーシスト、西山満さんが親交厚いNYのジャズ・ミュージシャンたちから口伝えに伝わったお話を書いておきます。

 フィリーは60年代、一時英国に住んでいたことがあります。亡くなる前、わざわざイギリスから一人の弁護士が彼の元に訪ねてきました。フィリーの大ファンであり、友人でもあった英国貴族が亡くなり、遺書にフィリー・ジョーに多額の遺産を遺すと記されており、その遺産譲渡の法的手続きのためでした。降って沸いた大金!フィリー・ジョーは高級車やデザイナー・ブランドのスーツを買い込んだ!マイケル・ジャクソンも顔負けの伊達男、滅多に味わえない極上のコカインをどっさり手に入れた。それを一気に服用してオーヴァードーズ、心臓麻痺を起こして天に召されたというのです。西山さんは言った。「幸せな奴や。大往生や・・・」

 このお話の裏づけはまだ取れていないのですが、いかにもフィリー・ジョーらしい最期!ビバップ・ヴァンパイアはまた甦る!

と、いうわけで続きは講座で! CU 

 

 

年の瀬雑感:2013年 

New-Year-Ahead-.gif OverSeasは今年のライブ日程も残すところ後2日、皆様はいかがお過ごしですか?海外や温泉でゆっくり?それとも帰省の準備?私はまだまだ・・・ドタバタのうちに新年の営業が始まりそうです。

 今年を振り返り一番思うのは、自分がオバンになったこと。目が悪くなって、深夜にバリバリ書く、という事ができなくなりました。悲しいね・・・それを別にすれば、嬉しい事も多かった!
<寺井尚之メインステム>
 まず、寺井尚之がピアニストとしてますます良くなったこと。2008年、寺井が、当時まだ新人だった宮本在浩(b)と菅一平(ds)と結成した”メインステム”が、5年の歳月を経てメインステムだけのトリオとしての「かたち」になってきた。11月のトリビュート・コンサートを節目に、ザイコウ&イッペイ・リズム・チームの出し入れで生まれる「走塁野球」的な小気味よさと、ピアノ・タッチの美しさを褒めてくださるお客様が増えたことが大収穫!寺井の持つトリオ演奏のイメージに応える共演者はすごく大変です。その苦労は拍手で癒されるのではないでしょうか?私も調理場でせっせと仕込みしてズクズクになっても、「美味しい」の笑顔で、一発エナジー・チャージ!
 
 Youtubeの動画は、メインステムの初期のスタイルを残す貴重な資料ですが、来年は動画だけでなくCDも作れればいいなあ・・・
 
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 <ピアノ教室、ジャズ理論教室>

 ライブと併設の「寺井尚之ジャズピアノ教室、ジャズ理論教室」も、今年は飛躍の年でした。ピアノ教室の吉沢瞳さんが、練習の成果をライブとして披露し大成功!理論教室ではジャズ・ハーモニカの指導を受ける伊藤加奈さんが、ドイツで4年毎に開催する「国際ハーモニカ・フェスティバル」オープン・カテゴリーでタッド・ダメロンの”Our Delight”で入賞しました。快挙!
 ジャズを「簡単にゲットできるツール」ですよと銘打つ音楽スクールの時流に逆行するかたちで、本当にピアノをサウンドさせて、アドリブ語法もきっちり勉強してきた生徒さんの成果が出たことに「やった!」っていう思いです。
 来年もピアノにかぎらず、ジャズを志す様々なミュージシャンに、指導していければいいなあ・・・
訳したり、書いたり・・・>
 
 
 本ブログの「対訳ノート」は、長年続く「トミー・フラナガンの足跡を辿る」の副産物ですが、今年は映像解説の「楽しいジャズ講座」で字幕なしの輸入盤ドキュメンタリーのテキスト翻訳も楽しんでいただけました。
 ジャズでも、それ以外の分野でも、今年は様々な英訳、和訳のチャンスをいただけました。根がおっちょこちょいで、なんでもかんでもやりたがり、どの仕事も楽しくて仕方ない。声をかけてくださった様々な分野の先生方には感謝の一言です。来年もよろしくです。
 偶然が偶然を生み、あろうことか大学の比較文学比較文化研究室に和訳が紹介され、それがきっかけで、「音楽とことば」の秘密の関係を解き明かしてくれる比較言語学にとても興味を持ちました。大学時代は選択科目にあった言語学、教授がコワいという噂からスルーした自分はバカだったなあ・・・
 
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 まあ、結局のところ、今年も大変な一年でした。震災以降、OverSeasはお正月を迎えることができるのだろうか?と思い悩んだ瀬戸際族、凹んで心が折れそうになったとき、OverSeasのドアから、誰かがやって来て、笑顔で励ましてくれたり、救いの手を差し伸べて下さった。御恩は一生忘れません!
 こんなオバンになっても、「楽しかった」「ごちそうさま」、素敵な言葉をいただけて、お金もいただけるのだから、本当に自分は恵まれていると感じる一年でした。
 常連様や初めてのお客様、数十年ぶりに来てくださったお客様、今年OverSeasにご来店いただいた方々、一人、一人に改めてお礼を申し上げます。
 そして、このブログを読んで下さった皆様、お一人、お一人に、ありがとうございます。
 みなさま、どうぞいお年を!