OverSeasは今年のライブ日程も残すところ後2日、皆様はいかがお過ごしですか?海外や温泉でゆっくり?それとも帰省の準備?私はまだまだ・・・ドタバタのうちに新年の営業が始まりそうです。
寺井珠重の対訳ノート(40)ザ・クリスマス・ソング
あっという間に年の瀬です。Time waits for no oneと言いますが、この季節は、特に時間が速く過ぎ去るように感じます。子供のときは、大人達が「お寒うございますね。」なんて挨拶しているのが不思議で、楽しいだけの季節だったのに。”The Christmas Song”はそんな子供の心の歌。先月の「楽しいジャズ講座」では、1991年のコンコード・ジャズフェスティバルで作曲者メル・トーメが日本のファンの前で披露した素敵なヴァージョンを楽しみました。
<宗教のないクリスマス>
Mel Tormé (1925-1999) ”White Christmas”と共に、クリスマス・ソングの決定版と言える”The Christmas Song”、作曲は白人ジャズ・ヴォーカルの最高峰といえるメル・トーメ、当時作曲家としてのトーメとコンビを組み、後にTVプロデューサーとして大成功したロバート・ウエルズ。”ホワイト・クリスマス”のアービング・バーリンがそうであったように、二人ともユダヤ系アメリカ人の非クリスチャン、当然、この歌にはキリストも教会も出てこない。それが功を奏し、ナット・キング・コールの初演を皮切りに、日本を含め、世界中でヒットしました。メル・トーメ&ロバート・”ボブ”・ウエルズのコンビは200曲以上の作品がありますが、ジャズ・ファンの間で最も有名な曲に”Born to Be Blue”かな?
<それは暑さの憂さ晴らし>
”ザ・クリスマス・ソング”のトリビアとして最もよく知られているのは、この歌が真夏に作られたということです。「私の人生は、自分の声のように滑らかなではなかった・・・」という、メル・トーメの自伝『It Wasn’t ALL Velvet』は、私の知るジャズメンの生活とはあまりにもかけ離れた華やかなスターの告白という趣きですが、ここに”ザ・クリスマス・ソング”の誕生が詳しく書かれています。
しばらくするとウエルズがテニス用の短パンにTシャツ姿で、暑い、暑いと戻ってきた。
ウエルズが歌詞を紡ぎ、トーメがピアノで歌いながらメロディを付け、僅か45分で出来上がったのがこの曲。
冒頭フレーズの”Chestnuts…”のくだりは、殆どの訳詞で「暖炉で栗を焼く情景」になっているのですが、庶民の私の目に浮かんだのは、大阪、難波で売ってる天津甘栗屋。われながらお里が知れるなあ・・・と笑ったものの、 正解はウエルズが子供時代を過ごしたボストンの冬、クリスマス時分の街角に出る焼き栗の屋台のことだった・・・当たらずとも遠からず!
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Robert Wells /Mel Torme (1946) |
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| Chestnuts roasting on an open fire,
Jack Frost nipping at your nose. Yuletide carols being sung by a choir And folks dressed up like Eskimos. Everybody knows a turkey and some mistletoe Help to make the season bright. Tiny tots with their eyes all aglow Will find it hard to sleep tonight. They know that Santa’s on his way; He’s loaded lots of toys and goodies on his sleigh. And every mother’s child is gonna spy To see if reindeer really know how to fly. And so I’m offering this simple phrase To kids from one to ninety-two. Although it’s been said many times, many ways, “Merry Christmas to you.” |
火の上で焼き栗がパチパチ、 合唱隊が聖歌を歌う、 行き交う人はエスキモーみたいな格好だ。
みんな知ってる、 七面鳥とヤドリギが、この季節の彩り。 ちびっこ達の瞳が輝く、 今夜は眠れないよね。 だってサンタがやってくる! 子供たちは気合充分、 トナカイが本当に空を飛ぶのか 確かめてやるんだと。 だからここは、ごく簡単にご挨拶、 1才から92才までの、 子どもの心を持つ皆さんに。 |
<名手ナット・キング・コール、エイゴにつまづく!>
メル・トーメのマネージャー、カルロス・ガステルは、ペギー・リーやナット・キング・コールを抱える腕利きでした。出来上がった曲をガステルとナット・キング・コールに聞かせるとたちまち気に入った。翌1946年、真夏の8月にキング・コール・トリオで録音。Capitol Recordsはジャズのレコードとして企画したのですが、キング・コール側はこの出来が気に入らず、この歌にはストリングスが絶対に必要!絃を入れて最録音したいと強く主張、スッタモンダの末に、会社側が折れる形で、ヴァイオリン4本の小規模なストリングスで再レコーディングした。これがキング・コールにとって、初のw/ストリングスとなりました。これが大当たり!
キング・コールはピアニストとしてトミー・フラナガンに大きな影響を与えた名手ですが、その声は弦楽器とのブレンドで最高の魅力を発揮しますよね!たった45分で書いた曲はトーメとウエルズに莫大な印税をもたらすことに・・・。
さて、上の歌詞をご覧になって不思議に思われる方の注意力は凄い!サビの最後に出てくる「トナカイ=reindeer」は、サンタのソリを引くのだから4頭くらいは居るはずなのに単数形になっている。トナカイは英語の意味カテゴリーで「動物の群れ」であり、中学で習った「単複同形」。トナカイの個性は英語では認めてもらえないんだ・・・SheepやFish、それに我々Japaneseもこのカテゴリーに入ってるのがムカっとします(怒)。
というわけで、使い古された挨拶ではございますが、私も皆様にメリー・クリスマス!
寺井尚之トリオ、The Mainstem(宮本在浩、菅一平)のライブに、お祭り騒ぎはないけれど、心に残る季節の曲を聴かせてくれます。ぜひJazz Club OverSeasに!
第23回トリビュートCDできました。
毎年 Jazz Club OverSeasはトリビュートが終わって瞬きすると師走です。
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第23回トリビュート・コンサート曲目解説
11月16日に開催した「第23回 Tribute to Tommy Flanagan」コンサート、ご参加のお客様、たくさんの拍手、掛け声、笑顔、激励メール、差し入れ、お供え、ほんとうにたくさんの皆様にご協力をいただき、ありがとうございました。もうすぐ、コンサートの3枚組みCDが出来る予定ですので、OverSeasまでお申込みください。
私自身、今回のメインステムはかなりすごくて、長いOverSeasの片隅生活の中でも、思い出に残る演奏になりました。
寺井尚之は師匠のことですから、まあ当たり前ですが、宮本在浩(b)、菅一平(ds)の化けっぷりにぶっ飛んだ感じです。ジャズの歴史を色々調べていると、巨匠と呼ばれるミュージシャン達の芸術的な岐路というものは、何かを「得た」ときと同じくらい、何か大きなものを「失った」ときに訪れるのだということが判ります。
いずれにせよ、メインステムには、このレギュラー・トリオでしか出せないという強烈なメインステム・サウンド目指して化け続けて欲しいです。
トミー・フラナガンの名演目を演奏するトリビュート・コンサート、23回目を数え、毎回HPに曲説をUPしているのですが、回を重ねる毎に曲についての新しい事実も判明し、今回の曲説も限られたスペースですが、かなり改訂を加えました。
もしご興味があればぜひ読んでみてくださいね。
<第23回トリビュート・コンサート曲目説明>http://jazzclub-overseas.com/tribute_tommy_flanagan/tunes2013nov.html
サー・ローランド・ハナ:滅多に聞いてもらえぬ物語
1990年代初頭、NYの寒い春、当時隆盛を誇ったジャズ・クラブ、《Sweet Basil》に出演するトミー・フラナガン・トリオ(ジョージ・ムラーツ bass, ルイス・ナッシュ drums)を聴きに、ほぼ2週間毎晩通ったことがありました。
たとえNYに住んでいても、フラナガン・トリオがクラブで演奏するのを聴けるのは1年にのべ数週間だけ。このときは2週間通しの出演で、フラナガンから「うちのアパートのすぐ近所のホテルを取るから聴きに来い!」というお達しがあり、店の都合をなんとかつけてNYに飛びました。寺井尚之は夜ごと五線紙と鉛筆を持って、有機的に変化するアレンジや演奏ヴァージョンを文字通り「かぶりつき」で凝視、そういうことを何度も繰り返しながら現在に至っております。
《Sweet Basil》は当時NY観光の名所となっていて、フラナガンゆかりのジャズの巨人たちが現れる日もあれば、日本やヨーロッパ、オーストラリアなど、各国の団体客では賑わっていました。外国人のお客様は概ね静かで、1st Setだけ聴いて帰ってしまうのですが、私たち「聴きたい人」にとって厄介なのが、間違ってやってきたジャズファンではない米国人。自国の文化にリスペクトがないせいか、演奏中に大声で話すから・・・
その夜は、トミー・フラナガンのソウル・ブラザー、サー・ローランド・ハナさんが「ヒサユキちゃん」(ハナさんはいつもこう呼んでいた。)に会いに来てくれた。ハナさんが同じテーブルにつけば鬼に金棒、勇気100倍!なにせ掛け声がプロ!前のパートナー、ジョージ・ムラーツがソロで、指板の上から下まで目にも止まらぬフレーズを繰り出した瞬間に「One mo!(もう一丁!)」の声を入れる。すかさずムラーツ兄さんが、そのフレーズを繰り返す。お客さんはもう大喜び!
そんな楽しい演奏中に、水商売風のお姐さんを連れた酔っぱらいのグループ客が入ってきて、バラードの最中に大声でおしゃべりを始めた。ダイアナ・フラナガン夫人や周りの人が「シ~」と言っても聞く耳なし。店のマネージャーも知らん顔。怒り狂った獅子座の女、ダイアナが立ち上がったとき、止めたのがハナさんだった。
「ダイアナ、やめとけ。君が行ったら店に対して面倒なことになる。僕が替わりに言ってやるから・・・」
トミー・フラナガンやサー・ローランド・ハナ、デトロイトを代表するピアノの巨匠達も、世界でどれほど敬愛されてるのか判ってない同国の人々には却ってこんな仕打ちに遭うんだな・・・
ハナさんはフラナガン以上に過小評価されてきた。その理由は、NYジャズシーンで本格的に活躍を始めた時期が60年代であったことが原因であったかもしれません。
クラシック音楽一筋だったハナさんが中学校時代に、フラナガンのプレイに感化されてジャズに転向したのは有名な話ですが、ローランド少年は小学生のときからデトロイトの天才児として英才教育プログラムを受けていた。同時期、中西部地区で他に同じ英才児として選ばれて、ショパンやリストをガンガン弾いていたのがカーティス・フラーのお姉さん、メアリー・エリザベス・フラー、それにシカゴの巨匠、アーマッド・ジャマルがいます。
ところがRoland “Hack” Hannaという名前で、ジャズに転向すると、デトロイトにはハナさんに負けない若き天才がゴロゴロいた。ハナさんは、フラナガンの弟分、二番手的な存在として切磋琢磨されていきました。
フラナガンとハナさんは、ともにアート・テイタムをピアノ演奏の理想型としつつ、バップの洗礼を受けたピアニスト。美しいソフトタッチと品格はまさに同じDNAでした。ただ二人の目指すところは微妙に違っていて、フラナガンが”ブラックな音楽”を標榜した一方で、ハナさんが目指したのは、クラシックだのジャズだのというカテゴリー通念を破る音楽だった。
ハナさんにとって「ショパンもファッツ・ウォーラーも、同様に優れた即興演奏家」だし、ラフマニノフもルビンシュタインも、アート・テイタムと同一カテゴリーに属するピアノの巨匠だった。
そんなハナさんの偏見のなさが、「クラシックかぶれ」とか「代表作がなくて地味(!?)」だとか、奇妙きてれつな偏見を生んだ。哀しいね。
“A Story Often Told Seldom Heard”(何度語ろうと、滅多に聞いてもらえない物語)は、ハナさんのオリジナル曲。ハナさんが愛したモネの「睡蓮」のように、翳りと光に溢れた不思議な美しさに溢れた作品です。
この曲は、恐らく’70年代の初めに書かれたものだと思いますが、クラブ演奏で、満員のお客さんが騒々しくて自分の演奏をちっとも聴いてくれない悲哀を曲にしたものなんだそうです。それは《Five Spot》でセロニアス・モンク・グループの対バン・ピアニストとして演奏していた頃の思い出なのか? NY大に近い《Knickerbocker Bar and Grill》でステーキを食べるのに忙しいお客さんの前で演奏していたときの気持ちだったのか?
OverSeasで繰り広げられたハナさんの演奏は、イマジネーションが溢れ出るのが止まらないといったものでした。ソフトタッチで美しい雄叫びのようなフォルテッシモから胸の奥まで届く静謐なピアニッシモ、弾いてもらうピアノが「嬉しくて堪らない!」と言わんばかりに響きます。ハナさんがピアノで繰り出すストーリーに胸が張り裂けそうになって泣いてしまうお客さんも珍しくなかった。そんな音楽家が「聴いてもらえない」ときに、こんなに美しい曲が生まれたとは、皮肉だなあ!
”A Story Often Told Seldom Heard”、ハナさんに直接語ってもらうことはもうできません。
トミー・フラナガン没後1年、後を追うように逝ってしまったサー・ローランド・ハナ(1932年2月10日ー2002年11月13日没)11月に偲ぶもう一人の巨匠です。
上の動画は、ジョージ・ムラーツ(b)とメル・ルイス(ds)とのトリオ。ハナさんが録音の出来に満足して、寺井にCDを送ってくださったアルバム『Round Midnight』にも収録されていて最高!でも、これはやっぱりハナさんの「物語」として、一曲ではなく、一枚通して向かい合って欲しいです。
トミー・フラナガン:名演目のレシピは?
Something old, something new,
Something borrowed, something blue,,
And a silver sixpence in her shoe,
古いものと新しいもの、,
借りものとブルーなもの、,
そして花嫁の靴の中には銀貨を入れて。
“Something Old (自分のルーツを自覚して),
Something new (革新の心を持ちながら),,
Something Borrowed (先人や西洋音楽のアイデアを借り),
Something Blue (ブルース・フィーリングを保て)”
花嫁に向けた格言には、トミー・フラナガン流、ブラック・ミュージックの極意が隠されていたのかも知れませんね。
と、いうわけで、これからもトミー・フラナガンの名演目がマニアックなもので終わらぬように、紹介していきたいと思います。
え?私のブログがすでにマニアックって?テへへ・・・わかる奴だけわかればいいの。
何よりも、フラナガンの背中を見て盗み、フラナガンの教えを受けた寺井尚之と、彼が手塩にかけた宮本在浩(b)、菅一平(ds)とのメインステムの演奏を、トリビュート以降も愛していただけますように!どうぞよろしくお願い申し上げます。
CU
トミー・フラナガンの名演目(3): Chelsea Bridge
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『Overseas』(’57)や『トーキョー・リサイタル』(’75)の圧倒的な演奏を始め、ライブでは”エリントニア”(デューク・エリントン・メドレー)に組み込んでフラナガンは愛奏しました。ご存知のようにデューク・エリントン楽団のヒット曲ですから、元々はビッグ・バンド用、それをコンパクトなピアノ・トリオのフォーマットで演奏したピアニストは、フラナガンが史上初!エラ・フィッツジェラルドと共にフラナガンが待望の来日を果たした1975年、曲目紹介なしに始めた<チェルシーの橋>、僅か3拍で、怒涛のような歓声と拍手に京都国際会館が揺れた。文字通り、トミー・フラナガン、極めつけの名演目!
作曲は、エリントンの右腕、ビリー・ストレイホーン。フラナガンはこの天才作曲家を”生涯一書生”と呼んだ。咲き乱れる花々や美術品に囲まれながら、孤独と苦悩を抱え続けた彼の人生については、随分以前に書いています。 ”チェルシーの橋”とはNYではなくロンドンのテームズ川にかかる吊り橋、およそ浮世離れし耽美的な作品ですが、「お金」をめぐる世俗の争い事がなければ、この作品の幻想的な美しさも、ビリー・ストレイホーンという天才も広く知られることはなかったかも知れません。
<著作権をめぐる仁義なき戦い>
現在も「著作権」トラブルは絶えませんが、第二次世界大戦勃発以降、音楽業界を震撼させる争いが次々と起こり、ジャズ界は大きな影響を被ることになります。ひとつは、1942~43年のレコーディング禁止令(Recording ban)、もうひとつが、ラジオ業界とASCAP著作権組合 (The American Society of Composers, Authors and Publishers )との前代未聞の抗争でした。1940年、大恐慌から著作権収益が低迷するASCAP(米国作曲家作詞家出版者協会)は、世界大戦の影響で更に業績が悪化する中、最大の収入源であるラジオ業界に対し、翌年度の著作権料を前年度から一挙に448%値上げするというとんでもない通告をします。「てやんでい、この野郎!」ラジオ業界は猛反発。CBS、NBC二大ラジオ・ネットワークと傘下局は、1941年1月1日よりASCAPに帰属する楽曲を放送しないことを決議、逆に、BMI(Broadcast Music Inc.)なる自分たちの著作権団体を新設、安い著作料を設定し、ASCAPに倍返しを企みます。おかげで、ASCAPが門戸を閉ざしてきたリズム&ブルースの隆盛につながるなど、ポップ・ミュージックは新たな局面を迎えるのですが、困ったのはASCAP会員のデューク・エリントン。1930年のハーレム・コットン・クラブ時代より、ラジオを通じて全米で人気を誇った楽団のレパートリーが一切放送不可になるのですから絶体絶命!エリントンがいくら新曲を創ってもASCAPに登録されてしまうのですからダメ!とにかくエリントン以外の名義で楽団のレパートリーを総入れ替えすることが急務となります。ラジオ番組のテーマ・ソングも刷新せねば・・・それができなければエリントン楽団の前途はない。
そこで白羽の矢が立ったのが息子のマーサー・エリントンと、書生ビリー・ストレイホーン。二人は「放送禁止になる新年までの僅か数週間で楽団の譜面帳を作れ!」という究極のミッション・インポッシブルを課せられます。
ストレイホーンという天才の存在が親子関係に陰を落とすことに・・・
新曲を揃えるだけでなく、パート譜も全て書き上げろなんて・・・エリントンが楽団を率いて笑顔で演奏に明け暮れる間、二人はシカゴの有色人種用のホテルに缶詰で作曲編曲、24時間不眠不休で作業に従事。
ストレイホーンはこれまで陽の目を観ることのなかった自作品を一挙に楽団用に仕上げていきました。マーサー・エリントン21才、ストレイホーン25才の冬です。
「青と金のノクターン:バターシー・ブリッジ」 曲のイマジネーションの源は、19世紀の米人画家で、日本美術の影響を受けた耽美派と言われているジェームズ・マクニール・ホイッスラーの作品にあったとストレイホーンは語っています。ホイッスラーが橋を描いた作品は多いのですが、「チェルシー橋」を描いたものは見つからない。上の”青と金のノクターン-オールド・バターシー・ブリッジ”はホイッスラーの代表作、確かに曲と共通する幻想的なムードを感じます。ストレイホーンは芸術全般に造詣が深く、美術や骨董を収集し、仏像や彫刻など美しいものに囲まれて暮らし、その代金は全てエリントンのポケット・マネーから支払われた。
トミー・フラナガンの名演目(2): With Malice Towards None
OverSeas的大スタンダード、”With Malice Towards None” (ウィズ・マリス・トワーズ・ノン)。トミー・フラナガンはジョージ・ムラーツ(b)とのデュオ・アルバム『Ballads and Blues』(’75)、トリオでのバースデー・ライブ、『Sunset And The Mockingbird』(’97 )、ソロはフランク・モーガン名義の『You Must Believe In Spring 』と繰り返し録音し、ライブでも演奏し続けた愛奏曲です。
作曲者はトム・マッキントッシュでラナガンのお気に入り!この曲以外にもCup Bearers, A Balanced Scaleなど数多くマッキントッシュの作品を取り上げている。
生前、フラナガンはこの曲についていくつかのヒントをくれました。
① この曲はリンカーンの名言がタイトルで、メロディーの元は賛美歌だ。
② トム・マッキントッシュはとても信心深くて、音楽そっちのけで牧師をしていたことがある。(笑)
③ マッキントッシュの作品が好きな理由は非常に”ブラック”だからだ。
フラナガンの言葉はいつも謎、謎、謎ばかり。少し調べてみよう!
<エイブラハム・リンカーン+賛美歌=ウィズ・マリス・・・>
“ウィズ・マリス・トワーズ・ノン”・・日本人には言いにくいし、聞きづらいタイトルですが、米国ではだれでも知っているエイブラハム・リンカーンの名言、大統領第二期就任演説の結びの言葉。
「何ものにも悪意を向けず、すべてのものに慈悲の心を向けよう…」
南北戦争終結直前のスピーチ、今は敵と味方でも、終戦後は一丸となって平和な国歌を目指そう!という呼びかけです。でも、リンカーンはこの演説の3週間後に暗殺されました。
- Reflections on Jazz and the Politics of Race/Tom McIntosh
- Smithsonian Jazz Oral History Program NEA Jazz Master Interview
http://www.smithsonianjazz.org/documents/oral_histories/McIntosh_Tom_Transcript.pdf
トミー・フラナガンの名演目(1): Tin Tin Deo
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11月16日(土)はトミー・フラナガンの命日!OverSeasでは、寺井尚之(p)が宮本在浩(b)、菅一平(ds)を擁するトリオ、The Mainstemで、在りし日の名演目を演奏するトリビュート・コンサートを開催!ぜひこの機会に、Jazz Club OverSeasにお越しください。
フラナガンが亡くなって12年!現在もフラナガンの音楽に親しむ常連様から、トリビュート・コンサートに先駆けて、聴きたい演目の「総選挙」をしてはどうか?というご提案をいただきました。「総選挙」の体制が整うように、当ブログで演目のご紹介をしていきたいと思います。今日は、フラナガンがよくラスト・チューンとして愛奏した”Tin Tin Deo (ティン・ティン・デオ)”のお話を!
<アフリカ発~キューバ経由~USA着>
寺井尚之が初めてトミー・フラナガン・トリオの”Tin Tin Deo”を聴いたのは今から25年前の“ヴィレッジ・ヴァンガード”。むせ返るようなラテンの土臭さと都会的な洗練美が同居する演奏に大きな衝撃を受けました。作曲はChano Pozo, Gill Fuller, Dizzy Gillespieと3人の連名、1951年にディジー・ガレスピー楽団がデトロイトでレコーディング。フラナガンの親友、当時19才のケニー・バレル(g)が録音に参加しています。
フラナガン自身のレコーディングは1993年ですが、亡くなるまで演奏ヴァージョンはどんどん進化していきました。トリビュート・コンサートでは、その中でも最高のアレンジメントでお聴かせします。
ビバップの生みの親、ディジー・ガレスピーは、キューバ出身のコンガ奏者、チャノ・ポソとの出会いで、アフロ・キューバン・ジャズという新しいスタイルを創造しました。それまでにも、ルンバやマンボは、ダンス音楽として米国で人気がありましたが、ガレスピーとポソの音楽は、Slave Christianityと呼ばれるアフリカの土着信仰とキリスト教が融合した宗教的なルーツを持っていました。
<暴力と神:チャノ・ポソの凄絶な生涯>
ハヴァナ生まれのチャノ・ポソはアフリカから連れて来られた奴隷の子孫で、元は奴隷の居住地だっ
たスラム育ち、小学校中退で札付きの不良でした。13才で少年院に送られ、そこで打楽器と宗教に目覚めます。スペイン統治時代、キューバの奴隷たちは、強制的にキリスト教に改宗させられたために、自分たちのアフリカの神々を、ローマン・カトリックの聖人になぞらえて信仰する「サンテリア」という宗教が生まれたんです。サンテリア教で打楽器は神々と人間を結ぶ重要な役割を果たすもので、それぞれの神々に一定のドラム・パターンがあり、打楽器と歌とダンスによってトランス状態になりながら神々と交信する宗教儀式が行われました。ポソは、そのような宗教的なミュージシャンだったんです。
でも、ポソは決して清廉な宗教音楽家ではなかった。少年院からシャバに出た後は、靴磨きからボディガードまで、様々な職を転々としながら、ミュージシャンとして有名になり、作曲も行うようになりました。NYのラテン系ミュージシャンの間で、ポソの評判はとても悪かったそうです。呑む、打つ、買うの三拍子、派手に遊んだポソの音楽が、世俗的なものではなく、逆に深く宗教に根ざしているのが面白いですね。倫理的、哲学的な「宗教」というより、むしろ「まじない」と考えた方が判りやすいのかも知れませんね。
1942年、マチートがポソの作品を録音したことで、NY在住のラテン系ミュージシャンの間でポソの名前が知られ、1946年渡米、翌1947年9月、ディジー・ガレスピー楽団に参加。12月のカーネギー・ホールで行われた楽団のコンサートは大好評でアフロ・キューバン・ジャズという新しいジャンルの到来に湧き、ヨーロッパでも絶賛されました。
その僅か1年後、12月3日の午後、ポソは粗悪なマリワナを売りつけられた腹いせに、同胞キューバのヤクの売人を殴り倒し、その日の夜、バーから出たところを、その売人が倍返しと射殺。34歳の誕生日を迎える一ヶ月前のあっけない最期でした。
<ディジー・ガレスピーの吸収力>
Dizzy Gillespie playing with the Giants of Jazz, Hamburg, Germamy, 1973 (Photo credit: Wikipedia)
チャーリー・パーカーにせよ、ポソにせよ、ディジー・ガレスピーは短命な盟友達から新しい音楽のエ
ッセンスを貪欲に取り込んで、仲間のミュージシャンを指導してジャズ史を発展させて行ったというのが凄い。ポソは英語も読み書きもだめで、楽団のミュージシャンと決して良好な関係は築けなかった。ガレスピーが優れた統率力で団員をまとめ、僅か一年余りの共演期間中、できる限りポソに寄り添い、「サンテリア」の各々の神にまつわる「クラーヴェ」というリズム・パターンを吸収していきました。ポソの伝える複雑なリズムや哀愁に満ちたメロディーは、ガレスピーにとってエキゾチックなものというよりは自身のルーツへの道案内だったのかも知れません。彼の持つアフリカ土着の音楽言語をビバップの洗練された文体に取り込んだものが、この”Tin Tin Deo”であり、 “Manteca”であり、いかにも『チャント:お経』の趣がある”Cubana Be, Cubana Bop” (作曲はジョージ・ラッセル名義)です。サルサを始め、NYという水に洗われたラテン音楽の中でも、ガレスピーとポソが創ったアフロ・キューバン・ジャズは独特の香りがあります。
<トミー・フラナガンのヴァージョン>
後年、ディジー・ガレスピーはキューバのミュージシャンを米国に受け入れる支援をし、オール・スター・バンドとしてアフロ・キューバン・ジャズを披露していましたが、ポソが在籍していた頃の土臭さが時代とともに薄まって行ったように感じます。それでは、フラナガンのヴァージョンは当時のアフロ・キューバンの再現かというと決してそうではないんです。
ビッグ・バンドの演目をピアノ・トリオに置き換えて本来のダイナムズムを失わないというのは大変な作業ですが、それこそフラナガンの得意技!キューバ音楽の特徴であるコール&リスポンスを、ピアノとドラムの掛け合いに生かしてイントロにし、名ドライバーがシフトチェンジとクラッチワークで、走りを自在にコントロールする如く、ラテン・リズムと4ビート、倍ノリ、4倍ノリと、変幻自在のグルーヴ変化、そして印象的なリフ、黒人ピアニストの伝統的な10thボイシングの奥行きで、強烈なダイナミズムを描出!洗練されて、一層鮮やかな仕上がりですが、日本料理のように素材本来の持ち味はは損なわれていないんです。
そんなTin Tin Deo、フラナガンの名演目ってこんなだったのか!と思わせる演奏を11月のトリビュート・コンサートでお楽しみください!
11/16(土)開催:トミー・フラナガン・トリビュート
台風の後、10月半ばを過ぎて急に肌寒くなった大阪です。
