第27回Tommy Flanagan Tribute

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 第27回トミー・フラナガン追悼、トリビュート・コンサート、色んな土地からFlanagania同志大集合!ここ数年で一番の盛況になりました。80代から中学生までの皆さんが、フラナガンの往年の名演目を全力で演奏する寺井尚之、宮本在浩、菅一平のThe MainstemTrioを強力バックアップして下さいました。

 終演後は「トリオのバランスが良かった!」「楽しかった!気分がすっきりした!」「きれいだ~」「神業!」って嬉しいお言葉を!また、お供えや差し入れもありがとうございました。

 一方、私は、新しいエプロン持ってくるのも忘れ、ずるずるのエプロンで必死のパッチ、写真一枚撮る余裕もなく、キッチンであたふた、じっくり演奏を聴く余裕が全くなくて、The Mainstemの3人のバランスが完璧に、ふくよかに響いていることだけしかわかりませんでした。CDができたらゆっくり聴こうと思っています。

 この日は、沢山の方々のおかげで、自分たちが今ここに存在しているということを、このコンサートが一層深く実感させてくれました。

 応援してくださった皆様に感謝あるのみです。

 演目の曲説は後日HPにUPしますので、またご一読いただければと思います。

 ほんとうにありがとうございました。

=演奏曲目=

<1st Set>

1. Beats Up (Tommy Flanagan)

2. Beyond the Bluebird (Tommy Flanagan)

3. Epistrophy (Thelonious Monk)

4. Embraceable You (George Gershwin)- Quasimodo (Charlie Parker)

5. If You Could See Me Now (Tadd Dameron)

6. Rachel’s Rondo (Tommy Flanagan)

7. Dalarna (Tommy Flanagan)

8. Tin Tin Deo (Chano Pozo, Gill Fuller, Dizzy Gillespie)

<2nd Set>

1. That Tired Routine Called Love (Matt Dennis)

2. Smooth As the Wind (Tadd Dameron)

3. Thelonica- Minor Mishap (Tommy Flanagan)

4. Mean Streets (Tommy Flanagan)

5. I Cover the Waterfront (Johnny Green)

6. Eclypso (Tommy Flanagan)

7. Easy Living (Ralph Ranger)

8. Our Delight (Tadd Dameron)

 

<Encore>

1. With Malice Towards None (Tom McIntosh)

2. Ellingtonia
  Chelsea Bridge (Billy Strayhorn)
  Passion Flower (Billy Strayhorn)
  Black and Tan Fantasy (Duke Ellington)

トリビュートで聴いて欲しいこのメドレー:エンブレイサブル・ユー~カジモド

tommy_red4.jpg  トミー・フラナガンの生演奏をお聴きになった事がある方なら、忘れられないのがメドレー!

 フラナガンが織りなすメドレーは、深い意味が紡ぎこまれていて、何年も経ってから「あっ、そうだったのか!」と判るようなものが多い。<エンブレイサブル・ユー~カジモド>も、フラナガン・ミュージックの醍醐味を味わわせてくれる名演目でしたが、残念なことにレコーディングは残っていません。

 今週のトリビュート・コンサートで演奏予定、フラナガン・ミュージックの醍醐味と、幻のメドレーについて、ぜひ!

<歌のお里>

  “Embraceable You”とても有名なガーシュイン作のバラードで、お里はブロードウェイの『ガール・クレイジー』(’30)というミュージカルでした。後にジュディ・ガーランド主演で映画化され、愛らしくて華麗なパフォーマンスはYoutubeで観ることが出来ます。一方、フラナガンや寺井尚之が奏でると、しっとり耳元で甘く囁きかける大人のバラードの趣に変化します。

 
私を抱いて、抱き締めたいあなた、
愛しいひと、

あなたも私を抱き締めて、かけがえのない恋人よ、
一目見るだけで、酔い痴れる。
私に潜むジプシー女の情熱を
呼び覚ますのはあなただけ・・・

  そして”Quasimodo”は、チャーリー・パーカーがこ作品の枠組みを使って作ったいわゆるバップ・チューンです。先鋭的なメロディとアクセントは永遠のモダン・ミュージック!
 ジャズ評論家のジム・メロードも、このメドレーに感動した一人、フラナガンへの追悼文では、ガーシュインとパーカーによる二つの作品を、17世紀スペイン・バロックの巨匠ベラスケスの作品「ラス・メニーナス(女官達)」と、その構図をそっくりモダンアートに置き換えたピカソの同名作品に例えて説明しています。(下写真「ラス・メニーナス」 左がベラスケス、右がピカソ)

 (抄訳)Tommy Flanagan, a reminiscence by Jim Merod,. April  2002 より

…トミーは彼のヒーローの一人、チャーリー・パーカー作品をくまなく取り上げた。トミーが展開する即興演奏のアートそのものが、普段は寡黙なトミーの饒舌なパーカー論であった。中でも彼が愛奏したのがガーシュインの”Embraceable You”と、パーカーによる改訂版”Quasimodo”を組み合わせたメドレーだ。トミーは、一方の曲の視点から、もう一方の曲に光を当てて、メドレーの形で二つの作品を掘り下げていく。このメドレーを聴く者は、あたかもヴェラスケスの古典的名画『ラス・メニーナス』と、ピカソがそれをキュビズムによって再構築した同名のモダンアートを並べて鑑賞しているような感動を覚えた。…

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   チャーリー・パーカーが、いつ”Quasimodo”を作曲したのかは判りませんが、絵画では3世紀かかったアート革命を、バードはたった20年足らずでやってのけたことになります。この映画から数年後、’47年11月に、ダイアル・セッションと呼ばれるレコーディング群に録音されており、前の月に同レーベルに、テーマ抜きのEmbraceable You を録音している記録を見ると、その時期の作品なのかも知れません。”Quasimodo”って何なのでしょう?

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<カジモドって何?>

  ’89年にヴィレッジ・ヴァンガードでフラナガンが口にしたチンプンカンプンな言葉の意味を教えてくれたのはダイアナ・フラナガンでした。  「ヴィクトル・ユーゴーの小説に出てくる、ノートルダムのせむし男(Hunchback)の名前よ。」  

 カジモドはハリウッド映画では、キングコング以前のホラー映画に再三登場しています。ですから”抱きしめたくなるあなた”を元にチャーリー・パーカーが作った”せむし男”の曲について、上のジム・メロードを含め、洞察力があるはずの多くの評論家が、バードの”ブラック・ユーモア(Sly Joke)”であると、異口同音に解説していますが、ほんとうに単なるシャレなのだろうか?トミー・フラナガンの演奏を聴くとどうしてもそんな風には聴こえない…pepper_adams.gif   トミー・フラナガンの親友、ペッパー・アダムスの証言
 (ジャズ月刊誌Cadence’86 11月号より) チャーリー・パーカーはとにかくものすごい読書家だった。ボキャブラリーが豊富で、深みのあるいい声で整然と話す人だった。物事に精通しており、洞察力があり、いとも簡単に物事の本質を捉えることができた。

 パーカーのバップ魂を受け継ぐバリトンサックス奏者、ペッパー・アダムスはチャーリー・パーカーが、並外れた読書家であったことを証言しています。文芸全般に精通していたチャーリー・パーカーはホラー映画だけじゃなく、ユーゴーの原作「ノートルダム・ド・パリ」をきっと読んでいたはずです。

 だから、19世紀に書かれたヴィクトル・ユーゴーのロマン派小説、「Notre Dame de Paris」のストーリーを駆け足で見てみよう。

<本当のカジモドの物語>

tear4water.jpg     昔々、フランス郊外のノートルダム寺院の前に赤ん坊が捨てられていた。その子供は、寺院の司祭に拾われて、カジモドと名付けられ、寺の鐘つき男として働いている。背中は曲がり顔は片目がつぶれた醜い姿、毎日、鐘楼で大きな鐘を撞くため鼓膜は破れ、耳も聞こえず、言葉もまともに話せない。街の人々は、カジモドを「せむし男」と呼び嘲った。

  ある日、街でリンチされ、さらし者にされたカジモドに同情し、水を飲ませてくれた美しい娘が居た。異教徒として差別されるジプシーの踊り子、エスメラルダだった。カジモドはたちまち彼女に叶わぬ恋をしてしまう。類まれな美貌のエスメラルダは、家柄の良いエリート騎兵隊長に恋をして逢瀬を重ねている。だが、その男にとって、エスメラルダは所詮遊び相手に過ぎない。男は、出世に役立つ良家の娘と婚約してしまうのに、エスメラルダは、その男の不誠実に気づかない。もちろん、どれほどカジモドがエスメラルダに純粋な愛情を捧げても、憐れに思いこそすれ、余りにも醜いカジモドの愛を受け容れるはずもなかった。やがて、カジモドの恩人である司祭までもがエスメラルダの美しさの虜となる。聖職者でありながら、淫らな欲望を遂げようとして、エスメラルダに固く拒まれる。逆恨みした司祭は、エスメラルダに殺人の罪をきせ、彼女を死刑に追いやってしまう。怒り狂ったカジモドは鬼となり、親と慕った司祭を、ノートルダム寺院にそびえ立つ鐘楼の上から突き落として復讐するのです。

esmeralda.jpg  うわべだけの魅力に屈し、愛のない男に弄ばれるエスメラルダ、怪物であるためにいくら真の愛を捧げても成就しないカジモド、聖職者でありながら欲望に溺れる司祭、現世の欲望や社会の偏見によって3つの恋が絡み合った悲劇のお話です。

marriage.jpg  でも、物語はこれで終わりではありません。罪人の死体置き場に眠るエスメラルダの亡骸に寄り添いながら、カジモドは死んでしまいます。 死体置き場に捨てられた二人の肉体が、野ざらしにされ朽ち果てるにつれ、エスメラルダとカジモドの遺骨は固く絡み合い一つになり、分かつことができなくなっていた、というところで、物語は結ばれているのです。

 この物語は、単なるホラーではなく、精神の美しさと、人はみな神の前で平等であることを教える物語だったんですね!

<パーカーとフラナガンの真意は?>

  “Quasimodo”はラテン語で、”単に・・・のような・・・”という意味であるそうです。ヴィクトル・ユーゴーは、物語の中で一番美しい心を持つ「怪物」が、この社会では「人間」ではなく、”人間のようなもの“でしかなかったことを暗示していたのだと文学解説には書いてありました。

  アーサー・テイラー(ds)は、パーカーがラテン語に精通していたと話してくれたことがあります。人間扱いされない“人間のようなもの”とは、チャーリー・パーカーの生きた時代のアメリカ社会では何だったでしょう?
  そうなんです!カジモドとは黒人のメタファーであり、パーカーは自分自身をカジモドになぞらえたの違いありません。ダイアル・セッション時代は、チャーリー・パーカーが麻薬で身も心も滅ぼす寸前であったことを思うと、禁断症状に苦しむ自画像であったとも思えてなりません。

 物語を読んで、もう一度、上の<Embraceable You>の歌詞を見てみましょうか。

・・ジプシー女の情熱を
呼び覚ますのはあなただけ・・・

 ほらね!

 トミー・フラナガンのメドレーでは、<Embraceable You>はエスメラルダで、パーカーの創った<カジモド>は、エスメラルダと

魂で結ばれた片割れなんだ!

 音楽的真意をしっかり掴みとったトミー・フラナガンは、元曲と対にしたメドレー形式という、通常ではあり得ない構成によって、皆にこのことを伝えてくれていたんですね!

  フラナガンのこのメドレーは残念ながら、ヤマハの自動ピアノの音源としてソロでしか残っておらず、あれほど素晴らしかったヴァージョンや曲のアクセントを受け継ぐのは寺井尚之しかいません。

 カジモドをまだジョークだと思っている人は、ぜひ寺井尚之とメインステムの演奏を聴いてみて欲しい。この世では結ばれなかった二人の魂のラブ・ストーリーが聴こえてくるはずです。



CU

11/16:トミー・フラナガン忌に

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Tommy Flanagan (1930, 3/16- 2001, 11/16)
写真:Jan Persson Jazz Collectionより

   今日はトミー・フラナガンの命日。フラナガンが亡くなってから丸14年になります。

それは、アメリカ同時多発テロ事件の二ヶ月後でした。911が起こった朝はセントラル・パークを散歩するほど元気だったのに…「インターネットで訃報を見たのだけど」と、ジャズ評論家の後藤誠氏から知らせがあり、確認しようにも、OverSeasのピンク電話(!)では、国際電話ができないので、小銭を沢山握って、公衆電話ボックスを探し回ったのが昨日のようです。

 もちろんフラナガン家には誰も居なかったし、ハナさんの家も留守でした。やっとジミー・ヒースさんの奥さんと連絡が付いて、ニュースが本当だと知りました。しばらくすると、新聞社やジャズ雑誌から訃報の確認の電話が相次いでかかってきて、だんだんと亡くなったことが実感となっていきました。

 しばらくすると、ハナさんから寺井に連絡があり、「無理して葬儀に来なくていい。ほんとうに寂しくなるのは、数ヶ月後なのだからね、その頃にNYに来てダイアナを慰めてあげなさい。」と言ってくださった。まさか、一年後にハナさんも亡くなるとは夢にも思っていませんでした。

tfdoorP1090922.JPG  4日後にセント・ピータース教会で行われた告別式には、フラナガンゆかりの多くのミュージシャンが集まって追悼演奏をしました。後輩として、演奏を披露したマルグリュー・ミラーやジェームス・ウィリアムズも亡き人になってしまいました。( OverSeasの玄関を入ったところにある左の写真は、告別式に飾っていたものです。

 ジャズ雑誌から、告別式の写真を頼まれて、NY在住のYas竹田(b)に頼んだら「トミー・フラナガンの葬式でカメラをパチパチするような失礼なことはできません。」と言われ、大いに恥じ入ったのも覚えています。

 

 今日は、フラナガンの好きだった白い花を一輪飾りました。師匠を思う気持ちは何年経っても不変、寺井尚之はトリビュート・コンサートの練習に余念がありません。

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トリビュートの前に:デトロイト・ピアノの系譜

detroit_pianists.jpg左からサー・ローランド・ハナ、トミー・フラナガン、バリー・ハリス

  トミー・フラナガンを生んだデトロイトは、ご存知のように自動車産業と命運を共にしてきました。20世紀までは函館市と同じ人口(28万人)の中都市に、南部の農場で働いていた多くのアフリカ系アメリカ人が、新天地を求め、大移動し、フラナガンが生まれた1930年代には150万人都市に。自動車産業の栄枯盛衰と、ジャズの流行は同じ歩調で、”ブルーバード・イン”が隆盛を極めた’50年代中期には、全米第5位の大都市に成長していました。

 都市の急速な発展は、激しい人種間の軋轢を生む一方、この都市は、早くから公立学校の人種混合制度を採用し、才能ある黒人師弟に手厚い音楽教育を施した。フラナガンが街のトップ・ピアニストとして名を馳せた頃には、”ワールド・ステージ”という会員数5千人を誇るジャズ・ソサエティが存在し、地元の若手と、全米に知名度を持つミュージシャンを組み合わせるコンサートを定期的に開催していた。当時まだ前例のなかったジャズ・ソサエティ活動の先頭に立っていた学生がケニー・バレルです。

 デトロイトには黒人コミュニティが積極的にジャズを応援するムードがありました。高級ナイトクラブから、大人だけが朝まで楽しむアフターアワーズの店、「ブラック&タン」と呼ばれる人種混合クラブ、バンドも客も未成年オンリーの定例ダンスパーティまで、パラダイス・ヴァレーから郊外まで、デトロイトにはジャズが溢れ、どの家庭にもピアノがあった。ミュージシャンを目指す子供は、放課後になると、自宅に仲間を集めて盛んにジャムセッションを開催し、子どもたちは、その家の家族と一緒に夕食を御馳走になる。当時のデトロイトの黒人社会はそんな状況であったのだそうです。

<デトロイトの水は甘いか?>

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 日本では、トミー・フラナガン、サー・ローランド・ハナ、バリー・ハリスの3人を、「デトロイト三羽ガラス」 とひとくくりにし、米国では、この3人にハンク・ジョーンズを加えて「デトロイト派(Detroit piano school)」としています。デトロイト派と言っても、それぞれに独自のスタイルとアプローチがありますし、実のところ、ハンクさんは、デトロイト近郊のポンティアック出身、他の3人より10才以上年上で、三羽ガラスが青年になる頃にはとっくに故郷を離れていた。ですから、必ずしも「デトロイトが育てた巨匠」ではないのですが、やはり、似た味わいを感じます。

 その味わいは、寺井尚之の言葉を借りれば「懐石料理」。スイングからバップへと発展したブラック・ミュージックの潮流をしっかり身につけた者だけが備える品格と洗練、美しいピアノ・タッチと完璧なペダル使い、流麗なテクニック、さりげない転調やハーモニーのセンスなどなど・・・

 ピアノを弾けない素人の私にも、一番わかり易いデトロイト派の特徴は、どれほどオーケストラ的なサウンドを鍵盤から発散している時でも、小柄なハナさんが必要に迫られて椅子の上を牛若丸みたいに飛ぶ、という事以外には、大仰なジェスチャーがないことかな?

 或るとき、「何故デトロイトのピアニストは洗練されているのか?」 と質問され、フラナガンは独特のユーモアで答えた。

「その原因はデトロイトの水だ。」

the-band-don-redman-built.jpg  フラナガン達が生まれた1930年前後、すでにデトロイトには実力のあるミュージシャンがひしめき合っていました。その中には例えば”マッキニー・コットン・ピッカーズ”のようにNYに進出し、ハーレム・ルネサンスの一員となったミュージシャンも居る一方で、録音が現存しないため、忘れられた天才達も居ます。ベニー・グッドマン楽団で世界的な名声を得たテディ・ウイルソンも、フラナガンが赤ん坊の頃はデトロイトで活動していました。

 アート・テイタムやバド・パウエルと言ったジャズ史に残る人々と並んで、地元の先輩ミュージシャンがデトロイト的なアプローチの源流となったことは、想像に難くありません。

<テクニックとテイスト>

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1961-weaver-of-dreams-kenny-burrell-columbia-lp-cs-85033.jpg トミー・フラナガンと親友のケニー・バレルは十代の頃、バレルがヴォーカルとギターを担当、ベーシストを加え、ナット・キング・コール・スタイルのトリオを組んでいたというのは有名です。バレル名義の『Weaver of Dreams』には、その当時の演奏が偲ばれます。フラナガン少年にとって、憧れのテイタムは、余りにスケールが大きすぎて近寄りがたい。でも、キング・コールの洒脱なピアノ・スタイルは、ハンク・ジョーンズやテディ・ウイルソンと同様、「より現実的な目標」だった、というのですから恐ろしい!

 ただし、その発想はフラナガンにとって極めて自然なものだった。テイタム―キング・コールと若いフラナガンを結ぶ線上には、もう一人、フラナガン達デトロイト派の源流なる巨匠の存在がありました。彼の名は”ウィリーA”ことウィリー・アンダーソンと言います。

 トミー・フラナガンはウィリー・アンダーソンに受けた影響を、様々なインタビューの場で繰り返し語っています。

 「・・・デトロイトの街にも、手本となるアーティストが沢山いた。その好例がウィリー・アンダーソンという人だ。独学の音楽家で、非の打ち所のないテクニックと趣味の良さがあった。彼のスタイルはテイタムとナット・コールの系統で、ピアノ+ギター+ベースでナット・コール・スタイルのトリオを率いていた。ケニー・バレルの兄さんが、そのグループのギタリストだった。なかなか良いギタリストだったよ。ビリー・バレルという名前だ。(訳注:ビリーはフォードに勤務する傍ら音楽活動をし、プロに転向することはなかった。)

 ・・・それは’40年代の始めで、私達が12か13才の頃、ちょどケニーと知り合った頃だ。アンダーソンのトリオを聴き、練習しているのを見て、色々勉強した。私達はナット・コールのレコードを全部持っていたし、それらと、彼らのスタイルはとても近かった。実際、ウィリー・アンダーソンはナット・コールのほぼ全レパートリーをカヴァーしていた。とはいえ、単なるモノマネではなく、しっかり自分の個性を持っていた。テイタムやナット・コールから、技術的なアイデアを吸収した上で、自分自身のかたちを作っていた。ほんとうに素晴らしい音楽家だった!」(WKCRラジオ・インタビュー ’94)

<伝説のピアニスト、ウィリー・アンダーソン>

young_burrell_willie_anderson_papa_jo.jpgケニー・バレル(g)、ウィリー・アンダーソン(p)、ジョー・ジョーンズ(ds)(’46) photo courtesy of “Before Motown”

  アンダーソンは、終生デトロイトで活動したピアニストだ。年齢的には、ハンク・ジョーンズとフラナガンのちょうど中間の1924年生まれで、中退したデトロイト市立ミラー高校の同級にラッキー・トンプソン、ミルト・ジャクソンがいる。この時代までの多くの天才と同じように、ピアノだけでなく、ベース、トランペット・・・とにかくどんな楽器でも一旦手にすれば、上手に(!)弾きこなすことが出来た。癌を患い47才で早逝しており、音質の粗悪なプライベート録音しか残っていない、私達には幻のピアニストです。

 そのスタイルは「アート・テイタムの饒舌さと、ナット・キング・コールの洒脱さ、エロール・ガーナーのスイング感を併せ持つ」と、当時の演奏を知るミュージシャンは口々に語る。フラナガンの証言通り、’40年代初めからキング・コール・スタイルのバンドを組み、途中からヴァイブのミルト・ジャクソンが参加して”The Four Sharps(ザ・フォー・シャープス)”というバンド名で人気を博しました。

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The Four Sharps (撮影年’44or ’45) from Detroit Music History
ミルト・ジャクソン(vib),アンダーソン(p)、ミラード・グローヴァー(b)、エミット・スレイ(g)

 当然、NYからやってくる一流ミュージシャンやプロデューサーはアンダーソンをスカウトしようと躍起になった。ベニー・グッドマンは二度も自分の楽団に勧誘し、彼のプロデューサー、ジョン・ハモンドは、’45年、エスカイヤ誌の”All American Jazz Band”のピアノ部門に彼をノミネートした。
 デトロイト派と呼ばれる4人のピアニスト全員を代り代りにレギュラーとして擁したコールマン・ホーキンスも、(当然ながら)彼のプレイをとても気に入って、NYに一緒に来るよう誘った。そして、ディジー・ガレスピーは単身デトロイトにやってきて、リハなしで”フォー・シャープス“と共演している。どんなに速く複雑なバップ・チューンでもピリっとも狂わずコンピングする彼らに、ディジーはめまいを覚えるほどぶっ飛んだ。このリーダーを、なんとかNYに連れて帰りたい!でもやっぱりアンダーソンは首を縦に振らなかった。結局ガレスピーは、ヴァイブでもピアノでも仕事ができるミルト・ジャクソンを連れて行ったので、フォー・シャープス“は解散、後に、ケニー・バレルがこのバンド名を継承している

willie_emitt.jpg アンダーソンはたびたびレコーディングのオファーを受けたのですが、制作会社が弱小で、録音セッション自体がボツになったり、リリースまでに会社が倒産したり、満足な音源がありません。もしも彼が、グッドマン達についてメジャーになっていれば、今頃ジャズ史は変わっていたかも・・・

 フラナガンはアンダーソンが地元に留まった理由を、「譜面が読めないコンプレックスのため」と推測している。そして、「白人音楽の呪縛から解放されているわけだから、譜面が読めないのは決して恥ずかしいことではないのに。」と深遠なことを言っています。

 ケニー・バレルを始め多くのデトロイト・ミュージシャンはアンダーソンの性格について異口同音にこう語る。「非常に無口で内向的だが、内に激しい情熱を秘めていて、そのプレイは饒舌そのもの。仲間に対しては、心の広い優しい人だった。」

 トミーと似てる!!フラナガンは、ウィリー・アンダーソンを最も身近な手本として、テクニックと感情をコントロールする術を身に付けたのかもしれません。

 第27回 トミー・フラナガン・トリビュート・コンサートは11月28日(土)、皆様のご来場をお待ちしています!

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参考資料: Jazz Lives (Michel Ullman著) New Republic Books刊

Before Motown :A History of Jazz in Detroit, 1920-60
(Lars Bjorn. Jim Gallert共著)
University of Michigan Press刊

Detroit Music History

トリビュート・コンサートの前に:トミー・フラナガンの幼年時代

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<氏より育ち:Breeding Counts More…>

 

  ジャンルに関係なく、どんな音楽や芸能でも、そのパフォーマンスから、「品格」とか「エレガンス」という、浮世離れしたものが、さり気なく漂っているのを感じると、水戸黄門様に出会った町民みたいに、ひれ伏したくなることがあります。

  私が生で見た事のあるジャズのプレイヤーなら、目まぐるしく変動するジャズの潮流の中、”ザ・キング”として、半世紀以上、全ジャズ・ミュージシャンに尊敬されたベニー・カーター(as,tp.comp.arr.その他何でも)や、ジャズ・ヴァイオリンの最高峰、ステファン・グラッペリ、ピアノならジョージ・シアリング、勿論トミー・フラナガンもその一人!これらの高貴な巨匠達は、銀のスプーンをくわえてお生まれになったのかというと、そういうわけでもないみたい。

george_shearing.jpg  例えばシアリングは、英国の労働者階級の出身、父は石炭の運搬人で、自ら貧乏人の子沢山と言い、望まれない9人兄弟の末っ子として生まれた。生まれながら目は不自由で、子供の頃は、毎月借金取りが集金に来ると、帰っていただく役目をしていたと自ら語っている。盲学校に行くまでは、日曜になると、父さんと公園でクリケットの試合を観戦(!)したり、労働党の演説を一緒に聴きに行ったり、母さんは、末っ子の目の不自由さを忘れさせようと、精一杯、家庭を明るくすることに専心した、と楽しそうに語っている。並み居る巨匠ピアニストと共演するクラシックの指揮者達も鳥肌を立てるほどの、天上の調べのようなソフトタッチの演奏は、子供時代に両親から注がれた愛情によって輝いていたのだろうか・・・

  一方、フランスの至宝、グラッペリは幼い時に母親を亡くし、父は第一次大戦に出兵、残されたステファーヌは孤児院で育った。高貴な音楽性に、家族の豊かな愛情はエレガンスの必須要素でもないみたい。
 

では、我らのトミー・フラナガンの幼年時代はどうだったのだろう?

young_tommy_flanagan.jpgTommy Flanagan(21才,  ’51)、巡業中Ohio州Toledoにて

 

 フラナガンに、時々、子供の頃の話をしてもらったことはあるけれど、その頃は、目の前のフラナガンに夢中で、もっと詳しく聞こうと思いもしませんでした。
  未亡人 ダイアナはトミーが40代の時に結婚したから、NY以前の生活は共有していない。
  フラナガンの生い立ちは、雑誌や書物で、断片的知ることは出来るけれど、インタビューが余り好きでないせいか、なかなか、詳しく語られているものがないのです。 

newyorker-2.JPG  その中で、かなり詳しく両親や子供時代のことが述べられている資料が、“The New Yorker”のアーカイブにあります。ジャズ・コラムを担当していた名ライター、ホイットニー・バリエットがエラ・フィッツジェラルドの許から独立したフラナガンにインタビューした記事(’75 11/20)。インテリ文芸雑誌の代名詞、リベラルにした感じ。カリスマ編集長、ウイリアム・ショーンが采配を振るった時代の古き良き”The New Yorker”の記事、さすがにしっかりした内容です。

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 「私が生まれたのは、デトロイト北東部にあるコナント・ガーデンズという地域で、男五人、女一人の六人兄弟の末っ子として生まれた。兄弟は今もデトロイトに住んでいて、生家には、今も何人か兄弟が住んでいる。 

  (訳注:コナント・ガーデンズ(Conant Gardens)は、1910年代、奴隷解放主義の篤志家が、アフリカ系の人達に提供した住宅地。第一次大戦後に、フラナガンの両親を含め多くの黒人が、南部から好況に沸くトロイトに移住、この街に移り住んだ。フラナガンの両親達が、ここに初めて教会を建立した。)

 88歳で亡くなった父は、ジョージア州、マリエッタ出身(綿畑の多い地域です。)で、第一次大戦後にデトロイトに移り住み、35年間、郵便配達夫として働いた。父はまっすぐな気性でユーモアに富む人だった。良い人間になるために何をすべきかを、身をもって子どもたちに示した。父と私は瓜二つなんだ。父も禿げで、私も若いうちから毛髪がなかったから、かなり長いあいだ、そっくりだったと言える。母は私がNYに移ってしばらくした頃、1959年に亡くなった。父と同じジョージア州出身だが、母の出はレンズと言う町だった。

  母はアメリカ先住民の風貌を持ち(訳注:トミーの祖父はインディアンだ。)、小柄で身長158センチそこそこだった。生活が苦しくなると、通信販売会社の内職でドレスを縫い、会社が送ってくるサンプル用のはぎれでパッチワーク・キルトを作って生計を助けた。

   私にピアノを続けるよう励ましてくれたのは母親だ。母は独学でピアノを弾いていて、兄のジェイ(Johnson Flanagan)がピアノを弾く姿を、幼い私が真似するのを見て、弾き方を教えてくれた。後に私も、ピアノ教師、グラディス・ディラードについて正式なレッスンを受けた。彼女は現在もデトロイトで教えている。ディラード先生は、私にピアノの正しいタッチや運指、指先の使い方をしっかり教えてくれた。」

  (訳注:Gradys Wade Dillardは、デトロイトで音楽を志す多くの黒人子弟が師事したピアノの名教師、後に音楽学校を開設、地域の職能教育に大きく貢献した。バリー・ハリスもディラード・スクール出身。トミーの兄、ジョンソン・フラナガンは後にディラードのピアノ教室で教えるようになり、カーク・ライトシー(p)は彼の教え子だ。ディラードが最も誇りにした生徒がトミー・フラナガン、彼が7才の時、レッスン中にアドリブを弾こうとするトミーに手を焼いて、「ちゃんと譜面通りに練習させてください。」と両親に釘を刺したという伝説があります。)

Art_Tatum-49.jpg    母はいつもピアノに興味を持っていた。子供の頃に、アート・テイタムのレコードをかけたら、一緒に聴いて、『まあ!これはアート・テイタムじゃないの?』って言ってくれて、私はいっぺんに得意になったもんだ。

  アート・テイタム以外に、ファッツ・ウォーラーやテディ・ウイルソンを聴いた。しかしハンク・ジョーンズは格別だった。テディ・ウイルソンをさらにモダンにした感じで、私には大きな意味があった。バド・パウエルも同様だ。バド・パウエルはクーティ・ウィリアムス楽団時代にデトロイトで聴いた。その頃からすでに彼は”バド・パウエルだったよ!つまり、『何だこれは!?今まで聴いたことがない!』という感じのピアノだったんだ。それからナット・キング・コール!深いニュアンス、パワー、スイング感、物凄い魅力を感じた。パルスとドライブ感たっぷりの独特の音色があったからだ。彼はピアノの音に命を与えてバウンスさせていた。

  私をジャズ界に入り、経済的にひとり立ちできるようになったのは、兄のおかげだ。初めてのクラブ・ギグは高校時代だった。セットの合間に他の人達と付き合うには、余りに子供だったので、休憩中は家に帰って宿題をしていた。…」

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   フラナガンの言葉の端々から、両親やお兄さんに対する尊敬と感謝の気持ちが伝わってきます。お父さんもお母さんも、決してお金持ちではなかったろうし、立派な学歴ではなかったかも知れないけれど、家族をしっかりと守り、きちんと人生を送った。  フラナガンの兄、ジェイことジョンソン・フラナガンはプロのピアニストとして地元で活躍した。ジェイのお孫さん、スコットはアトランタ生まれ、’80年代に広島で英語教師をしていて、私達を訪ねてきてくれたことがあります。やっぱりトミーと良く似ていました。他の兄弟達は、なんでも教育委員会とか、固い仕事についておられたそうです。  フラナガンのユーモアのセンスは最高だったけど、「業界人」っぽい軽薄なところは全然なかった。

 ただ、広く言われているように「温厚な紳士」とか「控えめな性格」といった印象はありません。確かに「紳士」ではあったけど、家の中では、瞬間湯沸器みたいな気性の激しさと、凄まじいほどの天才のオーラをムンムン漂わせていました。彼のプレイそのままに・・・

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 寺井尚之メインステムによる、トミー・フラナガン・トリビュートは11月28日(土)。どうぞお越しください。

アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(5) 母ともゑのカレッジ・ライフ

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アメリカの
国歌うたいて
育つ子に
従い行かん
母我の道

 上の一首はアキラさんの生まれる前の年、夫の任地であった日米開戦の地、オアフ島、ホノルルで詠まれた。戦時中、日本人であるが故に被った様々な苦難を乗り越えたともゑの決意が31文字に凝縮されている。深みのある彼女の短歌には、独特の清涼感が漂っていて、アキラ・タナのドラミングと相通ずるものを感じます。この短歌に感銘を受けた大歌人、斎藤茂吉は 「下の句で、アメリカの国歌を歌う子供達の幸福を願う母の心情が明瞭に浮かび上がる感動的な一首。」と評した。

<よく学び、よく教え>

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 最愛の夫、田名大正を看取り、息子たちを立派に社会に送り出した時、ともゑはすでに還暦を過ぎていた。高校時代のアキラ・タナを鮮烈に捉えたドキュメンタリー映画『マイノリティ・ユース』で、「母は英語を勉強したいと思ってるけど、なかなか余裕がない。」という独白から十年、やっと勉強のチャンスがやって来たのだ。

 
  異国の生活と太平洋戦争、夫と離れ離れで収容所に4年間、その後は家族を支え、早朝から夜中まで27年間働き続けた人ならば、「余裕」ができると同時に、エネルギーが尽き果てて、波乱万丈の人生をフィードバックさせながら余生を送るのが普通ですが、ともゑは違った。真っ直ぐな瞳は曇ることなく、妻として、母として、一人の人間として、思い出を将来の遺産にしようと、まっしぐらに進みます。何十年という苦労の蓄積をエネルギーに変えてしまう力は、一体どこから受け継いだのだろう?それとも、その歳月を苦労とも思っていなかったのだろうか?

 念願の英語習得のため、近郊の州立”フットヒル・カレッジ”に入学したのが61才。 社会人大学生なんてゴロゴロ居る米国でも、毎日バスで通学し熱心に学ぶ熟年学生であり天皇に選ばれた歌人を、コスモポリタンな気風溢れる西海岸は放っておかなかった。しばらくすると、所属大学や傍系の文化センターに請われ、習字や琴といった日本の伝統文化の教師として大活躍するともゑの姿が評判になります。

tomoe_tana_teach_stanford.jpg 左の写真はスタンフォードの”イーストハウス“というアジア文化センターで教えるともゑを報じた新聞記事。「Tomoe Tana: 学生の身でありながら、教える事多く」の見出しの元 これまでの波乱万丈の人生と、歌人としての功績とともに、「ウィークデーはフルタイムで受講と教授を続け、授業に欠席したのはたった一度だけ。毎(土)には、自宅で育てる花を山程抱えて、夫と同胞の墓参りを欠かさない。学生たちは、習字や琴、そして彼女の人生から、多くを学んでいる。  と紹介されています。一流教師であると同時に、幅広い教養と、彼女の人柄が、多くの人々を魅了したようで、これ以外にも、ともゑは地元の新聞にたびたび掲載されている。これらの学業と並行して、短歌活動と、亡夫、田名大正の「敵国人抑留所日記」の丁寧な編纂作業と自費出版を10年間続けているわけですから、彼女のパワーの凄さは、想像もつきません!

 <学問の理由>

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 ともゑは学業も、自己満足の教養では終わらせなかった。じっくり急がず、6年かけてフットヒル・カレッジを卒業、1979年には、正真正銘の名門校、サンノゼ州立大学に入学し、’82年に学士号を取得した。その頃には、ともゑの英語力は、多くの人々を前に感動的なスピーチが出来るほどになっていました。

 彼女は、LAの国際的スピーチ団体で、日系一世、69才の学士として、「父の日の輝く贈り物」という講演を行っている。

 いったい何故、この年になって学士号を取ったのか?このスピーチで、ともゑは3つの理由を挙げた。

 1. アメリカ市民である子どもたちに付き従うため。
 2. アメリカで幸福な人生を送るために、他の人々と同じ立ち位置に付きたかった。

 3. 最大の理由は19才のときに亡くなった父(享年52才)の遺志に報いるため。
  「私の父は、幼い頃病弱で、小学校5年生までしか学校に通えませんでした。中学に復学できた時、弟と同じクラスで授業を受けるのが苦痛で、学校に行かず、寺に入り学問を受けたのです。出家後は、開拓時代の北海道に赴き人々に尽くし、名僧と呼ばれるほどになりました。父には、国作りには、何よりもまず若者の教育が必要!という信念がありました。私は9人兄妹ですが、父は、さらに10人以上の恵まれない子どもたちを引き取り養育し、実技や高等教育を受けさせました。子どもたちの中には、日本やドイツで大学教授と成った者、医師となった者も居ます。それでも、父は高等教育を受けられなかったことを終生悔いていました。
 このたび私が頂いた学位は、亡父への『父の日の贈り物』です。」

  ともゑは、別のインタビューで英語習得の目標について、さらに語っている。

  「亡夫は、日記と法話の本を三冊遺しました。私は夫の哲学を子や孫に伝えたい!日系の若い世代は、どんどん日本語を話さなくなっています。私がこれらの本を英訳しなければ、夫の遺産は失われてしまいますから・・・」

 

<アメリカ発:日系短歌史>

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  卒業後、さらに上を目指し、迷わずサンノゼ大学院史学部に進んだともゑは、米国の短歌発展史という前人未到のテーマに取り組んだ。2年後、「The History of Japanese Tanka Poetry in America (アメリカに於ける日系短歌史) 」と題する論文(’85)で、修士号を授与されます。

tomoe_autograph.JPG 借り物ではない筆者自身の英語で書かれたこの論文はネット上でも読むことができます。私は幸運にもアキラさんから紺色の革で丁寧に装丁された元本をお借りしました。(左は本の内側に書かれていたサインです。) 私も時たま文学系の学術論文を読ませてもらう機会があるのですが、ともゑの著作は「修士論文」のレベルを遥かに超越しています。

 「短歌」に馴染のない読者が明瞭に理解できるように、日本書記に遡る短歌の起源や、米国でより知名度の高い「俳句」と比較し、「短歌」という詩形式を定義付けた上で、米国、南米、カナダを網羅した短歌史を明瞭に述べている。

 この論文を読んで、ジャズや短歌、スポーツ、何事でも、それがどんなものか知るには、その分野の名手で愛情と知識のある人に訊くのが一番だという事を改めて実感しました。日頃、三十一文字に全く無縁で無学な私も、この論文を読んで、「短歌」をもっと知りたくなりました。

 本論中、とても興味を惹かれたのは、米国に於ける短歌運動のパイオニアが泊良彦(とまり よしひこ)という植木屋さんだったというところ。泊は50年間、庭師として労働する傍ら、戦前から短歌会を主宰して、この詩芸術を大いに広めた。彼の非凡なところは、自分の派閥にこだわらず、他の短歌サークルからも広く秀作を集めて歌集を編纂したこと。収容所時代、自らガリ版で短歌を印刷、他の収容所にも回覧し、短歌運動を展開、先の見えない苦難の日々の中で、短歌は多くの日系人、日本人の心の拠り所となっていったというのです。そして、この時代が分岐点となり、日系人短歌の芸術性が飛躍的に向上したことを、ともゑは、様々な実例を挙げて論証していきます。「受難の時代が、芸術の開花を促す」というのはジャズの歴史と共通していて、ともゑの論文にすごく共感しました。

 論文には、ルシール・ニクソンなど、非日系アメリカ人の短歌運動史や、研究者でなくても、興味をそそるアペンディクスもたっぷり!活動範囲が広すぎて、今だ実態が掴めない伝説の文芸評論家、木村穀が企画した日系人短歌集、日米の新聞雑誌に掲載されたものの、本としては未出版の「在米同房百人一首」を、一挙日本語と英訳を合わせて付録にしている。そこには、短歌翻訳に関する留意事項もあり、翻訳者としても見逃せないコンテンツ満載の論文でした。

 ともゑはこの論文を亡き親友、ルシール・ニクソンに捧げ、結論で「短歌を詠む」という行為について、ジャズの即興演奏に通ずる見解を述べている。

 「短歌創作は決して特別な作業ではない。短歌はその人の人生であり、感じたこと、思うこと、それらが短歌として日常的に湧き上がるものである。(デューク・エリントンだ!)・・・短歌創作は、人間の隠れた一面であり、日々の仕事と離れた余暇の世界、短歌にはそれぞれの平安と喜びが表現されている。
 私は短歌が、それぞれの人の、様々な心の模様を表現するかたちであることを、このアメリカの、内に秘めた詩心が花開かずにいる未知なる人たちに知らせたい。この研究が、全人種の未知なる詩人たちにとって、真の美しい人生を送る一助になることを、そして日系人短歌活動が、アメリカの未知なる詩人たちに受容されることを祈る。」

 前人の研究や参考文献はほぼ皆無、ゼロから論拠と考察を行って自説を構築した短歌論、一体、ともゑはどれほどの努力と時間を費やしたのだろう?出来上がったアメリカの日系短歌史は、あくまで清明な筆致で、気負いや自己陶酔の痕跡は一切見つからない。でも、クリスタルで論理的な考察の行間には、短歌に貢献した亡き同胞や親友への愛が溢れていた。私は学術論文を読んで初めて泣きました。 

 この素晴らしい論文から6年後、1991年4月、ともゑは77才で、最愛の夫の元へ旅立ちました。

 ともゑの死後、遺族と友人は、ともゑの母校、“フットヒル・カレッジ”に「Tomoe and Daisho Tana Scholarship」という奨学金制度を設立。日米の相互理解の促進を目指す学生たちを支援しています。

 田名大正、ともゑの歩んだ稀有な人生、私も、このパーフェクト・カップルが差し出したバトンを受け取るために、これからも二人の歴史を調べていきたいと思っています。 ともゑさんのように、あせらず、ゆっくりと。

(この章了)

アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(4) 母ともゑ:愛と気骨の人

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  意外にも、アキラ・タナは高校時代に、教育用の短編ドキュメンタリー映画に主演しています。映画のタイトルはズバリ“Akira( 照)”(BFA Education Media, ’71)で、アメリカの様々な少数派に属する若者の青春像を描く”Minority Youth”というシリーズの一編。日米二つの文化の間で戸惑いながらも、アイデンティティを確立していく日系人少年、アキラさんの姿や、両親との日常生活が描かれていて、15分の短編ながらとても心を打たれました。

映画の中で、少年時代のアキラ・タナは母、田名ともゑについてこんな風に語っています。

 「母は長い間、よその家の掃除や庭仕事をするメイドをして、僕たち家族を養ってきた。その合間に短歌を創っている。朝早くから起きて、夜中まで台所で皿洗いをやっている。母がどうやって時間をやりくりしているのか、僕にもわからないほどだ。母は結婚するまで日本で教師をしていた。だけど、英語がうまくないから、こっちでは教えられない。英語をちゃんと勉強したいと思ってるんだけど、その余裕がないんだよね。」
 アキラは日本人らしく謙遜して、お母さんのことを語ったのでしょう。実のところ、ともゑは、すでに「Tanka Poetry」として北米に大きく広がる短歌運動の担い手の一人でした。後には、「英語の習得」どころか、日米の短歌史に関する素晴らしい学術論文(もちろん英語で)を発表して修士号を取得しています!日本には、世界に誇る美女や芸術家、偉人も沢山いるけど、私は、ともゑさんのような人生の歩き方をした女性は、他に知りません。

<家政婦、青い目の歌人を育成する>

tomoe_3.png(田名ともゑ1913-1991)

  戦後、晴れて家族一緒の暮らしを再開したともゑは、仏に仕える病弱な夫と、食べ盛りの幼い子供たちの生活を支えるために、家政婦として、様々な上流家庭に出入りしました。アキラさんは、1952年、戦争を知らない末っ子としてサン・ノゼで生まれパロ・アルトで育っています。一家がパロアルトに落ち着いた頃、ともゑは、地元の教育委員会の役員であったルシール・M・ニクソンという女性宅で、毎週掃除をすることになります。このニクソン女史は町の名士、詩人でもあり、GHQ日本占領時代、少年時代の平成天皇(明仁親王)の家庭教師となったエリザベス・ヴァイニング夫人の親友でもありました。ニクソンがともゑを雇い入れたのは、このヴァイニング夫人の推薦で、おそらくは天皇の歌会始に選ばれたことを知っていたからかも知れません。


 ある日、ニクソンが、ともゑに自作の詩を見せると、「あなたの詩は日本の短歌ととても似ていますね。」と言われた。どこまでも嘘のない誠実な瞳を持つともゑの言葉に、ニクソンの知的好奇心は否応なく刺激されます。たちまち二人は意気投合!いつしか、女主人が在宅している時は、ともゑが掃除機を動かす暇はなくなっちゃった。ともゑは家庭教師として、彼女に請われるまま、日本語と短歌を教えることになり、掃除は彼女が留守の時しかできなくなってしまったのだそうです。
 いつしか、二人は無二の親友となり、「日本書紀の時代から受け継がれてきた独自の詩形式、短歌を米国に広めよう!」という共通の目標を持つようになりました。英語の短歌創作、在米日本人の詠んだ短歌の味わいを、そのまま生かした英訳、という課題に取り組み、パロアルトの公立小学校のカリキュラムに短歌を導入するという事もしています。ニクソンは、一方で、日本語による短歌創作にも励みました。

lucileAS20140124002490_comm.jpg 1957年、ニクソンは日本でも大注目されることになります。新年の宮中歌会始に彼女の作品が見事選出されたのでした!高額な渡航費にも、地元有志や短歌会から寄付が集まり、ニクソンは儀式への参列をすることに!その年の歌の御題は「ともしび」で、ニクソンの歌は日本への想いを綴ったものでした。

「あこがれの
うるはしき
日本法隆寺
ひるのみあかし
いつまたとはむ」
(大意:私は憧れの日本にやっと来ています。法隆寺に入ると、昼間からともされる灯明に、浮かび上がる荘厳な伽藍の様子に心打たれます。いつかまた、この光景を見ることはできるのでしょうか・・・)

 昭和天皇より「日本と米国の文化の懸け橋になってください。」とお言葉を賜ったニクソンのニュースは「青い目の歌人、宮中歌会始へ!」と、当時の日本のメディアで大きく報道されました。 (左写真)

 8年前、同じように選出の光栄に浴したともゑは、宮中に参じることはできなかったけれど、親友の快挙を自分のことのように喜んだのでしょう・・・

 この後も、二人は自分たちが英訳編纂した短歌を一冊の本にして出版しようと仕事を続けます。この計画が成就する目前の’63年、ニクソンは鉄道と自分の車が衝突するという事故によって不慮の死を遂げ、彼女が保管していた校正原稿が紛失するという憂き目に遭ってしまいます。

 でも、ともゑは決してくじけなかった。

<友情と不屈の精神>

 ともゑは、ニクソンの死によって失われた校正原稿を、独力で復元し、英語で読め4193CUpobbL._SY344_BO1,204,203,200_.jpgる日系人短歌集『Sounds from the Unknown (未知の響き)』として出版にこぎつけ、ニクソンへの追悼としました。一言で「復元」といっても、パソコンもワープロもない時代、それがどれほど忍耐力と知力の要る大変な作業であったのか・・・想像することすらできません・・・

 ともゑの情熱は、衰えることなく、1976年には、亡きニクソンの短歌と彼女の伝記を『Tomoshibi』という本にして、自費出版を成し遂げます! この本に感銘を受けたのが、アーカンソー州立大の教授で詩人でもあるウェズリー・ダンで、『Tomoshibi』は、彼の授業の教科書として採用されます。ともゑの友情が、短歌をひとつの文学スタイルとして最高学府に認知させたわけです。これらの出版物の収益は、さらに夫の「勾留所日記」4巻の自費出版資金にもなっていきます。

  51549-TWJGL._SL500_SX314_BO1,204,203,200_.jpg これらの短歌集にせよ、夫、大正の「抑留所日記」の編纂にせよ、どの作業も途方も無い労力と心配り、そして時間が必要です。どの仕事も、自分の功名のためではなく、短歌への愛情、夫や親友への愛情、そして後の世代へ伝えたいという不屈の熱意によって実現したものばかり。彼女の愛の大きさと、しなやかで鋼のように折れない意志に、ほんとうに心を打たれます。

 もし、私が入稿寸前に、パートナーと原稿の両方を失ってしまったら、どうしただろう?

 もし私が、朝から晩まで、家族の世話と、他のお宅の掃除に明け暮れていたら、短歌の創作だけでなく、他人の作品まで愛情をこめて、英語で編纂することなんかできただろうか?

 田名ともゑさんの愛の力は底知れないほど凄い!

  そして、映画でアキラさんが語っていた、ともゑの「英語習得」の熱意もまた、息子達への深い愛に根ざしたものでした。末息子のアキラさんをハーバード大学に遣り、4人の息子全員が立派なアメリカ市民として独立したのを見届けたともゑは、とっくに還暦を過ぎていましたが、迷わず地元の大学に入学します。(つづく) 


 Special thanks: 短歌の大意について助言してくださった Wakamiya Makiko様、ありがとうございました!

秋のトミー・フラナガン・トリビュートは11/28(土)に!

tribute _27th-2015.jpg 毎年3月と11月に開催するOverSeasの恒例ビッグ・イベント、「トミー・フラナガン・トリビュート・コンサート」、秋のトリビュート・コンサートを11月28日(土)に開催します。

 毎回、フラナガン生前の名演目をずらりと並べてお聴かせするのは、寺井尚之(p)メインステム(宮本在浩 bass 菅一平 drums)。寺井尚之は、すでにプログラムの準備に入り、皆さんにお楽しみ頂けるよう、ザイコウ、イッペイと共々、稽古を重ねる毎日です。それにしても、このトリオは、本当に稽古が大好き。本番をどうぞ楽しみにしてください!


 フラナガンが亡くなってから早14年になろうとしています。トリビュートでお聴かせする演目の数々、フラナガンのアレンジを引き継ぐ者は、ここ大阪の寺井尚之だけになってしまいました。 ピアノを初めて60年、フラナガンと出会って40余年、寺井の愛情と情熱は、色褪せるどころか、燃え盛るばかり!それに応えるように、愛器のピアノの音色も、粒立ちと輝きを一層増して、生音を聴きに来てくださるお客様を驚かせています。

 初めてのお客様も大歓迎です。ぜひデトロイト・ハードバップの真骨頂を聴いてみてくださいね!

 前売りチケットは当店にて好評発売中です!

a0107397_23132084.jpg=第27回 Tribute to Tommy Flanagan=

日時:2015年 11月28日(土) 
会場:Jazz Club OverSeas 
〒541-0052大阪市中央区安土町1-7-20、新トヤマビル1F
TEL 06-6262-3940
チケットお問い合わせ先:info@jazzclub-overseas.com

出演:寺井尚之(p)トリオ ”The Mainstem” :宮本在浩(b)、菅一平(ds)
演奏時間:7pm-/8:30pm-(入替なし)
前売りチケット3000yen(税別、座席指定)
当日 3500yen(税別、座席指定)

 

新刊紹介:「ルポ風営法改正: 踊れる国のつくりかた」

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  先日ご紹介した、長年、ダンス営業を規制してきた風営法改正関連のウエブ・ニュース、この法改正の動きを3年間に渡って内外で取材した神庭亮介さんが、今度はこの話題を一冊の本として、河出書房新社より上辞されました。

  何故政府は一般市民が「踊る」という行為を規制しようとするのか?何故、日本ではダンス・クラブが「風俗」のカテゴリーに成るのか? この法律を、クラブ経営者や利用者の多くの人が立ち上がり、改正法が成立するまでの記録です。

 本の中には、英国の「クリミナル・ジャスティス法」など、海外のクラブ事情に関するダンス規制法も詳しく紹介されていて、「NYキャバレー法」の章では、不肖当ブログも紹介してもらってます。思えば、私の人生最初の文学全集は旧河出書房版、「少年少女世界の文学」でしたから、とっても名誉に感じてます。

 ダンスと日頃無縁な私にもとっても面白く読みやすいルポルタージュです。

書名:『ルポ風営法改正 踊れる国の作り方』 著者:神庭亮介 2015年9月 河出書房新社刊
ISBN 9784309247267 (4309247261) 

全国の書店、Amazon などで好評発売中です!

アキラ・タナと幻の戦時収容所日記(3) 母ともゑ:しなやかな人生

daisho_tomoe_tana_berkeley_buddhist_church5.jpgカリフォルニア州バークレー仏教会にて (1941) Photo from “A Century of Gratitude and Joy”

:Courtesy of Akira Tana

  アキラ・タナの音楽に導かれて知った、米国の日本人達の苦難と再生の姿は、自分の両親が体験した色々なことと重なり合って、興味は尽きません。上の写真は、アキラさんからいただいたご両親の写真です。前列中央、黒っぽい洋装のカップルが、田名大正、ともゑ夫妻。これは太平洋戦争直前戦前、人種差別のため住む場所に困る日系青少年のために、二人が資金集めに奔走して、カリフォルニア、バークレーの仏教教会に併設した学生寮(自知寮=Jichiryo)で寮生たちと記念撮影したもののようです。

 西海岸の陽光に負けないみんなの晴れ晴れとした笑み!この場面から、わずか数カ月後に太平洋戦争が始まり、「自知寮」はおろか、仏教教会も、日本人の町もあっというまになくなった。大正は他の日系リーダーと共に検挙され拘留所へ、身重のともゑと息子達は、大正と引き離され、アリゾナ砂漠の収容所で4年以上の歳月を送りました。ともゑは収容所内で三人目の男の子を出産し、何百キロも離れた夫との文通が二人の愛をさらに強く深いものにしました。二人が交わした手紙は800通近くに上ります。大正は結核に倒れますが、心は病むどころか、家族愛によって宗教家としての新たな展望を開きます。勾留所生活と病気という二つの苦難を抱えた大正は、次世代の日系人のために法話を書き続け、それを受け取ったともゑがガリ版で印刷して同胞達に回覧しました。同じ施設に拘留された位の高い僧侶達の中には、本道を忘れて野球やギャンブルに没頭する者も多かった中、病気の大正が常に前向きで居られたのは、ともゑの手紙の力であったかも知れません。

 激動の歴史を生きたアキラ・タナの母、田名ともゑはどんな女性なのだろう?

 調べていくと、ともゑは、大正の日記の他に、何冊もの短歌集を編纂し、出版していました。子育てを終え、60歳をすぎてから英語を学び、大学から大学院に進んで修士号を取得しています。
 晩年は地元パロアルトの名士として、尊敬された田名ともゑ、この人の業績は多岐に渡っていて、もう、どこから手を付けていいかわからないほどです。

 田名ファミリーのご厚意で、近いうちに大正の「抑留所日記」は原文で読むことが出来そうですので、後でゆっくりと調べることにして、その他の彼女の半生について書いてみます。

  <自分の道を拓く人>

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Tana Family (circa ’54 or ’55): photo courtesy of Akira Tana
田名大正師を中心に、ともゑさんと膝に抱っこされている幼いアキラさんと3人の兄(Yasuto, Shibun,Chinin: 敬称略)

 田名ともゑ(1913-1991)は北海道の寺の娘、父は名僧の誉れ高く、姉妹兄弟全て仏教に仕える家系の出身で、ともゑ自身は小学校の教諭をしていました。開教使仲間で、渡米後、大正の親友となったともゑの兄、早島ダイテツ(漢字不詳)が、二人の仲を取り持ち、ともゑと大正は祝言の後すぐに、赴任地に赴きました。1938年、ともゑ25才、大正37才、カリフォルニアに着いた翌朝、大正は新妻にこう言いつけたそうです。

 「これからは自分で正しい道を見つけなくてはならない。さあ、まず手始めに、サンフランシスコまで一人で行って帰ってきなさい。」

 ともゑは夫の言葉どおり、英語が全くできないままに、初めての土地でサンフランシスコ湾を渡り町を目指し一日がかりで歩き回った。まさに”ロスト・イン・トランスレーション”!でもちゃんとシスコの町までたどり着き、夫が帰宅する夕方にはちゃんと家に戻っていた。

 このエピソードは、少年時代に田名家の子どもたちと交流し、ともゑさんに習字と短歌を教わったアーティスト、ゲイリー・スナイダー修士論文「A Profile of Tomoe Tana」で見つけたものです。困難に遭遇しても、打ち克つのではなく、受け容れて、慌てることなく、素直に努力する。そのうちに、いつの間にか新しい道が拓けている。これこそともゑ投げ!それは北海道の開拓者魂と、仏教のこころに裏打ちされた比類ない資質を象徴した話のように感じます。

<肝っ玉母さん>

 収容所を出てから半年、やっと家族の再会が叶った後、ともゑは病弱の夫を支え、4人の息子を米国市民として立派に育て上げた。

 長男 Yasutoは名門公立大学、カリフォルニア州立バークレー校卒業、軍人となり米国海軍少佐まで出世しました。(日系社会に詳しいお客様によると、少佐にまで昇進できる日系人は極めて少ないらしい。)次男、Shibunはサンホセ州立大からIBMへ、三男、Chininは、ハーバード法科大学院(ロースクール)から弁護士になった。三兄弟から10歳以上年の離れた末っ子がアキラ・タナ、彼もまた全額奨学金でハーバード大学から法科大学院を卒業していますから、どれほど秀才の兄弟なのかは私にも想像がつきます。アキラは、ほかの兄弟と同じようにエリートとして安定した生活が保証されているのに、家族の猛反対を押し切って、音楽に方向転換、名門ニューイングランド音大の打楽器科に在籍中、すでに世界的なミュージシャンと共演を重ねていました。そのあとは皆さんご存じのように、在米日本人ではなく、メジャーの檜舞台に上る日系人ミュージシャンのパイオニアとなりました。

 アキラさんの「道の拓き方」もまた、両親の影響なのかも知れません。

 それにしても、夫の大正は、宗教家として余りにも誠実な人だった。常に、己よりも他の人々の利益を優先させ、法務のお布施で家族の生活を賄うことに常にジレンマを感じる僧侶、そして病弱でもありました。4人の男の子をおなかいっぱい食べさせて、一流大学に行かせるための生活費はどうしていたのだろう?

 一家の生計を支えるために、ともゑは家政婦として働いた。

 真面目で清潔好きな日本人のハウスボーイやメイドを置くことは、ビヴァリーヒルズはもちろん、当時の米国上流家庭の一種のステータスだったそうですが、元敵国人への憎悪や人種差別もあからさまな時代、短歌や琴や習字も教えることのできる女性の適職というわけじゃない。ともえは30年近く、色んなお家の掃除をして働いていた。家の用事は深夜に済ませ、夫や子どもたちにも不自由な思いをさせないスーパー肝っ玉母さんです。この家政婦の仕事が、ともゑの短歌の業績につながっていくのだから面白い!

 子育てと家政婦の傍ら、彼女は日系人の短歌サークルを主催し、創作を続けています。ほんとに、どうやって時間を工面したのか、息子のアキラさんにも謎だったと言います。とにかくエネルギーと知性と心身の健康がなければ、そのうちのどれひとつもちゃんとできませんよね。三千年の歴史を持つ「短歌」という詩の形式は俳句よりもっと認知されるべき日本の文化だ!ともゑの夢は「短歌」の素晴らしさを日系の次世代に伝え、さらに英語のTankaとして、米国で広めることだった。

 1949年、ともゑが詠進した短歌は宮中歌会始に入選を果たします。

 その年のお題は「朝雪(あしたのゆき)」 ともゑの作品は現在も宮内庁HPで読むことが出来ます。

アメリカ合衆国カリフォルニア州 田名ともゑ
ふるさとの朝つむ雪のすがしさを加州にととせこひてやまずも

  (カリフォルニアで十年の歳月を経ても、故郷で朝に積もる雪の清々しさ、その情景が恋しくてたまらない。)

 故郷、北海道の「朝つむ雪のすがしさ」は、無垢な少女時代への憧憬かも知れない。ただ残念なことに、ともゑは宮中でこの作品の詠唱を聴くことは出来なかった。入選の通知が届いた頃には、歌会始の儀はとうに終わっていたからだ。ただ、もしちゃんと知らせが届いたとしても、日本への往復の渡航費を捻出できたかどうかは分からない。

 夫の赴任先ハワイでの2年間の生活の後、’51年、一家は再びサンフランシスコに戻り、ベイエリアの町、パロアルトの寺に落ち着きました。その間も、ともゑは家政婦として働き続けます。平安の昔、上流階級の遊びであった短歌が、米国で庶民の文化になったことを、ともゑは身を持って示した。やがて、家政婦としてともゑを呼んだ女流詩人、ルシール・ニクソン(1908-63)と運命的な出会いを果たすことになります。(つづく)

 

lucileAS20140124002490_comm.jpg Lucile Nixon はカリフォルニア州パロアルトの教育者、詩人、ともゑに短歌を師事、1956年

宮中歌会始に入選し「青い目の歌人」として日本でも大きな注目を浴びた。