一方、共演ピアニストの寺井尚之は、歌詞が聴こえてくるピアノ・プレイと言われ、師匠トミー・フラナガン同様、歌詞に強いこだわりを持っているので、滝川さんのトークにアドリブで突っ込みを入れるものですから、ライヴが一層盛り上がります。 そんな滝川さんがよく聴かせてくれるのが、この〈I Thought About You〉です。 ご存じない方は、スタンダードの教科書として、多くのプレイヤーが参考にするエラ・フィッツジェラルドのヴァージョンを聴いてみて
〈I Thought About You〉は、昔々1939年のヒット曲、作曲 Jimmy Van Heusen(ジミー・ヴァン・ヒューゼン)、作詞はJohnny Mercer(ジョニー・マーサー)です。南部ジョージア州サヴァナの名家に生まれたマーサーは、同時代の大部分のソングライターたちの大都会的なスノビズムとは一線を画した作風で、私が大好きな作詞家です。だから、久しぶりに対訳ノートを書いてみました。
=夜の車窓から=
〈I Thought About You〉は、Johnny Burke(ジョニー・バーク)とのコンビでヒットを量産した作曲家Jimmy Van Heusenとコラボであること、そして、後付けの名作詞家と呼ばれたマーサーが、先に詞を書いて、後から曲が付いたという点でも、マーサーにしては、少し異色の作品だ。 一方、自分の創作スタイルを「聴く人がまだ見ぬ場所を体験できるよう、歌詞を使って絵画を描いてみせる。」としたマーサーの作風が最も色濃く出た名歌のようにも思えます。
Sir Roland Hanna and Hisayuki Terai at Itami Airport, Osaka, 1990
=ハナさん=
Sir Roland Hanna (1932 2/10-2002 11/13)
サー・ローランド・ハナ没後22年、トミー・フラナガンが、寺井尚之とJazz Club OverSeasの「親父」なら、サー・ローランド・ハナはモノンクル、まさに「叔父貴(おじき)」だった。二人は、ともにデトロイト生まれで、多くのミュージシャンを輩出した市立ノーザン・ハイスクールの卒業生だ。ハナさんはフラナガンの2学年下、フラナガン夫妻は感謝祭になると、ハナさん家で食事を共にする親戚付き合いが続いた。不思議なことに、2人は誕生日も命日も近い。そのため、寺井がハナさんのトリビュート・コンサートを行なうことが困難だった。(T.Flanagan 1930 3/16生-2001 11/16没, Sir Roland 1932 2/10生-2002 11/13没)
一方、排日運動高まる中、二人の幼児、そして三人目の子供を身籠りながら、夫の留守を守るともゑは、いつアメリカ人の襲撃を受けるかと不安な日々を過ごした。やがて、大統領令9066号が発効され、ともゑは息子たちと共に、アリゾナ州のヒラ・リヴァー転住センター(Gila River Camp:下左写真)に収容、砂漠の中の施設で、夫と離れ離れの生活を送ることになった。
Joe Turner(1907-90) ボルチモア出身、ルイ・アームストロングなどの名楽団で活躍した華麗なるストライド・ピアニスト、第二次大戦後はパリのクラブで人気を博した。パリ没。
Joe Turner
西部をツアーしたとき、ベニー・カーター(as.tp.comp.arr.)は私に警告をした。-「オハイオ州のトレドに着いたら、決して土地のクラブでピアノに触ってはいけない。街にいる盲目の若造はやり手だ。お前が逆立ちしても太刀打ちできない。」 一体どんな奴だろう?私はトレドの街に着くとすぐ、そのピアノ弾きの居所を尋ねた。なんでも、そいつは夜中の2時きっかりに、決まってある軽食屋に現れると言う. 午前零時、劇場の仕事がハネると、私はその店に行って例のピアノ弾きが来るのを待った。しばらく私がピアノを弾いていると、ピアノの傍らで、2人の若い女が言い合いを始めた。「この人ならアートをやっつけちゃうわね。」と一人が言うと、もう一人が言い返した。「そのうちアートが来るから、どっちが勝つか、じっくり見物しましょうよ。」 噂どおり、2時きっかりにアート・テイタムが現れた。私が挨拶をすると、「ああ、お前さんが、”Liza“を素晴らしいアレンジで演っている、あの有名なジョー・ターナーかい?」と言うじゃないか!私が演奏してほしいと頼むと、『まずあんたのピアノを聴かせてもらってからだ。』と言って聞かない。アート相手に言い合いをしても勝ち目はなかった。私は、ベニー・カーターの忠告を無視し、“Dinah”で指慣らしをしてから、十八番の”Liza”を演った。 弾き終わると、アートが『なかなかいいね。』と言ったので、私は少しムっとした。私の”Liza”を聴いた者は、余りの凄さにびっくりするのが常だったからだ。なのに、ただ『なかなかいいね』とは何事だ! それからアートはピアノの前に座り、“Three Little Words”を弾いた。その凄かったこと! 三つの短い言葉どころか、三千語でも足りない、もの凄い演奏だった!あれほどの音の洪水を生まれてから聴いたことはない。 それ以来、私達は無二の親友となった。次の朝早く、私がベッドから出る前に、彼は、もう私のところに遊びに来て、昨日私が弾いた”Liza”を一音違わず、全く同じように弾いてみせた。 (出典:Hear Me Talkin’ to Ya / Nat Shapiro and Nat Hentoff)
Billy Taylor (1921-2010) ビバップから現代まで、激動のジャズ史を生き抜いたピアノの巨匠、全米ネットワークのジャズ番組のホストとして有名。知名度を生かし、音楽教育や文化プログラムの資金集めを含めジャズ界に貢献した。ネット上でフラナガンとのものすごいデュオが観れる。
テイタムのピアノ、ホーキンスのテナー、そしてエリントン楽団、この三つがビバップ語法の基礎を作った。 テイタムが繰り広げたジャム・セッションの中で忘れがたいものがある。相手はクラレンス・プロフィットというピアニスト兼作曲家だった。私を含め、皆、彼のことを単なるファッツ・ウォーラーの亜流と思い込んでいたが、この二人のジャム・セッションは何ともすさまじかった。 二人がピアノの前に座り、同じメロディを延々弾き続ける。メロディは変えずにハーモニーを次から次へと変えていくのだ。フレーズを考えるのでなく、色んなハーモニーをどんどん考え出すという凄いジャムだった。 特に”Body & Soul”を演った時が面白かった!あの曲にはすでに決まったコードが付いているからね。彼らのセッションは信じられないような内容だった。だが、あの時やったようなことは、私の知る限り全く録音されていない。 (出典:Swing to Bop/Ira Gitler著)
=カーメン・マクレエ(vo)の証言= Carmen McRae (1920-94) ビバップの誕生に立ち会い、ビリー・ホリディの生き様を見て育った大歌手。
ハーレムのセント・ニコラス通りを少し入ったところにアフターアワーズの店があってね、一流ミュージシャンは仕事が終わると、皆そこに集まった。レスター・ヤング達カウント・ベイシー楽団の面々、ベニー・グッドマン、アーティ・ショウ、そしてアート・テイタム、アートはアフター・アワーズの店が大好きだった。彼が正規の出演場所よりも、アフターアワーズの方が良い演奏したっていうのは本当よ。多分、その場の雰囲気のせいかもね。違った空気があれば、それに即して違った弾き方、歌い方をする人は多いの。ある種のお客やクラブには、ミュージシャンが、普通は出来ないことをしたいと思わせる何かがあるのよね。まあアート・テイタムは余りに素晴らしくて、いつの演奏が良かったと選ぶのも無理なんだけど… (出典:Hear Me Talkin’ to Ya / Nat Shapiro and Nat Hentoff著)
なにしろ、トミー・フラナガン+レッド・ミッチェル or ジョージ・ムラーツ or ロン・カーター、ハンク・ジョーンズ+ロン・カーター、ケニー・バロン+バスター・ウィリアムズといった極上のピアノ・デュオが、毎夜、ほぼ生音で聴けた。深夜2時から始まるラスト・セットは、多くのミュージシャンが集うNYジャズのコミュニティの中心地の様相を呈していた。一方、この店の奥に行けば、コカインなどの違法薬物が手に入るという噂も、(確認はしていないけど)NYたる所以。地元のジャズ・コミュニティの中では、セロニアス・モンクがその人生最後に(飛び入りではあるけれど)公衆の前で演奏した歴史的聖地としても知られている。出演形態が「デュオ」というのは、当時のキャバレー法で三人以上のライブが制限されていたこともあるけれど、なによりも、1対1の対話形式のジャズが、ブラッドリー・カニングハムの好みだったのかもしれない。
ブラッドリーの誕生日は、ジョージ・ムラーツ、エルヴィン・ジョーンズと同じ9月9日で、バースデー・パーティはいつも三人一緒だったそうです。ムラーツはブラッドリーの一人息子の名前をとった〈Jed〉という曲を作って、サー・ローランド・ハナのアルバム『Time for the Dancers』(’77, Progressive)に収録しています。
上の3か条で運営された《Café Bohemia》は100席ほどでNYのクラブにしては小さい。料理はなく、ドリンク提供のみ。1955~60年の営業期間だったとされている。そこで、有名ジャズ・クラブの演奏スケジュール欄を毎週載せていたThe New Yorkerのアーカイブを週ごとに辿っていくと、推移がわかってくる。
NewYorkerならではのビミョーな紹介文だが、店のマネジメントが不安定だったのかもしれない。状況は加速し、1958年5月以降は「予定ミュージシャンの出演は五分五分」となり、同年7/12号を最後に、《Café Bohemia》の案内自体が同誌から消滅する。52丁目の《Birdland》やブロードウエイ51丁目の《Basin Street Café》と並び “3B(The Three Bs)”と言われた時期はせいぜい2年ほどだった。
一方、音楽的理想に全てを賭けるオスカー・ペティフォードは、《ボヘミア》のセッションでフラナガンに即白羽の矢を立て、ABCパラマウントでクリード・テイラーが制作した、超ド級ビッグバンド作品『Oscar Pettiford in Hi-Fi』(56)に起用。《ボヘミア》つながりで、J&Kaiを休止して一本立ちを画策するJ.J.ジョンソンのレギュラーとなる。
(Sources) The Complete New Yorker DVDs (2004) Before Motown Lars Bjorn & Jim Gallert 著 The University of Michigan Press (2001) Tommy Flanagan Interview by Loren Schoenberg WKCR NY,1990 Rutgers University, Kenny Clarke Oral History Interviews The Café Bohemia Story スミソニアン国立歴史博物館所蔵 NEA JAZZ MASTER INTERVIEW-Kenny Burrell (2010) Swing to Bop, Ira Gitler著, Oxford University Press (1985) Reflectory, The Life and Music of Pepper Adams, Gary Carner著 e-book (2022) 筆者へのトミー・フラナガン談
Jazz Club OverSeasでは、今年の春から、寺井尚之のジャズ講座「トミー・フラナガンの足跡を辿る」の第3巡目が始まりました。今月は、トミー・フラナガンがスウェーデンで『Overseas』を録音するきっかけになったJ.J.ジョンソン・クインテットの『Live at Café Bohemia 1957』が登場します。
これまで、公にされていなかったジョージ・ムラーツさんのご家族の悲劇や亡命の真相などを、同じチェコ出身のピアニストとして何度も共演し、親交深かったエミール・ヴィクリツキーさんが、英国ロンドンのジャズニュースに追悼文を寄稿されていたので、ここに翻訳文を掲載します。原文はLondon Jazz News 9/20, 2021
永遠のアニキ、ジョージ・ムラーツさんのご冥福を心よりお祈りします。
George Mraz (1944-2021). A tribute by Emil Viklický
1974年9月、私はチェコのトップ・ジャズ・バンド、カレル・ヴェレブニー SHQカルテットに加入した。それはジョージが移住する前に所属していたバンドでもあった。翌1975年、SHQカルテットはユーゴスラヴィアのベオグラード・ジャズフェスティバルに出演。ところが、手違いがあり、コントラバスを持参できず、現地で楽器を調達せねばならなくなった。幸運なことに、我々の出番の次がスタン・ゲッツ・カルテットだったのだ。メンバーは、ジョージ・ムラーツ(b)、アルバート・デイリー(p)、ビリー・ハート(ds)だった。そこで、ジョージは、快くフランチシェク ウフリーシュに自分の楽器を貸してくれたのだった。その夜のことはよく覚えている。なぜなら、アルバート・デイリーが私のプレイを誉めてくれたからだ。だが、スタン・ゲッツにとっては、必ずしも楽しい夜ではなかった。彼は時計ばかり眺め、本番でジョビムのスロー・ボサ〈O Grande Amore〉のプレイ中、デイリーのピアノ・ソロを遮り、バンドに退場するよう命令した。聴衆の拍手は10分ほど鳴りやまなかったが、スタンはアンコールに応えなかった。ひどい話だ。きっと主催者側と何かもめごとがあったのだろう。