サー・ローランド・ハナ (その1)

ぼくの叔父さん:Sir Roland Hanna (1932 2.10- 2002 11.13)
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OverSeasの壁に飾ってあるサイン入り譜面&写真
《ハナさん》
 寺井尚之ジャズピアノ教室の発表会が目前に迫り、色々準備に追われているうちに、むしょうにハナさんのことを書きたくなってしまいました。ハナさんというのは、デトロイトが生んだ屈指のピアニスト、サー・ローランド・ハナのことです。
 ちなみに、寺井尚之はいつも「ハナさん」と呼び、ハナさんは「ヒサユキちゃん」と呼んだ。私は「Sir Roland」と呼び、Sir Rolandは「タマエ」に「ちゃん」はつけてくれなかった…
  生前のハナさんは、ジャズを懸命に学ぼうとする寺井の生徒達に、強いシンパシーを感じてくれていた。
 「来年ここに来る時には、ヒサユキちゃんの生徒たちのために、絶対に講演会をする!私はピアノ奏法でなく、音楽の精神について語りたい。ちゃんとセッティングをするように!」と申し渡されましたのですが、同じ年の秋、中山英二(b)さんとの日本ツアー中、体調を崩し、そのまま帰らぬ人となった。だから発表会の時期になるとハナさんのことを一層強く想う。
《プロフェッサー》 
  ハナさんは壮年期にNYクイーンズ・カレッジで精力的に教鞭を取り多くの音楽家を育成した。ジェブ・パットン(p)、YAS竹田(b)もクイーンズ大出身だ。
教室のハナさん大学教室でのハナさん。
 ハナさんは中山英二(b)さんや青森義雄(b)さんと言った日本人ベーシスト達を深く愛した。お二人にとって、サー・ローランド・ハナは”父”のような存在だったろう。一方、トミー・フラナガンを”父”とする寺井尚之にとって、ハナさんは、文字通り”叔父さん”で、ハナさんも”甥っ子のヒサユキちゃん”として寺井尚之を見守ってくれた。トミーの身辺に何か事件が起こった時、ニュースはしばしばハナさんからもたらされた。トミーの心の秘密を教えてくれたのもハナさんだった。ただし、寺井がピアノを教えてくださいと頼んでも、「私から君に教えることはもうない。」と言ってレッスンをしてくれることはなかった。その代わりに、音楽家としてあるべき姿勢、人間として人生に立ち向かう姿勢というものを、身をもって示した巨匠だと思う。
  サー・ローランド・ハナ=ハナさんは、デトロイトの公立高校、ノーザン・ハイスクールでトミー・フラナガンの2年後輩だ。クラシック一辺倒からジャズの道に入ったきっかけは、学校の講堂にあるグランド・ピアノで、アート・テイタムやバド・パウエルそのまま(!)に弾くトミー・フラナガンだった。卒業後、フラナガンがジャズの現場で”ミーン・ストリート”として名を成した”叩き上げ”派であったのに対し、ハナさんはノーザン高からカス・テックと呼ばれる専門学校に編入、2年の兵役の後、NYの名門ジュリアード音楽院でクラシックを勉強しながら、夜はクラブでジャズをプレイした”学究派”だった。
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《いらち》
  ハナさんの性格を関西弁で言うなら“いらち=苛ち”の一言。標準語なら”せっかち”です。何でもさっさとする。ごちゃごちゃ言わない。時間に正確で、規律を重んじる。来日ツアーにラモナ夫人を同行した時、夫人が送迎車を待たせ、少女のように周りの風景を見回っていると、ハナさんは、あの特徴のある眉を曇らせ、俳優の志村喬のように低い声で、送迎スタッフ全員に丁寧に詫びた。
 「皆さん、どうかラモナを許してやって下さい。あれは一般人で、団体行動というものを知らんのです。」ラモナさんは、ただ2-3分そこら辺を見回っていただけなのに…。
  トミーは対照的に、常に些細な問題には超然としていた。ダイアナが誰にケンカを吹っかけようと、何を落として割ろうとも、「良きにはからえ」と知らん顔。
  だけど、二人とも、一旦「No!」と言ったらテコでも動かない頑固なところはそっくり!
  音楽について何か質問すると、トミーは、ボソッと一言答える。こっちはずーっとその意味を考えて、数年後に「ああ!こう言うことやったんか!」と膝を打つ。ハナさんは即答!徹底的に詳しく回答してくれたので、私はハナさんに何か尋ねる際はノートとペンを横に置いておく習慣を身に着けたほどです。だけど、二人の答えはどちらも、当たり障りのないものでなく、奥が深かった。
《ピアノ・タッチ》
  ピアノのアプローチも然り、ハナさんはフラナガンに比べて、胸がキュンとなるようなエモーショナルな表出をした。寺井尚之はこれを、“デトロイト・バップ・ロマン派”と呼ぶのだけど、タッチの美しさとほとばしるパッセージには、圧倒的な美しさがある。
  ハナさんとトミーがOverSeasのピアノを弾いた後は、異様にピアノの鳴りがよくなって、川端名調律師と寺井尚之が愕然とする。私には、ピアノがハナさんやトミーが鳴らしてくれた音色の快感を覚えていて、自分で、その歌をもう一度歌おうとしているようで、いじらしい。
 寺井+川端さんチームの科学的な分析によれば、二人ともタッチが研ぎ澄まされていて、常に鍵盤上で一番良くサウンドするツボに指がヒットする。おまけに、88鍵をフルに使う為、ピアノの弦を叩くフェルトの全ての溝が非常にクリアになっている為なのだそうです。
《クラシカル》
  デトロイトの豊穣な音楽的環境を背景に、フラナガンの音楽のキーワードが”Black”であったのに対し、ハナさんはジョン・ルイス(p)のようにクラシックとジャズの境界線取り払うアプローチをした。ハナさんにとって、アート・テイタムとアルトゥール・ルービンシュタインは、同一線上のアイドルだ。日本の大プロデューサー、石塚孝夫氏の製作した”24のプレリュード集”(bass:George Mraz ’76/ CTI)は、その意味で歴史的名盤なのに、今は廃盤になっているらしい。信じられません。

《Soul Brothers》
   大きな共通点と対照的な面を併せ持っていた二人は、終生、兄弟のように付き合った。勿論トミーが兄で、ハナさんが兄想いの弟だ。フラナガンの出演するジャズクラブで、騒々しい酔っ払いに激怒するダイアナをなだめるのも、最高の掛け声でプレイを盛り上げるのもハナさんだ。
 「ジョージ・ムラーツ(b)やルイス・ナッシュ(ds)、私が良い若手を見出して育てたら、トミーがいつも横から持っていっちゃうんだよ。」ハナさんはボヤいていた。まるで、お気に入りの野球のグラブを兄に横取りされた弟みたいに。
Reflections On Tommy Flanaganハナさんがトミーの死後作ったトリビュート盤、Reflections On Tommy Flanagan “Cup Bearers”で寺井尚之が使うリフを入れてくれている。
 トミーの未亡人、ダイアナ・フラナガンはハナさんが亡くなった時に、ふとこんな風につぶやいたのが忘れられない。
 「あの二人には、何か尋常でない深いつながりがあったのよねえ。生まれ月も命日も近いし。おまけに、直接の死因も心臓疾患だったってラモナ(ハナさんの奥さん)が言ってたのよ。私には、それがどうしても偶然だとは思えないの…」(トミーは’30 3.16-’01 11.16)
  ハナさんが亡くなって早6年、仏教なら今年が七回忌。うちの教室もハナさんを知らない生徒達が大半となっている。ダイアナの希望で、3月と11月の年2回、トミー・フラナガン・トリビュート・コンサートを開催しているために、現実的にハナさんへのトリビュート・コンサートが出来ないことや、ハナさんが遺した名盤の殆ど廃盤になっていることも一因だろう。ハナさんのことを覚えておいてほしい!忘れて欲しくない!!
  次回のハナさんの章では、ハナさんに馴染みのない皆さんに、私が書き留めたハナさん語録も交えつつ、どんな人生を歩んだ人だったかを紹介しようと思ってます。
CU

ザ・コン・マン:ジャズ界の偉大なるサギ師(1)

セロニアス・モンク
 お正月休みは実家で母親と共に、TVやヴィデオで歌舞伎三昧、花道を進む役者のあでやかな姿を見ると、トミー・フラナガンや寺井尚之が愛奏するブルース、“ザ・コン・マン The Con Man”の威勢の良いテーマを思い出す。名盤、Beyond The Bluebird(’90)で、この曲が聴けます。
   この曲を初めて聴いたのは’80年代後半、NYの<スイート・ベイジル>というクラブ、トミー・フラナガンがMCしたけれど“The Con Man”の意味が判らず、後で「“カンメン(乾麺?)”って何ですか?」と尋ねたら、トミーは「コン・アーティストのことや。??わからんかなあ(ため息)…コンフィデンシャル・マン、信用サギ師のことや。」と教えてくれたのです。

   ふーん、サギ師=The Con Manか…ヘンなタイトル…
 最近になってやっとCon Man であることが、ジャズや“芸術”を“判った”気持ちにさせてくれる重要なテクニックであるとじわじわ気が付いてきました。
 
   昨年の秋、お店から帰ってきて、夜更けにセロニアス・モンク・カルテット(チャーリー・ラウズ ts、ラリー・ゲールズ b. ベン・ライリー ds)のヴィデオを観ながら、寺井尚之と晩酌していた時のことです。WOWOWで放映されていたものですが、『Jazz Icons』というDVDシリーズをそのまま流していたようです。’66年、オスロと、コペンハーゲンでの2本のTV用の映像とありました。
 オスロでの映像のモンクはソフト帽とダークスーツ姿、右手の小指には、宝石か?ガラス玉か?重たそうなピンキーリングが!寺井尚之なら弾きにくいと言って腕時計すらはめないのに、すごく大きな指輪です。それが鍵盤上をゴロゴロと転がりながら、モノクロ画面に怪しい光をビカビカ放つ。さすがはBeBop界のベスト・ドレッサー!音楽とファッションがトータルなものになっている。

 Youtubeに同じ映像の一部を発見。かっこいい足の動きはここでは見れないけど、ダンパーの動きが見れます。
  ピアノから長い足がはみ出る大男モンク!大きな右足で強烈にカウントを取りながら、ガンガンスイングしている。
 かつてトミー・フラナガンはモンクのプレイについてこう語った。

「地下のクラブへと階段を降りると、ベースソロが聴こえてくるとする。ピアノの音は全く漏れ聴こえていない。それでも、今夜はモンクだな!と判る。それがモンク・ミュージックというものなんだ。」


 そのとおりにメンバー全員がモンクのカリスマに取り込まれ、完全にモンクのパーツ化している。モンクはレコードより絶対映像ですね!もう一杯!思わず酒量も上がるというものです。
  ところが、寺井尚之がこの映像を観ながら「おおーっ!?」とびっくりして座布団を投げそうになった場面が…。 オスロのTV映像は、バンドの全景やモンク自身を横から捉えた映像と、正面からモンクの表情を捉えたものと、二つのアングルで構成されているのですが、サイドからモンクを撮影している間は、モンクの足はせわしなくステップを踏み、絶対にペダルを踏まない。つまり既成のピアノ奏法を無視したワイルドなプレイに徹してます。
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   ちなみにトミー・フラナガンやハンク・ジョーンズはペダル使いの名手で、ピアノの響きを自由自在に操ります。ピアニストは指使いだけでなく、ペダルの使い方も技量が必要で、色々個性が出るものです。
 モンクの足を撮影するサイドからのカメラアングルでは、ペダルなんて、まるで関係ないようにプレイしていたモンク…しかし…なんてこった!カメラ・アングルが正面からになると、ダンパーがせわになく上下してるやんか!ピアノは、右のペダルを踏むと、このダンパーが上下してピアノの響きを調節する仕組みになってるのです。つまりモンクは足が映らない時だけペダルを使っていたというわけ。TVの画面に向かって、酔っ払いの私は野次った。ヘイ、コン・マン!
赤い矢印の黒いかまぼこの列みたいなのがダンパー。
  モンクといえば、以前病気療養中に、セロニアス・モンクの伝記『セロニアス・モンク―生涯と作品』(トマス・フィッタリング著・勁草書房)の翻訳を、少しお手伝いしたことがあります。
 モンクはエラ・フィッツジェラルドと同じく1917年生まれ、NYハーレムに育ちました。ハーレム・ストライドという超絶技巧のピアノ・スタイルが隆盛の時代、ハーレムにはウィリー“ザ・ライオン”スミス、ジェームス・P・ジョンソンと言った名手がワンサカいたといいます。
 「必要は発明の母」:ピアノで名を成すにしても、到底テクニックでは勝負できない、どないしょう…というところからあのユニークな奏法を編み出したのか…
 でもセロニアス・モンクの頭は並ではなかった。ケニー・クラーク(ds)、パーカー=ガレスピー、メアリー・ルー・ウィリアムズ(p)達と切磋琢磨して新しい和声を編み出し、ジャズにBeBop革命を起こした。いつの世も、時代の先を行くアートは世間になかなか受け容れられない。おまけに黒人ミュージシャンは、いくら優れていても白人社会にはなかなか認められない。
  モンクは、高度な理論を持つBeBopを、お客さんたちがリディアン・セブンスとかオルタードなんて言葉を知らなくても、この音楽のかっこよさを感じてもらえるように、特注のサングラスやスーツ、ベレー帽やチャイナ・キャップでかっこよく身を飾り、目で見ても判るようにしてくれた人でもあります。
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  オスロでの映像も、明らかにそんなモンクのタヌキっぽい策略が感じられてすごく楽しい。オレオレ詐欺や上方のランドマークであった高級料亭の偽装はまっぴらですが、こんなサギなら喜んで騙されたいね!
 
  モンクは、ファッションやプレイばかりか、禅問答まがいの不可解な言葉や深遠なる曲名で、マスコミや共演者までも煙に巻いた。反面、素顔のモンクは、特に尊敬するデューク・エリントンやコールマン・ホーキンスなど先輩ミュージシャンに対しては、全く普通の人であったという証言が多い。でも、やがて、音楽的に行き詰るにつれ、モンクは本当に精神を病み、音楽活動も喋ることも止めてしまう。モンクが頭に描くBeBopの理想を、そのままピアノで表現してくれたモンクの弟子、というか分身であったバド・パウエルと同じように。
 バド・パウエルが脳を病んだのは、警官に警棒で殴打されそうになったモンクをかばい、身代わりになった為と一説には言われている。モンクは、パウエルのことが生涯心に付きまとっていたのだろうか?
monk_bud.jpg 左:モンク、右:バド・パウエル ’64
  かつて“ファイブ・スポット”で半年間セロニアス・モンク・カルテットの幕間ピアニストを務めたサー・ローランド・ハナ(p)は「モンクの曲は大好きだが、プレイは余り好きではない。」と言って、わざとアクの強いケレンで武装するプレイを決してよしとしなかった。

 モンクはプレイだけでなく、その作品も、筍やうどの春野菜のように精気と共にアクが一杯だ。他のミュージシャンが演奏する時も、わざとモンクっぽいフレーズを使ってアクの強いプレイをすることが多い。でも、トミー・フラナガンのアルバム、“Thelonica”で聴くモンクの作品群は、どれも、不要なアクや渋皮が取り去られて、モンク作品が本来持つみずみずしくピュアな、本当の味わいを出している。フラナガンという人は、音楽や人間の本質を鋭く見極める稀有な才能の持ち主だったのだ、といつも思う。
 フラナガン自身は、NYに出てきた当時モンク家の近所だったので、パウエルよりモンクの方がずっと親しみの持てる人だったと言っていた。 
 カーメン・マクレエは名盤“Carmen Sings Monk”のMonk’s Dreamでこんな風に歌っています。
私が夢見た人生は
純粋で真実ひとすじ。
私が夢見た職業は、
私だけが出来る仕事。
ひとりの男とチームを組み、
求める道へ突き進む。
だけどそれは夢。
真実一路、
そうすればひと財産。
闘い抜いて前進し、
決して嘘はつかぬこと。
そうすれば名声は
この手に入ると思っていた。

だけど夢で終わったよ。

 (了)

寺井珠重の対訳ノート(3)

“酒バラ”再発見!
 かつて「映画音楽」や「ポピュラー(軽音楽)」というジャンルがあった頃、「酒とバラの日々」という歌は、テレビやラジオの音楽番組で、国内外の色んな歌手がよく歌っていた。
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The Lady Is a Tramp

 今回のジャズ講座では、エラ・フィッツジェラルドの、ベオグラード(旧ユーゴスラヴィア、現セルビア共和国の首都、)での歌唱を聴くことが出来ます。’71年の録音で、丁度、私がTVでよくこの曲を聴いていたのと同じ時期でした。
 大学に入ると、先輩ミュージシャン達は「あんなもんバイショウ(コマーシャルな音楽のことを指すバンドマン用語。)や。」と、北新地やキャバレーの仕事場での演目と見做し、アーティスティックなランキングは非常に低かった。つまり、ピンからキリまでありとあらゆる演奏家たちの手垢にまみれたスタンダードナンバーという感じ。私も同じようなステレオタイプに囚われ、今回の講座の対訳準備の際も、全くノーマークでした。しかし、実際に訳を作る段になると、このジョニー・マーサーの流れるような歌詞は、非常に手ごわく奥深く、「歌詞」や「歌詞解釈」について色々と考えざるを得なかった。
 それというのもエラ・フィッツジェラルドとトミー・フラナガン3の演奏に、しっかりと「歌の心」を聴けたからこそ、愚かなる私が、今まで見過ごしていたことを教えてもらったのです。エラってスイングしていて意味があるなあ!
  この「酒とバラの日々」は、前半と後半に分かれているABAB形式という形なのですが、歌詞には、たった二つのセンテンスしかありません。16小節分の言葉が、綺麗な韻を踏みながら一くくりに繋がっているんです。でも、日本語は英語と語順の構造が違う。歌詞を聴きながら読む為の訳は、なるべく後ろから前への「訳し上げ」を避けたいので、その特徴は残念ながら日本語では出せない。どうぞジャズ講座で、対訳OHPを見ながら、寺井尚之の楽しい解説をお楽しみください。

The days of wine and roses
Laugh and run away
Like a child at play
Through the meadow land toward a closing door,
A door marked nevermore that wasnt there before.
The lonely night discloses
Just a passing breeze filled with memories
Of the golden smile that introduced me to
The days of wine and roses and you.

 エラとトミーを聴きながら、私は歌の情景を色々頭に思い描く…

 明るい太陽がさんさんと降り注ぐ青空の下、見渡す限りの大草原を、まるでフェリーニの映画のように、「酒とバラの日々」の化身である愛らしい子供がキャッキャと笑いながら走って行く。その子を必死で追いかけるのだけど、不思議なことにどうしても追いつくことが出来ない。もう少しで捕まえられると思った途端、その子は不思議な扉に滑り込み、自分もそれに続こうとするのだけれど、扉は閉まってしまう。戸口には“nevermore”(ここから先へは行けないよ)と不思議な文字が書いてあり、自分は途方にくれてしまう。

そして後半になると、同じメロディなのに、情景はガラリと暗転する…
 ふと気が付くと、自分は現実の世界に戻り、深夜、寒々とした寝床にひとりぼっちで横たわっている。今見た情景は、追憶の気持ちが一陣の風になって吹き去った幻でしかなかったのだ。
 過ぎ去った酒とバラの日々、あの人との出会い、自分を輝かしい愛の日々に誘ったその微笑が今も心から離れない。どんなに懐かしんでも、決して輝いていた昔には戻れない。

  相似形の2つのメロディに、フルカラーとモノクロの情景が並置されて、より一層陰影のあるドラマチックな世界を作り上げている。
後半の語り口には、松尾芭蕉が最後に詠んだ俳句「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」を連想してしまいました。
 エラは、前半ではaway, play, またdoor,more,foreと韻を踏み、後半は有声音“z”の脚韻三連発を明快な発音で完璧にサウンドさせて行く。これは英語を母国語としない歌手には、一層至難の業。すっきり音を作らないと、マーサーの詞も生きずにイケテないバイショウの歌となり対訳を作るのが苦痛になります。
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 ジョニー・マーサー(1909-76)はCapitolレコードの創設者の一員。
 作詞はジョニー・マーサー(1909-76)、 彼をアメリカのポピュラー・ソング界最高の作詞家と絶賛する作詞家は多い。エラのソング・ブック・シリーズの内で、作曲家でなく作詞者のソングブックは、随一ジョニー・マーサー集だけだ。
 ジョニー・マーサーはジョージア州サヴァナの富裕な家庭に生まれたが、家業が没落したために、大学進学を辞め、NYに出て芸能界入り、ビング・クロスビーの後釜としてポール・ホワイトマン楽団に参加、先に歌手として名声を得た後、’30年代から、作詞家としても大活躍した。ちゃんと歌うと、丸みのある最高に美しいサウンドが作られる魔法のような歌詞は、彼自身が良い歌手であると同時に、抑揚の大きな言語文化の(大阪弁みたい)南部出身であるためかもしれません。
余談ですが、クリント・イーストウッドがマーサーの故郷サヴァナを舞台にし、彼の名曲をたっぷり使って、「真夜中のサバナ」という趣向を凝らしたミステリー映画を監督している。観ましたか?ケヴィン・スペイシーやジュード・ロウといった個性派がいい味を出してます。
 マーサーは決してマンシーニ専属ではなく、半世紀に渡る作詞活動の間、殆どの一流作曲家と共作している。マーサー自身も作曲をし“Dream”などの名曲をものにした。今回の講座では、That Old Black Magic(ハロルド・アーレン曲)がマーサーの詞です。
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左:Jazz Poetには”I’m Old Fashioned”、右:ハロルド・アーレン集には、“My Shining Hour”収録
 トミー・フラナガンの名演が印象的な“I’m Old Fashined”(ジェローム・カーン)“My Shining Hour”(ハロルド・アーレン)にもマーサーの響きのいい歌詞がついていて、フラナガンのピアノから、独特の丸いゆったりとしたサウンドが聴こえてきます。ホーギー・カーマイケル作曲の“Skylark”も響きが良くて情感が豊かな名作ですよね。講座本に収録されている曲にも、わんさかマーサー作品があります。そうそう、ビリー・ストレイホーンの超有名曲“Satin Doll”のヒップな歌詞も、マーサーがメロディに沿って付けたものだった。
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 「酒とバラの日々」のポスター、キャッチコピーは、“凍りつくような怖さ、でもこれはラブ・ストーリーだ。”
 「酒とバラの日々」は、アルコール依存症で壊れ行く夫婦の姿をテーマにした同名映画の主題歌で、マンシーニ=マーサーのコンビは’62年の「ムーンリヴァー」(ティファニーで朝食を)に続き、2年連続でオスカーを受賞した。映画は高校時代に見たのですが、余りに深刻な内容でガキにはちょっと判りづらかった。今もう一度観たら、映画の良さも判るかもしれません。
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 <ティファニーで朝食を>オードリー・ヘップバーン、この映画は当初マリリン・モンローの主演が予定されていたという。
 寺井尚之と私にとっては、元気な頃のトミー・フラナガンと過ごした日々が、「酒とバラの日々」だったかも知れない。トミーが寺井をNYに呼び寄せ、街中を食べ歩き、呑み歩き、パーティやジャズ・クラブを梯子した日々、そんな時代には決して戻れないけれど、今もそんなに悪くはない。それなりに人生を一定期間過ごせば、誰にでも、そんな戻れない日々に対する追憶は、あるはずですよね。
 毎晩自宅で晩酌をするせいで、なかなか夜中にブログを書ききれない私には、「酒バラ」は、むしろ映画の方が必見かも…
 新年ジャズ講座は1月12日(土)6:30pm開講!CU

エラ・フィッツジェラルド礼賛

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若き日のエラ・フィッツジェラルド!
 新年明けましておめでとうございます!本年もJazz Club OverSeasをよろしくお願いします。
 年末年始のラッシュも一段落。K-1や時代劇の間も、これから数ヶ月間、ジャズ講座に登場するエラ・フィッツジェラルドとトミー・フラナガン・トリオが繰り広げる歌、歌、歌が私の頭の中で鳴っています。
 エラ・フィッツジェラルドは1917年(大正6年)生れ、どんな年かと言いますと、アメリカは第一次大戦に参戦、日本では松下幸之助が改良ソケットを販売し、「味の素」の会社が設立された年であるそうです。エラは子供のときからNYヨンカーズで一番ダンスの上手な女の子と言われており、17歳(一説には16歳)の時、ハーレムはアポロ劇場の名物「アマチュアナイト」つまり「素人名人会」にダンサーとして出場し、賞金を獲得しようとします。ところが、本番間際に、地元で評判のダンスデュオ、エドワーズ・シスターズがエントリーしているのを知り、到底勝ち目がないと判断したエラは、急遽ダンスを断念し歌で勝負することに作戦変更、結果見事優勝!賞金25ドル也を獲得し、歌手への道が大きく開けたのです。
 もし、その夜ダンスの強敵が出場していなければ、エラは、ダンサーとしての人生を歩み、この感動は得られなかったかもしれないんですから、エドワーズ姉妹さんには感謝したい!
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エラはチック・ウェッブ楽団の看板歌手となってから、サインしてもらうため筋向いのクラブに出演していたビリー・ホリディを幕間に訪問したという逸話がある。
 その後はトントン拍子、10代でビリー・ホリディと並ぶ最高のバンドシンガーとなり、エラの後見人であった天才ドラマー、名バンドリーダー、チック・ウエッブの死後彼の楽団を引き継ぎ、僅か22歳でバンドリーダーの看板を張ります。
 やがて第2次大戦が勃発し、ビッグバンド時代が終焉を迎えると、ノーマン・グランツの強力なマネージメントの元、エラはソロ歌手として独立、台頭するBeBopのエレメンツを完璧に吸収し、スキャットだけで歌うFlying Homeや、How High the Moon, Oh, Lady Be Goodなど、その後何十年間に渡ってヴァージョンアップを続けたオハコのレパートリーをどんどん開発し、後年フラナガンとのコラボ時代に再び大輪の花を咲かせます。
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ハリウッドのセレブ御用達の一流クラブ“モカンボ”の人種差別のバリアを破り、初の黒人歌手としてエラを出演させるよう掛け合ったエラの熱烈なサポーター、マリリン・モンローと。
 
 ソロ歌手へ転進したエラ・フィッツジェラルドが、’50-’60年代、Mr.Jazzと言われた最高のマネジャー、プロモーター、ノーマン・グランツと打ち立てた金字塔が一連のソング・ブック・シリーズです。グランツの立ち上げたレコード会社Verveで、入念なアレンジを施したフル・オーケストラをバックに、ガーシュイン、コール・ポーター、ハロルド・アーレンなど、アメリカが生んだポピュラー・ソング芸術を作家別に次々と録音、アルバム・ジャケットにはビュッフェやマティスの趣味の良いアートを惜しみなく使用し、素材も歌もしつらえも超一流のミュージアム・レベルで、好セールスを記録するという偉業を達成しました。その当時のレコーディングは、当然、同時録音で、現在の、歌とオケの別録りでは聴けない、有機的なサウンドは大きな文化遺産です。
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ガーシュイン・ソングブックのジャケットはベルナール・ビュッフェの作品で統一されている。
 ソングブックの連作に対し、トミー・フラナガンが参加しているエラのレコーディングは殆どが録音コストのかからないライブ盤です。一説によれば、トミー・フラナガンは、グランツの様な大物ボスに対しても、自分のほうから揉み手をして、こびへつらうタイプではなかった為に不興を買い、スタジオ録音の機会をなかなか与えられなかったとも言われています。
 とはいえ、トミー&エラのライブ盤を聴きながら、そこで歌われる即興の歌詞を一語一句聴き取り、対訳を作っていると、トミーをバックにしたエラの歌唱には、豪華なソングブックでは聴くことの出来ない「途方もない爆発力」にシビれてしまう。
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 エラは目を悪くする前の最盛期には、年間40週以上(!)仕事を取り、世界中を駆け回りました。ハード・スケジュールはエラ自身の意思であったと言います。長年、そのスケジュールに付き合ったフラナガンは「エラにとって喝采に勝るものなし…」とちょっぴり皮肉を込めて語っています。(Jazz Lives/Michel Ullman著)
 エラ・フィッツジェラルドの歌唱の摩訶不思議なところは、エリントンであろうが、バカラックであろうが、どの歌も、「紛れもなくエラ」でありながら、彼女の私生活の「臭い」というものが、まるで感じられないところです。
 例えばビリー・ホリディを聴くと、「レディ、あんたも男で苦労したものねえ。」と、彼女の私生活に心を馳せてしまいます。トニー・ベネットの力強い声を聴くと彼の描く水彩画を思い出したり、美空ひばりを聴くと家族関係を想ったり、フランク・シナトラの洒落た歌いまわしを聴くと、「この録音の後はどこの店で遊んだんだろう?」とか…マイルス・デイヴィスなら、「この曲は、あのカスれ声で何か指示を出したのかしら?」とか…ファンは余計な事に思いを馳せつつ聴くのが楽しみなものです。
 だけど、エラは違う!エラの歌を聴いていると、歌にしか集中できなくなる。エラの実体はステージの上だけで、それ以外はかげろうのような抜け殻でも、全然不思議じゃないとさえ思う。…だけど、そう思わせるのが、真のスターなのかも知れません。
 
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’64年カンヌでのステージ、エラが登場する前の演奏、トミー、ロイ・エルドリッジ(tp)、ビル・ヤンシー(b)ガス・ジョンソン(ds)客席左端は、女優ソフィア・ローレンらしい。写真をクリックするとちょっとわかります。(写真提供;藤岡靖洋氏)
 
 加えてライブ盤では、エラの中に強力な充電池が存在しているのがはっきりと判る!聴衆の大歓声や熱い“気”を、胎内に取り込み、歌唱のエネルギーに変換して発散する。それにまたお客さんが反応してエネルギーを返す。その作用を繰り返すから、まるで「神が降りてきた」としか言いようのない凄い状況になる。多分、これは、ごく一部のミュージシャンにしか起らない化学反応です。私も、OverSeasでトミー・フラナガン、ジョージ・ムラーツ、サー・ローランド・ハナ、そしてモンティ・アレキサンダーのコンサートで同様の超常現象を目の当たりにしました。
 エラの場合、もう一枚、トミー・フラナガンが加わると、その充電能力がより増幅されて、パチパチと不思議な火花を散らすのを感じるのです。そうダイアナ・フラナガンに言うと、ダイアナは「余り拡大解釈しちゃダメよ。トミーは伴奏の仕事を粛々といしていただけなのよ。エラは叩き上げのバンドシンガーなんだから、トミーでなくたって、ちゃんとショウを作れるの!」とブレーキをかけます。でも、レコードを聴いてごらんよ!フラナガンが絶賛するエリス・ラーキンスや、名手ルー・レヴィー、ポール・スミス、コンビで売ったジョー・パス(g)、どの名演を聴いても、フラナガンがバックに回った時に立ち上る、チカチカとした、あの不思議な火花は見えないのです。そう言い返すと、ダイアナは妙に納得していた。
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 エラはJ.J.ジョンソン(tb)のように「ミスのない」名手ではありません。来週聴くエラのライブ録音の中には、明らかに体調不良と判るものがあります。エラはマドンナのようにコンサートをドタキャンするようなことはしないのだ!
 それどころか、歌詞やアレンジのミスもする!ピンチになるとスキャットの引用フレーズでHere’s That Rainy Day(まさかの事態になっちゃったわ)とか、Misty(私を見てよ、キュー出しするから)と歌いまくり、堂々とブロックサインでバックに状況説明して、土俵際をうっちゃる!これはすごい!歌詞を忘れるというのも、その時期の流行歌をどんどん取り込むためで、バーブラ・ストライザンドがたまにコンサートをする時、プロンプターにかじりついて歌詞を間違えずに済むというのと、土台レベルが違うのです。そんな場合にフラナガンが出す助け舟がまた凄い。007の秘密兵器のように最高の手際でエラを支えて復活させる。
 
 どんなジャズの解説書を見ても、エラ・フィッツジェラルドの最高傑作はソングブック・シリーズであると書かれています。しかしエラの最高にハジけた歌唱が聴けるのは、なんと言ってもトミー・フラナガンとの共演盤にとどめを指すのです。
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エラのおハコで、しかめつらしいクラシック音楽家が登場するユーモラスな歌、『Mr.パガニーニ』で彼女はこう歌ってる。
“パガニーニさん、
もうケチるのはイイ加減にしてよ。
あんたの奥の手は何なのさ?
さあさあ、ハジけてみなさいよ。
ハジけないなら、
せめてスイングしなさいよ!”

新年のジャズ講座は1月12日(土)6pm開講。CU