A Dream Comes True/リリアン・テリー+トミー・フラナガン3(’92 Soulnote)
先日の The Mainstem Trio のライブでは、流星が降り注ぐようにロマンチックなStar-Crossed Loversが聴けました!明日の出演は再びMainstem!こんどはどんな曲が聴けるのかが楽しみ!
先日、Mainstem=7月の曲 “Star-Crossed Lovers”を紹介した際に、フラナガンと共に名唱を残したリリアン・テリーのサイトから、このレコーディングの経緯や、取り上げた歌詞について問い合わせしてみました。返事が来なくてモトモトと思っていたんですが、とっても丁寧なお返事を頂きました。
私なんか見ず知らずの日本人、大体イタリアの歌手です、英語で返事なんて邪魔臭いだろう…と思っていたらさにあらず! 頂いたメールの内容もさることながら、品のある素晴らしい英文の手紙でした。リリアン・テリーさんは、優しそうな歌のお姉さんに見えるけど、只者ではなかった…
ジュアン・レ・パンにて:’66のリリアンとデューク・エリントン
彼女のサイトから、経歴を見てみよう。
リリアン・テリーはエジプト、カイロ生(レディのサイトに生年月日はない。)一般には、英伊混血の歌手と言われていますが、お父さんは、英国人と言えどもイギリス諸島ではなく、英連邦の地中海の島マルタ共和国の人です、お母さんがイタリア人、リリアンはカイロ、フィレンツェで国際教育を受け、現在、イタリー、ニース、LAに居を構えるコスモポリタンです。
イタリアきってのジャズ歌手、イタリア・ジャズのゴッドマザーと呼ばれ、エリントンやディジー・ガレスピーなど多くのジャズの巨人達と親交を結び、ヨーロッパ全土、アメリカ西海岸などで音楽活動していますが、彼女のキャリアは単なる歌手にとどまらない。
英、伊、仏語のマルチリンガルで、各国の公館通訳、翻訳者を経て、ローマにある国連食糧農業機関本部に勤務したキャリア・ウーマンらしいから、もともと上流階級の人なのかも知れない。
歌唱以外のジャズの業績としてはディジー・ガレスピーの回想録のイタリア語訳を手がけたり、1987年から6年間、ディジー・ガレスピー・ポピュラー・スクール・オブ・ミュージックを立ち上げ、盲人コースも設立した。現在は人間ディジー・ガレスピーについての回想録を執筆中とのことです。
そんな才女、リリアン・テリーから来たEメールには、Star-Crossed Loversの歌詞や、トミー・フラナガンとの共演のいきさつが細かく書かれていました。こんな内容です。
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親愛なるタマエ
私のアルバムを気に入って頂けたとは、何て素敵なことでしょう!
喜んでトミー・フラナガンと共演したいきさつをお伝えしたいと思います。
この当時、私は、数年間レコーディングのブランクがありました。というのも、声帯を痛め、治療をして、何とか歌えるようにはなったのですが、わざわざ国内のミュージシャンと録音する意欲を失っていたのです。
ローマでジャズ・フェスティバルが開催され、あるディナーの席でたまたま向かいの席に座ったのがトミー・フラナガンでした。長年、私は彼の歌伴に魅了されていたので、彼にそう話すと、私が歌手なのかと尋ねられました。すると、私の長年の友人、マックス・ローチが話に入ってきて、「イタリーのトップシンガーで、ヨーロッパでも指折りの歌手だ。」と言ってくれたのです。すると、「一番最近録音したLPは?」と訊かれましたので、実はここ数年レコーディングしていないこと、でも、常々素晴らしい伴奏者を持っているエラ・フィッツジェラルドを羨ましく思っていたこと、その伴奏者、トミー・フラナガンとなら、ぜひ録音したいこと、さもなければ、私はもう二度とレコーディングしないと誓う、と言ったんです。
トミーは、喜んでくれましたが、その反面、からかわれているのではないかと思ったようです。でも、何を歌いたいのかと訊いてくれました。”I Remember Clifford”、” Round Midnight”、”Lish Life”…私の歌いたい曲を並べると、彼は更に興味を感じたようでした。
Lテリーのサイトより:左からスティーヴィー・ジョーンズ、リリアン、ビリー・ストレイホーン、キモノでくつろくデューク・エリントン (’66 ジュアン・レ・パンのホテルにて)
私は、トミーがエリントン-ストレイホーンの愛好者と知っていたので、こう言ったんです。「実はもう一曲、殆どのピアニストが演らない特別なバラードがあるんです。私は、その歌詞をビリー・ストレイホーンから特別に送ってもらったので、歌うことが出来るんです。」
トミーはますます興味を惹かれた様子だったので、私はさらに続けました。「それは何年も前に録音された組曲で、ジョニー・ホッジス(as)が最高なんです!(トミーは殆どテーブルを乗り越えそうになっていました。)『Such Sweet Thunder』 という組曲なんですけど…」私が曲の名前を言う前に、先にトミーが当てました。「“StarCrossed Lovers”だね!!!僕も大好きなんだ!それで、君にストレイスが歌詞を送ってきたの?!」
すぐさま私たちは、お互いのスケジュールをチェックし合って、1,2日間のレコーディングの日程を決めたのです。ミラノにいる私のプロデューサーと相談して、数ヵ月後に録音しました。どの曲もリハーサルは一切なし、サウンドチェックを一回しただけです。
サウンドチェックをして即本番、そして次の歌へ…今まで、こんなにリラックスして、共演者と一体感を感じたセッションはありませんでした。トミーと私は良い友達になり、私は彼に”クッキー・モンスター”とあだ名を付けました。だってレコーディングの間中、クッキーやビスケットをむしゃむしゃ食べちゃうんです。だから、私はあらゆる種類のクッキーをピアノの上に置いてあげました。
もちろん、アルバム・タイトルは「A Dream Comes True: 夢が叶う」としました。
その後、私はディジー・ガレスピー、ケニー・ドリュー、ヴォン・フリーマンたち色々なアーティストと録音しました。でも、あの時に、トミーの名人芸に応えた「私の声」を再び呼び覚ますことは叶わなかった…。
あのLPが、成功作であったかのかどうかは判りませんが、全てはトミー・フラナガンと、彼が私の歌をよく聴いてくれたおかげ、あるいは、“私と共に”そして“私のために”演奏してくれたおかげだと思っています。私達は、ぜひもう一作、と話し合いましたが、結局、彼は私を残し、他のジャズの天使達との共演のために旅立って行きました。
でも、あの作品を録音できたことだけで、私は十分に幸運であったと思います。だからこそ、あなたの心に触れて、メールを頂くことが出来たわけですしね。
ご主人にも、私のレコードを聴いてくださった日本の皆さんにも、どうぞ宜しく!
リリアン・テリー
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ロメオとジュリエットに因んだ歌、「悲運の恋人達」の不幸な星は、天界を巡るうちに幸運の星と変わり、リリアン・テリーにトミー・フラナガンの名伴奏をもたらしたのだったんですね…
Good night, good night! parting is such sweet sorrow,
That I shall say good night till it be morrow.(ロメオ&ジュリエット第二幕三場より)
おやすみなさい、おやすみ・・・お別れとは、これほど切なく甘きもの、
それならいっそ夜明けまで、おやすみなさいと言い続けようか…
私もいっそ夜明けまで、このブログを書き続けたいんですが、明日は、寺井尚之The Mainstem Trio 7月第二弾!!
おやすみなさい、おやすみ・・・
CU
月: 2008年7月
The Mainstemで夕涼み
’08 7/19(土) 於OverSeas
ピアニスト寺井尚之が、長年の英知を総結集して大きく育てる新ユニット、The Mainstemで、爽やかなジャズの夕涼み!
毎回違う素材を、Mainstemならではのしつらえで、お客様に満足していただくには、寺井尚之(p)だけでなく、宮本在浩(b)、菅一平(ds)の、見えない努力が欠かせない。Mainstemのセカンドライブは、骨太でありながら冴え冴えしたサウンド、ダイナミクスの振幅も大きく、爽やかな後味だった。
“BOYS2MEN” 元寺井尚之ジャズピアノ教室のホープだった金ちゃんが、東京から久々に聴きに来て、むなぞう若頭とリユニオン!二人とも大人になったなあ…
The MainstemSpecial Selection: 今夜の曲目
(曲目のブルーの字は、先週のジャズ講座に登場したナンバー。)
<1st Set>
1. Crazy Rhythm (Irving Caeser, Joseph Meyer, Roger Wolfe Kahn)
2. One Foot in the Gutter (Clark Terry)
3. Repetition (Neal Hefti)
4.Little Waltz (Ron Carter)
5. Well, You Needn’t (Thelonious Monk)
<2nd Set>
1. Summer Serenade (Benny Carter)~ First Trip (Ron Carter)
2. Moon & Sand (Alec Wilder)
3. Mrs. Miniver (Dexter Gordon)
4. I Cover the Waterfront (Johnny Green)
5. Old Devil Moon (Burton Lane)
<3rd Set>
1. Syeeda’s Song Flute (John Coltrane)
2. Central Park West (John Coltrane)
3. Trane Connections (Jimmy Heath)
4. Star-Crossed Lovers (Billy Strayhorn)
5. Black and Tan Fantasy (Duke Ellington)
Encore: Caravan (Juan Tizol- Duke Ellington)
<1st Set>
オープニングで爽快にスイングした“クレイジー・リズム”は、昨年暮に講座で取り上げてから、寺井の愛奏曲になった。
“ワン・フット・イン・ザ・ガター”は寺井尚之が大好きなトランペッター、クラーク・テリーのオリジナル、天井の高いひんやりした教会のステンドグラスを震わせるようにブルージーなピアノのエンディングに泣けた!『溝にはまった片足』なんて、変てこなタイトルでしょ? 実は「聖者の行進」の昔、テリーが育ったセント・ルイスの街でパレードの花形だったハム・デイビスというトランペッターに捧げた曲なんです。
ジャズ史の影には無名の巨人が沢山いるのだ!ハムは、行進の時、わざと脇の溝に滑り落ちながら、ハイノートをピリっとも狂わせずにヒットする名手!クラーク・テリー少年のヒーローだった。メロディより遥か2オクターブ上を朗々と吹くペットの音は、町中に響き渡り、10マイル先でも、「あっ、ハムだ!」と判ったというのです。テリーは、もう一曲、“Two Feet in the Gutter”という曲もハム・デイヴィスに捧げている。
リピティションは、ニール・ヘフティのダンサブルな曲、チャーリー・パーカーの、風が吹き抜けるような名演で知られている。寺井が、宮本在浩(b)+菅一平(ds)のリズムチームの為に書き下ろしたアレンジで、今後、The Mainstemのおハコになるでしょう!
1-4,5,2-1,2はこのアルバムに!
『Sugar Roy』/ロイ・ヘインズ(ds)
“リトル・ワルツ”は、モネの「睡蓮」のように光や風の「ゆらぎ」を感じさせてくれます。宮本在浩(b)のベースラインが、ピアノのサウンドに絡まる様子が素晴らしかった!
ラストのモンク・チューンには、ドラムの菅一平が、強力にパワーアップしていることを改めて思い知らされました。
<2nd Set>
湿気で鍵盤が重い故、ことさらタッチを研ぎ澄ませているせいか、湿気を含んだせいなのか、ピアノは熟した果実のような芳香を放ちます。夕涼みにぴったりのサマー・セレナーデをプロローグに、ジャズ講座で聴いたロン・カーター(b)が印象的だったファースト・トリップで、宮本在浩さんの茶目っ気溢れる、「変則ビート」が飛び出して、講座に来られていた常連さんはニンマリ!
ムーン&サンドは、アメリカ東海岸の文化の権化みたいな、ユニークで偏屈でロマンチックな作曲家、アレック・ワイルダーの名曲。寺井のプレイで長年聴いてきましたが、今までのベスト・バージョンのひとつ!この夜のハイライトだった。ワイルダーは多分、ニューイングランドの夜の海をイメージして書いたのだろうけど、今夜のThe Mainstemのバージョンはどこの海だったのだろう…私はインド洋の離島、電気のないコテージで過ごした夜を想いました。
Mrs.ミニヴァーも、『ザ・パンサー/デクスター・ゴードン』でジャズ講座に登場した曲、ゴードンの大きなストライドの吹きっぷりそのままに、ゆったりしたテンポでスイングしてヒップだったね!
波止場に佇みは、寺井尚之にとって、映画の主題歌ではなく、ビリー・ホリディのおハコです。「恋人の帰りを、荒涼とした波止場で待ち望む切ない曲」ただし、ホリデイの歌う恋人は「きっと帰っては来ない」けど、寺井尚之の解釈には「希望」の光が点る。えっ?イントロのメロディがどっかで聴いた事あるけど思い出せないって? だからね、「男はつらいよ」のテーマ・ソングだったんです。こういうところが寺井イズム!
そして、ラストはオールド・デヴィル・ムーン ラテンと4ビートのギアチェンジで、ハッピーエンドに楽しく仕上げました。
<3rd Set>
レパートリーの視点から一番惹かれたのはラスト・セット。コルトレーンの2作は、トレーンの作曲家としての偉大さを教えてくれます!ジミー・ヒースがトレーンに捧げたトレーン・コネクションズも、ライブでは滅多に聴けない名作で、聴けて良かった!
寺井が初めてジャズを聴いたのは、予備校時代、涼みに入った真夏のジャズ喫茶での「至上の愛」だった。ジョン・コルトレーンの命日は7月。トレーンの曲は手強いけれど、バッパーが演ると、冴え冴えして色気が出るという見本だった。
コルトレーンの世界から、いとも自然に7月の曲、スター・クロスト・ラヴァーズへ!この辺りの組み合わせが『メインステム流』!ロマンティックだけどベタベタしない、最高の七夕のバラード!
ラストはエリントニアの極めつけ黒と茶の幻想!河原達人さんの数々の名演を見ながら覚えた菅一平のマレットさばきに目を奪わた。
アンコールのキャラバンは、弾丸スピードのスインガー、F1スポーツカーで飛ばしながら、シフト・チェンジするのは、こんな快感なのだろうか?グルーブが変化しながら快感も加速!
次回のThe Mainstemは、今週の金曜日です。曲のウンチクを知らなくたって、初めてジャズを聴く人だって、フィンガー・スナップ・クラックル、きっと楽しいワンダーランド! The Mainstemにお越しやす!
CU
ギンギンギラギラ…ボビー・ダーハム(ds)追悼
Bobby Durham(1937-2008)
7月7日未明、イタリアのジェノバでドラマー、ボビー・ダーハムが亡くなった。享年71歳。肺がんと肺気腫であったとのことです。
4月からジャズ講座で毎月、彼の鮮やかなドラムを聴いていて、より身近に感じていた矢先の死去でした。
講座で聴いて来たボビー・ダーハム参加アルバムは凄いのが一杯!左から”トーキョー・リサイタル” ”エラ・フィッツジェラルド、モントルー’75″…
<ニッポンイチ!>
寺井が雪の京都で初めてトミー・フラナガンに弟子入り志願した’75年、エラ・フィッツジェラルドと来日したフラナガン・トリオのドラマーが、このダーハムだった。寺井尚之は、先日のジャズ講座で、京都会館の控え室に入ってきたボビー・ダーハムの印象を、こんな風に語っている。
「暴走族の兄ちゃんが、ヤクザの組事務所に行って、正真正銘のほんまもんの極道に初めてメンチ切られた感じ。ダーハムは、オスカー・ピーターソン・トリオですでに名を成してはったし、とにかく物凄いオーラがあった…」
そのステージのトリオ演奏は、“前座”には程遠い圧倒的にハードな演奏だった! 私は某氏の秘蔵する音質の悪いテープで聴いたのですが、演奏に負けないほどソリッドだったのは満員のお客さんの反応! …涙が出た。
まるで、背番号だけで、全選手を熟知するヤンキー・スタジアムか熱闘甲子園…
近畿一円からプロのバンドマン達も沢山来ているから、手拍子もズレないし、口笛だって最高のタイミングで入るんです。
Caravanのドラムソロでボビー・ダーハムがクライマックスに達した瞬間、すかさず大向こうから「日本一!」の掛け声がかかる!多分ダーハムは、その意味は知らないはずなのに、ハイハットの二段打ちを炸裂させて、大見得を切った。
ストレイホーンのAll Day LongからOleoまで… 天から何かが降りて来たような状態で、エラが登場するまでに、もの凄いことになっていた…
この夜に、寺井尚之も、客席にいた未来の鉄人、中嶋明彦(b)さんも、一生プロでやって行こうと思ったそうです。
私自身、JATPやオスカー・ピーターソン3で何度かボビー・ダーハムのステージを観ました。個人的には会ったことはないけど、寺井の印象はよく判る。アーサー・テイラー(ds)がサムライであり『剣豪』であるならば、ボビー・ダーハムは、無頼であり『人斬り』だ。腕はめっぽう立つし、自分の持ち場を心得て、緩急自在のツボにはまったプレイだけど、シズルの付いたシンバルもギラギラで「今宵の虎轍(こてつ)は血に飢えた」風情、絶対カタギじゃない! だからこそカッコよくて堪らないドラマーだったんです。
<かつてドラマーはダンサーだった。>
ダーハムは’37年、フィリー・ジョー・ジョーンズやヒース・ブラザーズを輩出したフィラデルフィア生まれ。両親も叔父もタップ・ダンサーの家系に生まれ、よちよち歩きの2歳から、母にタップと歌を習う。トロンボーンやヴァイブラフォン、ベースなど、色んな楽器を習得した上で、ドラマーの道を選びました。
デューク・エリントン楽団のハーレム時代の花形ドラマー、ソニー・グリアーや、ドラム・ソロが、そのままダンスだったエディ・ロック…タキシード姿でも、ドラム・スツールに座るとボロボロのダンス・シューズに履き替えたパパ・ジョー・ジョーンズ… ’昔はダンサー出身のドラマーが多かった。“華”のあるドラムとダンスには、秘密の関係があるに違いない。
ダーハムの名前を一躍有名にしたのは、何と言ってもオスカー・ピーターソン(p)トリオです。エド・シグペン(ds)の後、断続的に’66~ ’71まで在籍、モンティ・アレキサンダー(p)とも名トリオを組んだ。エラとフラナガンは言うまでもないけど、元々R & B畑のダーハムはジャズだけでなく、ジェイムズ・ブラウン、マーヴィン・ゲイやレイ・チャールズ、そしてフランク・シナトラとも録音しているらしい。具体的にどのアルバムなのか、知っていたら教えてください。
<コワモテ>
ステージでみせた「カタギでないかっこよさ」そのままに、ボビー・ダーハムは、なかなか難しい人であったらしい。アル中と噂され、トミー・フラナガンが独立後も、ボビー・ダーハムとは断続的に共演しているけど、ギグに遅刻することも、たびたびあったらしい。
私のスクラップfrom the Appleから:’89年のヴォイス誌のad.
寺井尚之の友人、チャック・レッド(ドラマー、ヴァイブ奏者)が、その昔、NYにトミー・フラナガン3を聴きに行った時のこと。ドラムのダーハムがヴィレッジ・ヴァンガードの演奏時間になっても現れない。それで、フラナガンは客席にいたチャックに急遽代役を頼んだ。ラッキー・ガイ!チャックは、憧れのトミー・フラナガン、ジョージ・ムラーツと、天にも昇る心地でプレイしていたのですが、1セット目が終わる頃に、酔っ払ったボビー・ダーハムが現れた。
ダーハムは、チャックに穴埋めの礼を言うどころか、物凄い剣幕で「おまえ何やってんだ。さっさとどけよ!」とドヤしつけたらしい。だからってチャックは、ダーハムを恨んだりする人じゃないんだけど、怖かっただろうな…
<人格者オスカー・ピーターソンの証言>
オスカー・ピーターソン時代に弾丸スピードで“Daahoud”を演っている圧巻の動画発見。ベースはレイ・ブラウン
UKの高級新聞、「インデペンデント」誌にスティーヴ・ヴォースが寄稿した追悼記事には、ピーターソンの興味深い証言が載っている。
オスカー・ピーターソン: ボビーは、初参加した時でも、まるで何年も一緒に演っているように感じた。他のプレイヤーなら、譜面に予め書いておかないと判らないような細かいところまで見越して叩いたからだ。
私がボビーに付けたニックネームは“Thug(殺し屋)”だ。フィラデルフィアでも、一番物騒な土地の出身で、昔ボクシングで鳴らしたを荒くれ男だったからね。
ダーハムは、トリオのベーシスト、サム・ジョーンズと仲が良かったんだが、スイスのツアー中、列車の中で大喧嘩をやらかした。サムは長身でダーハムは小柄なのだが、サムに乱暴しようとしたんだよ。ボビーは後から、ノッポを殴り倒す極意を、とうとうと講義していたよ…
一番左がダーハム、右端がサム・ジョーンズです。ダーハムは背伸びしているみたい…
<あのデュークがクビにした…>
ピーターソンがボビー・ダーハムを気に入ったのは、エリントン楽団の複雑なアンサンブルで、いとも易々と華のある演奏をしていたからだったと言いますが、ダーハムは、メンバーを解雇しないことで知られる名君主、デューク・エリントンからクビにされた数少ないミュージシャンの一人でもあります。(もう一人は、ベーシスト、チャーリー・ミンガスらしいです…)
息子のマーサー・エリントンの証言によると、解雇の原因は、生意気で、デュークの言う事を聞かなかったからだった。
ところが皮肉にも、「2週間後解雇の通告」を受けてからのダーハムのプレイは、あっさりトゲが取れて、エリントン楽団にぴったりのリラックスしたものになっていた…「なんだ、最初からこう演ってくれればいいのに!」ということになり、解雇の撤回を決定した時には、すでにオスカー・ピーターソン・トリオへの移籍が決まっていたんです…
プライドが高くて喧嘩っ早いけれど、超一流の腕があったダーハムには、一匹狼の板前みたいに、いくらでも職場があった。ピーターソン・トリオを退団後、即、当時売り出し中の若手だったモンティ・アレキサンダーとトリオを組み、何枚も名盤を録音、その後、エラ・フィッツジェラルドのバックに参入した。
フラナガンがエラのトリオから独立した後も、ダーハムはノーマン・グランツに可愛がられ、世界中のジャズフェスティバルに出演、特にヨーロッパで人気を博しました。
晩年のダーハムはスイスと、イタリアに住居を持ち、地元ミュージシャンと活動を続けていた。亡くなったジェノヴァの小さな村、イーゾラ・デル・カントーネでは、ここ数年間『ボビー・ダーハム・ジャズフェスティバル』というイベントが開かれ、ダーハムが亡くなる数日前にも開催されていた。
気難しいヤクザな名ドラマー、ボビー・ダーハムも、自分の天才を判ってくれる人達には、聖人のようにとことん良くした人だったのではないだろうか?と、私は思う。
晩年すごしたイタリアの村では、一肌も二肌も脱いで、アメリカのミュージシャンを呼び、村起こしに貢献したのではないだろうか?
今後のジャズ講座では、エラ・フィッツジェラルド、トミー・フラナガン3のライブ盤 <Montreux ’77 >や、 来月は、Eddie “Lockjaw” Davisのワン・ホーン作品 -< Straight Ahead>などでボビー・ダーハムのプレイを偲ぶことが出来ます。
合掌
寺井珠重の対訳ノート(11)スター・クロスト・ラヴァーズを聴きながら…
7月になると、“Star-Crossed Lovers”(不幸な星めぐりで、添い遂げることの出来ない恋人達)という名の美しいバラードが、OverSeasで聴ます。
寺井尚之は“Star-Crossed Lovers”に、「七夕」にしか逢うことの出来ない恋人たち、織姫、彦星のイメージを重ねて、天の川のように瞬く幻想的なサウンドに乗せて聴かせてくれる。
<Such Sweet Thunder>
“Star-Crossed Lovers”、言葉の起源は、エリザベス朝時代、文豪シェイクスピアが戯曲『ロメオとジュリエット』のために創りだしたものだった。以来『ロメオとジュリエット』の物語は、どんなに時代が変わっても愛され続けます。
シェークスピアの時代から4世紀が経った1956年、デューク・エリントンとビリー・ストレイホーンのコンビは、カナダ、オンタリオ州で開催された”シェイクスピア・フェスティヴァル”のために、“Such Sweet Thunder”というシェイクスピア組曲を書き下ろす。それは、マクベスやハムレットなど、シェイクスピアの作品に因んだ12曲から成るもので、“Star-Crossed Lovers”は、もちろん『ロメオとジュリエット』に因んだ作品だった。
組曲のタイトル・チューン、”Such Sweet Thunder”(かくも甘美なる雷鳴)は、”真夏の夜の夢”のセリフですが、「甘美なる雷」とは、エリントン楽団そのもの!この言いえて妙なネーミングはストレイホーンのアイデアかな…
ビリー・ストレイホーンは、バンド・メンバーから”シェイクスピア”とあだ名を付けられる程の、シェイクスピア・オタク。何しろビリーをちゃんと言うとウィリアム!4世紀前のビリー・シェイクスピアが同性に対して謳った哀切なソネットに共感したのかも・・・、ですからこの組曲のオファーに張り切ったのですが、作曲期間はたったの3週間!その間、デューク・エリントンは楽団と共に”バードランド”に出演中で、演奏の合間に曲のデッサンを書きまくる。それを元に、アパートに缶詰になったストレイホーンが、作曲と組曲の体裁を整えるという自転車操業…おまけに別の大プロジェクトを同時進行させていて、到底締め切りに間に合わない絶体絶命でした。そこで、前に作っていた“Pretty Girl”というタイトルのバラードを、”Star-Crossed Lovers”と改題して使いまわした。
料亭の「使いまわし」はバッシングにあうけれど、このリサイクルは大成功!キーは D♭メジャー、A(8)-B(4)-C(4)-D(6)、計22小節という優雅な変則小節で奥行きを感じさせ、色気と品格を併せ持つこの作品には、”プリティ・ガール”より”Star-Crossed Lovers”の方がずっとぴったりすると思いませんか?
この曲は、日本を代表する文学者、村上春樹のお気に入りでもあり、ジャズファンよりハルキストの方がよく知っている曲かもしれない。村上が’90年代初めに書いた長編、『国境の南、太陽の西』には様々な曲が作品に彩りを添えているけど、エリントン楽団による”Star-Crossed Lovers”は、この長編の「愛のテーマ」的な役割として使われている。というか、村上さんは、ジョニー・ホッジスの演奏スタイルを使って、一編の長編小説を作ってみたのでないか、という印象さえ受けます。
1951年という時代には稀な一人っ子として生まれ、何となく屈折した思いを持つハジメという名前の「僕」は、小学生の時、やっぱり一人っ子で、足の不自由な女の子、「島本さん」と出会い、唯一心を通わせるのだけれど、中学に入ると別れ別れになり、別々の人生を歩む。
次に交際したガールフレンドは「イズミ」で気立ての良い魅力的な女の子だったが、「僕」は彼女の従姉妹と同時に肉体関係を持ち、「イズミ」をひどく傷つけてしまう。誰と交際しても、「島本さん」のようには、心を通わせることが出来ない。
バブル時代の東京、「僕」は30代で結婚をし、子供をもうけ、都心の洒落たジャズ・バー“ロビンズ・ネスト”のオーナーとなり、適当に浮気も楽しみながら、裕福な生活を送っている。
「僕」が経営する店に赴くと、必ずハウス・ピアニストは、彼のお気に入りの曲、”Star-Crossed Lovers”を演奏する。そんな彼の店に、美しい大人の女性に成長した「島本さん」が不意に訪ねてくる。彼女も同じように、ずっと自分のことを思い続けていたのだ。
「島本さん」は私生活を明かさず、彼の店に通い詰めたかと思えば、数ヶ月姿をくらまし消息を絶ってしまう魔性の女、まるで星の巡行のように、数ヶ月単位で近づいたり離れたりするのです。「僕」は、そんな彼女に、どうしようもなくのめりこみ、とうとう箱根の別荘で一夜を過ごし、「気持ち」だけでなく「肉体」も結ばれるのです。
思いを遂げて幸せになったと思えばさにあらず….
全てを投げ打って、島本さんと人生を再出発しようとする「僕」とは逆に、島本さんは「僕」と心中することを決意していた。「僕」と死ねなかった彼女は結ばれた翌朝、忽然と姿を消してしまう… そして、何も気づいていないと思っていた「僕」の妻も、夫の恋に気づいていて、自殺を考えていた事を知らされる・・・
「島本さん」を失った「僕」は、映画カサブランカのリックのように、店のピアニストに向かって言う、「もう、スター・クロスト・ラバーズは弾かなくてもいいよ。」…
結局、スター・クロスト・ラバーズは、「僕」と「島本さん」だけでなく、この小説に登場する全員のメタファー(隠喩)で、様々な「星」の行き違う様子を語った物語だったのだと、読んでから判るんです。
<リリアン・テリーの歌うStar-Crossed Lovers>
前にも書いたように、トミー・フラナガンは、《Tommy Flanagan Trio, Montreux ’77》や、《Encounter!》で演っているのですが、もう一枚、イタリアのジャズ・シンガー、リリアン・テリーとの共演作でも、フラナガンは息を呑むようなソロ・ルバートを聴かせています。このアルバムは、ピアノの役割が、単に「歌伴」というカテゴリーに納まらないほど大きいんです。歌詞は、原型の<Pretty Girl>にストレイホーンが付けた歌詞を、ほんの少し変えて、とってもうまく歌いました。
アルバムのタイトルは《A Dream Comes True》(Soul Note ’82作)、楽曲や共演者に対する尊敬が伝わる、いい感じの作品です!
Star Crossed Lovers
Billy Strayhorn=Duke Ellington
Lover boy, you with a smile,
Come spend awhile with poor little me.
Lover boy, you standing there,
Won’t you come Share my eternity?You could make me a glad one I long to be
Instead of a sad one that you see.Let me live for awhile,
Won’t you give just a smile?Lover boy, you with the eyes,
Won’t you surprise me some fine day.愛しい人、どうぞ私に微笑みを、
あなたを想う哀れな私と
しばしの間、ご一緒に、
愛しい人、佇むあなたをただ見つめるだけ、
どうぞ永遠の愛を受け入れて。あなたなら、幸せな夢を叶えてくれる、
寂しい私を変えられる。しばらくだけでいいんです、
どうぞ私に生命を与えて。
微笑んでくれるだけでいいのです。愛しい人よ、その瞳で魔法をかけて、
いつの日か、思いがけない喜びを下さいな。
”Star-Crossed Lovers”のメロディを胸の中に鳴らしながら、私は、店からの帰り道、夏の夜空を眺める。
小説を読むのもよし、エリントン楽団や、トミー・フラナガン、色々聴くのもいいけれど、私はやっぱりOverSeasで7月に聴くのが好き!
『国境の南、太陽の西』に出てくる”ロビンズ・ネスト”みたいな、一流のバーテンダーはいないし、アルマーニのネクタイを締めたハンサムなオーナーもいないけど、プレイはずっとうちの方がいいと思う!
そんなStar Crossed Lovers...Mainstemの演奏で7月にぜひ聴いてみて欲しい!
CU
コールマン・ホーキンスの話をしよう!(2)
撮影:Terry Cryer
<ホーク、ヨーロッパに行く>
10代でテナーの実力者と称えられたコールマン・ホーキンスは、20歳で名バンド、フレッチャー・ヘンダーソン楽団の看板奏者となり、実力、名声、そしてお金を手にします。楽団の人気を分けたルイ・アームストロングは僅か2年で独立したけれど、ホークは約10年勤続、その間、スターに相応しいファッションや高級車にはお金を使っても、無駄使いは決してしなかった。
クライスラー・インペリアル’32型:友人になだめられロールス・ロイスを諦めて、こんなのを即金で買ったらしい…
当時、コールマン・ホーキンスが自分を磨くために心がけていたことが一つあります。
どこに楽旅しても、必ず「その地元の音楽を聴くこと。」
トップ・プレイヤーでありながら、常に新しいアイデアを取り入れようとしていたんですね!グローバル化されていない世界には、色んな地方に、斬新なアイデアや奏法が、ダイヤの原石の様にゴロゴロころがっていた。ホークは色んな場所で見つけたアイデアに磨きをかけ、自分のものにしたのです。
「いつか耳にしたものが、気づかないうちに、自分の中のどこかに留まっていて、忘れていても、ひょっこりと顔を出す。」と述懐しています。彼が受けた影響の内、最も顕著なのは先週書いたように、アート・テイタムだった。
やがてジャズとギャングのビッグ・タイムだった禁酒法時代が終わり、大恐慌がやって来た。楽団の凋落ぶりに失望したホーキンスは、30歳で一路ヨーロッパに向かいます。(’34)
新天地で彼を待っていたのは、一流音楽家に相応しい厚遇でした。ヨーロッパには黒人差別も区別もなかった。むしろ、肌の黒い人達は、エキゾチックで優美な美の象徴だったのです。
トップ・プレイヤーのプライドを持つ彼が要求したギャラに、ヨーロッパ人は驚いた。…安すぎたんです。ロンドン、パリ、ブリュッセル、どこに行っても、大歓迎を受けました。
サロンで催されるお昼のティーパーティなら、たった3曲演奏するだけ! 後は、バカラ・ルームで最高級のコニャックが飲み放題! 故国では、どんな豪華なボールルームで仕事をしようとも、どれほど一流でも、黒人は調理場でしか飲食は許されません。白人専用ホテルに宿泊なんてとんでもないことだった。ヨーロッパでは、そんな差別はない。彼は上流階級のエレガンスを吸収し、シックな服やクラシックの譜面を買い漁り、ロンドンを本拠にして、ステファン・グラッペリ(vln)やジャンゴ・ラインハルト(g)達とツアーもしました。
「人種差別はないが、音楽的にインスパイアされない」と、ロンドンから早めに帰国したベニー・カーターに比べ、ホーキンスは、ヨーロッパの水が合ったのかもしれない。
ベニー・カーターは今月12日(土)のジャズ講座に!
<Body & Soul>
ホークのヨーロッパ生活は五年で幕を閉じました。民族主義、ヒトラーの台頭で、黒人は、もはやドイツ国境を越える許可が下りなくなったのです。あれほど厚遇してくれた新天地に失望したホークは、’39年に合衆国に帰国。ヨーロッパで成功したアーティストとして、意外なほどの歓迎を受けましたが、トップの地位は、レスター・ヤングに変わっていた…ホーキンス35才のことです。
普通なら、音楽家としての発展はこれで一巻の終わりとなってもおかしくないんだけど、ホーキンスは非凡で運も味方した。帰国した年に、スタジオのレンタル時間が余っていたので、クラブ出演のアンコールとして愛奏していたバラードを録音してみただけの<Body & Soul>が大ヒット!
これを聴いたジミー・ヒース(ts)は、「これこそがサックス奏者のメロディ解釈の手本!」と実感したと言っています。後に、その印象を元にして<The Voice of the Saxophone>という名曲を書きました。ヒース・ブラザーズの『In Motion』というアルバムに入っているし、寺井尚之のレパートリーでもあります。
テイタムのプレイをサックスに取り込んだ和声の展開法が、間接的にビバップの誕生を促し、ホーク自ら進んでビバップに身を投じた。
<ビバップ>
ビバップの聖地52丁目のクラブ<ケリーズ・ステイブル>を根城にしたホークは、セロニアス・モンク(p)、マイルス・デイヴィス(tp)、オスカー・ペティフォード(b)など革新的な若手をどんどん起用。「まともなピアノを雇え!」とモンクに物議をかもしても、ビバップの革新性を理解するホーキンスは意に介さなかった。マイルス・デイヴィスの良さをいち早く看破したのも実はホーキンスだった。ディジー・ガレスピー、J.J.ジョンソン、ハワード・マギーといったバッパー達とどんどん共演し、モダン・ミュージックをバリバリ吹きまくるのです。
チャーリー・パーカーに影響を与え、BeBopの元になったのはレスター・ヤングというのが定説ですが、「もしホークが、アート・テイタムを聴かなかったら…、もしホークがヨーロッパから帰ってこなかったらBeBopという音楽は全く別物になっていただろう」と言うミュージシャンは多い。
<After Paris>
’50sに入ると、ロイ・エルドリッジ(tp)との双頭バンドやJATPで活躍しながら、アルコールが災いし「下降期」に入ったと、批評家達は言うけど、本当にそうだったのでしょうか?
’60年代、コールマン・ホーキンス・カルテットの一番手のピアニストだったトミー・フラナガン、二番手のサー・ローランド・ハナ…レギュラー・ベーシストのメジャー・ホリー、最後を看取ったエディ・ロック(ds)、晩年のホークを慕うミュージシャンは批評家達には賛成しない。
ホークは、第一人者であったのに、新しい音楽に心を開き続け、自分の演奏する姿を見せることによって、後輩達に立派なミュージシャンの姿を示したと口を揃えて言うのです。
60年代後半からは、アルコール依存症で内臓をやられ、レスター・ヤングがそうだったように、食事が摂れず痩せこけ、やつれを隠す為に口髭を生やした。思えばトミーもハナさんも、晩年は口髭を蓄えてたなあ…パノニカ夫人は独り暮らしのホークを気遣って、体調が悪くなったらすぐ電話できるよう、彼のアパートの至る所に電話を備え付けたと言います。
「その頃のホークは本当にアル中だったの?」とダイアナに尋ねたら、彼女は即座にこう切り返した。
「タマエ、歴史上のジャズの巨匠で、アル中でない人はいる?いたら言ってみなさい!」
ハナさんがホークに捧げた作品“After Paris”は、自宅の壁に掲げたパリの地図を懐かしそうに眺めていた最晩年のホークのイメージ。
最晩年、コールマン・ホーキンスは、体調を押してヨーロッパにツアーし、ヴィレッジ・ヴァンガードに定期的に出演したが’68年になるとさすがに仕事を控えた。それでも、サド・メルOrch.のライブはしっかり客席で見守っていたそうです。母親が96歳で天寿を全うした4ヵ月後、ホークは巨木が朽ちるように’69年5月に静かに亡くなりました。享年64歳。葬儀には、NY中のありとあらゆるミュージシャンが駆けつけたと言います。
BeBopの土壌を耕し、フラナガン達のミュージシャン・シップを育てたテナーの父、コールマン・ホーキンス。ぜひ、『At Ease』や、『No Strings』『Good Old Broadway』を聴いて見て欲しい。トミー・フラナガンやサー・ローランド・ハナがホークに見た「父親像」は、この二人のピアニストが身をもって寺井尚之に見せてくれた姿でもあったんです。
口髭を蓄えたトミー、’99 OverSeasにて。
コールマン・ホーキンスをもっと知りたければ、講座本第5巻を一度読んでみてください!
CU