タッド・ダメロンについて話そう!(3)

<ドラッグ刑務所にて>
narco_gate.jpg
   1958年4月、有罪判決を受けたタッド・ダメロンはケンタッキー州レキシントンにある連邦麻薬患者更正病院(The Federal Narcotics Hospital:通称 Narco)に入院した。
narcotics_farm.jpg   ナルコは、ドラッグ犯罪者の刑務所であると同時に、施設には牧場もあった。
 一般市民にも門戸を開放し、入院者が労働や娯楽活動を通じて、麻薬で失った自尊心や自信を回復できるプログラムを持つユニークなリハビリ施設だったが、治癒率は7パーセントと低く、隠密に麻薬の人体実験を行うなどの「影の仕事」が、閉院後にTVドキュメンタリーや左記の書物で明らかになっている。 

  ’40年代、「レキシントンに行く」と言えば、この病院を指すほど麻薬中毒は多かった。アメリカでは、当時ドラッグはアスピリンと同じくらい簡単に入手できたからだ。おまけに、教育を受けられない有色人種の子供は、売人にとって格好の潜在的マーケットとして、ただで薬を配られ、麻薬に親しまされた、という経緯がある。チャーリー・パーカーは、芸術的恍惚感を得る為だけにドラッグ中毒になったのではないのです。
 ここにお世話になったジャズの巨人達は枚挙に暇がない、思いつくだけで、ロリンズ、エルヴィン、キャノンボール、チェット・ベイカー…加えてスティット、アモンズ、デクスター・ゴードンは、「所持」でなく麻薬売買の罪で服役した。当然、刑務所内にはジャズバンドがあり、ダメロンは入所後、すぐに指揮者となるのですが、すぐに辞めてしまう。理由は、一般入院患者がすぐに退院してしまうので、固定メンバーが少なく、バンドがまとまらないからだったそうです。そしてダメロンは一般労働につく。レキシントンでは麻薬所持だけで犯罪歴のない者は、病院外で就労することもできたんです。
<クロフォード家のコックは幸せ者>
 ダメロンが選んだのは意外にもコックの仕事(!) なんでも養父の経営するレストランの調理場で7歳の時から働いたというキャリアがあったらしい。施設の近所にあるクロフォードさんというお宅に通い、毎日料理を作った。地獄で仏、クロフォードさん一家は、タッドを音楽家と認め、家族のように親切にしてくれた。このお宅にはピアノがあり、ご飯の支度以外、タッドはピアノにずっと向かっていてよかった。彼がピアノを弾いたり作曲する様子を見ているのが、クロフォード家の人達は大好きだったのだそうです。
   「あのお宅で、生まれて初めて他人の親切というものを知った。」と、タッドは述懐している。出所後も、レコードを送ったり文通し、この一家と交際を続けた。普通ならシャバに戻れば、牢屋の記憶は消し去りたいはずでしょうから、ダメロンとこの家族の間には、よほど特別なつながりがあったのではないだろうか?
<レキシントンから吹く風は…>
smooth_as_the_wind.jpg
 もう少しで刑期が終わる頃、NYからダメロンに一通の手紙が届いた。それは、リヴァーサイド・レコードの重役、オリン・キープニュースからの仕事の依頼だった。
 ブルー・ミッチェル(tp)とストリングス、ブラスアンサンブルを組み合わせたアルバムの制作にあたり、ダメロンに編曲を依頼することに決定したのだ。NYからはるか彼方で服役中のダメロンに白羽の矢を立てた裏には、キープニュースと懇意であったダメロンの親友、フィリー・ジョー・ジョーンズの尽力があったのことは、容易に想像できます。
 ダメロンは、レキシントンから、アルバム中、2曲の書き下ろしオリジナルと5曲の編曲を提供。
 心にすがすがしさと平穏をもたらしてくれる名曲“Smooth As the Wind”は、服役中に書かれたものだったのだ。クロフォード一家の優しさに触れなければ、OverSeasで皆が大好きな、Smooth As the Windも、この間ジャズ講座で楽しんだA Blue Timeも生まれていなかったかも知れない。
  アルバムの出来について、自分が現場にいればもっと良いものになったろうと悔やんでいる。
  <浦島太郎>
  ’61年 6月末、タッド・ダメロンは刑期を終えNYに帰還。しかし3年間の空白の後に観たNYのジャズシーンは「アヴァン・ギャルド」へと向かい、ダメロンには到底受け容れ難いものだった。
 
   タッド・ダメロンは出所後のジャズクラブの感想をこのように語っている。
 「何のフォーマットもないプレイに、僕はびっくり仰天した。…お客さんたちは、何に対する拍手なのかも判らず、やたらに拍手しているだけ、ミュージシャンたちは、ブロウするだけで「かたち」というものがまるでなかった…。」
  「僕は、人を煙に巻くために音楽を演っているんじゃない。自分の演っていることを、鑑賞してほしい。演奏の帰り道、僕の書いた音楽を口笛で吹いてくれればそれでいい。」
<癌と戦った晩年>
magic%20touch%20of%20tadd%20dameron.jpg  カヴァー写真は、床の上で譜面を書くダメロン:彼はフィリー・ジョー・ジョーンズと同居中、いつもこんな姿勢で楽譜を書き、ピアノに向かうのはサウンドを確認する時だけだったという。
 『Smooth As the Wind』に続きダメロンは、やっと自己名義の『The Magic Touch』を録音、3日間の録音を与えられ、スイングの風を送り込むドラムには最高の理解者フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)を据え、ダメロン・サウンドの切り札、トランペットにはブルー・ミッチェルやクラーク・テリーのトランペットを擁して、ソロ・オーダーまで、きめ細かく陣頭指揮した録音は、ダメロンにとって最も満足の行く仕上がりとなる。これがダメロン自身のラスト・レコーディングとなった。
five_spot.jpg Tadd_Dameron_late_years.jpg
 最後のライブ出演は1964年11月8日(日)の午後、場所はイーストヴィレッジのジャズクラブ、「ファイブ・スポット」で、ビバップ時代の仲間、バブズ・ゴンザレス(vo)主催:“ダメロン音楽の集い”と書物(Jazz Masters of the Forties/ Ira Gitler)に記載されているが、週刊誌NewYorkerのタウン情報を見ても、日曜は休業日となっていて、どこにも記載がない。 Ira Gitlerの本では、ダメロンは入院先から外出許可を取っての出演であったと書かれている。そうすれば、末期がんのダメロンを励まし、治療費をカンパを募るような内輪のイベントであったのかも知れない。
   翌65年、3月8日タッド・ダメロンは、イギリス人のミア夫人に看取られ、アップタウンのルーズベルト病院にて没。3日後の葬儀には、兄シーザーや母ルースがクリーブランドから駆けつけ、ビリー・テイラー(p)ロイ・ヘインズ(ds)など多くのジャズメンが参列した。牧師の説教はごく短時間で、葬儀の殆どが演奏で占められた。「ベニー・ゴルソン(ts)が、ダメロン作“The Squirrel”を演奏した。」とNYタイムズには記載されている。享年48歳だった。
mia_dameron.JPG’08 1月ASCAPの受賞式に出席したミア・ダメロン未亡人、右はジョン・クレイトン(b)
<ミュージシャンが魅了され続ける『美・バップ』>
 タッド・ダメロンは、ビバップの高度な理論を駆使し、独自の美的世界を完成させ、多くの音楽家に影響を与えた。
   作編曲だけでなく、ミュージシャン、特にトランペットの「使いどころ」を熟知していて、最高のソロオーダーを指示できた音楽監督であったと言います。また、「聴かせるツボ」を抑える為に、ソロイストに演奏表現を事細かく指導することで、ファッツ・ナバロ、クリフォード・ブラウン(tp)やサラ・ヴォーン(vo)の天才を開花させたのだと、フィリー・ジョー・ジョーンズやデクスター・ゴードン達、ミュージシャン達は語る。
  批評界には、「ビバップ期の作編曲家」としか格付けされなかったダメロン音楽を、再評価して再生させたのは、業界でなくミュージシャン達だ。
 ’81年、フィリー・ジョー・ジョーンズは、エロイーズ夫人の尽力で、米国芸術基金を取得、ドン・シックラー(tp)の協力を得て、伝説的なバンド“ダメロニア”を結成、ダメロン音楽を蘇らせた。2枚のアルバムを発表後、各地で公演を行い、特にNYで大きな評価を得た。
 ’88年に、リンカーン・センターで伝説的なコンサートが開催される。“The Music of Tadd Dameron”と銘打ったコンサートが、前半がトミー・フラナガン3+チャーリー・ラウズ(ts)後半がダメロニアで、全編タッド・ダメロンの名曲を聴かせ、スタンディング・オベーションの嵐となったのは今も語り草です。。
 寺井尚之にとっては、フラナガンにコンサートの最前列を取ってもらいながら渡米の日程が合わず、泣く泣く聴き逃した逸話がありますが、後にラジオで放送されました。
 mad_about_tadd.jpg  それ以外にも、’80年代はジミー・ヒース(ts)、アーサー・テイラー(ds)達のバンド、“コンティニアム”もダメロン集をリリースしています。
 と、いうわけで、2回続けてタッド・ダメロンの人生がどんなだったのか、少し書いてみました。スイングしていて美しい!ビバップというより“美・バップ”と呼びたいダメロンの名曲は、OverSeasの日常には欠かせない。11月22日のトリビュート・コンサートにも演奏されます。ぜひお楽しみください。
 
 

「この世は醜いものだらけ。私が惹かれるのは“美”だ。」
  
 「ホーンや歌手が“歌う”のに最も重要なのは“息遣い”だ。多くのミュージシャンがそれを忘れている。」
 「まずはスイングすること。そして美しくあること。」
 
 タッド・ダメロン

タッド・ダメロンについて話そう!(2)

dameron_tadd.jpgTadd Dameron 1917-1965
 このところ不景気なのに物価高、金融スパイラルで異様な円高…そうだ!今まで手の出なかった洋書の買い時だ!…しかし、先立つものが…
 ともあれ、今夜は、今までに貯め込んだビバップ資料から、タッド・ダメロンの紆余曲折の人生をちょっと眺めてみよう。今夜はその前編です。
<ミスキャスト?タッド・ダメロン>
 1962年、麻薬更正施設からNYにカムバックしたタッド・ダメロンは、ダウンビート誌のインタビューの冒頭に、「私は音楽界で、最もミスキャストの、合わない役柄ばかりこなしてきたミュージシャンだ。」と発言した。私はそれがダメロンのB級なイメージを増幅したのではないかと危惧します。天才に対するリスペクトも情もないビル・コスのまとめ方に、記事を読んだダメロンはきっと「こんなはずじゃなかった」と思ったに違いない。
 
 <独学の天才>
 タッド・ダメロンは、タドリー・ユーイング・ピーク(Tadley Ewing Peake)として、1917年(大正6年)に、アメリカ中西部の大都市、オハイオ州クリーブランドのピーク夫妻の次男として生まれた。今でもお元気なハンク・ジョーンズ(p)さんよりたった一つだけ年上です。
marylou_dameron.jpg  真ん中の眼鏡紳士がハンク・ジョーンズ、その左がタッド・ダメロン(’40s)
 シーザー&タッド兄弟が幼い時、両親が離婚し、母親がアドルファス・ダメロンというクリーブランドのレストラン経営者と再婚したので、兄弟も養父のダメロン姓になりました。兄シーザー・ダメロンは、タッド同様、ピアニスト、編曲家、バンドリーダーに加え、サックス奏者として地元やシカゴで活躍、タッドがジャズの道に進んだのも、この兄さんの影響でした。
  ダメロン夫妻は、兄を音楽家、弟を医者にしようと考え、シーザーにはピアノを習わせサックスを買い与えましたが、タッドには「勉強しなさい」と自宅でピアノを弾くのを禁じたそうです。
「だめ」と言われると、子供は絶対したくなる…タッドは、母が留守をするとピアノの独習に励み、兄さんからはジャズの手ほどきを受けながら、音楽理論の書物を読み漁った。同時に映画が大好き!お好みは、ガーシュインが流れるフレッド・アステア&ジンジャー・ロジャーズの「美しい」ミュージカル映画、タッドは映画館に行くと鉄砲玉みたいで、母親が迎えに行くまで帰ってこない子供であった。
  タッド・ダメロンは、作編曲、ピアノ、ぜーんぶ独学だった。 そのため、ハイスクールの音楽理論の授業があまりにも「あほくさく」、サボリまくった結果「落第」するという皮肉な結果を招く。
 
 親の希望をよそに、兄と共にプロ活動、僅か16歳で、プロのバンドにアレンジを提供していたというのですから、音楽の授業に出ている暇がなかったのかも知れません。
<もう一人の天才、フレディ・ウエブスター>
freddie_webster.JPG ダメロンは初期のサラ・ヴォーンのSP盤“If You Could See Me Now”にフィーチュアされているけれど…
 高校時代から共演していたのが、伝説のトランペッター、フレディ・ウエブスターで、ダメロンは彼のバンドで歌手(!)とピアノを担当していた。ウエブスターはトランペット発明以来、最高といわれる大きなトーンとヴィブラートを持つ名手で31歳の若さで亡くなり、彼の往時のプレイを偲ばせる録音は殆ど残っていないんです。初期のマイルス・デイヴィスが、本番でフレディのソロの完コピーを吹いたという有名な逸話もあり、多くのトランペット奏者に影響を与えた。後年、タッド・ダメロンは、彼を規範にしてクリフォード・ブラウンやファッツ・ナバロを育て上げたそうです。生で聴いてみたかったものですね。
<ミスキャストな医学生>
 高校卒業後、オハイオ州一の名門大、オバーリン・カレッジに入学、ここは音楽部門が特に有名で、今OverSeasで話題沸騰のスタンリー・カウエル(p)も卒業生です。
 しかし、タッドは両親の希望で、医学部の予備コースへ。2回生の時、人体解剖で切除されかかった腕がブランブランしているのを見て、吐き気を催し、「無理や」と諦めたタッドは、バンドに入り巡業の日々を送ったそうです。
  ところが、最近、研究者がオバーリン大の名簿を調査しても、ダメロンの名前はなかったそうです。ひょっとしたら、親から学費をもらいながら、バンドでビータ(旅)をしていたのか?とにかく、家族は「こんなはずじゃなかった!」とびっくり仰天!
blanch_calloway.jpg学生だったタッドをスカウトして巡業に連れて行ったブランチ・キャロウエイはキャブの姉だった。
<カンザス・シティ>
  様々な楽団で演奏と作編曲をしながら各地を渡り歩くダメロンは、30年代のジャズのメッカ、カンザス・シティにしばし落ち着き、NYから帰ってきたチャーリー・パーカーと初めて出会います。しかし、Good BaitStay on Itと言ったビバップらしいダメロンの代表作は、パーカーと出会うずっと前、すでにクリーブランドで書いていた作品だったのです。
 独学でビバップの和声とリズムを開発した天才も、第二次大戦勃発後、2年間、軍需工場で労働し、音楽とは全く無縁の労働に従事しなければなりませんでした。丁度、エリントン楽団の「A列車で行こう」が全米のラジオで鳴っていた頃のことです。
Jimmie-Lunceford.jpgランスフォード楽団もラジオを通じコットンクラブから一流になった楽団でベニー・グッドマン楽団はこのバンドのアレンジで人気を博した。
 軍需奉仕から解放されると、ダメロンは即ジミー・ランスフォード楽団で、編曲、リハーサル指導として活動、やがてベニー・カーターやカウント・ベイシーなど様々な楽団に自作やアレンジを提供するのだけれど、何故かレコーディングの機会は回ってこないアンラッキーな下積み生活が続く。
<52番街からビバップの寵児に…>
52ndst.jpg当時の52丁目、左にはオニキス、右にスリー・デューシスと名店が軒を連ねる。
 ダメロンがNYに進出するのは、終戦前の1944年になってからで、NYジャズの中心地がハーレムから52丁目に南下した後のことです。ほどなく、ディジー・ガレスピー・クインテットに代役としてピアノで出演したのをきっかけにブレイク、コール・ポーターの「恋とはどんなものでしょう」の枠組を基に、スモール・コンボ用に作ったHot Houseが大ヒット、’46年には、サラ・ヴォーンのおハコとなる、“If You Could See Me Now”を作詞作曲編曲、ビリー・エクスタインのビバップ・ビッグ・バンドの編曲を担当し、花形アレンジャーとなるのです。
  当時のダメロンは、セロニアス・モンク(p)と連れ立って、「ビバップ虎の穴」、メアリー・ルー・ウィリアムズ(p)のアパートを訪ねては、お互いのプレイに触発されながら、モダン・ミュージックのアイデアを練り合った。
mary_lou_dizzy_tadd.jpgマリー・ルーのアパートはビバップ虎の穴だった。
<作曲家のはずなのに…>
 ビバップ・ブームの影の立役者、モンテ・ケイの主催する大手芸能事務所に所属し、事務所に言われるまま、バンドを率い、元々チキン料理店だった『ロイヤル・ルースト』に出演、するとオープニングに口コミだけで500人のお客がごった返すほどの人気を博し、ラジオ放送されてからは、更にピアニストとして有名にる。
  1947年には、ジャズに力を入れていた男性誌、「エスカイヤ」の人気投票で、「アレンジャーの新星」部門第一位、翌年には、ピアノの腕にはからきし自信がないのに、ラジオ番組で人気投票、ピアノ部門一位を獲得してしまいます。タッド・ダメロン自身は、「自分の天職は作曲だけど、誰も編曲してくれないから仕方なくやっただけ」にも関わらず、ミスマッチな役柄で有名になっちゃった。
 ビッグバンドのフィクサー的存在だったバド・ジョンソン(ts,arr)は「ダメロンの編曲は、実際にはディジー・ガレスピーに言われたことをそのまま書いただけでだ。」と批判的ですが、整然として明るく気品のあるオーケストレーションは、全てのパートが主旋律のように美しく、吹くと楽しい、アドリブもしやすい(ただし、腕があるなら)と、デクスター・ゴードン(ts)を初め、演奏者である楽団員達に熱烈な指示を受けます。
 タッド・ダメロンの本性はメロディ・メイカーであったのか?
トミー・フラナガンの考えはそうではない。
   「タッド・ダメロンの曲はオーケストラによる演奏を予定して書かれているから、ソロ・ピアノで演りやすい。」と語っている。(講座本Ⅲ:特別付録参照
 つまり、ダメロンは頭の中で楽団をサウンドさせながら、間口の広いきれいなメロディを書くことで、新たな編曲のアイデアを、他人にも提示してほしかったのではないだろうか?
 
<耽美か耽溺か>
 1949年、パーカーやガレスピーに象徴される、ベレー帽や派手なストライプのスーツでてんとう虫(Lady Bird)の様に着飾るバッパー達に替わり、ブルックス・ブラザースのトラッドファッションに身を固めたマイルス・デイヴィスがスポットライトを浴びる時代が到来します。NYのトレンドはビバップからハード・バップ、クール・ジャズへと風向きを変えたのです。
   NYでの活動が頭打ちになったダメロンはマイルスとヨーロッパに楽旅し、そのまま英国に2年間留まり音楽活動をしますが、NYのように刺激的なものではなかったのかもしれません。
 
   ’51年に帰国、ダメロンが参加したのは、R&B系のブルムース・ジャクソン楽団、タッド・ダメロンの弟子格のベニー・ゴルソン(ts)、最高の理解者、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ds)などハード・バップの名手が在籍していたのですが、どう見たってR&Bはミスキャストだった。そこで、フィリー・ジョーやゴルソンを連れ、新人だったクリフォード・ブラウンを引き受け、自己楽団を結成する。しかし、取れた仕事は、たった一ヶ月のジャズと無関係なダンスの仕事。一ヶ月で解散の憂き目に合います。この頃から、ダメロンは、だんだんとヘロインに依存して行く。 
 1953年に、ブラウン・ローチ・クインテットが録音した名作The Scene Is Cleanは、ダメロンの麻薬根絶宣言の曲であったのですが、実際はそうは行かなかった。不本意なことが次々と重なるのです。
   1956年に、自作の組曲、『フォンテンブロー』を録音するのですが、トレンディでないとリリースが見送られます。『メイティング・コール』は発売されましたが、アルバムの名義は、ジョン・コルトレーンと並列になっていました。タッド・ダメロンは音楽ビジネスでは「過去の人」になっていたんです。
 
 八方ふさがりとなったタッド・ダメロンは、1958年1月、麻薬所持容疑で逮捕されてしまいます。
 
 続きは次回へ…
 野球シーズンも終盤で気分はしっぽりインディゴ・ブルー、明日は寺井尚之メインステムの爽快なプレイで心を癒そう…。
CU
 
 
 
 

タッド・ダメロンについて話そう!(1)

   Tadd Dameron (1917-’65)
 
  OverSeasで拍手を沢山いただけるスタンダード曲、そしてトミー・フラナガンの名演目の作曲者の一人にタッド・ダメロンがいます。ダメロンはビバップ時代を代表する作編曲家…とは言うものの、ダメロンに関する情報はネット上では凄く少ない。「ああ、Hot House 作った人か、ジョン・コルトレーンと共演してたバッパーや。麻薬中毒やろ、ピアノは下手やな。」と、なんかBクラスの格付けが多いような気がする。
  トリビュート・コンサートまでに、少しタッド・ダメロンとその作品の話をしておこう!今夜はまずプロローグ。
 タッド・ダメロンといえば、デトロイト出身ということで、フラナガン、ハンク・ジョーンズと共に一くくりにされがちなピアニスト、バリー・ハリス(p)がタッド・ダメロン集、『Barry Harris Plays Tadd Dameron』(Xanadu ’75)を録っていて、リリース時には私も愛聴しました。ここでバリー・ハリスが表現したタッド・ダメロンは、絵画で言えばモディリアーニ、女性の肢体に、彫刻刀でゴリゴリ削ったような陰影と質感を付け、カンバスに命を吹き込むのと同じような手法のプレイには、洗練された楽曲とビバップ的な硬質さの渋いコントラストを感じていました。
Barry_Harris_Dameron.jpg
 一方、トミー・フラナガンが描き出すダメロンは、同じ「デトロイト」のカテゴリーに関わらず、バリー・ハリスとはかなり違う。
 最近、ジャズ講座で聴いた、<A Blue Time>、や、<Smooth As the Wind>、極めつけの<Our Delight>…どれもこれもすっきり垢抜け、金箔輝く尾形光琳の屏風のように華やかなれどケバくなく、ビバップならではの手に汗握るスリルがある。
 きっちりと襟を正しているんだけど、どこかにゆるみのある、芸者さんの着物の着方みたい!色気があって粋なんです。…とかなんとか言ったって、百聞は一見にしかず!
 下のYoutube動画は、寺井の生徒達が何百回も観ているヒット画像、トミー・フラナガンが<Smooth As the Wind>をソロで演っています。ホストは、これまた巨匠ビリー・テイラー(p)、<アクターズ・スタジオ・インタビュー>など、ユニークな教育番組で知られるCATV、『Bravo TV』のジャズ番組からの映像。これを観るとタッド・ダメロン作品の良さが判ってもらえるはず!

 ねっ!はじめはシンプルなメロディ、ひとつひとつの音が、扇のように次々とハーモニーの花を開いて、思いがけなく大きく分厚い模様になる。スイング感も倍増し、沢山の扇が大輪の花になったと思うと、最後に全ての扇があっと言う間に畳まれて元通りになる。まるで手品みたい!なんと華麗で優美な曲でしょう!
   この映像の冒頭で、ホスト役のビリー・テイラーはこう言っています。
「エラやコルトレーンとの共演も有名ですが、トミーはなんと言っても、立派なソロイストです。今日はぜひともソロ・ピアノを弾いてもらって、トミーならではのコード・ヴォイシングの素晴らしさを見せて欲しいのですが…」
それに対してフラナガンはこう答える。
「子供のときから、バンド・ミュージックを聴きながら育つと、楽団の演奏が、そのままピアノで弾けてしまうものでね… そうすると今度はちょっとピアノ向きに変えてみたりするんです。これから演るタッド・ダメロンのSmooth As The Windは、バンドのアレンジをそのままソロ・ピアノに使いました。…まずはフレンチホルンのイントロから…」
 フラナガンより10歳近く上の大先輩、ビリー・テイラーに対するフラナガンの話し方はとっても謙虚!「私は腕があるから、何人ものバンド演奏をピアノ一台でやってしまえる」という一人称でなく、「子供のときから楽団を聴いていれば、どんなピアニストだってそれ位のことは出来ますよ。」と、二人称を使っているところが、英語の勉強にもなります。
Smooth As The Windを日本語にするのは、簡単なようで難しい。「風のように、肌触り良く、淀みなく疾走する」という感じかな?快適なヨット・セイリングや、新車のステアリングなどにぴったりなことばです。
 <嵐の中の『そよ風』>
tommy_piano_room.jpg
  Smooth As the Windは、寺井尚之にとっても、大変思い出深い曲です。フラナガンが丁度『Jazz Poet』を録音した’89年、8月末にジョージ・ムラーツ(b)、ケニー・ワシントン(ds)との黄金トリオでOverSeasに出演した後、フラナガン夫妻が郊外の香里園という住宅地にあった自宅に泊りに来たことがありました。丁度台風が大阪に接近していて、外は土砂降り、翌日の飛行機が飛ぶかどうか判らないような状況でしたが、コンサートは大盛況。大雨の中、第二部の当日券が出るのを期待して、漏れてくるフラナガン3のプレイを聴きながら、ジーン・ケリーみたいに傘をさして踊っているファンの方々がおられました。今でもお元気でしょうか?
   その頃のトミーは、渾身のプレイの後でも元気溌剌!夜食にそうめんを食べてから、ダイアナがお風呂に入ったり、荷解きしている隙に、深夜の地下のピアノ室で「ヒサユキ、何か教えてやろう!」と、急に稽古を付け始めました。
「何を教えたろかなあ…よし!今日はタイフーンだから(!?)、Smooth As the Windにしよう!」そう言うと、こんな風にソロ・ピアノを弾き始めたんです。
 トミー・フラナガンらしいウィットだなあ!
 沢山開いた扇が次々と畳まれて行くようなこの鮮やかなエンディングも、その夜から寺井が完全に身に付けて覚えたものです。
 私以外には誰も外野の居ないピアノ室で、師匠の一言一句、一挙一動にかじりつかんばかりにしていた寺井尚之の姿に思わずシャッターを押したのがこの写真です。この師弟の緊張感は、長年の師弟の歳月の間にも、緩んだり色褪せたりすることはなかった。だから、今でもトリビュート・コンサートの為に骨身を削って稽古できるのかな?
 さて、タッド・ダメロンの作品がどんなのか、ほんの少し聴いたので、来週はタッド・ダメロン自身のことを少し書いてみようと思います。
 ダメロンの名曲はOverSeasにお越しになればいつでも聴いていただけるんですけど…
CU

「Eclypso」 ジャズ講座:片隅感想文


一昨日は『Eclypso』ジャズ講座!お越し下さった皆さん、本当にありがとうございました。
 
 録音スタジオに煙るパイプ煙草の香りが伝わるような解説に、大笑いしたり頷いたり…、楽しい気分がOverSeasの中に溢れると、パイプをくわえたトミーの大きな瞳がギョロっと動いた。あれは幻覚だったのか?
 
 勤務先の北京からは常連KD氏から、ボストンからは鷲見和広(b)さんの一番弟子しょうたんちゃんから、「僕も参加したかった…」とメールを頂戴しました。いずれ講座本シリーズに収録されますので、どうぞお楽しみに!
kouza-2.JPG kouza-3.JPG
講座の当日はパ・リーグ・クライマックス初戦と重なって、オリックス応援と講座ダブルヘッダーのツワモノも!
 OverSeasのBBSには、若きピアニスト達から詳細な感想が数多く書き込まれているし、今さら片隅から私が書くのも何ですが、ちょっと一筆書いておこう。
 『Eclypso』が録音された1977年当時、トミー・フラナガンは、まだエラ・フィッツジェラルドの音楽監督時代で、録音直前にトミーがジョージ・ムラーツ、エルヴィン・ジョーンズと組んでギグをした記録もない。恐らくリハーサルも当日スタジオ入りしてからやったのではないだろうか? 
 リリース時に、ジャズ・ベーシスト達がこぞってコピーした歴史的名演、“Denzil’s Best”は、なんと当日トミーから渡された譜面を初見で演ったのだと、ムラーツ兄さん本人から聞きました。初見であれほど輝きのあるプレイをするムラーツ(当時32歳)の凄さは当然ですが、共演者の資質を看破し初見の曲でフィーチュアしたフラナガンの「眼力」の凄さ!アルバム・カヴァーのパイプをくゆらすポートレートそのままですね。
ジョージ・ムラーツ公式HPギャラリーより
   ところで、最近、TVで黒澤明の『七人の侍』を数十年ぶりで観ました。日本人であることを幸せに思わせてくれる映画史上に残る傑作だから、皆さんもご存知でしょうが、島田勘兵衛という初老の浪人が、自分を含めてたった七人のチームを急ごしらえし、綿密な作戦を立てて、農民を脅かす野武士集団を退治する時代劇です。
 20世紀を代表する名優、志村喬演じる島田勘兵衛の、温厚さと厳しさを併せ持つ奥の深い人格や、まなざしの輝き、ふと見せる雄弁な表情が、トミー・フラナガンの思い出と重なりました。レギュラー・トリオでなく、限定された条件で録音した『エクリプソ』の仕上がりを鑑賞していると、何度も『七人の侍』の名シーンを思い出してしまいました。
 G先生によれば、プロデュース側のアイデアは、「トミー・フラナガンとエルヴィン・ジョーンズのリユニオン」であったそうですから、“Relaxin’ at Camarillo”は、プロデューサーのリクエストであったのかも知れません。それに対して、ジャズ・スタンダードと言うには知名度の低い“Cup Beares”(トム・マッキントッシュ)、“A Blue Time”(タッド・ダメロン)といったあたりは、明らかにトミー・フラナガン自身の選曲に違いない。
 次回、11月8日(土)のジャズ講座には、キーター・ベッツ(b)、ボビー・ダーハム(ds)からなる当時のレギュラー・トリオのライブ録音、『Montreux ’77』で『Eclypso』と好対照を成します。
 トム・マッキントッシュ、タッド・ダメロン、サド・ジョーンズ、デューク・エリントン、トミー・フラナガンのレパートリーの源流(mainstem)を作った作曲家たちのことは、トリビュート・コンサートまでに、少しでも書きたいなと思っています。
 CU

寺井珠重のJazz News “Tiddy Bitty” 秋の号


①エクリプソ講座は土曜日開催
今週のジャズ講座には、いよいよ『エクリプソ』が登場しますよ。
私自身も発売時からリアルタイムで聴いたアルバム。すぐに買った(というか、先輩に買わされた…)それだけでなく、どこのジャズ喫茶に行っても『エクリプソ』がかかっていたのを覚えています。
 バンドの人達とジャズ喫茶で聴きながら、「ここどないなってんねん?」、「ムラーツなんでこんなん弾けんねん?!ベースの弦足らんがな!?」とか、小声でワイワイ言っていたのが昨日のことのようですが、もう30年前のことだっなんだ…
 土曜日は、若い皆さんにも、大人の皆さんにも、そんな興奮を味わってほしいものです。初めてでも大丈夫!ぜひお越しください!
② NY特派員 Yas竹田のこと。

 ここ数ヶ月間、NYで活躍するベーシスト、Yas竹田の音信が全く途絶えていました。ネットで調べると、NYのライブ情報で名前は見つかるので、生きていることは判っていたのですけど、常連さま方に「YAS竹田帰国ライブはいつですか?」そして、アメリカ在住の方々から「今度NYに行くけど、Yasさんに会えますか?」と、お問い合わせを頂く度に、またサブプライム・ローン関連のニュースを見る度に「一体どないしてんねん!?」と心配が募りました。結局、四方八方手を尽くし、やっと無事を確認。
 
 Yasちゃんの奥さんが病気で寝込んでいて、中学生の息子さんの世話など、色々大変だったようです。
 音楽活動の方は快調で、最近はライターとして有名なビル・クロウ(b)のトラなどもやっているらしい。
 NY生活も20年のYasちゃんも、ご家族が病気だとそりゃ大変だ!!これから寒くなるし、私は何もしてあげられないけど、彼が愛読する週刊文春でも送りますから、お大事にしてあげてください!
③トミーの親戚!
 ジャズ講座の準備で、トミー・フラナガンをGoogle検索していたら、ずっと前に読んだ、Musician Biographyサイトのトミー・フラナガンのページに、ステファン・L・ジャクソンなる人物のコメントが入っているのを発見!
 
 

Stephan L. Jackson (Carl Anthony Flanagan)
トミー・フラナガンは私の大叔父です。私はデトロイト生まれで、生後すぐに、ジャクソン夫妻(二人とも教育者)の養子となりましたが、生みの母は、モニカ・フラナガン・ルイス、彼女の父、つまり私の祖父にあたる人が、トミーの兄となります。
 成人するまで、私は自分の出生について知りませんでしたが、子供の頃から音楽が好きで、学校時代も音楽を副専攻しまし、パーカッションやヴォーカル、役者の勉強もしました。3人の息子も皆音楽をやっています。遺伝子って本当にあるんですね!
 トミー叔父さんに敬意を!あなたの遺産は今も受け継がれていますよ!
 

トミーには、現在少なくともお孫さんが6人いるし、7人兄弟だから、デトロイトやアトランタに親戚は沢山いる。
 トミーのお兄さん、ピアニストのジョンソン・フラナガンJr.の孫にあたる、スコット君は、10年ほど前に、広島の中学校で英語教師をしている間、OverSeasを訪ねて来てくれたことがあります。とっても好青年だったけど、ジャズに余り興味はなかったみたい。
 私は早速、ステファン・ジャクソンさんに、日本でトミー・フラナガンを尊敬する寺井尚之が、自分のクラブ、OverSeasでフラナガンへのトリビュート・コンサートをするよと、メールを送りました。
 そうしたらステファンさんから、すぐに返事が来て、自分の生い立ちなどが詳細に書かれてあった。驚いたのは、彼が海軍時代に、岩国で4年間を過ごしていたことだ。それも、彼の従兄弟にあたるスコットが広島で教鞭を取っていたのと同じ時期というのが不思議です。
 彼は現在ニュージャージーのアトランティック・シティで市長の私設秘書をする傍ら、自分の人生経験や、音楽や演技の技術を活かして自己啓発的カウンセラーのような仕事をしているらしい。 
 「経済的な余裕が出来たら、ぜひOverSeasに来たい」と書いてあったので、いつかステファンさんに会うこともあるかも知れません。
④ジョージ・ムラーツ(b)ヨーロッパ・ツアー
 ジョージ・ムラーツ兄さんは早くも来週にヨーロッパに旅立つそうです。イタリア、モナコ、スイス、イギリス、ポーランド、オーストリア、スペイン、ポルトガル…、ハンク・ジョーンズ(p)やジャズ・アコーディオンのリシャール・ガリアーノさんと大ホールばかりのツアー、もしヨーロッパ在住でご近所の方がいらっしゃったら、ぜひ行ってみてください。コンサート・スケジュールはこちら
 
 不思議なことですが、毎回トリビュート・コンサートが近づくと、OverSeasに向かって風が吹く。世界中から色んなニュースが来て何となく慌しい。
 今夜も、ブリュッセルに住む琥珀色の肌の私の妹分が請け負う翻訳仕事の助っ人です。チェコやタヒチの血を引くハイブリッドな彼女は現在妊娠5ヶ月、助太刀せねば!こんなとき、インターネットは便利だけど眠いよー。
 土曜日のジャズ講座トリビュート・コンサートのチケットお申し込みは、どうぞお早めに!
 CU
 

11月22日(土) トリビュート・コンサートのお知らせ

tommy%27s%20back.JPGTommy Flanagan(1930 3/16- 2001 11/16)
 <第13回 トリビュート・トゥ・トミー・フラナガン>
出演:寺井尚之 The Mainstem (宮本在浩:bass/ 菅一平drums)
 日時:11月22日(土)  7:00pm-/ 8:30pm- (入替なし)
 前売りチケット(座席指定:税込) 3,150円 (当日:3,675円)

hisayuki_tribute.JPG
 トミー・フラナガンが亡くなってから7年の歳月が経ちました。毎年3月と11月に開催するトリビュート・コンサートも早13回!
 寺井尚之(p)が、宮本在浩(b)、菅一平(ds)を擁するThe Mainstem(ザ・メインステム)は、トリビュート初お目見え、メインステムも正念場です。
 「トリビュート」は寺井尚之の音楽活動の節目、寺井だけでなく、宮本在浩(b)、菅一平(ds)のメインステム全員がトリビュート準備態勢で、当日まで稽古に余念なし。宮本在浩さん(b)の音色も眼光も鋭くなってきました。驚いたことにOverSeas酒豪番付関脇の菅一平さん(ds)は先日から禁酒中!なんと演奏中にビールを飲むと、フラナガンの視線を感じるらしい…
tommy_eyes.JPG
 生前のフラナガンが寺井尚之のプレイを聴くときは、あの大きな瞳を見開き、みじろぎもせず、レーザービームの眼差しで終始プレッシャーを与え続けた。トリビュート・コンサートでは、三人ともその視線を感じながらプレイするのだろうか?
 生前のフラナガンのプレイを生でご覧になった方が少なくなってきた現在、フラナガンの名演目と銘打ってお聴かせする者には、それ相当の覚悟が必要です。
 トミー・フラナガンは、お客様になじみのない曲を、「どこかで聴いたことのある懐かしい」曲、「まるで前からよく知っていたスタンダード」みたいに聴かせる名手だった。トリビュート・コンサートでは、きっとそんな気持ちが味わえるに違いない。
 寺井尚之が身近に接した稀有な天才、フラナガンのイメージを少しでも多くの皆さんにお伝えすることができれば、私も幸せです。
 先日の金融恐慌の直後、ベルリンのピアノの巨匠、ウォルター・ノリスさんから来たメールには、こんなことが書いてありました。
 “1930年代の世界恐慌で、ミュージシャン達は大変な苦労を味わった。今起こりつつある金融不安で、再び大恐慌が来たら、ハンク・ジョーンズのようなピアニストは、’90歳の高齢で再び同じ苦労を強いられることになる。そんなことにならないように祈るばかりだ。”
 
 今でも私たちがトリビュート・コンサートを続けられるのは、OverSeasを応援してくださる皆さんが、おられるからこそです。
 当日は、皆一緒にフラナガンの名演目を聴いて、元気一杯、幸せになろう!トミー・フラナガンを知ってる人も知らない人も、ひとりでも多く来てください!
一緒に聴きましょう!!
  おいしいお酒も料理も楽しんでくださいな!!
 それが、トミー・フラナガンへの何よりの供養になるはずです。
tommy_%20hisayuki-2.JPG
 前売りチケットはOverSeasでのみ販売中。座席に限りがありますので、どうぞお早めに!!
 CU