深夜にジョージ・ムラーツの叙勲ニュースを探索していたら、下のエントリーで紹介した、在外(在米)チェコ人のポータルサイト、Krajane.orgのトップに、昨年OverSeasで、寺井尚之と一緒に撮影したキモノ姿のジョージ・ムラーツの写真が出ていてびっくり!
実は、昨日このサイトをチェックしたときに、「ジョージ・ムラーツさんは、日本で最も愛されるジャズ・ベーシストです。」と、この写真を添えてお祝いメッセージを送信したのです。Mr.Tamae Teraiになっているのがご愛嬌。
まさか、トップに載るとは思いませんでした。アニキに叱られたらどうしよう・・・どうか見つかりませんように・・・
すぐに他のニュースに変わると思いますので、今のうちに紹介しておきます!
http://www.krajane.org/en/
CU
月: 2009年10月
ジョージ・ムラーツ ニュース (その1:大統領栄誉賞)
お元気ですか?11月のトリビュート・コンサートが近づくと、ダイアナから頻繁に激励電話がかかってくるので、慌ただしい一週間でした。ダイアナの生活リズムは、「一日24時間」のバーラインを無視したBeBop的「謎」なので、日本が真夜中でも、調理場で必死に仕込みをしている時もお構いなし。なのに、こっちが時差を考えて常識的な時刻に電話すると、だいたい寝ぼけ声なので困ります。
そんな中、我らのアニキ、ジョージ・ムラーツからは、近況報告と、東欧の報道通信社、メデイアファクスからのニュースが送られてきました。
<ムラーツ兄さん、受勲おめでとう!>
というのも、先日Interludeでお伝えしていた勲章を、10月6日に大統領から直接渡してもらったそうです。アニキ、おめでとう!!
兄さんは親切にも、ニュースページをグーグル和訳したファイルを送ってきてくれたのですがチンプンカンプン、英訳してみてもも同程度のものでした。サルカちゃんが、まともな英語に翻訳中だそうですが、とりあえず、在外チェコ人の為のサイトのニュースではこんな風に報道されています。
[10月6日付文化ニュース/ クラウス大統領、ジャズマン、ジョージ・ムラーツに栄誉賞を授与。]
 ヴァーツラフ・クラウスチェコ共和国大統領は、ジャズ・ベーシスト:ジョージ・ムラーツ氏に対し、彼の65歳の誕生日を記念して、「共和国大統領ゴールド・プラック栄誉賞」を授与した。
ムラーツ氏は米国在住、世界最高のジャズ・ベーシストとして内外で活躍しており、何百というレコーディングを行ってきた。この大統領栄誉賞は、世界的に活躍し、チェコ共和国に貢献する各界の著名人に授与されている。
今回の受賞にあたり、ムラーツ氏は大統領への深い感謝と名誉を受けた感動を表明している。叙勲決定の際には、「ジャズ・ミュージシャンとして受賞したことは、私だけでなく、ジャズ界のためにも素晴らしいこと」と述べていた。
プラハ音楽院出身、ソ連軍のチェコ侵攻で、国外移住を決意、ボストンの名門音楽校バークリー音楽院への奨学金を取得し渡米、40年以上米国在住。クラーク・テリー、ハービー・ハンコック、ジョー・ウィリアムズ達と共演を重ねた。1968年、NYでディジー・ガレスピー・クインテットに参加後、オスカー・ピーターソン・トリオやエラ・フィッツジェラルドのトリオに加入、それ以外にも、チャーリー・ミンガス、トミー・フラナガン、スタン・ゲッツなど、超一流のミュージシャンと活動を続けている。
祖国を離れ、米国市民として、アメリカ生まれの芸術であるジャズを演奏する音楽家が初叙勲したことが、大きな話題になっているようですね。
チェコ国営TV局のニュース専門チャンネル「CT24」では、スタジオのニュースキャスターがプラハ城大統領執務室前のジョージ・ムラーツに独占インタビューしている映像を見ることができます。楽器を持ってなくて、チェコ語を話す兄さんは、ブルガリア国営TVに出ている琴欧州よりかっこいい!
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動画は上の矢印をクリックすると観れます。(プラグインが特殊ですが、FirefoxやIEなら観れるはずです。)ムラーツ兄さんによれば、チェコ語で上品に話している内容は以下のとおり。
「大統領は非常にお忙しいのに、予定より長くお話させていただきました。賞を頂けるとは夢にも思っていなかったし、非常に光栄です。」
「私がジャズを始めたのは、高校時代のキャンプにあったジャズバンドがきっかけです。それ以来学校の始業時間前に練習していました。元々の楽器はサックスだったのですが、休憩時間にちょっとベースを弾いてみたら、音色が気に入ってしまって、そのまま音楽学校で勉強しました。
最後の質問は、「なぜ海外でJiriでなくGeorgeと名乗っているのか?」やはり本名を使って欲しいと思うのは、チェコ国民の自然な感想でしょうね。
それに対してムラーツは自然体で答えています。
「アメリカの人たちが、Jiriという名前を聴き取ることも発音することもできないので、ジョージならよくわかると、アメリカ流の名前をつけたのです。公式の書類などで色々ややこしいことがあったので、それに従ったんです。」
ジョージ・ムラーツは、来週から再びヨーロッパに渡り、ハンク・ジョーンズ(p)とトルコやポルトガルをツアーする予定。次回のジョージ・ムラーツ・ニュースでは、彼が今とても気に入っている新しい楽器についてご紹介します!
お兄ちゃん、おめでとう!これからも、体に十分気をつけて演奏活動を続けてください!日本にもたくさんファンが待ってるからね~!
さて明日は寺井尚之ピアノトリオ:The Mainstem、十三夜の秋の宵、一緒に聴きましょうね!お勧め料理はビーフストロガノフを作っておきます。
CU
ほのめかしの美学 < It’s All Right with Me > 対訳ノート(21)
日ごとに秋が深まって、夜空もきれいです。オリオン座のスターダストは見えましたか?音楽と文学の秋、今日は先日のジャズ講座や、寺井尚之3”The Mainstem”で楽しんだコール・ポーター作品、< It’s All Right with Me >について書こうかな。
<コール・ポーター的世界>
コール・ポーター(1891ー 1964)
ファッション界の大御所フォトグラファー、リチャード・アヴェドンが撮影したコール・ポーターは「都会的洗練」が上等のスーツを着て煙草をくゆらせているみたい。
< It’s All Right with Me >の作者コール・ポーターは、作詞作曲の両方をやってのける数少ない音楽家。高校時代、すでに「歌詞と曲は分かち難く一体でなくてはならない。」という信念を持っていたといいます。
ポーター作品の特徴は、都会的で垢ぬけていて、ビタースイートなところ。そして、歌詞については、「ほのめかし( insinuation)」「 ダブル・ミーニング(double-entendre)」の妙です。都会的でビタースイートな作詞家なら、他にMy Funny Valentineなどを書いたロレンツ・ハートがいるけれど、ポーターの書く詞は、もっときらびやかで甘さは控え目です。
米国中西部インディアナ州ペルー出身、スコットランドに祖先を持つコール・ポーターは、お母さまに溺愛された甘やかされっ子。母方の祖父は、一代で財を成した街一番の富豪、ポーターの養育費、学費などを援助しました。厳格な祖父は孫が将来法律家になり、家督を相続して欲しいと願っていたのですが、母の助けで祖父を欺きながらエール大やハーバード大時代から作曲に勤しみ、卒業後すぐブロードウェイで活躍します。第一次大戦中の1917年に渡仏、パリ社交界で、政界財界のセレブ達とパーティ三昧の享楽的生活を送りながら、表向きは、フランスの外人部隊に参加していた戦争の勇者と偽っていました。
28歳のとき、ポーターはパリで知り合った、アメリカ人の富豪リンダと結婚します。でもそれは、業界の「公然の秘密」であった彼のホモセクシュアリティを承知の上の、ちょっと変わった結婚であったそうです。まだアメリカでは、多くの州で同性愛が犯罪行為とされていた時代のこと、その辺りは、「五線紙のラブレター」(2004)というコール・ポーターの伝記映画でハリウッド的に美化されて描かれています。コール・ポーターの愛人の男性たちは、振付師、建築家など職業も色々ですが、皆大柄で逞しい男性であったそうで、ポーター作品の版権は全て最後の愛人とその遺族に帰属しています。
フランス帰りのトップ・ソングライター、見た目も中身も徹底的に洗練された「粋」の権化、コール・ポーターの悲劇は46歳の時に起こります。’37年、落馬事故で両足骨折し、34回の手術の挙句、片足を切断、死ぬまで激痛と闘いながら創作活動を続けました。誰よりも「ルックス」にこだわっていたポーターの辛さはどれほどだったでしょう。その苦しみが、享楽の「報い」と思えることがあっても、不思議ではないかも知れない。でも、享楽も苦しみも、誰も知らない悲しみも、溢れる想いは、いつも「ほのめかし」と「ダブル・ミーニング」に隠されていて、野暮天には一生分からないようになっている。
<危険なラブ・ソングに隠されるコード>
とりあえず<It’s All Right with Me>の歌詞を読んでみましょうか。元歌詞はこちら。
元々はパリ生まれのお色気たっぷりのレビュー、フレンチ・カン・カンを題材にしたミュージカル”Can Can”の挿入曲、映画ではフランク・シナトラが歌いヒットしました。
私が聴きなれているエラ・フィッツジェラルドの歌は、「Montreux ’75」と、「Jazz At The Santa Monica Civic 」に収録されています。道ならぬ恋の歌だけど、いやらしくなくて、粋で色っぽい歌詞が、エラの明るさとマッチして、強烈なスイング感と共に独特な魅力を発散し、グッと来ます。コール・ポーター自身もエラが歌う自作品を非常に気に入っていたそうです。 年末に発行予定の「トミー・フラナガンの足跡を辿る」第7巻には、他にも、エラ・フィッツジェラルドの歌うコール・ポーターがたくさん載っているのでぜひ読みながら聴いてみてくださいね。
<イッツ・オーライト・ウィズ・ミー:sung by エラ・フィッツジェラルド>
Cole Porter (’53作)
A-1
いけない時間に、いけない場所で会った人、
あなたの顔は魅力的、でも、いけない顔ね。
彼の顔ではないけれど、あんまり素敵な顔だから、
私は別にかまわない。
A-2
いけない歌だし、歌い方もいけないわ。
あなたの微笑は素敵だけど、それはいけない笑顔でしょ。
彼の微笑じゃないけれど、ほんとに素敵な笑顔だから、
私は別にかまわない。
B
出会えて私がどれほど幸せか、あなたは分からないでしょ。
不思議にあなたに魅かれてる。
私には忘れたい人がいるんだけど、
実はあなたもそうじゃない?
A-3
いけないゲームに、いけないものを賭けている。
いけないことと知りながら、あなたの唇にうっとりしてる。
彼とは違うけど、うっとりするようなキスだから、
もしも特別な夜にあなたが自由なら、
ねえ、私は別にかまわないのよ。
詞だけ読んでいるとかなりヤバい、いやらしいなあ・・・ところが、あの軽快なメロディと一緒だと、不思議にサラリとして、粋になるのが、メロディと詞を合体させてやっと味が出るというコール・ポーターらしさですね!
<ほのめかしはどこに?>
エラの歌も映画のシナトラ・ヴァージョンも、道ならぬ恋に、どうしようもなく堕ちていく歌ですが、本当のところ、コール・ポーターがこの歌詞に託したのは、自分が住む男同士の恋の世界に思えて仕方ありません。
上のエラの歌詞は女性だから彼女 を彼 に変えているけど、A-1部分の元々の歌詞はこうなっている。
It’s the wrong time, and the wrong place,
Though your face is charming, it’s the wrong face,
It’s not her face, but such a charming face
That it’s all right with me・・.
「いけない時間といけない場所」というのが、パリ時代にコール・ポーターがよく開いたという男だけのゲイ・パーティを暗示しているとしたら、チャーミングな顔やどうしようもなく魅力的な笑顔も、唇も、それらが「いけない」わけは、「同性のものだから」ではないのかな?
その証拠が3行目にほのめかされている。
It’s not her face, but such a charming face that it’s all right with me・・.
つまり、「それは女性の顔じゃないけど、あんまりチャーミングだから、(男でも)僕は構わない。」と読めてしまうんです。
ではB節の「忘れたい誰かさん」とはコール・ポーターにとって誰なんでしょう?別居中だった奥さんのリンダなのか?ゲイに否定的だった当時のアメリカの教会や司法なのかしら?私には、厳格な祖父、OJ・ポーターの顔が見えます。
ゲイの世界には全然縁がないけれど、<イッツ・オーライト・ウィズ・ミー>には、コール・ポーター的な「ほのめかし」と「ダブル・ミーニング」がたくさんあって、わくわくします。
それにしても、快楽的なこの歌が、片足を失い辛い痛みと闘っていた人が書いたものとは、とても思えません。苦しみや悲しみはすべて、上等なスーツの内ポケットに隠していたんですね。壮絶なるええかっこしい・・・極限のダンディと言えるかもしれない。
コール・ポーター的「ほのめかし」のウィットをよく理解するトミー・フラナガンだからこそ、『The Standard』に敢えてこの曲を収録したのかな?歌詞の聴こえるプレイが身上のピアニストですから、歌詞を観ながら演奏を聴けば、フラナガンの「ほのめかし」と「ダブル・ミーニング」がお分かりになるかも・・・分からなければ、講座本「トミー・フラナガンの足跡を辿る」にそのうち載りますよ!
CU
秋深し Moonlight Becomes “メインステム”
サウンドも引き締まってきました!寺井尚之(p)、宮本在浩(b)、菅一平(ds)
土曜日の寺井尚之トリオ”The Mainstem”、沢山お越しくださってどうもありがとうございました。トリビュート・コンサート(11/28)が近づき、日本の美徳「折り目正しさ」を身上とするトリオのサウンドが、さらに引き締まってきた感がします。
この夜は、お月見の10月に倣い、「月」に因んだ名曲がすらりと2nd Setに並びました。オープニング Setではレッド・ミッチェル(b)のオリジナルなど今月のジャズ講座で強い印象を受けた曲を、ラスト・セットはバップの芳香がOverSeasに充満して大満足!
「月」は、昔から人や動物を操り、「クレイジー」にする魔力を持っているとされています。下手するとヴァンパイヤに変身することも・・・月に因んだ美しい名曲の後に、「きちがい音楽」と揶揄されたBeBopが来るのは理に叶っているのかも!
<1>
1. You’re Me ユー・アー・ミー (Red Mitchell)
2. All the Things You Are オール・ザ・シングス・ユー・アー (Jerome Kern)
3. Whisper Not ウィスパー・ノット (Benny Golson)
4. When I Have You ホエン・アイ・ハヴ・ユー (Red Mitchell)
5. It’s All Right with Me イッツ・オーライト・ウィズ・ミー (Cole Porter)<2>
1. Fly Me to the Moon フライ・ミー・トゥー・ザ・ムーン (Bart Howard)
2. (East of the Sun,) and West of the Moon 太陽の東、月の西 (Brooks Bowman)
3. How High the Moon ハウ・ハイ・ザ・ムーン (Morgan Lewis)
4. Moonlight Becomes You ムーンライト・ビカムズ・ユー (Jimmy Van Heusen)
5. Old Devil Moon オールド・デヴィル・ムーン (Burton Lane)1. Ladybird レディバード (Tadd Dameron)
2. The Scene Is Clean ザ・シーン・イズ・クリーン (Tadd Dameron)
3. Sid’s Delight シッズ・デライト (Tadd Dameron)
4. Soultrane ソウルトレーン(Tadd Dameron)
5. La Ronde Suite ラ・ロンド・スイート (John Lewis)
Encore: Stardust スターダスト (Hoagy Carmichael )
一部で聴けたレッド・ミッチェルのオリジナル、”You’re Me”は平日もしばしば聴けますが、バラードの“When I Have You”は久しぶりに聴けました。愛する人と過ごす満ち足りた時間が、そのままプレイのタイムになった極上のプレイ、まだ聞いたことのない歌詞が聴こえてくるように思えました。その前に演った“Whisper Not”は、トリオの息がひとつになってギア・チェンジして、ハードバップの「けじめ」みたいなものを感じさせる爽快なプレイに、客席も気持ちよさそう!
ラストのコール・ポーター、弾丸スピードの” It’s Alright with Me”は、問題作スーパー・ジャズ・トリオ「The Standard」に収録された奥深い演奏(いろんな意味で)を講座で聴いたので、次回の「対訳ノート」に書こうと思ってます。
OverSeasならではのお月見が楽しめた二部のオープニングは“Fly Me to the Moon”、先月の「枯葉」もそうでしたが、The Mainstemのスタンダードは、いつも垢抜けていますね。
ビリー・ホリディのおハコでもある2曲目は、寺井尚之が「ウエスト・オブ・ザ・ムーン」と曲目紹介して、客席をにんまりさせました。元来「East of the Sun, and West of the Moon / 太陽の東、月の西」はノルウエイ民話の名前。魔法で白熊に変えられ、魔女と結婚させられそうになる恋人の王子を探し求め、果敢に北の国を冒険する娘の物語です。愛する王子様が幽閉されている場所の唯一の手がかりが「太陽の東、月の西」というわけなんです。
うっとりするほどロマンティックなバラード“Moonlight Becomes You”は「月光は君に似合うね」という意味です。
“月光に照らされる君の美しさは息をのむほど。
月明かりが君にすごく似合うから、
僕はどうしようもなくロマンティックな気分。
もしも僕が今愛を告白したとしても、
それは月のせいじゃない。
月明かりが、あんまり君に似合うから。”
いいなあ!・・・作詞はジョニー・バーク、とろけるように甘いロマンティックな歌詞なら右に出るものなし!この歌は、But Beautufulなどと同様、ビング・クロスビー、ボブ・ホープ主演の「珍道中シリーズ」の挿入歌で、これはモロッコでのドタバタ・コメディー『the Road to Morocco』の中でクロスビーがソフトな声でハーレムのバルコニーの奥にいる美女に歌いかけます。
三部はバップ・チューンで真っ向勝負、日本広しと言えど、「タッド・ダメロンが聴けるのはOverSeasだけ」と言われるだけあって、タイトなサウンドを堪能させてくれます。その中で、ダメロンがジョン・コルトレーンに捧げたという“Soultrane “は「バップ・バラードとは、こういうもんや!」という気迫がビシビシ伝わってきました。
ラストの“La Ronde Suite”はリズムと色合いの変化でジェットコースターに乗っているような心躍る曲、ジョン・ルイス(p)作曲、モダン・ジャズ・カルテットやディジー・ガレスピーOrch.の名演が心に残ります。このトリオがNew Trioという名前でスタートした当時から、寺井が最強のピアノ・トリオ・ヴァージョンに編曲して愛奏していました。在浩さんのベースライン、一平さんのフィル・イン、全てしっくりまとまって、ここぞという時に爆発するダイナミクスが最高でした!いつかレコーディングしてほしいと願います。
そしてアンコール!再び夜空に戻って“Stardust”の聴きなれたメロディにバップ魂の星屑が舞い散りました。
1st Setの”Whisper Not”を作曲したベニー・ゴルソン(ts)が、ドキュメンタリー映画、『A Great Day in Harlem 』で、こんな事を話していたのを思い出しました。
“僕は良い曲を書きたいといつも思っていてね。ある夜、夢の中で素晴らしいメロディが聴こえてきた。目が覚めた時、僕はすぐに起き上がって、必死で五線紙にメロディを書き留めたよ。すると夢に観た曲は、なんと“Stardust”だったのさ!(笑)”
スタンダードからバップ・チューンまで、The Mainstemの守備範囲はますますボーダーレスなものになってきました。名曲であっても名演じゃないと面白くない。スタンダードでも手垢のついたものは聴きたくない。それなら、ぜひ寺井尚之The Mainstemを聴きに来てください。バップの魂とサムライの折り目正しさを持つ、気持ちの良いピアノ・トリオです。
次回は10月30日(金)、ぜひお待ちしています!
CU
11/28(土) トリビュート・コンサート開催!
第15回追悼コンサート:Tribute to Tommy Flanagan
日時:2009年11月28日(土) 1部 7pm-/2部 8:30- (入替なし)
於:Jazz Club OverSeas
前売りチケット: ¥3,150(税込 座席指定)
秋も深まり、夜になると爽やかな風に吹かれて帰るのが心地良い季節になりました。インフルエンザ流行で学級閉鎖などのニュースを聞きますが、皆さん、いかがお過ごしですか?
11月は、トミー・フラナガンが亡くなった月ですので、28日には、OverSeas恒例追悼コンサート、Tribute to Tommy Flanaganを開催いたします。
演奏は、もちろん寺井尚之(p)The Mainstem 宮本在浩(b)、菅一平(ds)。そろそろ、トリオもトリビュート・モードに入ってきました。これから、寺井尚之の指もお稽古で、いつもに増して筋肉がついてパンパンにはち切れて来ます。
トリビュートの夜は、生前のトミー・フラナガンがライブで聴かせてくれた名演目の数々が甦る楽しい一夜になるでしょう!当然のことながら、前回3月のトリビュート・コンサートと全く違うプログラムでお聴かせする予定ですが、何を演るのは私も全然知りません。
トミー・フラナガンの音楽の不思議なところは、いつまでも新鮮で色褪せないこと。先日のジャズ講座で聴いた「The Standard」は、自分から好んで聴くことのないアルバムでしたが、”It’s All Right with Me”や”Angel Eyes”の歌詞の中に隠されたトミーの強烈なメッセージを聴きとることが出来ました。名人の落語は「1週間経ってやっとオチが判る」ことがあると言いますが、フラナガンのオチは29年経ってから判ったのだった・・・
フラナガンが亡くなった2001年以来、11月は私にとってブルーな月でしたが、最近はトリビュート・コンサートに集まってくださる皆さんにお目にかかれるのが楽しみです。
トリビュート・コンサートは初めてという方もどうぞお越しください。これをきっかけにトミー・フラナガンを好きになっていただければ最高です。
OverSeasの席数は限られているので、チケットの販売は当店のみ。ぜひお待ちしています!
最晩年のトミー・フラナガン、NYの自宅にて:たぶん、今もこのスタインウエイは、蓋を開けたままで主が再び弾いてくれるをずっと待っているはず。JazzTimes
CU
Red Mitchell (その3) 考えて闘ったベーシスト
台風一過で秋本番の大阪です。今朝はJRのダイヤも大混乱でしたが、いかがお過ごしですか?皆さんの町やご家族の誰にも被害がなければいいのですが・・・
<私が故国を去った理由>
レッド・ミッチェルが住みなれたLAを離れストックホルムに転居したのは1968年ですが、初めてスエーデンを訪れたのは’54のツアーで、ビリー・ホリディも一緒だったと言います。リムジンで街を案内された時、ビリー・ホリディはてっきり景観の良い場所だけをドライブしているのだと思いこんで、「スラム街に連れて行ってよ。」と言いだしました。すると、現地の人たちはこう言って、レディ・デイを驚かせたそうです。
「この町にスラム街はありませんよ。」
「そのかわり、この国にはビヴァリー・ヒルズもありませんがね。」
アメリカン・ドリームの裏側にある、構造的格差社会の米国に失望したミッチェルは、第二の人生の舞台に、平等社会スエーデンを躊躇なく選んだのかも知れません。
ジーン・リース著、「Cats of Any Color」の中で、レッド・ミッチェルはスエーデン移住の動機について語っています。
レッド・ミッチェル:「二度目の妻と暮らしていた時のLAの自宅はシャロン・テートを惨殺したマンソン・ファミリーの活動場所の近所でね、近所の老夫婦が殺害され、私の家のガレージが荒らされた。彼らの仕業だと思うよ。当時、ショウビジネスの人間は戦々恐々としてしていて、スティーブ・マックイーンですら拳銃を携帯していたほどだ。だが、あの事件は米国全土に蔓延する暴力主義の氷山の一角に過ぎない。
私がアメリカを去ったのは、ホワイトハウスから地下鉄に至るまで、全米を覆い尽くす暴力と人種差別が原因だ。具体的には、ごく短期間に続けて起こった6つの事件が、移住の理由だ。ひとつは二度目の結婚の破たん。ふたつめは、ヴェトナム戦争から街で起こる事件など様々な暴力の悪循環に加担したくなかったから。そして、僕たちが演奏する音楽にも、社会の暴力的な要素が反映されていくのに耐えられなかった・・・」
レッド・ミッチェルの最後の妻、ダイアンはスエーデンを含め3つの大学で社会学を修め、反戦運動に関わった社会活動家ですから、実存主義的でリベラルな思想は、ひょっとしたら彼女の影響なのかも知れません。
<スエーデン時代>
ペデルセンと、二大巨匠の2ショット。
スエーデンに渡ったレッド・ミッチェルはアーティストとして大歓迎を受け、フリーランスで活動します。その頃レギュラーで共演していたのが、12月のジャズ講座に登場するテナー奏者ニセ・サンドストローム(ts)です。
’77年から’90年までは、毎年必ずNYに3か月間滞在し、「ブラッドリーズ/ Bradley’s」を拠点にして、トミー・フラナガン、ジム・ホール(g)、ハーブ・エリス (g)と共演。辛口コメントで知られる評論家レナード・フェザーに「ジャズ・ベース最高のソロイスト」と賛辞を献上させています。
ベースだけでなくヴォーカルやピアノも演奏、そればかりか詩人としても活躍しました。91年にはスエーデンのグラミー賞を受賞、同年ソ連にホレス・パーラン(p)とツアーしています。演奏の傍ら、欧米をまたにかけ”Communication”, “ベース・ワークショップ” “五度チューニング・ベース” などのテーマで講義、講演し、教育者としても実績を挙げました。チャーリー・ヘイデン(b)や、モンティ・アレキサンダー(p)のレギュラー・ベーシストであるハッサン・シャカール(Hassan A. Shakur aka.J.J. Wiggins)もレッド・ミッチェルの愛弟子なんです。
<ズート、サラ、マイルス・・・レッド・ミッチェルのアイドルたち>
音楽や社会問題、何でも徹底的に論じ尽くすレッド・ミッチェルの発言を読んでいると、もし彼が日本人なら、TVコメンテイターに成れたのに・・・と思うほどです。そんな彼の音楽的アイドルは、ベーシストでない人ばかりでした。
レッド・ミッチェル:私のアイドルは、ベーシストとは限らない。たとえばズート・シムス(ts)、それにサラ・ヴォーン(vo)だ。彼女の数え切れない美点の中でも、あのイントネーションが最高だ。彼女の音程は完璧だ。ど真ん中に命中した音程が、次にはさらにその中心に、その次には、さらにその針の穴のど真ん中にヒットしていくのが堪らない。それだけで鳥肌が立って泣いちゃうよ。
自分の生徒には、ベースでなくホーン奏者を見習えと常に言っている。特に心から薦めたいのが’50~’60年代のマイルス・デイヴィスだ。
なぜなら、マイルス・デイヴィスにはトランペッターとしての天賦の才はないからだ。マイルスはトランペットを演奏する為には、ありとあらゆる問題を克服しなければならなかった。そのため、マイルスは考えに考え抜いた。問題と闘いながら考え抜いたんだ。だから彼のプレイは実にシンプルで深みがあり、ベース奏者でも演奏できるし、オクターブ低く引けば一層深みが増すフレーズが多い。だから、ホーンならマイルスを聴けと言っている。
マイルス・デイヴィスは自分の欠点を、最高の長所に変えた。彼の吹く音は、様々な問題と格闘した結果だ。彼が考えることなく出した音などただ一つとしてないよ!
私にもベーシストとして致命的な欠陥がある。一番の欠陥は、極端な「右利き」であること:普通ベースの演奏は8~9割までが左手の仕事なんだよ。左手と右脳を柔軟に活用して、右手はとれとれの魚みたいなもんでいいんだ。左手を自由に使えるよう努力してみたが、どうにも無理だった。それで、「右利き」を最高に活かせるようフィンガリングを工夫して、自分の奏法を編み出した。マイルスのように欠点を長所にしようと格闘したわけだ。
<晩年>
G先生のお話によれば、’92年にレッド・ミッチェルが故国に戻り、オレゴン州のサレムに転居したのは、ダイアン夫人のお父さんがそこに住居を持っていたのと、ストックホルムのアパートで近隣から演奏による「騒音」の苦情が来たためであるそうです。
この頃からミッチェルはしばしば狭心症の発作が激しくなり、痛みをこらえて生活していたそうで、ひょっとすると、アメリカに帰ったのは、自分の死期が近いのを予感していたせいかも知れません。トミー・フラナガンやレッド・ミッチェル、サー・ローランド・ハナ・・皆心臓疾患を抱えていたんですね。
帰国後、大統領選挙戦たけなわの’92年10月、ミッチェルは軽度の心臓発作で入院、リベラルでジャズ・ファンであったビル・クリントンに不在者投票しています。11月3日、心臓検査の結果は良好、またビル・クリントンが大統領に選出され、レッド・ミッチェルは最高の上機嫌でLAにいる弟のゴードン・ミッチェルと、長距離電話で互いに祝い合いました。
その夜遅く、レッド・ミッチェルは脳卒中の発作に見舞われ5日間昏睡状態となり、1992年11月8日、帰らぬ人となりました。
先月から、三回に分けて、レッド・ミッチェル(b)について書いてきましたが、ちょうど、この時期にレッド・ミッチェルのメモリアルサイトがオープンしていました!ダイアン未亡人が作成しているサイトで、まだ工事中の箇所もありますけれど、写真やヴィデオも沢山Upされていて、とても嬉しく思いました。「トミー・フラナガンの足跡を辿る」のレッド・ミッチェル時代にこのサイトが出来たのは、ミッチェルの言葉を借りるなら、神様ではなく”母なる自然”の思し召しかも知れません。
今回のレッド・ミッチェルの写真はすべてhttp://www.redmitchell.com/からのものです。
土曜日のジャズ講座では、レッド・ミッチェルの饒舌な語り口そのままのベースを楽しもう!
お勧め料理は、レッド・ミッチェルと同じくらい饒舌なペッパー・アダムスの名盤「The Master」の中のオリジナル曲に因んで、メキシコ料理「エンチラーダ」を作ることにしました。中身はピリ辛のお肉と、あっさりマイルドなマッシュルーム&ホウレン草、ソースもホットチリ味とサワークリームの2色作って待っています。
CU
エディ・ロック(1930-2009)告別式のお知らせ
2008年6月の雄姿 撮影:John Herr
ドラマー、エディ・ロック(ds)告別式のお知らせ
日時: 11月22日(日)7pm-
場所:聖ピーターズ教会
St. Peter’s Church: 619 Lexington Avenue at 54th Street, NY.NEW YORK
tel : 212-935-2200
エディ・ロックさんの告別式の詳細が決まりましたので、Interludeに告知させていただきます。場所は、昨年4月のジャズ講座で楽しんだライブ盤『Eddie Locke(ds)&Friends Live at St. Peter’s Church』の舞台となった聖ピーターズ教会。この教会で盛んに演奏されていたエディさんにとって文字通り「ゆかりの地」でのお別れになりました。演奏者は先日OverSeasに出演してくれたショーン・スミス(b)、ショーンと同じようにエディさんに師事したビル・シャーラップ(p)、ジョン・ゴードン(as)その他の予定です。残念ながら私たちは行くことができませんが、NYにいらっしゃる方は、ぜひ参加して、エディ・ロックというドラマーが、NYのジャズ・コミュニティでどれほど敬愛されたかを偲んでいただきたいと思います。
レコードが少ないため、確かに日本で知名度が低く、正しい評価を頂けなかったかも知れませんが、エディ・ロックのCaravanを知らずに、NYジャズ・ミュージシャンのはしくれとは言えないでしょう。
評論家ナット・ヘントフは、エディ・ロックについて『”活力溢れるジャズライフ”そのままの生き様だった。』と語っています。
これを機会に、トミー・フラナガン(p)、エディ・ロック(ds)、メジャー・ホリー(b)の黄金カルテットによる一連のコールマン・ホーキンスを聴いてみて欲しいものです。
息子代わりのショーン・スミス(b)は、先日のコンサートの後、このカルテットについて、こう言っていました。「レギュラー・バンドで、しかもプライベートでも家族同然に付き合う関係は、本当に稀なものだし、一連の共演盤には、そういうコミュニケーションがすごくよく表れているよなあ・・・。」
ドラマー、エディ・ロックを、まだご存じない皆さんのために、ここに彼の経歴を簡単に書いておきますね。
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エディ・ロック Edward “Eddie” Lockeは 1930年8月2日デトロイト生まれ、デトロイト育ち。子供時代の経験については、ジャズ講座の本「トミー・フラナガンの足跡を辿る」第5巻の附録に肉声が載っていますので読んでみてください。
6才頃からドラムを始め、殆ど独学で腕を磨き、オリバー・ジャクソン(ds)とヴォードビル・チーム「Bop & Locke」を結成して人気を博した。’54年、巨匠、コージー・コール(ds)の薦めでNYに進出し、アポロシアターにデビュー以後NYに留まる。当初は、パパ・ジョー・ジョーンズの住み込み”弟子”として楽器運びをしながら、舞台の袖から師匠を観て学びました。
ロックは師匠パパ・ジョーについてナット・ヘントフにこのように語っています。
「ジョー・ジョーンズは、今まで観た全ドラマーのうち、最もクリエイティブだった。他の誰もがしていない技を次々と創り出した。彼のようなブラシュ・ワークは、他に観たことがない。」
その他にロックが影響を受けたドラマーにはソニー・グリアー、ジミー・クロフォード、ジーン・クルーパがいる。NYでのブレイクは、’50年代、NYジャズ・クラブのメジャー・リーグとも言えるメトロポール・ジャズ・クラブだった。’58年にロイ・エルドリッジにレギュラーとして雇われ、長年に渡り共演、”Eldridge’s Swingin’ on the Town”( Verve’60録音)を始めとして数多くのレコーディングや「ジミー・ライアンズ」で共演。同時にコールマン・ホーキンス(ts)ともレギュラー活動し、’69年、ホーキンスの死去まで公私ともに親しく付き合った。 Good Old Broadway, The Jazz Version Of No Strings ( Prestige )Hawkins! Alive! At The Village Gate(Verve) Today And Now (Impulse)など数多くの共演盤を残す。
ロックは最高のサイドマンでしたが、’80年代にはサー・ローランド・ハナ(p)を擁した自己バンドを率いて活動し、晩年もたびたびリーダーとして演奏を続けていました。 NYのファースト・コール・ドラマーとして、ホークやエルドリッジ以外にもテディ・ウイルソン(p)ケニー・バレル(g)アール・ハインズ(p)など共演者は書ききれません。またTonight Showなど多くのTV番組のピット・オーケストラでも演奏していました。
ジャズ評論家、故スタンリー・ダンスはスイング時代についての著作で、エディ・ロックについて次のように述べています。「ロイ・エルドリッジとコールマン・ホーキンスという2人の大巨匠の音楽を理解し、それぞれの高度な音楽的要求に応える逸材である。」
ロックはまた、ジャズ史上極めて有名なエスクワイヤ誌に掲載された写真、「グレイト・デイ・イン・ハーレム(1958 アート・ケイン撮影)」に映る著名ジャズメンの数少ない生き残りでした。当時28歳で、最も最年少のジャズメンのひとりとして、歴史的瞬間に参加しています。きっと師匠のジョー・ジョーンズが弟子のエディをひっぱって一緒に映ったのでしょうね。もうあの写真の中で現存するミュージシャンはソニー・ロリンズ、マリアン・マクパートランド、ハンク・ジョーンズ、ベニー・ゴルソン、そしてホレス・シルバーの5人しか残っていません。
また、ロックさんは、コールマン・ホーキンスなど巨匠たち(たぶん、トミー・フラナガンも!)の膨大な写真のコレクションを所有していましたが、現在はコロンビア大学の図書館が買いあげ所蔵しているそうなので、チャンスがあれば、ぜひ閲覧してみたいものです。
多忙な演奏活動の合間を縫って、ロックは、音楽教師としても活動し敬愛されました。その中には現在プロで活躍している人も多く、先日OverSeasに出演したショーン・スミスやビル・シャーラップ(p)もロック門下です。
ロックさんの遺族は、二人の息子さんと二人のお孫さんで全員ハワイ在住。昨年初めに心臓発作で救急治療を受け、ペースメーカーを装着していたものの、病院での治療を頑なに拒否し2009年 9月7日、NJの知人宅で亡くなられたということです。
左からフラナガン、コールマン・ホーキンス、メジャー・ホリー(b)、エディ・ロック(ds)
エディ・ロック:「教師としての私の役目は、若い人たちを正しく成長させること。今流の音楽を演る場合も、偉大な先人やジャズの歴史を踏まえた上で演るのと、演らないのでは、全く違った出来になる。若い人に、そういう基本を伝えたい。」
合掌
レッド・ミッチェル(その2):私がチューニングを変えた理由
お元気ですか?今日ショーン・スミス(b)夫人の安紀子さんから丁寧なお礼状をいただきました。コンサートの後、掲示板にいだだいた皆さんの感想を読んで感激して泣いてしまったそうです。「心に触れた音楽の感想が、今度は自分の心に触れた。」とメールに書かれていました。
ショーン・スミスは自己グループで10月5日(月)にNYブルーノートに出演します。銀太くんやNYにいらっしゃる皆さんはCheck It!
さて今日は、ショーン・スミスもオリジナル曲を献上しているレッド・ミッチェル(b)伝の続きです。10日(土)のジャズ講座にはトミー・フラナガンとのデュオ・アルバム、『You’re Me』が登場することですので、今回はミッチェルの「あの」サウンドを生む革新的な調弦方法“五度チューニング”について探ってみたいと思います。
ジャズ批評家であり作詞家のジーン・リースによるインタビュー集"Cats of Any Color “の中の”The Return of Red Mitchell”を読むと、音楽ファンであり音響工学の専門家であった父にはぐくまれ、科学と芸術の両方を突き詰めるルネサンス時代のレオナルド・ダ・ビンチのようなアーティスト像が見えてきます。
<音階とは?>
父は、「自然は必ずしもバラの花園を意味しない。」という事実を、幼い私にも、ちゃんと説明することが出来る人だった。つまり、我々が「音階 (the scale)」と呼ぶものは、「こんな音を聴きたい。」という願いの産物で、自然界のどこにも「音階 」など見つからない。「音階 (the scale)」は人間の世界にしかないものなんだ。
弦楽器の場合、4度チューニングと5度チューニングの2種類にするとき、「音階」とは二種類の調弦の軋轢(あつれき)の妥協点だ。4度チューニングにするなら、トップノートのピッチは低く、ボトムは高くなり、物理的にスケールの音程幅は短くなる。逆に5度チューニングにすると、スケールの幅は大きくなり、トップノートは高く、ボトムは低くなる。
<コントラバス調弦史と四度チューニングの功罪>
いつか私はこのテーマについて本を書こうと思っている。その中で、何故ベーシストやチェリストで相性の良い演奏家達がいるのかを説明するつもりだ。要するに、異なったチューニングさえしなければ、皆うまくサウンドするということなんだけどね。ベース以外の弦楽器は全て五度チューニングだし、実際ベースという楽器も、最初はそうだった。
現在のベース・チューニングの基本である四度チューニング(上からG-D-A-E)は、全ての交響楽団に於いて、ベースVS他の弦楽器の間に「戦争」を起こす元凶で、四度チューニングは、最悪の間違いだ。ベースの四度チューニングは18世紀から徐々に普及し始めたと僕は思っている。元々ベースは現在の4弦でなく3弦で、僕と同じように上からA-D-Gと五度チューニングをしていたんだ。
当時は、ガット弦(羊の腸で出来ている弦)しかなく、それでC弦を作ろうとすると人間の親指より太くなってしまうので、C弦を作ることが出来なかった。巻線というものがなかったからね。それでベースの最低音はG(ピアノの最低音のAより7度上)、その五度ずつ上がってD、Aと、三弦をチューニングするところからベースの歴史は始まった。
実際のところ、他にもいろいろチューニング法はあったんだが、オーケストラの音楽家たちも、まだその辺りをきっちり分析できていない。
ロンドンのロイヤル・フィルハーモニック交響楽団がNY公演中、僕はブラッドリーズに出演中で、楽団のベース奏者が8人連れ立って三晩聴きに来た。彼らはジャズファンで、それに、僕の五度チューニングに興味を持っていた。彼らはリンカーン・センターのコンサートに僕を招待してくれた。とても良いオーケストラで良いコンサートだったよ。
8人のベース奏者は、4種類のチューニング法を使って演奏していた。主席と副主席の奏者は、ほとんどのジャズ・ベーシストと同様、下からE-AーD-Gの順にチューニングし、次の二人は五弦ベースで、最低音の弦をCではなくBにしていた。確か、ブラームスの交響曲第一番を演奏するので、低音のBが必要だったからだったと記憶している。下のBは二人しか出さないが、いい感じだった。つまりこの二人は、B,E,A,D,Gとチューニングしていたわけだ。そして後列のベーシスト4人のうち、二人は指板の上方に、糸巻きを部分的にカットして黒壇のエクステンションを装着していて、二種類のエクステンションを二人ずつ装着していた。
<ジャズ・ベースとエクステンションについて>
エクステンションを使用するルーファス・リードとロン・カーター
ロイヤル・フィルのベース奏者が装着したエクステンションのうち、二人はメタル・フィンガーのないもので、通常のE弦の場所に留め金がついている。エクステンションを使う時は、留め金を開ける。すると「カチン!」と大きな音がして、糸巻きを調整する。例えばロン・カーターやルーファス・リードように大きな手のベーシストなら、それを使うと、限定的ではあるが独特のパッセージを弾くことができる。だがあまり実用的とはいえない。せいぜい、ランニングで使う程度だ。エクステンションを使っても、ズート・シムスのような低音のソロは弾けない。ズート・シムズのあの低音のソロを覚えているかい?普通の音域に戻っても、それが不自然なくらい低い音だったなんて気がつかないような自然のソロだ。ズートは、そういうことをいともた易くやってのけた。だから彼は僕の永遠のアイドルなんだよ。
残りの二人はメタル・フィンガー付きのエクステンションを使っていた。それは最初のものより更に使いにくい。金属製のフィンガーが弦を固定し、細いチューブを通って、ネック上部にある4個の金属ノブに弦を固定してある。この装置はクラシック音楽にしか向いていない。ジャズの場合、このエクステンションで出来ることは皆無だ。まあ、しかし、クラシック作品に書かれてある無理難題を演奏する場合は使ってみればいい。
僕がMGMのスタジオで主席ベース奏者をやっていたのは、何も僕がそこで最も優れたベーシストだったからではなく、エレキベースでロックも出来るし、クラシックも出来る器用なところを買われただけなんだけど、そのスタジオでエクステンションを必要とする超低音の指示があると、必ず「クッソー・・・」というつぶやきが聴こえて来る。つぶやきの大きさはベーシストの人数に比例する。エクステンションを装着すると面倒なことだらけなのさ。
<倍音と音階の矛盾の問題>
弦楽器で完全五度を鳴らすと、クレッシェンドするという現象が起こる。二本の弦を鳴らすとデクレッシェンドする代わりにクレッシェンドする。僕の場合は、トップのA弦とD弦を鳴らした場合に、約10秒間、徐々に音量が増すんだ。
僕は子供の時、本当にラッキーだったと思う。父が子供にそういうことを判り易く説明できる数少ない人間だったからね。ピアノの最低音のAの周波数は、約27.5Hz(ヘルツ)だ。その倍は55Hzでオクターブ上のAだ。110Hz、220Hz、440Hz・・・周波数が倍になるとオクターブ上になる。
今度は最低音のAの周波数を1.5倍(1/2×3)すると、五度上の音になる。そしてGの開放弦を鳴らすと、周波数に拘わらず倍音(ハーモニクス)のDを伴う。それは、その弦が三分の一に分割されている結果だ。その倍音のDは、元の開放弦のG音からオクターブと五度上の音だ。つまり、1/2×3というところから音程間隔が決定づけられるということだ。
父が教えてくれたことなんだが、最低音のAから倍音を辿って次のAを鳴らすと、周波数を単純に2倍に掛け算した結果得たA音とは、周波数が異なる高い音が生まれる。音痴でなければ耳でその違いは瞬時に判別できるよ。
私がベースを始めた頃、色んな人にチューニングの方法を尋ねたが、皆、最低音のEから4度ずつ上にチューニングすると、同じ答えが返って来た。だからベースはチェロと(五度チューニング)全く違う音階の世界になってしまうのだ。とにかく私も19年間、四度チューニングで演奏を続け、様々な問題に遭遇した。しかし、チューニングを変えてからは、ほとんどの問題点が解決されたよ。私のチューニングはチェロを1オクターブ低くしたもので、最低音は通常のE音より三度下だ。
<試行錯誤の日々>
レッド・ミッチェルが五度チューニングに転向したのは、すでにベース奏者として名前を成していた’66年のことです。早熟なジャズ・ミュージシャンなら「守り」の態勢になっても不思議でない39歳という年齢を考えるとアメイジング!ですね。
五度チューニングに最適な弦を探して、’66 年から’77年までの間、世界中のありとあらゆる弦で、私は実験を繰り返した。一番の被害者は当時レギュラーで仕事をしていたハンプトン・ホーズ(p)だな。LAの「ドンテ」や「ミッチェルズ」に出演するときは、ベース弦の束をドサっとピアノの上に置いて、各セット違う弦で弾いていた。5年間の実験を重ねたが、「これだ!」という弦にはまだ出会えなかった。それで、ベース弦の一流メーカー『トマスティック社』に電話した。1971年のことだ。そしてトマスティックの若い社長と話をすることができた。彼はまだ29歳の恐ろしく万能な若者で、おまけにジャズファンで、僕のことを知っていたんだ。すぐに五度チューニングに最適な弦を作ることを約束してくれて、そのとおりに最高の弦を作ってくれた。今じゃ五度チューニング用の4種類のベース弦が製品化されている。
<9日間で新奏法に移行する方法>
’66年、チューニングを変えて演奏活動をするため、二度目の妻と連れ子を伴い、サンディエゴ近郊の浜辺のモーテルで9日間波の音を聴きながら昼夜なく練習し続けた。
レッドの弟、ゴードン・"ホワイティ"・ミッチェルの証言: 兄は、仕事先をなだめすかし、嘘八百並べ、皆を何とか丸め込んで10日間のオフをひねり出し、あのモーテルに籠ったんだよ。そして今までの弦をはずし、自分の演奏システムをリセットし、五度チューニングに順応する演奏法を発明し稽古に没頭した。10日後、スタジオに何食わぬ顔で戻り、新しい奏法で仕事した。すごいね!!そりゃまったく週末にオーボエをマスターしちまう位すごいことだよ。
*ゴードン・ミッチェルは兄同様、ベーシストとして’60年代まで、"ホワイティ"・ミッチェルという名前でジャズ界で活躍しました。その後、ダウンビートに、ジャズマンの悲哀をユーモアたっぷりに綴る記事を寄稿したのがきっかけとなりTV界に入り、コメディ畑の脚本家やプロデューサーとして大活躍。爆笑スパイシリーズ「それいけスマート」や、ホームコメディー「パートリッジ・ファミリー」は日本でも人気があったので、覚えている人も多いかも。寺井尚之も「それいけスマート」の「盗聴防止装置」の大ファンでした。
レッド・ミッチェル:「演奏法改造後すぐLAに戻り、五度チューニングの初仕事は、MGMのスタジオでアンドレ・プレヴィンが指揮する65人編成オーケストラだった。私は第一ベースだ。
私は思った。『初仕事はアンドレ・プレヴィンと大交響楽団か・・・まあ、いいさ。象みたいなデカ耳でなんでも聴こえるアンドレが気づかなければ、誰だって気付きっこないさ。』
私はアンドレにチューニングを替えたことは言わなかった。セッションが始って20分ほどしてから、一瞬、以前のチューニングと間違え、全音上のミス・ノートを出しちまった。普通アンドレはそんなことをしないんだが、演奏を止めて、僕にこう言った。
『レッド、ほんとかい!もし君じゃなかったら、アウトしてるぞって言うところだったじゃないか!』
アンドレ・プレヴィン(1929-)指揮者、作曲家、クラシック&ジャズ・ピアニスト、ウィットに富むトークも最高!
休憩中、私が事情を打ち明けると、アンドレはこう言った。
『つまり、君はベースをチェロと同じようにしちまったってことかい?丸1オクターブ低いというわけ?』
Yes,
『チェロと同じように弦が渡ってるわけ?』
Yes,
『同じフラジオレット!?』(フラジオレット(Flageolets)とは、弦楽器のハーモニクスのこと。)
Yes,
『弓使いも同じなの!?』
Yes,
アンドレは自分の額を叩いてから、その後何人もの作曲家たちが言ったのと同じ言葉を発した。
『ちきしょう!ベーシスト全員がそうすりゃいいのになあ・・・何でやらないんだろう!』
ディジー・ガレスピーも即座に五度チューニングの意味を理解して同じことを言ったよ。
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8月のジャズ講座で、宮本在浩(b)さんがベースを抱えて、実地に色々教えてくださったことを、レッド・ミッチェルのインタビューで再確認することができました。
ミッチェルは、それからチェロ奏者の技や、チャーリー・クリスチャン(g)がギターで行ったような「禁じ手」をベースに応用して、五度チューニングに適切なフィンガリングを開発して、あんなに深くニュアンスに富むプレイを自分のものにしていったのです。
次回はレッド・ミッチェルのアイドルたちやスエーデン移住のいきさつなどについて書きたいと思います。
CU