トミー・フラナガンの名演目(2): With Malice Towards None

ballads_and_blues_0.jpeg OverSeas的大スタンダード、”With Malice Towards None” (ウィズ・マリス・トワーズ・ノン)。トミー・フラナガンはジョージ・ムラーツ(b)とのデュオ・アルバム『Ballads and Blues』(’75)、トリオでのバースデー・ライブ、『Sunset And The Mockingbird』(’97 )、ソロはフランク・モーガン名義の『You Must Believe In Spring 』と繰り返し録音し、ライブでも演奏し続けた愛奏曲です。

 作曲者はトム・マッキントッシュでラナガンのお気に入り!この曲以外にもCup Bearers, A Balanced Scaleなど数多くマッキントッシュの作品を取り上げている。

 

 生前、フラナガンはこの曲についていくつかのヒントをくれました。

     

① この曲はリンカーンの名言がタイトルで、メロディーの元は賛美歌だ。

     

② トム・マッキントッシュはとても信心深くて、音楽そっちのけで牧師をしていたことがある。(笑)

     

③ マッキントッシュの作品が好きな理由は非常に”ブラック”だからだ。

 フラナガンの言葉はいつも謎、謎、謎ばかり。少し調べてみよう!

       

<エイブラハム・リンカーン+賛美歌=ウィズ・マリス・・・>

 

quote-with-malice-toward-none-with-charity-for-all-with-firmness-in-the-right-as-god-gives-us-to-see-abraham-lincoln-112732.jpg “ウィズ・マリス・トワーズ・ノン”・・日本人には言いにくいし、聞きづらいタイトルですが、米国ではだれでも知っているエイブラハム・リンカーンの名言、大統領第二期就任演説の結びの言葉。   

 

何ものにも悪意を向けず、すべてのものに慈悲の心を向けよう…」

    南北戦争終結直前のスピーチ、今は敵と味方でも、終戦後は一丸となって平和な国歌を目指そう!という呼びかけです。でも、リンカーンはこの演説の3週間後に暗殺されました。

 曲のの名付け親はマッキントッシュの友人でGene Keyesという名のシカゴのピアニスト。曲を聴いていて、この名言が浮かんだのだそうです。
 
 そして、どこか懐かしいメロディーの元になった賛美歌は、日本のキリスト教会でも極めてよく歌われる「賛美歌461番:主われを愛す(Jesus loves me,this I know)」だった。  余談ですが、同じ賛美歌が、中山晋平作曲、野口雨情作詞の「シャボン玉」の元になっている!明治時代、国策として編纂された「唱歌集」以降、賛美歌のメロディーをベースに造られた童謡は日本にも多いらしい。
 
 
  

<神童マック> Mac05dac.jpg トム・マッキントッシュ(1927-)

 

  作曲者、トム・マッキントッシュについて:ジャズ通の皆さんは、”ジャズテット”やサドーメルOrch.の一員としてご存知かも・・・一般的な人気よりも、仲間内の評価がずっと高い、いわゆるMusician’s Musicianです。ジャズが下火になった’70年代は映画やTV音楽の世界で活躍。「スパイ大作戦」、それにオスカー受賞の「黒いジャガー」の映画音楽は、アイザック・ヘイズ作とされていますが、本当のところはマッキントッシュ作だった。(ヘイズは譜面の読み書きができなかった。)
 
 でもフラナガンとの接点はどこにあったのだろう?
 
 トム・マッキントッシュ、愛称”Mac”は1927年、メリーランド州ボルティモア生まれ、当時、多くの黒人家庭がそうであったように、生活保護を受けながら子供時代を過ごした。黒人層の収入が他の都市より遥かに多いデトロイト育ちのフラナガンとは違い、楽器のレッスンなど受ける余裕なし。でも類稀な歌声と素晴らしい耳を持っていた。どんな音楽でも一度聴くと覚えちゃう。そして数日後でも、再びそのメロディーを歌って聴かすことができた。さらに、天性のハーモニー・センスがあった。メロディーを聞くと同時に、長3度、6度といったハーモニーが、頭の中で聴こえていて、瞬時に声で再現できたそうですから天才だ!フラナガンと一緒だ!ただし、幼い頃からクラシックの英才教育を施されたフラナガンと異なり、マックの中学校には「音楽」という教科すらなかったんです。
 ところが、担任の先生が偉かった!彼の並外れた才能に気づき、奨学金を申請、原則白人オンリーの名門音楽学校、ピーボディ・インスティチュートの声楽科に特別枠で入学し、首席になります。当時のマックはまだまだジャズには縁遠く、”ダニー・ボーイ”のような伝統的なアメリカ歌曲を愛した。フラナガンが「クラシック音楽の呪縛から解放されているブラックな音楽家」と絶賛する秘密はこの辺りにあるのかも・・・ところが、 学校の窮屈さと経済的な理由でさっさと陸軍に入隊志願、天才マックがジャズに出会うのは、戦争の酷い爪跡が残る敗戦国ドイツの駐屯地でした。
 

<ドイツでジャズと出会う>  
red_mitchell_biography-2.jpg

 ドイツに上陸したマッキントッシュを迎えたものは、至る所に立ち込める「死臭」、そして貧困に苦しむ人々。戦争さえなければ裕福で知的なレディでいたはずのドイツ人女性が、飢えないために娼婦に身を堕とし、道端でマッキントッシュ達、若い進駐軍を誘う。ガス室に送られて死に絶えたドイツ系黒人達の死体、ホロコーストはキリストのせいと、神を断罪するユダヤ人たち、その惨状に大きなショックを受けます。それがマックを「エホバの証人」の信仰に駆り立てたのかも知れません。 洗濯兵だったマックは、声楽家ながら軍楽隊に転属し、21歳で初めてトロンボーンを始めます。同時にバンド仲間を通じて、デューク・エリントンやチャーリー・パーカーの音楽に出会い、たちまち虜になりました。マッキントッシュは、エリントンに魅了された理由を、「単にハーモニーが素晴らしいと言うのではなく、楽団の各メンバーが歌う様々な歌が合わさって、エリントン・サウンドというひとつの音楽に統合されていることに驚いた。」と語っています。
 
 トロンボーンを独習し、わずか数ヶ月でトルーマン大統領直属の特別な軍楽隊の選抜メンバーに抜擢。マックの伸びしろの大きさを看破したオーディションの担当上官がなんとレッド・ミッチェル(右:写真)!上官にはチャーリー・パーカーの共演者だったピアニスト、アレン・ティニーが、トロンボーンの同僚にはジョージ・ベンソンのお父さんがいた。ベンソンもマックと同じ「エホバの証人」の信者で、ミュージシャンとしては、プリンス、テニスのビーナス & セリーナ・ウィリアムズ姉妹たちも教団の著名人欄に名前を連ねています。後に、マッキントッシュがパラマウント映画から解雇された理由は、余りに熱心な宗教活動のためだったらしい・・・ 
 
  
<NYとトミー・フラナガン>
mac587645.jpg
    1956年、マックはリスク覚悟で音楽の道に進むことを決意、GI ビル(退役軍人の学費免除制度)を利用し、NYのジュリアード音楽院に進学しました。除隊の際、軍楽隊の仲間でデトロイト出身のトップ・ピアニストがこんな風にアドバイスした。  「君は僕を最高のピアニストと思ってるみたいだが、本当はそうじゃない。NYにはトミー・フラナガンというピアニストが居る。彼こそが本当に”弾ける”奴だ。彼を訪ねて行くといいよ。」   NYにやって来たマックがフラナガンを見つけるのは簡単でした。フラナガンは街中のジャズメンが共演を望む引っ張りだこの存在だったし、二人の住むアパートは目と鼻の先、たちまち親友になります。
 「最高の人間になる近道は、最高の人間と付き合うことだ。」
 フラナガンの人脈のおかげで、マックはジャズ・シーンの若頭的存在だったジョン・コルトレーン宅のジャムセッションに参加することができ、元上官のレッド・ミッチェルと再会を果たします。やがてミルト・ジャクソンやジェームズ・ムーディといったディジー・ガレスピー組に迎えられ、アレンジャーとしての実力が知れ渡っていきました。
<フラナガンの思う壺、With Malice…>
tommy_depth1.jpg
 ”With Malice…”は、トム・マッキントッシュの処女作。マックの作曲センスに興味を抱いたフラナガンは、作曲していると現れる。「さて、ここからどうしよう・・・」と迷って考えこむと、肩越しに覗きこんで「こうすれば?」「こっちの動きの方がいいんじゃない?」と逐一ナビゲートした!そのアドバイスはいつも適切で、「トミーが僕の作品をキメてくれた。」と、マッキントッシュ自身が語っています。
 フラナガンはマッキントッシュが紡ぐメロディーに、エリントンの”Come Sunday”に通じる黒人音楽のブラックな輝きを見つけたのに違いない。フラナガンは、自分がこの曲を演奏するという前提に立って、創作の舵取りをしたのではないだろうか?例えば、フェリーニがニーノ・ロータに注文を付けるように、マックのイマジネーションを喚起したのではないだろうか?

51S5YC01B5L._SL500_AA240_.jpg

 出来上がった作品は、チャーリー・ミンガスの目に留まり、マックに編曲を依頼して”ファイブ・スポット”で初演された。ただし、ミンガスが曲名を”With Malice Towards Those Who Deserve It” (憎まれても当然な奴らに悪意を向けて)と勝手に変えてしまったのですが・・・
 以来、有名ジャズ・スタンダードではないにせよ、”With Malice Towards None” は様々なミュージシャンが演奏している。フラナガンは、サイドマンとして『Dusty Blue/ Howard McGhee 』(’60)、同じ曲ながら”Mallets Towards None”という曲名で『Vibrations / Milt Jackson 』(’60)に参加(トム・マッキントッシュ編曲)。2003年にやっと出たという感のある、トム・マッキントッシュ自身の作品集のタイトル曲にもなっています。
 色々聴いてみましたが、曲の持つ良さ、つまり曲名が象徴する、魂を揺さぶるゴスペルの感覚と、エリントン的な洗練を併せ持つヴァージョンということでは、フラナガンが傑出している感があります。
 フラナガンの演奏に咲く華は、作曲の段階でフラナガン自身が撒いた種のせいに違いありません。
  フラナガン亡き後、この演奏解釈を再現できるのは寺井尚之だけかもしれない。11月のトリビュート・コンサートでメインステムの演奏を聴いてみてくださいね!
参考資料:
  • Reflections on Jazz and the Politics of Race/Tom McIntosh
Vol. 22, No. 2, Jazz as a Cultural Archive (Summer, 1995), pp. 25-35 Published by: Duke University
  • Smithsonian Jazz Oral History Program NEA Jazz Master Interview 

http://www.smithsonianjazz.org/documents/oral_histories/McIntosh_Tom_Transcript.pdf

トミー・フラナガンの名演目(1): Tin Tin Deo

tommy1984.jpg
 11月16日(土)はトミー・フラナガンの命日!OverSeasでは、寺井尚之(p)が宮本在浩(b)、菅一平(ds)を擁するトリオ、The Mainstemで、在りし日の名演目を演奏するトリビュート・コンサートを開催!ぜひこの機会に、Jazz Club OverSeasにお越しください。

 フラナガンが亡くなって12年!現在もフラナガンの音楽に親しむ常連様から、トリビュート・コンサートに先駆けて、聴きたい演目の「総選挙」をしてはどうか?というご提案をいただきました。「総選挙」の体制が整うように、当ブログで演目のご紹介をしていきたいと思います。今日は、フラナガンがよくラスト・チューンとして愛奏した”Tin Tin Deo (ティン・ティン・デオ)”のお話を!

<アフリカ発~キューバ経由~USA着>

Flanagans_shenanigans.jpg  寺井尚之が初めてトミー・フラナガン・トリオの”Tin Tin Deo”を聴いたのは今から25年前の“ヴィレッジ・ヴァンガード”。むせ返るようなラテンの土臭さと都会的な洗練美が同居する演奏に大きな衝撃を受けました。作曲はChano Pozo, Gill Fuller, Dizzy Gillespieと3人の連名、1951年にディジー・ガレスピー楽団がデトロイトでレコーディング。フラナガンの親友、当時19才のケニー・バレル(g)が録音に参加しています。

 フラナガン自身のレコーディングは1993年ですが、亡くなるまで演奏ヴァージョンはどんどん進化していきました。トリビュート・コンサートでは、その中でも最高のアレンジメントでお聴かせします。

 ビバップの生みの親、ディジー・ガレスピーは、キューバ出身のコンガ奏者、チャノ・ポソとの出会いで、アフロ・キューバン・ジャズという新しいスタイルを創造しました。それまでにも、ルンバやマンボは、ダンス音楽として米国で人気がありましたが、ガレスピーとポソの音楽は、Slave Christianityと呼ばれるアフリカの土着信仰とキリスト教が融合した宗教的なルーツを持っていました。

 

<暴力と神:チャノ・ポソの凄絶な生涯>

  chano.jpg
(Chano Pozo 1915 – 1948)

 ハヴァナ生まれのチャノ・ポソはアフリカから連れて来られた奴隷の子孫で、元は奴隷の居住地だっ

chango.jpg

たスラム育ち、小学校中退で札付きの不良でした。13才で少年院に送られ、そこで打楽器と宗教に目覚めます。スペイン統治時代、キューバの奴隷たちは、強制的にキリスト教に改宗させられたために、自分たちのアフリカの神々を、ローマン・カトリックの聖人になぞらえて信仰する「サンテリア」という宗教が生まれたんです。サンテリア教で打楽器は神々と人間を結ぶ重要な役割を果たすもので、それぞれの神々に一定のドラム・パターンがあり、打楽器と歌とダンスによってトランス状態になりながら神々と交信する宗教儀式が行われました。ポソは、そのような宗教的なミュージシャンだったんです。

 でも、ポソは決して清廉な宗教音楽家ではなかった。少年院からシャバに出た後は、靴磨きからボディガードまで、様々な職を転々としながら、ミュージシャンとして有名になり、作曲も行うようになりました。NYのラテン系ミュージシャンの間で、ポソの評判はとても悪かったそうです。呑む、打つ、買うの三拍子、派手に遊んだポソの音楽が、世俗的なものではなく、逆に深く宗教に根ざしているのが面白いですね。倫理的、哲学的な「宗教」というより、むしろ「まじない」と考えた方が判りやすいのかも知れませんね。

 1942年、マチートがポソの作品を録音したことで、NY在住のラテン系ミュージシャンの間でポソの名前が知られ、1946年渡米、翌1947年9月、ディジー・ガレスピー楽団に参加。12月のカーネギー・ホールで行われた楽団のコンサートは大好評でアフロ・キューバン・ジャズという新しいジャンルの到来に湧き、ヨーロッパでも絶賛されました。

Courtesy Frank Driggs Collectionchano-dizzyg.jpg

 その僅か1年後、12月3日の午後、ポソは粗悪なマリワナを売りつけられた腹いせに、同胞キューバのヤクの売人を殴り倒し、その日の夜、バーから出たところを、その売人が倍返しと射殺。34歳の誕生日を迎える一ヶ月前のあっけない最期でした。

<ディジー・ガレスピーの吸収力>

Dizzy Gillespie playing with the Giants of Jaz...

Dizzy Gillespie playing with the Giants of Jazz, Hamburg, Germamy, 1973 (Photo credit: Wikipedia)

 チャーリー・パーカーにせよ、ポソにせよ、ディジー・ガレスピーは短命な盟友達から新しい音楽のエ

DeeGee Daysmall.JPG

ッセンスを貪欲に取り込んで、仲間のミュージシャンを指導してジャズ史を発展させて行ったというのが凄い。ポソは英語も読み書きもだめで、楽団のミュージシャンと決して良好な関係は築けなかった。ガレスピーが優れた統率力で団員をまとめ、僅か一年余りの共演期間中、できる限りポソに寄り添い、「サンテリア」の各々の神にまつわる「クラーヴェ」というリズム・パターンを吸収していきました。ポソの伝える複雑なリズムや哀愁に満ちたメロディーは、ガレスピーにとってエキゾチックなものというよりは自身のルーツへの道案内だったのかも知れません。彼の持つアフリカ土着の音楽言語をビバップの洗練された文体に取り込んだものが、この”Tin Tin Deo”であり、 “Manteca”であり、いかにも『チャント:お経』の趣がある”Cubana Be, Cubana Bop” (作曲はジョージ・ラッセル名義)です。サルサを始め、NYという水に洗われたラテン音楽の中でも、ガレスピーとポソが創ったアフロ・キューバン・ジャズは独特の香りがあります。

<トミー・フラナガンのヴァージョン>

TommyFlanagan87A1_0-thumb-300x454-3831.jpg

 後年、ディジー・ガレスピーはキューバのミュージシャンを米国に受け入れる支援をし、オール・スター・バンドとしてアフロ・キューバン・ジャズを披露していましたが、ポソが在籍していた頃の土臭さが時代とともに薄まって行ったように感じます。それでは、フラナガンのヴァージョンは当時のアフロ・キューバンの再現かというと決してそうではないんです。

 ビッグ・バンドの演目をピアノ・トリオに置き換えて本来のダイナムズムを失わないというのは大変な作業ですが、それこそフラナガンの得意技!キューバ音楽の特徴であるコール&リスポンスを、ピアノとドラムの掛け合いに生かしてイントロにし、名ドライバーがシフトチェンジとクラッチワークで、走りを自在にコントロールする如く、ラテン・リズムと4ビート、倍ノリ、4倍ノリと、変幻自在のグルーヴ変化、そして印象的なリフ、黒人ピアニストの伝統的な10thボイシングの奥行きで、強烈なダイナミズムを描出!洗練されて、一層鮮やかな仕上がりですが、日本料理のように素材本来の持ち味はは損なわれていないんです。


 そんなTin Tin Deo、フラナガンの名演目ってこんなだったのか!と思わせる演奏を11月のトリビュート・コンサートでお楽しみください!

 

 

 

 

Enhanced by Zemanta

11/16(土)開催:トミー・フラナガン・トリビュート

tommy1984.jpg
tribute_mainstem.JPG
<第23回トミー・フラナガン追悼コンサート>
11/16(土)
7pm-/8:30pm (入替なし)
演奏:寺井尚之トリオ ザ・メインステム 
寺井尚之(p)
宮本在浩(b)
菅一平(ds)
前売りチケット¥3,150(税込、座席指定)
当日 ¥3,675(税込、座席指定)
 

 台風の後、10月半ばを過ぎて急に肌寒くなった大阪です。

 OverSeasでは、来月、トミー・フラナガンの命日にトリビュート・コンサートを開催することになりました。
 
 寺井尚之がトミー・フラナガンの音楽に魅入られてから42年、フラナガン没後、実に12年の月日が経ちました。
  寺井尚之メインステムがフラナガンの名演目をお聴かせして、巨匠を偲ぶトリビュート・コンサート。今年はフラナガンの祥月命日、11月16日(土)に開催します。
 「名伴奏者」「名盤請負人」「紳士」「職人」…フラナガンを賛美する形容詞はいろいろあるけど、正直言うと、どれも私にはしっくりきません。私が生身に触れたフラナガンという人は、ポーカー・フェイスの奥に、自分でも制御できない熱いマグマが燃える天才だった。その演奏はもう生で聴くことは叶いませんが、エリントンやモンクなどジャズ史の稀代の天才の作品の持ち味を最高に活かしたアレンジや、決めのフレーズの隅々に、熱いマグマを感じることができます。そして、譜面として残されていないそのアレンジを再現できるのは、手前味噌と言われても、世界で寺井尚之しかいないんです。
  一方、モダンジャズのレコードが、名前のないBGMとして聴かれる昨今、トミー・フラナガンの名前は一応知ってるけど、「名演目」と言われてもコマル・・・という皆様のために、来週からトリビュートの演目を少しずつご紹介していきたいと思います。
 トリビュート・コンサートのチケットはOverSeasでのみお取り扱いしています。お問い合わせは

トランペッター人生いろいろ(その2):レッド・ロドニーの七転び八起き

red_rodney8.jpg

<I stayed in music and I stayed a junkie>

 レッド・ロドニーはチャーリー・パーカーに共演者として選ばれた白人トランペット奏者。クリント・イーストウッド作品『Bird』の登場人物としてさらに有名になりました。
 見出し(私は音楽界に留まり、ジャンキーであり続けた。)は、ロドニーがチャーリー・パーカー・クインテット以降の自身を語った言葉です。

<フィラデルフィアのユダヤ人ゲットーから>

 red-rodney-20130710050556.jpgロバート・ロドニー・チャドニック)は1927年、ジャズメンを多く輩出したフィラデルフィアのユダヤ人ゲットーに生まれました。高校の仲間にジョン・コルトレーンやバップ・クラリネットの第一人者、バディ・デフランコがいます。ユダヤ教男子が13歳になると行う成人儀式、”バル・ミツヴァ”のお祝いにもらったトランペットをきっかけにジャズに開眼します。

 1942年、ニュー・ジャージーのレジャー都市、アトランティック・シティーに移ったロドニーは、トランペットでかなりなお金が稼げることにびっくり!戦時下でミュージシャンたちが次々と召集されてしまい、15歳で徴兵年齢に達しない駆け出しのロドニーが引っ張りだこになったのです。学校なんか行ってる場合じゃない!翌年、高校を中退しベニー・グッドマンのツアーに参加。その頃のアイドルはハリー・ジェームズだった!

<チャーリー・パーカー・いのち>

charlie-parker-red-rodney-dizzy-gillespie-margie-hyams-and-chuck-wayne-downbeat-new-york-1947-by-william-p-gottlieb.jpg

 1940年代中ごろに再びフィラデルフィアに戻り、CBSのラジオOrch.で子分格のジェリー・マリガンと活動中に、町にやって来たディジー・ガレスピーの全く新しい音楽、ビバップに衝撃を受けます。ガレスピーも彼の才能を見逃さず、NYに呼び寄せた。ジャズのメッカ52番街の”Three Deuces”、そこで目の当たりにしたパーカー・ガレスピー演奏、そしてチャーリー・パーカーの並外れた知性に多感なロドニーは完全に魅了されてしまいました。

 1948年、パーカーはマイルズ・デイヴィスの後任として自己クインテットにロドニーを抜擢!マイルズがビル・エヴァンスを加入させて物議を醸す以前の出来事でした。バンド中、ただ一人のホワイト・ボーイ、人種隔離の南部のツアーでは、白子の黒人「アルビノ(色素欠乏症)・レッド」という芸名で有色人種のホテルに投宿し演奏した。そんな苦労は映画「バード」に詳しく描かれています。バードに憧れるあまり、(パーカーの意に反して)、ヘロインを打つことまで真似をしたロドニーは、入院や服役を繰り返す壮絶な人生を歩むことになります。

<バッパーの末路>

jeffhiershfieldReRodneyIraSullivanQuintet1983.jpg
 1955頃からチャーリー・ヴェンチュラ楽団の仲間で、トランペット、サックスなど何でもこなす名マルチプレイヤー、アイラ・サリヴァンと組み、今回のアルバムを始め、晩年に至るまで数多くの共演作を録音しています。ルイス・スミスは家族のためにジャズのキャリアを放棄しましたが、ロドニーは、麻薬の前科が災いし、各地のジャズ・クラブから閉めだされました。

 そのため一時期、ジャズ界を離れ、結婚式やバル・ミツヴァの盛大なパーティを専門に行うユダヤ系の宴会場で演奏とマネジメントを担当し、チャーリー・パーカーとの共演時代より遥かに高収入を得ていた時代もあります。しかし、ジャズへの想いは断ち切れず、フラストレーションのために、再びヘロインに耽溺し、財産も家も失いホームレスに… 挙句の果てに流れ着いたサンフランシスコでは、陸軍将校になりすまし、サンフランシスコで原子力委員会から10000ドルを盗み逮捕。27ヶ月の服役期間中に心を入れ替えて、刑務所で法律の学士号を取ったというから、頭のいい人です。

 出所後は、辣腕弁護士の誉高いMelvin Belliの支援を受け、調査員の仕事をしながら法律学校を卒業、法曹界にデビューとおもったのですが、カリフォルニア州では前科者は法律の仕事につけなかった。 それで60年代はラスベガスのショウ・バンドに入り、エルヴィス・プレスリー、サミー・デイビス・ジュニアといった超一流タレントのバックを勤め、結構なギャラをもらった。でも華やかなヴェガスにもビバップはなかった・・・・

<バッパーの再起>

charlie_rouse_red_rodney-social_call_span3.jpg

 世の中がジャズを「流行:と別物として捉え始めた1972年、ロドニーのジャズライフが再び始まります。西海岸に移住してLAの名門クラブ、『ドンテ』などで活動を再開。脳卒中に襲われて後遺症を抱えながらも’75年には、実に15年ぶりのアルバム” Bird Lives!”を発表して話題になりました。

 ヨーロッパと米国の両方で活動を続けたロドニーは、 ’80年代にアイラ・サリヴァンとのコンビを再結成し、各地で活躍。ラスト・レコーディングとして発表したチャーリー・ラウズと(ts)の2管によるバップ・アルバム『Social Call 』(’84 Uptown)は、世界中のバップ・ファンに衝撃的とも言える感動を与えてくれる名盤で、私たちも長年愛聴しています。

 1988年にクリント・イーストウッドが制作、監督したチャーリー・パーカーの伝記映画『バード』のコンサルタントを担当、ロドニー役の俳優への演奏指導や、サウンドトラックに演奏参加したロドニーは、一般的な知名度も俄然アップしました。1990年にダウンビート誌、「名声の殿堂」入りを果たし、肺がんのため1994年に67才で亡くなっています。

 ポスト・クリフォード・ブラウンと言われながらも、たった数年のキャリアでジャズ界を去り、たくさんの教え子たちに愛されたルイス・スミス、バードに溺れて地獄を観て、さらにバードのおかげで再起したレッド・ロドニー、ジャズもいろいろ、人生もいろいろですね!

 10月12日「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」6:30pm- 開講 受講料:2500yen (税別)
 どうぞお楽しみに!

トランペッター人生いろいろ(その1):ルイス・スミス

Here_Comes_Louis_Smith.jpg

いつまでたっても扇風機がしまえない大阪、ライブで「枯葉」も聴けないむし暑さです。

  毎月第二土曜日は「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」、10月12日(土)は名盤揃いでおすすめです!
  J.J.ジョンソンが新編成のコンボで録音した『J.J. in Person』を頂点に、クリフォード・ブラウン亡き後、彗星の如く現れて消えたトランペット奏者、ルイス・スミスのブルーノート・デビュー作『Here Comes Louis Smith』と、チャーリー・パーカーがマイルス・デイヴィスの後任者として迷わず白羽の矢を立てたトランペット奏者、レッド・ロドニーのアルバム『Red Rodney』の豪華三本立!

  ルイス・スミスとレッド・ロドニーは、とりわけ若いジャズ・ファンの皆さんにあまり馴染みがない名前かも知れません。二人の芸風もその人生も全く対照的!
 音楽性は寺井尚之が講座でズバリ納得の行く解説をしてくれますので乞うご期待!Interludeでは、全く違う人生模様を覗いてみよう!

<その1:ジャズより家族:ルイス・スミス>

Louis-Smith-thumb-400x318-77859.jpg

 日本ではルイ・スミスという呼び名が一般的なようですが、ここでは実際の表音に近い「ルイス」と綴ることにします。ルイス・スミスは1931年、南部テネシー州メンフィス生まれ、トミー・フラナガンよりひとつ年下になります。
 従兄弟に23才でこの世を去った夭折のトランペッター、ブッカー・リトルがいます。10代でトランペットを始め、学業にも優れていたため、奨学生としてテネシー州立大学で音楽を専攻、天才ピアニスト、フィニアス・ニューボーン・ジュニアとともに、大学の選抜バンドで活躍しました。卒業後さらにアナーバーにあるミシガン州立大の大学院に進みます。その時同じミシガンのデトロイト勢と交友を持ち、NY進出後、ケニー・バレルとも共演しました。

<ジュリアン・アダレイ先生と>

  1954年から2年間の兵役後、南部で音楽教師として教職に就き、昼は公立高校の教師、夜はジャズミュージシャンの生活。

 フロリダ州のリゾート都市、フォート・ローダレールの公立高校の同僚が、今回のアルバムに覆面参加しているキャノンボール・アダレイでした。二人で高校バンドの顧問をを担当したいたというのですから羨ましい話ですね!

 『Here Comes Louis Smith』の録音当時、アダレイはマーキュリー・レコードの専属アーティストだったので、”Buckshot La Funke”という不思議な偽名で参加しているのですが、爆発的な「火の玉」サウンドは隠しようがありません!実際にスミス夫妻にインタビューされたジャズ評論家、後藤誠氏によれば、この名前は、二人が顧問をしていた楽団名に因んだものだったそうです。さらに余談ですが、アルバム・ジャケットのユニークなチャイニーズ・ルックは、「たまたま来ていた部屋着」だったことも後藤インタビューで明らかになりました。

<さよなら、ジャズ界>

louis_lulu_smith.jpg
 スミスは、奥さんのLuluに捧げたアルバム、『Ballads for Lulu』を’90年代にリリース

 

『Here Comes Louis Smith』は、もともと”Transition”という別のレーベルの作品だで録音後倒産、ブルーノートが買い取って、スミスを逸材と見込んだアルフレッド・ライオンが専属契約をして、更にもう一枚『Smithville』というリーダー作をプロデュースしています。それにもかかわらず、ルイスは、1958年にあっさりとジャズの第一線から引退!理由は「家族を養うため」でした。モダンジャズの黄金時代でも、ジャズだけで食べていけるミュージシャンは、ほんの一握りであったんですね!

 引退後、ルイスはミシガン州の学園都市アナーバーに戻り、古巣のミシガン州立大やアナーバーの公立高校で後進の指導に専念し、ジャズ・ヒーローだった伝説的音楽教師として生徒たちに愛されました。

 ’70年代になってからは、レコーディング・アーティストとして復帰し、教職の傍ら”Steeplechase”に10枚近いアルバムを録音しています。

 2005年に、脳卒中に見まわれ失語の後遺症が残りましたが、2011年には、アナーバーで「地元のジャズ・レジェンド」の80才の誕生日を祝うイベントが盛大に行われた模様です。

 後輩トランペッター、元ジャズ・メッセンジャーズのブライアン・リンチは、ルイス・スミスに捧げた””‘Nother Never””(唯一無比)を作曲、スミスのオリジナル曲”Wetu”と共に、自己アルバム『Unsung Heroes』に収録しているのが泣けます。

 第一線としては、わずか数年間のジャズライフに終わったルイス・スミス、でもこの人の表情からは、志半ばで道を諦めた屈折感は、どこにも感じられません。

 

 明日は、スミスと対照的に起伏の激しい人生を歩んだトランペッター、レッド・ロドニーのお話を!

 

CU

 

 

 

アイ・ミス・ユー !”あまちゃん”

amachan450.jpg

 NHK連続TV小説”あまちゃん”、毎日続けて観るのが楽しみだったTV番組は、「鉄腕アトム」や「ひょっこりひょうたん島」以来かも・・・ある意味快挙!?

 きっかけは、ひそかに敬愛する映画評論家の町山智浩さん始めいい年をしたおっさん…いえ、お兄さん達が、毎日ツイッターで絶賛していたこと。関西人が「・・・けろ」だの「んだ!」だの東北弁で嬉しそう。ここまでの強い感染力を持つドラマって?と興味を覚えました。
 初めてのオープニング、そのテーマ・ソングは、スカのアップビートがそのまま「んだ、んだ、んだ」って東北弁に聴こえてて、なかなかやるやん!
 
 飛ぶ鳥落とす勢いの宮藤官九郎さんのドラマは、ニール・サイモンやビリー・ワイルダーに負けない心に残る名セリフ、NHKにも拘らず、ブラック・ユーモアやアドリブが一杯で、有機的にスイングしてる!個性豊かな登場人物にベストマッチな役者さんたちが命を吹き込んで、隅々まで作り手の愛情が感じられる描き方!まるで、デューク・エリントン楽団のBrunswick盤を毎日一枚ずつ聴いてるような15分間ドラマには毎回ダイナミックな見せ場があって、笑って泣ける。日本のTVドラマ、たいしたもんだと思いました。

<Quote, Unquote>

Singing_1.jpg このドラマには時代遅れな私のストライク・ゾーンにビシっと入る浅草っぽいギャグや、名画の泣けるクオートがいっぱい!あまちゃんのママ、天野春子さんが、うつろいやすい歌唱力(音痴)の鈴鹿ひろみさんの吹き替えをしたことから起こる人間模様。その設定はジーン・ケリーとデビー・レイノルズのミュージカル「雨に歌えば」の引用ですよね。琥珀やスターの原石に魅了される水口クンの姿は、ジョージ・バーナード・ショウだ、「ピグマリオン」だ!うれしいね!その他、「フィールド・オブ・ドリームス」「マトリクス」から「探偵物語」まで…ジェームズ・ブラウンもありました!ロックやJポップのことは知らないけど、一人で見てても笑ってました。

 

tommy_uniform.JPG 架空の町(東北のグロッカ・モーラみたいな)北三陸市と東京を舞台に、1986年から現代へと行きつ戻りつしながら、実在のアイドルや実際のエピソードが混在して、不思議なリアリティを醸し出します。

 ヒロイン”あきちゃん”は可愛いホーリー・フール、不変の彼女を中心に皆が変わって行く。あきちゃんの出演する教育番組「見つけてこわそう」が伏線で、震災に見舞われた北三陸市も、壊れた夫婦関係も、「逆回転の魔法」で元通りになっていく。最終回もエラ・フィッツジェラルドみたいに希望が一杯!その構成の力はハンパなく、ジャズに例えれば、じぇじぇ…J.J.ジョンソンだ。

 ドラマのテーマソングのひとつになる「潮騒のメモリー」がヒットした(ことになっている)のは1986年、この年はピアニスト、スタンリー・カウエルがOverSeasにやってきた。その2年前からトミー・フラナガンとお付き合いが始まった。本物の天才を目の当たりにした衝撃を抱きながら、無我夢中で一日13時間ウエートレスとして働いていた時期で、TV観る時間も殆どなかったですから、松田聖子と言われても判らなかったくらい、このドラマのテーマであるアイドルとは無縁です。そんな私が激しく共感を覚えたのは「潮騒のメモリーズ」のお座敷列車のシーンや終盤の「鈴鹿ひろみ復興チャリティ・コンサート」でした。音楽のジャンルは違っていても、OverSeasに北海道から九州からファンの皆さんが集まってトミー・フラナガン・トリオの日本初のジャズクラブ演奏に酔い痴れた一体感、皆がフラナガンのプレイで元気になった、あの時の情景とダブってしまったんです。

all1.JPG

 「プロでもない、素人でもない、アマチュアがなせるワザ」という太巻さんのセリフ、トミー・フラナガンが燃えたのは、人生をフラナガンに捧げたい寺井尚之の思いが通じたからだった!

<対訳ノート的「アイ・ミス・ユー」>

zuka.jpg 「あまカフェ」の復興チャリティ・コンサート、袖ヶ浜で振袖を着た大女優、(隠れ音痴の)鈴鹿ひろみさんが歌うシーン!春子(小泉今日子)さんが吹き替えのためにマイクを握るけど電池が抜けて音が出ない。その6小節の空白…「雨に歌えば」を想像すると、真逆だった。”アイ・ミス・ユー“から始まる鈴鹿ひろみの完璧な歌唱が最高のクライマックスになりましたよね。6小節の空白で浮き上がる”アイ・ミス・ユー“ (あなたがいなくなって寂しい)は、影武者とこれまでの自分への惜別の辞。対訳ノートに載せたいです!

 それからターンバック、 「来てよ、そのを飛び越えて」という恋の歌が、復興の想いとともに「来てよ、その震災のを飛び越えて」の意味に替って復興ソングに化けた!一曲の歌にびっしりドラマが詰まっていました。ハリウッド映画でも真似の出来ない化けっぷり。ジャズのアドリブもこうありたいなあ!

 
 と、いうわけで、私にとっての「あまちゃん」は、ジャズの心を改めて教えてくれた稀有なNHK連続ドラマになりました。エキストラとして出演されている東北の方々の姿にも心が揺さぶられました。あまちゃん、どうもありがとう!

この感動を胸にして第23回トリビュート・コンサートに向けて頑張ろう!

え?ジャズのブログにこんなテーマは相応しくないって?

「わかる奴だけわかればいい!」

CU