バップ・ドラマー田井中福司 礼賛 :Live at OverSeas

fukushi_tainaka_solo.JPG 海外のジャズ・シーンでは”Fuku”というニックネームで知られる田井中福司さん、NYを本拠に”The Master!” “Amazing!” “Brilliant!” と最大級の賛辞で形容されるバップ・ドラムの巨匠です。バップ語法を自由自在に操る強烈なドラム・ソロにはフィリー・ジョー・ジョーンズから受け継いだヒップで危険な魅力が一杯!ライブで感動した人たちの口コミでファンがネズミ算のように増え、お里帰りには日本全国各地のジャズ・クラブから引っ張りだこ、そんな超過密スケジュールの合間を縫って、OverSeasで寺井尚之(p)とのピアノ・トリオが実現しました。ベテラン2人の間に入るベーシストはお馴染み宮本在浩、今回のライブをお膳立てしてくれたのは、田井中さんのプレイと人柄に心酔するザイコウさんでした。

 ジャズ界の人間国宝、ルー・ドナルドソン(as)のレギュラーを努めてほぼ30年、NYの第一線で34年といいますから、もう完璧なNew Yorker!とはいえ、久々にお目にかかった田井中さんは、熱い湯の風呂から上がったばかりの粋な江戸っ子みたいな颯爽とした出で立ち、折り目正しくて、調子よく喋らない。黙っていても発散されるプロ中のプロのオーラに身が引き締まります。

 寺井尚之は田井中さんより2才上、今日の共演をとても楽しみにしていました。あっという間にドラムをセッティングして、簡単な打ち合わせの後、じゃあちょっとだけサウンドチェック、ということでOverSeasではおなじみの、”Mean What You Say”を。日頃からドラムのフィル・インをフィーアチュアするサド・ジョーンズのナンバーで、田井中さんがこの曲を演るのは初めてだったそうですが、そのブラシの切れとコントロールの良さ、フィル・インの華やかさ、集中力の凄さに鳥肌がたちました。 

 平日にも関わらず、客席はミュージシャン、常連様、田井中ファンで満員、「田井中さんと演ると、いつもと違う寺井さんが聴けるのかな?」「ガチで演ったらどないなるんやろ?」色々な声が聞こえてきます。数日前に熊本で共演した古荘昇龍(b)さんや、NYで薫陶を受けるベーシスト、田中裕太君の姿も!

 キレのある田井中さんのドラムスの音量は、想像していたよりずっと小さく、しかも超明瞭、ドラムと同じようにソフトタッチを身上とする寺井尚之のピアノの美しさを際立たせてくれます。故にダイナミクスが大きくて、クライマックスは夏の夜空の大輪の花火が上がったように華やかで、聴く者を酔わせます。ベースソロでは、田井中さんの掛け声が絶妙に入り、宮本在浩のプレイが冴え渡りました。ザイコウがあんなに陶然とした表情をしたことあったかしら?

tainaka_sanP1080254.JPG 店の奥では、ギターの末宗俊郎さんが冷蔵庫の前で、喜んで踊りっぱなしです。おしぼりの小さなかごを両手で握りしめて必死で聴いてるお客さまもいましたよ。伝説のドラムソロが聴ける”Cherokee”では、冒頭のインディアンの雄叫びが客席に飛び火して場内騒然!

 お客様の熱気と対照的に、丁々発止のベテラン2人は音楽でジョークを飛ばし合いながら、汗ひとつかかず涼しい顔。これが田井中福司、寺井尚之という2人のバッパーの似ているところです。

 田井中福司さんのドラミングはOne and Onlyの田井中さんならではのアート!真正バップの磨きぬかれた技量は勿論ですが、その技量の見せ方は、”Cool”と英語で言うよりも、「美」「技」「心」が一皿に盛られた一流割烹の和食のような清々しさを感じました。本場NYで長年愛されている秘訣は、案外、ドラミングの中に光る「日本の美」にあるのかも知れません。

 田井中さんは8月24日まで日本全国で演奏予定です。まだ聴いたことのない人は、ぜひ足をお運んでみてくださいね。

田井中福司2014夏季日本ツアー予定表はこちら

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=セットリスト=

<1>
1. Crazy Rhythm
2. Out of the Past
3. Mean What You Say 
4. If You Could See Me Now
5. Scrapple from the Apple

<2>
1. What is This Thing Called Love?
2. All the Things You Are
3. Lament
4. Just One of Those Things

<3>
1. Lady bird
2. It Don’t Mean a Thing
3. In a Sentimental Mood
4. Cherokee 

Encore: A Night in Tunisia 
      Dry Soul

 

The King of Cartoon:ウィリアム・スタイグの話

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 先週来られたお客様のスマホケースに目が釘付け。コロンビアの稀少盤『Jazz Omnibus』のイラストがすごくおしゃれ!このオムニバス盤に収録されているSmoke Signal”は、Donald Byrd/Gigi Gryceの双頭コンボ”Jazz Lab”にTommy Flanagan、Arthur Taylorが入り颯爽とスイング!小粋でユーモラスなジャケットも好きだった!

 高級車から降り立つマダムはミンクのコート、気取って手にするのは、エルメスのバッグではなくトランペットのケース、お付には、お犬さまを抱えたお抱え運転手、制服を着たドア・ボーイが開けるドアには「ジャムセッション」の看板!ありそうでなさそうな、古き良きNYの一コマが、ジャズクラブの張り出しテントが作り出すフレームにすっきり収まっている。

 その常連様が教えてくれました。「このイラスト書いたんはウィリアム・スタイグやねん。」ふーん、そういえば、トミー・フラナガン愛好会のご夫妻が山中湖で営む「森の中の絵本館」にジェレミー・スタイグ(fl)のお父さんの絵本があるって言ってたな…ウィリアム・スタイグってどんな人なんだろう?

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  1960年代、Newsweekはウィリアム・スタイグに the “King of Catroons” という名を献上。つまり「漫画王」!1930年以来、記事のクォリティの高さで世界中で読まれたタウン誌”The New Yorker”に、スタイグが描いた表紙や一コマ風刺漫画の総数およそ2,700点、上に掲げた『Jazz Omnibus』を始め、傍系Epicのジャズ・レコードのユーモラスなアルバムジャケットを始めとするコマーシャル・アートや、潜在意識をテーマにしたユニークなイラスト集、、それに木彫の彫刻、さらには、児童文学の名作群、彼の創造したキャラクター、”シュレック”はアニメとして大ヒット! “Shrek!”とは、ユダヤ系移民の言葉、イディッシュ語で「恐い!」という意味なんですって。

 <実業家になるな。労働者になるな。>

7years_itch.jpg スタイグは移民二世、ブルックリン生まれでブロンクス育ちの典型的ユダヤ系ニューヨーカーだった。兄弟全員絵心があり、なんともユニークな経歴の持ち主ばかり。アーサー(Arthur Steig)はイラストレーターであり詩人、後にアーティスト向けの画材屋を営み繁盛した。ヘンリー(Henry Anton  Steig ) はイラストレーターでジャズ・ミュージシャン、独学でダイヤモンドの加工に習熟、人気ジュエリー・デザイナーになった。余談ですが、マリリン・モンローのスカートが舞い上がる『7年目の浮気』の歴史的名シーンはレキシントン・アヴェニュー52丁目にあったヘンリーの宝石屋の前で撮影されている!(マリリンのスカートの中以外に場面のディテールを観る人は少ないだろうけど)、Steigのジュエリー工房は映画遺産になりました。

 さて、スタイグ家のアーティスティックな系譜は、オーストリアから移民してきたポーランド系ユダヤ人の両親のDNAと教育法にあったようです。お父さんはペンキ職人、お母さんは裁縫師という職人夫婦で根っからの社会主義者、2人は子供たちをこう言って諭しました。

「大きくなっても労働者になってはいけない。労働者は資本家に搾取されるから。実業家にもなってはいけない。労働者を搾取して儲けるなんてもってのほかだ!」

 WilliamSteig_NewYorker_1950-12-16.jpgだからスタイグ家の子供たちには、アーティストが、一番身近な職業選択肢だったようです。ウィリアムは高校生の時から生徒新聞で名漫画家として鳴らし、卒業後はNY私立大学やいくつかの美術学校に通うものの、どうも長続きしなかった。そのうち大恐慌でお父さんの仕事が激減、必然的に長男のウィリアムが稼がなくてはならなくなった。大恐慌の翌’30年、幸運にも”The New Yorker”が、まだ駆け出しの彼の風刺漫画を40ドルという大金で買ってくれて、まもなく雑誌お抱えの漫画家となります。’31年には、彼の描くユーモラスなキャラクター「Small Fry (じゃりんこ) 」が人気を博し、以来30年の長い間、じゃりんこ君達は”The New Yorker”の表紙や紙面を彩ることになりました。後にビング・クロスビーの同名ヒット曲の収録アルバムに、このキャラクターが使われています。

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  スタイグの作品はネット上に無数にあり、日本人の私も笑えて、知的なNewYorkerみたいな気分にしてくれる。色々な絵をしげしげ眺めたおかげで、このエントリーを書くのに思いの外時間がかかってしまいました。

 他にも、スタイグは「ジャズ・ミュージシャン」を意味する”Cats”のキャラクターを使ってEpicのジャズ・シリーズに様々デザインを遺した。音楽内容とは、さほど関係はないにせよ、大人カワイイものばかり。

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<心理学的ドローイング>

659625_640.jpg スタイグはユーモアに富んだ楽しい人だったらしいけれど、自分の心の闇と格闘し、それをイラストで表現した。 reich1.jpg 最初の結婚がうまく行かなくなりノイローゼになったスタイグをカウンセリングで救ったのは、精神分析学者ヴィルヘルム・ライヒという人で、彼の理論に心酔したスタイグは、サイコロジカル・ドローイングという新たなジャンルを開拓しました。このライヒがまたぶっ飛んだ科学者で、調べていると、またまた時間の立つのを忘れるほどです。フロイトの弟子であったライヒは、潜在的な性的欲望が人間を支配するという原則に立つ精神分析や、性的オーガズムを物理的エネルギーとして捉えるというユニークな「オルゴン理論」を展開しました。まるでウディ・アレンの映画みたいでしょう!  彼は上のイラストみたいな「オルゴン・ボックス」に籠るエナジー療法を提唱し、アルゴン理論は共産主義やUFOにまでリンクしていく。つまり、私のような凡人には摩訶不思議なマッド・サイエンティストで、実際、ウディ・アレンは”The Sleepers”というSFコメディでこのボックスをパロディ的に使ってた。ライヒは思想弾圧を逃れて米国に亡命したものの、結局、詐欺罪で投獄され、スタイグの経済的援助も虚しく、’57年に獄中死した。

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 上、左:「あこがれ」 右:「子ども時代の思い出/キャンデイを持ってきてくれた女の人」「子どもが観る父親の姿」(作品集”About People”より)

  “The New Yorker”の編集者の一人は、スタイグの心理学的なドローイング・スタイルが、”The New Yorker”を、更に高級な文芸誌に変貌させたと証言しています。それほど強い影響力を持つイラストレーターだった。

<児童文学へ>

 
jeremy1388689785_car-feber.jpg スタイグは93才で亡くなるまで4回結婚している。私の知ってるジャズ・ミュージシャンは2回宗教を変え、結婚歴も(少なくとも)4回あるけど、決してめんどくさい人ではなく、穏やかな正確で、誠実かつ真面目な人です。納得の行くまで人生を追求するタイプなのかも知れません。

 スタイグと最初の奥さんとの間に出来たのが、フルート奏者ジェレミー・スタイグで、彼の画才はフルート以上かも…左のアルバム・ジャケットもかなりなものですよね。ウィリアムが下書きせずにインキで直に描く手法へと移行したのは、この息子のアドヴァイスからだった。

 スタイグは、60才にして娶った4人目(で最後)の妻と93歳で亡くなるまで連れ添った。彼女は作家兼ヴィジュアル・アーティストのジーン・ドロンで、妻に乞われるまま、児童文学の世界でも新境地を開きました。

 おなじみの「みにくいシュレック」は、ジーンの簡単な描写から遊び半分で作ったキャラクターでした。その他にも「Doctor De Soto / 歯いしゃのチュー先生」「Amos and Doris / ねずみとくじら」などなど、殆どの作品が日本語に翻訳されています

9780312367138.jpg  挿絵やジャケット、一コマ漫画、どれを見てもスタイグの作品は、優れたジャズ・ミュージシャンのプレイのように、メッセージが明瞭で、絵としても面白く、すっきりまとまっています。キャプション不要の稀有なイラストレーター、スタイグが愛したアーティストは、ピカソやゴッホ、そしてレンブラント!彼の作品を観ると、素人の私にもなんとなく頷ける。
 93才まで、ほとんど現役で活躍したスタイグは、自身の内なる闇との戦いの勝利者だった。悩みに勝つ秘訣は彼の書いた童話に隠されているのかも知れません。だって彼の童話に出てくるヒーロー達は悪者を殺さない。悪者は降伏するだけ。それでハッピーエンドなんだって!

めでたし、めでたし。

8/2(土)特別企画:トミー・フラナガン・ジャズパー賞を映像で!

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 1993年、トミー・フラナガンは、毎年デンマークが、最も優れたジャズ・アーティストに贈る「ジャズパー賞」を受賞しました。

 「(他所ではイマイチだが)日本人好み」だとか「地味」だとかいう風評を吹っ飛ばす北欧での快挙にバンザ~イ!という感じでした。

1341.jpg 同年4月に、コペンハーゲンで開催された受賞記念コンサートは、フラナガンのお気に入りの北欧ではレギュラー同然のベース奏者、ジェスパー・ルンドガードとルイス・ナッシュ(ds)、そしてデンマークの名手達で特別編成されたJazzpar Windtetや、北欧を代表するテナーの巨匠、ジェスパー・シロの共演、フラナガンの絶頂期を象徴するライブ・レコーディングの一つとしてCD化されているのは、皆さんも御存知の通りです。

 トミー・フラナガンは、ジャズパー賞の賞金200,000クローネで、フラナガンが愛する作曲家、サド・ジョーンズ集という、レコード会社が決してウンと言わない企画を自費で録音、『Let’s play the music of Thad Jones』も、私達終生の愛聴盤となりました。 

  実は、このジャズパー賞ガラ・コンサートの模様が、なんとデンマークの公共放送で特別番組として放映されていたんです!CDでゲスト演奏しているジェスパー・シロがホスト役!CDで聴くだけだったコンサートが映像で観れるというフラナガン・ファン感涙の番組!それを、お盆にさきがけて、8月2日(土)の楽しいジャズ講座で、皆で観ることにしました。

 トミー・フラナガン・ファン 全員集合!ぜひ一緒にフラナガンを偲びましょう。

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【日時】8月2日(土) 7pm-

【受講料】2,000yen(税抜)

楽しいジャズ講座の予定表はこちらです。

CU

ピアニスト、Horace ParlanのThen & Now

 その昔、貧乏大学生時代、『見学』『部活』と称し、親からお金を巻き上げて、ありとあらゆるジャズのコンサートに行きました。その中でも強烈な印象があるのは、1976年のJohnny Griffin(ts)カルテット、Horace Parlan-piano, Mads Vinding-bass, Arthur Taylor-drumsの布陣で、初めて生で観るATが楽しみで仕方なかった。

 その時期は、3日に開けずハードバップの巨匠によるコンサートが目白押し、3日ほど前であったデクスター・ゴードン(ts)4の煽りを食って、厚生年金大ホールはガラガラでした。司会者のイソのてるオさんが、いつもどおりプロ野球の途中経過を報告して雰囲気を和ませた。

「後ろの方に座っている皆さん、せっかくですから前の方に詰めましょう。どうぞどうぞ!」

 お客さんがゾロゾロ前に集まっても、最前列から数えてせいぜい3列ほど、出演者はやる気が失せるだろう、と思ったらそんなことなかった!湯気の立つような熱いプレイが繰り広げられて、ミュージシャンシップに感動!ハードバップってかっこいいなあ!この夜ここに集まった私達は一生、彼らのファンでいることでしょう。この夜の感動を、まさかグリフィンに直に伝える日が来るとは夢にも思わなかったけど。

 超速の”All the Things You Are”や”Wee”!  横に居た寺井尚之先輩はプロで演ってるし、音楽をずっとよく判ってるから、私以上に感動してた。右手と右足が不自由なピアニスト、ホレス・パーランの強烈なスイング感と歌心!「ほとんど左手だけで弾いてるのに、音だけ聴いてたら、普通に両手で弾いてるとしか思われへん。信じられん!」今でも、若い人たちに、この話をしています。

 <ホレス・パーランのTHEN:それはホロウィッツから始まった。>

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 ホレス・パーランはトミー・フラナガンより1つ年下の1931年、アート・ブレイキーやビリー・エクスタインなど数多くの巨匠を輩出したペンシルヴァニア州ピッツバーグで生まれました。幼いころポリオに感染し、右手に麻痺が残った。私が観たコンサートでも、中指と薬指は反り返っているように見えました。両親は息子を案じ、心身共に良いセラピーになるだろうと、8つの時にピアノを習わせましたが、先生の頭が四角四面で、この指ではピアノは無理だと言い、一旦はピアノを諦めます。数年後、ホレスは、ウラジミール・ホロウィッツのコンサートを観て大感動、「やっぱりピアノをやりたい!」と再チャレンジ!11才の彼を指導してくれた先生は柔軟な頭の人で、彼の左手の能力を伸ばすことに専心してくれた。

 やがてデューク・エリントンやチャーリー・パーカーの音楽に強く惹かれ、ピッツバーグ大学法学部に在籍しながら、アーマッド・ジャマールやソニー・クラークがしのぎをけずる地元ピッツバーグの音楽界に身を投じました。

MI0001793117.jpg パーランはこう語っています。

 「尊敬するピアニストはアート・テイタムやオスカー・ピーターソンだけれど、身体的に私には無理だった。私に適した演奏方法、自分のグルーヴを見つけなくてはならなかった。そして、自分には、シンプルなことが一番適していると思った。それは、アーマッド・ジャマールから学んだ。もっと複雑で凄いことができるのに、彼は敢えてシンプルなプレイを選択していたからだ。」

 パーランは大きなハンディキャップにも関わらず、実力者がひしめくピッツバーグでスタンレー・タレンタイン(ts)と共演、ソウルフルでありながら、バップの品格を失わない独自のスタイルを確立していきます。

 1957年にNYに進出、チャーリー・ミンガス(b)やルー・ドナルドソン(as)に可愛がられ、ブルーノート・レーベルに多くのレコーディングを残しました。ピッツバーグより更に激しい競争社会NYで、パーランは”バードランド”のマンディ・ナイト・ジャムセッションや”スモールズ・パラダイス”などのハーレムのクラブを拠点に活躍、フラナガンはじめ当時のジャズメンが崇拝したコールマン・ホーキンスのギグに何度も呼ばれたことを誇りにしています。

<ホレス・パーランのTHEN:デンマークに行こう!>

 ’60年代の後半からはジャズ界に冬の時代が到来し、パーランは仲間達がクスリなどの問題を抱えながら命を縮めて行く姿に苦慮するようになりました。’70年に南アフリカの歌手、ミリアム・マケバと初めて北欧にツアーしたパーランは、マケバが喉の不調を訴えデンマーク公演をキャンセルしたために、5日間、フリータイムでコペンハーゲンの町を散策することになります。 

MI0002297300.jpg 「当時のカフェ・モンマルトルが大盛況で、町には色々な催しがあり、ここに移住してきたデクスター・ゴードン、ベン・ウェブスター 、ケニー・ドリュー、サヒブ・シハブたちの米国人ミュージシャン村もあった。友人が沢山いて、その時、住むならここ!と思ったんだ。」

 パーランはデンマークに移住すると、ヨーロッパのジャズ興行の関わりの深い人物、アレンジャー、アーニー・ウィルキンスの未亡人、ジェニー・アームストロングの世話で、ソニー・ロリンズとヨーロッパのジャズフェスティバルで共演、それを皮切りにアル・コーン&ズート・シムスの双頭コンボなど、様々のミュージシャンとの仕事が舞い込んできました。やがてデンマーク人女性、ノーマと結婚し、ここを安住の地と定め、トップ・ピアニストとして長年活動、アーチー・シェップとの共演作がヒットし、様々なメンバーで何度も来日を果たしました。

 ハンディキャップがあるからではなく、本格的なピアノの巨匠として愛され続けています。

 <ホレス・パーランのNOW>

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home_cooking026.jpg 数日前、トミー・フラナガン・ファンの同志として寺井尚之と交流のあるスゥエーデンのトップ・ベーシスト、Hans Backenroth(ハンス・バッケンロス)さんが、上の写真を送ってきてくれました。ハンスさんは、フラナガンが『Home Cookin’』 で共演したスゥエーデンのテナー奏者、ニセ・サンドストームの教え子で、ペデルセン直系のテクニックと風格を持つ名手。日本のミュージシャンとも沢山レコーディングしているから、ご存知の方も多いでしょう。今月はハリー・アレン(ts)、ヤン・ラングレン(p)たちと一緒に、スタン・ゲッツへのトリビュート・コンサートで演奏し、ヨーロッパで大きな話題になっています。

 彼の親友で、フラナガンが可愛がっていたデンマークの名手、イェスパー・ルンゴー(”ジェスパー・ルンドガード”とフラナガンは英語読みしていました。)がアレックス・リール(ds)、ダド・モロニ(p)と、コペンハーゲンの老舗クラブ、”カフェ・モンマルトル””に出演したので聴きに行ったら、「ホレス・パーランに会ったよ!」と、メールには、こんなことが書いてありました。

jazzhus-montmartre-copenhagen-(by-massimo-fiorentino).jpg「モンマルトルで僕の席のすぐ近くに伝説の巨匠、ホレス・パーランがいたんだよ!再会できてすごく嬉しかったです。

 僕がストックホルムの音楽アカデミーに在学中、ニセ・サンドストローム(ts)がホレス・パーランを招いて、一緒に演らせてもらったんだ!

 ホレスはもう演奏活動をしていない。現在は視力を失い、車椅子で来ていた。でも、彼は本当に幸せそうで、頭も心もすごくはっきりしていた。アレックス達がトリオで、ホレスのオリジナル曲”Arrival”を演奏して彼に捧げた。時の流れが止まったみたいだった。」

 この後、ハンスさんが同じ写真を自分のフェイスブックにアップしたら、北欧のミュージシャンやファン達が、「素晴らしい!」「ホレスのプレイが大好きです!」と沢山コメントを入れていた。「現在もたくさんのミュージシャンが彼の面倒を見ている」と書いている人もいた。

 不遇の米国からヨーロッパに移住したジャズメンを「ジャズ・エグザイル」と呼ぶ向きもあるけれど、ホレス・パーランは、もはや亡命者ではなく、引退した現在も、同胞として愛されています!

 上の写真の笑顔!パーランのプレイみたいにピュアで明るい笑顔!昔のコンサートの思い出とともに、なんだかとても感動しました。

再掲:7月の旬な曲”Star-Crossed Lovers” (ビリー・ストレイホーン)

  

 7月にOverSeasで聴ける名曲に、“Star-Crossed Lovers”(不幸な星めぐりで、添い遂げることの出来ない恋人達)という、何とも美しいバラードがあります。

  日本人のピアニスト、寺井尚之は、星に阻まれた恋を「七夕」にしか会うことの出来ない姫、彦星に見立て、天の川のように瞬く幻想的なサウンドに乗せて聴かせてくれます。

<Such Sweet Thunder>

 “Star-Crossed Lovers”は、今は昔、エリザベス朝時代に出来たせつない言葉。かのシェイクスピアが、戯曲『ロメオとジュリエット』で生んだ造語です。

 400年後、デューク・エリントンとビリー・ストレイホーンのコンビは、カナダの”シェイクスピア祭”の依頼で、“Such Sweet Thunder”というシェイクスピア組曲を作った。それは、マクベスやハムレットなど、シェイクスピアの作品にまつわる12曲から成るもので、もちろん“Star-Crossed Lovers”は、『ロメオとジュリエット』に因んだ曲

  組曲のタイトル・チューン、”Such Sweet Thunder”(かくも甘美なる雷鳴)は、”真夏の夜の夢”のセリフですが、「甘美なる雷」とは、エリントン楽団そのもの!この言い得て妙なネーミングはストレイホーンのアイデアかな…


  ビリー・ストレイホーン
は、バンド・メンバーから”シェイクスピア”とあだ名を付けられる程の、シェイクスピア・オタク。何しろビリーをちゃんと言うとウィリアム!4世紀前のビリー・シェイクスピアが同性に対して謳った哀切なソネットに共感したのかも・・・、ですからこの組曲のオファーに張り切ったのですが、作曲期間はたったの3週間!その間、デューク・エリントンは楽団と共に”バードランド”に出演中で、演奏の合間に曲のデッサンを書きまくる。それを元に、アパートに缶詰になったストレイホーンが、作曲と組曲の体裁を整えるという自転車操業…おまけに別の大プロジェクトを同時進行させていて、到底締め切りに間に合わない絶体絶命でした。そこで、前に作っていた“Pretty Girl”というタイトルのバラードを、”Star-Crossed Lovers”と改題して使いまわした。

シェイクスピア組曲録音風景組曲録音中のエリントンとストレイホーン

  料亭の「使いまわし」はバッシングにあうけれど、このリサイクルは大成功!キーは D♭メジャー、A(8)-B(4)-C(4)-D(6)、計22小節という優雅な変則小節で奥行きを感じさせ、色気と品格を併せ持つこの作品には、”プリティ・ガール”より”Star-Crossed Lovers”の方がずっとぴったりすると思いませんか? 

<村上春樹『国境の南、太陽の西』>

 この曲は、日本を代表する文学者、村上春樹のお気に入りでもある。所謂スタンダード曲ではないから、ジャズファンよりハルキストの方がよく知っている曲かもしれませんね。「偶然の旅人」に先んじて、’90年代初めに書いた長編、『国境の南、太陽の西』には色んな曲が登場するけど、テーマ・ソングのように、全編、エリントン楽団の”Star-Crossed Lovers”が聴こえている。というより、作者がジョニー・ホッジスのプレイそのままに、一編の長編小説を作ってみたような印象さえ受けます。

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 読んだことのない方に簡単にストーリーを説明しておきますね。

 1951年という時代には稀な一人っ子として生まれ、何となく屈折した思いを持つハジメという名前の「僕」は、小学生の時、やっぱり一人っ子で、足の不自由な女の子、「島本さん」と出会い、唯一心を通わせるのだけれど、中学に入ると別れ別れになり、別々の人生を歩む。

 次に交際したガールフレンドは「イズミ」で気立ての良い魅力的な女の子だったが、「僕」は彼女の従姉妹と同時に肉体関係を持ち、「イズミ」をひどく傷つけてしまう。誰と交際しても、「島本さん」のようには、心を通わせることが出来ない。

 30代で「僕」はやっと結婚をし、子供をもうけ、都心の洒落たジャズ・バーのオーナーとして、適当に浮気もしながら、裕福な生活を送っている。
「僕」が経営する店に赴くと、必ずハウス・ピアニストは、彼のお気に入りの曲、”Star-Crossed Lovers”を演奏するのです。そんな彼の店、”ロビンズ・ネスト”に、「島本さん」が不意に訪ねてくる。美しい大人の女性に成長した彼女も同じように、ずっと自分のことを思い続けていたのだ。

  「島本さん」は私生活を明かさず、彼の店に通い詰めたかと思えば、数ヶ月姿をくらまし消息を絶ってしまう魔性の女、まるで星の巡行のように、数ヶ月単位で近づいたり離れたりするのです。「僕」は、そんな彼女に、どうしようもなくのめりこみ、とうとう箱根の別荘で一夜を過ごす。「気持ち」だけでなく「肉体」も結ばれるのです。
 
  思いを遂げて幸せになったと思えばさにあらず….
全てを投げ打って、島本さんと人生を再出発しようとする「僕」とは逆に、島本さんは「僕」と心中することを決意していた。「僕」と死ねなかった彼女は結ばれた翌朝、忽然と姿を消してしまう… そして、何も気づいていないと思っていた「僕」の妻も、夫の恋に気づいていて、自殺を考えていた事を知らされる・・・
 
 「島本さん」を失った「僕」は、映画”カサブランカ”のリックのように、店のピアニストに向かって言う、「もう、スター・クロスト・ラバーズは弾かなくてもいいよ。」…
 

 
 結局、スター・クロスト・ラバーズは、「僕」と「島本さん」だけでなく、登場人物全員のメタファー(隠喩)で、この物語が、様々な「星」の運行を語ったものだったのだと、読んでから判ります。

 ギリシャ哲学の「エロス」の概念のように、神に引き裂かれた自分の分身を求め、過ちを犯しながら、喪失感を抱え彷徨うスター・クロスト・ラバーズ…古典的なテーマを、バブル期の東京を舞台に一気に読ませます。

リリアン・テリーの歌うStar-Crossed Lovers

 前にも書いたように、トミー・フラナガンは、《Tommy Flanagan Trio, Montreux ’77》や、《Encounter!》で演っているのですが、もう一枚、イタリアのジャズ・シンガー、リリアン・テリーとの共演作でも、フラナガンは息を呑むようなソロ・ルバートを聴かせています。このアルバムは、ピアノの役割が、単に「歌伴」というカテゴリーに納まらないほど大きいんです。歌詞は、原型の<Pretty Girl>にストレイホーンが付けた歌詞を、ほんの少し変えて、とってもうまく歌いました。
 アルバムのタイトルは《A Dream Comes True》(Soul Note ’82作)、楽曲や共演者に対する尊敬が伝わる、いい感じの作品です!

Star Crossed Lovers
 Billy Strayhorn=Duke Ellington 

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Lover boy, you with a smile,
Come spend awhile with poor little me.
Lover boy, you standing there,
Won’t you come Share my eternity?

You could make me a glad one I long to be
Instead of a sad one that you see.

Let me live for awhile,
Won’t you give just a smile?

Lover boy, you with the eyes, 
Won’t you surprise me some fine day.

愛しい人、どうぞ私に微笑みを、
あなたを想う哀れな私と
しばしの間、ご一緒に、
愛しい人、佇むあなたをただ見つめるだけ、
どうぞ永遠の愛を受け入れて。

あなたなら、幸せな夢を叶えてくれる、
寂しい私を変えられる。

しばらくだけでいいんです、
どうぞ私に生命を与えて。
微笑んでくれるだけでいいのです。

愛しい人よ、その美しい瞳で、
いつの日か、思いがけない喜びを下さいな。

 ”Star-Crossed Lovers”のメロディを胸の中に鳴らしながら、私は、店からの帰り道、夏の夜空を眺める。
 小説を読むのもよし、エリントン楽団や、トミー・フラナガン、色々聴くのもいいけれど、私はやっぱりOverSeasで7月に聴くのが好き!
 『国境の南、太陽の西』に出てくる”ロビンズ・ネスト”みたいな、一流のバーテンダーはいないし、アルマーニのネクタイを締めたハンサムなオーナーもいないけど、プレイはずっとうちの方がいいと確信しています!

 そんなStar Crossed Lovers…寺井尚之Mainstem(宮本在浩-bass 菅一平-drums)の出演は7月19日(土)と26日(土)、ぜひ聴いてみて!

CU

サミー・ディヴィスJr.とビリー・エクスタインのちょっといい話。

sammy1.jpg(Sammy Davis Jr. 1925-90)

 7/5(土)「楽しいジャズ講座」は、サミー・ディヴィスJr.の至芸を寺井尚之の名解説で!

 私がジャズを好きになった頃は、毎週TVで『サミー・ディヴィスJr.ショウ』を放映してた。バックのビッグバンドはサミー専属ジョージ・ローズOrch. ダイアナ・ロスやミニー・リパートン・・・有名スターが毎回ゲストで出演して、ヒットソングやスタンダードを歌って踊る!楽団の中にハリー”スィーツ”エジソン(tp)やフランク・ウエス(ts)の姿を見つけたときは、宝くじに当たったみたいでそりゃ嬉しかった!

 
davis27n-2-web.jpg 若かりしその頃は、彼の生い立ちや人生に興味を持つことすらなかったのですが、今回の映像が余りにも素晴らしく、俄然興味が・・・ 

 サミー・ディヴィスJr.の伝記は4冊出版されていて、私が読んだのは、最も初期の”Yes, I Can”(Farrer Straus & Giroux  1965刊)、小学校にも行かずに、父親と叔父さん(のような人)のウィル・マスティンと共に、ヴォードヴィル一座の子役として、ストリップ劇場のドサ回り、従軍、激貧、想像を絶する人種差別体験、長い下積みを経て、フランク・シナトラを始め芸能界の白人の仲間達のサポートで、人種の壁を打ち破りスターになってからも、交通事故で片目を失い、結婚、宗教、政治、あらゆるところで世間の非難に晒されれながら、自分を守る術は「芸」だけだという、単なる出世物語を越えた読み物でした。

  スターの自伝ですから、勿論自筆ではなくインタビューをまとめたものですが、他人や自分の「芸」に関する論評が、スカっとしていて簡潔明瞭なところは、やっぱり天才!アメリカ文化史に興味があるなら、とっても読み応えがありました。

rat_packtumblr_mpy5qnLslm1qghk7bo1_500.jpg例えばフランク・シナトラの歌唱についてはこんな感じ。「フランク・シナトラの歌は他のバンドシンガーとは全く違ってた。彼の歌い方はとてもシンプルで簡単そうなのに、彼が歌うと、その歌詞は命を得て、もやはメロディーにくっついた”おまけ”ではなくなっていた。」

 貧乏で困った話、軍隊で想像を絶する人種差別に遭った体験は、彼に小便を飲ませ、密室に連れ込んでリンチする白人たちの憎悪の言葉や、ごく些細な仕草までが、虫眼鏡で過去を辿るように克明に書かれていて、ハリウッド映画のハッピーエンドなんてどこにもないタレント本です。

 サミー・ディヴィスJr.は勿論ジャズのカテゴリーに収まりきれる人ではなく、ジャズメンの記述はさほど多くはないのですが、寺井尚之の大好きな往年の黒人スター、ビリー・エクスタインとの人情あふれる逸話があったので、要約しておきます。

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 1946年、サミー・ディヴィスJr.のヴォードヴィル・トリオは時代の波に取り残され、仕事が入らず、家賃も食費も電気代もない、やるべき仕事は質屋とアパートの往復だけ。文字通りどん底の生活にあえいでいました。NYの寒い冬の或る日、彼が声帯模写を得意にするビリー・エクスタインがパラマンウント劇場に出演中だから、一緒に写真を撮ってもらってはどうか?記事に出来るかもしれないから、と雑誌社に勧められます。 元々知らない相手ではなかったので、恥を忍んで電話でお願いするとエクスタインは快諾してくれた。一緒にポーズを取ってもらい首尾よく2ショットを撮影。丁寧にお礼を言って退出しようとすると、Mr.B(ビリー・エクスタイン)はそれを引き止め、自分の楽屋に招き入れコーヒーをごちそうしてくれた。暮らしはどうだ?家賃は払えているのか?と親切にたずねてくれた。
 実のところ、電気代節約のため冷蔵庫は開け放したまま、家の中でコートを着て台所のオーヴンの前でかろうじて暖を取る生活。自分たちが飢えるのは仕方ないが、同居する年老いたママ(実は祖母)だけには少しでも温かい食事を食べさせたい。その一心でプライドをかなぐり捨てて、Mr.Bに頭を下げて借金を願い出ます。

 「B、悪いんだけど5ドルほど貸してくれませんか?少しづつ返します。貸していただけたら恩に着ます。どうぞお願いします。」
 Mr.Bは何も言わずに、腕時計に目をやった。500ドルはするダイヤ付きの金時計だ、
 「まあ、ついでにショウを観て行けよ。」
 サミーは舞台の袖で彼の出を待ちながら激しく後悔した。「あんなこと頼むんじゃなかった。金持ちそうに見えてるけど、彼だって実は文無しかも知れないじゃないか。それとも僕にはビタ一文貸したくないのかも・・・どうせ彼には関係ないことだ。いざ金のこととなると人間てのはわからないもんだ。写真を一緒に撮っても金はかからないもんな。内心はまっぴら御免だったのかも知れないが、まあメトロノーム誌に載っても損はないだろうし・・・」
 ビリー・エクスタインがステージに登場し、スポットライトでダイヤの指輪が輝いた。僕達があのダイヤを売れば一年は食べて行けるだろうよ。なのにたった5ドルで僕をここに引き止めてる。いい勉強をしたよ!本当に助けてくれる人間以外には悩みを打ち明けちゃいけないんだ。

 僕はこの場から立ち去ろうとした、彼のことなんか必要じゃないってことを示すために・・・でも実際はそうじゃなかった。
 僕は舞台の袖で彼の仕事振りを観た。彼は僕にはない全て持っていた。背が高くてハンサムで、自信に満ち溢れ、どんな者にでも成れた。この世界の巨人だ!トップスターだ!劇場は彼をひと目見ようとする客で満員だ。・・・そして彼のステージマナーときたら、ああ、最高のプロフェッショナルだ!


 ステージを終えて戻ってきた彼に僕は挨拶した。
「B、素晴らしいショウでした。写真のこと本当にありがとうございました。僕はこれで失礼します。」


 「ちょっと待てよ、ほら、忘れ物だよ。」エクスタインはさり気なく僕のポケットにお金を滑り込ませた。


 僕は自分の思い違いを責め、自己嫌悪で一杯になりながら劇場を後にした。そして、親しくもない人に借金を申し込むほど落ちぶれた自分を責めた。雑踏を歩きながら、僕はポケットの中に彼が入れたものを取り出した。それはなんと100ドル札だった!
 Mr.Bは僕らの窮状を察して、何も言わずに助けようとした。本当はすごく思いやりのある人で、僕のメンツを潰さないよう気遣ってくれたのだった。

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 当時の100ドルと言えば、20万円位の値打ちがあったのではないでしょうか?サミー・ディヴィスJr.に男の気遣いを見せた侠客ビリー・エクスタインの伝説のビッグバンドはこの年の暮れに破産します。

 左の写真はその後、1950年代に売れっ子になったサミー・ディヴィスJr.がビリー・エクスタインのショウに訪れたというニュース写真。

左端が、サミー・ディヴィスJr.が「叔父さん」と呼ぶ、ウィル・マスティン、ボスであり、同志、サミーに実の甥以上の愛情を注いだ「叔父さん」のことをサミーは一生面倒を見て、ディヴィス家の隣のお墓に埋葬されています。