Super Hip:デクスター・ゴードン

Dexter_Gordon.jpgDexter Gordon (1923-90)

 

 8/1(土)の映像で辿るジャズの巨人たち:『楽しいジャズ講座』では、デクスター・ゴードンの晩年の映像を観ます。 映画『ラウンド・ミッドナイト』の名演技でアカデミー主演男優賞にノミネートされ、映画に因んだオールスター・バンドのコンサートです。  

  私がゴードンを生で観たのは’75年、ケニー・ドリュー(p)、NHOペデルセン(b)、アルバート”トゥーティ”ヒース(ds)という最強リズムセクションを従えたワンホーン・カルテット、”ロング・トール・デクスター”と呼ばれる長身にやたらと細くて長い足、酔っ払ってるのか、生来そういう吹き方なのか、足元がおぼつかない感じでソロを取る。出てくる音は強烈で、ノン・ビブラートの直球勝負、強烈にスイングしてた!あの頃、未体験ゾーンだったペデルセンの超絶技巧を凌駕するほどの存在感は一生忘れられません。

 

<ジャズができるなら!>

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 当時のゴードンは、コペンハーゲンに居を移して20年になろうとしていた頃です。’50年代、ヘロイン所持で逮捕され、更正後、NYで演奏活動をするために必要だったキャバレー・カードを取得できないことが移住の理由だった。

 ブラック・パンサーのコペンハーゲン支部の一員として名を連ね、米国政府の人種政策に抗議する傍ら、ゴードンはエリントン達先輩が嫌った「ジャズ」という言葉を愛し、ジャズ・ミュージシャンとして活動できるなら、どこへでも行ってやる!という信念の人だったようです。

 米国でのジャズ活動が困難になりヨーロッパに移住したミュージシャンは「ジャズ・エグザイル」と呼ばれますが、当然ながら、ゴードンも、「落ち武者」的な呼び名を嫌悪した。エグザイルなんていうことばは、演奏スタイルからファッションに至るまで徹頭徹尾、ダンディズムにこだわるゴードンにはそぐわないですよね。

 <マイルズのファッションを全否定>

Coleman_Hawkins,_Miles_Davis_(Gottlieb_04001).jpg レスター・ヤングの洗礼を受け、ロスアンジェルスから一躍、NYのビバップ・シーンのスターとなったゴードンは、プレイもファッションもファンのみならず仲間の憧れだった。ジャズのファッション・リーダーの一人、マイルズ・デイヴィスの伝記にはビバップ勃興の’40年代、デクスター・ゴードンからマイルズのファッションセンスについてケチョンケチョンに言われた有名な逸話が!

「なんだ?そのピッタリしたスーツは!?全然イケてない。もうちょっとましな格好をしろよ。」

「えっ?このスーツは大金をはたいて買ったのに。一体どこがいけないの?」

「あのなあ、値段の問題じゃないんだ。要はヒップかどうかってことなんだよ!肩パッドの入ったスーツとMr.B(ビリー・エクスタイン)の着てるハイカラーのワイシャツじゃなきゃだめ!それからヒゲを生やせ!でないと俺たちの仲間じゃない。」

 インディアンの血統から、元々ヒゲの薄いマイルズは、とても困った。あだけど尊敬するデクスターはSurper Hip!彼には逆らえない。結局、F&M’sというブロードウェイのバッパー御用達の店で揃えたのが左の出で立ち。ゴードンはこのファッションを絶賛して「仲間」だと認めてくれたそうですが、マイルズにとって、このW・ゴットリーブの名写真は痛恨の極みらしい・・・

<華々しいカムバックの陰で>

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 私が初めてゴードンを観た翌年、彼はNYで華々しいカムバックを遂げ、帰国をすることになります。それは、新しいマネージャー、マキシン・グレッグの功績だった。10代から大のジャズファンとして、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズの追っかけを自認する彼女は、ジャズ好きが高じてロード・マネージャーやミュージシャンのマネージメントを正業とした女傑。ヨーロッパでゴードンの勇姿を観た彼女は、本人を説き伏せた後、「ブランクが長すぎる」と、なかなか首を立てに振らないNYのクラブ・オーナーを「ギャラは出来高でいいから」と説得し、NYで凱旋公演をします。それが大当たり!ヴィレッジ・ヴァンガードは連日長蛇の列、あっという間にコロンビアとレコーディング契約を取り付けた。

 二人の関係は、いつの間にかロマンスに発展し、1982年に正式に結婚。マキシンはゴードンの三度目で最後の妻になりました。それ以前に彼女が尽くしたのが名トランペッターのウディ・ショウで、彼もまた尊敬するゴードンのカムバックのために誠心誠意協力を惜しまなかった。

 ゴードンが彼女と結婚した数年後、ウディ・ショウは地下鉄で悲劇的な死を遂げますが、賢者は目して語らず。彼女とショウの間に出来た息子はウディ・ショウ三世は、ゴードンが引取り、現在はプロデューサーとして、二人の父親の音楽遺産の管理をしています。

 <映画 ラウンド・ミッドナイト>

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  ゴードンは結婚してまもなく健康上の理由で現役を引退、一年の半分をホリスティック治療のためメキシコで暮らしていた。’50年代から、オーラ溢れるルックスを買われ、俳優として映画やTVに出演経験があったゴードンに、’80年代半ば、フランス人の監督ベルトラン・タベルニエとレコード・プロデューサー、ブルース・ランドバルから映画出演の話がきた。

「ジャズ映画の話は十中八九流れるもんだ。」

 当初は渋っていたゴードンですが、リムジンがお迎えにやってきて、面会場所に行くと、「主役として完璧だ!」と監督は一目惚れ!大のジャズ・ファンを自認するクリント・イーストウッドが後方支援して、低予算ながらも公開にこぎつけた。

 映画『ラウンド・ミッドナイト』がベネチア映画祭に出品された時は、舞台挨拶したゴードンを讃え、20分間スタンディング・オベーションが続くほどの好評、ゴードンは、アカデミー賞主演男優賞にノミネート!

  ゴードンが演じたのは、レスター・ヤングやバド・パウエルを彷彿とさせるデイル・ターナーという架空のテナー奏者。撮影中は、腎臓の持病を抱えるゴードンのために医師を常駐させ、時にはアル中ミュージシャンの役柄になりきるために、深酒をして撮影が中断することもあったそうですが、スクリーンの中のゴードンはほんとうに素晴らしい!ジャズの神話として語り継がれる様々な名言の重み、何気ない佇まいに、どんな名優でもかなわないリアリティがありました。ジャズファンにとっては、歴史解釈の怪しいシーンもあるのですが、ゴードンの存在感が優る名画。プレイのタイム感が、演技に生かされていて、監督はそういうところを上手に捉えているなあと感心します。

DG_Laughing_Jan+Persson.jpg さて、映画の成功は、再度ゴードンを再びステージに引っ張りだすことになります。映画に因んだオールスター・バンドでのコンサート!(土)に観る映像はその時のものです。

 この映像の2年後、ゴードンは腎臓疾患で亡くなりました。享年67才、Super Hipな人生を貫くにはファッションだけじゃだめ、信念と覚悟が必要なんだぞ!そんなことを教えてくれる巨匠です。 

 

 参考資料:

  • LA Times 1987 4/12 “A Sax Man Returns”/ Leonard Feather
  • All About Jazz :Maxine Gordon “The Legacy of Dexter Gordon”
  • Miles: The Autobiography / Miles Davis, Quincy Troup (Simon and Schuster) Courtesy of Michiharu Saotome
  • Swing to Bop / Ira Gitler

 

  

 

映像で観る Tommy Flanagan Trio!

gm30.jpg ムラーツのHPより 左からTommy Flanagan, George Mraz (b), Bobby Durham (ds)

 来る6月6日、Jazz Club OverSeasでトミー・フラナガン・トリオの貴重映像鑑賞会、「楽しいジャズ講座」を開催します。


Village_Voice_ad.jpg メンバーはジョージ・ムラーツ(b)、ボビー・ダーハム(ds)、場所は独ケルンの名門ジャズクラブ《Subway》。

  ムラーツは長年のレギュラー・ベーシスト、ダーハムは’70年代、エラ・フィッツジェラルドのバンドで長らく共演、’75年には、共にエラと来日ツアーを行い、その雪の京都公演の際に、寺井尚之は初めてフラナガンに弟子入り志願を直訴したのでした。’80年代後半、フラナガンはダーハムを擁したトリオでたびたび演奏していて、Village Voiceの切り抜きは’89年の春のものです。


  ダーハムの凄いところは、ギラギラとダイナミックでありながら、緩急自在!合わせるところは寸分違わず狂わない、フィラデルフィアらしい不良っぽさ、そのかっこよさは黄金のミドル級チャンピオン!

そこに、パルスとラインを兼ね備え、優美でありながらも骨太で強靭なムラーツのベース、鮮やかなコントラストを構成するリズム・チームを縦横無尽に操るフラナガンの凄さ、そのミュージシャンシップ!まさに豪華絢爛、圧倒的なピアノ・トリオの世界を、この目で観ることが出来ます。

トリビュート・コンサートでしか聴けない『デューク・エリントン・メドレー(Elligntonia)』は必見、必聴!

=演奏曲目=

 1. Raincheck (Billy Strayhorn)

2. Glad To Be Unhappy (Richard Rodgers)

3. Beyond The Bluebird  (Tommy Flanagan )

4. Verdandi /.Mean Streets  (Tommy Flanagan )

5 .Medley: Ellingtonia 

6.Bitty Ditty (Thad Jones)

7. Tin Tin Deo (Chano Pozo, Dizzy Gillespie, Gill Fuller)

 

 折しも寺井尚之の誕生日、記念すべき映像をぜひJazz Club OverSeasでご一緒に!

「楽しいジャズ講座」トミー・フラナガン・トリオ 

講師:寺井尚之

日時:6/6 (土) 7pm開講 
受講料2000円(税別)
関連サイト:http://jazzclub-overseas.com/jazz__event.html

 

8/2(土)特別企画:トミー・フラナガン・ジャズパー賞を映像で!

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 1993年、トミー・フラナガンは、毎年デンマークが、最も優れたジャズ・アーティストに贈る「ジャズパー賞」を受賞しました。

 「(他所ではイマイチだが)日本人好み」だとか「地味」だとかいう風評を吹っ飛ばす北欧での快挙にバンザ~イ!という感じでした。

1341.jpg 同年4月に、コペンハーゲンで開催された受賞記念コンサートは、フラナガンのお気に入りの北欧ではレギュラー同然のベース奏者、ジェスパー・ルンドガードとルイス・ナッシュ(ds)、そしてデンマークの名手達で特別編成されたJazzpar Windtetや、北欧を代表するテナーの巨匠、ジェスパー・シロの共演、フラナガンの絶頂期を象徴するライブ・レコーディングの一つとしてCD化されているのは、皆さんも御存知の通りです。

 トミー・フラナガンは、ジャズパー賞の賞金200,000クローネで、フラナガンが愛する作曲家、サド・ジョーンズ集という、レコード会社が決してウンと言わない企画を自費で録音、『Let’s play the music of Thad Jones』も、私達終生の愛聴盤となりました。 

  実は、このジャズパー賞ガラ・コンサートの模様が、なんとデンマークの公共放送で特別番組として放映されていたんです!CDでゲスト演奏しているジェスパー・シロがホスト役!CDで聴くだけだったコンサートが映像で観れるというフラナガン・ファン感涙の番組!それを、お盆にさきがけて、8月2日(土)の楽しいジャズ講座で、皆で観ることにしました。

 トミー・フラナガン・ファン 全員集合!ぜひ一緒にフラナガンを偲びましょう。

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【日時】8月2日(土) 7pm-

【受講料】2,000yen(税抜)

楽しいジャズ講座の予定表はこちらです。

CU

サミー・ディヴィスJr.とビリー・エクスタインのちょっといい話。

sammy1.jpg(Sammy Davis Jr. 1925-90)

 7/5(土)「楽しいジャズ講座」は、サミー・ディヴィスJr.の至芸を寺井尚之の名解説で!

 私がジャズを好きになった頃は、毎週TVで『サミー・ディヴィスJr.ショウ』を放映してた。バックのビッグバンドはサミー専属ジョージ・ローズOrch. ダイアナ・ロスやミニー・リパートン・・・有名スターが毎回ゲストで出演して、ヒットソングやスタンダードを歌って踊る!楽団の中にハリー”スィーツ”エジソン(tp)やフランク・ウエス(ts)の姿を見つけたときは、宝くじに当たったみたいでそりゃ嬉しかった!

 
davis27n-2-web.jpg 若かりしその頃は、彼の生い立ちや人生に興味を持つことすらなかったのですが、今回の映像が余りにも素晴らしく、俄然興味が・・・ 

 サミー・ディヴィスJr.の伝記は4冊出版されていて、私が読んだのは、最も初期の”Yes, I Can”(Farrer Straus & Giroux  1965刊)、小学校にも行かずに、父親と叔父さん(のような人)のウィル・マスティンと共に、ヴォードヴィル一座の子役として、ストリップ劇場のドサ回り、従軍、激貧、想像を絶する人種差別体験、長い下積みを経て、フランク・シナトラを始め芸能界の白人の仲間達のサポートで、人種の壁を打ち破りスターになってからも、交通事故で片目を失い、結婚、宗教、政治、あらゆるところで世間の非難に晒されれながら、自分を守る術は「芸」だけだという、単なる出世物語を越えた読み物でした。

  スターの自伝ですから、勿論自筆ではなくインタビューをまとめたものですが、他人や自分の「芸」に関する論評が、スカっとしていて簡潔明瞭なところは、やっぱり天才!アメリカ文化史に興味があるなら、とっても読み応えがありました。

rat_packtumblr_mpy5qnLslm1qghk7bo1_500.jpg例えばフランク・シナトラの歌唱についてはこんな感じ。「フランク・シナトラの歌は他のバンドシンガーとは全く違ってた。彼の歌い方はとてもシンプルで簡単そうなのに、彼が歌うと、その歌詞は命を得て、もやはメロディーにくっついた”おまけ”ではなくなっていた。」

 貧乏で困った話、軍隊で想像を絶する人種差別に遭った体験は、彼に小便を飲ませ、密室に連れ込んでリンチする白人たちの憎悪の言葉や、ごく些細な仕草までが、虫眼鏡で過去を辿るように克明に書かれていて、ハリウッド映画のハッピーエンドなんてどこにもないタレント本です。

 サミー・ディヴィスJr.は勿論ジャズのカテゴリーに収まりきれる人ではなく、ジャズメンの記述はさほど多くはないのですが、寺井尚之の大好きな往年の黒人スター、ビリー・エクスタインとの人情あふれる逸話があったので、要約しておきます。

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 1946年、サミー・ディヴィスJr.のヴォードヴィル・トリオは時代の波に取り残され、仕事が入らず、家賃も食費も電気代もない、やるべき仕事は質屋とアパートの往復だけ。文字通りどん底の生活にあえいでいました。NYの寒い冬の或る日、彼が声帯模写を得意にするビリー・エクスタインがパラマンウント劇場に出演中だから、一緒に写真を撮ってもらってはどうか?記事に出来るかもしれないから、と雑誌社に勧められます。 元々知らない相手ではなかったので、恥を忍んで電話でお願いするとエクスタインは快諾してくれた。一緒にポーズを取ってもらい首尾よく2ショットを撮影。丁寧にお礼を言って退出しようとすると、Mr.B(ビリー・エクスタイン)はそれを引き止め、自分の楽屋に招き入れコーヒーをごちそうしてくれた。暮らしはどうだ?家賃は払えているのか?と親切にたずねてくれた。
 実のところ、電気代節約のため冷蔵庫は開け放したまま、家の中でコートを着て台所のオーヴンの前でかろうじて暖を取る生活。自分たちが飢えるのは仕方ないが、同居する年老いたママ(実は祖母)だけには少しでも温かい食事を食べさせたい。その一心でプライドをかなぐり捨てて、Mr.Bに頭を下げて借金を願い出ます。

 「B、悪いんだけど5ドルほど貸してくれませんか?少しづつ返します。貸していただけたら恩に着ます。どうぞお願いします。」
 Mr.Bは何も言わずに、腕時計に目をやった。500ドルはするダイヤ付きの金時計だ、
 「まあ、ついでにショウを観て行けよ。」
 サミーは舞台の袖で彼の出を待ちながら激しく後悔した。「あんなこと頼むんじゃなかった。金持ちそうに見えてるけど、彼だって実は文無しかも知れないじゃないか。それとも僕にはビタ一文貸したくないのかも・・・どうせ彼には関係ないことだ。いざ金のこととなると人間てのはわからないもんだ。写真を一緒に撮っても金はかからないもんな。内心はまっぴら御免だったのかも知れないが、まあメトロノーム誌に載っても損はないだろうし・・・」
 ビリー・エクスタインがステージに登場し、スポットライトでダイヤの指輪が輝いた。僕達があのダイヤを売れば一年は食べて行けるだろうよ。なのにたった5ドルで僕をここに引き止めてる。いい勉強をしたよ!本当に助けてくれる人間以外には悩みを打ち明けちゃいけないんだ。

 僕はこの場から立ち去ろうとした、彼のことなんか必要じゃないってことを示すために・・・でも実際はそうじゃなかった。
 僕は舞台の袖で彼の仕事振りを観た。彼は僕にはない全て持っていた。背が高くてハンサムで、自信に満ち溢れ、どんな者にでも成れた。この世界の巨人だ!トップスターだ!劇場は彼をひと目見ようとする客で満員だ。・・・そして彼のステージマナーときたら、ああ、最高のプロフェッショナルだ!


 ステージを終えて戻ってきた彼に僕は挨拶した。
「B、素晴らしいショウでした。写真のこと本当にありがとうございました。僕はこれで失礼します。」


 「ちょっと待てよ、ほら、忘れ物だよ。」エクスタインはさり気なく僕のポケットにお金を滑り込ませた。


 僕は自分の思い違いを責め、自己嫌悪で一杯になりながら劇場を後にした。そして、親しくもない人に借金を申し込むほど落ちぶれた自分を責めた。雑踏を歩きながら、僕はポケットの中に彼が入れたものを取り出した。それはなんと100ドル札だった!
 Mr.Bは僕らの窮状を察して、何も言わずに助けようとした。本当はすごく思いやりのある人で、僕のメンツを潰さないよう気遣ってくれたのだった。

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 当時の100ドルと言えば、20万円位の値打ちがあったのではないでしょうか?サミー・ディヴィスJr.に男の気遣いを見せた侠客ビリー・エクスタインの伝説のビッグバンドはこの年の暮れに破産します。

 左の写真はその後、1950年代に売れっ子になったサミー・ディヴィスJr.がビリー・エクスタインのショウに訪れたというニュース写真。

左端が、サミー・ディヴィスJr.が「叔父さん」と呼ぶ、ウィル・マスティン、ボスであり、同志、サミーに実の甥以上の愛情を注いだ「叔父さん」のことをサミーは一生面倒を見て、ディヴィス家の隣のお墓に埋葬されています。

 

7/5(土) サミー・ディヴィスJr.をOverSeasで観よう!

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 20世紀を代表するエンタテイナー、サミー・ディヴィスJr.を知っていますか?もしご存じなくても、もしジャズが好きだったら、もしマイケル・ジャクソンやレディ・ガガを好きだったら、ぜひ一度観て欲しい!

 OverSeasでは7月5日(土)「楽しいジャズ講座」で、サミー・ディヴィスJr.がドイツで行ったコンサート映像を観ながら、寺井尚之がその至芸を解説します。

 昭和時代、サントリーのCMは一世を風靡しました。

 サミー・ディヴィスJr.(1925-1990)は、初期のジャズを育んだボードビル出身、つまり歌や踊りや音楽など様々な演芸を披露する旅芸人の一座から頭角を現した人、両親もボードビリアンで、デビューは4才(!)というから歌舞伎役者並です。天才子役として5才で映画デビュー、以来、20代で声帯模写の名人として有名なった後、歌手として「自分の歌」でヒットを飛ばし、ブロードウェイ、ハリウッド映画、ラスヴェガスのショウなど、様々な分野で大活躍しました。

 その芸域はヴォーカルに留まらず、タップダンスのレジェンドとして、マイケル・ジャクソンのルーツの一人に数えられているし、声帯模写も超一流、その辺りは、寺井尚之の講義でじっくりお楽しみください。

a_man_called_adam_dvd_copy.jpg ジャズというカテゴリーを超えたエンタテイナーではありますが、サミー・ディヴィスJr.はトランペットとドラムにも長けていて、映画「アダムという男」では、ナット・アダレイに吹き替えられたものの、リアルなジャズ・トランペット奏者を演じていますし、ライオネル・ハンプトン楽団、ウディ・ハーマン楽団のギグでは助っ人としてドラムを演奏した経歴を持っているというからハンパな腕ではありません。ジョー・ジョーンズやソニー・グリア、オリヴァー・ジャクソン、エディ・ロック…名ドラマー達は皆タップ・ダンサ-でしたから、歴史的に相関関係があるんでしょうね。

 そして言うまでもなくサミー・ディヴィスJr.は、「シナトラ一家 (The Rat Pack)」の一員としても有名です。フランク・シナトラを大親分に、ディーン・マーティン、ナット・キング・コール、ディーン・マーティン、ハンフリー・ボカートなどと盛んにショウを行いました。映像では親分以外の組員をサミーが一人でやってのけています。

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 その他、映画『雨に歌えば』の名ダンス・シーンやタップ・ダンスの神様と呼ばれたビル”ボージャングル”ロビンソンに捧げる名唱”Mr. Bojangles”など、見どころが一杯!

 華やかなパフォーマンスの影で、彼の生涯は、幼い頃に育ててくれた母が実は祖母だったり、キャリアの頂点で、交通事故のために、ダンサーでありながら左目を失明するという引退の危機にさらされたり、人種隔離の時代にブロンドの白人女性と結婚したことがスキャンダルになったり、絶体絶命のピンチを乗り越えてきました。

 またいずれブログに書きたいと思います。まずは7月5日(土)の「楽しいジャズ講座」にどうぞ!

音楽や芸能に興味がある方なら、どなたも必見です!

porgy-and-bess-sammy-davis-jr-1959.jpg『楽しいジャズ講座』:サミー・ディヴィスJr.

日時:7月5日(土) 7pm- 受講料 2,000yen (税抜)

「講座」サイト

 

ディジー・ガレスピー:幻のコンサート映像

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 ベニー・カーター

  先日のコンコード・ジャズフェスティバル、行かれましたか?ルイス・ナッシュのグループが、Tin Tin DeoやMean Streetsなど、トミー・フラナガン・トリオの演目を披露し、良かった、いや別物だ、と色々話題になっていました。いずれにせよ、フラナガン没後10余年、やっと本場のミュージシャンに取り上げられたのが嬉しいです。でも寺井尚之のプレイだって、決して引けを取りませんよ!ぜひぜひOverSeasに聴きに来てみてくださいね!

 最近、寺井は、押入れに保管していた膨大なジャズ映像ビデオ・コレクションをDVDに変換し、嬉々として再チェック。皆さんに良い映像、巨匠たちの姿を観て欲しいからです。

 BS(衛星放送)発足直後は、ジャズ関連プログラムが試験放映されていたので、寺井は自分の好みと関係なく、ありとあらゆるジャズのアーティストの映像を、高画質、高音質のヴィデオ機器で録画していました。

 中には、YOUTUBEでも、DVDでも観れないお宝も。米国のジャズ・ファンが躍起になって捜す垂涎のTV番組を観てみました!

<ディジー・ガレスピー70th バースデー・コンサート>

 これは、1984年6月6日、ワシントンDC郊外にある広大な文化センター、「ウルフトラップ」で開催された、ディジー・ガレスピーの70才バースデー・コンサートの記録。ディジーや参加ミュージシャンのインタビュー、チャーリー・パーカーとの歴史的映像など、ガレスピーの輝かしい音楽歴とコンサートを組み合わせて、PBS(公共放送)が一編のドキュメンタリーに仕立てたものです。

 ナレーションは、世界中にジャズを広めた功績を讃えられる”The Voice Of Amrica”の看板アナウンサー、ウィリス・コノーバー。ジョージ・ムラーツ(b)がチェコでジャズに出会ったのも、コノーバーの “Music USA”を聴いていたから。外国人にも極めて判りやすい英語で勉強になります。

 ミュージシャンへのインタビューも、とても興味深いものばかり!ビッグ・マウスのフレディ・ハバードが、真面目に技術的なことを語っていたり、ステージ上ではコメディアンみたいなジェームズ・ムーディが、シリアスにディジーへの想いを語っているのを聞き涙・・・

  コンサートは絢爛たるスター、総勢30名余り!(左の写真はごく一部)、様々の組み合わせ、凝ったアレンジでディジーのオリジナル曲を演奏するのですが、ゴージャスなだけでなく、中身が濃いくて圧倒的!

 例えば、ビバップ編:Birk’s Worksでは、御大ベニー・カーター(as)、J.J.ジョンソン(tb)、22才のウィントン・マルサリス(tp)をフロントに、リズムセクションがハンク・ジョーンズ(p)、ルーファス・リード(b)、ミッキー・ロカー(ds)というドリーム・バンド。演奏の中身はお祭りムードなし!スリル溢れる真剣勝負です。フロント陣とハンクさんのソロで沸いた後、ベース・ソロになると、ザ・キング・ベニー・カーターが、他の誰よりも早く、ベースの方に向き直り、傾聴の姿勢を見せます。すると、瞬時に後の二人もそれを見倣った!超一流の品格は、プレイだけでなく、こういう細かい所作に表れる!

 ウィントン、ハバード、そしてディジーの一番弟子、ジョン・ファディスのトランペット・バトルもマジの真っ向勝負!だってディジーがリングサイドで観てるんだから、必死です。ハバードにいつもの派手なアクションなし!ひたすら誠実にプレイを展開、秀才君、マルサリスには、ディジーの目力プレッシャーがのしかかります。愛弟子ファディスの番になると、その視線が急に柔らかになるのが、映画のワン・シーンみたい!

 プレイの機微、心の機微が目に見える、映像の力はすごいなあ! 

 ラテン編では、日本の誇るピアニスト、ケイ赤城登場!エディ・ゴメスやアイアート・モレイラ、フローラ・ピュリムと共に、弾丸スピードのTANGAで胸のすくようなソロ!日本の誇りだ!寺井尚之も「うまいなあ!」と絶賛でした!

 色んな編成の豪華コンボの後は、ディジーとヘビー級アーティストがサシで渡り合うセッション、これが圧巻!お相手は、ソニー・ロリンズ、オスカー・ピーターソン、カーメン・マクレエ!マクレエが歌うBeautiful Friendshipは、この特別なコンサートにぴったりな歌詞にしてあって、エンディングで大喝采!こういうのを聴くと対訳を掲示したくなっちゃいます。

 そしてピーターソンとデュオで奏でるAll the Things You Areの美しいこと・・・もう鳥肌が立ちます。

 フィナーレは「燃えよドラゴン」など映画音楽家として活躍したラロ・シフリンの編曲、指揮、全員による「Happy Birthday」 で大団円!

 

 <ガレスピー父親、パーカー母親論>

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  この番組は、いままで、ディジー・ガレスピーを「ほっぺたがカエルみたいになる面白いおじさん」と思っていた人にぜひ観て欲しい!ディジーのプレイ、その出し入れ、そのリズム感、五線紙のおたまじゃくしが、トランペットから3D映像で飛び出します!平らなカンバスの上に、遠近法で奥行きを描いたレオナルド・ダ・ビンチと一緒です。だから聴いて欲しい!観て欲しい!

 ハードバップ期のミュージシャンにとって、ディジー・ガレスピーは、チャーリー・パーカーと共に間違いなく「神様」だった。スミソニアン博物館が所蔵するジャズ・アーティストのインタビューでそう語る人は多いし、トミー・フラナガンもそう言ってた。

 この二人の違いは、ディジーは「時には厳しく」若手に「教える」ゼウスで、バードは「優しく励ます」菩薩だったこと。フラナガンもケニー・バレルも、コルトレーンもゴルソンも、みんな駆け出しの頃、バードに励まされ、ディジーに仕込まれて一流になった。だから、ディジー=父、バード=母のハードバップの両親論を展開する人が多いのです。

 この番組でもミュージシャンたちが語っているように、ディジーはモダン・ジャズ・トランペット奏法の基盤を作り、新しいスケールを作り、それを惜しみなく後進達に伝授した。「寺井尚之はディジー一派に伝わる革新的なスケールを、ジミー・ヒースに教えてもらいました。  

 ディジーの家には2本電話があって、1本は後輩からの「ジャズ理論相談室ホットライン」だったといいます。

 同時に、チャーリー・パーカーが非業の死を遂げ、ディジー・ガレスピー楽団が経済的に破綻したことは、ジャズ史に大きく語られなくても、ミュージシャンにとっては人生観を変えるほどショックな出来事で、その後のジャズの流れに大きな影響を与えているんです。

 というわけで、この映像に全部日本語テキストをつけました。映像は7月寺井尚之の解説で、7月にご覧いただけます!

 <ディジー・ガレスピー70th バースデー・パーティ>

 7月6日(土) 開場6pm-/開演7pm-

   受講料:2,100yen (学割1050yen)

 皆さん、ぜひ一緒に観ませんか?

 

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J.J.ジョンソン

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カーメン・マクレエ

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 フローラ・ピュリム

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ウィントン・マルサリス

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フレディ・ハバード

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ジョン・ファディス

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オスカー・ピーターソン

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ハンク・ジョーンズ

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トミー・フラナガン3 and ケニー・バレルのクリアな貴重映像を!

  3月16日(土)はトミー・フラナガンの誕生日、Jazz Club OverSeasは、トリビュート・コンサートを開催し、寺井尚之が自己トリオ、The Mainstem(宮本在浩 bass、菅一平 drums)で、極上の演奏をおきかせしながら、巨匠を偲びます。

 トリビュート月に因んで、もうひとつビッグ・イベントのお知らせです。トリビュート・コンサートの次の週ですから、併せて聴くのがおすすめ!

 

<貴重映像で偲ぶトミー・フラナガン>

Tommy Flanagan (p)trio
 at Keystone Korner ’92
George Mraz(b) Lewis Nash(ds)
Special guest: Kenny Burrell

【日時】3月23日(土) 7pmー

【受講料】2,100yen burrell_flanagan.jpg

 

bluebird.jpg 1992年4月、名盤『ビヨンド・ザ・ブルーバード』の録音に先駆けて、東京原宿にあったジャズ・クラブ”キーストン・コーナー”に出演した際のコンプリートなコンサート映像で、音質も画質も素晴らしいものです!

 実は”キーストン・コーナー”でこのギグを終えた後、トミー・フラナガンとジョージ・ムラーツだけが大阪に飛んできて、Jazz Club OverSeasでデュオを聴かせてくれました。

 現在もフラナガン未亡人と親交を結ぶトミー・フラナガン愛好会の皆さんは、4月6日の演奏を聴きに行かれた際に、愛好会のウィンドウ・ブレーカーを贈呈されたとHPに記録されています。自分の似顔絵がプリントされたウィンドウ・ブレーカーをトミーはたいそう気に入って、いつも身に着けて自慢していました。上の小冊子の表紙写真も愛好会HPからお借りしました。 

 

 ”キーストン・コーナー”のコンサートは、最初ケニー・バレルが、スプリング・ソングのオープニングからソロで3曲!なんてバランスととれたサウンドなんでしょう!これがまた素晴らしい!そして、フラナガンとデュオで、”Body & Soul”をじっくり演奏した後、ムラーツ、ナッシュが登場!カルテットで、”Bluebird”を演ってからバレル退場、フラナガン・トリオで”The Con Man”を華麗に聴かせて独壇場、ジェットコースターのようなスリルが味わえる”Our Delight”なで、息もつかせぬ究極のピアノ・トリオに目も耳も釘付けです。(寺井尚之は自宅で最後まで正座して聴いてました。) いつも寺井尚之が強調する「間合い」の芸術も、コンプリートなライブ演奏で実感していただけるでしょう。

 フラナガンたちが東京にやってくるまでに、深夜や早朝、何度電話で連絡を取り合ったことでしょう…そんな思い出話から、高度な音楽的考察まで、寺井尚之の笑って泣ける解説も必聴です!

<演奏曲目>

  1. Spring Can Really Hang Up You the Most
  2. Be Yourself
  3. Sittin’ & Rockin’
  4. Body & Soul
  5. Bluebird
  6. The Con Man
  7. Beyond the Blue Bird
  8. Lush Life~Passion Flower
  9. Our Delight

 フラナガン・ファンも、バレル・ファンも、この曲の並びを見るだけでウズウズしますね!

 

 3月23日は、ぜひトミー・フラナガン3&ケニー・バレルのライブへ、バブル時代の原宿にタイムスリップしてみませんか?

楽しいジャズ講座のHPはこちらです。

CU  

名文で知っておきたいジョージ・シアリング

トミー・フラナガンの親友でありピアノの名手、知性と知識を兼ね備えたジャズ・ライター!我らがディック・カッツ氏がMosaicのボックス・セット、『The Complete Capitol Live George Shearing』のために書いたライナー・ノートのサワリの部分をここに和訳して掲載いたします。

Tommy Flanagan and Dick Katz 著者、ディック・カッツ氏とトミー・フラナガン

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ジョージ・シアリング
George Shearing (1919-2011)

ジョージ・シアリングがロンドンで送った子供時代、それは、決して「バードランドの子守唄」あるいは、どこかよその子守歌のようなものでもなかった。ぎりぎりの貧困での生い立ちから、裕福な音楽的有名人としての成功は、ハリウッドの黄金期の映画さながらに、ボロ服から大金持ちへの大転換だった。
勿論、彼のスタートも慎ましいものであった。1919年8月13日、9人兄弟の末っ子として、生まれながらの全盲として誕生。父は石炭人夫、母は子供達を世話する傍ら、夜は列車の掃除婦として働いていた。

ジョージの学歴は控え目に言っても多彩なものだ。1987年、文芸誌「ニューヨーカー」で、シアリングはホイットニー・バリエットにこのように語っている。
「3才の時に伊達男を気取って音楽を試みたものの、方法が不適切で・・・トンカチでピアノをガンガン叩いたものです。」 これはロンドン南西部、バターシーの「シリントン・スクール」の出来事だ。

12才から16才の間は、緑多い田園地帯にある寄宿制盲学校、「リンデンロッジ」に在学。入学は強制的なものではあったが、ロンドンのすすけた下層労働階級から逃れ、ほっとできる喜ばしい機会であった。彼がバッハ、リストなどクラシックの作品の弾き方や音楽理論を学んだのもそこ「リンデンロッジ」である。

卒業後、パブのピアノ弾きの仕事にありつく。そしてほどなく、クロード・バンプトン率いる全盲ミュージシャンで編成した17ピースのバンドに加入する。紳士服で有名なサビルロウで仕立てのユニフォームでの仕事は、フィナーレには6台のグランドピアノが並ぶという、彼の最初の大仕事であった。リーダー以外、全員が視覚障害者で、譜面はシアリングが概に学んだ点字譜に書き直された。そこが若きピアニスト、シアリングと生のジャズとの初めての出会いである。楽団で、ジミー・ランスフォード、エリントン、ベニー・カーターなど名楽団のアレンジを演奏した経験がシアリングに大きな刻印を残した。やがて、当時最新の、アート・テイタム、ルイ・アームストロングなど一流ジャズメンのレコーディングを聴き始める。

さて、ここで若く熱意にあふれた、新進気鋭の批評家レナード・フェザーの登場となる。「リズム・クラブ」のジャムセッションでシアリングを聴いたフェザーは、この若きジャズの修行生にできるかぎりの援助を申し出た。シアリングわずか19才の時に、フェザーはレコーディング、ラジオ出演の御膳立てをした。おかげで1939年迄に、英国のジャズピアニストの人気投票で第1位に輝き以後7年間その地位を守り続ける。それまでに、主要な米国のジャズピアニストのスタイルを習得し、しばしば「英国のアート・テイタム」あるいは「テディ・ウイルソン」あるいは「No1ブギウギピアニスト」という称号を贈られた。だが、この贈り物は後に逆効果を生むことになる。

早くからグレン・ミラー、メル・パウエル(p)、そしてファッツ・ウォーラーから支持され、勇気を得たシアリングは、もはや英国に留まって活動すべきではないと感じていた。大戦後の1946年,、アメリカのジャズ界で腕試ししようと渡米。期待は大きかったが、その顛末は後の1986年、NYタイムズでジョン・S・ウィルスンに語ったとおりである。

 「私は芸能エ-ジェントに会いに行き、演奏を聞かせました。テディ・ウイルソンやアート・テイタム、ファッツ・ウォーラーの様に弾いて見せますと、こう冷たく尋ねられました。『他には何ができるんだい?』って…」

アメリカでは、自分の真似た本家が、いつでも生で聴けるのだと悟ったシアリングは、聴衆にアピールする自分自身のアイデンティティを確立する必要性を痛感、そして帰国。再び腕を磨いてから1年後に再渡米した。

再挑戦の初仕事は52丁目にあるクラブ、「オニキス」でサラ・ボーンの対バンとして演奏することであった。彼のピアノの卓抜さはすぐに注目の的となり、ミュージシャンの口コミも彼の評判を確立するのに役立った。

洗練された彼の演奏は、折衷的であるにせよ、確かに驚異的ではあった。とはいえ、まだまだ音楽的に”自分自身のヴォイス”を確立するところまでは行かなかったのだ。だが、その”ヴォイス”が生まれるのも、長くはかからなかった。

1949年1月、彼はカルテットを率いてブロードウェイ、「クリーク・クラブ」に出演、クラリネットのバディ・デフランコをフィーチュアしスムーズなボイシングと微妙なリズムのアプローチを強調し、ドラマーであり作曲家、ブラシ・ワークの名人、デンジル・ベストが、グループのサウンドを周到に計算した。2週間後、デフランコは別の契約の為に退団。シアリングの米国への移民手続きをしたレナード・フェザーはグループにユニークなサウンドを与える方法を思いついた。ドラムのベストと、後にマネージャー となるベースのジョン・レビーはそのままにして置き、シアリングはバイブのマージョリー・ハイアムスとギターのチャック・ウエインを新たに加入させ、それが決定的な転機になった。昔のグレン・ミラーのグループを模したオクターブ・ユニゾンのボイシングのおかげで、完璧にユニークなクインテットのハーモニーを手中に収めたのだった。その頃、シアリングが会得していた「ロック・ハンド」といわれるブロックコードで、ギター+ヴァイブラフォンのラインを肉付けした。そのピアノスタイルの元祖はデトロイト出身のミルト・バックナーだが、シアリングは、もっと完璧な和声感覚で、コードを驚異的なスピードで変化させ、自分のアドリブの番になると、更に聴衆を驚嘆させてみせた。一方、ナット・キング・コールもまたブロック・コードで大成功を収めたが、キング・コールの場合は非常に繊細で、スイング感のある使い方だった。

NY、「ダウンタウン・カフェソサエティ」とシカゴ、「ザ・ブルーノート」のギグを皮切りに。グループはNYの高級クラブ、「ジ・エンバーズ」と当時のジャズのメッカ、「バードランド」に出演。成功は目前であった。

そしてMGMが”9月の雨”を録音、1949年2月に発売するや否や、シアリング・クインテットは全国的な名声を掴んだ。それは驚異的なヒットだった。その後はジャ
ズ史と商業音楽史そのものである。引き続き多くのヒット曲が生まれたが、それらは皆同様のアレンジの方程式を使っており根本的には同じサウンドであった。アレンジは元々シアリングとマージョリー・ハイアムスとで分担していた。ハイアムスは素晴らしいバイブ演奏家でもあり、優美で堂々とした存在感を印象付けた。ジャズのバンドスタンドに女性がほとんど居なかった時代のことである。(例外はメアリー・ルー・ウィリアムズと、マリアン.マクパートランドだけである。)

このグループのユニークなアイデンティティは以後29年間持続する。そして先のNYタイムスの記事でシアリングが語っている様に「最後の5年間、僕は自動操縦状態でプレイしていた。寝ながらでも、ショウを最初から最後まで通して演ることができた。」という状況に陥る。

1978年、クインテットは解散、以来シアリングは、主にカナダ人のドン・トンプスンやニール・スウェインスン達、トップの技量を持つベーシストとデュオで活動してきた。また交響楽団とモーツアルトで共演したり、メル・トーメや、カーメン・マックレー、ジム・ホールなど彼のお気に入りのアーティストとの共演など様々に活動の範囲を拡大してきた。それ以外にNYのラジオ局WNEWでDJを勤め、ワークショップで教えたりしている。

1949年~1978年、クインテットは度重なるパーソネルの交替を行ったが、このグループを出発点としてメジャーに成ったアーティストは極めて多い。幾人か名前を挙げると、ヴァイブではゲイリー・バートン、カル・ジェイダー、ギターではトゥーツ・シールマンス、ジョー・パス、リズムセクションでも、デンジル(ベスト)以外にベストなプレイヤーが居る。時代の移り変わりに従って、アル・マッキボン(b)、イスラエル・クロスビー(b)、バーネル・フォーニエ(ds)達が、グループのサウンドにきらめきを与えた。クロスビーとフォーニエは、アーマッド・ジャマール(p)トリオの成功にも、大きな役割を占めている。

1954年になるとシアリングは、コンガ奏者、アルマンド・ペラーツァをグループに加入、ラテンリズムを徐々に導入することで、グループはしばしば、純正のアフロキューバン・バンドのようにサウンドした。特にシアリングは、アフロ・キューバンのイディオムを完璧にマスターしていた。

また、シアリングは、ピアノ同様、創造性に溢れた卓抜な作曲家であることを証明している。”バードランドの子守歌”、そのクラブに出演したアーティストにとって、礼儀上、不可欠な演奏曲目と成っただけではなく、いつの時代でも最も頻繁に演奏される、実り多いジャズスタンダードとなった。他にも”コンセプション”のような複雑なビバップのメロディ(バド・パウエルの愛奏曲であった)や、彼のもっとも人気を博したイージーリスニング・アルバムのタイトル曲で、コマーシャルなボレロ風の作品”ブラック・サテン”なども作曲している。

シアリングのクインテットが、よりコマーシャルなサウンドに変化すると、『政治的正当性』を重んじる派閥のジャズ・ジャーナリズムの態度はシアリングの才能に対して冷淡に成った。「コマーシャル」ということで、こっぴどく叩かれたのである。ルイ・アームストロングやデューク・エリントンでさえもが、ショウビジネスの現実にへつらったといって、不興を買ったのあるから、シアリングは純粋主義者の魔女狩りに合った最初の一流ジャズ・アーティストではない。

’50年~’60年代の評論家連中は、ジャズに生きながら、余りにも経済的に成功することに我慢がならなかった。アーティストは成功すればするほど、コマーシャルになったと非難されたのだ。

耳に聞こえたものは、殆ど何でも全て自分で演奏してみせてしまうシアリングの能力は、逆に彼自身の真の創造性をわかりにくくしてしまう傾向があった。仲間を形容する為に、良い耳でミュージシャンのフレイズを借用して、彼らを描写するジョージにはどんなに細かい微妙な音でも聞き分けることができた。

だが彼が、ジャズやそれ以外のどんなスタイルでも真似できるから、「何でも屋」というわけでは決してない。むしろ多国語を流暢に話すことのできる人のようなもので、言葉の代わりに、スイング、ビバップ、ラテン、クラシックを問わず、彼の想像力を刺激するものなら何でも、自分のピアノの鍵盤にも譜面の上にでもいとも容易に写し取ることができるのだ。

勿論、彼の作曲は、目の見える筆記者に書き取られることが多い。批判的な評論とは逆に、口述筆記されるということに関する贅沢な悩みを、アンサンブルのサウンドに投射してみせるのは、むしろポジティブなことだ。結局のところ、そのクインテットは、ジャズ界にも、一般大衆にとっても、大いなるレコードの遺産をもたらしたのだった。

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ビジネスの成功と真の評価、その間の葛藤を露ほども見せず、至芸を磨いたジョージ・シアリング、あなたはどの時期のシアリングがお好きですか?日曜日にゆっくり鑑賞してくださいね!

楽しいジャズ講座、ぜひお待ちしています!

CU

OverSeas2月のイベント

 阪神・淡路大震災から18年、あの時、OverSeasのあったビルは2階から上の窓ガラスが粉々になり、それでもランチを作って昼過ぎまで営業したのが昨日のことのようです。

 今週の月曜お昼に開催した「楽しいジャズの歴史」、新たにジャズを聴いて行こうという新しい仲間も増え、文字通り楽しい集いになりました。

 来月の休日にも、2つの講座を開催します。ご興味のある方はぜひお越しになってください!

その①:【日時】2月3日(日) 正午~2pm
テーマ:George Shearing pianist

【受講料】2,100yen

 

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  ジョージ・シアリング(1919-2011)といえば、「バードランドの子守唄」や、ヴァイブやギターで繰り出す、いわゆるシアリング・サウンドのイメージが強いかもしれません。

 

 でも、ジョージ・シアリングの本当の魅力は、そこだけにとどまりません。最高のテクニックと完璧なタッチを持つヴァーチュオーゾ!パーカッシブにガンガン弾けばダイナミックな演奏ができると信じている方は、ぜひ映像と音楽を体感してみてください。ピアノを「弾く」ということの本当の意味が実感できると思います。

 同時にシアリングは“Play”という言葉の意味を知っている人でもあります。生来の音楽的センスの良さと、ボーダーレスにどんな音楽でも、自分の栄養として取り込んでしまうモダンアートのようなコラージュ、例えば、ベートーベンのピアノソナタ14番「月光」からコール・ポーターの「Night and Day」に入っていくアレンジも、シアリングが演ると、200年以上の年月を一緒にタイムスリップしているような不思議に自然な高揚感を味わうことができます。

  ロンドンの下町生まれ、パブのピアニストとして出発したシアリングは、ラジオで人気を博します。第二次大戦後渡米、サラ・ヴォーンの対バンとしてスタートしてから、たちまち人気者になり、「バードランドの子守唄」や「9月の雨」で破格のギャラを稼ぐスター・ピアニストとなりました。そのため、同世代の黒人ミュージシャンの中には反感を持つ人も多かったようです。でも、トミー・フラナガンはシアリングが大好き、寺井尚之に聞かせたいピアニストの一人でした。

 生来盲目だったシアリングは、生涯「色」というものを知らずに過ごしましたが、彼のサウンドのカラーパレットは無限!ぜひ2月3日(日)に一緒に観ましょう、聴きましょう!

 

その②:【日時】2月11日(月、祝)   正午~  

テーマ:Billie Holiday singer

【受講料】2,100yen

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   ビリー・ホリディ(1915- 1959)は、このブログの「対訳ノート」にも頻繁に登場してきました。とにかく、トミー・フラナガンを始め、多くのミュージシャンに大きな影響を与えた歌手です。「スキャットをしないからジャズ・シンガーでない」というような文章を読んだことがありますが、この講座に来れば、真実が明らかに!

 売春、暴力、刑務所、麻薬、彼女を食い物にする男たち、彼女の人生には、スターにつきものの、ありとあらゆる不幸な出来事に溢れています。

 南部で頻発していた黒人に対するリンチに抗議した「奇妙な果実」を歌ったことから、ビリー・ホリディの名声は更に大きなものになりましたが、麻薬癖を摘発され、キャバレーカードを剥奪されNYのクラブ出演ができなくなったのはのは、当局の見せしめ的な所為があったのかもしれません。

 そんなビリー・ホリディの人生よりも大きなドラマは彼女の歌唱の中にあります。

 今回は、数多くあるレコードの中から、ホリデイ・マニアを自認する寺井尚之が選りすぐりの歌唱をセレクトして、歌詞対訳を観ながら解説していきます。

 ビリー・ホリディって名歌手と言われてるけど、イマイチピンと来ないな~ そう思っている方にこそ参加していただきたい講座です。

 2月の休日は、ぜひOverSeasで! 関連サイトはこちらです。