9/14(日)エコーズ・リユニオン開催します!

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 寺井尚之と鷲見和広(b)のデュオ・チーム、”エコーズ”は1990年結成、以来、サー・ローランド・ハナ(p)+ジョージ・ムラーツ(b)の名コンビを模範にしながら、ユニークなプレイを長年展開しました。

 鷲見和広の超絶テクニックを、とぼけた顔でかわす寺井尚之の関係は、漫才で言うならば、ツッコミとボケで、二人の織りなす音のダイアローグはお客様がお腹を抱えて笑うほど面白かった!

 なかなかライブで聴けないサー・ローランド・ハナやジョージ・ムラーツのオリジナルや、ハナ+ムラーツの名盤『ポーギー&ベス』の中の名曲、ベルリンからOverSeasに飛んできてくれて鷲見和広(b)と演奏してくれたウォルター・ノリスさんが書き下ろしてくれた曲・・・レパートリーもユニークなものでした。

echoes.jpg 或る夜、名ベーシスト、アール・メイが、このデュオを聴きに来てくれて二人に言った。

「君たちの音楽は素晴らしい。レコーディングしなさい。いつまでもこんな演奏ができるとは限らないんだ。だから絶対にレコーディングしておくべきだよ。」

 それで出来たCDが『Echoes of OverSeas』(2002年)、この10年後、アール・メイの言ったとおり、『エコーズ』は活動を休止。
 でも、「また聴きたいなあ…」というご要望と、「また演りたいなあ・・・」という想いで、一晩のリユニオンをいたします!

初秋の日曜日、『エコーズ』はどんな会話を聴かせてくれるのでしょう?

拍手を沢山いただけばいただくほど、想造力が豊かになる、大阪弁で言うといちびりな『エコーズ』!どうぞ皆様、お越しください!

Echoes Reunion! 

寺井尚之 Hisayuki Terai (p) 鷲見和広 Kazuhiro Sumi (b)

日時:9月14日(日)7pm-/8pm-/9pm-

Live Charge: 2,000yen(税抜)

ブッチ・ウォーレン:漂泊のベーシスト(後編)

butch-warren.jpgPHO-10Apr08-216628.jpg 1960年代、ケニー・ド-ハム・クインテットでNYデビューを果たし、その後、無二の親友となったソニー・クラークの推薦でブルーノートのハウス・ベーシストとして数々の名盤に参加したブッチ・ウォーレンはヘロインの過剰摂取によるクラークの死にパニックとなり、自らのドラッグ癖と相乗し、精神に破綻を来たしました。時代の寵児として脚光を浴びたセロニアス・モンク・カルテットを退団後、ブッチの父親が彼をワシントンD.Cに連れ帰り、聖エリザベス病院に入院。ピアニストとして地元で有名でありながら、家族のために正業を優先させた父、エディ・ウォーレンは手塩にかけた一人息子の世界的な活躍を、どれほど誇らしく思ったことでしょう。それが僅か数年で「妄想型統合失調症」になってしまった・・・両親の辛さは想像に余りあります。

 ブッチは電気ショックや投薬など、様々な治療で約一年間入院、仲間のミュージシャン達に励まされ、退院後は投薬治療で精神状態を保ちながら演奏活動を再開、アダムスモーガン地区の《カフェ・ロートレック》など、地元のレストランやバーで活動、地元TV番組に演奏者として出演する順調な仕事ぶりで、2度目の結婚もしました。ところが浮き沈みの激しい音楽の世界で精神疾患を抱えるブッチは投薬を嫌い、時として精神に変調をきたします。1970年が近づくと、夜中に一人徘徊する彼の姿がたびたび目撃されるようになります。バンドスタンドでうずくまって涎をたらすというようなトラブルをたびたび起こします。彼を支援するミュージシャン達の忍耐も限界となり仕事を減らしていきました。一旦演奏を始めると、プレイはちっとも錆びついてはいなかったと言うものの、 ジャズを置き去りにする時代の流れの中、ラジオやテレビの修理や掃除夫をしながら、ジャズシーンから彼の姿は再び消えていきました。

 この頃、ブッチのために懸命に仕事を回していた地元のピアニスト、ピーター・エデルマンはこんな風に証言しています。

「私が薬をきちんと飲むか、仕事をやめるかだ。」とブッチに詰問すると、逆に「俺には気が狂う権利すらないのか!」と激高した。

「ブッチは自分の身の周りのことも満足にできないが、しかしプレイは常に確かだった。」

<ホームレスから再び病院へ>

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 2004年頃、ブッチはホームレスになります。シルヴァー・スプリングの低所得高齢者住宅で、夜中に友人と大騒ぎするために、近隣住人から苦情を申し立てられて退去させられた。ベースやジーンズ姿のミュージシャンの中でオーラを放つシックなスーツも失って路上生活、真冬に近隣の商店に忍び込んだとして不法侵入の罪で逮捕。それからは、ホームレスのシェルターや、メリーランド州の更生施設などを転々とし、再び流れ着いた場所は古巣から80キロ以上離れたメリーランド州のスプリングフィールド総合病院の精神病棟だった。一般人の近づきたくない場所であっても、ブッチにとっては屋根もあるしベッドもあり鍵までかかった静寂な安全地帯。それまでの人生で一番安心できる棲家だったそうです。彼は病院で皆に”エド”と呼ばれていた。歯が抜け落ち、ところかまわずひどい咳を撒き散らす、実年齢(65才)よりずっと老けて見える老いぼれ爺さんの正体を知る者は誰もいない。来る日も来る日も虚ろな目つき、楽しみは次の食事と、誰彼なしにせびって、たまにもらえる一服の煙草だけ。エドが他の患者と違うのは、遊戯室のピアノを弾かせて欲しいとしつこく頼むことだけだった。

 或る日、病院のスタッフが面白半分に彼の本名をGoogleしてみた。するとびっくり仰天!ブルーノート・レコードのサイトを始め、数千件がヒット、画像を観るとどうやら間違いないらしい…

「あの歯抜け爺さん、ブッチ・ウォーレンという有名なジャズマンなんだってさ!」

 精神病棟のエドの話は病院中に知れ渡り、彼が遊戯室のピアノを弾くとなると、見物人で一杯になっちゃった!往年の名ベーシストが精神病院にいるという噂はたちまち広がって、スタッフがグーグルしてから僅か数週間、2006年5月21日付けのワシントン・ポストに「ある男と音楽の間に流れる数十年間の不協和音」と題する記事まで掲載された。

<義を見てせざるは…>

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 ワシントンDC在住の一人のドラマーが、この記事を読んで大いに感銘を受けます。DCのロックやブルーズの世界で活躍するアントワーヌ・サフエンテスなる紳士。スクエアな見かけと裏腹に、CD録音経験も豊富で、大のジャズファンでもあったこのセミプロ・ドラマーの本業は、三大ネットワークの一つNBC報道局のワシントンDC支局長、エミー賞まで受賞した敏腕ジャーナリストでした。サフエンテスは一時的美談として取り上げるだけのマスコミとしてでなく、同胞ミュージシャンとして彼に支援の手を差し伸べます。ブッチがカムバックして独り立ちできるように、痒いところに手の届くような活動を展開します。支援を募りベースを調達、ブッチを退院に導きました。同時に過去の印税が支払われるように法的な手続きをし、自局で彼の数奇な人生を紹介した。さらにライブやCDをプロデュース、ニュース番組をやってる著名ジャーナリストが後ろ盾なら、出演を断る店があるわけない。さらにはイラク戦争報道時に身につけたカメラの腕でブッチを撮影、味わいのあるポートレートを販売、 全てが義援金として彼に支払われるようにしてあげた。その活動の一部はHPツイッターFBで確認出来ます。

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 ブッチ・ウォーレンは、思いがけない劇的カムバックの時期に肺ガンの宣告を受けながらも、最晩年まで現役で演奏を続け、2013年10月5日、74才で波瀾万丈の一生を終えました。

 ブッチ・ウォーレンを支援したのは、サフエンテスを始め、往年の彼のプレイに感銘を受けた人々ばかり、彼らの動機の源は、何と言ってもブルーノートのアルバム群で、それがなければブッチ・ウォーレンは人知れず無縁の墓地に埋葬されていたかもしれません。 ブッチが心身を病み、流転の人生を送ったきっかけが親友ソニー・クラークの死であり、ブッチを救済することになったブルーノート作品群へのきっかけもやはりソニー・クラークであったとは…人間の運命とはほんとうに不思議なものです。

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 晩年のブッチ・ウォーレンのミニ・ドキュメンタリーは今もネットで観ることが出来て、セロニアス・モンク4への参加がサム・ジョーンズ(b)によってもたらされたことや、ドラッグのこと、今の楽器も自分のプレイにも不満なこと、NY時代のことなどを独白している。なによりも、彼のベースが、私達に沢山のことを語りかけてくれています。

 サフエンテス氏が制作したブッチの遺作も、HP上で自由に聴くことができます。

「うまくなるには練習だ、練習しなけりゃ。そしてすべての音符が聴けるようにせにゃならん。俺はエリントン楽団のベーシスト、ビリー・テイラーに教わったんだ。全てはメロディーに尽きる。メロディーを聴け!そしてベース音をはめて行けってな・・・」ブッチ・ウォーレン(1939-2013)

参考サイト:

ブッチ・ウォーレン:漂泊のベーシスト(前編)

 「我々の生活は非常に厳しい。バーやクラブを仕事場としているから、常にアルコールやドラッグの危険にさらされる。アーティストとして音楽や人間の本質の探求に熱中すると、一時的に意識を変えてくれる酒やドラッグに溺れて、思わぬ落とし穴にはまる。」ソニー・ロリンズ

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 先週のジャズ講座:「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」は歴代のレクチャーの内でもベスト10に入るものでした。フラナガンが激烈な敬愛の情をプレイの中に刻印した『Coleman Hawkins All Stars (Swingville)』に続いて鑑賞したケニー・ド-ハムの名盤、『The Kenny Dorham Memorial Album (Xanadu 125)』はレギュラー・バンド中、ピアノのみスティーブ・キューンに変わってフラナガンが補強に起用されたセッション。作編曲家としても優れた才能を持つKDの「ひねりの効いた構成」を「ごく自然に心地良く」聴かせるレギュラー・バンドのならでは息!例えば”Stage West”はブルースですが、テーマとインタールードを併せ6つのブルース・パターンが万華鏡のように有機的に広がる構成。山あり谷ありの枠組みに縛らるどころか、各人のプレイはその枠があるから、一層自由闊達に流れを変える!これぞハードバップの醍醐味!構成表を見れるから、プレイの面白さのツボをしっかり実感できて楽しかった!
 このクインテットのベーシストが若干20才のブッチ・ウォーレン、ドラムのアーノルド”バディ”エンロウと一糸乱れぬ歩調、ピチカートから弓へ、弓からピチカートへ、間髪入れず移行するテクニックとビートが凄かった!講座で寺井尚之はつぶやいた。「このまま行ったらポール・チェンバースを越えてたんちゃうか…」
 ところが、この4年後、ウォーレンの柔軟なビートはNYジャズ・シーンから完全に消滅していた。

 
<早熟のベーシスト>

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Edward “Butch” Warren (1939-2013)

 エドワード”ブッチ”ウォーレンはワシントンD.C生まれ。母親はタイピスト、父親は電気技師で比較的裕福な黒人家庭の一人っ子だった。父は仕事の傍ら、夜はピアニストとして活動し、自宅にミュージシャン達を快く招いた。幼いブッチはそんな家庭でミュージシャン仲間のセッションを聴きながら育った。家に出入りしていたのはジミー・スミス(org)、スタッフ・スミス(vln)、少年時代のビリー・ハート(ds)、定期的に楽旅でやって来る一流バンドの面々も居た。ある時、デューク・エリントン楽団のビリー・テイラーというベーシストが事情があって自分の楽器をウォーレン家に置いて行っちゃった。その大きな楽器の松脂の香りや魅力的な曲線が大好きになったブッチはナショナル・シンフォニーのコントラバス奏者についてクラシックのレッスンを始めます。最初のアイドルはもう一人のエリントニアン、ジミー・ブラントンで弓とピチカートの大きな美しい音の虜になりました。彼の通う学校は荒れていて喧嘩ばかり、ゆっくり勉強なんかしていられない。音楽の才能に恵まれた子どもにとって「ジャズはサバイバル・ツールだった。」と後年彼は語っている。

 14才で父親のバンドでプロ・デビューして以来、未成年ながら地元ワシントンDCのジャズ・シーンで活躍します。

<ケニー・ド-ハムに誘われて>

4129332634_afbe74bf1a_z.jpg ブッチ・ウォーレンが19才になったとき、早くもチャンスが巡ってきました。メリーランド州に近いワシントンD.C.の北西部で現在も盛業中のジャズ・クラブ《Bohemian Caverns》にケニー・ド-ハムのバンドが来演した時のことです。ベーシストが楽器を置いたまま蒸発し、本番の時刻になっても姿を見せません。その場に居たブッチが急遽代役を買って出ることになりました。演奏が終わってからKDはブッチにこう言った。
「自分でやって行けると思うならNYに出てこいよ。自信がなければ来ない方がいい。」
 まあ、NYでやっていくのは楽じゃないぞ、自己責任だぞ、ということをKDは言いたかったのかもしれません。
 それからしばらくして、正式にKDからNYで共演したいという手紙が届き、ブッチはすぐさまNYへ。ブルックリンの《Turbo Village》というクラブに6ヶ月間出演しました。『The Kenny Dorham Memorial Album 』は丁度この時期に録音されたものですから、レギュラー・バンドとしての旬な演奏内容になっているんですね!出演クラブに因んだ”Turbo”という曲がアルバムのラスト・チューンになっています。
 ブッチは後年のインタビューでこの当時を回想していますが、レギュラーの仕事があったにもかかわらず、その日暮らしの生活で、「イタリア人街に住んでいたけどピッツァを買う金もなかった。」と語っている。金欠だったということは、この頃すでにドラッグに染まっていたのかもしれません。

<ハロウィン・パーティはたくさんだ!>

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 NYの暮らしは楽じゃなかったけど結婚をして家庭を持ち、友達は出来た。一番の親友はピアニストのソニー・クラーク。KDと共演した翌年、クラークが『Leapin’ and Lopin’』(’61)の録音に彼を推薦したのがきっかけで、アルフレッド・ライオンはBLUENOTEのハウス・ベーシストにブッチ・ウォーレンを起用、以来、KDとのリユニオンとなる『Page One』(’63)、デクスター・ゴードン(ts)の『GO!』(’62)など、ハードバップ期を代表する多くの名盤に少しソウルフルになったブッチのクリアで柔軟なビートが光っています。『Leapin’ and Lopin’』では、よちよち歩きできるようになった幼い息子への愛が溢れた”Eric Walks”を収録するほどの優しい父親でしたが、その陰に抱え込んだドラッグの悩みは、どんどん深刻になっていきました。少年時代、「サバイバル・ツール」として強い味方であったはずのジャズが今では家庭や自分自身までを破滅させようとしていました。

 Leapin'_and_Lopin'.jpeg彼が恐れる死神の刃は、まず親友を奪った。’63年1月、無二の親友ソニー・クラークがヘロインの過剰摂取で死亡。場末の”シューティング・ギャラリー”と呼ばれるジャンキーの巣窟での哀れな最後でした。アルフレッド・ライオンに事件を知らされたブッチは妻子を車に待たせて、NYベルヴュー病院の死体安置所に並ぶクラークを確認します。31才のハードバッパーの死に顔は、そのまま自分の未来でもありました。葬式代もないクラークの末路を不憫に思ったパノニカ男爵夫人が葬儀の費用を肩代わりしてくれましたが、そこに送られてきたのはブッチが確認した遺体とは似ても似つかぬ別人のものだった。黒人ジャンキーの死体に、当局が敬意を払うはずもなかったんです。・・・ブッチはこの事件にひどいショックを受け、薬物依存症と相まって、精神は徐々に壊れて行きます。

thelonious-monk-its-monks-time-1964-front-cover-47351.jpg この春、ブッチは時代の寵児、セロニアス・モンクのカルテットに入団、チャーリー・ラウズ(ts)、フランキー・ダンロップと共に世界でひっぱりだこになります。パリ公演や日本公演、ニューポート・ジャズフェスティバル!意気揚々の若手ベーシストであるはずが、日々多忙な楽旅がクスリなしでは耐え難いものだったのか、彼の精神はボロボロになり被害妄想を思わせる状態に陥っていました。

同年の夏、「 こんなバンド、クスリなしでやってられるかい!もうハロウィン・パーティはまっぴらだ!」と捨て台詞を吐き退団。”ハロウィン・パーティ”というのはジャンキーのたまり場を指す隠語で、辞めた後に、ハロウィンのお菓子をモンクに送りつけるという念の入れ方でした。

 
 退団後ブッチはNYを去り、故郷のワシントンDCに舞い戻りました。初冬のワシントンで彼が観たものは、暗殺されたケネディ大統領の葬列でした。

「僕の周りの人間は皆死んでいく、僕もいつか同じ目に遭うんだ!」絶望と混乱に耐え切れず、ブッチは自ら精神病院の扉を叩き、要塞のように堅牢な聖エリザベス精神病院に入院、病名は「妄想型統合失調症」でした。この精神病棟で約一年間、ショック療法や投薬治療などを施されます。

 ブッチ・ウォーレンの残された人生は「カッコーの巣の上で」のような生きる屍だったのでしょうか?(次号に続く)

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When Tommy met Hawk: 『Coleman Hawkins All Stars』

Coleman+Hawkins+-+Coleman+Hawkins+All+Stars+-+LP+RECORD-361107.jpg  今月の「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」に、テナーの巨人、コールマン・ホーキンスとの記念すべき初共演『Coleman Hawkins All Stars』が登場!ホーキンスはフラナガンにとって、数多くの巨匠の内でも最高に敬愛した親分です。

 昨年のフラナガンの誕生日にテッド・パンケンというジャズ・ジャーナリストが、彼のブログ“Today is the Question “に一挙UPしたフラナガン・インタビューで、このセッションが二人のレギュラー活動を決定づける契機になったことが判明!プレスティッジ得意の1テイク録りセッション、そこに今までの叡智を注ぎ込んだフラナガンの入魂のプレイ、ホークのサウンドに心と耳を傾けたバッキングと、清流の鮎のようなソロ!フラナガンのミュージシャン魂ここにあり!演奏中の心の機微、寺井尚之の迫真の解説に私も期待!

 このインタビューは、1994年に、NYのFM局”WKCR”で放送されたもので、フラナガンはパンケンさんを信頼しているようで、デトロイト時代からNYに出てからの数々のエピソードをフラナガン独特の語法で楽しそうに話しています。そこにはフラナガンならではの切り口が光っていて、数あるインタビューの内でも三本の指に入るかもしれません。そこにあった発言を引用しながら、フラナガンが観たコールマン・ホーキンスの言を書いてみます。

<マッチメイカーはマイルズだった>

 ホーキンスはサー・ローランド・ハナからジョー・ザヴィヌルまで、多数のピアニストやミュージシャン達に慕われた。とりわけフラナガンはホークに心酔し、レギュラーを去った後、ホーキンスがアルコールで体調を崩し引退状態になった時にも支援したらしい。

 上のアルバム『Coleman Hawkins All Stars』(’60)の録音時、ホーク55才、フラナガン30才、ジャズ史的には数世代の隔たりがある二人の出会いをもたらしたのはマイルズ・デイヴィスだった。意外!だってフラナガンは、デトロイト時代からマイルズと交流があったものの『Collector’s Item』中のセッション(’56)で、マイルズにブロック・コードを弾けという命令に従わず、それ以来レコーディングで使われることもなかったのですからね…。

 パンケンのインタビューでフラナガンはコールマンについて次のように語っている。

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 TF:  コールマン・ホーキンスとの出会いは、《バードランド》だった。実はそこに居たマイルズ・デイヴィスが僕を紹介してくれたんだ。マイルズは人を結びつける達人だ!「コールマン、トミー・フラナガンを知っているかい?」と水を向けてくれたんだよ。

コールマンは「Yeah、もちろん知ってるさ!」と言ってくれたから嬉しかったね。でも本当は一度も会ったことがなかったんだ。一体どこで僕の演奏を聴いてくれたんだろう?彼がデトロイト出身のピアニストが好きなことは知っていたけどね。ベテランの巨匠で、初めて一緒にレコーディングしたのがコールマンで、その時の僕のプレイを大いに気に入ってくれたんだ。

 *これが『Coleman Hawkins All Stars』!マイルズって思った以上にいい人ですね。

<レギュラーバンドの結束>

 だって、僕はコールマンのレパートリーをよく知っていたもの。生まれてこのかた僕は彼のレコードをずうっと聴きこんでいたんだから当たり前さ!このレコーディングの後、コールマンはロイ・エルドリッジと一緒に出演していた7thアヴェニューの《メトロポール》で僕を使ってくれた。それからツアーにも同行した。ノーマン・グランツの初期JATPで6週間の英国ツアーだった。リズムセクションは僕とメジャー・ホリー(b)、エディ・ロック(ds)、その間に、この小さなバンドはとてもタイトなサウンドになった。

 *『Coleman Hawkins All Stars』のセッションは1960年1月で、英国楽旅は同年の11月から年末まで行われていました。下の写真がホーク親分とフラナガン、ホリー、ロックの腹心の子分たち。

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 コールマン・ホーキンスのミュージッシャンシップには感服するのみだ。彼は音楽に関するありとあらゆることを知る生き字引だ。やることなす事、彼の全てがすごかった。僕達は市販のシートミュージックを渡されてそれをレコーディングする、という仕事をよくやったんだけど、彼はどんなクレフのついた譜面でも即座に読んで、スコアにある情報を完璧に収集し、どんな曲も初見の1テイクで演ってのけた。
 *『Moodsville』の名盤はほとんどそういう録音だったというから恐ろしい…

 沢山の録音経験を重ねてわかったことだが、録音の際、完璧に準備した上で演るというテナー奏者がいる。そういうテナー奏者は、往々にして、1テイク以上録音しようとしない。コールマン・ホーキンスもそういう人種だ。あの有名な “Body and Soul.” もそういう録音で、恐らくは1テイクだ。二度とは出来ない、そういうプレイだ。

TP(テッド・パンケン): でも、彼はあなたともしょっちゅう”Body and Soul”を演ってたんでしょう?
TF: Yeah,
TP: それで毎晩演奏内容が変わるんですか?違うプレイを演るというんですか?
TF: もちろん!
TP: 本当に?毎晩、全てが変わるんですか?
TF: ほとんど変わらないのはエンディング・コーダだけだったよ。 (歌ってみせる)つまり、ラストは曲とは別もの だからね。まあ、どえらいミュージシャンだった!

 それに彼は若いミュージシャンに対してとてもオープンだった。彼は、誰よりも早く、モンクこそが聴く価値があり学ぶべき音楽家だと看破した。モンクがすごいということを皆に伝えて注目させた最初の人だ。 僕はコールマン・ホーキンスのそういうところが大好きなんだ。彼がそうしてくれなかったら、モンクはあそこまで大きく成れなかっただろう。勿論、ディジー・ガレスピー、ファッツ・ナヴァロ、マイルズ・デイヴィス達、若手達と交流し、彼らの音楽を紹介した。

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  一方、オフステージでは人間としての模範だった。酒のたしなみ方、洋服の着こなし、全てを教えてもらった。彼の酒の趣味は最高だったし、酒を飲んで、酒に呑まれない方法は彼から学んだ。教えてくれた。音楽的にも、人間的にも、ほんとうに素晴らしい人だったよ!

 明治生まれの巨匠、コールマン・ホーキンス再発見!ホークの人間として素晴らしいところ、ビッグなプレイはこれから「新トミー・フラナガンの足跡を辿る」にどんどん登場します。