12月6日(土)林宏樹(ds)リターンズ!

 

 来る12月6日(土)、東海のバディ・リッチこと、三重を拠点に全国をジャズ行脚する人気ドラマー林宏樹(ds)さんが、寺井尚之とリユニオン・セッションで来演します!

 関西大学時代から寺井尚之が熱い信頼を寄せるドラマー、地元では、絶大な人気を誇り大きなライブ・ハウスを満員御礼にする実力者。

 今年はNYから田井中福司さん、サンフランシスコからアキラ・タナさんと、OverSeasライブはドラムの当たり年を締めくくる楽しいライブになりそうです。

 皆様のお越しをお待ちしています。 

<林宏樹(ds)リターンズ!>

日時:12月6日(土) 
   7pm-/8pm-/9pm (入替なし) 

メンバー:林宏樹(ds)
   寺井尚之(p)
   宮本在浩(b)

Live Charge¥ 2500

第25回トリビュート・コンサートにありがとうございました。

1115mcP1080693.JPG 11/15(土)、第25回となるトミー・フラナガン追悼コンサート(Tribute to Tommy Flanagan)を無事開催することが出来ました。

25thflowers.jpg 生前のトミー・フラナガンとOverSeasで親交を重ねた長年の常連様から、フラナガンの音楽は初めてという若者まで沢山OverSeasに集まって、寺井尚之(p)、宮本在浩(b)、菅一平(ds)によるThe Mainstemの演奏でフラナガンの演目を一緒に楽しみました。

 常連様達が旧交を温めるのを眺めるのも楽しいし、トリビュートめがけてはるばる来てくださるお客様にご挨拶するのも、このコンサートならではの楽しみです。いつも多忙な中時間を繰り合わせて駆けつけてくださってありがとうございます。激励メッセージや色々お供えも!

演奏後も嬉しい感想のメール一杯、本当にありがとうございます。まだ全部にお返事できていないこと、どうぞお許し下さい。

1115P1080689.JPG寺井尚之The Mainstemは、今回もすごい熱演を聴かせてくれました。

 寺井は45日間毎日6時間練習したせいで、また歯が取れちゃった!と威張っているけど、全ては師匠への愛のため、何より自分が練習大好きなんだから当然。それより私はザイコウ、イッペイのリズムチームが、親子ほど年の違うピアニストを全身全霊で盛り立てる演奏ぶりに感動しました。

 そしてもうひとつ、寺井を盛り立てたのがピアノの鳴り!トリビュートのピアノの鳴りは調律師の川端さんが怖がるほど非現実的な美しい音色で、OverSeasの容れ物と一緒に鳴る感じがライブならではの快感です。ご参加くださった皆さんの体も一緒に共鳴していたのかもしれません。

 この夜聴いた曲目は、サド・ジョーンズの名作やビリー・ホリディゆかりの愛の曲、そしておなじみエリントニアなどなど、どれもこれも、私にとってはフラナガンの思い出が一杯で、胸が一杯になりました。このところ、色んな御縁があって、デトロイト以外のジャズシーンのリサーチをする機会を頂いたのですが、勉強していくうちに、サド・ジョーンズとフラナガンが切磋琢磨した《ブルーバード・イン》というジャズ・クラブは、黒人のトップ・ミュージシャンが、黒人居住区にある演奏場所で、地元の黒人のお客様の前で、最高に洗練されたブラックミュージックを聴かせていた。それは本当に稀有なことで、全米を探しまわっても本当に特別な場所だったということを改めて感じました。

 応援してくださる皆様への感謝の気持ちを込めて、今回の曲説をHPに書いたところです。ご興味があれば覗いてみてください。トリビュートで演る曲は数十曲に限られているのですが、回を重ねるたびに新しい発見があるのは、きっとトミー・フラナガンのお導きなのかも知れません。 http://jazzclub-overseas.com/tribute_tommy_flanagan/tunes2014nov.html

 ダイアナ・フラナガンもお越しくださった皆様に心より感謝しますとのことです。

  次回は来年3月、フラナガンの誕生月に再びトリビュート・コンサートを開催します。どうぞ宜しくお願い申し上げます。

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トリビュート・コンサート前に読むT.フラナガン・インタビュー(2)

〔思慮深い会話の達人〕

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 (前回より続き)  フラナガンは整った顔立ちの威厳ある風貌だが、ここ数年前から体重が落ち、華奢な体躯を包む洋服がダブついている。無愛想だが、瞳は暖かで、優しい微笑みを見せる。フラナガンは大きく丸い眼鏡をかけている。若い時から禿げているけれど、耳の後ろに少し白髪が残り、白く豊かな口ひげはえくぼをほとんど覆い隠している。
 フラナガンは「急ぐ」という事をしない、話す時は特にそうだ。彼はヴァンガードのステージから筆者のインタビューを受けている。しかし答えが出てくるまで、彼の視線は質問者から遥か遠く宙を漂い、果てしない沈黙が流れる。だが一旦気が向くと、ドライマティーニの様なピリっとした辛口のウイットで素早く会話を進める。

 “トミーは余りおしゃべりではないけれど、本当のことしか言わない。”: ピアニスト、マイケル・ワイス

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 フラナガンは1950年代からマンハッタンのアッパーウエストサイドに住み、ここ25年程は82丁目で、妻ダイアナと暮らす。彼女とは1976年に結婚した。溌剌とした女性である。フラナガンはその前に1度結婚歴があり、前妻との間に3人の子供をもうけ6人の孫がいる。

 アパートは趣味の良い造作で、ダイアナの蔵書が無造作に置かれている。彼女は元歌手、大学では文学を専攻し、詩、小説、歴史、伝記、音楽に関する書物を読み漁る。ソファのある窓際と反対側になる居間の一角にはスタインウエイのグランド・ピアノが鎮座している。

 また居間にはチャーリー・パーカーやデューク・エリントンといったジャズ・ミュージシャンの写真や、絵画がそこら中に飾られている。絵画は、雑誌<ニューヨーカー>のジャズ評論家、ホイットニー・バリエットの妻、ナンシー・バリエットが書いた風景画の小品もあれば、ピアノを見下ろすように掲げられている額には、漫画家アル・ハーシュフィールドの書いたフラナガンの似顔絵 (上の写真のスタンドの上です。)が入っている。

 この日の午後、フラナガンとダイアナはソファでくつろぎながら、新刊”Before Motown”のページをむさぼるように繰っている。フラナガンは生涯の友人達で、20世紀半ばにデトロイトに出現したおびただしい数の才能あるジャズミュージシャン達の写真(バリー・ハリス、エルヴィン・ジョーンズ、今は亡きペッパー・アダムス等)を見つけては指差し、にこにこしている。

  ダイアナは当時デトロイトの街で活躍していた夫の10代の若き日の姿を見つけて高い声で叫んだ。”OH、スイートハート、あなたってすっごく可愛かったのねえ! この時代に会っててもきっと好きになっていたわ!”
 するとフラナガンは無表情にこう言った。”(フラナガンに夢中だった女の子たちの)列に並んで!

 彼は本を閉じテーブルに置いて、駆け出し時代を回想し始めた。1953年、彼は”ブルーバード・イン”の名高いハウスバンドに参加する。メンバーは、サックス奏者、ビリー・ミッチェル、トランペッター、サド・ジョーンズ、ドラマー、エルヴィン・ジョーンズであった。この”ブルーバード”で初共演したミュージシャン達の多くと、その後NYで共演することになる。

 ”あの修行時代がなかったら、今の自分はなかったろう。”フラナガンは言う。”ミュージシャンとして良い手本になるべき人が私の周りにいた。その頃はrole modelなんて言葉はなかったけれども、街に来たら私たちが必ず聴きに行くような一流ミュージシャンにひけをとらない、皆が尊敬するミュージシャン達が地元にいた。ミルト・ジャクソンや、ユセフ・ラティーフ、ラッキー・トンプソン、ワーデル・グレイといった人たちだ。”

〔デトロイトで音楽を始めた頃〕

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 フラナガンはデトロイト北東部、コナントガーデンズ地区で育った。6人兄弟の末っ子で、父は郵便配達夫だ。両親、特に母が音楽好きだった。6歳でクラリネットを始めるが、もうそれまでには、ピアノの椅子によじ登り兄のピアノレッスンの真似事をしていた。

 10歳の時、母の薦めでピアノのレッスンを受け、そのせいで現在もショパンやラヴェルを愛好している。ジャズに興味を覚えたきっかけは、兄がビリー・ホリディの新譜を家に持って帰って来たことだった。そこにはテディ・ウイルソンのピアノがフィーチュアされていた。

“ジャズとは6歳の時からの付き合いだ。”フラナガンは言う。

 そしてフラナガンはノーザン・ハイスクールに入学、ローランド・ハナとベス・ボニエ(p)がクラスメートであった。1949年、”フレイムズ・ショウ・バー”でハリー・ベラフォンテの伴奏を務めた後、ベラフォンテにNYの仕事を紹介された。しかし、母親がまだ若すぎると息子が街を離れるのを許さなかった。泣く泣くフラナガンは街に残ったのだ。

 やがて徴兵、2年間兵役に就いた。韓国駐留を言い渡された彼は一番新しい音楽を持っていこうと、スーツケースにセロニアス・モンクのSP盤(BLUENOTE)を詰め込み外地へと向かった。

 退役後の1956年初頭、とうとうフラナガンはNYに進出。音楽と家族を以外、デトロイトの思い出は楽しいことばかりではなかった。

 ”早く街を出たいとそればかり思っていた。デトロイトの単調さに嫌気がさしてきたんだ。町中を動き回る自由が制限されていた。当時の警官はひどいものだった。我々が住んでいる地区で難癖をつけてくる。私が12歳頃、ある夜印刷所の前を通った時のことだ。そこは反体制的な印刷物が見つかった場所で、私は警官に呼び止められた。警官は拳銃を抜いていた。

 私は言ってやったよ。『何をするんだ!?僕はほんの子供だぞ!』

 NYでは、とんとん拍子に素早く事が運んだ。出て来て一年経たぬうちに、《バードランド》でバド・パウエルの代役を務め、たちまちマイルス・デイヴィス、ソニー・ロリンズの両者のレコーディングに参加する。フラナガンはその頃を懐かしむ:

jack_kerouac9780141182674.jpg マイルス・デイヴィスとの初レコーディングで、このトランペッタ―はポケットから紙切れを取り出した。そこにはデイブ・ブルーベック作の<In Your Own Sweet Way>が殴り書きされていた。マイルスはフラナガンが演奏したあの有名なコード・ヴォイシングを指示したが、リズムはフラナガンのアイデアである。

 ほぼ同時期、J.Jジョンソン・クインテットで、《ヴィレッジ・ヴァンガード》にビートニック詩人ジャック・ケルロアックの朗読会とダブルビルで出演したことがあった。フラナガン、エルヴィン・ジョーンズと、大酒のみで有名なケルロアックがはしご酒をしたあげく、最後はフラナガンのアパートで飲み明かした事があったという。

 ”昼前になって、エルヴィンがケルロアックに向かって殺してやると脅かした。ケルロアックがとんでもなくひどい事をエルヴィンに言ったからだ。私も頭に来たが、エルヴィンは怒り狂っていた。”

〔気分を出してもう一度〕

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 フラナガンは話を終えて立ち上がり、ゆっくりとピアノに向かう。ピアノの脇の棚にはポピュラーソングの譜面集が積み上げられている。ピアノの上にはMJQの創設者ジョン・ルイスの作品を挟んだ紙ばさみが置いてある。3月に亡くなったジョン・ルイスは死の直前に、よかったらCDにしてほしいと自作楽譜をフラナガンに送ったのであった。

 フラナガンは謎めいたアルペジオを少し弾いてから、ジミー・マクヒューのバラード、”Where Are You?”に滑り込む。曲の裏側の鍵を開けるような、風変わりで一ひねりあるハーモニーをつけて演奏する。1コーラス目は囁くように、2コーラス目ではヴォリュームが大きくなり、対話が生まれ感情が高まる。演奏が余りに表情豊かで感動的なものだったので、私はフラナガンをピアノの前に留めておきたい一心で、すかさず”Last Night When We Were Young”をリクエストした。

 それは、ポップソングに似つかわしくない抽象的な感じの曲だ。ハロルド・アーレンのメロディとハーモニーが、風変わりなパターンに変化する。フラナガンは何年もこの曲を弾いた事がなかったので、自分の指の動きを、あたかも他のピアニストの指を見ているような不思議そうな目つきで凝視している。彼が音符に行き詰まると、彼と同じ位多くの曲を知っている妻ダイアナが、ソファーに座ったままでイップ・ハーバーグの円熟した歌詞をそっと歌って助け舟を出す。感情の高まりで音楽が震える。曲が終わった時ダイアナの目には涙が浮かび、フラナガンは夢見るように遠くを眺めていた。(了)

トリビュート・コンサート前に読むT.フラナガン・インタビュー(1)

11/16は我らがトミー・フラナガンの命日です。亡くなってから13年の月日が経ちましたが、敬愛の思いは高まるばかり。
命日前の15(土)はトミー・フラナガン・トリビュート・コンサート開催!
フラナガンの弟子、寺井尚之(p)が自己トリオ”The Mainstem”で在りし日の名演目をお聴かせします。

 それに先駆けて、フラナガンが亡くなる直前に遺したインタビューの邦訳を掲載。
 元々、<デトロイト・フリー・プレス>というサイトが、2001年9月のデトロイト・フォード・ジャズフェスティバルのPRとして、目玉となるフラナガンがNYヴィレッジヴァンガード出演した際、行われたインタビュー。

 体調を崩していた時期ですから、 このデトロイトのジャズフェスティバル実際に出演を敢行していたのかどうか・・・私も覚えていません。
  リーマンショック以降、フェスティバルのスポンサーが代り、このインタビューのオリジナル記事もネット上からは消滅していますが、フラナガンのプレイや、Jazz Club OverSeasでの寺井尚之を聴いて、よく話題にされるピアノのタッチについて語る希少なインタビューです。

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聴き手: マーク・ストライカー

伝説のタッチ:デトロイト出身トミー・フラナガン、
ジャズフェスティバルに出演、深みと艶、スイングするビバップを故郷へ!
NY発

 トミー・フラナガンがセヴンスアヴェニューのヴィレッジ・ヴァンガードへと通じる階段を降りていく。おぼつかない足取りで、まだガランとした店内を少し見回してピアノの方へ向かうと、まるで古い友だちと握手をするかのように、いとおしげに鍵盤に指を滑らせた…

 今回の【フォード・デトロイト・ジャズフェスティバル】の看板ミュージシャン、トミー・フラナガンはデトロイトが生んだ最高の音楽家の一人である。彼が始めてヴィレッジ・ヴァンガードに出演したのは50年代後半、トロンボーン奏者JJジョンソンのサイドマンとしてであった。近年、フラナガン率いる最高のトリオは、このジャズの神殿で演奏する機会が一層増えている。
 だが今日、静かな午後のひと時、フラナガンは自分自身や、セロニアス・モンク、ジョン・コルトレーン達、この世界一有名な地下室(ヴィレッジ・ヴァンガード)のすすけた壁に掛けられた今は亡きジャズの英雄たちの為にプレイしている。
 柔らかなコードがまた別のコードへと、川の流れの様に移り変わり、やがて茫洋とした霧の中からメロディが顔を出す…1937年作の佳曲”ゴーン・ウィズ・ザ・ウィンド”だ。これを聴くとフラナガンはあらゆる曲を知っているのではなく、良い曲しか知らないのだと改めて思う。次第に”公園を散歩しているような”ゆったりとしたテンポへと滑り込み、無邪気なスイング感、絶妙に入るカウンターメロディ、シングルノートのラインがクリスマスツリーの飾りの様に和音に絡まる、エレガントなビバップのフレーズで、円熟の即興演奏がどんどん繰り出される。
  
 フラナガンのリリカルなタッチは今や伝説だ。まるで一音一音が絹に包まれた真珠の様である。このタッチの事が曲が終わってからの最初の話題となった。
“頭の中でイメージしている音に注意深く耳を傾け、それを忠実に再生すると、こういうタッチになるのだ。”―優しい声がステージから静かに響く。

“強いイメージでハードに弾きすぎることは決してないね。自分で音が大きすぎるなと感じたらソフトペダルを使う事にしている。それが好きなんだ。ハードに弾いて、ソフトなサウンドを出す。――なにしろ家のピアノはおんぼろでひどい音だからね。(笑)”

  今年71歳になるフラナガンの演奏ぶりは、天国で一番ヒップな天使のようだ。気品と気合い、スイング感とクレバーさ、ウイットと温かみが、絶妙にミックスして、聴く者を魅了する。彼の故郷での演奏は2年ぶりのことである。病気で、昨年オーケストラホールで予定されていた71歳を祝うコンサートのキャンセルを余儀なくされたフラナガンにとって、今回のジャズフェスティバルが、ヴェテラン・ドラマー・アルバート・ヒース、ピーター・ワシントン(b)という彼の新編成のトリオの、故郷への初お目見えとなるのだ。

〔輝かしい経歴〕

 現在、フラナガンの持ち味である詩的モダニズムは世界的に高く評価されているが、いつの世も常にそうだったわけではない。彼のキャリアの第2章が始まる70年代後半までは、ミュージシャン仲間以外には知る人ぞ知るの存在で、ベテラン伴奏者というのが一般的な評価であった。それはフラナガンの控えめな性格と彼の経歴が災いしたのだった。1962―1965、及び1968―1978と通算14年間、エラ・フィッツジェラルドのピアニスト(このブランクに短期間トニー・ベネットのピアニストも務める。)として活動したフラナガンのリーダー作は少なく、1960―1975にかけて自己名義のレコーディングは皆無である。しかし一方ではサイドマンとして、数多くのレコーディングをしている。例えば<コレクターズ。アイテム/マイルス・デイヴィス>、<サクソフォン・コロッサス/ソニー・ロリンズ>、<ジャイアント・ステップ/ジョン・コルトレーン>といった’50年代の古典的名盤の数々である。

  転機は1978年に訪れた。心臓発作に襲われ、17日間の入院生活を余儀なくされたのである。彼は禁煙と節酒をし、エラに辞意を伝えた。まもなく自己トリオ結成、洗練されたスタンダード曲や、サド・ジョーンズ、モンク、タッド・ダメロン、ビリー・ストレイホーン、デューク・エリントンの、余り演奏されることのないオリジナル曲に独特の解釈を加え、見事なヴァージョンに仕上げる事を身上とする一連のピアノトリオ時代の幕開けである。

 フラナガンはNYの様々なクラブに常時出演するようになり、ヨーロッパの小さなレコードレーベルで一連の名作をレコーディングした。アメリカの大手レコード会社がフラナガンを支援するようになったのは、1998年になってからのことで、名門BLUENOTEが<サンセット&モッキンバード>を製作、この頃になってやっと、フラナガンの名声が確立したのである。

 批評家ゲイリー・ギディンスは、数年前フラナガンについて次のように述べた。

 ”フラナガンは、競争相手のいる場で一番を勝ち取るというよりも、競争とは無縁なところで、自分の最高の力を発揮するタイプだ。 彼は自分にぴったりの分野を確立し、完璧なものに磨き上げた。それはスタイルを超越したスタイルだ。その分野で比較対照できるものをいえば、彼自身の演奏の内、その場でとっさに触発を受け生まれたヴァージョンと、元々固有のヴァージョンの違いといったものが関の山である。”

 フラナガンのスタイルには、人を欺く要素がある。絹の様なタッチで有名な彼だが、ある時は鋭いアタックを巧みに駆使して、他のピアニストに負けぬほど深くスイングしてみせる。彼はバップの申し子であり、バップ的な目くるめくリズムの変化や、大胆なハーモニーの使い方―バド・パウエルが確立した奏法スタイル―の達人である。

 しかしフラナガンの音楽的ルーツを辿ると、同時に、テディ・ウイルソン、アート・テイタム、ファッツ・ウォーラー、といったバップ以前のピアニスト、またナット・キング・コールや、ポンティアック出身の初期のモダニストハンク・ジョーンズと言った過度的なスタイルのピアニスト達にも行き着く。

 フラナガンはこう語る。”最初に影響を受けたのはテディ・ウイルソンだ。力強い演奏でありながら、タッチが美しい。そんな彼の演奏に感動すれば、自分もそう言う風に弾きたいと必死に願うものだ。そんなわけでここ20年ほどの間に私の音量は大きくなってしまった。前に『ピアノの音がうるさすぎるから』と言われドラマーに辞められた事があった。” フラナガンはこの皮肉な話を笑い飛ばす。”ピアノ弾きに向かって音がうるさいと文句を言うドラムなんて考えられん。”

 フラナガンを敬愛する多くの若いピアニストの一人、マイケル・ワイスは、フラナガンのピアノの秘密は、ダイナミクス、アタック、ペダル使いとオーケストレーションに対するアプローチにあると指摘する。

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 “フラナガンの演奏は、単なるヴォイシングによるのではなく、一音一音、コードのそれぞれは、音の響きを綿密に計算した結果だ。例えばテーマをシングル・ノートだけでまず弾き始める、やがてそこに3度の音などが加わり、そこからいつのまにかオクターブやフルコードに発展して、彼のアドリブへと繋がっていく。アドリブのパートで、クライマックスへ上り詰める瞬間、豊かなオーケストレーションとなる。―メロディの基礎となるコードは、彼のプレイにアクセントや色合いを加える為のものだ。”

 フラナガンはクラシックの巨匠達と同様ペダル使いの名人である。ダンパーペダルを駆使し、一音一音を汚すことなく湧き出るアイデアを、滑らかなレガートで繋げていく。

“時々、私の足を観察するためだけに来る連中もいるよ(笑)ペダルを使う時には、その為の呼吸法が必要なんだ。フレージングと同じでね!” (続く)